オープニング

 インヤンガイのとある廃ホテルで、モウ探偵が忽然と姿を消した。
 彼の相方のリウ曰く、「断末魔の悲鳴が聞こえた後、音沙汰が無くなってしまった」との事だった。
 彼女はさめざめと目元を拭いながら懇願する。
「お願いですから一刻も早く探し出して貰えませんか。ワタシ、心配で心配で──えっ? そんなに目を腫らす程相方さんが心配なんですねお気持ちお察しします? いえ勿論モウの事は心配なんですが、実は彼が所持しているメモリーカードがとてもとても、とっっても! 重要なものなのです。なので、もしあのメモリーカードがどうにかなっていたらと思うと、気が気じゃなくて……あ、いやいや、モウの事は心配ですよ。それはもう夜も眠れない程に。ああ~~あの大事な大事なメモリーカード、大丈夫かなあ~~」
 ──哀れ、薄幸のモウ探偵。
 幸が薄そうなのは、どうやらその顔立ちだけではないようだった。

 ***

「とはいえ、ここに出るらしいっつーぼっぼぼぼぼぼ暴霊って奴ァ、基本的にゃそう凶暴じゃねぇらしいんだよ。勿論中には居る可能性もあんだが、なんでもどっちかつと人間を驚かす方がゲホッ、好きとかいう奇異な輩らっしいからよ、今回は一つ軽~い肝試し気分で、モウ探偵とメモリーカードをササッと見つけ出して、ババッと脱出するっつー方向で……」
「わー、とっても大きなホテル!」
「いかにもって感じだな……」
「やあこれは出そうですねえ」
 いざ件のホテルを目前にしてもぶるぶる震えっぱなしのキアラン・A・ウィシャートの言葉は、哀しきかな誰の耳にも入っていなかった。
 大きな瞳を瞬かせてレトロな外装を見上げる南雲 マリア、依然としてクールな佇まいを貫くリエ・フー、ぽかんと口を開ける仁科 あかり──そもそも、今の説明はロストレイルの中で既に周知となっていたのだった。屈強な外見を裏切るビビリ屋のキアランは、立ちはだかる暗い建物を前に先程から冷や汗が止まらず、何か喋らない事には落ち着いていられない。脇に控えるティリクティアがちらりと彼を仰ぎ、さも楽しげにほくそ笑む。
「ふふ、キアランってばやっぱり怖いのね」
 この言葉はキアランの心にもれなく100のダメージを与える。
「バッ! いやだから違ェってティア、俺ァ決して、決してこの間と同じ轍を踏んだりは」
「で、でも本当に怖い幽霊が出そうですね、昼なのに、この暗さ……ああやっぱりやめておけばよかったかなあ……」
「……」
 背後で同じく震えている福増 在利のぽつりとした呟きがズシンとキアランにのし掛かる。
 ニコ・ライニオはそんな二人を鼻で笑い、さらりと髪を掻き上げる。
「全く君達、ここまできてビビッてるようじゃ男が廃るぜ?」
「とか言うおめぇはさり気なく一番遠い所に居んじゃねェかこっち来い!!」
 と、いつまで経ってもやいのやいのと騒ぎ立てる仲間を見咎めたパティ・ポップがあきれ顔で釘を刺す。
「みなさん、そろそろ出発しませんこと? 一応急ぎのご依頼なのでしょう」
 どよめきは途端にピタリと収束する。
 キアランは頬を掻いて深呼吸した。
「そ、そうだな。行くか、行かねェとな。行くぜ!」
「おうおう早いとこ済ませちまおうぜ!」
「ね」
 早くもペアの舞原 絵奈と手を繋いでいるベルゼ・フェアグリッドが揚々と声を上げ、舞原もおっとりと同意する。

 泣いても笑っても、もはや引き返す事は出来ない。
 荒廃したホテルの中で、ロストナンバー達は無事モウ探偵を見つけ出す事が出来るのだろうか──。



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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返

却されます)になる場合があります。


<参加予定者>
キアラン・A・ウィシャート(cese6575)
ティリクティア(curp9866)
南雲 マリア(cydb7578)
仁科 あかり(cedd2724)
舞原 絵奈(csss4616)
福増 在利(ctsw7326)
ニコ・ライニオ(cxzh6304)
ベルゼ・フェアグリッド(csrp5664)
リエ・フー(cfrd1035)
パティ・ポップ(cntb8616)

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品目企画シナリオ 管理番号2169
クリエイターthink(wpep3459)
クリエイターコメント はじめまして。このたびは企画シナリオのオファー有難うございます。
 キーワードは肝試し、ギャグ、ホラーとの事ですので、基本的にギャグベースのシナリオになります。
 シリアスや本格的なバトル方面に流れるのは難しいと思います。あらかじめご了承下さい。


◆廃ホテルについて
 薄ら寒い空気が漂う築100年越えの廃ホテル。
 朝も昼も関係無しに薄暗い。
 広大な敷地の周囲に張り巡らされたフェンスはその殆どが破壊されており、コンクリート造りの建物外壁にも罅、割れ、落書きなどが目立つ。
 人が通れる穴が開いている場所もある。謎の血痕が残っている場所もある。
 天井や床が抜けかけている場所もあり、全体的に脆く極めて危険。
 部屋数は120程で内装は階ごとに同じ。
 階が上になるにつれランクが上がっていく事が伺えるが、3階から上の階段は壊れていて上がれない。
 入り口を入るとロビーがある。
 各客室には寝具、浴室、トイレ、クローゼットなど、壊れている物も多いが一般的なホテルにある設備が備え付けられている。

◆亡霊について
 人間を脅かすのが大好きな黒い影。シルエットの形状は様々。
 ホテル内に無数に存在している上、物理攻撃が利かないため退治は困難。
 唯一の弱点は「光」だが、こちらから攻撃しない限りは敵意が薄い。
 あまりにも危害を加えすぎると怒りだすので注意。

◆ペアについて
 ・キアラン・A・ウィシャート(cese6575) & 仁科 あかり(cedd2724)
 ・福増 在利(ctsw7326) & ティリクティア(curp9866)
 ・ベルゼ・フェアグリッド(csrp5664) & 舞原 絵奈(csss4616)
 ・ニコ・ライニオ(cxzh6304) & 南雲 マリア(cydb7578)
 ・リエ・フー(cfrd1035) & パティ・ポップ(cntb8616)

 こんな感じに組ませていただきました!

◆プレイングについて
 最終的には全員合流して撤退の予定ですが、基本的にペアでの肝試しと言う事からペア2人の描写が大半になります。
 なので「ペアの方とどこを中心にどのように探索するのか」「亡霊と遭遇した時の反応」などを中心に書いて下さい。

◆モウ探偵について
 多分積極的に動いた方が見付かります。
 気持ち的に「肝試し>探索」の心で書きたいので漠然としています。
 怖くてものしのしと進む方が多ければ見付かるかな、位のあれです。


 それでは、いってらっしゃい肝試し!
 プレイング楽しみにお待ちしております。 

参加者
ティリクティア(curp9866)ツーリスト 女 10歳 巫女姫
ニコ・ライニオ(cxzh6304)ツーリスト 男 20歳 ヒモ
ベルゼ・フェアグリッド(csrp5664)ツーリスト 男 21歳 従者
リエ・フー(cfrd1035)コンダクター 男 13歳 弓張月の用心棒
福増 在利(ctsw7326)ツーリスト 男 15歳 蛇竜人の薬師
舞原 絵奈(csss4616)ツーリスト 女 16歳 半人前除霊師
南雲 マリア(cydb7578)ツーリスト 女 16歳 女子高生
仁科 あかり(cedd2724)コンダクター 女 13歳 元中学生兼軋ミ屋店員
パティ・ポップ(cntb8616)ツーリスト 女 25歳 魔盗賊にして吟遊詩人
キアラン・A・ウィシャート(cese6575)ツーリスト 男 40歳 万事屋

ノベル

◇キアラン・A・ウィシャート&仁科 あかり

「前回のような醜態は晒さないぜ! 今回はワイルドに優雅に大人の余裕でクリアしてやるよ! なーんて意気込んでたキアランさんは、一体どこに行ったんですかねえ」
「……」
 陰気な気配の漂うロビーへ出るなり目に見えて大人しくなったキアランに、仁科がしれっとツッこみを入れる。その肩に乗るセクタンのモーリンも、主人と揃いのヘルメットを纏う小さな頭をカクカクと動かし、追い打ちを掛けた。
 キアランは頬を引き攣らせるばかりで何も言えない。
 なにせ幽霊もホテルも暗いのも怖いし、本音を言うと今すぐ帰りたいのだ。だが先に出発したティアの事が心配だし、探偵も見つけ出したいしで八方塞がりの心境である。
「そ、そうは言うがなァ世の中にはなあ、どどど、どうしようもねえ事っていうのも存在すんだ、よ。うぅ、か、懐中電灯もう全身につけたいほど欲しい……」
 どもり気味の震え声で言い訳しながら、名残惜しげに入り口を振り返る。
「キアランさんキアランさん」
「あ?」
 不意に肩を突かれ、キアランは涙目のまま仁科に目を戻した──つもりだった。
 だがそこには青白い光にぼうっと照らされた余りにも禍々しい人頭が浮いており、時が止まる。
 ひゅ、と息を呑む音が鳴り、次の瞬間絹を裂くような悲鳴が迸った。
 キアランは鬼気迫った形相で飛び退き、勢い余って取り落としそうになる懐中電灯を慌てて握り直す。棒状の光が、忙しく上下に揺れる。
「くぁqwせdrftgy!!」
「ぶっ、あっはははは!!」
「……!?」
「わたしです」
 トラベルギアの仮面を颯爽と取り払い、仁科が満面の笑みを浮かべる。
 キアランはぽかんと口を開き、全速力で彼女に突進する。
「おっおおおおおっおめぇえこんにゃろう! 死ぬかと思ったじゃねぇかぁああぁ……!!!!」
 しかしとっ掴まえようと伸ばした腕はさらりと躱され、束の間の追いかけっこは廊下の突き当たりに至るまで続く。それも、キアランのテンションが徐々に下降するにつれ自然と収束した。その頃にはちゃっかりと仁科の服をつまんでおり、男らしさのおの字もない。
「でもわたしもほんとは怖いんですよ」
「う、嘘吐くんじゃねぇよ。全然平気そうな顔に見えるぜ」
「うーん、怪談とかお化け屋敷は好きなんですけどねぇ、ガチはちょっと。今みたいにテンション上げないとやってられませんよう」
「ぐっ」
 暴霊の存在を信じたくはないが、『ガチ』の単語にすら反応してしまう。
 前進していると罅割れた案内板が階段を示していることに気付き、キアランは逸らすように続ける。
「……そこ右に行こうや」
 仁科は頷き、共に右に曲がる。
「俺が、思うにだな。探偵の悲鳴っつーのは、ぼ、ぼぼ暴霊とかいねぇ訳だからさ、階段で足滑らしたんじゃね……?」
「どうですかねぇ」
「絶対そうだって。いねぇから、さ。そんなもんは。……この階段上まで調べてよ、そんでそのまま3階フロアから下っていくスタイルで探索するのはどうだよ」
「おっ、いいかもです。ねえキアランさん、今初めてキアランさんのこと大人なんだなって思い直しました」
「そ、そうだろお! だっから言ったじゃねーか今回は優雅にワイルドに大人の余裕って奴をだな!」
 言う割にへっぴり腰のキアランを引っ張り上げ、相変わらず仁科の先導で階段を上る。二つの懐中電灯の明かりが心許なく足場を照らし、一歩進むごとにカツン、コツン、と重い足音が木霊する。コンクリートの壁には、必要以上に音が響く。
 額に浮き始める冷や汗を拭い、キアランがそろりと仁科を窺うと、その横顔にはまだ幾分の余裕が感じられた。
 2階の踊り場を踏むと同時に、キアランはぽそりと呟いた。
「あ、あのよ」
「はい?」
 仁科が瞬き一つで振り向く。当然のように声も反響する。キアランは一つ身震いし、
「さっきはああ言ったが、か、かかか仮に。仮にだぞ。暴霊がいたとしてだな、そん時はどうする?」
「あー、そうですね。とりあえず幽霊ってのは"陽"のものが苦手っていうのが定説なので、懐中電灯を向けてみるのがよさそうですね」
「うん、うん」
「後は下ネタで追い払った体験談もネットで見ました」
「へっ?」
 しきりに頷いていたキアランの動きが止まる。仁科はそんな男へちらりと流し目を送り、にんまりと口角を釣り上げた。
「万一の時は、ちん○んを出すといいかもです。私は見ないから大丈夫!」
「なっ、ちん……!?」
 衝撃。青天の霹靂。あまりにも斜め上の言葉に驚き、まるで雷に打たれたように目を剥いたキアランは束の間恐怖すら忘れた。
 それからそっと視線を逸らし、生娘のようにほんのりと頬を染めて目を伏せる。
「お、お嬢ちゃん、見た目によらず大胆なんだなァ。おっちゃん、年甲斐にもなくちィとドキッとしちまったぜ」
「いや、見ないから。見ませんからってば。あ、ねえねえ、もう3階ですよ」
「げっマジかよ……!」
 慌てて周囲を見渡すが、当然人が倒れたりはしていない。「モウ探偵階段から転倒説」を打ち砕かれて竦み上がるキアランの腕を、仁科はやはり容赦なく引く。その向こう側にずらりと連なるのは、物言わぬ客室の扉達だ。
「さ、行きましょうキアランさん。こうなったら扉一つ一つを開けて探すっきゃないです!」
「ちょ、ちょちょちょ待て、待って、まだ心の準備が!」
 必死に頭を振って猶予を請うが、仁科の手はあれよあれよという間に手近な扉のノブに触れる。
「だいじょーぶですって! ほら、怖いの誤魔化すためにも歌いながら行きましょ! ♪おばけなんかなーいさ」
「ぅう、お、おばけなんかなーいさ」
「♪おばけなんかうーそさ」
 錠は生きているようで、ノブはすんなりと回った。
「♪ねーぼけーたひーとがー……ROCKYOU!」
 歌詞が急展開を迎えると同時に、仁科は思い切りよく扉を押し開いた。
 キアランが首を竦めてきつく瞑目する。一瞬の沈黙。だが、何も異変は起こらない。
 そろりと目を開いてみると、扉の向こう側に化け物が待ち構えているようなことも無かった。
「ね? わたしたちの勢いに暴霊も気圧されて出てこないのかもしれないですよ」
「そ、そうか。よっしゃ、ちィとだけ元気出た」
 ほっと胸を撫で下ろし、いい加減に仁科の服から手を離すと、キアランは今までの分を取り戻す勢いでズンズンと前に進み出た。
 細い明かりで照らし出される室内は、予想外に整然としている。窓が割れている様子も無ければ床が割れている事も無い。
 ふと壁のスイッチに気付いて押して見るが、流石に電気は死んでいるようだった。急に軽快に動き出したキアランの横合いから、仁科が笑い混じりに声をかける。
「あれれ、キアランさん漸く調子を取り戻したんですかね?」
「おうともよ。流石の俺も、最初から最後までビビリっぱなしって訳にゃいかねえからな! この調子でとっとと調べちまおうぜ!」
「はあーい」
 そう広くはない室内を手分けをする形での探索が始まる。仁科はベッドサイドに寄り、埃塗れのシーツの上に光を当ててからサッと下を覗く。トイレを開く。キアランはなんだかんだで嫌な汗を掻きながらも、意を決してクローゼットを押し開く。が、やはり何が飛び出してくることもない。空っぽの収納庫にホッとして胸を撫で下ろす。
「キアランさーん、居ましたか?」
「いや、いねえいねえ。多分ここにゃ何もいねえ、っつーかどこにも何もいねえよ絶対ェ!」
 幾分緊張感の抜けたキアランの手が、バスルームの扉に掛かる。勢い付くままバッと開いて振り向き、
「ほーら、……」
 そこで、こちらを凝視する仁科と目が合う。
 薄暗い中にも関わらず気付いてしまった。仁科の顔からは、一気に血の気が引いて強張っている。
 キアランは一拍を置いてゆっくり、ゆっくりと頭の向きを戻した。
 心臓が早鐘を打ち始めるのが分かる。
 解放したバスルームの内装は見えなかった。
 上から下までびっしりと、まるでこちらを覗き込むように折り重なって顔を出す夥しいほどの人間のシルエットが邪魔をしたからだ。
 血走った無数の目玉がギョロリと動き、一斉にこちらを向く。
「──な? 誰もいないな?」
 キアランはにこりと微笑み、静かに扉を閉めた。

 直後に響き渡る阿鼻叫喚、客室から疾風のように飛び出て引っ繰り返ったキアランの首の根を取っ掴み、仁科はマラソン選手もかくやという勢いで駆け出す。

「ぎゃぁあぁぁあぁああああーーッ!! 出た、出たぁあァーッ! うぁあ゛、ぁああぁああ゛ーッ!!」
「おおお、おっぱいぱいー!! う○こー!! ちんち、キアランさん○んちん出して!! わっ来てるよ、追って来てるう!!」
 錯乱した二人の叫び声は長く高らかに尾を引き、嵐のように遠ざかって行った。



◇福増 在利&ティリクティア

「──あら?」
「ど、どうかしましたか?」
 一階の廊下を歩く最中、ふと途切れる会話と立ち止まる少女に驚き、福増は恐る恐る声を掛けた。
 対するティリクティアは首を振り、くすくすと吐息を弾ませる。
「今、叫び声が聞こえたような気がしたの。上の方からよ」
「ええっ!? 本当ですか? ぼ、僕には何も……」
「在利は私よりずっと恐がりさんだものね。それどころじゃなかったんじゃない?」
「うぅ……」
 繋いだ手を握り直し、自分より大きな癖に、随分と小さく見える青年の顔を覗き込む。
 怯える竜人の表情に微笑みかけて視線を外し、ティリクティアはどこか憂うように頭上を見上げた。
「今のはきっとキアランの声だわ。励ましたのに、この調子だとちょっと心配ね」
「あ、あの」
 先行く幼い背中に福増は呼び掛けた。
 妙に響くように感じられる自分の声音すらも恐ろしい。心許ないランタンの明かりは足下を照らすのに精一杯で、前後左右どこまでも深い闇に閉ざされている。
「なあに?」
「ティリクティアさんはその、ゆ、幽霊って怖くないんですか……?」
「まさか!」
 ティリクティアは肩を竦め、福増をちらりと一瞥した。
「怖いわよ。薄暗いさびれたホテルって、いかにもって感じだしね」
 言う割に躊躇いなく進んで行く姿は随分と頼もしく見える。福増は身を小さく丸めるまま、ぽつぽつと呟く。
「ぼ、僕はそのぉ……。元いた世界で実際に幽霊がいたというか、えと、街中とかにはでてこないんですけど、本当に危害を加える幽霊もいたりとか怖い話を聞かされていて……」
「ここに出る霊は凶暴ではないらしいから、その点で言えば多少マシかもしれないわね」
「で、でも、驚かされるのも危害といえば危害ですよね」
「……」
 ティリクティアは口を噤み、福増をまたもチラリと窺う。福増がきょときょとと瞬くと、揺らめく灯にぼうと照らされる白いかんばせが、愛らしくも人の悪い笑みを浮かべた。
「ねえ在利、ここでたくさんの霊と出会えるといいわね。貴方もキアランと同じように、いーっぱい叫んでいいから、少しでも霊に慣れる努力をなさいよ」
「えぇっ!? そんなぁ」
「男の子の癖に、私の背中に隠れているようじゃ駄目駄目なのよ。頑張りましょうね」
 入り口で絵奈、キアラン、リエに掛けた励ましが、ここに来て福増にも向けられた。背中をポンとされて益々項垂れる青年を尻目に、少女は提灯を高く挙げるようにして連なる扉の様相をつぶさに確認し、やがて一つの前で立ち止まった。扉に耳を宛がって物音を確認。頷き、ノブにそっと手を掛ける。
「……この辺りはまだ調べられた形跡がないわね。さ、開いてみましょうか」
「ゆ……ゆっくり。ゆっくりでお願いします」
「ええ。せー、の」
 ギィ、と蝶番が軋み、緩慢に扉が開いていく。その音にすら肩をビクつかせた福増は、しかし強張るままでも居られず、ティリクティアと共に室内を覗き込んだ。扉が完全に開け放たれると、光が闇を浸食するに伴い、徐々に部屋の内装が見えてくる。ほっと息を吐き、やはりティリクティアから踏み込む。
「……扉を開く瞬間ってドキドキするわ」
「……ええ……」
「……そこのクローゼットは在利が開けてくれないかしら?」
「……勘弁して下さい……」
「もう! 仕方無いわね!」
 少女はどうあっても男らしくならざるを得なかった。大きく息を吸い込み、ティリクティアは意を決してクローゼットを開き、何も無い事を確認しては閉じ、流れるように浴室の扉にも手を掛けていく。福増はその隙に、せめて一つは役に立つべく白のチョークを取り出した。
 扉に描かれる大きな丸印。
 キアラン・仁科組はそれどころでは無かったようだが、これは仲間達との別れ際にティリクティアが提示した探索の方法である。
 『実はチョークを持ってきたの。調べた部屋にはこれで○を書きましょう。こうすれば、同じ部屋を探すっていう二度手間は避けられるハズよ』
「ティリクティアさんは頭もいいし、気も利くし、女の子なのに行動力もあるし……ああでも何でわざわざペアに分けたんだろう、こんなに怖いならそもそも皆で探索した方が……いや、うん。大勢で移動したら探索効率も落ちるし、全体的に脆いらしいから直ぐ床とか抜けちゃうんだろうけど……本当に何で来ちゃったんだろう……」
「在利!」
「っはい!」
 独りごちながら、抜き足差し足忍び足で移動する福増に、ティリクティアの一喝が突き刺さる。
 ピンと伸びた背中に溜息を吐き、少女は腰に手を宛てた。
「クローゼットにも、トイレにも、浴室にも異常無し。貴方の方はどう?」
「僕の方も何も……あ、そういえばベッド周辺も調べるべきなんですかね?」
 言うや否や、ティリクティアが老朽化したベッドの上をそうっと覗き込む。カンテラの明かりに浮かび上がる黄ばんだシーツの表面に、不自然な膨らみが無いことを確認すると、肩を竦めて踵を返した。
 床下から伸びる何者かの手に気付かぬまま。
「確認したわ。どうやらこの部屋には誰もいな……ぃッ!?」
 踏み出そうとした筈が、がくん、と上体が揺れるばかりで突如動けなくなる。左脚に違和感。
 ティリクティアは息を詰め、ゆっくり、ゆっくりと俯いて足下を確認した。
 人間の物にしては奇妙に長く、黒い指先が足首にギッチリと巻き付いている。
 氷に直接触れたようなひやりとした冷気が剥き出しの肌に触れ、一拍遅れで全身に鳥肌が浮く。
「きっ、……」
「キャァアアアアアアアアアッ!!!!」
「!?」
 だが唇をわななかせた瞬間、福増のやたらと可憐な悲鳴がティリクティアの声を掻き消した。
 あまりの絶叫に空間がビリビリと震え、少女は思い掛けず我に返る。そうして無理矢理に身を捩って姿無き手を振り払うと、金切り声を上げながら尻餅をついている福増に突進し、その腕を引っ張り上げるようにして猛ダッシュした。
 外に出るなり、バァンと凄まじい音を立てて扉を閉める。
 数秒の間、仲良く動悸息切れ眩暈に襲われる二人だったが、ティリクティアの方が先に回復を果たし、青ざめた顔を福増に向けた。
 可哀想な程に震えている青年を目の当たりにして怖じ気付いてはいられない。白髪をそろりと撫でてやり、様子を窺う。
「ねぇ、大丈夫? びっくりしたわね、でももう大丈夫よ」
「ぅぅ、ッぅうう~お化け怖い、お化け怖いよ~」
「よしよし……あ」
 宥めていた手がふと動きを止める。福増は涙ぐんだ目を瞬かせ、顔を覆った両手を静かに下ろして行く。
 ティリクティアは閉ざされた扉を凝視していた。頬が微妙に引き攣っている。
「……ベッドの下にモウ探偵がいないか調べ忘れちゃった」
「え゛っ!」
 福増の声が引っ繰り返る。かと思うと、彼の手はすかさずティリクティアの肩を掴んだ。
 ほぼ同じタイミングで少女が前進しようとするため、力関係は拮抗し、前に進みたがる人と引き留めたがる人がプルプルする構図が出来上がる。
「だだだ駄目です! ベッドの下にはっ、あきらかに何か……っいたんですから!」
「そんなこと言って、も、居る可能性があるんだから、……っちゃんと調べないと!」
「開けないで……!」
「調べるの……!」
 双方一歩も退かずに押し合い、言い合い。ピシ、と薄ら寒い異音が生じたのはその時だった。
 どちらともなくぴたりと動きを止め、顔を見合わせる。
「「今なにか」」
 ハミングした次の瞬間、二人を支える地盤が一瞬にして崩壊した。
「「わぁっ!?」」
 脆弱なコンクリートに細かな亀裂が走り、それがたちまち大きな裂け目を生み、轟音と共に足場が崩れ落ちていく。バランスを失ったティリクティアが、大きく傾く。
「ぁっ……!」
「ティ、ティリクティアさん!」
 吸い込まれるように落下する少女に瞠目し、福増が叫んだ。腕を伸ばす。
 それまで縮こまり、震えるばかりだった巨大な翼が息を吹き返したような羽ばたきを見せる。
 間一髪の所で掴み上げると、福増はそのまま少女を抱き抱えた。
 中空で一度停止を見せた翼はバサ、と羽音を刻み、穴の底を確認しながら、静かに降下して行く。
 穴の深度自体はそう深くは無い。ただ、鋭利な瓦礫が転がる地面に落下したならば、重症を負っていたかも分からない。
「す、すみません。僕の筋力じゃ人一人掴んで飛ぶの無理なので。一回底に降りてから、上がることになっちゃうと思うんですけど」
「……」
「……あ、の。ティリクティアさん?」
 しがみつき、声も無くきょとんと福増を見つめていたティリクティアは、やがて瞬き一つで表情を改めた。
 滲むような笑みを咲かせ、先程までの小心振りを忘れ去ったような青年の顔をまじまじと眺めた。
「……感激しちゃったわ」
「え?」
「在利も、ちゃんとやる時はやるのね。恐がりさんだなんてからかってごめんなさい」
「え、え? いや、恐がりなのは事実なので、……あ、でも僕ちゃんと役に立てたってことですよね。よかった、嬉しいな」
 首を傾げていた福増がおもばゆげな顔付きになると、ティリクティアは軽やかに吐息を弾ませ、やはり青年の頭を撫でた。

 穴底に達すまで、束の間の穏やかな時間は続く。



◇ベルゼ・フェアグリッド&舞原 絵奈

 ベルゼは悩んでいた。
(勢いで手ぇ繋いじまったけど、普通の女との接し方? よくわっかんねぇんだよな……。こういうトコでレディーファーストはどうなんだろ、した方がいいのかな。でも映画とかでこういう時って、男が前歩いてたよなー)
 絵奈もまた悩んでいた。
(怖がって……るようには見えないけど。この手はなんなのかなあ)
 エントランスを潜る前から、二人の手と手は繋がれっぱなしである。
 その状態のまま2階へ上がり、時偶聞こえてくる謎の絶叫と物音にビビりながらも、連なる客室を着々と調べていた。
 クリアした部屋数はゆうに10を超え、手にしたチョークの先端も短くなりつつある。にも関わらず依然としてモウ探偵は見付けられず、暴霊の類とも出くわしていない。
 もともとベルゼはその手の存在への耐性が割と高めで、絵奈も暴霊そのものに対する恐怖心は持ち合わせていない。そうなってしまえばおのずと警戒心は薄れ、探索もどこか作業じみてくる。今や脳内比率の大半が傍らの異性のことで占められていると言ってもよかった。
 だがまた一つの扉を閉ざした瞬間、絵奈の頭に突如天啓が降りた。
(──はっ。もしかして、頼ってくれてるのかな?)
 それは非常に一方的な解釈だったが、思い込み、勝手に嬉しくなった絵奈はついガッツポーズをした。
(ベルゼさんのことは私がしっかり守ってあげなきゃ!)
 おまけに表情までにこにことしはじめるものだから、百面相ぶりを真横で見ていたベルゼは思わず首を捻った。丸印を扉に描きながら、控え目に声を掛ける。
「おい絵奈、どーした?」
「なんでもないです! 頑張ってモゥさんを見つけ出しましょう!」
「?? おう」
 言うなり、クンと繋いだ手を引かれ、ベルゼは誘導の機会を失った。ずんずんと前進する彼女に引き摺られながら密かに遠い目をする。
(あー、そういや絵奈って確か戦闘員だったよな、あんま驚いたりするイメージが湧かねーのも当たり前か)
 と、急に立ち止まる絵奈に遅れて歩みが止まった。
 見れば、絵奈が持つ懐中電灯の光が連なる扉の表面を丸く切り取っている。
 そこに記された真新しい丸印。スィと視線を伸ばしてみると、夜目の利くベルゼには、数メートル先の扉にまで同じような丸が描かれているのが一目で確認出来た。
「先に誰か来たみてぇだな」
「そうですね。うーん、それじゃあ3階に上がりましょうか」
「ああ。にしても、なかなか見付からねーもんなんだなぁ」
 思わずぼやく。
「ノートに連絡も無ぇし。こんだけ頭数揃ってりゃ、すぐだと思ってたんだけどなー」
 絵奈も頷き、のほほんと同調する。
「広いお屋敷ですからそう簡単には行かないようですね。くたびれてきたし、何か甘いものが食べたいなあ」
「俺も食いてぇ……リンゴとか」
「ですねぇ、リンゴとか蜜柑とかブドウとか……」
 指折り数える絵奈に、ふとベルゼが口を噤んだ。漆黒の翼がバサ、と波打ち、くるりと光る双眼が少女を凝視する。
「おまえ、フルーツが好きなのか?」
 絵奈はきょとんと表情を抜かし、鷹揚な頷きで応えた。
「ええ、大好物です」
「マジで!」
 翼が、更にバサバサと羽ばたく。
「俺も好き好き、大好物。一番好きなのはリンゴでさー」
「リンゴ、美味しいですものね。生のまま齧るのも良いし、お菓子とかにしても最高ですし」
「俺、いつもアップルティ淹れて飲んでるんだよ。絵奈も好きなら、同好の士ってことで今度淹れてやってもいーぜ。得意なんだ」
 思わぬところで嗜好の一致が発覚し、やりとりには俄然熱が籠って行く。
「わぁ本当ですか? 嬉しいです、是非是非お願いしま──」
 けれどいくら心温まる会話を交わしたところで、ここは所詮暗闇の最中だった。
 弛み掛けていたベルゼの表情が不意に締まり、獣耳の先がぴくぴくと小刻みに震える。
 目を丸くする絵奈を尻目に、そのまま忙しなく周囲を見渡す。
「今何か聞こえなかったか?」
「え? いいえ、私には何も……」
「こう、パチっつーか、パキっつーか、そんな音が……あ、ほら。まただぜ」
 倣うように絵奈も耳を澄ましてみる。そのうち、音の出所を探るように柔軟に動いていたベルゼの耳が、廊下の先へと固定された。
 闇の向こう側を見据える。絵奈もまた、同じ方角を見る。
 すると、パキ、パチン、と小枝を折るような微かな音が、確かに暗闇の奥から響いて来るのが分かった。
 初めこそ小さかった筈の音は、しかし迫るにつれてどんどんと大きさを増して行き、やがては耳を劈く爆発音と化して二人を襲った。
 飛び上がり、絵奈は咄嗟に繋いだ手を握り直して強く引く。
「ベルゼさん! 聞こえますか逃げましょう!」
「ギャァアアアァアア!! み、耳が、耳がぁああああああ!!」
「ベ」
「耳が痛えぇえぇーーーー!! 死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬぅう……!!!!」
 便利な地獄耳がここに来て仇となったか、常人の二倍以上の爆音に見舞われたベルゼには絵奈の声などまるで届いていない。
 手を離した傍からもんどり打ちそうな様子に絵奈は狼狽え、だがすぐに毅然とした面持ちになった。
 悶える人の腕を両手でむんずと握り、華奢な少女には似付かわしくない火事場の馬鹿力で背負い上げると、轟音の波から逃るべく、廊下を疾走し始める。
「私が守ってあげないといけないんだから! 頑張れ私、ファイト私、やれるよ私……!」
 絵奈は一人燃えていた。
 そんなボルテージが伝わりでもしたのか、ひた走る少女から徐々に音は遠ざかりつつある。
 だが、虫の息のベルゼを担ぎ直して突き当たりの角を折れた瞬間、
「──ひゃっ!?」
 サッと目の前を横切る影に虚を衝かれ、流石の絵奈も目を剥いた。
 硬直した身体がよろめきたたらを踏むと、今度は生ぬるく湿った何かが、頬にべったりと貼り付く。
「ひゃぁあああッ!?」
 腹の底から悲鳴を上げ、絵奈は無我夢中でそれを払い落とした。つもりだったが、肌には湿った感触が残るばかりで何もいない。
 ぞわぞわと鳥肌が立つ。両手で身を抱くようにして退き、絵奈ははたと動きを止めた。慌てて俯く。
 勢い余って放り出してしまったベルゼの身体に腕を伸ばす。
「す、すみませんベルゼさ──っきゃぁッ!?」
 と、倒れ伏すベルゼの横の地面から、さながらびっくり箱を開けたような勢いでボンッ! と黒いシルエットが飛び出した。
 絵奈はたまらず腰を抜かし、盛大に尻餅をつく。
(ぃ、痛い!)
 響く鈍痛に目を瞑り、奥歯を噛む。立て続けの驚きに頭が付いて行かない。
(ううう、しかもこんなかっこ悪い所ばっかり見せちゃって、情けない! やっぱり修行が足りないんだなぁ……!)
 瞑目したままでもこの世ならざるものの気配を感じ、まだ震える掌でどうにかトラベルギアを握り締める。
 身を守る姿勢を取るように、短剣を構えた。息を詰める。
 だが、危惧したような衝撃はいつになっても絵奈を襲うことは無かった。
(……え?)
 そろそろと薄目を開く。初めに見えるのは、威嚇に拡げられた漆黒の翼。
「散々ビビらせやがって……!!」
 絵奈を庇うように暴霊の前に立ち塞がったベルゼは、額に青筋を浮かせながら恫喝する。
「俺の耳がイっちまったらどーしてくれんだよ! しかも絵奈を襲いやがって、今度姿現わしやがったらただじゃおかねーぞ! 俺はそこらの奴らよりもよっぽど目も耳も良いし、おまえらが束になってかかってきても一網打尽にする技だって持ってんだぜ! わかったか! 覚悟しとけよ!!」
 激しい宣言は無人の廊下に吸い込まれ、束の間ざわざわと闇が鳴く。
 そうして数秒後、水を打ったようにシンと静まり返った。
「ったくよぉ……」
 ふうと息を吐き、ベルゼは爪の先で頬を掻いた。ゆっくりと、背後の絵奈に首を向ける。
「……悪かったな絵奈。さっきは使いものにならなくなっちまってて」
「い、いえ」
 口をぽかんと開いた少女が、我に返ったようにかぶりを振る。ベルゼは膝を折って屈み込み、手を差し伸べようとして首を傾げた。
「大丈夫か? なんか、顔赤くね-?」
「だっ」
 絵奈はまたブンブンと頭を振り、ベルゼの手をしっかと握り締めて言い募る。
「だだだ大丈夫です、大丈夫ですから」
「そうか? あー、それにしても暴霊もイロイロだよなー。いくらイタズラ好きつってもさっきのはねーよ」
 絵奈を引き起こした後で、まだぶつくさと文句を続けているベルゼの横顔に、絵奈は実のところどぎまぎしていた。
 守ろうとしていた対象に、男らしく頼れる姿を見せ付けられ、大層感激した結果、不覚にもときめいてしまったのだ。
 未知の感覚である。絵奈は自分でもよくわからない頬の熱さを誤魔化すように俯き、もじもじする。
「あの」
「ん?」
「その、……今私が平気でいられるのはベルゼさんがいてくれるおかげです。もし一人だったら、とっくに逃げ出してたかもしれません。ありがとうございます」
 突然の賛辞に、今度はベルゼがきょとんとする番だった。
 見つめ合うだけの時間を経てくしゃりと破顔すると、酷く愉快げに肩を揺らす。
「キシシシッ、そーか! なんか嬉しいぜ。俺の方こそ、守ってくれてありがとな」
「……はい!」
 絵奈もパッと顔を輝かせ、肩を並べて探索を再開する。

 ──数分後。
 繋いだ指がそろそろ絡め直され、さり気なくも、いわゆる恋人繋ぎの形を取る。
 ベルゼは真っ赤になった挙句、ピシリと硬直する羽目となった。



◇ニコ・ライニオ&南雲 マリア

「きゃあ! きゃあニコさんっ、こんな所に謎の血痕が!」
「ぅ゛っ」
 何気無く照らし出した壁面に、血糊がべったりと付着している。禍々しい朱色が妙に真新しく感じられるのは気のせいか。発見するなり飛び上がり、黄色い悲鳴を上げたマリアには、ニコの微かな呻き声など届かなかったに違いない。
 マリアは始終この調子で、宜しくお願いします、と丁寧な挨拶を交わし合った直後から巨大な廃ホテルに大興奮。
 幽霊を怖がる素振りは欠片も無く、自らを取り巻く暗闇に対し赴きすらも感じているようだった。
 首から提げるカメラをいそいそと持ち上げ、少女は傍らで硬直しているニコの肩を叩くようにしてせきたてる。
「上手くすれば心霊写真が取れるかも! ねえニコさん、折角だしちょっと壁の前に立ってくれません?」
 キラキラと輝く眼差しに射貫かれ、ニコも爽やかに微笑む。だが、返答には数秒のタイムラグがある。
「……僕が?」
 目尻の辺りが微かな痙攣を帯びた。
「どうせなら、マリアちゃんが被写体になった方が良い写真が撮れるんじゃないかなあ」
「いいえ! さっ、こうしている間にも時間は過ぎているんですからね。もだもだしてると、全室回れなくなっちゃいますよ」
 全室回るつもりなのか。ニコは内心ゾッとしつつも、そんな本心はおくびにも出さず鷹揚に頷く。
「よし、君の頼みじゃ仕方ないな」
 意を決して数歩進み、おどろおどろしい被写体の横に並ぶ。
「かっこよく撮ってね」
 そうして片肘を壁につき、軽く身を凭れさせるような小洒落たポーズを撮った。
 血痕との記念写真という辛過ぎるイベントに腰が引ける。
(もう帰りたい)
「撮りますよー! チーズ!」
 ファインダーを覗くマリアの宣言に合わせ、白い歯を零す。眩いフラッシュが焚かれるなり、ニコは流れるように壁を離れて元の立ち位置に戻った。
「どう?」
「うーん、フォトジェニック。でも霊は映ってないみたい」
 真剣な眼差しで少女が見つめるフィルムをひょいと横から覗く。そこには自然な微笑みを浮かべるニコと赤い血痕とが仲良く並んでいるだけで、他には何が居る訳でも無かった。否、いたら困る。さり気なく胸を撫で下ろした後、肩を竦める。
「それは残念だね。じゃあもう行こうか」
「ええ。でもどこかで面白いもの見付けたらまた被写体になって下さいね、ニコさん」
「……」
 ニコの完璧な笑顔がピシリと凍り付く。
 だが悪気など全く感じられない、マリアのにこやかな笑みに背を押されるように、こう続けるしかなかった。
「──もちろん」

 ***

 出発が遅い組だったせいか、1階の客室は概ね探索済のようだった。
「あの血痕はどういう経緯で出来たんでしょうね」
「……そうだなあ、殺人事件とかが起きたんじゃないかな?」
「それ位しか思い付かないですよね。ああでもそんなドラマみたいなこと、やっぱりわくわくしちゃう」
 階段に反響する靴の音にニコだけが怯む形で2階へ上がり、未探索の扉をマリアが片っ端から開いて行く。いつ暴霊が飛び出してくるかも分からない、真っ暗な室内へうきうきと飛び込んで行く少女に度肝を抜かれ、だがニコも必死になってその後を追う。冷や汗を掻きつつ客室を後にすると、当たり前のように指を絡めてくるマリアの白い手に視線をやる。
 マリアは随分とアグレッシブに思えるが、なんだかんだで可愛い女の子なので、手を繋げるのは素直に嬉しい。
「そういえば、手をさ。本当は僕の方から繋ごうと思ってたから、君から提案してくれて嬉しかったよ」
「あ、これは」
 ふと、瞳を瞬かせたマリアがニコを見上げる。
「最初、ニコさんは怖がってるんじゃないかなぁと思ってたんですよ」
「え?」
 図星を衝かれ、声がやや上擦る。マリアは深く頷いて思案気に、
「1階にいた時に不思議な物音が聞こえて来たじゃないですか。その時に青ざめているように見えたので、つい……」
 確かに、エントランスを潜るなり金属が共鳴するような得体の知れない音が聞こえ、ポーカーフェイスに失敗した瞬間があった。
 だが、こんなにも逞しいマリアの前でビビっている姿を丸出しにしたり、悲鳴を上げたりするのは格好悪いにも程がある。
 「できるかぎりは」頑張りたいのだ。ニコは明後日の方向を向き、渇いた笑いを洩らした。
「あはは、そうだったかなあ。気のせいじゃないかな」
「怖くないですか?」
「怖くないよ」
「……ですよね。気のせいだったんですよね。あれからは特にそんなこともないし、全然平気そうだし。勘違いしてごめんなさい」
「いや、気にしないで」
 首を振り、ニコの方から繋いだ指にギュッと力を篭める。
「怖くはないけど、繋ぐままでいてもいいかな?」
「あら」
 口説くように覗き込まれ、マリアはポッと頬を赤らめた。美形の異性に迫られて悪い気はしない。掌を握り返し、楽しげに肩を揺らす。
「ふふ、それじゃあこのままで」
「ではここからは僕が先に」
 スッと踏み出し、漸くニコがエスコートする立ち位置に代わる。
 大人しく誘導され、後方を歩くマリア。
 なんだかちょっと良い雰囲気だ。
 普通の肝試しであればここらで幽霊が飛び出して来て、きゃっと悲鳴を上げる女の子にしがみつかれたりするお楽しみイベントがあったりするのかもしれない。
 ニコは少しの期待を胸に振り向いた。
「マリアちゃん、そこに階段が見えるよ。このまま3階に──」
 しかし、マリアは所詮そんなひ弱で愛らしいだけの少女では無いのだった。
 夜目にも爛々と輝いて見える銀の瞳が、怪奇現象を探してキョロキョロと周囲を見渡している。
 ニコの甘い夢はものの数分で泡と化す。目が合うと、マリアは我に返ったように瞬く。
「ええ、それじゃあ3階に……どうしました?」
「……なんでもないよ」
 色男の背中にズーンと暗い影が落ちる。そんな様子を訝かってマリアは首を右に左に傾げていたが、ふとその視線が横に逸れるなり大きく瞠られた。
「っニコさん! あれ!」
「なんでもないさ、なんでも……そうだうん、逞しい女性だって魅力的、っぐお!」
 虚しく独白するニコの腕がぐいと引かれ、強引に引き摺られて行く。慌てて顔を上げると、マリアの向かう先にはコンクリートの一部が崩れて出来た巨大な穴があった。口の端がひくりと引き攣る。
「ちょ、マリアちゃんまさか入る気かい?」
「もちろん! どこに繋がってるか気になるじゃないですか!」
「マジで!?」
 階段の横壁にぽっかりと開いた虚のような穴は、間近まで迫ると二人の背丈を超える高さがあることが分かる。
 足下には掌大の破片がゴロゴロと転がっていて、軽く明かりで照らしてみても、奥に何があるのか、どれほど続いているのかはまるで分からない。
 今身を置いている場に比べても更に暗い。暗いこと自体は良いとして、いかにも「出そう」だ。足が竦む。
「ここには流石にモウ探偵はいないんじゃないかなあ。しかも君の綺麗な服が汚れちゃいそうだ」
「いないとは限らないですよ、それに服なんてどうせ帰ったら洗濯するんだし」
「そ、そっか~」
 流石にここで「僕が先に入るよ!」とは言えなかった。というか、既に前のめりになっているマリアが瓦礫を踏み締め、穴の中に首を突っ込み始めている。
 何かが出て来たら即逃げよう。そして適当に言い訳しよう。ニコはさり気なくマリアの手を握り直し、意を決してその背の後に続いた。
「わ、凄く声が響く」
「本当だ、……っていうか、意外と広いね」
 穴の中は、縦にも横にも思っていたより広さがある。そして入ってすぐに行き止まりなどということも無かった。声はうわんと反響を伴い、奥へ吸い込まれるように消えていく。軽い洞窟を思わせる様相だ。ちらちらと揺れる懐中電灯の丸い光のみが心の拠り所となる。高鳴る心音を感じながら、平静を装うべく会話を続ける。
「上もそうだけど、下にも気を付けよう。急に抜けたりする可能性もあるから」
 マリアは頷く。ここまで来ても、少女は怯む素振りも見せない。
 道は直線。黙々と前進する。コツコツと重く響く靴の音。
「どこまで続いているんでしょうね」
「うーん、案外このまま外に出ちゃったりとか?」
「どうせなら隠し部屋とかに行きたいなあ」
「あはは、それは流石にどうだろう」
 少し、道幅が狭くなってきた。閉塞感を感じ始める。マリアの肩越しに前方を窺うが、まだどこかに辿り着くような気配はない。緊張を強いられた頭に疲労を感じ、ニコは少しの間の後でさり気なく切り出した。
「ねえ、そろそろ──」
「あっ!」
「!?」
 不意に立ち止まったマリアに驚き、息を呑む。
「……どうしたの?」
「今何か、何か道の先にチラッと見えたような気がして。なんだろう!」
 一気に有頂天になるマリアに反し、ニコのテンションは急降下して行く。はやる気持ちを抑えられず、早足になるマリアに付き従いながらも、いよいよ嫌な汗が止まらない。
「それ、例の暴霊かもしれないじゃん。危ないから戻ろうよ」
「モウ探偵かもしれないし!」
「いやそんなまさか……」
 言いあぐねて視線が彷徨い、また渋々正面を見据える。その時だった。
 普通の人間とは比べものにならない暗視能力を備えているニコの双眼が、遥か彼方に不穏な影を捕えた。
 輪郭は殆ど闇に紛れて判然としないが、人型を思わせるシルエットがぐにゃぐにゃと奇怪に蠢いている。
 時折ちらちらと覗く赤い色は、なんだろうか。
 舌だろうか。
「──逃げるよ!」
「へ? きゃっ!?」
 突如踵を返したニコに手を引かれ、目を丸くしたマリアが悲鳴を上げた。慌てて離そうにも、がっちりと結ばれた指は解けない。
 足早に駆ける音が響く中、少女が不平を漏らす。
「ニコさ、なんで!? せっかく何かある気がしたのに……!」
 全速力で外へ飛び出す。
 外も外で湿った気配に満ちていることに変わりはないのだが、穴の中から抜けた今は開放感が凄い。
 漸く繋いだ手を離し、乱れた呼吸を整えながら、じとりとした目付きで射貫かれていることに気付いたニコは肩を弾ませた。
 そうして額の汗を拭い拭い、無駄に爽やかな笑みで応える。
「いやー、危なかったからねー」
「何がですか!」
「僕、人に比べれば目がよくてね。ちょっと先の地面が割れてることに気付いたんだ」
「えっ」
 瞠目するマリアに、ニコは得意の口からでまかせを滑らかに綴っていく。
「だから戻ったんだよ。うん、奥に進めなかったのは僕としても残念だよ」
「……そうだったんですね」
 嘘に気付かず、マリアはしゅんと肩を落とす。
 その身をさり気なく引き寄せようとしたニコの腕は、しかしバッと顔を上げたマリアの勢いに驚いて空ぶった。
「それなら仕方ないです。でも諦められない! よーし、それじゃあ別の道を探しましょう!」
「……へ?」
「別の道です。他に穴が空いてる壁が無いか探してみて、どうにか落とし穴を迂回して先に進む方法を……」
「……」
(──マリアちゃん。もうそろそろ俺……限、界)
 燃える少女の傍らで、ニコは切なく天を仰いだ。

 受難の時は、まだまだ続くようである。



◇リエ・フー&パティ・ポップ

「そろそろ休憩と行くか……ほら、ここに座れ」
 2階と3階を繋ぐ踊り場の一角。その床面にバサリと放られたフライトジャケットは、リエが今しがたまで着込んでいた物だ。
 目を瞬かせたパティは、そこと少年とを見比べ、嬉しげに顔を綻ばせる。
「ありがとうございます。気が利くんですのね」
「どうってことねーよ。レディファーストって奴だ」
 対するリエは口元に綺麗な弧を描いて応じ、少しだけ溜息を吐いて空を仰いだ。その横頬には、長時間に及ぶ探索の疲労が微かに滲んでいる。
 見下ろすと、簡易休憩場に腰を据えたパティの顔も、どことなくやつれているように思える。
「なかなか見付からねえもんだな」
 パティはしみじみと頷く。
「まだ亡霊にすら遭遇してないし。まぁでも、あたし達なんて5000年前の遺跡も探検してる訳ですし、出て来られたところであんまし関係ないかなと思うわ」
 リエは腕を組むようにして、軽く壁に凭れる。
「ああ。月並みだが、幽霊よか生きてる人間のがよっぽど怖えじゃんか」
「ええ全く」
「俺がちょっとした出来心で警官の財布をスッた時の話なんていい例だ。奴らときたら、身内総出でしつっこく追ってきやがって巻くのが大変……おっと」
 休憩ついでについと口にしてしまった昔話を遮断し、リエは苦笑した。首を振り、興味深げに見上げてくる澄んだ瞳を見返す。
「……ところでさっきのネズミ共はどうなった?」
「あ、そうね」
 パティがはたと動きを止めた。そうしておもむろに立ち上がると周囲を見渡し、両手を口元に添えてメガホンの形を取る。
 すぅ、と大きく息を吸い込む一拍。
「ネズミたち、集まっておいでー。ちゅ、ちゅちゅーーーー!」
 ──パティはドブネズミを統べる特殊能力を所持している。
 出発直後に彼らを召集したパティは、探索の効率化を図るべく、各部屋の探査およびモウ探偵の捜索を頼んでいたのだ。
 甲高い鳴き真似が高らかと木霊し、数分後。主の呼び掛けに反応した小動物の足音が響き、どこからともなく姿を現わした4匹のネズミが彼女の足下に集った。
「戻ってきた。で、首尾はどう?」
 腕を伸ばす。ネズミ達は彼女の指先にぴょんと身軽に飛び移り、次々とかぶりを振るような仕草を見せた。
 眉を潜めるパティに、使い魔の一匹であるラッキーが鼻をピクつかせて喋る。
「ごめんね、見付けられなかったでちゅー」
 続いて、ロムとレミィが横槍を入れる。
「それよりこの建物、下手をすると壊れるぜ」
「でも、普通に動く分には大丈夫だと思うわ」
「……そう」
 と、黙って会話に耳を傾けていたリエが背を起こし、こちらに向き直った。
「オレの頼んだ件はどうだった?」
「あ、それはあったでちゅ!」
 パティの腕の上で、ルルがぴょこんと弾んだ。胸を張る仕草がそこはかとなく得意げだ。
「3階の一番奥の部屋の棚に、ピカピカする物が見えました! 多分、『めぼしいもの』なんじゃないかな。でちゅ」
「おお」
 リエの頬が僅かに弛んだ。階上を横目で一瞥する。
「腐っても元一流ホテルだな。くすねて質に入れられるようなもんだといいんだが……」
 パティは報告を終えた彼らの頭を一つ一つ撫で擦り、懐に手を入れた。
「とりあえずわかったわ。ありがとー。みんなには、はいこれ」
 取り出す甘いお菓子の類をバラまく。するとネズミ達は、ちゅー! ちゅちゅー! と喜びの声を上げながら、我先にと対価に飛び掛かる。
 腰を上げ、パティもまた薄暗いばかりの3階へ目を遣る。
「さて。それじゃあ、上に向かえばいいかしらね」
「あんたがそれで良いならな。……おっと、足下気を付けろよ」
 回収した上着を手早く着込み、リエは極自然な仕草でパティへ腕を差し伸べる。その手を取り、共に階段を上る。肩上で菓子に齧り付くネズミ達が支える懐中電灯が発す光が、唯一の灯だ。
「この先で疲れんなら、今度はおんぶしてやるぜ」
「素敵な申し出ですわね。でも流石に年下の殿方にそこまで頼る訳には……」
 リエが横頬でフッと笑う。
「こう見えて、てめえよりずっと年上なんだ」
「……あら」
 口元に手を遣り、パティが目を瞠る。
「そうでしたのね。あたしってばてっきり」
「ついでに言っとくと、お嬢ちゃん一人抱える位は訳無ぇからな。心配すんなよ」
「ふふ、じゃあ足が棒になりそうになった時はお言葉に甘えることにしますわ」

 ***

 ノブがガチャガチャと何度か音を立て、その後で扉が開く。途端に強い塵埃の臭いを覚え、どちらともなく鼻を押さえた。
「埃臭ぇ」
「鼻が曲がっちゃいそう……ロム、ちょっとお菓子から口を外して。しっかり奥を照らすのよ」
 念のため扉は開いたままにしておき、奥へ奥へと進んでいく。なるほど、薄暗い中でも1、2階の客室に比べれば余程豪勢な内装であったことが伺える室内だ。
 二人は軽くアイコンタクトを交わして散り散りに動く。ひとまず、開けられる場所は開けてみるに限る。
 クローゼットを開け、浴室の扉を開け、リエは徐々にベッドサイドに近付いて行った。この段階で既に、少年の捜索物はモウ探偵から金目の物へとシフトしている。
「ここか? ねえな。せめて一個くれえは出て来いよ、っと、──お」
 アンティーク調のキャビネット棚を、上から順に開いて行く。と、中段で何かが引っかかる。ガタ、と音を鳴らした棚に片眉を上げ、リエはしゃがみ込んだ。
「……ん?」
 その時のパティはといえば、開いた浴室に進入していた。入るなり、シャワーカーテンが閉ざされていることに気付いてジッとそこを見つめると、息を詰めてシャッと横に引く。が、中にはカラカラに乾いたバスタブがあるだけだ。風の動きによって立ち上る、黴臭い臭気に耐えかねて鼻を摘む。
「んん、何も無いですわね」
 軽く退くと、腰が洗面台に当たる。何気無く振り向いたパティは、そのままふと顔を上げた。
「あら?」
 すぐには気付けなかったが、鏡がある。フレームの塗装が無残に剥がれ落ちた古い鏡だ。
 使い魔が向ける明かりが反射して少し眩しい。パティは両目を眇め、何気無く身を乗り出してその表面に指を這わせる。
「昔は綺麗だったんでしょうけど、こうなってしまうと形無し……え?」
 表面の曇りを拭うように、サッと滑らせたつもりだった。が、途中でピタリと指先が動きを止めた。
 否、貼り付いたように動かせなくなったのだ。
「え? え? なに、……えっ?」
 引き剥がそうと躍起になり、力任せにグイグイと引っ張る。そんなパティの足掻きを嘲笑うように片手はビクともせず、やがて指の向こう側にスッと暗い影が落ちる。
 表面がまるで小波立つように震えたかと思うと、ぬる、と鏡を突き破った漆黒の五指が彼女の手を絡め取り、氷を思わせる冷気が肌に纏わり付いた。
 ひっ、とパティが息を呑む。

 ***

「よし、開いた。手間かけさせやがって……」
 数分の格闘の末、漸くこじ開けた棚の内側を覗き込むと、リエは仄かにほくそ笑んだ。
 正方形の棚の中に鎮座ましましていたのは、いかにも値が張りそうなネックレスだった。上客が置き忘れていった物だろうか、真っ赤な宝玉の輝きが夜目にも見て取れる。チャリ、と取り上げ、大粒の石の表面を指先でそっと愛でる。
「ま、いいか。会えて嬉しいぜ、宝石ちゃん」
 と、その瞬間。リエの横手の窓硝子が、何の前触れもなくパンッと砕け散った。
「ッ!?」
「ぃッ、いやーー!! 触らないでーーーーー!! レベルドレインは勘弁、勘弁してー!!」
 同時に響く悲鳴。リエは肩を跳ねさせ、弾かれたように振り向いた。
 浴室の壁に黒く蠢く影を認めて舌打ち、獲物を胸に仕舞い込むなり一直線に駆ける。
「どうし、……ッ!」
 飛び込もうとした瞬間、クン、と襟首を引かれて鼓動が弾む。
 片目を眇めて振り向くと、壁から生えた黒い腕が、触手を思わせる柔軟な動きで持ってリエの身体に絡み付こうとしていた。
 前方では既に、鏡の内側から突き出た無数の腕がパティを捕えようとしている。
「きゃー! きゃぁー!!」
「ぼっ、暴霊のお出ましですー! ちゅーー!!」
 彼女が声を上げるたび、その悲鳴が破壊音波と化して室内の物質が次から次へと砕け散っていく。リエは邪魔な触手を力任せに振り払い、パティの元へ突っ込むと、まずは彼女の唇を掌で強引に塞ぐ。
「むぐ……!」
「ッ落ち着けよ! てめぇが叫びまくるようじゃこの建物が壊れるかも分からねえ」
 耳元に囁きながら力を篭め、鏡とパティを引き剥がすために全力を駆使する。だが、無数の腕は中々に執拗だ。拮抗を続けた末、辛くも逃れると、勢い付いたリエの背中は浴室の壁に衝突した。
 鈍痛に息を詰めて目を開く。すると一体どこから沸いたものか、室内を埋め尽くす勢いでうじゃうじゃと数を増す黒いシルエットが無数に見受けられた。
 リエの目前まで迫った暴霊の一つがぐぱりと口を開き、見せ付けるように鋭利な牙を覗かせる。
「てめぇら、……」
 だが、リエはビビらない。ビビるどころか、額に青筋を浮かせる。少年の怒りに呼応するように飛び出すセクタンの楊貴妃が、彼の頭上で明滅する。
「俺を脅かそうなんざ百年はええ、出直してきな!!」
 ごう、と風が唸り、狐火が発動した。突然部屋中を染め上げる、目が眩むほどの赤い光に暴霊達は一斉に挙動を止め、まるで怯むように身を腕を縮めて行く。
 その隙に開いた活路を抜け、二人は一気に駆け抜ける。

 部屋を脱出した後もよろめくパティをリエは男らしく背負い、そのまま振り返ること無く出口を目指した。



◇結末

 リエがエントランスホールに辿り着くと、既に集っていた仲間の面々が一斉にこちらを向いた。
 福増・ティリクティア組、ベルゼ・絵奈組はなんだか良い雰囲気だ。
 キアラン・仁科組はどちらも哀しいほどにやつれている。
 ニコ・マリア組は、一見楽しげだが、よくよく見るとニコの顔色が悪い。
 近くまで来て足を止め、一息吐いたリエはぐるりと彼らを見渡し問い掛けた。
「よう、いつのまに揃ったんだ」
「……お、おぉ」
 壊れかけた長椅子に腰を下ろしていたキアランが、憔悴しきった顔をのろりと少年に向けた。
「さっき、トラベラーズノートで連絡しあって、よ。誰も発見出来ねェままみてぇだからな、……一旦合流しようぜ、って運びになった。まだ確認してねェか」
「今しがた暴霊に襲われちまってそれどころじゃなくてな……」
「げっほ」
 「暴霊」と聞くなりグッと詰まったキアランが、次の瞬間盛大に噎せ始める。何事かと眉を潜めると、丸くなった背中をぽんぽんとあやしたティリクティアが、面白がってくすくすと笑声を上げた。
「キアランったら、今日もたくさん泣き喚いて疲れちゃってるみたいなのよ。気にしないであげて」
「ティ、ティアー! 違ェ、違ェんだって俺ァ……!!」
「……そうか。そりゃ災難だったな」
 ゆっくりと地面に下ろされたパティが、一息吐いて額を拭う。
「あたしも少し舐めてかかってたけど、思ってたより怖かったですわね……」
「……わたしもですよ」
 すかさず仁科が同調する。
「僕は最初から最後までビビりっぱなしですよ……」
 福増もぽつりと呟かずには居られないようだった。ニコに至っては青い顔で微笑むばかりでもはや一言も発しない。限界地点を通り越してしまったのだろう。
「でもま、怖えことばっかでも無かったけどなー、俺なんて絵奈と仲が深められてよかったしよ」
「もう、ベルゼさんってば。──でも、どうします?」
 絵奈が指先を唇に宛がい、思案気な顔付きになる。
「モウ探偵を見つけられないまま戻っちゃっても大丈夫なのかな?」
「いいよ。もう、いい。端っから端までぜェーんぶ探した結果がこれなんだから仕方ねぇ!」
 キアランが手先をぱたぱたさせ、額を覆った。傍らでニコニコと微笑むティリクティアの方は絶対見ようとしない。
 そのまま両手を膝に置くと、立ち上がるべくゆっくりと中腰になった。
「ってぇ事で帰ろうぜおめぇら。お疲れさ……」
「──あっ!」
 一時停止し、キアランは死んだ魚のような眼差しでマリアを見た。
「……どしたァ?」
「キアランさん、下、下!」
「下…・・?」
 ちょいちょいと椅子下指し示す少女に従い、キアランは素直に俯いた。
 途端、眼下にぽっかりと開いた穴から覗く、土気色をした人間の生首と視線が合う。
 キアランは目にも止まらぬ早さで引っ繰り返り、ガタン、ガタタン! とけたたましい騒音が轟いた。
「キッ、キアランさん! 大丈夫ですか!?」
「ばっば、ばァアアアアア!!!! ぁあああぁあ!!!!」
「……これってもしかして、モウ探偵?」
 半狂乱になるキアランを余所に、数名がおそるおそる椅子穴を覗き込む。
 確認してからせーの、と力を合わせて障害物を退けると、横たわる男は確かにモウ探偵その人だった。白目を剥き、口元には泡を噴いた名残がある。
「こんなところにいたなんて……」
「うう、やっぱり、死んでる」
「メモリーチップは、……あったあった」
 ごそごそと探る面子の脇で、死体に向けて拝む面子がいる。そうして仁科がメモリーチップをモウ探偵の懐から引き抜こうとした、その瞬間だった。
 不意に、風が吹いたのかも知れない。
 あるいは、ホテルに潜む暴霊が最後に見せた悪戯だったのかもしれない。
 死体でしかない筈のモウ探偵の腕が何の前触れも無く持ち上がり、ロストナンバー達目掛けてごろん、と大きく転がった。

 衝撃が吹き荒れる。

「「「「ぎゃっ、ぎゃぁあああああーーーー!!!!」」」」

 蜘蛛の子を散らすように一斉に外へ飛び出す。
 こうして、今宵の肝試しも汗と涙と絶叫の中で幕を閉じたのだった。

クリエイターコメント大変長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
このたびは本当にありがとうございました!
公開日時2012-10-08(月) 13:10

 

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