「おええええええええええ」 大きくうねる波にもてあそばれ、船は揺れに揺れた。 一一 一は激しい船酔いに耐えかねて、暴風雨の甲板に飛び出し、船縁から嘔吐する。「だいじょうぶ?」 エレナが優しく傘をさしかけてくれたが、甲板を洗うように降る横殴りの雨に傘はあまり役立ちそうになかった。 エレナ自身は愛らしいウサギの耳のついたレインコートをすっぽりと着込んでいたが、一のほうは濡れねずみで、船縁にしがみついて嘔吐するさまに女子力は微塵もなかった。 ふたりがブルーインブルーへ赴いたのは、ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニーから図書館を介して出された依頼のためであった。 ブルーインブルーのとある景勝地の下見調査である。 一は、最初、ロバート卿の会社の仕事に難色を示していたが、エレナの「すっごく綺麗な海なんだって。おいしいシーフードもいっぱい食べられるらしいよ?」という言葉に懐柔された。 任務は滞りなく、ふたりは優雅なリゾートを過ごしたのであるが、災難は帰りに起こった。 船上で突然の嵐に巻き込まれたのである。「あ――」 それは一瞬のことだった。 雷光が船を真白に照らし出すなか、急激な揺れに大きく船が傾く。 吐くために身をのりだしていた一の身体が、そのまま船外に投げ出されるのをエレナは見た。「ヒメちゃん……!」 少女探偵は勇敢で、迅速だった。 嵐の海――荒れ狂う波間へ呑み込まれた一を追って、彼女も飛び出したのだ。 ふたりは真っ黒い海のあぎとの中に消えた。 数秒後、波間にぷかりと姿を見せたものがある。エレナがとっさに錬成した膨張式救命筏である。しま模様の猫型であった。 猫型の救命筏は内部にふたりを収容し、護ってくれたが自走する機関はもたなかった。そのため、激しい波風の意のままに、母船からは離れ、嵐の海を流されてゆくのであった。 * * *(どうするの?)(困ったわね。忌み日に外から人がくるなんて)(忌み日の儀は予定どおりに行うわ)(あの子たちはどうする?)(とりあえず……留めおきましょう。なにも気づかせずに、忌み明けに帰ってもらえばいいわ)(ネイシャ、ふたりの世話はあなたにお願いできる?)(もしも……、儀の邪魔になったり、なにか勧づかれることがあれば)(そのときは…………) * * * 一は、目覚めた。 ふかふかのベッドに、清潔で渇いた衣服に着替えさせられ、寝かされていた。「よかった。具合はどう?」 ベッドサイドの椅子にいたエレナがにっこりと笑いかけてきた。 ふたりが救助されたのはソルベナという小さな海上都市であった。 都市、というのもおこがましいほどの、海上の集落と言った程度のものだ。ささやかな小島を基盤に、周辺に海上住宅からなる都市が築かれている。小島のわずかな土地で果樹栽培が行なわれているほかは、ほとんど漁業で口を糊しているという。「へえ、お祭りなんですか」「お祭りと言っても、面白いものはなんにもないのよ。むしろ、この期間は仕事も休んで出歩かないのがしきたりなの。だから船を出してあげることもできなくて。申し訳ないけれど、明後日には《忌み日》が明けるから、それまでは家にいてほしいのよ」 ふたりを助けてくれたソルベナの娘は、名をネイシャと言った。日焼けはしているが、ゆたかな黒髪に花飾りをつけた美しい娘だ。 ネイシャの家は彼女の老母とともに島に一軒しかない宿屋を営んでいる。ふたりはその一室を与えられていた。「こちらこそご厄介になってしまってすみません」「……ふたりは姉妹なの?」「え? いや、そうじゃないんですけど……あ、これ美味しいですね」「ソルの実よ。太陽がこの島にくれた贈り物」 ネイシャがふるまってくれたのは、オレンジとレモンの中間のような柑橘系の果物だった。みずみずしい果汁は爽やかな酸味だ。 世界図書館には連絡したが、ふたりに怪我などがなければ遅れてでも通常便で帰還するようにとのお達しがあった。そのため、エレナたちは明後日までこの島に滞在し、その後、船でジャンクヘヴンに戻るつもりであった。 その夜のことだった。「ね、ヒメちゃん。見て。すごいよ」「どうしたの。……わ」 エレナに誘われて、窓の外へ目をやった一は目をみはった。 島の周囲は見渡す限りの水平線である。 夜ともなれば、漆黒の海面が広がっているばかりのはずだった。だがその海の彼方に、無数の、火が灯り、揺れているのを彼女らは見たのだ。「なにあれ」「きっと蜃気楼だね。きれい」「ふしぎ……。あれって幻なんだよね?」「光の屈折だよ。別の場所にある火を投影しているの。……今が《忌み日》なのと関係あるのかな?」 古来、蜃気楼を恐れて漁を避けるという習俗をもつ海辺の民はいたことだろう。 そのときである。 どこか遠くで、歌が歌われているのを、ふたりは聞いた。 ネイシャもその母も、集まりがあると行って出かけている。その集まりで歌われているのだろうか。歌声は不思議な反響を帯びていて、方角や距離感は掴みにくいが、耳をすませば歌詞を聞き取ることができた。 はるかに見える島影に 旅に出るぞとあんたが言った あれは幻、島などないと 娘が泣いても構やせぬ 橙しぼって待ちましょう いとしいあの人帰り来よ かがり火ともして待ちましょう この島決して出ぬように ものがなしい歌声はすべて女の声だった。 翌日―― ふたりは散歩に出たいと乞い、ネイシャに付き添われる形で外出した。 潮風が心地よく、太陽は燦々と輝いているが、《忌み日》のせいか人通りは少なかった。本当はあまり出歩いてはいけないのだろう、ネイシャは少しそわそわしているようだ。 ふと、道の向こうから歩いてくるものがいる。 男だった。 髭面に蓬髪、だらしない格好の中年で、酔ってでもいるのかふらついていた。「いけない、ダオウだわ。帰りましょう」 ネイシャが言った。「ろくなやつじゃないの。お酒ばかり呑んで働かない男よ。あんまり見ちゃだめ」 急かすように言ったが、エレナの青い瞳は異変を見逃さなかった。「待って。おかしいよ。あの人……」「あれ、煙……?」 そうなのだ。 男の身体からは、湯気のような、煙のようなものが立ち上っていて……「た、たすけ……」 男が呻くように言った、次の瞬間……! 恐ろしい絶叫が迸った。 男の全身が炎に包まれていたのだ。あっという間に火だるまだ。「大変、水! 水!」「ダメ!」 駆け寄ろうとする一を、ネイシャが止めた。「ダメよ。これは《忌み日》の災い。陽の神の罰が下ったのよ。どうせ助からない。見てはだめ。戻りましょう」「そ、そんな! だって……だって……!」 ネイシャが強引にふたりの手を引いて戻ろうとする。 男は火に包まれ、地面を転がっていたが、近隣の家々からは、誰一人として助けようと出てくるものはいないのだった。 * * * ショック冷めやらぬまま、また夜がきた。 このまま朝を待てば、《忌み日》とやらは明け、ふたりはこの島を出ていくことができる。 だが。「ね。ヒメちゃん」 エレナは言った。「どう思う?」「こんなことって……。信じられないけど、あの人、ひとりでに燃え出してた。やっぱり、祟りかなにかじゃ……」 少女探偵はふるふるとかぶりを振った。「ここはヴォロスじゃないよ。魔法はないと思う」「そ、それじゃあ……?」「あの人は、殺されたんだと思うよ」 ガタン、と音がした。 一が扉を開ける。廊下は無人だ。しかし、階下でさっと灯火が揺らめいたような、そんな気配があった。「……誰かに、聞かれた……?」 もしも。 もしも、あの人体発火が計画的な殺人であったなら。それはこの島の因習と不可分であろう。 ことによると、島民が周知である可能性すらあるのだ。 一は考えた。ここが絶海の孤島であること。今、この島によそものは自分たち二人だけであること。この状況で、「島の秘密」を守るために、もっとも簡単な方法はなにかということを。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>エレナ(czrm2639)一一 一(cexe9619)=========
1 一は窓に駆け寄ると、カーテンの隙間から外を見遣った。 町並みは夜に沈んでいたが、その中を、ランタンの灯りが行きかうのを、一は見る。ぼんやりした灯りの中に、大勢の人影が忙しなく動いている。 「もしかして、これってマズイ……!?」 「ヒメちゃん」 一はエレナを見た。 特別な能力を持つとはいえ、幼い少女だ。 「だいじょうぶ」 一は決意を込めて言うのだ。 「エレナちゃんは私が守る」 「……うん」 エレナはふぅわりと微笑んだ。 どたどたと、荒々しい足音を立てて、男たちが踏み込んでくる。 「ちょっと……ちょっと待って」 ネイシャが男たちに声をかけた。 「本当にやってしまうの!?」 「ネイシャ」 傍らにいた年配の女性が、ネイシャの肩に手を置く。 「仕方ないの。この島のしきたりのことは余所に漏らしてはいけない。わかるでしょう」 「……ええ」 武器を手にした男たちが階段を駆け上がっていったが、ややあって、 「逃げたぞー!」 という声が降ってきた。 「あわわ、もう見つかった!」 一とエレナは、裏窓から出て、屋根づたいに移動しているところであった。 狭い土地に建物が密集するブルーインブルーの海上都市は、屋根のうえにもうひとつの道がある。猫のようにそこをたどればいいと考えたのだ。 「ヒメちゃん、海岸のほうは……だめみたい」 エレナはきゅっと唇を結ぶ。海のほうへ逃げるつもりが、そちらには人影が大勢見えたのだ。海に着きさえすれば、そのまま海へと逃れることもできた。だがそれができないのならやむをえまい。この小さな島はそれ自体が海に囲まれた密室――クローズドサークルだ。この様子では住人はみな“敵”。その中をふたりだけで逃げなくてはならない。 「このまま走って。それから左斜めの建物に飛び移って。そこから、いったん路地に下りられる」 「どうして知ってるの!?」 「憶えてたの!」 一度見たものは完全に記憶する、それがエレナの能力だ。今、彼女の頭の中には、ソルベナ市街の複雑な地図が立体的に描き出されていた。 「ぎゃっ! ……もう、なんなの! ひっかかった!」 一が声をあげたのは、壁からとびだしていたなにかの金具に服をひっかけたせいだ。 お気に入りの服だったのに、大きくかぎ裂きができてしまった。だが今は頓着していられない。 「跳ぶよ、掴まって!」 エレナをおぶったまま、一は屋根から屋根へ跳躍する。 騒然とした夜の中へ、活路をもとめて少女たちは駆けた――。 2 「すいませんね~、すっかりお世話になっちゃって」 それは昨日の昼間のこと。 宿の食堂で、ふたりは昼食にありついていた。 香ばしい油で煮込んだ海老に、魚のほぐし身をあえた麺類。そしてパン。 「いいえ、こちらこそ、こんな簡単なものしか出せなくて。いつもならもっと新鮮な魚介も手に入るのだけど、《忌み日》の間は漁がないものだから」 「この時期は海が荒れるんですか?」 一は聞いた。 「いいえ。《忌み日》に雨が降ることなんてないわ。もともとこの島は雨が少ないし……」 「じゃ、あの嵐はすごく珍しかったんだね」 エレナが言った。 「《忌み日》って、なにかお祭りみたいなことはするんですか?」 「いいえ。静かに家にこもって過ごすの。夜にすこし集まりはあるけど……。島の暮らしや、家族に感謝するための日なのよ」 「昔からの習慣なの?」 「ええ。ずっとまえから受け継がれてきたと聞いているわ」 「面白いですね。暮らしや家族に感謝するのに、家に閉じこもるんですか」 「ここは小さくて貧しい島。ふだんは、男たちは海に出て、女たちは果樹園で働くか、家事をするか。日頃は忙しいから」 「ふうん……」 そんな他愛もない会話をしたのが、ずいぶん昔のことのようだった。 ネイシャもその母も、優しそうに見えた。 島は穏やかで、のどかな場所だと思えた。 だが……その中に、人知れず、まがまがしいなにかが潜んでいたというのだろうか。 (あの人……、たしか、ダオウって) 目の前で炎に包まれた男。 (エレナちゃんは魔法じゃないって言った。じゃあ、どうして燃えたの? 全身が火に包まれるのはあっという間だった。なにか可燃性の薬品かなにかが、服に沁みこまされていたとか? でもどうやって着火させたんだろう) 「ヒメ……ちゃん」 「あ、ああ、だいじょうぶ!?」 一の意識は現実に引き戻された。 「平気……。追っても撒いたみたい、だし……」 エレナを座らせ、息を整えさせる。 そこは、島の果樹園だった。 人家がないのであたりは静かで、木立が深い闇をつくっている。隠れるにはお誂え向きだが、そんなことは住民にもお見通しだろう。ここでやり過ごせるとは思えなかった。なにか手を考えないと。 そう思って、あたりを見回す一。すると。 「……あれっ。エレナちゃん、見て」 一が声をあげた。 果樹園は、島の中心、高台にある。 海上都市の多くがそうであるように、ソルベナもまた、海から顔を出したわずかな土地を中心に、足場が組まれ、都市が海の上に広がってゆく。植物を栽培するには土が必要だから、ソルベナの果樹園は当然、島の中心部で、もっとも高い位置に存在するのだった。 そこからは、町と、その先の海とが見渡せた。 今は星空のしたに黒々と広がる水平線である。 「蜃気楼が、ないよ」 そう―― 昨晩は水平線を埋め尽くすようにゆらめいていた、あやしい炎の群れが今夜はひとつも灯っていなかった。 「ホントだね」 「……。ね、エレナちゃん。蜃気楼って、別の場所にあるものがそこにあるように見える現象だよね?」 「そうだよ」 「じゃ――。今日はあの火が燃えていないんだ。あの夜は、どこかで火が燃えていた。……見て、今夜も町には灯りがある。あれは町の灯じゃなかったってことだよね」 「ヒメちゃん、冴えてる!」 エレナはにっこり微笑んだ。 「あの夜、ネイシャさんたちはどこかに集まっていた。きっとその場所だね。集会はどこだったんだと思う?」 「歌声はどこからともなく響くように聞こえてきた」 エレナは果樹園の木々のあいだを歩く。 「歌声は風に運ばれてきたんじゃないよ。方角がわからなかったもの」 「ということは……」 エレナが立ち止まり、その先にあるものに、一ははっと息を呑んだ。 「地下!」 果樹園の斜面に、坑道のようにひっそりと開けた入り口に、目立たない木の扉がついていた。 3 扉の向こうは石造りの階段は深く下っていた。 壁には等間隔に蝋燭の灯された窪みがあり、日常的にこの地下通路が使われていることがわかる。 慎重に降りてゆくと、細い通路は途中、いくつも枝分かれしていた。 「……」 エレナが一の袖を引き、耳を済ませるしぐさをすると、通路の向こうからは遠くさまざまな音が響いてくるのだった。それは人の話し声もあれば、海の音もある。 「たぶん、この通路は町中の地下を走ってるんだと思うよ」 声を潜めてエレナが述べた推測に、一は頷く。 だとすれば、なんという神秘だろう。 一体、何のためにそんなものが必要だというのか。島そのものに秘密を抱え、暮らしている人々の町。なにか異様なものを感じずにはいられない。 くだりきったところにある扉を開けてみると、広い部屋に出た。 部屋の中央に、大きな瓶のようなものがある。一はなかをのぞきこみ、大量の灰と、燃えさしの焚き木を見る。 「篝火の跡だ。この火が、あの蜃気楼のもとだったのかな……」 エレナはきょろきょろと部屋を見回す。 つくりつけの棚に並んでいる小さな壷の群れ。部屋の隅には作業台。足を踏み入れたときから漂っているこの匂いは。 「いい匂いがするね」 「……え? あ、ほんと。かすかだけど……果物の香り?」 「あの穴、なんだろう」 エレナは天井や、天井近くの壁にいくつも穴が開いているのを指す。 「天井の穴は天窓みたいだよ。ここはだいぶ地下深くだと思うけど……ずっとうえまで穴が続いてる。ほら、真下から見上げたら星が」 「横の穴は? ……それからあの金具」 「うーん。なにか吊るすのかな? ランプとか」 「……ヒメちゃん。これ!」 そしてエレナは見つけた。 部屋の奥の壁には、石の台座のようなものが一体となっている。その傍に、いくつも重ねて立てかけられているのは…… 「これって……。あ!」 そのときだ。 一は、足音が近づいてくるのを聞く。一人や二人ではない。追っ手がこの場所へ向かっているのだ。 「いけない、エレナちゃん、逃げなきゃ――」 少女の手を引こうとする。だがエレナは、瞳に光を宿し、それを拒んだ。 一ははっとエレナを見た。 少女のなかで、情報は凄まじいスピードで組みあがり、ひとつの形をなしてゆこうとしている―― (あの夜は、どこかで火が燃えていた) (かがり火ともして待ちましょう この島決して出ぬように) (天井の穴は天窓みたいだよ) (なにか吊るすのかな? ランプとか) (ぎゃっ! ……もう、なんなの! ひっかかった!) (橙しぼって待ちましょう いとしいあの人帰り来よ) (かすかだけど……果物の香り?) (ソルの実よ。太陽がこの島にくれた贈り物) 「そっか」 エレナは天使のように微笑んだ。 「解けたよ。謎はぜんぶ」 4 だん!と扉を押し開けて、人がなだれ込んできた。 むろん島の人々だ。女性ばかりである。ネイシャも中にいた。 「もうひとりの娘はどうしたの」 ネイシャが鋭く問うたが、 「さあね」 一はそう言っただけだった。 作業台の縁まで追い詰められるように後退し、武器はもっていないぞとばかりに手のひらを向ける。 女たちは険しい顔つきだった。多勢に無勢。一はとうてい、逃げられそうにない。 「……かわいそうだけれど、島の秘密は守らなくてはならないの」 ネイシャが言った。 「秘密って? 毎年、《忌み日》に人を燃やして殺してるってこと?」 「……。外の人にはわからないでしょうね」 「それがいけないことだとわかっていて続けてるんなら、狂ってる。……一体、何のためなの!?」 「毎年、人が死ぬわけじゃないわ。できれば死んでほしくはないのだけど」 「どんな理由があっても……こんなこと許されない!」 一が声を荒げた。 それに呼応するように―― 「!」 荊だ。金属の薔薇の蔓が、一瞬にして壁を覆った。 それは棚の上を壷を突き壊し、その中身をぶちまける。部屋にいた全員がそれを浴びた。 「し、しまっ……」 「扉が!」 後方で悲鳴があがった。 荊は出入り口をも封鎖していたのだ。 「逃げられないよ。ここから出られない。……仲間は外にいるの。『アレ』を持ち出してる」 一の言葉に、ネイシャたちの顔色が変わった。 「御鏡がない!」 誰かが叫んだ。 「そう。『反対向きに設置』しました。そして、やがて夜が明けて日が昇る。どうなるか、わかりますよね……?」 一瞬の静寂――そして、恐慌。 女たちは泣き叫びながら出口におしよせ、扉を叩いたが、鉄の荊の封印が解かれることはない。 「なぜなんですか!」 そんな女たちに、一は問いかけた。 しん、と再び場が静まる。 「あの男性は殺された。前の晩、この場所に篝火を灯して行われた集会で殺すことに決まった。そうですね?」 「……ちっとも働かなかったから。仕方なかった」 ネイシャが応えた。 「どうやってかは知らないけど、この薬を浴びせたか、服に沁みこませた?」 続けた一の言葉に、頷く。 「ソルの実の果汁でつくられている薬。ある種の柑橘系の果物は、光毒性……光に反応する成分を果汁に含む。この実の汁に含まれる成分は、太陽光と反応すると発火する。それを利用しているんですね」 誰も何も言わないなか、一の《告発》は続く。 「この場所から、何枚もの鏡を使って、狙った場所に光を集めるしくみが、この島はある。島の建物のいたるところに、鏡を掛けるための金具がありましたものね。島そのものが、『処刑の装置』だったんです。太陽と、ソルの実を使った」 「……戒めなの。この島に代々伝わる」 ネイシャが口を開いた。 「ここは貧しい島。男たちが漁に出て支えてくれているけど、すこしでも怠けるものがいれば、あっという間に立ち行かなくなるわ。……昔、遠くの町まで出稼ぎにいく男が増えて、そのまま帰ってこないものが多かった。そのせいで、島が滅びる寸前まで行ったの。それ以来、町の男が絶対に島を出て行かないよう、仕事を怠けることがないよう、戒めるためにこれができたの」 「……夜の集まりで、みせしめを一人選んで、殺すこと……?」 こくり、と首肯がひとつ。 「そんな……そんなこと……」 憤りに、一の声がふるえる。 だが。 キィン……!と甲高い音がしたかと思えば、鉄の荊が広がって扉を解放したではないか。 それに気づいた人々がわっと我先にと出口から逃げ出してゆく。一はそれを眺めるしかなかった。 「……どうして……!」 一が作業台を振り返る。 「ヒメちゃん」 エレナが姿をあらわした。エレナはずっと部屋にいたのだ。作業台の下の空間に、鏡を2枚立てて隠れていただけだ。いわゆる「テーブルの上の生首」のトリックだ。鏡が壁を映すのでなにもないように見える鏡の裏に潜んでいたのである。鉄の荊はむろん彼女の錬金術が生み出した。 「罪があるという事実と、それを裁くことは別のことだよ」 「このままにしてもいいの!?」 「どうかな。でもそれは、ブルーインブルーの法に任せるしかないんじゃないかな」 すこしさびしげに微笑む。 「それにあたしは……この島のしきたりをむやみに否定はできない気がする。そうしなければ、島全体が生きてこれなかったんでしょ?」 「……」 一は苦々しい表情で、唇を噛んだ。 * 波が打ち寄せる。 陽が昇るまえに、ふたりは波止場から舟に乗る。 綱を引いて帆を張れば、ゆっくりと舟は港を出てゆくのだ。 一はネイシャの姿をみる。 彼女へ向けて、一は叫んだ。 「島が豊かになれば、こんな風習はなくなりますよね!」 「え?」 「……私たち、遠い国から、この近くの海が観光地としてどうか調べるために来たんです」 一は言った。 「この島が、素晴らしいところだって報告すれば……きっと大勢、人がやってくるようになる。そうすれば……あんなことしなくてよくなる。違いますか!?」 「……」 ネイシャがなにか言ったようだが、そのときはもう舟は離れすぎてきて、よく聞き取れなかった。 ただ、エレナが、 「ヒメちゃん、冴えてる!」 と言っただけだ。 やがて、水平線が暁の色に染まり、夜が明け始めた。 「ロストレイル、もう近くまで来ているって」 トラベラーズノートから顔をあげてエレナが言った。これでやっとターミナルに帰れる。……と、エレナがはっとした顔つきになった。 「いけない、ヒメちゃん!」 「ん?」 「太陽が! 太陽が昇るよ!」 「それが?」 「ヒメちゃん、陽にあたっちゃだめ!!」 「!?」 そうだった。先ほど、脅しのためとはいえ、ソルの実の薬をぶちまけて、一もそれを浴びたのだった。それから着替えてきない。ということは…… 「ぎゃーーー! もう煙が!!!!」 「脱いで! 服を脱いで!!」 ふたりがかりで服を脱ぐ。 間一髪、脱ぎ棄てられた服は朝日を浴びて燻りはじめているのだ。 一は、それが発火するより先に、波間に服を放った。 そこへ、吹き付けてくる突風。 全裸の一の前に、迎えに到着したロストレイル号が走り込んできた。 「……っ」 乗り合わせた人々が目を丸くするのと、一から絶叫が迸るのは、ほぼ同時なのであった。 (了)
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