「ロックさん!」 漆黒の武人の姿をみとめ、優は片手をあげたが、相手は仏頂面を崩さなかった。「来ていただけて嬉しいです。メールではお返事なかったから」「来るつもりはなかった。今日はたまたま人狼公がお留守のため休みを頂いたのだ」「でも来てくれました。行きましょう」 優はトラムを示した。行き先は――無限のコロッセオ。「真剣勝負でお願いします」「よかろう」 言葉上はどうあれ、優の誘いにロックは応じた。 ふたりはコロッセオで対戦することになったのである。「何故だ」 途上、今さらながらロックは訊ねた。「そうですね……。いろいろと、ありますけれど」 優は言い淀み、そしてふっと頬をゆるめた。「今はただ貴方と試合をしたい。そう思った、ってだけじゃいけませんか。思いっきり、今だけは難しい事は考えないで」「それがよかろう」 ロックは言った。「邪念は剣を曇らせるからな」 どこまでも澄んだ蒼天のもと、石舞台にふたりは立つ。 ふたりともシャツの胸に薔薇を一輪、留めた。 優の胸にはブルーインブルーの海を思わせる青い薔薇が。 ロックの胸には血のように赤い薔薇が咲く。 使用武器はそれぞれのトラベルギア――すなわち、剣である。 互いの剣で、胸の薔薇を先に散らされたほうが負けというルールだ。「用意はいいか? それでは――はじめ!」 リュカオスが宣言すると、試合のはじまりを告げる鐘の音が、コロッセオの空に高らかに鳴り響いた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>相沢 優(ctcn6216)=========
ring, gong... ring, gong... 鐘が鳴る。 鳥たちがはばたき、蒼空へ昇ってゆく。 それは現実のことではない。コロッセオが見せる幻の一部だ。ここは無限のコロッセオ。戦うものたちを見下ろしているのは、0世界の停滞した空でさえない、チェンバーの天蓋なのだ。 プラネタリウムのようにそこに銀河が映されることもある。幻想によって取り囲まれた闘技場は、円形劇場でもあると言えた。 ロック・ラカンは剣礼(サリュー)の動作から斜めに剣を振るった。雫が散って、コロッセオの石の床に滴る。 泰然たる構え――だが、隙がない。 (さすがだ。でも) 待っているわけにもいかない。焦っては負ける。だが、動かなければ勝機も生まれないのだ。 たん、と優の足が地を蹴った。 わずかにロックが表情を変える。 「そちらから仕掛けるか」 「もちろん!」 大上段に振りかぶり、切っ先が美しい弧を描いてロックに襲い掛かった。 キィ……ン!と金属がぶつかり合う音。 優は弾かれた剣をすばやく戻すと同時に、バックステップで間合いをつくった。 「守ってばかりでは、勝てないですからね!」 「よかろう。やるからにはそれがしとて負けるつもりはない。受けて立つ」 ごう、と風さえ感じるほどの剣圧を載せた豪剣が迫る。 優は受け止めるが、その重さに思わず顔をゆがめた。 そのまま押し切られかねない力がかかるのを、優は身体を引きながら剣の角度を変えて受け流そうと試みる。 シュリィイイイン、と刃が擦れ合う音とともに、火花が散る。 そのままにすると剣が離れた瞬間、突かれる。優は慎重かつ速やかに摺り足で退きながら薔薇を挿した胸を外へ向け回転するように位置を変える。ロックが追うように足を運ぶ。両者の動きは舞踏会のようでもあり、真上から見下ろす目があったなら、ちょうど、触れ合う剣が時刻を刻む時計の針を早回しするように見えたことだろう。 ぴたり、とロックが動きを止めた。 呼応するように、優も、また。 ふたりの剣は、切っ先にごく近い位置で触れ合ったまま、静止していた。 力は拮抗していると言えたが、その状態を維持するのはかなりの筋力が必要だった。腕が疲れ、柄を握る手に震えが生じれば切っ先には何倍にもなったぶれができる。そうなったが最後、ロックの剣はさきほどとは逆に滑り、実戦であれば胸を貫かれることは必定。それに気づいて、優の額に脂汗がにじむ。優が気づいたことに気づいて、ロックの頬に微笑が上ったので、優は強い眼力でもって応える。 ロックは強い。 もともとの身体能力もあるだろうが、なにより鍛錬を積んでいる。 それはこの男が騎士だからだ。比翼迷界・フライジング――《ヒト》と《トリ》とがすまうかの世界は、壱番世界とは違う。壱番世界の文明に比べれば、前近代の色彩を残し、ゆえに剣をもって戦うことをなりわいとする騎士たちが生きられる。それにひきかえ…… ギン!と音を立てて、優の剣がロックの剣を弾いた。圧し負ける前に、あえて切っ先を開放し、突き入れをくらう前に叩いてそらしたのだ。同時に、優は踏み込んでいる。姿勢は低く。ロックの剣の下をくぐるように動く。実戦なら、そのまま背から切り伏せられて終わる。だがルールは胸の薔薇を散らすこと。背にかばわれた恰好で、ロックは優の薔薇を見ることもできない。逆に、今まさに優が飛び込まんとする方向にはロックの胸がある。優から見て左に避けるならこのまま突く。右に避けるなら手を返して斜め上へ斬り上げる。 「っ!」 ロックはどちらも選ばなかった。まっすぐ後方へ跳んだのだ。 優はここで踏みとどまっていいし、さらに踏み込んでもよかった。選んだのは後者だ。ロックがおのれの前面に戻した剣を叩く。受け流され、繰り出される反撃を、薙いで防ぐ。鋭い剣戟の音がコロッセオに響き渡った。 幻影が闘技場を取り囲んでいた。 まるで石舞台が降下するかのような錯覚にとらわれるのは、周囲に、いくつもの石造りの塔がそびえ、伸びあがってゆくからだ。 ガーゴイルや天使の彫像で飾られたバロック様式の塔は、墓地の鐘楼であり、修道院の尖塔であり、城壁の物見の塔でもあった。ひときわ立派で、豪奢な彫刻で飾られているのは時計塔である。 ボーーーン、ボーーーン、と音が鳴る。 機械仕掛けの扉がひらき、古い天文時計(オルロイ)は複雑な内部構造をあらわにした。 年と月と日をあらわす円環がまわり、赤銅の太陽と真鍮の月がそのまわりを巡ってゆく――。 剣の戦いは続いている。 両者一歩も退かない戦いだ。片方が圧せば片方が退き、すぐに逆が攻める。 胸元の薔薇を散らせるほど刃を前へ出せば、それだけ自分の薔薇を敵前にさらすことになる。一瞬でも気を許したほうが負ける戦いなのだ。 優は――壱番世界の、ごく平凡な青年だったと言ってよい。 平和な国の、ありふれた家庭に育った。 少々、武道の心得があったとして、ほんのすこし身体がよく動くという程度のことだったのだ。 そんな自分が、ロストナンバーとなったことの、運命の数奇さを幾度思ったことだろう。 トラベルギアを手にすれば、本来持ちえぬ力を得たとはいえ……、ロックのように戦いに慣れたものたちのふるまいや、超常の力をふるうツーリストたちを見ればいつも圧倒された。 文字通り、かれらは住む世界の違ったものたちだったのであり……、最初は、無邪気に驚いたり、殊勝に戸惑ったりしていた優だが、そのうち、それだけでは済まなくなったのだ。 高校生から大学生へ、という、もとより多感な時期に、覚醒という経験をしたことで、陳腐な言葉で云うならば、優は大人になったのだろう。 壱番世界を、救わなくてはならない。 世界群の真理などつゆ知らぬ、無辜の人々を守らなくてはならない。 そして、0世界で知り合った仲間たちにとっても助けとなれる自分でありたい。 そんな思いが、優を突き動かしてきたのだ。 ロックは強い。 もともとの身体能力もあるだろうが、なにより鍛錬を積んでいる。 それはこの男が騎士だからだ。 優とロックにあるそもそもの差。しかし……しかし、である。そのロックの剣技に、決してひけをとらぬ優の腕はどうだ。平穏な壱番世界に暮らしていた一青年が、この数年で身につけた技だというなら、それは、その努力はいかほどのものか。 何度目かの、優からの仕掛けだ。 ひゅん、と空気を裂いて走る太刀筋。ロックはそれを受け流さずに体術だけで避けた。踏み込みが浅かったからだ。優が剣の柄を両手で握った。それは返す刀に渾身の力を込めて振る合図。ロックはそれに備えた。どうくるにせよ次の一撃を叩き落せば、それでできた隙を突くことができよう。 類稀な動体視力が、優の剣の軌跡をとらえる。 「何!?」 はじめて――そのおもてに狼狽があらわれた。 優の剣が、上ではなく下へ向かったからだ。 ボーーーン、ボーーーン、と音が鳴る。 機械仕掛けの天体が文字盤の空を回ってゆく。 その文字盤に、ぴしり、とヒビが走った。 後悔がなかったかと言えば嘘になる。 何度も自問したのだ。 ロバート・エルトダウンは、嘆息と苦笑まじりに肩をすくめてみせた。 多くの友人たちはやわらかな気遣いで見守ってくれた。 彼女を乗せた列車は、ターミナルを発ち――そして彼女は……彼が恋した少女は二度と戻ってこなかった。 (俺は選ばなかった) 彼女を選ばなかった。 (選べなかったんだ) 大切なひとと、壱番世界を救わねばという思い。すべてを棄てても恋人を選ぶ道は、美しいものであったかもしれない。しかしそのふたつを天秤にかけたのだとしたら、そのこと自体が、彼女の存在の重さを物語っているではないか。ひとつの世界の運命と、つりあうほどの重さだというのだから。 (どちらも選べるなら、どちらも選びたかった) (でもそうは出来なかった) (だったら――) 優の剣は、ロックの脚を狙った。 普通に身をひけば上体が先になり、脚が残る。つまり避けられない。よくて横ざまに跳ぶしかない。だが次の一手で間合いを詰められれば胸の薔薇へ迫る剣を避けられない。チェックメイトだ。 ロックの口から、呻きとも怒号とも雄たけびともとれぬ声が迸った。 そして跳んだ。 真上に跳躍したのだ。ロックはその翼を開かない。だから、跳んだところでその身は万有引力のなすがまま、地上へ落ちるしかなかった。空中で傾いだ身体は、頭を下に、太陽に叛いたイカロスのように落ちた。 優は脚を狙って繰り出した剣を、そのまま突き上げる。 「!」 優は、ロックが決して自棄になって苦し紛れに跳んだわけではなかったことを知る。彼はまだ剣を手放してはいない。 優が斬り込むのと同時に、彼も突き降ろしてきたのだ。 ふたつの剣は、今度はぶつかりあうことなく、虚空ですれ違った! ring, gong... ring, gong... 鐘が鳴る。 時計塔が、百の塔が崩れてゆく。 (彼女を選ばなかった以上、俺は必ず、もうひとつの選択をなしとげる) (絶対に、壱番世界を……!) 薔薇の花が散った。花弁が、空へと巻き上げられてゆく。 その色は―― 青だった。 優は自身の胸を見下ろし、そして足元へ目をやった。 そこに、花弁を半分失った薔薇のうてなが、ロックの剣によって床に縫いとめられていた。 ロックの剣からにじむ露が刀身を流れ落ち、薔薇を濡らしてゆく。 それは朝露のようでもあり、女の目じりに盛り上がる涙のようでもあった。 ふう、と優は息をついた。 ロックは傍に、大の字になって寝転がり、荒い息に胸を上下させていた。 その胸に真っ赤な薔薇は誇らしく咲いてはいたけれど、彼の着衣の布地は縦にまっすぐ裂けていて、汗だくの胸板があらわになっている。 つまり、優の剣も肉薄してはいたのだ。 あと数センチ横にずれていれば、ロックの薔薇を散らしていた。 「ロックさん」 優は彼に手を差し述べる。 「俺の負けです。参りました」 「……」 ロックはその手をとり、ゆっくりと身を起こした。 「さすがですね」 「……トラベルギアの力を使わなかったな」 「ロックさんも、空を飛ばなかった」 ふん、と鼻を鳴らした。 優は、もう一度、手を出し出す。ロックは、一瞬、その意をはかりかねたようだったが、やがて察して、彼のてのひらを握り返した。 「今日はありがとうございました。思いっきり動いたので、すっきりしました」 礼を述べ、にこりと笑った。 そのままきびすを返した優の背中に、ロックから声がかかった。 「まだ甘いが良い腕だ。もう少しでしてやられるところだった。……ナラゴニアの、人狼城は知っているか」 優は振り返った。 「知らずとも、人に聞けばすぐにわかる。……。それがしは、城に使える衛士や、人狼公のために戦いたいと集まるものたちに剣を教えるよう仰せつかっている。……生徒が一人増えたところで、どうということはない。……もし、貴君がそれを望むのなら、だが」 「ロックさん……」 「腕を上げたいのであろう。それはよく伝わってきた」 「あの……」 「べ、べつに、無理にとは言わぬぞ。それにだな、親切で誘っているわけでもないのだ。ただ、もう少し伸ばせるものを今ひとつなまま剣を使っている貴君の動きを見ていると腹具合が悪くなってくるのであってな、だから……」 「はい、うかがいます! ぜひ、教えてください!」 「…………う、うむ……」 元気よく、優は応え、ロックはわざとらしく咳払いをする。 コロッセオのまぼろしの空を、鳥たちの群れが渡っていった。 (了)
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