「『罪の書』と――、いうらしいよ」 ムジカ・アンジェロが口にしたその名はいかにも不吉であった。 なぜ、そんな話になったのだったか、きっかけはもうわからない。とにかく、ムジカは世界図書館の地下書庫内に「禁じられた書物ばかりが収められている区画がある」という噂について、由良久秀に語っていたのだった。 由良はさして興味がある様子を(少なくとも外見上は)見せず、珈琲を啜りながら適当に相槌を打つばかりだった。「一般に『禁じられた書物』といえば、時の為政者に反するイデオロギーが論じられているとか、大多数が共有する文化――公序良俗というやつだ――にそぐわないものであるとか……そういったものだ。けれど、ほかにも……『その本が危険なので』禁じられているものも考えられるだろう」「……たとえば」「触れると悪魔を呼び出してしまう魔道書――笑うなよ、べつだん、珍しいことじゃない。世界図書館になら、そういったものがあっても不思議じゃないだろう?」「……」 由良は茶請けのナッツをひとつまみ。ぽりぽり噛み砕いているのを、ムジカは意味ありげに見つめている。そして、おもむろに口を開いたのだ。「『その本に触れてはいけない』」 スモークのレンズの向こうから、見つめてくるムジカの瞳。「そう聞いたんだ。『危険だから』と。でも俺は、それは嘘だと思ってる」「なぜ」「だったら、誰も書庫にしまえないはずだからさ。それに、書庫というのは、多くの書物をしまっておく場所のことを言うんだ。そんなところに一冊だけ、触れるだけで危険な書を置いておくというのも奇妙だ」「無責任な噂ということか」「あるいは意図的なものか」「?」「こうも聞いた。『その書物には、この世のすべての人間の罪が記されている』とね。……罪を暴かれたくない人間なら。その本には誰も触れてほしくはないだろうね」「眉唾だな。噂だろう? その本自体、本当に存在するかどうか」「少なくとも、『罪の書』という蔵書があることまではつきとめた」 さらりと言われて、由良は飲みかけた珈琲に咽る。 ムジカのしなやかな指がすべらせるメモ。 そこに走り書きされているのは、地下書庫の区画番号と書架の位置を示す記号のようだった。「……なら読ませてもらえよ」「そのつもりさ。だがなかなか許可が下りなくてね。手続きに数ヶ月はかかるだろうといわれている。もし許可が下りたらそのときは――」「俺は別にそんな本は見たくない」 にべもなく、由良は言った。 ムジカは肩をすくめて、メモをたたむと胸ポケットに戻すのだった。 * * * その数日後。 世界図書館の地下区画を、由良は独りで歩いていた。 そこは司書以外の一般人は立ち入り禁止だった。はっきり言おう。彼は忍び込んだのである。 ムジカが見せたメモにあった記号を、由良はその瞬間に記憶していた。それを頼りに、書庫を探す。「……」 なぜ、由良がその書庫を目指しているのか。 『罪の書』なるものに興味をひかれたからか? あるいは、それが本当に、すべての人間の罪をあらわにするのだとしたら――おのれの罪が露見せぬよう処分してしまいからか? それとも、その書で暴きたい誰かの罪があるからか? その答は本人しかわからないし、もしかすると本人さえわからないのかもしれぬ。 さらに言えば、ムジカが『罪の書』の存在を由良に知らせ、あの走り書きを見せたことだって、偶然かどうかわからないのだった。「……ここか」 うす暗い廊下の奥、埃をかぶった部屋番号をみとめる。 真鍮のドアノブをそっと回せば、意外にも鍵はかかっていなかった。……そっとドアを開ける由良の手が途中で止まったのは、中から音を聞いたからだ。……女の、すすり泣く声。「誰かいるのか」 声をかけると、すすり泣きは止んだ。 後ろ手にドアを閉め、古書の匂いに満たされた部屋の中を慎重に歩み入る。 書架には背表紙がぎっしりと並んでいるが、この書庫がほとんど利用されていないことは、埃の積り具合からしてあきらかだった。書架のあいだを進む。その向こうに、ぼんやりと灯りが揺れいたからだ。 それは、ランタンだった。 揺れる灯影のなかで、テーブルにうず高く積み上げれた本のあいまに、女がひとり、いる。 女は、大判の百科事典ほどもある、大きな本を胸に抱えて、さめざめと涙を流しているようだった。「……赦して」「何」「……私を、赦して下さい……」 震える声で、女は言った。 由良は、女の手首に輪が嵌り、それが、彼女が抱える本と繋がっていることに気付いた――。 * * *「まさかこんなに早く許可が下りるとはね」 ムジカ・アンジェロは、女性司書とともに暗い廊下を歩く。「危険な本だと聞いていたけれど。きみは見たことが?」「存じません。私はただ、閲覧許可が下りた方のご案内をしているだけですので」「……。きみは新人かな。見かけない顔だけど」 司書は答えなかった。 ただ、書庫の扉を開けて、入室を促すのみ。 ムジカは戸口をくぐる。そして、振り返った。「きみは部屋に入らないの?」(ムジカ) 由良は、じっと聞き耳を立てる。 まさかムジカが来るとは。いや、ほかに誰が来るだろう。ムジカでなくてはならないはずだ。 ムジカは戸口のところで司書と話している。部屋に入ったかどうか、由良の位置からはわからない。 書架の影に、じっと身をひそめ、息を殺している。 由良の手首には輪が嵌り、そこから延びる鎖の先は本へと繋がっている。『罪の書』だ。 緊張が、埃舞う空気を押しつぶすように、低く轟くのが聞こえた気がした。ゴゴゴゴゴ、と………… * * * 『罪の書』は、危険な書物だ。 だが、明確な「ルール」にもとづいて存在している。 ひとつ、『罪の書』と繋がれているものは、この書庫を出ることができない。出ようとすると書が重くなり、持ち出せなくなる。鎖を切ることは不可能。 ひとつ、『罪の書』と繋がれているものは、自身の『知られざる罪の告白』をすることで、その罪がもたらした被害を書庫内の他人に与えることができる。たとえば誰かを扼殺したことがあれば、そのことを話すだけで、触れることなく相手の喉を締め上げることができるのだ。この能力の「射程」は「書庫内」であることに注意せよ。 ひとつ、『罪の書』の能力による攻撃を受けたものは、相手が告白した『知られざる罪』を「心から赦す」か「断罪する(それは罪だと指摘する)」かするまで、その害から逃れられない。罪を「赦す」ことにすればただちに被害は無効化される。 ひとつ、『知られざる罪』を「断罪した(それが罪だと指摘した)」ものがいた場合、『罪の書』は今まで繋いでいたものを解放し、断罪したものを繋ぎ止める。 『罪の書』に、「すべてのものの罪が記されている」というのは真実であり嘘である。誰かを繋ぎ止めている間、そのものの罪が頁に書かれていることは事実だが、この書によって他の誰かの罪を暴けるわけではない。 そして、なぜ、このような力を持っているのか、誰がこの書物をつくったのかは、すべて謎である。TO BE CONTINUED・・・→=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良久秀(cfvw5302)=========
■ 断章1:ムジカ ■ 「勝手に入った事を見咎められても困る」 ムジカは言った。 「すぐに済む。ここに居てくれないか」 司書は値踏みするようにムジカを見たが、やがて、こくんと頷いた。 「いいわ。……早めに頼みます」 「すぐに済むさ」 ムジカは繰り返した。 書庫の奥に、灯りがゆらめくのを認める。 「先客がいるようだけど?」 「まさか。それはありえません」 ムジカはつかつかと歩み入った。 書架と書架がつくる影の列。奥のテーブルに、ランタンが置かれている。 そして。 「興味がないようなことを言っていたよな?」 「興味なんてない」 由良久秀は、椅子のうえでじっとしている。 逆光になり、その表情はうかがいしれなかった。彼が後ろ手に隠した書も、ムジカには見えていない――はずだ。 「すべての罪が記された書なんて本当に信じたのか?」 「目録にはあった」 「偽書ってものもある」 「たしかに。『罪の書』は偽書だと。それを確かめたのか? やっぱり、興味あったんじゃないか」 「書を、見たいか」 「それはね。許可も下りたわけだし。そうだろ?」 ムジカは司書を振り返った。 女は、すこし距離を置いてたたずんでいる。 無言で頷いた。 「その棚だ。上から2段目。緑の背表紙」 由良が言葉だけで示す。 ムジカは怪訝そうに、棚へ目をやった。 「これが……?」 棚の前へ立ち、手を伸ばす。 瞬間、由良は足で踏んだロープの端を思い切り引く。ゴトン、と支えが外れ、本棚が崩れた。 ■ 断章2:由良 ■ 「……私を、赦して下さい……」 震える声で、女は言った。 由良は、女の手首に輪が嵌り、それが、彼女が抱える本と繋がっていることに気付いた。 「赦す……。何から」 「私の――罪です」 女の潤んだ瞳が、由良を見た。 「ほんの少し、私は目を離しただけだった。でも……そのせいで……あの子は、私の坊やは……」 「ッ!?」 呼吸ができない。 由良はよろめく。片手で喉を掻き、もう片手で助けをもとめるように書架に触れるが、並んでいた書物をバラバラとこぼしただけだった。 「なん――だ、これ、は……ッ」 「それが私の罪」 女が無表情に由良を見下ろしていた。 「あの子を死なせた。かわいそうなあの子は溺れたの」 ごぼり、と由良が水を吐いた。ありえない。だが、確かに、自分は溺れているのだ。埃だらけの書庫の床の上で……! 「あなたに、私を赦せる……?」 「赦す――だと……!?」 どぼどぼと、水が喉からあふれてくる。はげしく咳き込む。苦しい。 「バカを……言え……それは、おまえの罪だ……ッ!」 せつな―― 甲高い音がして、由良はおのれの手に冷たい輪が嵌るのを感じた。 「!?」 「そう。それが私の罪。でも、罪のない人間なんていないわ」 ととっ、とかろやかな足取りで、女は書庫の入り口へ向かった。 「ま、待てっ!」 咳き込みながら――しかしもう苦しくはなかった――由良は後を追う。だが女が戸口をくぐり、それに続こうとしたとき、ぴんと伸びた鎖に引き止められた。 鎖の先には、本がある。 女がかけていた椅子の上に置き去りにされた本が、信じられないほどの重さで、びくともしないのだ。 「それが人間の罪の重さ」 女が言った。 「人の罪を指摘するものは、自分の罪のとらわれる。それが『罪の書』のルール。……教えてあげるわ。あなたに与えられているのは、この書庫内にいる誰かを自分の罪で攻撃することだけ。その罪が赦されなければ解放されない。せいぜい頑張ることね」 「待て!」 女が笑みをのこして踵を返す、その背へ、由良は叫んだ。 ■ 断章3:ムジカ ■ がらがらと、音を立てて本棚が崩れる。 棚とともに、ぎっしり詰まった本もともに雪崩れてくるのだ。まともに下敷きになれば無傷ではすまない。 ならばこれは凶器。 だがそのとき、セクタンが跳ねた。 瞬時にムジカを包み込む防護膜。同時に彼は床のうえをアクロバットに転がり、直撃を免れる。初撃のダメージを肩代わりしたセクタンがぐったりとしたが、それには構わず、ムジカは銃を抜いた。 銃口が由良を向くよりも早く、由良は席を立って物影へ走る。同時に、ムジカは自分にのしかかる重圧を感じた。 「!」 本棚の直撃は免れた。にもかかわらず、なにかに押しつぶされるような圧迫感が彼を昆虫標本のように床のうえにとどめているのだ。ぎし、と身体が軋むほどの重圧。 「ある猟書家がいた」 由良の声だ。 「書斎に立派な本棚。しかし、老朽化が進んでいた。彼の友人は、彼に本を贈った。とびきり豪華な装丁の、重い本だ。翌日、猟書家は崩れた本棚の下敷きになり、死体で発見された。これは事故だとされたが……あんたはどう思う」 「……これは圧死したその人物が感じた重みか」 「事故か、それとも殺人か」 「友人は、本棚がいたんでいることを知っていたんだな」 「然り」 「それで重い本を贈った」 「然り」 「プロバビリティの殺人というやつだ」 「では殺人なんだな」 「それはどうかな」 「何」 「本を贈った友人には殺意があり、未必の故意があった。けれど、もし……贈られた猟書家にもまた、未必の故意があったとしたら」 のしかかる圧迫感は薄れてなどいない。それなのにムジカの声音は変わらなかった。 「どういうことだ」 「死ぬかもしれないと知りながら、死んでも構わないと思って本を贈ったのが友人の未必の故意なら、死ぬかもしれないと知りながら、死んでも構わないと思って本を受け取ったのも猟書家の未必の故意ということだ」 「自殺だというのか!」 「その可能性は否定されない」 「そんなはずがあるか。そんなはずはない」 「死を受け入れて、本を受け取ったのだとしたら、そこに罪があるだろうか」 「おいやめろ」 「俺はその罪を赦――」 「やめろ!!」 由良が絶叫した。 ■ 断章4:由良 ■ 「待て!」 女が笑みをのこして踵を返す、その背へ、由良は叫んだ。 「待ってくれ」 冷ややかな一瞥が返る。 「ムジカ・アンジェロという男が、この本の閲覧申請を出しているはずだ。そいつをここへ」 女は戸口にもたれ――だが決して足を踏み入れようとしない――考え込んでいる風だった。 「頼む」 「そのお友達なら、あなたの罪を赦してくれる? そしてあなたを書から解放してくれると?」 「……そういうこともあるだろう」 「なら私が、あなたを陥れたと露見してしまうわ」 女の瞳が、じっと由良を見ていた。 「それは言わない。取引しよう」 「取引ですって」 「『罪の書』が欲しいんだろう?」 「……」 女の表情が冷ややかなものになった。 「もしそうなら……。あなたが死んでから回収するわ」 「俺はノートで助けを呼べるぞ」 「……」 「ムジカを呼ぶなら、ノートを預けよう。あんたのしたことは話さない。俺が解放されたら本はあんたのもんだ」 「……」 やがて、彼女は、 「トラベラーズノートを」 とだけ言った。 由良がノートを差し出す。女はそれを奪い取ると、わかったわ、とだけ言った。 そしてコツコツと足音が遠ざかってゆく。 由良は書架の間に座り込んだ。 女は約束を守るだろうか? 女がムジカを連れてきたとして……ムジカが由良の罪を赦すのだろうか。 ■ 断章5:ムジカ ■ 「やめろ!!」 由良が絶叫した。 「やめろ!」「やめろ!」「やめろ!」 その声が幾重にも反響する。 「すぐに済む。ここに居てくれないか」「その棚だ。上から2段目。緑の背表紙」「まさか。それはありえません」「プロバビリティの殺人というやつだ」「それはどうかな」「それはね。許可も下りたわけだし。そうだろ?」「興味なんてない」「然り」「では殺人なんだな」「然り」「それで重い本を贈った」「然り」「先客がいるようだけど?」「然り」「興味がないようなことを言っていたよな?」「然り」「然り」「然り」―― 由良とムジカと、女性司書の声がこだまする。 がしゃん、と割れる音がして、司書がはっと振り返れば、ランタンが割れて、テーブルの上に火のついた油が広がっていくところだった。 どすん、となにかがぶつかってくる。反射的に受け止めた瞬間―― 「あっ!?」 気づいたときには、床に押し付けられていた。 「つ、『罪の書』……!」 女の胸のうえで、本はどんどん重さを増していくようだった。 ふり仰げば、戸口のところから、必死で這い出ていこうとする由良の姿があった。 だが由良は部屋を出ることができない。それが『罪の書』のルール。 女は由良から伸びた鎖が、ぐるりと書架を回りこんで、自分の胸の上の書物に繋がっているのを知る。繋がれたものが部屋を出ようとすれば、『罪の書』が重くなるのもまた『罪の書』のルールの一部だ。そのことわりが、いまや彼女を抑え込んでいるのである。 「どういうことか、話してもらおうか」 ムジカだった。 すっくと立ち、女に銃口を向けていた。 「……は、はは――、最初からそのつもりだったの……?」 ムジカは肩をすくめただけだ。 「ノートで連絡はできなかったはずよ。それに、お友達はあなたを本気で攻撃したわよね?」 「それは赦した」 「まあ。でも『罪の書』が再現するのは過去に本当に犯された罪の結果だけ。つまりあの男は」 「今更それがどうした」 にべなくムジカが言うので、女は表情をゆがめた。 「いいわ。でもね。私だって……あの男の罪を赦すのになんの躊躇もないわよ。ええそう、赦すわ。すべて赦します!」 ふっ、とムジカは頬をゆるめた。 女は顔を曇らせる。『罪の書』が軽くなることはなかった。 「それは赦すことで無効化できる『罪の書』の攻撃じゃない。『罪の書』が繋がれたものが部屋を出ようとして、書が重くなるのは、また別のルールだからだ」 「謀ったわね!」 女が叫んだ。 血走った目でムジカを睨む。 書はどんどん重くなるようだ。みしみし、と身体が軋む。息ができない。 「ゆ、るさな――い。ゆるさないわ……!」 「俺はなにもしていないよ。ただ本を投げて渡しただけさ」 「私を騙したくせにッ!」 がしゃん、と、金属が外れる音。 ふっ――、と、本が軽くなった。 「まさか」 女が息を呑んだ。 床を擦って、鎖が収縮してゆく。 女は由良が鎖を手放すのを見た。彼は鎖を持っていただけだ。手錠は……ムジカの足元に転がっている。 獲物に襲い掛かる蛇のように、その手錠が、女の手首に嵌った。 ■ 断章6:由良 ■ 「やめろ!!」 由良が絶叫した。 「やめろ!」「やめろ!」「やめろ!」 その声が幾重にも反響する。 「すぐに済む。ここに居てくれないか」「その棚だ。上から2段目。緑の背表紙」「まさか。それはありえません」 ムジカの詩銃だ、と由良は気づく。 書庫での音を再生し、反響させている。でも……何故? そう思った瞬間、手首から手錠が外れていた。 (ああ) 不思議な、喪失感のようなものがあった。 赦されてしまった。 「プロバビリティの殺人というやつだ」「それはどうかな」「それはね。許可も下りたわけだし。そうだろ?」 声が反響するなか、由良はムジカが、今度はランタンを撃ち抜くのを見た。 ぱっと広がる炎。 火炎はランタンの灯りよりも煌々と明るく、それだけに、範囲外の闇は真っ暗になる。炎を横切るシルエット。ムジカが本をひっつかみ、女に向かって投げた。 「興味なんてない」「然り」「では殺人なんだな」「然り」 反響に混じって、ムジカの生の声が届く。 「鎖を持って出口へ走れ」 唯々諾々と従うのは不本意だったが、こういうときのムジカの機転は絶対だった。 由良は走る。出口寸前で、鎖がぴんと伸び切って部屋から出られなくなった。 「つ、『罪の書』……!」 振り返れば、女が床に押さえ付けられていた。 「……は、はは――、最初からそのつもりだったの……?」 傍らにムジカが立つ。 由良は見た。自分が掴んだ鎖が、書架をぐるりとまわりこみ、ムジカの背後に伸びているのを。あれは……あの先は…… 「ノートで連絡はできなかったはずよ。それに、お友達はあなたを本気で攻撃したわよね?」 「それは赦した」 違う。 赦してなどいない。 ムジカによって、由良は断罪されたのだ。 だから『罪の書』の囚われ人はムジカに移った。 不思議な安堵感と、割り切れない思いが交錯する。結局、おまえは、これも罪だというんだな。 「それは赦すことで無効化できる『罪の書』の攻撃じゃない。『罪の書』が繋がれたものが部屋を出ようとして、書が重くなるのは、また別のルールだからだ」 ……いや、ちょっと待て。 由良は気づく。 自分はすでに『罪の書』に囚われていない。 だから自分が戸口に走ったからといって、『罪の書』が重くなるはずはなかった。 なら女を押さえ付けているあの力はなんだ。 (これは圧死したその人物が感じた重みか) まさか。 「俺はなにもしていないよ。ただ本を投げて渡しただけさ」 「私を騙したくせにッ!」 ■ 断章7:ムジカ ■ 「……なら読ませてもらえよ」 「そのつもりさ。だがなかなか許可が下りなくてね。手続きに数ヶ月はかかるだろうといわれている。もし許可が下りたらそのときは――」 「俺は別にそんな本は見たくない」 にべもなく、由良は言った。 ムジカは肩をすくめて、メモをたたむと胸ポケットに戻す。 由良は面白くもなさそうに息をつく。 それから、 「時間だ。……またな」 そう言って、席を立って店を出ていった。 ムジカが片手をひらひらと振って見送る。 由良が退席したあとのテーブルで、ムジカは一人、コーヒーの続きを飲む。 すると隣のテーブルで新聞を広げていた紳士が、新聞を閉じたたむと、席を移動してムジカの前に座ったのである。 「わたしがきみたちに依頼したのはね――」 「方法は任せてもらう。そういう約束だったはずだけど?」 ムジカが微笑い、紳士――世界司書モリーオ・ノルドは黙る。 「『微妙な案件』についての『内々の調査依頼』だと聞いたので」 「それはそうだ。なにしろ……」 「司書の背任の証拠を掴む」 「しっ、声が高いよ。それに正式には世界司書ではない。司書補。世界図書館の職員だというに過ぎない」 「それが書庫の担当になったのをいいことに禁書を持ち出して売りさばいている疑い、あり。動機は?」 「ああいったものは案外、高く売れるので。けれど、本当にいいの?」 「なにが」 「由良くんには依頼のことを話さなかったね」 「『罪の書』に、興味がなさそうだったから」 「ふうむ」 「おこがましい書物だな」 「え?」 「『罪の書』さ。司法のない街で人を断罪する……そんな権限がただの本にあるとは。俺なら燃やしてしまう」 「おっと、それは困る。禁書とはいえ、蔵書だからね」 モリーオは慌てて言うのだった。 ■ 断章8:由良 ■ ごう、と炎はいよいよ勢いを増す。 床のうえに、書につながれ、うなだれる女。ムジカと由良は戸口の外――『罪の書』の射程外だ。 「事故だった」 ムジカは言った。 「あんたはその書を持ち出そうとして……誤って囚われてしまった。そうなんだな」 「……」 「事故は罪じゃないさ」 「……なぜ、私が本を持ち出そうとしたのだと思うの」 「それは俺たちには関係のない話でね」 ムジカは笑った。 「それよりも。はやく逃げないと炎にまかれてしまう」 女はキッとムジカをにらみつける。 「簡単な方法があるじゃないか」 ムジカは顎で示した。 女は振り返る。すでに天上にまで達している火柱を見る。 再びムジカを見た。その微笑を。傍らに立つ由良の無表情を。 女は、操られるように立ち、ふらふらと火に近づくと……その中に『罪の書』を投げ入れた。 「行こう。由良が居なければつまらない」 ムジカは言った。 「よく言えたもんだ」 由良は応えた。 * 世界図書館の地下書庫で起きた小火は、たまたま閉架書庫の閲覧に訪れていたムジカ・アンジェロが通報したことで、大事に至らずにすんだ。 原因は、閲覧テーブルの上でランタンが倒れたことによるものとされた。 地下書庫担当の司書補が、煙を吸って軽傷を負い、手当てを受けることになった。 小火のあった部屋の蔵書は奇跡的にほとんどが無事だった。 ただ唯一、禁帯出扱いになっていた貴重な蔵書が一冊、焼失したといわれているが、この蔵書については後日、目録から削除されており、詳しいことはわからないままである。 また、件の司書補が、後日、解雇されたことから、この人物が小火に関係しているのではという憶測もあがっている。 「煙の中から、ムジカさんが由良さんに肩を貸して出てきたの。自分の危険もかえりみず親友のために炎の中に飛び込んでいくなんて! 萌えるわ~」 「見てきたような嘘を言うな」 「あいた!」 由良のげんこつが、無名の司書をこづいた。 「嘘じゃないです。脚色と言ってください」 「なお悪い。うす気味悪い脚色はやめろ」 「だってぇ~。……っていうか、由良さん、今日は独りなんですか? ムジカさんは?」 「~~~」 ぎり、と由良が奥歯を噛み締めたとき、モリーオが通りがかった。 「ああ、由良くん。第3会議室だよ。ムジカくんはもう来てる」 「なーんだ、待ち合わせですね!」 「違う!」 肩をいからせて、由良は歩き出した。 「由良くん」 モリーオがその背中に声を掛けた。 「ムジカくんによろしく、と」 由良久秀は、なにも応えなかった。 (了)
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