天に架かっているのは傷跡のように鋭く細い三日月だけだというのに、夜は奇妙に明るかった。 わずかな星月の光さえ、白い砂丘が照り返すからだろうか。 砂漠の夜風は存外に涼しい。 風には、夜っぴて誰かが弾いているシタールの音が千切れて乗っていた。 理比古が砂のうえを進むと、風が強くなったようだ。その中に、いくつもの人影のようなものが揺らめいては消える。声なき声は歓喜のそれなのか慟哭なのか判じかねたが、その叫びに応えるように、中空にいくつもの鬼火が灯ったのは確かだ。 それは――亡霊のキャラバンだった。 とうに死に、砂漠の砂に埋もれて朽ちたはずの、屍の駱駝が歩いており、ぼろぼろの旅着をかさかさに渇いた身体に巻きつけた商人がその傍らにいる。 その不気味な光景を前にしても、理比古の心には不思議と畏れはなかった。「ああ……やはり、あなただったんだ。俺を呼んだのは」 そして呼びかける。 隊商の長と思われる装束の、背の高い影が砂丘に落ちた。 その男だけは、屍ではなく生きた人間と変わらぬ姿だ。砂漠の民特有の日に焼けた肌と、彫の深い顔立ち、そしてがっしりと逞しい身体つきをしていた。風が、ふわりと、男のフードを払い、その顔がすべて月光のもとにあらわになったとき、理比古は「あ」と短く声をあげた。 男は片目だった。 その片目は、しかし眼帯に覆われるでもなければ、潰れたままを晒しているのでもなかった。ぽっかり開いた眼窩の中に、石が埋まっていたのである。それは月に照らされ、不思議な青白い光沢を見せている。詳しいものなら月長石と呼ばれる鉱物だと気づいただろう。 濃い没薬の匂いが理比古の嗅覚をくすぐる。 シタールの弦が響かせる旋律に、気が遠くなってゆくようだ。「来てくれるか」 男は問う。「……何処、へ……」「何処へでもない。終わらない旅へ。……私にはわかる。おまえも私と同じだと。もう決して手に入らないものを求めて旅をしている……」「そんな……俺――は……」「さあ行こう」 男は理比古に手を差し出した。 * * * 蓮見沢理比古と、虚空を含むロストナンバーの一隊がヴォロスを訪れた経緯については省こう。それは本筋にはかかわらぬ。 世界司書の依頼は完遂し、帰りの列車を待っているとき、理比古が数日、帰るのを伸ばさないかと言い出したのが発端だった。 理比古が町で聞きつけてきた話によると、今いる場所から一日の距離にある砂漠の傍の小都市で祭があるのだという。 ちょっとした息抜きに、そこへ寄って見物していかないか、というのが理比古の提案であり、虚空としては、あるじがそう言うのなら是非もなかった。ふたりは、他のロストナンバーと別れて、ヴォロスに残ることにしたのである。 その地……クアロ・ササンの町は、オアシスにできたキャラバンの休憩所が大きくなって都市になったものだという。 そこから先は砂漠が続くため、町はこの先の過酷な旅に向けて英気を養うものたちや、砂漠の旅を終えて一息つくものたちで賑わっていた。石造りの小さな都市は、オアシスの恵みをもたらす水の神を信仰している。町の中心にある寺院では鰐の頭をもつ神像を花で飾り、供物が捧げられていた。水神の祭に、都市はいっそうの華やぎを見せ、キャラバンが運んできた異国の果実や、貴石の飾りもの、美しい織物などを扱う露店を、理比古は大いに楽しんだようである。虚空はターミナルの友人への土産物を選ぶ彼の姿を、穏やかに見守った。なるほど、たまにはこういう休日も悪くはない……そのときは、そう思ったのだった。「楽しかったね。あのナイフ使いの大道芸人さんと虚空と、どっちがナイフ投げ上手いかな?」 宿に落ち着き、夕食を摂る。 理比古は興奮冷めやらぬと言った様子で、昼間の見聞をあれこれ語った。 食事は香辛料の利いた肉の煮込みと豆のスープ。素朴なパンと果物。簡素だが土地の心づくしが感じられる。「そうだ、虚空。あとで少し散歩に出ない? 町外れまで行って、夜の砂漠を見ようよ。きっと綺麗だよ――」 理比古が言うのへ、なかばやれやれと思いながらも、虚空が頷き返そうとしたとき。「お客さん、そりゃあなりませんよ」 空いた食器を片づけながら、宿の女将が話に入り込んできた。「旅の方ならご存知ないも仕方ありませんが、水神様の祭の夜は、おんもを歩いちゃなりません。特に砂漠には近づいてはいかんとされてますもんで」「えっ、そうなんですか?」「……なにか謂われがあるのか?」「《石の眼の男》に連れて行かれると言われとります」 女将は、乞われるままに、ひとつの伝説を語った―― § キャラバンを率いるひとりの男がいた。 頭が良く身体は頑健で、人望も厚い、隊商の長として理想的な男だった。 男には歳の離れた弟がおり、誰より弟を可愛がっていた。 旅から帰ると、せがまれるままに旅の話を聞かせてやり、珍しい異国の品々を土産に与えた。弟は目を輝かせて兄の話を聞き、自分も大きくなったらともに旅をしたいと言った。兄はその日を楽しみにしている、と目を細める。幸せな日々であった。 しかし、ある年、弟は病に臥せった。 男はありとあらゆる薬を取り寄せたが甲斐はなく、それでも、西に良い医者がいると聞けば連れに行き、東に奇跡の泉があると聞けば危険を冒しても汲みに行った。 やがて半狂乱になって、無理な旅程で方々への旅を企て、行った先で薬の類を買い占めることを考えた。隊商の部下が諌める声も耳に入らずに。 危険な旅路を越えて、男が戻ったときには、隊商はほとんど全滅に等しい状態だった。 そして無情にも、その旅から帰還したとき、男は、すでに弟がみまかったことを知らされたのである。 弟は最後まで兄の名を呼び、兄に会いたいと言っていたという。 墓標の前で三日三晩号泣し、男は悔いた。なぜ、ずっと傍に居てやらなかったのだろう。救えないならせめて、弟の願いをかなえてやればよかった。ともに旅に連れて行ってやればよかったのだ。 涙が枯れるほど泣いた後、とうとう気でもふれたのか、男は弟の墓前で、おのれの片目を抉り出したという。 それから男は理不尽な運命を呪った。哀しみのあとにやってきたのは激しい怒りだったのだ。憤りのまま水神の寺院に押し入り、神像を打ち壊し、聖所を穢した。 そのために、男は水神の怒りにふれ、その身には呪いが降りかかることになった。 ゆれにそれ以来、男は永遠に砂漠を旅している。 死者の隊商を率い、終わることのない旅路をさすらい続けているのだ。 ただ、一年に一度、水神の祭の夜だけ、町に戻ることを許される。永遠の旅を続ける運命となった男は、無窮の孤独と無聊を慰めてくれる旅の伴を欲している。ゆえに、この夜、町にいるものは、男――《石の眼の男》の隊商に連れて行かれることがあるという。 男に選ばれたものは、生命果てるまで砂漠の旅を随伴しなければならないとも、男に魂を貪られてしまうともいわれている。真偽の程は定かではないが、祭の夜、出歩いていたものたちが行方知れずになることがあるのは、実際に起こっていることなのだという……。 §「哀しい話だったね……」 散歩は諦め、宿の部屋の窓から夜空を眺めながら、理比古はぽつりと言った。「その人は神罰を受けたというけれど、もとは何も悪くはなかった。それなのに、今はずっと、砂漠を旅してるんだ。ずっと、ずっと……」「伝説だろ。本当にあったとは限らない。……アヤ?」 椅子に掛けたまま、理比古はうとうとしていた。虚空は、そっと微笑を洩らすと、理比古をベッドへと運んだのだった。 * * *(虚空……虚空……)「どうした、アヤ?」(ごめん。俺、行くよ)「行くって――どこへ」(わからない。でも行かなきゃ)「アヤ!?」(だって、この人、かわいそうなんだもの。だからせめて一緒に……寂しくないように)「おい、アヤ……!」 虚空は、理比古が背を向けるのを見た。 見知らぬ男が傍にいて、理比古はそいつと一緒に歩き出そうとしていた。 虚空は追いかけようとしたが、ちっとも前へ進まない。足元の砂がさらさらと流れ、前へ進ませてくれないばかりか、虚空の足がずぶずぶと砂の中に埋まり、呑まれていく。 そうこうするうちに理比古の背中はどんどん遠くなってゆき。「待つんだアヤ! 待ってくれ! どこへも行くな! 俺を――俺を……置いていくんじゃない……!」 声を張り上げて名を呼び―― そして、目覚めた。(…………夢) 嫌な夢だ。 脂汗をぬぐう。 それから、彼は、ぎょっと目を見開くと、ベッドを飛び下りた。 窓から差し込む月影に蒼く沈んだ部屋に、すでに人の息遣いはない。空っぽのベッドの敷き布に体温の名残がないことを確かめると、虚空は開け放たれたままのドアへ。(まさか) あるじが起き出して行ったのに気付かないとは一生の不覚。……というより、ありえないことだ。先ほどの悪夢とあいまって、不吉な予感が虚空の胸を満たした。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>蓮見沢 理比古(cuup5491)虚空(cudz6872)=========
1 (アヤ……!) 虚空は走る。走る。 砂漠の町は、祭のしきたりゆえ、通りを出歩くものもない。人っ子ひとりいない石造りの町を虚空だけが走る。それは不条理な悪夢の中の光景と見えた。 (旅の方ならご存知ないも仕方ありませんが、水神様の祭の夜は、おんもを歩いちゃなりません。特に砂漠には近づいてはいかんとされてますもんで) 駆けてゆけば、やがて前方に、禁忌とされた白い砂丘が広がる。 (《石の眼の男》に連れて行かれると言われとります) そんなことがあってたまるか。 虚空にとって、それはあってはならないことだ。 理比古を失えば、「虚空という男」はその存在意義を失うのだから。 (あの男も――) あるじの姿をもとめて焦る一方、どこか冷めた頭の一部で、虚空は考える。 あの男も、それを恐れたのだろう。 ひとはときに、自分でない誰かに、自分自身のすべてを預けてしまうことがある。それは危険な生き方だ。それでも。 壱番世界の空へ消えた、あの金属の肌の執事もそうだ。仕えるものを裏切ってさえ、その人物を護ろうとしたその気持ちが、虚空にはわかってしまう。 砂漠の中へ駆け出した。 細い三日月が、彼を嗤うように見下ろしていた。 前方から、風が吹き付ける。 細かい砂に目をやられぬよう、かばいながらも、虚空は砂丘を滑る風の中に、声なき叫びを聞いた。 巻き上がる砂の中に浮かぶいくつもの人の顔。苦悶の表情を浮かべる顔が、無数にあらわれた。 「言っておくが」 抜き放った刃が、月光をぎらりと跳ねる。 「今の俺は最高に機嫌が悪いぞ」 理比古は、静かに、男の目を見つめ返した。 月長石の片目は神秘的な光沢に照り、もう片方は深い哀しみをたたえた夜の色を映している。 「哀しいんだね」 理比古は言った。 男のかわりに、砂漠の風が、ひゅるりと啼いて応えた。 「あなたは哀しみを連れて旅をしているんだ」 それがこの死者のキャラバンだと、理比古は断じる。 「音楽も、香も、美しい風景も、あなたを本当に慰めることはないんだ。砂漠の砂が尽きることがないように、あなたの中にはいつも、哀しみの砂粒がさらさらと降り積もっていて……蜃気楼のような過去の幸福を、それが蜃気楼とわかっていながら、目指して、旅を続けている」 男は感嘆したように理比古を見る。 「そのとおりだ。やはりおまえは、理解してくれるのだな」 「あなたが言うように、俺も同じだからね」 ひっそりと微笑う。 「あなたが弟さんを守れなかったことを悔いているように、俺も兄さんたちの期待に応えられなかったことが苦しいから」 ひとくちに兄弟の問題といっても、理比古と男の事情はかなり違う。それでも、やはり、共鳴するなにかがあったのだろうか。 「俺も同じだ。哀しみを連れて砂漠を旅していた。哀しみというより……喪失感、と言えばいいかな。それと、罪。贖うことのできそうにない、俺の……」 「私もそうだ。この身を縛る呪いこそ、許されざる罪の証」 ふたりの視線が交錯する。 理比古は思う。 もしこのまま、彼と旅立てばどうなるのだろう。 青白い月のしたを、寄り添うように往くふたつの影。死せるキャラバンはなにも言わぬ。ただ砂丘のゆるやかな稜線を、死したラクダの背に揺られ、風紋のうえに長く伸びた影が落ちるのだ。 永遠のキャラバンはどこを旅するのだろう。 とうに枯れたオアシスのほとり……いにしえに滅びた都の廃墟を過ぎるのだろうか。 砂に埋もれる、もはや誰も信仰することのない神の寺院や、古戦場に放置された甲冑を着た骸骨たちを横目に、どこまでも、どこまでも流離ってゆく。 ときに、生者のキャラバンが遠目にかれらを見つけても、天幕の中で見なかったふりをするだろう。 砂漠のトカゲと出会っても、その黒い眼はただうつろで、なにも話しかけてはこないはずだ。 そうして何年も、何十年も、何百年も―― 時の砂は決して尽きることはない。 それでも、そんな永劫の時が過ぎ去ったとしても、かれの哀しみは消えないのだろう。だからきっと、何百年旅したとしても、月光の中で、彼はこんなふうに痛みを殺したようにしてしか微笑えめない。 「行こう。われらとともに」 男は繰り返した。 差し出されたその手は、死者のキャラバンを率いる呪われた存在というにはあまりにも……温かそうに見えた。 でも。 「ごめんなさい」 理比古は、そっとかぶりを振った。 「俺は――俺たちはそちらには行けない」 ざあああ――、と、風が砂を吹き上げてゆく。 「俺を必要としてくれる人たちがいるし、ようやく叶いそうな夢がある。それらを捨てては行けないよ。俺は俺を生きていいって、最近漸く思えるようになったんだ」 男は何も応えない。理比古は言葉を重ねた。 「俺も哀しみだけを連れて旅をしていた。この哀しみにも、終わりはないのかもしれないと思う。でも……それでも、俺の中に、少しずつ哀しみ以外のものも積もりはじめているんだ」 ふいに、理比古は振り返った。 夜気のなかに、声を聞いたのだ。 彼の名を呼ぶ、虚空の声を。 2 砂の中から次々にあらわれたのは、かさかさに乾燥したミイラだった。 皮膚は頭蓋に張り付き、眼窩にはぽっかりと穴しかない。 ぼろぼろの衣のうえから錆びた胸当てを装備し、丸い盾と曲刀を持っているところを見れば、キャラバンに雇われる傭兵であったのかもしれぬ。死したのちも、なんらかの呪いで、屍のままその役務を続けているのだ。 だがそんなことは虚空にはどうでもよいことだった。 振り下ろされる曲刀を弾き、構えた丸盾を蹴る。 脚を払えば、乾燥した骨はぽきりと折れたが、死者はなおも虚空に追いすがる。彼は容赦なく頭蓋を踏み抜いて先へ進んだ。 「邪魔するな!」 行く手に、ゆらゆらと立ちあらわれるいくつもの死者の影へ、虚空は怒鳴った。 むろん聞き入れる相手ではないので、虚空の次の手はクナイを放つことである。五体の死者が、同時に放たれた五つのクナイに正確に眉間を貫かれ、ぱっと広がった炎に包まれて崩れた。 そのときすでに虚空自身は砂丘を駆け上ってる。 足元の砂から延びた手が彼の脚を掴むのにも煩そうに刃で払うだけだ。 虚空の目は、砂丘のうえに立つ彼だけを見ていた。 「アヤ!」 「虚空――」 ふっ、と理比古は表情をゆるめた。 《石の眼の男》はその横顔を見ると、無言で、腰の鞘から剣を抜き放った。 そして、虚空へとまっすぐに歩み始める。 「待って。戦う必要なんてない」 「旅を妨げるものは取り除かねばならぬ」 「そんな」 「旅だと、ふざけんな」 虚空の背後で、二度目の死を迎えたミイラたちが燃えている。炎がつくる逆光で、虚空の表情はうかがいしれないが、声には怒りが滲んでいた。 「アヤを連れていくつもりか。絶対に許さねえ。アヤを幸せにできねぇやつが近づくんじゃねぇよ!」 「もとより幸福などありはしない」 男が斬りかかってきた。 砂地に足をとられることのない、かろやかな動きだ。 男の剣をクナイで受け止めて、虚空は存外に相手が手練れと知る。 「だったらなおさら許せねえな。幸福のないところにアヤを連れて行かせるもんか」 (そうだ。俺は決めたんだ。あいつを幸せにするって) 月下の砂漠に、鋭い剣戟の音が響き渡る。 (というよりも、俺そのものが、あいつを幸福にするためだけの存在なんだ。俺は、アヤのお陰で救われた。生きることを許されたし、意味を与えられた。俺をつくったのはアヤなんだ) 「虚空!」 理比古の、声。 「その人は――」 「わかってる、わかってるさ」 砂漠は男の味方なのか。砂のうえを舞うように男は動き、攻めてくるのに対し、虚空の足元で砂丘の坂は崩れ、砂はまとわりつく。 「だが俺は許せねえんだ」 放つクナイ。男は避けるが、虚空のクナイはトラベルギアだ。手を離れても、旋回してまた戻る。 (許せない。何をだ) (アヤを連れ去ろうとしたこの男をか。それとも) (アヤを奪われかけた迂闊な俺自身か) (身勝手にアヤを弄んだ、あいつらをか) (アヤの中にまだあいつらの影がある。知っていながらどうすることもできない不甲斐ない俺か――) そのどれもだ。 ないまぜになった、憤りが、虚空を突き動かす。 「ああ私怨と逆恨みだよ悪かったな!」 クナイを短刀のように持ち、突進する。が、リーチが違う。《石の眼の男》の鋭い斬り込み。刃が虚空を薙ぐように斬った。 「虚空!」 砂漠の白い砂地に鮮血の花が咲く。 虚空の身体がもんどりうつように倒れた……ように見えたのだが。 ふっ、と不敵な笑み。倒れたのではなく、避けたのだ。斬られたことは確かだが傷は見た目より浅い。そして大振りに剣を振るったことで男の身体はがら空きなのであり。 「っ!」 気づいたときには、空に放たれていたクナイの群れが、流星のように男の身体に突き刺さってゆく。 「……ぐ、おお――っ」 呻き声。そして、クナイが一斉に発火した。 炎が男を包み込んだ。 苦悶か、それとも憤怒か、男の口から叫びが迸った。そして。 理比古が息を呑む。 《石の眼の男》は呪われた存在だ。見た目は生者のように見えても、長い長い時を呪いのように生かされているのである。 男は燃えさかる着衣を力任せに剥ぎ取り、棄てた。 「おおぉおおおお……」 声は、獣の咆哮だ。 理比古と虚空は、男の身体の、火傷が治癒してゆくのを見る。そして褐色の肌に刻まれたあやしい刺青が燐光を発し、男の全身を包み込んでゆくのを。 水神の呪いとやらは、文字通り、男の肉体に刻み込まれているのだろう。 厄介なことだ、と虚空が苦々しく思ったそのとき、理比古が飛び出している。 3 「アヤ!?」 理比古は男に飛び掛り、組み付いたのだ。予想だにしない行為に、ふたりはそのまま砂地に倒れこみ、砂丘を転がる。 「ひどい……どうして、どうしてこんな」 「アヤ!」 「この人は……哀しかっただけなのに。それを……人の悲しみを理解せず、ただ機械的に罰を下す神様なら、要らないよ」 理比古はそう言って、両のてのひらで男の頬をいたわるように包み込んだ。 「や、め……ろ」 男が声をふるわせる。 まるで呪われて過ごしたこの長い年月の間、ついぞ触れたことのない優しさに怯えるかのようだった。 理比古は躊躇うことなく、男の石の目に触れる。 男が悲鳴をあげた。痛みではなく、恐怖でだ。 神罰に縛られてきた男にとって、その呪いに抗うこともまた禁忌なのだ。 「畜生」 虚空は毒づきながらも、クナイを放った。理比古の下で暴れる刃は男の四肢を縫いとめる。彼は理比古の意図するところを瞬時に悟った。 なんてやつだ。 どうしてそこまで、優しくなれる。そいつはおまえをどことも知れない不死者の道へ連れていこうとしたんだぞ。 そんな叫びを呑み込んだ。 理比古の指が男の……《石の眼》を納めた眼窩にずぶりとめりこむ。 「呪われた旅なんか……終わりにしよう」 「やめろ……やめてくれ……わたしは……旅をやめられない……あいつの――あいつのために……!」 「弟さんにだってあなたへの願いがあったはずなんだ。かれはあなたに、永遠に苦しめなんて思っていなかったはずだよ……!」 渾身の力を込めて、理比古は男の眼窩に埋まっていた石をえぐり出した。 男が絶叫を迸らせで身悶える。 「アヤの言うとおりだ。死人を率いて旅して、人を攫って何になる。そんなんで、いつか『向こう』に行ったとき、弟に胸張って会えるか。そいつは多分、お前のことをずっと待ってんだぜ」 「あ――あ、あ……!」 「俺はあなたを解放したい」 と、理比古。 そして彼は、空洞と化した眼窩にそっとくちづけを―― 瞬間、虚空ははっと息を吸う。解放したい、と言った理比古のくちびるが、そのあとで「兄さん」と、動くのを見たからだ。 理比古の唇が、触れた瞬間、夜の砂漠を真昼のように照らす光が降るのを、ふたりは感じた。 その中に、墓石の前に突っ伏した男の幻影を見る。 ああ、これは男の追憶か。 彼のすべてが失われたその日の光景だ。 幻影は、突如、その場面を変える。 男と、彼に似た面差しの少年の姿。男は手ずから、彼にその石を渡した。 (きれいな石だね) (これは月長石だ) 鎖をつけた石を、弟のてのひらの上に。 (お守りだよ) (ありがとう。大事にするね) (今度の旅も長くなるが……) (うん。……いつか、兄さんと一緒に行けたらいいな) (ああ、そうだな。いつか行こう) (約束だよ。見たいものがいっぱいある。今まで、兄さんが話してくれたいろんなこと……虹色の湖や、風が啼く谷、竜骨が原、ザーレーンのオアシス。鳥人たちの国。それから、それから……) 石を握り締めた。 場面は再び、喪色の世界へ。 (許してくれ) よこたわる、少年のなきがら。 (おまえを……旅に連れて行ってやることができなかった……) 胸のうえで組まれた手にからみつく鎖から、月長石をむしりとる。 そして墓石の前で、男はおのれの片目をえぐりだす。 (この目はおまえにくれてやろう) (俺の目が、旅で見た景色を、せめておまえに見せてやれるよう) (そしてこれからは) あふれる血の涙を止めるように、 (おまえの代わりにこの石を目として旅を続ける。それが俺の約束だから) 片目に月長石をずぶりと埋め込む。 「アヤ!」 虚空は理比古を引き離した。 「ああ……」 男の肉体が、崩壊をはじめている。 風が……砂まじりの風が夜空に渦巻き、むせび泣くような音を立てた。 「お願いします」 理比古は、小太刀『鋼丸』を抜いた。 「どうか……彼に安らぎを。どうか救われて、自由になって。弟さんはあなたのことを待っているよ、きっと」 青い浄化の炎が、崩れていきつつある男を包み込んだ。 「わた――し、は……呪わ、れ……て……」 「それがどうした。救われてぇ、弟に会いてぇって思えよ! 俺たちが向こうまで送ってやるから!」 虚空が言った。 ざん――、ざん!と音を立てて、男を取り囲む虚空のクナイ。そこからも、炎が燃え上がり、理比古のそれと合わさって高い火柱となった。 男の渇いた肉体は、あとかたもなく塵と化してゆき……炎とともに砂漠の星空へと昇ってゆく。 気がつけば、もうなにもなかった。 「あ――」 理比古の手のなかで、月長石は粉々に砕けていた。 てのひらをひらけば、夜風がさっとさらってゆく。月光のなかに、きらきらと零れてゆく。 亡霊のキャラバンの痕跡は何もない。 まるですべてが、夢だったかのようだった。 「行ってしまった。今度こそ……最後の旅へ」 理比古はつぶやくように言ってから、まるで今はじめて気づいたのでもいうような顔と声音で、 「あ、虚空」 と呼んだ。 「『あ』じゃねえよ」 へなへなと膝から崩れた。 「いけない、怪我をしてるね」 「よしてくれ、こんなの――大したことじゃない」 虚空が言うのへ構わず、理比古は自分が上に着ていたシャツを裂き、虚空の傷を縛った。 「……心配ばかりかけてごめんね?」 そして、子どもにでもするように、頭をなでるのだった。 「……。帰ろう」 「うん」 ふたり並んで、街へと向かう。 「……この世界に輪廻があるかわからないけれど」 理比古は言った。 「どうかまた二人が兄弟として出会えますように」 「今頃、ふたりで旅をしてるさ」 と、虚空。 理比古は、そっと頷く。 (兄さん、兄さん。次はどこへ行くの) (この砂漠の隊商路をたどって、西のオアシスまでさ。その先は山越えだ。行けるか) (行くよ。どこまでだって) (そうか。じゃあ出発しよう、この月が明るいうちに――) 青白い月の下、白い砂丘の稜線に、寄り添うふたつの影が伸びているのだった。 (了)
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