その時代は後に黄昏の時代と呼ばれる時代だった。 石畳に舗装された道を、高級車が飛ばしている。 窓から見えるのは、色鮮やかな屋根や壁。 そしてそれらの建物の影に数多横たわる浮浪者達。 霜の降りるこの季節、それらが死体でないという保証はない。 「虎鋭の兄貴、そろそろつきますぜ」 一昨日運転手が殺され、運転手をやらされる羽目になったチャンが言う。 「おう」 それだけ応えたものの、リエは窓の外を眺める事をやめない。 この窓から見える景色――彼の住む世界を魂に刻み込むように、彼はそれらを眺めていた。 黄哺江の畔に位置するその都市は、実質的な自治国家として大河を背後にし前面に洋々と広がる海を備える。 無限の可能性を抱くその都市は、必然、数多の民を中国全土から惹きつけた。 350万人を超える、当時としては世界有数のその都市において官憲は力を発揮せず、逆に権力を梃子に懐を肥やす事に終始する有様であれば、虎や獅子の喰いあいが日夜繰り返される日々である。 そんな中、一頭の虎が名を知られ始めていた。 その虎の字名は、虎鋭。 中国人の孤児や多国籍のはぐれ者をまとめ上げ、流入した外国人マフィアや青幇、紅幇といった中華系マフィアを脅かす程に成長したその男の名は、いまや160万人と言われる上海裏社会の構成員の中でも有数の知名度を誇るもの。 「で、話はそれだけか?」 黄金の瞳が、円卓の対面に座る男を鋭く見据える。 大世界を率いる青幇の三頭目の一人を前にして微塵も怖気を見せず、かといって明確な敵意を宿すわけでもない。 飄々としたその様子は、竹林に溶け込み気負いなく獲物を見据える虎のそれ。 この時期、上海では青幇や紅幇といった新興の中華系組織がいち早く歓楽街の建設を進め、アヘンの売買とともに「快楽之善也」と民衆を堕落させる道を突き進んでいた。 そんな中、若き虎は孤高の道を往く。 味方がいないわけでは、ない。 かつてよりの仲間はいつしか所帯が増え、ざっと見渡すだけでは足りない程の人数に。 幾多の勢力を背景にして既存勢力とわたりあう彼の傘下にいたのは、まだ浮浪児だった頃につるんでいた愚連隊の者達を中心とする無数の若者ら。 様々な混乱の中で、餓え、親を亡くし、頼るべき身よりを持たぬ者達がこの街に集い、この街からあぶれた。 共通していたのは国籍や出身に関係のない貧困であり、強者による収奪の被害に遭った事。 底なし沼に沈む者を一人、また一人と気まぐれに引き上げていくうちに、いつしか愚連隊は国籍の別なく構成員が増えていき、やがて一つの幇を成したのだ。 だが、新興の勢力は既存勢力に狙われるのが運命。 大世界をはじめとする青幇支配下の色街で虐げられる女達を救うためのしかけとして、リエが新たな色街――女達の健康を第一とするそれを建設しようとしている気配を嗅ぎ付けた青幇が、直談判に及んだだのだ。 一つ対応を誤れば巨大な抗争となることが目に見えるその会談。 それでも、譲れない事があるから、彼は言う。「話はそれだけか」、と。 「てめぇらの商売が阿漕すぎんだよ。ま、精々棲み分けようぜ、老爺。それができないってんなら――」 「どうしてもやるかね?」 色めき立つ部下を片手で制し、リエと親子程に年の離れた男は語り掛けた。 「これでも俺はお前を見込んでんだ。黄や杜の野郎はお前を気にくわねぇようだがな。なぁ小虎」 老人は手に持っていた煙管を一度盆へと打ち付けた。高らかに響く音に呼応するように、その視線が鋭くリエへと叩きつけられる。 「これが最期だ。これ以上、はねっかえりはやめとけや。てめぇの腕二つで守りきれる規模じゃねぇ」 その言葉を受けたリエの表情は変わらない。 ただ皮肉な笑みを浮かべ、席を立った。 「俺が一緒に動くのは、理想を共にできる奴だけさ――謝謝蛮好吃的茶、這次讓喝我的老好吃的茶」 今度は俺の茶をくれてやる、あんたのよりうまい奴を、な。 背を見せながらそう言いすてて部屋を後にするリエ。 「ふん、黄の手下に追われてたガキが、随分でかくなりやがった」 紫煙をくゆらせ言う老人の眼は穏やかだった。 後釜に据えてもいいから対抗するのをやめて傘下に降りろという恫喝は足蹴にされた。 彼等が命よりも大事にする面子を踏みつけにしたということでもある。 「だが、落し前はつけんといかん」 老人は再び煙管を盆へと打ち付けた。力が入りすぎたのだろう。 鈍い音とともに柄の付け根から折れたそれを取り上げ、老人は指先で弄ぶ。 「勿体ねぇなぁ――だがしょうがないわなぁ」 しばしの後。折れた煙管は、窓の外へとあっさり投げ捨てられた。 黒スーツを着込んだ男が降り立つと、十数人の子供が歓声をあげて駆け寄ってくる。 都市の片隅にあるそこは、商売女達の子供や、流民の子供で親の世話を受けられない者達を集めた場所。 「虎大哥!」 「儂好哥哥!」 「帥哥白相相!」 「おいこら待てっ!?」 いかな年端もいかぬ子供ばかりとはいえ、十数人の無邪気な突撃。 鍛え上げられた体でも、流石にこの攻撃には耐え切れなかった。 「大丈夫?」 仰向けに地面に倒れ込み、身体の上で発される無数の甲高い子供の叫び声に埋もれしまったリエにかけられた声。笑いをこらえているのが、容易にわかった。 「いいからこいつらをどけてくれ」 うんざりしたような声を出すしか術がない。 「はいはい」となおも笑いをこらえながら子供達を一人、また一人とはがしていく女性の手際は慣れたものだったので、チャンが思わず笑って問いかけた。 「そろそろ爺って呼ばれたほうがいいんじゃないですか? 兄貴」 「うるせぇ殺すぞ」 照れたように眉間に皺をよせ、ねめつけるリエ。いつもなら背筋の凍るようなその視線は、しかし今全く凄みを帯びていない。 半ばに起こした背中に無邪気に笑い続ける子供が憑りついている、いわば子守状態である以上、それはしょうがないことなのだ。 だからチャンは笑う。女性も笑う。終いには、リエも「しかたねぇなぁ……」とぼやきながら背中の子供の相手をする。人を食ったような笑み以外浮かべる事をしらないゆえに、その顔に笑みはないけれど。 「――もしかしたらここも狙われるかもしれねぇ。何人か貼り付けておくが、いざとなったら逃げられる備えだけはしておけ」 出会って既に二十年近く。 それだけで事態がかなり重いものだということを女も理解する。その上で、肩を竦めてみせた。 「い や よ」 あえて一音一音はっきり言った女の貌には悪戯を成功させた子供のような笑み。 「私がここにいるのは、あの子達を護るため。でもそれ以上に――リエ。あなたの家でありたい」 家――その聞きなれない言葉に、リエは目を瞬かせる。 「あの日。警察官殺しの罪を庇ってくれたあなた。例えそれが気まぐれだったとしても、思ってしまったの。その時は言葉にできなかったことも、今ならわかるわ。私は、あなたの心に宿る虎が、穏やかにその身を休められる家でありたい」 そう言う女の瞳は、言葉にしない強い思いを伝えてくる。 「――」 言葉にならない小さな声で、リエは女の名を呟いた。 そしてそのまま、彼はその身を翻した。 あの日の少女の言葉から逃れるためではない。彼女が、ここを男の家だというのなら。 虎穴を襲われる事も、虎児を奪われる事も。許せることではない。 ならば、いかにする。 「チャン――!」 愚連隊の頃のみそっかす。それでもはしこく動き回り、いつしか己の右腕となった男を彼は呼ぶ。 「逢瀬は終わりですかい兄貴」 「ぬかせ」 軽く拳骨で後頭部を殴りつけ、リエは笑みを浮かべた。 鋭い瞳は虚空を捕らえ、浮かべる笑みは獰猛な獣。 「先手を打つぞ――頭をつぶしゃ、烏合の衆だ。ただし、俺より先に死ぬのは許さねぇからきっちり心に刻んどけよ」 「それじゃ俺らいつまでたっても死ねないんじゃないですかね?」 返される言葉は、楽しそうな響きが宿り。 不敵な笑みを互いに浮かべ、二人は虎穴を立ち去った。 その夜、市街地を包んだのは一晩中鳴り響く鉄の号砲。 上海軍閥や国民党とも繋がりを持つ青幇が新興の組織に後れをとり致命的な痛手を受けたのだと人々が知ったのは、数日程経た後だった。 上海中を混沌に陥れた夜はやがて終わりを迎える。 そしてそれは、少年の夢の終わりでもあった。 「終わったぜ、兄貴」 朝靄が漂うほどの時刻。 最後にその部屋に現れたのは、最も遠く、最も防衛が硬いと目されていた拠点を襲ったチャンの姿。 大世界。その日の昼間に三頭目の一人と会見したその店でゆっくりと紫煙を燻らせるリエの下へ次々と齎される成功の報。 貧民の更に下に位置した自分達の時代の到来。そんな新世界への予感から湧きあがった歓声に軽く手を上げて応えつつ、リエは出口へと向かった。 出口の前には、血に濡れたチャン。 同じく血塗れの上半身を露にしているリエは、椅子に掛けてあった上着を取り上げ、「ちょっと外で話そう」と顎で示した。 そんなリエを不思議に思う事もないそぶりで、チャンは頷きを返す。 銃声が止み、静寂が支配する早朝の街。 一面に黄哺江の靄が立ち込める上海の道を二人は歩く。 「怖いくらいに物事がうまくいく」 漂ってくる河の匂いに惹かれるように、二人はかつて少年時代に渡ろうとした河畔へと足を向けた。 「友は死なず、仲間を助ける事ができ、女やガキどもの未来を守れた」 血と硝煙に塗れてはいたが、それもまた刹那的な生き様を好む彼の性に合う。 この世界は、本当に彼にとって都合のいい世界だった。 このままの日々が続く事が貴方の望みだろう、とまるで世界が語り掛けているかのようで。 黙ったままのチャンと共に河畔に着いた瞬間、リエは振り返り、弟分へと鋭い視線を向けた。 「嘘っぱちだ、こんなの」 世界を切り捨てた瞬間、一段と靄が濃くなったような気がした。 その中で、不思議に浮かびあがるチャンの姿。その表情は、泣き笑いのようにゆがみ、寂しげな微笑みを浮かべている。 二人だけとなった世界で、いつしか二人を別つ川が現れていた。 充実した人生。仲間達との輝かしい未来。 全部、嘘だった。それは、とても甘く優しい虚構の世界。 悟ったのは心中の強い叫び故。 ――俺はこれまでの人生を否定しねぇ。後悔はしても、だからこそ今の俺がある。ここにはそれがねぇ。 強く、重い魂の主張。 本当は母を看取りたかった。かっこつけて別れを告げた老人の弟分が死んだと聞いて、心中で頭を掻き毟った。 海を越えた少女に何もできなかったのが悔しかったし、愚連隊の連中の死に目に遭えず、ひょっとしたらと0世界でその影を追う自分を自覚するたびに、そんな想いを馬鹿ばかしいと切り捨てた。 それでも、だ。 そうした想いがあったからこそ――前を見て、気に食わない運命を変えるためにがむしゃらになってもいいんじゃないかと思えるようになってきた自分がいるのだと、思うのだ。 この虚構の世界で、立ち止まったまま迷うくらいなら前へ出ろ、そう少女に言われたような気がしたとき、本当は夢だと気づいていた。 それでも一歩足を踏み出した先の世界を見てみたいと、ほんの少し思ってしまったから――。 「短い夢だったな」 彼岸に立つ青年――いつしかそれはかつて川に漕ぎ出した老人の姿になっていた――が言う。 「ああ」 「じゃが、楽しかった」 「……俺もだ。あばよ」 それは、面と向かっての別れの言葉。 あるいは一つの区切りとしての言葉。 自身にもつかみきれぬ万感の想いを一つの言葉に乗せて言う。 その瞬間、靄が一層の濃さを増し、玻璃の砕ける音が、世界に響いた。 「随分、あっさり覚めたのね」 笑っているのがわかる声で、このサイト――桃源鏡の主が語り掛けてくる。 「あんまり姿をあらわさねぇって聞いてたんだがな?」 「とおっても美味しい夢を頂いたもの。そのお礼」 姿を現すことなく声だけで語り掛けてくるその暴霊の、楽しげな様子にリエは苦笑する。 「俺じゃあんたを引きずりだせなかったってか――じゃあ帰らせてもらうぜ……再見」 「再見大哥!」 楽しげな暴霊の声を背後に聞き、リエは思わず舌打ちを漏らした。 全く、趣味が悪いってもんじゃねぇ。
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