オープニング

 ざあざあ、ざあざあと水の音がする。
 進むごと、それは滅びた国の残骸として浮かび上がる。
 岩かと思えば、あおく苔むしたそれは、崩れて倒れた柱か壁の一部なのだった。
 朽ち果てた回廊が、蔦の森に沈んでいるのが見える。
 瑞々しく枝を伸ばす巨木の傍らを、清流がゆったりと流れてゆく。目を凝らせば、そこが卓越した技術によって整えられていて、遠い過去には運河として使われていたことが判るだろう。
 時おり、魚が大きく跳ねる。
 差し込む陽光に、背がきらりと光った。
 さらに踏み込めば、緑に埋もれた廃墟が見えてくる。
 やわらかな苔に覆われた、丈高い建物の跡地を覗けば、それがこの地に住まい、終焉を迎えた人々の住まいであったことが判る。
 大きな石材を巧みに組み合わせたそれらは、在りし日には、堅固に、美しく、天を指してそびえ立っていたことだろう。そしてそれは、この青い空に、まぶしいほどに映えたころだろう。
 しかし今や、この地に、それらを伝える詩人とて、訪れることはないのだ。
 わずかなもの哀しさとともに、永遠の眠りに沈む都市を歩く。
 バザールが開かれていたと思しき、通りの広場。
 役場、上下水道施設、施療院、工房、商店、公衆浴場、酒場、闘技場、劇場、郵便局、銀行。廃墟のあちこちに残されたシンボルや設備の残骸からは、優れた技術や文化が浮かび上がる。
 すり鉢状に整備された大広場の傍らには、葡萄酒か麦酒か、それとも蜂蜜や芋を使った酒だろうか、とにかくそういったものを供するために使われたのであろう、巨大な樽状の容器が転げている。驚くべきことに、大の大人が何十人も入れそうなそれは、きめの細かな焼き物で出来ているのだった。
 強く吹く風が囁きを運んでくる。
 ああ、ここで夜ごと、人の和と笑い声とが織り成す、鮮やかな宴が繰り返されたのだ、と。
 円形に整備されたそこは、人々が、『我々の間に、身分も地位も、その他のいかなる垣根も存在しない』と謳ったあかしにもなるだろう。
 歩くほど、都市の中央へと進んで行く。
 ひときわ高い位置には、王城の亡骸が佇んでいる。
 崩れ、苔むし、蔦と木々に覆われた王城は、今もなお凛とした美しさを失わず、最後の王の気高さで、今はもう眠る民を、両の腕(かいな)に抱いて護るかのようにそびえ立っていた。
 王城の門は開け放たれている。
 中には、何が遺されているだろうか。
「ヒトの想いを感じる。踏み込めば、おそらくその残滓を目にするだろう」
 その傍らを少し歩いた先に、神殿があった。
 王城と同じく、今なお凛と美しい、静謐な神々しさに満ちた場所だ。
 踏み込めば、凍てつくような水晶が、青白い石の壁を照らしている。
 長い長い年月を経るうちに沁み出したものか、神殿の半分は清らかな水に没し、揺らめく水面に、いにしえの信仰を浮かび上がらせる。
 神殿の中央もまた清泉と化していた。
 遠い昔には、人々が祈りをささげたであろう祭壇は、ひときわ深く沈み、手を伸ばしただけでは触れることも出来そうにない。
 まだ、捧げる誰かがいるのだろうか。
 それとも、風が運んだだけなのだろうか。
 祭壇の沈む泉、凛冽な水には、胸に迫るほどの白をまとう小さな花が、いくつもいくつも、浮かんでいるのだった。見れば、泉の周辺には、同じ花が無数に咲いていた。探せば、遺跡のそこかしこに咲いているのが見つかるはずだ。
 差し込む光を受け、花びらは透き通るようにきらめく。
「ピエドラ・ディ・ルナ。月の石、という名の花だそうだ」
 やわらかく涼しく吹き寄せる風に揺れる花は、人々が愛し信じ貴んだ神代のモノたちを、護り慈しんでいるようにも見える。
 墓暴きや盗賊のたぐいに見つからなかったのか、それともここにはまだ、この地を護る何かがいるからか。背の高い青年と豊かな髪の乙女、勇壮な鬣と翼を持つたくましい獣。神々を象(かたど)ったと思しき三つの像には、金と銀と白金、色とりどりの宝石が飾られていたが、それらはひとつも失われていなかった。
 年月を経ても褪せぬ、信仰という名の輝きがそこにはあった。
 壁に彫られたレリーフ、すばらしい手わざの伺えるステンドグラス、いかなる奇跡のゆえか、崩れ落ちもせず残るいくつかの絵画やタペストリ。そこからは、刻まれた歴史が見て取れる。
「聖アガタ王国。千年に渡って栄え、千年も昔に滅んで久しい、風と緑と水、人と神と獣が共存を果たした、花と音楽にあふれるいにしえの楽園だ」
 神の、精霊の声を聴く巫子は、誰かの呼び声を確かめるかのように耳を澄ませる。と、木々がざわざわとざわめく。まるで客人の訪れを喜ぶように、風が、人々の頬を撫でてゆく。
「天神トルメンタ、地霊ベルデ、炎獣エスカルラータ……太古の昔、竜刻によって生み出された偉大な三柱により、天と地とそのはざまにあるすべてが護られる地で、人々は生き、学び、働き、楽しみ、笑い、語り合い、愛した」
 古いレリーフに刻まれるのは、賢王ゴロンドリナと心優しき麗妃シスネ、武を持って兄を支えた王弟アギラ。
 聖アガタ最後の王族は、何を思い、国の終焉を看取ったのだろうか。
「精霊は、人の世の、営みの多くは意味を理解しないが……それでも彼らは伝えている。平らかな国であったと。人々は音楽を愛し、花を愛で、懸命に働き、己が手で国を護ったと」
 木々の精霊が謳うように伝える歴史を読み取って、神楽はかすかに笑んだ。
「ああ、そこにいるのか。――いいとも、その言葉、その音色を聴き、語り継ごう。手向けに、とっておきの旋律を捧げよう。滅びに眠る楽園の、それが最期の望みだというのなら」
 神殿の奥、もしくは王城の奥だろうか、この世ならぬモノを見る巫子は遠くを見つめ、神奏楽器“パラディーゾ”を小さく爪弾いてみせた。白い弦楽器が、神楽の手の中でくるりと踊る。
「私たちは、招かれたということかな。せめて、思いの中に留めておくものがいるようにと」
 世界図書館からの依頼を完遂したあと、なぜか心惹かれて立ち寄った先で、出会ったのがこの遺跡だった。
 これもまた導き、運命という名の流れなのかと、
「それで……きみたちは、どうする?」
 巫子がそう尋ねたとき、思わずよろめくほど強い風が吹き、白い花々を舞い上げていった。
 時を同じくして、辺り一帯に美しい音色が響き渡る。
 神楽が空を仰ぎ、首を傾げた。
「鐘? 木琴、鉄琴……それに、竪琴か。しかし、いったい誰が……?」
 音楽は王城から響いていた。
 風が空を、森を吹き抜ける中、それは高く遠く、低く深く、包み込むように、降り積もるように響き続ける。
 素朴で力強く、美しい音楽でありながら、どこかもの哀しさの含まれたそれに、まるで悼むかのよう、手向けるかのようだ、と、誰かがつぶやいた。
 ――風は天神トルメンタの祝福と伝えられる。
 ならば、これは、かの偉大なる一柱の、民を思う心であるのかも知れない。
 人々は、音楽に背を押され、それぞれの思うままに歩き出す。

 風が、水が、森が、人々の歩みを見つめている。

品目シナリオ 管理番号2888
クリエイター黒洲カラ(wnip7890)
クリエイターコメント皆さんこんばんは。
新しいシナリオのお誘いに上がりました。
ここのところ殺伐系シナリオが多かった(というか、今後しばらくは現在進行形で多い)ので、今回はのんびりとした、少しもの哀しい廃墟探索を愉しんでいただこうと思います。

戦闘や危険は発生しません。
いくつかフラグが存在しますが、おまけ要素なので、触れなくてもストーリー上の問題はありません。
お心の赴くまま遺跡を歩いていただき、今は滅びた王国の、古く素朴な、和によって律せられつつも賑やかであった営みに思いを馳せていただくもよし、この地に御座した神々に触れるもよし、不思議な音楽の理由を調べるもよし、『声』に乞われるまま己が音楽を捧げるもよし。
いにしえの歴史を今に伝える廃墟にて、思い思いに、自由にお過ごしください。

ご参加に当たっては、
1.廃墟を訪れての心境、心情
2.どこを探索するか
3.どんなものを見たいか
4.王国滅亡の、神々の、音楽の謎を解く(推理・推測・調査など)
5.どんな音楽を捧げるか
6.その他、やってみたいことがあれば(必ず採用されるという保証はありませんのでほどほどに)
などをプレイングにお書きください(もちろん、これ以外のことを書いていただいても問題ありません)。

ちなみに、私情で申し訳ないのですが、記録者はたとえ物語の中であっても、特にこのような状況下における遺跡や聖域・神域などは貴ばれてしかるべきと考えておりますので、(それを選択されるかたはそういらっしゃらないと思いますが)破壊的な行為、不敬な行いなどは不採用になる確率が高いです(そういう願望を抱く、というロールプレイは、採用不採用はさておき自由です)。

また、基本的に「他参加者さんの都合を考えない」乱暴な確定ロールは採用されにくいですのでご注意ください。記録者はPBWゲームを「各PCさんらしさを追求しつつも他参加者さんとの調和を目指す」、「人さまに対して一歩譲ることのできる」エレガントな遊びであると考えますので、グッドアクトよりもグッドショウを重視します。

もちろん、1PCさんにつき一見せ場を想定しておりますが、プレイングによっては登場率に偏りが出る場合もございます。各自、ご理解とご納得の上でのご参加をお願いいたします。

なお、お判りのかたもいらっしゃるかと思いますが、このシナリオは、某民族音楽系ミュージシャンさんの某楽曲への猛烈なるリスペクトを含んでおります。某曲をご存知のかたは、それを脳内BGMにお楽しみください。

※なるべくたくさんのかたに入っていただきたいので、1PLさんにつき1PCさんのエントリーでお願いしたく思います。わがままを申しますが、ご協力をよろしくお願いいたします。



それでは、終焉の緑に眠る、王国の亡骸の傍らにて、皆さんのお越しをお待ち申し上げております。

参加者
蓮見沢 理比古(cuup5491)コンダクター 男 35歳 第二十六代蓮見沢家当主
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)コンダクター 男 35歳 ミュージシャン
ニコ・ライニオ(cxzh6304)ツーリスト 男 20歳 ヒモ
アキ・ニエメラ(cuyc4448)ツーリスト 男 28歳 強化増幅兵士
由良 久秀(cfvw5302)ツーリスト 男 32歳 写真家/殺人鬼
テリガン・ウルグナズ(cdnb2275)ツーリスト 男 16歳 悪魔(堕天使)
鹿毛 ヒナタ(chuw8442)コンダクター 男 20歳 美術系専門学生

ノベル

 1.悠久の森

 どこかから、小鳥たちの鳴き交わす声が聞こえてくる。
 差し込む陽光が金の直線を描き、半ばまで崩れて苔むした壁をそこだけ別の色へと転じさせている。
 規模からしてもともとは民家だったのだろうと――在りし日には、おそらく賑やかで平穏な営みが繰り返されてきたのだろうと思われるそこは、ただその壁のみを残し、あとは緑の受け皿と化している。
 蓮見沢 理比古は、緑色に覆われたその壁に触れ、天を仰いだ。
 彼の、やわらかな灰眼は、そびえ立つ木々を映している。
「建物は朽ちてゆくけど、緑は栄えていくんだね。すべてがそこで終わりということじゃないんだ。物質は滅びても、記憶が消え去るわけでもないんだろうな、本当は」
「うん……そうだね」
 ニコ・ライニオが理比古の言葉にうなずく。
 ニコの眼も、どこかやさしく、王国の残骸を見つめている。
「人と神と獣が共存した王国……か。きっと素晴らしい場所だったんだろうね。誰もいなくなっても、そこかしこに証が残っているように思うよ」
「ニコさんは、ずいぶん長生きしているんだっけ。じゃあ、こんなふうに、ひとつの集落や国がなくなっていく様も見てきた? ……ああ、不躾だったらごめんね」
「いや、構わない。実際、僕は、人間の感覚からすれば気が遠くなるほど長い時間を生きる種族だから。そうだね、故郷にいたときも、こんなふうに滅びた村や国に行き当たることはあったよ。その中には、もちろん、滅びる前に訪れたことのある場所もあってね」
「ああ……それは」
 ニコは穏やかな眼差しで苔むした壁を撫でる。
「この国も、千年前に訪れてみたかったな。滅びず残っていればなお、よかったけど」
「そうだね。それはもう、本当に、縁なんだろうなって思う。俺たちが今日、ここに来たのも、何か意味があるってことなんだよね、きっと」
「うん……この国に残されたものを、僕らは覚えていることができる。それに、もう千年あとだったら、この痕跡すら残っていなかったかもしれないからね」
 重苦しい過去を乗り越えて今に至った、水晶のような透徹を戴く理比古と、長く生きて人と交わり、その美しさいとおしさを余すところなく見てここまで来たニコ、ヒトの善を見るふたりの会話はとてもやわらかく、和やかだ。
 まっすぐに行った先で、集会所だったのではないかと思われる廃墟へ行き当った。
 人々が、ここで、よりよい都市の在りかたについて議論したこともあるのだろうか。そこに残され、草や蔦に埋もれた石造りの椅子、やはりぐるりと円形を描いて設置されたそれらからは、人々が貴んだものがなんであったか、言葉などなくとも伝わってくるように思えるのだった。
「聖アガタが、長い長い年月をかけて、築き上げてきた文化や営みが見えるね」
 理比古の手が、品のいい所作で椅子の座面を撫でる。
 いくつもの貴い記憶を飲み込んだまま、ゆっくりと埋もれてゆくそれらを、哀惜と微笑を持って見送ろうとしているようだった。
「死や滅びは赦しでもあるよね。ただ、願わくは、その最期が安らかであったように、と思うけれど」
「そうだなあ……そもそも、なぜこの国は滅んだんだろう。神々が護っていた国、なんだよね?」
「うん、その辺りは俺も気になるな。もちろん、神さまだからって、全知でも全能でもないんだろうなとは思うけど」
 ぐるり、と、街を飲み込んで沈黙する森を見渡す。
 その視線が、ふと、カメラを手にあちこち歩き回る鹿毛 ヒナタを捕らえた。
「ヒナタさん、実はけっこうわくわくしてる?」
「あれ、判る?」
「うん、なんていうか、カメラいじる手つきとかが、そわそわしてるような」
 理比古の言にヒナタは肩をすくめる。
「いやほら、俺はエアリーディングに長けた男だから」
「エア……? ああ、空気を読むってことか。なんだかものすごくかっこいい単語に思えちゃったよ」
「まあ正直盛大に興奮したいですけどね? でも、そうすべきじゃない場所ってあんじゃん? だからエキサイトは脳内だけに留めて、静かに堪能しようと思ってるのさ」
 返すヒナタの視線は被写体を求めてあちこち移動するし、本人もそこかしこを覗き込んだり入り込んだりしている。
「ふうん……こういう撮影にいい場所って、やっぱりあるんだ?」
「そうだなあ、やっぱ水のあるところかな?」
 ニコも理比古も、写真撮影に関しては素人のため、ヒナタがいいポイントを探すのにおとなしくついてくる。
「あ、俺に合わせてくれなくても大丈夫よおふたりさん」
「ん? いや、僕はそういうの、よく判らないから。詳しそうな人についていくのも楽しそうだなって」
「そうだね。一瞬の光景を切り取るってすごいなあって思うもの。絵もそうだよね……ヒナタさん、今日は描かないの?」
「ん? 描いてもいいけど、今は撮りたい気分なんだよなあ」
「あっそうか、残念……また描いたら見せてね。由良さんの写真も、見せてもらいたいなあ」
「理比古さん、前にもそんなこと言ってたっけ。好きなんだ?」
「ん? うん、好きだよ。でも、俺にはそういう、アート関係の才能はないって知ってるからね。だから、人さまのつくり出してくれるアートを堪能するんだ」
 なるほど、と頷きつつ、ヒナタは撮影ポイントを探して歩く。
「お、ここいいな」
「先生、解説をお願いします」
「ぶは、先生とか言われると緊張のあまりガクブルしそう。――まあ、それはさておき、ここに水があるでしょ。この構図だと、反射光や逆さの映り込みがいい効果になるし、水域をポイントに構図を切れば画が締まるからね」
「なるほど、写真も奥深いなあ」
「うん。僕の故郷には写真なんてすごいものはなかったから、なおさら思うよ。ヒナタはすごいな」
 見学者ふたりが本気で感心しているのを、照れくさいようなむず痒いような気持ちで聞きつつ、ヒナタは何度かシャッターを切る。深い色の水に、空の碧が映り込み、独特の孤独感をにじませた。
「この光景、ネットに上げられないのが惜しいわ。壱番世界に存在しない場所はやばいよな?」
 ヒナタが言うと、理比古とニコは顔を見合わせた。
「まあ、CGです! って言ったらごまかせそうな気もするけど……」
「僕は壱番世界の事情をそこまで詳しく知っているわけじゃないから何とも」
「うん、やめといたほうがいいよな。俺知ってた」
 異世界について、覚醒していない人間に教えることはご法度だ。
 もちろん、ヒナタとて、本気で言ったわけではない。
「おー、いいね」
 ファインダーをのぞき込み、惚れ惚れとつぶやく。
「ん? 何が?」
「や、俺の持論なんだけどさ、廃墟は傷んでるほど、植物に浸食されてるほど好物件だよな、って」
「ああ、それは判るかも。くすんで朽ちていく人工物と鮮烈な緑のコントラストだよね」
「そうそう、亡骸と生命の対比がいいのよ。人と自然と時間のコラボってやつ?」
 滅びた街が色をなくして崩れ、消えてゆき、逆に命を得て繁茂する植物たちがすべてを覆い隠してゆく。その中に、絶対的にあらわされる、決して眼には見えないけれど無視することもできない時間というものを、ヒナタは美と表現するのだ。
「前に、古ビルやくたびれたモノ描いて何が楽しいんだって訊かれたことあるけど、その造形プラス時間も表現できるから楽しいんじゃないかーって思うんだよね、俺」
「なるほど、至言だな。ヒナタさんは詩人でもあるのかもね」
「やめてッ、そういう褒められ方、慣れてないから浮き足立っちゃう!」
 おどけてみせつつ、ヒナタは更に絶妙の撮影ポイントを探して進むのだった。
 そのとき、強い風が吹いて、
「あ……また、聞こえてくる。あの音楽……」
 不思議でものがなしいメロディを、彼らの耳へと届けた。

 *

 そのころ、アキ・ニエメラは、テリガン・ウルグナズとともに、少し開けた場所を歩いていた。
 ここは、どうやら、もともと集落の大通りであったらしい。
 タイル状に切り出され敷き詰められていた白い石はすっかり苔むし、その隙間からは無尽蔵に草が生えている状態だが、歩きやすいことは確かだ。
 滅び、人が姿を消してなお、人間の営みは美しくかたちを残している。それを、奇妙な驚きと感慨とともに思う。――たとえば故郷で、自分たちの文明が滅びて千年ののち、街の残骸を目にした誰かが、同じような感慨を抱くのだろうか、と。
 ゆっくりと歩きながら、時おり、今は亡き営みの残骸に触れてみる。
 それはもう、ほとんど朽ちて、風化しかかっていたが、強力なESP能力を持つアキの脳裏に、道の端で立ち話をする人々や、買い物に勤しむおかみさん、一日の終わりにエールをあおって酔っ払う労働者たち、犬や猫といっしょに駆け回る子どもたち、ゆったりと散歩する老夫婦など、ごくごく普通の人々の、ありきたりな――しかし、かけがえのない――日常をかすかに届け、消える。
「美しいけどものがなしい、ものがなしいけど美しいところだな。この国を愛した人たちの心が、何となく伝わってくるような気がする」
 『普通』とは、結局のところ幸いである、と、その普通が許されなかった強化増幅兵士は思うのだ。
 そんな時、不意に、
「かたちあるもの、いずれ滅びる……か」
 テリガンがぼそりとつぶやいたので、アキは小首をかしげた。
「どした?」
 意外な気持ちが顔に出ていたのか、テリガンは口をとがらせた。
「そりゃオイラは“力”を司る悪魔だからな。様々な“力”の成長、繁栄、衰退、そういうものの繰り返しをずっと見てきたんだ。当然だろ?」
 言いつつ、テリガンの表情はどうも自信なげだ。
「なあ、アキ」
「ん?」
「力って、何だと思う?」
 唐突な問いに、アキは眼を瞬かせる。
「何で急に」
「や、だってあんた、こないだ助言してくれたから。アレがなかったらオイラ、どうなってたか判んねーもん」
 春に、異世界のひとつ、フライジングで発生した迷宮でのことを言っているのだろう。確かにあの時、アキは、傲慢な断罪者へと憤る――実際には、そんなものはいなかったのだが――テリガンに、怒りに呑まれるなと警告した。彼は、そのことを言っているのだろう。
「そうそう、あんときはホント、ありがとな」
「や、別に礼を言われるようなことでもねぇよ。俺だって、他の奴らに助けてもらったわけだから」
 テリガンの律義さに微苦笑を落としつつ、アキは彼の質問を反芻する。
 その間も、歴史の残骸は、アキにいくつもの思い出をみせた。
 聖アガタの豊かさを妬んだ近隣諸国が軍隊を派遣した時のことを。
 それを迎え撃つ聖アガタの兵士たちと、彼らを助けて戦場を駆ける炎獣エスカルラータ――獅子に狼と竜と鷲をかけあわせたような勇壮な獣だった――によって、敵軍が壊滅させられ、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく様を、古い映画でも見るように見た。潰走する敵軍を見送り、歓声を上げる兵士たちの姿に、気概と誇りを感じた。
「力か……あんたはどう思うんだ、テリガン?」
 問われると、カラカルの姿をした悪魔は、所在なげにあちこちを見渡した。
「それがよく判んなくなったから訊いてんじゃん。――オイラって、“力”を貸す悪魔だろ?」
「おう、らしいな」
「これまで、力を貸した相手は、もちろん当然のことなんだけど誰だって『目的』を持ってた。それが、生きる意味とか方向性である場合も多かったんだよな。オイラも、そういう『目的』を持って生きてたし」
「テリガンの目的って? ああ、答えにくいなら答えなくていい」
「――神への復讐」
 テリガンの低い囁きには、限りない怨嗟が込められている。
 強い精神感応の力を持つアキには、彼が神への復讐を誓うに至った『何か』へ向けて渦巻く、赤黒い激情の色が見えていた。
「だけど」
 しかしテリガンは、迷子の眼で言を継ぐ。
 とたん、その赤黒い渦は和らぎ、頑是ない子どものようにむずかって消えた。
「オイラはもう、それを手放しちまったんだ」
「なぜだ?」
「……知っちまったから。オイラも傲慢だったって。無力で、そのくせ他人ばっか責めてたオイラに、誰かを責める権利はないんだって。そう気づいたら、『目的』は自然とどこかへ行ってた」
「それは、悪いことなのか?」
 アキの素朴な問いにも、テリガンは困惑したままの顔だ。
「うん、それが判んないんだよなあ……だけど、目的の力を手放すってことは、オイラの中では、ある種の“力”の衰退ってことなんだ」
 また、強い風が吹いて、あの不思議で美しい音楽がどこからともなく流れてくる。テリガンはそれに耳を澄ませ、困ったような、泣きたいような、半分笑っているような顔でアキを見る。
「目的は継承できる。それは知ってる」
「ああ、敵討ちなんかまさにそういうものだろうしな」
「だけど……オイラは、自分の目的が継承される意味はないって思ってもいるんだ。だからこそ、オイラは、自分の『力』を見失った、と思ってるんだよなあ」
 テリガンの物言いは、朴訥でものがなしく、同時に、解放の喜びを孕んでもいる。そう、いうなれば、テリガンは解放されているのだ。憎しみや怒り、復讐、堂々巡りの殺意というものから。
 それが判るから、アキは親しみを込めて彼の背中を叩いた。
「いてて、痛いって! なんなんだ!?」
「ん? 悪ぃ悪ぃ、でもテリガン、それさ、考えようによっちゃ、すげぇ可能性をもらったってことなんじゃねぇの?」
「ん……それって、どういう……?」
 理解が及ばなかったらしく、難しい顔になって首をかしげるテリガンの背中を再度ばしばしと叩き、だから痛いって! と抗議されながら、アキは笑って歩く。



 2.沈黙ニ眠ル

 由良 久秀は、人の少ないほう少ないほうへと、カメラを手に彷徨っていた。
 何か、人智を超えた存在がそこいらにいるとしたら、別に構わなくていい、悪いことをするつもりもないから放っておいてくれ、などと胸中に思いつつ。
 その背後には、ヴァイオリンのケースを手にしたムジカ・アンジェロがいた。口数少なく、写真を撮る由良のあとをついて回っている。
 初めはあまり気にせず、色彩と光、そして影のコントラストを注視して、思うままに撮り歩いていたが、その間もずっと、無言のまま、ムジカが雛よろしくうしろをついてくるもので、
「……おい、ムジカ」
 ついにスルーしきれなくなって、呆れの混じった溜息とともに由良が声をかけると、
「ん……?」
 どこか茫洋とした視線が返った。
「なぜついてくる」
「……ただ何となく」
 返事にも、いつものような軽妙さ、洒脱さはない。
「まあ……構わないが」
 事情も理由も判るので、特に何を言うでもなく放置することにする。
 それよりも、今は、この景色に意識を向けていたい、というのが由良の偽らざる本音だった。
 ムジカをそのままに、あちこちを歩く。
 モスグリーンに覆われ、文明のかたちをなくして、徐々に自然の中へ飲み込まれようとしている王国の残骸を、これまでに訪ねてきた廃墟の多くとは違っている、と思いながら観察する。
「風化している……か」
 静かな眠りに満ちた、記憶と哀惜によって綴じ込められるいにしえの王国。
 今のこの景色こそが、まるで誰かが理想と描いた楽園のようだ、とも思った。
「ここも……」
 いくつものシーンを撮影しながらつぶやく。
 時おり、構図を変えながら薄ら寒い一瞬も切り撮った。
 神秘的でありながら背筋が寒くなるような、凝視していると暗闇の中へ落ち込んでゆくような、そんなワンシーンだ。
 しかし由良は、この廃墟を悪く見て撮るわけでもなければ、死と滅びに満ちた場所だからと極端に歪曲しているわけでも、幻影や亡霊を見ているわけでもなかった。
 ただ、彼が、陽気さや明るさより、温度の低い静けさに惹かれる性質の写真家だというだけのことだ。
「悪くない」
 ムジカは、彼の独白に、何か言葉を投げかけてくるでもなく、やはりぼんやりと風景を見つめている。気にしていても仕方がないと捨て置く程度にはドライな関係であるため、由良の意識はすぐ、自分の考察へと埋没してゆく。
(異界のことではある……が。ここも、少しずつ崩壊を進めながら、いつしか朽ち果てるんだろうか。まさしく、亡骸と同じように)
 ――そのほうがいい、と、漠然と思う。
 永遠に留められ、ただ時間に嬲られるだけ嬲られ、いつまでもこの骸をさらし続けるよりは。
「まあ……とはいえ、朽ち果てるのは、俺の寿命より遥か先の話なんだろうが」
 自分が、年を取らないロストナンバーであるということは考えず、そんなふうに考察を締めくくると、次なる被写体を求めて前へ進む。
「ん、ここは」
 覗き込んだ先に、ずいぶん大きな建物の残骸を見つけ、由良はそこへ踏み込んだ。幸い、門も扉もなくなっており、中を見たいがゆえに遺跡や廃墟を壊すなどという暴挙を犯さずに済んだ。
 そこは、どうやら芸術品を納めた美術館のような場所であったらしい。
 あちこちに、半壊した彫像や、大きな壺や器が見られるところからして、間違いではなかろうと思う。
 やはり何者かに護られているからなのか、ひときわ見事なタペストリが、色褪せもせず、崩れることもなく残っているのを見つけて、由良はカメラを構えた。急に、強い光などあてると崩壊を招く場合もあるので、フラッシュは焚かずに写真を撮る。
 そこには、聖アガタの歴史が織り込んであるようだった。
「これは……」
 三柱の神々を中心に、赤い、どことなく不吉な波が広がってゆく。
 その波が街へ広がっていくと、人間は肌を真っ黒にして倒れていた。犬も猫も牛も馬も、四肢を宙へ投げ出して転がっている。不気味な骸骨が増え、人々の涙が描かれ、中には街を去って行くものの姿もあった。
「……病、か? 初めに病んだのは人ではなく……神? それが、人間にも?」
 滅びる前の聖アガタにて、その歴史を伝えようとした職人が織り上げたのだろうか。
 神が罹患する病であれば、人間など手も足も出なかった可能性は高い。
 それが、あっという間に蔓延し、対策を講じる間もなく滅亡したということなのかもしれない。
「いや……まあ、いい」
 しかし、由良の、滅亡の原因への興味は持続しない。
 まずこの光景を、心惹かれるまま、心の赴くままに撮り歩きたい、由良の行動理由など、それだけなのだ。
「……神殿や城にも行ってみるか」
 そこにある、黒々とした空間や、温度の低い、静かな景色を撮りたい。
 そういう思いが由良にはある。
 無論、誰に邪魔されるものでもなく、由良は進行方向を変える。
 ムジカはどうしているのかと、一瞬ちらりと見やるが、どうせついてくるだろうと特に構わず、歩を進めた。
「……」
 ムジカはその間、ぼんやりと廃墟を眺めていた。
 由良が移動するのへ、雛のごとく黙々と――いっそ従順について歩きながら、精神は別のところで、別の何かを見ているようでもあった。
 心が疲労しているな、という自覚は少なからずある。
「ああ……」
 歩きながら、水底の集落を目にして、思わず声がこぼれた。
 この、ずいぶん低い位置にある集落は、大雨かそれとも洪水かで、水が流れ込んだときに沈んだものであるらしい。しかし、水に沈んだがゆえに植物には侵蝕されず、在りし日の姿を保っているのだ。
 覗き見たそれは、想像以上に、当時の様子をとどめていた。
 水苔や水草が繁茂している箇所もあるが、地上ほどではない。
 静謐な、昏く清らかな水の中で、家々はまるで、今もそこで営みが続けられているかのように、ゆらゆらと揺らめいて見える。
 その揺らめきをじっと見つめていると、記憶の中から、懐かしい光景が浮かび上がってくる。それは、幻想と追憶の中で聴いた、小鳥たちの囀りを伴っていた。
 同時に脳裏をよぎるのは、モノクルをかけた初老の紳士だ。
 気難しげな表情をしていることが多いが、その内側にある繊細さ、理知、深い思索を、ムジカは知っている。
 ――エイドリアン・エルトダウン。
 彼が、あの、記憶に捧げられる鎮魂歌の収集を依頼し、ムジカはそれに応えた。
 そこから始まった縁だった。
(面倒だ)
 ふと、そんな意識が、水泡のように浮かぶ。
(正義と善意の押し売りには、辟易する)
 直近の、彼に対する、一部の人々の素行――独善にうんざりしている、というのが正直なところだった。そういったものが、風のように生きるムジカを縛り、彼の意識を重く押し込めている。
 今は、他人に気を遣われるのも、自分が遣うのも億劫で、体裁を取り繕えそうもなく、だからこそムジカは由良の傍にいることを選択したのだった。
 むろん、彼の聡明で冷静な意識の一部は、理性的で誠実な人々は間違いなくいること、その人たちと分かち合えるものがあることも、理解してはいるのだが。
 と、また、強い風が吹いて、
「……あ」
 あの、荘厳でものがなしい音楽が響いた。
 聞き耳を立てると、それが王城から聴こえてくることがはっきりと判った。
 都合のいいことに、由良はそちらへ行くつもりのようだ。



 3.神々の祈り

 神殿には、霊威とでも言うべき、不思議な空気が漂っていた。
 千年の間にいかなる天災に見舞われたものか、あちこちが崩れ、陥没し、流れ込んだ水のために泉へと転じている箇所もあったものの、草に埋もれた街とは一線を画し、ここは確かに聖域のままだった。
 柱の彫刻、壁のレリーフ、天井のタイル画。
 手入れするものとていないのに、在りし日をはっきりと思わせるだけのかたちをとどめたそれらから、未だここに息づくあまたの祈りと信仰を、彼らは感じ取ることが出来た。
 崩れた天井の隙間から、金の色をした陽光が差し込み、柱に刻まれた百合の花を瑞々しく浮かび上がらせる。時おり聞こえる水音が、心を静かに、清らかにする。誰もいないと判るのに、なぜかここは、誰かの想いに満たされて、穏やかだ。
「竜刻につくられた神……か」
 ニコは、壁の浮き彫りに指を添わせ、なぞりつつつぶやく。
「それは、どんな神さまだったんだろう。王国の興亡を見つめていたのかな……そしてそれは、今もまだここにいるんだろうか」
 独白とともに天井を見上げる。
 創世神話だろうか。そこでは、丈高い男神と美しい乙女神が手を取り合い、緑を、生命を、文明を生み出してゆく様が描かれている。赤い獣は、生み出された世界を護っているようだった。
「神々や王様たちは、何を願って何を祈ったんだろうな」
 途中で行き逢ったアキもまた、ニコと同じように天井のタイル画を見つめていた。その、深海のような青の眼には、純粋な興味と好奇心、そしてこの滅びた国への好意があった。
「俺には神も王もいねぇし必要だとも思わねぇけど、そのくらい皆に愛された存在なら、ちょっとくらい会ってみてぇって気はする」
 ニコはうなずく。
「故郷の人間たちは、神はいると信じていたけれど……僕は、実際に会ったことはなかった。ここでなら、会えたんだろうか。根幹を異にするものたちが、共存を果たしたというここでなら」
「そうだなあ。俺は、その、共存の一場面を見てみたかった、と思う」
 アキの眼は、奇跡的に遺されたステンドグラスを見上げるテリガンへと向けられていた。カラカルの姿を持つ悪魔は、やはりどこか所在なげに、寄る辺をなくしたような表情で、色とりどりの窓を眺めている。
「……こんなに綺麗なかたちで残ってるのに、なんでここは廃墟になったんだろう? 疫病? 災害? 記録が残ってりゃ、ちょっとは判るのかな。戦争や略奪って感じじゃないよなあ、だったらこんなふうに、綺麗なままでは残らないもんな」
 テリガンの独白を耳にしながら歩くと、祭壇のある大広間へ出た。
 そこは大半が水没していて、あちこちが自ら光を放つ水晶によって照らされている。
 水底に沈む祭壇は、滑らかな大理石を切り出したもので、美しくはあったが驚くほど簡素だった。
「疫病……は、正しいかもしれねぇな」
 何かを感じ取ったらしく、アキが額を押さえる。
「アキ、大丈夫?」
 迷宮でのことを思い出したのだろう、テリガンが言うが、アキからはかすかな笑みと首肯が返った。
 それから、アキは、大広間の、水没していない床を指差す。
 目を凝らすと、薄暗さに紛れて判り辛いものの、明らかに石や木の枝ではない、白い棒をあちこちに見出すことができる。岩にしてはやけになめらかな楕円を描く、白くて丸い塊を見ることもできた。
 そこにおぞましさはなかった。
 ただ、やけに、ものがなしいだけだ。
「最期の祈りを感じる」
 アキがぽつりとつぶやいた。
 ニコとテリガンは顔を見合わせる。
「どういうこと?」
「じゃあ、この骨は……たくさんの人たちが、ここで亡くなったっていうことなのかな。伝染病で、逃げることもできずに? 最期に、神にすがろうと?」
「でも、だったら、神さまは、この国が滅んでゆく様を、朽ちてゆくところを、全部見てきたってこと? 見てただけだったってこと?」
 わずかににじむ憤りに、アキは首をかしげる。
「いや……うん、どうなんだろう。俺の精神感応は、過去視にはそれほど特化してねぇから、全部を拾いきれるわけじゃねぇけど」
 痛むのか、それともあまりにもたくさんの情報が流れ込んでくるからなのか、額を押さえたまま、アキは祭壇の間をぐるりと見渡す。
「最初に病んだのは神だったような感覚がある」
「えっ」
「神さまが?」
 驚きの声を上げるふたりへ、ああ、とうなずき、
「竜刻のエネルギーが枯渇したのかもしれねぇな。神々は病み、それがやがてかたちを変えて人間や獣へと伝染した」
 アキは、悼みの眼で祭壇を見下ろした。
 神殿に刻まれた記憶なのか、それともわずかにたゆたう神の残滓なのか、アキの意識へと災厄の光景が映り込む。
 己が最期を悟った神々は、人間たちにここを棄てて逃げるように言った。しかし、神も国も見捨てられぬと、彼らに殉ずると、ここでしか自分たちは生きる意味を持たないのだと、残ったものも少なくはなかった。
 神は死に、神とともに王もその一族も絶え、彼らを愛した人々もまたその場に残り、最期を受け入れた。
 それは、なんとせつなくいとおしい、命とこころの在りかただっただろうか。
 テリガンは祭壇を見下ろし、きゅっと唇を噛んだ。
「神さまは、どんな思いだっただろう。自分が護ってきた国が、人々が、自分たちの病気のために死んでいく、なんて」
 この廃墟に満ちる愛と哀しみはそのゆえか。
 奇蹟的に保たれたもろもろは、滅び、朽ちてゆきながら、神が遺した祈りの結果か。
 と、ニコが、ピエドラ・ディ・ルナを手折り、泉へと捧げた。
「こうすれば、神々に届くかな。もしかしたら、僕らがここに来る最後の旅人かもしれないし、せめて……ね」
 こうべを垂れ、もはや想いのみを残してここにはない神々への敬意を表し、
「僕は王国の住人ではないし、ひとでもないけど。その辺は大目に見てほしいな……だって、それでも、あなたたちの護った王国を、僕はとても愛おしく感じるから」
 ひとつ、ふたつと、花を泉へそっと放る。
 花は白くあおく光を放ちながらゆらゆらと揺らめき、ゆっくりと沈んで行く。ゆらりゆらりと、澄んだ泉の底へ――祭壇へと。
 アキはそれを、静かな深海色の眼で見ていた。
「俺の故郷じゃ、現在進行形で泥沼の戦争をしてるんだけどな。それは上流階級同士の、宗教がらみの醜い諍いが発端なんだ。だから俺は、為政者や神さまなんてものには、あんまりいい思いを持っちゃいねぇ。……だが、ここは、故郷とは違うみてぇだな」
「……うん。オイラは、神の傲慢にずっとずっと憤ってここまで来たけど。だけど……本当はどうだったんだろう。神は、本当に傲慢なだけだったんだろうか。もしかしたら、オイラはひとつの方向からしか、それを見てなかったのかもしれない。もしかしたら」
 カラカルの大きな眼が、水分を孕んで揺れる。
「だけど……だったら、なんで。どうしてセシルは、死ななきゃならなかったんだ……」
 ぐす、と鼻を啜り上げ、テリガンは袖で目元をぬぐう。
 その肩を、アキがぽんと叩いた。微笑には共感といたわりがあった。
「アキ?」
「あんた、さっき『力』ってなんだろうって言ったよな」
「うん」
「そいつは、今のあんたみてぇなことを言うのかもしれねぇって、俺は思うんだよな」
「……?」
「新しいものを見つけるのも、誰かを――自分を許すのも、『力』だろ?」
「あっ」
 目を瞠るテリガンの背中を、アキはまたばしばしと叩いた。
「い、いたた、痛いって……!」
「神を憎めなくなったあんたは、もう解放されてるんじゃねぇの? その力を何か別のことに使ったって、許されるんじゃねぇの?」
 馬鹿力に抗議の声を上げたテリガンだったが、いたわりの言葉に泣き笑いの顔をした。
「……そう、なのかなあ」
「おう」
 自信たっぷりにアキが答えたところで、
「わ」
 不意にニコが声を上げた。
 何ごとかと見やれば、彼の見つめる先で、泉がわずかな光を放っている。
「え」
 鼻を啜り、顔を上げたところで、テリガンは見たのだ。
 丈高い男神と、豊かな髪の乙女神と、勇壮な神獣の幻が浮かび上がるように現れ、風が吹き、花が匂い立つような感覚があって、そして。
「……セシル!?」
 思わず声が出た。
 そこには、彼の無力と神の傲慢によって命を落とした――そう思っていた――少女が佇んで、テリガンを見つめているではないか。
 その邂逅はわずかに一瞬。
 しかし、テリガンには判った。
 少女が誰も恨んではおらず、テリガンの無力を責めてもいないことが。
 なぜなら彼女は、踵を返すように消えてゆく寸前、確かに、テリガンを見つめて微笑んだのだ。はっきりと、明るく、花がほころぶように。
 そこに込められたたくさんの想いに至れないほど、テリガンは鈍くも、彼女に対して冷淡でもなかった。
「セシル……!」
 カラカルの大きな両目から、大きな雫がひとつふたつと零れ落ちていく。
 ニコとアキが、そっと彼の肩を叩き、背を撫でた。
「……うん。うん……!」
 ぽろぽろと涙がこぼれた。
 けれどそれは、許容と甘受、そして解放の歓びに満ちてもいたのだった。



 4.イニシエノウタ

 王城には先客がいた。
 玉座の間で、雨だれのように音楽を奏で、歌を捧げているのは、パラディーゾを携えた神楽だ。
「あれ」
 理比古とヒナタ、由良とムジカは、別々のルートからここまでやってきて鉢合わせた。
 笑って手を振るふたりに対して、まだ本調子ではないムジカは、わずかな会釈をするに留めたが、理比古もヒナタも、特に気にする様子はなかった。
「ふたりも、音楽の謎を調べに?」
 理比古は、王城の屋上にあたる場所への階段を気にしている。
 何かを察し、由良が興味を向けた。
「……もしかして」
 ぼそりとしたそれに、理比古が眼を瞬かせ、それからふわっと笑った。
「あ、由良さんも思った?」
 そこへ、 
「……暴いて途絶えるものなら、無理には」
 ムジカが低く言う。
 ムジカもまた、かの音楽には――その奏者には興味がある。
 中へ入り、確かめられるものなら、という気持ちもある。
 しかし、彼の思いのすべては、その言葉に集約されてもいた。
「森の中に棄てられたピアノを雨が打ち、音を奏でることもある。それは偶然と必然の妙だ……自然が音楽をつくりだすことは、理解できない話じゃない」
 だからこそ、とムジカは言うのだ。
 ひとが無理やり踏み込むことで、世界と生命の奇蹟のようなその『音』が失われるのであれば、手を出すべきではないし、出したいとも思わない、と。
 それは、昨今、彼がひどく哀しみ、憤った一連のできごとと似てもいて、ムジカがつい声を上げてしまったとしておかしなことではなかった。
 とはいえ、理比古は、直接にではないが、かかわりのある人でもあるから――そして、とても思慮深く思いやりのある人物でもあるから、ムジカの気持ちが判るのだろう。穏やかに微笑んで、
「大丈夫……だと、思うよ」
 ねえ、由良さん、と同意を求める。
 由良はぶっきらぼうに頷き、屋上へと向かう階段へ足を向けた。
「何か判るのか、由良」
「……予想にすぎないが」
 由良の返答は素っ気ない。彼が素っ気ないのは、誰に対しても、いつものことでもあるが。
 しかし、ムジカは知っているだろう、由良が、今回の探索において、無理やり壊してでも踏み入り、写真を撮ろうなどとはしなかったことを。
「なら、おれものぞかせてもらおうかな」
 心を動かされ、ムジカもまた由良たちのあとを追う。
 先刻のような茫洋とした空気は和らぎ、少しずつ、いつもの彼が戻ってきているようだ。
 男四人で、長い、苔むした螺旋階段をゆっくりとのぼる。
 のぼった先の出口から、白い陽光が差し込んでいるのが見えた。
 最上層まで辿り着いた、と外へ踏み出せば、
「わあ」
「へえ……」
「ふむ」
「ああ……なるほど」
 四者四様の声が上がる。
「これを……奇蹟というのか」
 ムジカが感嘆の色をにじませ、つぶやく。
 そこは、石造りの天蓋に覆われた、広いテラスの様相を呈していた。石造りのテーブルと椅子が見受けられることから、天気のいい日には、王族や、王城に出入りする人々がお茶など楽しんだのかもしれなかった。
 しかし、彼らの目を惹いたのは、それではない。
 テラスの片隅には、いくつかの楽器が整然と並べられていた。
 大きく、頑丈につくられた楽器たちだ。
 天井からは青銅の鐘が下がっている。木琴、鉄琴、それから竪琴。
 千年を経ているはずなのに――石タイルを敷き詰められた床の様子からして、誰かが手入れに訪れた形跡もないのに、汚れてはいたもののそれらは未だ朽ちておらず、静謐に佇んでいる。
 ときおり、風が吹くと、どこからともなく枝や葉や小石が運ばれて、楽器に当たる。風がそのまま、鐘を揺らすこともあった。
 すると、楽器たちは、驚くほど澄んで大きな音を立てるのだ。
 見れば、楽器の近くには、ベルにも似た、音を増幅させる設備が設置されていた。
「強い風が吹くと、奏でられる音楽……風は、天神の祝福……か」
 びょおう、一陣の風が吹き抜ける。
 運ばれてきた小枝や枯葉、小石が鍵盤を叩き、弦を爪弾く。ふいと飛んできた小鳥が鍵盤にとまり、つついて音を立てたこともあった。
 それは深く、殷々と響き、辺りを満たした。
 歓び多き青銅の竜が天より降らす祝福の声。
 遥か遠き過去より続くいにしえのうた。
 そんな、幻想的な――この世界に、今や竜はいないが――言葉と光景が脳裏をよぎり、音が視界を揺らす。
 ――魂も揺れたのかもしれない。
 由良が息を飲み、カメラを構えた。
 彼に何が見え、何が感じられ、何を思ったのかはわからないが、この音楽は確かに、由良を揺さぶっていた。
 静かにシャッターが切られる。
 音は、そこに残りはすまい。
 由良にもそれは判っているだろう。
 判っていて、撮りたいと、写真という手段の中に切り撮ってみたいと願うのだろう。撮らずにはいられない業を持つ写真家は、そうやって己の中のアーティスティックな衝動の塊と対峙するのだろう。
「ニコさんたちからエアメールが来ていたね。この国の、滅亡の原因」
 しばし聞き入ったのち、理比古がぽつりと言った。
 ヒナタがうなずき、やるせない表情をする。
「神さまも歯がゆかっただろうけど、国民もたまらんよな。今まで自分たちを護ってくれた神さまを、助けてやることも楽にしてやることもできなかったっていうんなら」
 存在の根幹こそ違えど、お互いに愛し、愛されたものたちが、お互いを救うこともできずただ滅びを待つしかなかった。
「ここはもともと、国の人たちに音楽を届けるための設備だったのかな。風は神さまの祝福らしいから、強い風が吹くごとに鳴る音楽を、当時の人たちは貴んで、喜んだんじゃないだろうか」
 それゆえに、この設備は、神が――国が滅びたのち、鎮魂の旋律へと転じたのかもしれない。
 ヒナタは、風が奏でる楽器を撮影しながら、飛び込んできた小枝が、ひときわ高く美しい音を紡いだのへ目を細めた。
「ここに来た皆が思ってるよな。神さまなんてもうどこにもいないのかも知れないけど、確かにその心が満ちてる、って」
「うん。だからこそ、この設備は、朽ちも崩れもせずに残っているのかもね。今はもう眠る人たちに、鎮魂の音楽を届けたい、って、神さまたちが思っているのかもしれない」
「いずれにせよ」
 ムジカは、ナレッジキューブで『エイドリアンの蓄音機』を真似た匣をつくりだしながらぽつりとつぶやく。
「奏者の――遺された心の、この静かな楽園へ向ける想いが伝わってくる」
 匣へと音を蒐集し、懐へ収める。
(いつか……彼に聴かせたい。在りかたも事情も理由も違うすべてを受け入れ、すべてがともに生きた国の遺す、この音楽を)
 また強い風が吹いた。
 いったいどこから飛ばされてくるものか、たくさんの木切れや木の葉、砂粒、石くれが、次々と――絶妙の加減で飛び込んできては、神の音楽を紡ぎ、奏でる。
 雨だれのように、山間を揺らすどうどうという風のように、降り積もる雪がもたらす清らかな沈黙のように、秘境の奥で水をたたえ続ける泉の、時おり揺らいで立てる水音のように。
 それは朴訥に澄んで、耳を、心を打った。
「ああ……美しいな。ものがなしいけど、力強くもある。きっとここでは、在りし日にも、たくさんの美しい音楽が生まれていたんだろう」
 つぶやくムジカの唇には、いつもどおりの洒脱な笑みが浮かんでいる。
 楽園そのものが奏でる音楽は、彼の心を洗い、浄めた。
「おお、すげぇな、こんなことになってんのか」
 不意に声がして、見やれば、残りの四人がテラスへとやってくるのが見えた。
 こうべを巡らせると、神楽と目が合って、巫子はかすかな笑みとともにパラディーゾを掲げてみせた。



 5.Musica Sacra

 ごおう、と風が吹く。
 自然が楽器を奏でる。
 まるで、久方ぶりに訪れたまろうどを歓迎し、祝福しているようだった。
「なら……お返しをしなきゃ、甲斐がない」
 ムジカはヴァイオリンを構える。
 目くばせをすると、神楽もそれに倣った。
 音楽家らしい指先が、とんとん、とリズムを取る。
 ふっ、という一拍の呼吸とともに、双方、同時に弦へ弓を当てた。
 ――瞬間、あふれだす音の塊。
 楽園の音楽に、神の造作とでもいうべき音色が重なり、増幅され、空を渡って廃墟全体に響き渡る。
 由良がカメラを構え、シャッターを切る。
 テリガンは鼻を啜りつつもどこか穏やかに聞き惚れ、アキとニコは彼に寄り添うようにしながら、微笑みとともに耳を傾けている。
「ああ……きれいだな。この国の人たちが、神さまや国や王さまを愛した、そのままの想いのようにも感じられる」
 理比古も、穏やかな灰眼で、この、他に聴くものとていないコンサートを堪能している。
 その眼は、王国のたどった、ものがなしくもやさしい終末を見つめているようでもあった。
「俺も、叶うなら最期はこんな風でありたいな」
 終焉願望というよりも、生き切ることで充足を得たいという意欲がそこにはにじむ。
 無心に音楽を捧げるムジカは、いつものように透徹した笑みを浮かべている。
 それをじっと見つめながら、
「音楽は時空を越える芸術らしいね」
 ヒナタがぽつりとつぶやく。
 理比古は小首を傾げた。
「そうなんだ?」
「うん。絵画ってさ、地域性や時勢と少しずれただけで酷評食らったり、その時代や文化背景、象徴的意味合いなんかの下地がないとイミフになったりするから」
「ああ、なるほど、そうかも」
「視覚イメージは、受けるとすぐ、濃が、その表象する現物と繋げて識別しようとするから、そこに齟齬を感じると拒否反応が出るんだろうな……って」
 天の奏でる音楽にそっと寄り添い、返礼とばかりに紡がれる、『人間のつくる音』は、心臓を鷲掴みにするほど美しく、心を揺さぶる。意識が、どこか違う場所へと入り込む。耳から与えられる音楽で脳がいっぱいになり、歓びというかたちをとって、身体中からあふれだしそうだ。
 眼が熱くなるのはなぜだろう。
 ――人間だから、それとも生きているから、だろうか。
「その点、音楽は感性に直接響くから、人類の共通言語なんだってさ。実際、俺も、歌詞不明でも好きな曲ってフツーにあるし……ちょっと羨ましいわ」
 溜息のようなそれに、理比古はなおも首をかしげていたが、ややあって、
「でも俺、ヒナタさんの描く絵、好きだよ」
 それだけ、朴訥な言葉を返した。
 ヒナタはぱちぱちと瞬きをし、かすかに笑う。
「……どうも」
 その言葉尻をさらうように風が吹く。
 神殿にも吹き込んだものらしく、ピエドラ・ディ・ルナが舞い上げられ、きらきらと光を反射したのが見えた。
「覚えてるから、ずっと」
 ニコが囁く。
 王国の亡骸は、歴史の残滓は、もはや緑へと埋もれゆくのみの廃墟は、しかし確かな歓びと祈りを孕み、静かに輝きながら、八人の前に佇み、また、眠り続ける。
 ――悼みの、許しの、享受の、鮮やかな音楽とともに。

クリエイターコメントご参加、ありがとうございました!
遅くなりまして申し訳ありません。

滅びに眠る静かな都での、回想と気づき、悼みと音楽に満ちたひと時をお届けいたします。

皆さん、それぞれのポイントに着目しつつ、さまざまな想像を働かせてくださいましたので、謎とも言えぬ謎は、ほとんど解き明かされたのではないかと思います。

また、皆さんが聴かせてくださったお心を、記録者はとても美しく感じました。この静かで物悲しく美しい場において、それをお見せくださったことに感謝いたします。

細々と捏造させていただきましたが、それも含めてお楽しみいただけましたら幸いです。


それでは、どうもありがとうございました。
またのご縁がございましたら、ぜひ。
公開日時2013-09-11(水) 00:00

 

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