「本当に二人だけで行くのか」 探偵はその隻眼に不安の色を浮かべる。 「ああ。一刻を争うんだろ?」 「それはそうなんだが――」 「俺は図書館の応援を待ってもいいと思うけど」 アキ・ニエメラは言った。 べつだん恐れるわけではない。常識的な判断として言ったまでだ。しかし虚空は静かにかぶりをふる。 「依頼なんか出されてみろ。アヤの耳に入ったらあいつが来ると言い出しかねない」 常日頃、おのれを一切顧みず、こうと決めたら突っ込んでいくあるじを止めるのにありったけの苦労を負っている虚空だ。みすみすあるじを招き寄せ、危険にさらすなどもってのほかということのようだ。アキは嘆息を漏らす。 「あんたって二言目にはアヤだな」 「……それ以外に何を言うべきことがあるってんだ?」 「いや、いろいろあるだろ、それは……。まあいい。とにかくそういうわけだ。俺たちのことは心配には及ばない」 そう言ってふたりは、ぽっかりと口を開けた地下への入り口へと目を遣った。 火が焚かれ、くべられた香木が発する香りがあたりに充満していた。加えて、かたときもやむことのない祈祷師たちの読経の声。これにより、地下から噴出する邪気を抑え込んでいるのである。だがいつまでもつかどうか。 「……では頼む。くれぐれも気をつけてな」 探偵は言った。 アキと虚空がインヤンガイの街角で出会ったのはほんの偶然であった。 アキは依頼をひとつこなした後、街をぶらぶらしていた。良い店でもあれば今度相棒を連れてきてやりたい。そんなことを考えながら歩いていると、茶葉を売る店で虚空を見つけたのだ。 虚空はわざわざプラベートで、インヤンガイの茶を買いに来たという。あるじの好む良い品がここで手に入るのだそうだ。 まだ時間があったので、アキは虚空を食事に誘った。 ひとつ隣の街区に、うまい汁麺の屋台があった。 だが、目当ての店に着いたところ、店主は慌てて店をたたんでいるところであった。この店主、屋台を引きながらこの街区の探偵を務めているのだが、なにやら緊急事態が起こったらしい。 急ぐ探偵を手伝ってともに屋台を引いてやりながら、ふたりが聞いたところによると、今は放棄された地下街で暴霊が暴れているとのこと。 地下には邪念がたまりやすい。 そこへ、どこかで老朽化した霊力ケーブルの破損でもあったのだろう。漏れ出した霊力は土地の邪念と結びついて容易に暴霊となる。インヤンガイではよくあることだ。 到着したとき、すでに祈祷師による封印の儀式がはじまっていた。 内部に踏み込んで除霊を試みた退魔師たちは返り討ちにあったそうだ。おりしも担架で運ばれていく瀕死の男にふたりは眉をひそめる。男は全身に錆びた釘を撃ちこまれて悶え苦しんでいたのだ。 「『迷生金』だ」 探偵は言った。 「なんだって?」 「『迷生金』。古い呪術の一種だが、暴霊が引き起こすこともある。ここの土地が金気が強かったのだろう」 「わかるように言ってくれないか」 「あの釘は、犠牲者の心から生まれたものだ。心の迷いや、痛みの記憶、背負っている罪……そういったものを金属に変えてしまう。呪術師の標的になって、百枚の剃刀を吐いて死んだ男を知っている」 奇怪な話であった。 相当に強い暴霊でなければ起こり得ない現象らしい。このまま地下街を封印できれば内部が暴霊域になるだけだが、抑え切れなければ邪気が市街を襲って被害は拡大する。そしてこのままではその公算が強いという。 結果、冒頭の一幕に繋がるわけである。 * ジジジ、と音を立てて霊力灯が明滅する。 天井板は剥がれ落ちていて、あらわになった通気のダクトの合間から直接、垂れたケーブルの先に、裸の灯球が下がっているのが灯りのすべてだった。 もとはショッピングモールかなにかだったのか、両側にはシャッターが並ぶそれも錆びて朽ちるに任されていた。 足元には汚れた水が浅くたまり、二人が歩けばぱしゃぱしゃと軽い水音とともに、広がった波紋が暗い灯りを反射してゆらゆらと揺れる。 空気はじっとりと湿っていた。 「なにか感じるか」 先を行く虚空が訊いた。 「空間中に思念が満ちている。とりとめのない……まとまった思考じゃないな、その断片か、残滓のようなものだな」 いわゆる霊気のようなものを、アキのESP感覚はそのように翻訳するのだろう。 「奥へいくほど強くなっている」 「ならこのまま行けばいいわけだ」 望むところだとばかりに、虚空は大またに歩む。 闇に沈んだ通路の向こう――そこに、なにかの影をみとめたような気がして、虚空は目を凝らす。 ゆらり―― なにかが動いた。そして、小さく光ったようだ。 「なんだ、あれは」 虚空の口から、呆然としたつぶやきが漏れた。 光は揺れている。ちろちろと揺れる、あれは炎だ。あれが何なのかは、とうにわかっていた。車が燃えているのだ。 パァーーーーン!と鳴り響くクラクション。 「っ!」 衝撃に、虚空の身体が後ろへ吹っ飛び、そのまま浅い汚水の中に仰向けに転がった。 (殺したな) わあん、と頭の中いっぱいに広がる声がある。 同時に、鋭い痛み――痛みというより衝撃に近い。太い鉄の杭のようなものが胸と肩のあいだあたりに突き立っているのに、虚空は気づいた。片腕があがらない。だがこのまま寝てもいられぬ。虚空は半身を起こそうとした。 (殺した) 大音声だった。声というより、思考そのものを頭の中に捻じ込まれているようだ。脳内の血流が沸騰するようだった。目のまえが赤く染まる。 (おまえが、みんな殺した) 濃い、血の匂い。悲鳴。しぶいた返り血の、その熱さ。 「――っ、は……っ」 それは唐突に出現し、はじめからそこにあったかのように形をなすのに、強い力で打ち込まれたかのような衝撃がある。 一度に三本の鉄杭が、虚空の腕、腹、肩に刺さり、起こした半身は再び地面に抑えつけられる。 (心の迷いや、痛みの記憶、背負っている罪……そういったものを金属に変えてしまう) 「……ン、だと」 知ってはいても、体験するのとはわけが違う。深々とその身に突き立てられた凶器が、おのれの心が生み出したものだとは。 「……は、はは」 乾いた笑いが口から漏れた。苦痛に気でも違ったか、否―― (ムッティ、ムッティ) 幼さない子の、か細い声を、虚空は聞いた。 ああ、あんなに小せぇ。あんな頃があったってことを、ずっと忘れていた。 (ムッティ……) ぺしり、と、母の服の裾を掴もうとした小さな手は、つめたく叩かれた。 彼を見下ろす灰色の瞳は冷ややかだった。 (ヴォルフラム) もうひとつ、大きな影が彼の前に立つ。巌のような父のかんばせ。こわい口髭の下から飛び出す叱責に、少年は身をすくめた。 (聞いているのか。返事をしないか) 父の手が少年を打つ。まだ小さな身体はあっけなく床に倒れた。 ああ、そうだ。ご丁寧に思い出させてくれた。あそこじゃ俺は、必要のない存在だったんだ。だから…… (だから) どしん!とまた新しい杭が刺さる。胃の腑まで貫通したと見え、虚空は血を吐く。 (虚空! 虚空!) ああ。 (ねえ、兄さんたちを知らない? ねえ、虚空。どうしたの) (虚空! それ……) まだ動く片手をあげる。天井の霊力灯を逆光にしても、俺にはわかる。そのてのひらが、血にまみれているってことは。 (虚空、まさか……) ああ、そうさ。 (おまえが) 俺が 骨を割り、腱を裂き―― (「殺した」) 冷たい鉄杭が全身に突き刺さった。 「なんだ、あれは」 虚空が言った。 「ん?」 アキは、虚空の視線をたどる。だが、彼がじっと見つめる通路の先は、ただ闇に沈んでいるばかりだ。 「どうした。俺には何も」 言いも果てず! 虚空の身体が後方にふっとんだ。 「おい!」 汚水の中に倒れこむ。すぐに起き上がろうとした身体が、すぐまた叩きつけられるように倒れ、濁った水を跳ね散らすのを、アキは見た。 「これは」 虚空の身体に鉄の杭が突き刺さっている。それが飛来するところは見ていない。忽然と、突き刺さった状態で出現したとしか言い様がなかった。これが探偵の言っていた術か。ならば、すでに攻撃を受けているというわけか。 虚空はひとまず彼自身に任せるしかない。アキは身構えて、周囲へ感覚の網を広げる。地下街に充満していたネガティヴな感情のもやのようなものが、その密度を増して押し寄せてくるようだった。 それは常人の感覚になおせば、喧騒のなか、雑多ないくつもの声が絡まりながら、そのボリュームをどんどんあげてきている――そのように表現できただろう。 ぴくり、とアキの目元がひきつるように震える。迫ってくる声の中に、たしかに覚えのある声を聞いたのだ。 (もうたくさんよ!) ヒステリックな絶叫。 同時に、ひゅん、と空気を切る音。アキもまた、衝撃に吹き飛び、閉じたシャッターに思い切り背を叩きつけられていた。 錆びたシャッターはひしゃげて、そのへこんだ部分にアキの身体が収まる格好になった。肩口に、大きな鉈が、その刃を埋めている。おびただしい血流があふれて、足元へと流れ落ちていった。 「な、なるほど……」 刃を抜こうと、手を添える。 「こうきたか」 泣き叫ぶ声と、食器が割れる音。 (どうしてよ! なんでうちだけ……なんでこんな子が生まれたの) 幻……か。俺の記憶が……投影されているのか。 目の前の光景を、アキはまるで映画を観るように眺めた。 レイトショーの、客もまばらな劇場でかかる、傷だらけのフィルムのようにそれは色あせ、ノイズまじりであったが、まぎれもなくそれは事実であった。 (どうしたんだ。何の騒ぎだ) (見てよ。この子が割ったのよ。手もふれずに!) (なぜそんなことをするんだ! 先生は薬でコントロールできるって言ったじゃないか!) (私たちが憎いの? 嫌いなの? だからこんなことするの?) (どうなんだ。その力を二度と使うなと言ったじゃないか) (わたし怖い。この子が怖いわ。このままじゃ、わたしたちが殺される……!) 再生される台詞は、字幕のかわりにナイフとなって、アキを切り裂く。物理的に投げつけられたものではないから、回避することはできない。 「心の……痛み、か……。どんなものでも、痛みなんか慣れてる……そう思ってた、けど」 ざくり、ざくりと身体の各所を裂かれながら、アキは思った。 俺自身を傷つけるほどのものが、俺の中にはまだあったんだ。 (化け物!) ひときわ大きな、肉切り包丁のようなものが、初撃で鉈が刺さったのと逆の肩に刺さり、衝撃に、アキの身体が沈んだ。ひしゃげたシャッターが完全に外れ、放棄された店舗の床のうえに倒れる。通路の汚水が流れ込んできて、アキの血と混じり合った。 (あんたは化け物よ!) (うちの子じゃない) (化け物だ) 煩いな。 アキは包丁を抜くと、投げ捨てる。 ゆっくりと、立ち上がろうとした、そのときだ。低い、笑い声をきいたのは。 は、ははは。 笑ったのは虚空だ。 「今更過ぎて笑っちまうわ」 立ち上がる。すでに血まみれだ。血を吸って衣服が重いほどである。なおもあふれる血はぼたぼたと零れ落ち、汚水のなかに溶けてゆく。 「罪なら全部認める。罰なら地獄の底で受けてやる」 ひとつ、またひとつ、と鉄杭を抜いていった。 「そんでも、今の俺には絶対に放り出せねぇものがある」 だから、と虚空は言った。 「だからこんなもんで俺を殺すことなんざできねぇんだよ!」 鉄杭が、蒸発するように消えたのを、アキは見た。 もとより現実の物質ではなかったのだ。認識が失われれば消滅するということか。 「同じく」 アキは虚空に歩みよった。 全身に刺さっていた刃はすでに消えうせてゆく。異物が消えれば、あとはアキが本来もつ再生能力が発揮され、傷は急速に治癒してゆくばかりだ。見る間に、まるで拭いさるように傷が塞がっていった。 「家族なんか出して来たって無駄なのに。俺はもう選んじまってるんだよ。そこにはてめぇらの入り込む隙なんかねぇんだ」 声に出すと同時に、アキはその思いをテレパシーとして周囲に拡散する。 かれらを取り囲んでいたネガティヴな思念の檻のようなものがぱっと霧散し、そして前方にぎゅっと凝縮する。 それは虚空の目にも闇が凝り固まって人型をとったかに見えた。 「平気か」 アキとは違い、すぐに傷が回復するわけではない虚空を、アキが支えた。虚空の答は微笑だ。すっと抜いたクナイに、ぽっと火が灯る。 人型は、怨嗟の籠った咆哮をあげた。 闇でできたシルエットが再び崩れ、拡散しようとしたところへ、 「つまらない映画上映はもうおしまいにしてもらおうか!」 アキの攻撃的なテレパシーが放たれた。 強い思念の力が、思念による存在である暴霊の動きを封じる。その機を、むろん虚空が逃がすはずもない。 流星のように放たれるクナイ。刃は漆黒の人型の中心を正確に貫き、浄化の炎が、暴霊を包み込んだ。 * 読経が、止んだ。 探偵は、建物の壁に凭れて、じっと閉じていた隻眼を開いた。 「どうした」 「暴霊の気配が」 祈祷師たちが顔を見合わせている。 「やったのか」 探偵は地下への入り口へ駆け寄る。 ややあって――そこにふたりの姿が見えると、入り口を固めていた祈祷師や野次馬たちからわっと歓声があがった。 アキが虚空に肩を貸し、ふたりはゆっくりと階段を上がってきた。怪我はしているが、生きている。 「よくやってくれた」 探偵に、ふたりは笑って見せた。 「ウェイさん」 アキは言った。 「あんたの汁麺が、食いたいな」 「いいとも」 たたんだ屋台を開けるべく、探偵が駆け戻るのを見送りながら、虚空はアキに言った。 「知恵を貸してほしい」 「知恵って?」 「怪我して帰っても、アヤをうまく誤魔化せる言い訳」 「難問だな」 「難問だ」 ふたりは笑った。 (了)
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