『月陰花園』は遊郭街だ。 『幻天層』『金界楼』『闇芝居』『銀夢橋』という娼館が立ち並び、かつては『双子華』があったが、今ではその代わりに『弓張月』がある。 『弓張月』は以前『双子華』を商っていた銀鳳、金鳳の兄弟が仕切っている一風変わった遊郭、そこでは「体」ではなく「心」を売る。 遊郭で傷ついた男女がやってきては、銀鳳の調合する薬酒、薬茶を呑み、金鳳に相談を持ちかけ、『弓張月』一の娼妓、先に『月麗妓』にも選ばれたリーラに心を打ち明けて、とても今日一日では抱え切れぬ重荷を軽くし、体を休め、明日のためにそれぞれの場所へ戻っていく。 そこで働きたいと望む者は大勢いる。しかし『弓張月』は無限に人を受け入れることはできない。よって、そこには大きな二つの決めごとがあった。 一つ。 『弓張月』はこれ以上「体」を売って働くことができない者のみを、その働き手として受け入れる。 一つ。 病が癒えた者は『月陰花園』を出ていくか、元の娼館で働くかを選ばなくてはならない。その際には定められた金額を『弓張月』に支払う。『弓張月』は、その金額の半分を元の娼館に支払う。 インヤンガイでは食い詰めて身を売る者は途絶えることはない。ましてや、使い物にならなくなった者を捨てるしかなかったところを、『弓張月』で受け入れ、金か商売道具かに変えてくれるのだから、娼館も持ちつ持たれつの関係を保てた、これまでは。 実は、本来『月陰花園』の遊郭はお互いのやり方に口出ししないことを不文律としている。 だが、『弓張月』の在り方は、それを侵しかねない危うさがあった。 その問題が明らかになったのは、ロストナンバーが関わったある事件だった。 クオ・バイルンが裏で仕切る『闇芝居』の『明月姫』を、ロストナンバーが『弓張月』に逃がすことになった一件だ。 もちろん、『弓張月』は断らなかった。今まで多くの関わりを持ってくれたロストナンバーへの恩義、特に『月麗妓』であるリーラの件に関しても、銀鳳金鳳ともに深い感謝を抱いている。 ただ、難癖をつけてくる者が出るだろう、とは予測がついていた。そして、早晩、その不安は噂の形で『弓張月』に届けられた。 曰く、「もし、『月陰花園』の娼妓達がこぞって『弓張月』に逃げ込んだらどうなるのか」と。 おそらく、どの娼館の主も苦笑したことだろう。 娼妓達とて意志も好みもある。やむを得ない事情で身を売り続けている娘も居るが、望んで身を売っている娘も居る。どうしても大金が欲しい娘には『弓張月』の給金は我慢できないだろう。人の欲望は多種多様、だからこそ、これだけの娼館が集まった『月陰花園』で、今まで互いに潰し合わずにやってこれたのだ。 だが、表ではどうあったにせよ、裏で『弓張月』に商売の根本を握られたような気持ちになっていたのは同じだったらしい。 いっそ、束ね役をして頂こう、という話が持ち上がった。 『月陰花園』も、ごく稀に、他の区域ともめ事になることがある。今まではそれぞれの娼館が単独で対応していたため、煮え湯を飲まされることも多かった。それを、形だけでもまとめて応対すれば、それぞれの被害は些少で済む、交渉役の『弓張月』は無事に済まないだろうが、そういう思惑だ。 銀鳳は受けた。 所詮、生きて数十年の命だ。永遠は望めずとも、生きている間、娼妓のために無茶をするのも、男としては楽しかろうと言い放った。 その背後に、金鳳、リーラの後ろ盾を感じてのことだったのは間違いない。「『花王妃巡礼』だって?」 金鳳がぎょっとした顔になる。側に控えるリーラを振り向くまいとして、つい体が動く。「条件はそれを行うこと、だ」「兄貴、だってあれは」「……教えて下さい、私は何をすればいいんでしょうか」 たじろがぬ顔のリーラに、銀鳳は重い溜め息をつく。「古い古いしきたりだよ。その店の一番娼妓に白づくめの装束をさせて、『月陰花園』の店店を回らせるんだ。付き添いは『影妃』と呼ばれる二番娼妓のみだ。男共が同行することはできるが、一番娼妓に何をされても手出しをしちゃならない。怪我をしないことなら、何をやってもいいってことになっている」 そうやって、これから全ての娼妓の上に立つ痛みと苦しみを深く感じて位を上がる、というのが本来の意味だが、その一番娼妓には嫉妬や憎しみ、恨みなどが叩きつけられることも多く、体は無事でも心は酷く傷つけられることになる。ましてや、リーラは『月麗妓』にも選ばれた娼妓、見当違いの怒りを向ける輩もいるだろう。「第一、『弓張月』には、そんなことに出せる二番娼妓がいないのが痛手だな」 『弓張月』に入っている娼妓は大抵傷ついている。体だけではなく、心にも深手を負っていることが多い。そんな娘を、いくら後々のためとはいえ、リーラに付き添わせるわけにはいかない。「それに気になることがある、そうだよな、兄貴」 金鳳が低い声を出した。「金夜叉組が動いてる」「そうだ」 銀鳳はうっとうしそうに『金界楼』はこの時とばかりに何か仕掛けてくるかも知れない、と頷いた。「『花王妃巡礼』をやり遂げ、名実ともに『弓張月』が『月陰花園』を仕切る…そうできれば綺麗は綺麗だが…」「銀鳳さま、金鳳さま」 リーラが唐突に微笑んだ。「見事、やりおおせましょう」「しかし、リーラ」「……私達には、心強い味方がいることをお忘れですか」 リーラは笑みを深める。「私達が引いてしまうなら助けては下さらないでしょう。けれど、たとえ私一人でもやり遂げる覚悟をお話しすれば」 背筋を伸ばし、胸を張る。「力を貸して下さいます、あの方々は」「インヤンガイ、『月陰花園』より依頼です」 鳴海はチケットを5枚、差し上げる。「『月陰花園』において、『花王妃巡礼』という催しが行われるそうです。『弓張月』のリーラとともに催しに参加しつつ、彼女を狙う者の手から守ってほしいとのことです。ただし、リーラ自身の守りは一人だけ、彼女と一緒に娼妓代表として店を回る方にのみ可能、後の方は遠巻きにしかけられる攻撃からの防御と敵の撃退となります」「はい!」 いきなり高い声が響いて鳴海は目を見開く。まっすぐに差し上げた手は白くて細い。「貴方は」「元世界樹旅団、アクアーリオといいます」 少年は珍しくTシャツにジーンズ姿だった。華奢な骨格がなお細く見える姿、それでも必死な目をして鳴海に近づく。「今まで、少しは、依頼を受けました」 ごくん、と唾を呑んだ。「リーラはボクの姉です。ボクが娼妓代表になります。ボクが姉を…守ります」 緊張のあまりか青ざめるほど白い顔、よく見ると体を小刻みに揮わせている。「大丈夫ですか。ちょっと大変そうですよ」「大丈夫です、絶対やり遂げます」「……わかりました、では、後4名……どなたかお願いできますか」 チケットを握りしめたアクアーリオは祈るように目を閉じた。
「…本当にいいのか」 月陰花園、『弓張月』に集まった面々を見渡して銀鳳はようやく口を開いた。 「男装するには体型にメリハリがあり過ぎるもの、私。なら妨害対処に入るしかないじゃない?」 臼木 桂花はチャイナドレスのふっくらとした胸元をさりげに撫でながら、ウィンクした。緑の瞳は生き生きと輝いている。 「インヤンガイのことなら何でも知っておきたいわ。私もここで生きていくから…街区は違うわよ?」 表情を一転させて、銀鳳の隣に控える白い単衣一枚のリーラを見やる。 「普段ならどんな奴でも慕ってる相手は居るかもしれない、殺して相手に口実を与える必要はないって言うんだけど…そんな気遣いが要らなそうな相手よね、金夜叉組って。終われば表向き仲間になるとしても、二度と手を出す気が起きなくなるよう叩きのめしておかないと」 トラベルギアのプラスチック銃を取り出すと、一瞬目を見開いた銀鳳が、なるほど、と微かに笑った。集まったロストナンバーが女子どもばかりだったので、逆に守りの手が要るか、と心配したらしい。 「そこそこ荒事だと伺いましたから、藪扱ぎ用の鉈は持ってきましたけどぉ…刃の方で人を殴ると両断しかねないですぅ。背の方で叩いても頭蓋骨陥没とかしそうなのでぇ…」 その心配をぶち抜くようなあっけらかんとした口調で、出されていた饅頭三つ目をもぐもぐ咀嚼し終わった川原 撫子が口を開く。 「だって武器っぽいもの他に釘バットくらいしかなかったんですぅ☆ 紐を使う方が居るなら刃物もあった方が良いかなって思いましたしぃ☆」 撫子はえへ、と可愛く舌を出してみせる。 「…釘、ばっと…」 「自分でもぬるいかもって思いますけどぉ、相手がどなたでも致命傷になりそうな怪我ってさせたくないですぅ。ギアの強水流で壁にぶつけて気絶させる方向で頑張ろうと思いますぅ。壱号をオウルにしてきたのでぇ、ちょこちょこ視界を切り替えてあちらの接近を早く察知しようかと思うんですがぁ…他に人手が要りそうな方が居るなら手伝いますぅ☆」 「ぬるいのか、それ……兄貴?」 金鳳の呆れ声、くつくつ、と銀鳳は笑っている。 「今回、へたなことをしたらとんでもないことになるって、奴らに教えてやりたいものだ」 「リーラは今回も台車移動じゃないの? リーリスが子狼になって台車を引くのはどうかな? それなら目立たないよね」 リーリス・キャロンが赤い瞳でまっすぐ銀鳳を見つめた。 「子狼? それは……変身する、ということか?」 さすがの銀鳳が戸惑う。 「狼は人じゃないもん。決まりは破ってないよ?」 「いいんじゃないか、兄貴」 金鳳が弾んだ声を出した。 「正直言って、今回の『花王妃巡礼』は古いしきたりの形をとった公開処刑に近いんだ。もちろん、アクアーリオは側で付いていてくれるが、反撃できるわけじゃない。少しでも間近にもう一人配置できれば、それに越したことはないだろ」 銀鳳が険しく眉を潜めた。 「確かに今回の『花王妃巡礼』は各娼館の一番娼妓が勢揃いすると聞いた」 『幻天層』からは茜海妓、『金界楼』からは金剛砂妓、『闇芝居』は暗闇姫妓、『銀夢橋』からは涙宮妓。 「『幻天層』は幻海姫妓じゃないのか?」 一緒に控えていた『弓張月』の用心棒、かつて『闇芝居』で明月姫の護衛を務めていた暴霊縛りの術を使うジャグド・レンラが首を傾げると、 「いつの話だよ、今はもう、昔、華宇海に拾われたっていう茜海の時代さ。それに…」 幻海姫は、元『闇芝居』の出、クオが『金界楼』に回した女じゃないか、と式神遣いのラオン・スウが突っ込んだ。 「とにかく、どの娼妓も、リーラには一言申し入れがあると顔合わせを強く望んでいるらしい。巡礼が回ってくるのを、店の前で待っているそうだ」 「娼妓が待ってる? リーラを?」 金鳳がひやりとした声で唸った。 「大丈夫よ、リーラ、リオ。守ってあげるから安心して」 リーリスがにこやかに約束するのを、銀鳳はなおもじっと眺め、静かにリーラを振り向いた。 「お前はどうする」 「……私は」 できれば古式に従った方がよいと思います。 「確かに台車は使いますが、地面を掌で押して動けばいいだけのこと、それにリオ、も押してくれるのでしょう?」 振り向いたリーラに、まだTシャツジーパンのリオが頷く。 「ただ、ボクは」 リオが考え考えことばを紡いだ。 「リーリスに来てもらった方がいいかも知れない」 リーリスがぱっと喜色を浮かべるのに、アクアーリオは一瞬照れたように赤くなり、けれどすぐに静かな口調で言い足した。 「お姉ちゃん。一つ言っておきたいことがあるんだ」 「何?」 「ボク、ここにいなかった間、ずいぶん酷いことをしたんだよ」 そっと片手を差し上げる。その指先がふいに、ふる、と解ける。ぎょっとしたのはリーラだけではない。彼の体の事情を知っている者は全て、とっさにリエ・フーが金色の目を細めて、その手を握る。 「何をする」 「…ありがとう」 リエを見上げて、アクアーリオは笑った。 「大丈夫だよ、ここで解く気はない……見た、お姉ちゃん」 きちんと膝を揃えたまま、アクアーリオはリーラを振り向く。その背はいつの間にか、台車に乗ったリーリスをわずかに見下ろすほどになっている。 「ボクの体は武器になる。それを使って、たくさんの人を苦しめた。でも次に武器になったら、ボクは終わりなんだ」 「…リオ…」 「ボクはもう二度と武器にはならない。そのために、体を使わないで闘う方法も覚えた。けど、けどね、お姉ちゃん、ボクの中には武器になりたがっているボクが居る。もし、そのボクが『花王妃巡礼』の最中に、どうしても我慢できなくて、武器になっちゃったら……リーリス」 肩越しに振り向く。 「ボクを殺してね……できるよね?」 アクアーリオがターミナルで暮らしていたということは、数々の報告書に目を通す機会があったと言うこと、リーリスの密かな願いも、それとなく知ったということだ。 「ボクはインヤンガイに帰属する。それはもう決心してるけど、そのボクが、ここに迷惑をかけるようなら、帰属する意味はないと思うんだ」 「……リーリス、何もできないよ」 「……約束してくれればいいよ」 アクアーリオは薄く笑った。 「ボクが我慢できなくて武器になって、お姉ちゃんや『巡礼』を壊すようなことをするようなら、リーリスが消してくれるでしょ?」 「……大丈夫よ、リオ」 リーリスはそっとアクアーリオの側に近寄った。額にキスする。 「リオは1人じゃないもの。リーラもリーリスも居るわ。だからリオも…頑張ってリーラを守ってね」 「それでは始めようか」 それぞれが準備に立ち上がる中、リエ・フーはじっとアクアーリオの頭の上を凝視していた。 「あれは………いつからだ?」 ロストナンバーにはないはずの真理数の場所、そこに何かちらちらとした、目を凝らせば数字のように見えるものが浮かんでいる。 「リエ?」 「……リオ。強くなったな」 振り向いたアクアーリオに、気持ちを切り替え笑いかける。 「その格好似合ってるぜ」 アクアーリオは見る見る赤くなった。 「あ、あの、ちょっとはさ、うん、変わったかな、と、思ってる、自分でも」 「俺は俺にできることを全力でやる……じゃなきゃ『弓張月』の用心棒志望の名が廃る」 さらりと言い放って、アクアーリオの前へ擦り抜ける。 「え? えっ、あのっ、リエ、さん」 「リエ」 「リエ、あの、ほんとっ? ほんとに『弓張月』に来てくれるのっ?」 慌てたように、けれど弾んだ声を上げて追いかけてくるアクアーリオにくすりと笑う。既に、覚悟はできている、この、背中に。 「今回は裏方に徹する……リオとリーラにゃ傷一本つけさせねえ」 低く呟く、仲間を守る意志に心が沸き立つ、それは懐かしい感覚だ。 「この花街の大まかな地図くらいあるわよね? こういう場所なんだもの、客の案内用に。ないなら大雑把でいいから街の見取り図と巡礼の歩く順路を書いて貰えるかしら」 そう桂花がねだって銀鳳に書いてもらったトラベラーズノート、皆の手にもノートを通じて地図が渡った。 「順路を見に行く時間はある? 実際に見た方が待伏せ場所を想像しやすいのよ。それにここにも護衛が居たわよね? もし彼らが同じことをするならどこで狙うか、参考までに聞きたいわ」 「まず、このあたりですかね」 ジャグドが示したのは、『金界楼』から少し離れた路地。 「ここは次の店まで少し空きます。場所も陣取りやすいだろうし」 「弓矢や銃器、術かしら。銃なら撃ちおろせる場所、弓なら600m圏内、術は遠距離も仕掛けもあると思うけど、そこの術師さんの方が詳しいんじゃない」 「今回、あらかじめの仕掛けは難しいですよ」 ラオンが苦笑した。 「直前にこちらの手も順路を回ります。『弓張月』を出て、『幻天層』『金界楼』と回り、この路地で一休みして、『闇芝居』『銀夢橋』と回り終え、『弓張月』へ戻る道筋、ここで遠距離で仕掛けてくるか、焦っていたら直接来るでしょう」 ちょっと口を噤み、 「クオ・バイルンがあれこれ雇っているって噂もありますが、金夜叉組が競合するのを嫌がったらしいので、同時に仕掛けて来ないでしょう。『闇芝居』と『銀夢橋』の間に昔あった娼館の廃墟が、まだ未整理で残っています。そこに引きずり込まれるとやっかいですね」 結構無茶しなくちゃなりません、と続けたラオンに、桂花はにっと笑う。 「無茶すればいいじゃない。一撃で死ななきゃ治癒するわ」 「えっ?」「はっ?」 「連絡は小まめにとりましょう」 立ち上がった桂花はたじろぐ二人を見下ろし、くい、と顎で促した。早速待ち伏せされそうなポイントへ急ぐ。先手を打って強襲するつもりだ。 「壱号、頑張って見つけて下さぁい☆」 撫子は上空へセクタンを放つ。オウルフォームの小さな姿が見る見る遠ざかり離れていくと、視界をミネルヴァの眼と切り替えながら不審者を捜す。 「おやぁ☆」 桂花と達が当たりをつけた場所をくるくる回らせていると、不健康そうなごろつき集団連中が、建物に隠れるように移動していくのを見つけた。 「南の方にそこそこたくさん人が居ますぅ☆ 何か手に危ないもの持ってるので全員不審者で危ない人だと思いますぅ☆」 トラベラーズノートにメモして状況を知らせる。どうやら二手に別れていくようだが、片方は桂花の向かった路地のあたり、もう片方は道筋に潜むように散らばっていくようだ。ついでに見つけてしまったが、娼館廃墟周辺に、きらきら光る点が奇妙に一定間隔で走っていく。 「あれが金夜叉組ですかぁ☆」 先に片付けとくと効率的ですかねぇ★ 撫子は娼館廃墟の方へ走り始める。 「始まったか」 娼館と娼館の間、娼妓以外にここで暮らす人々の小さな家屋の屋根で、リエは歩き出した『花王妃巡礼』を眺める。『弓張月』を出立していくリーラは台車に乗って地面を掌で押し、アクアーリオは同じような白装束を纏って側を静かに歩いている。逆隣にはリーリスが変化した子狼が尻尾を揺らせながら付き従い、傍目にはその当たりをうろついていた毛色の変わった野良犬が、無防備な人間二人の隙を狙っているようにも見える。 普段は夕刻にも至らない、こんな時間に娼館が開いていることなどない。女達は湯谷に出かけ、磨き立てて店の準備をしているか、夕べの務めで疲れ果てて眠っているかだろう。だが、今こうして見渡す月陰花園は、押し殺したような興奮に満ち満ちて、『弓張月』からの二人を今や遅しと待ち構えているようだ。よく見れば、明らかにここには不似合いな男達が三々五々と散っていくのが見える。 『南の方にそこそこたくさん人が居ますぅ☆ 何か手に危ないもの持ってるので全員不審者で危ない人だと思いますぅ☆』 「……ふふん」 トラベラーズノートの撫子の連絡に、リエは鼻で嗤った。撫子のセクタン壱号の視界があるなどと、月陰花園の連中は知らないし、想像もしていないだろう。予想していればやりそうにない、露骨な配下の手配をクオもしようとしないだろう。 世界を越えた能力が注ぎ込まれる時、世界は本当に無力になる。今はこうして、リエ達が攻め入る側だが、つい先ほどは世界図書館が攻め込まれた。 もし、リエがインヤンガイに帰属したならば、リエもまた、このインヤンガイの世界の枠に入ることになる。時に無力に呻くこともあるだろう。それで本当に気持ちはおさまるのか。 「…行くか」 路地から派手な銃声が響いた。桂花が始めたのだろう。彼女もまた、インヤンガイに帰属を望んでいると言った。 リエは軽く屋根を蹴った。 (こっちを見ろ…これがこの街区の花王妃。目に焼き付けろ…これが花王妃。覚えておけ) リーリスは子狼の姿のまま、魅了と精神感応でリーラの姿を覚え込ませていく。 『弓張月』から『幻天層』に来るまでに、もうリーラの額は汗に濡れ、掌は土で汚れていく。時に傾いだり動かなくなればアクアーリオが手を貸すけれど、リーリスには触れさせようとしない。 頑張って、と尻尾でリーラとアクアーリオをはたはた叩き、近寄ってぺろりと頬を舐めると埃の味がした。それでも、 「ありがとう、元気が出るわ」 リーラが微笑むのは悪くない。二人の白装束に合わせて、自分も何かしら身につけたかったけれど、首にくるりと巻かれた白いリボンだけで我慢している。 『幻天層』は七階に渡る舞台を備えている。幻の天界を模した造りの建物の中を泳ぐのは、額に輝く鱗を貼りつけ、耳に魚の鰭を模した金銀の飾りものをつけた人魚達、その歌声が客を酔わせる。 その入り口に、今『幻天層』一の娼妓となった茜海妓が、金銀の刺繍鮮やかな薄紅の薄物を翻らせて待っていた。額には虹色の三枚鱗を飾り、黒髪にしゃらしゃらと鳴る金細工の冠を頂く姿、地面の上をごろごろと木の台車で近づくリーラのみすぼらしさが際立つ。 「花王妃、参りました」 止まったリーラが両手を突いて、地面に額がするほど頭を下げた。側でアクアーリオもぺたりと座り、見よう見まねで頭を下げる。リーリスはその真横に座って、二人に何かされようものなら身をもって庇う気配で茜海妓を見やる。 「何だい、あのみっともない姿!」「泥に汚れてさあ、あんな女を誰が欲しがるもんか!」「それを言うならうふふふ!」「それ以前の問題かあ!」 アクアーリオがきゅ、っと唇を噛むが、リーラは平然としている。静々と頭を上げようとした矢先、茜海妓がぱっと手元の扇を閉じた。そのままぐい、とリーラの後頭部を扇の先で押さえつける。リーラはぴくりと体を震わせ、再び平伏した。 「あたしの前で顔を上げられると思いなさんな」 茜海妓が冷ややかに言った。そのままぐいぐいとリーラの頭を押さえつける。もう一度地面に押しつけさせる力に、リーラは無言で従う。ざり、と額と頬に砂が擦れた。野次を飛ばしていた女が、どうしたのだろう、慌てて店の中へ駆け戻る。急に気分が悪くなったらしい。要因はリーリスの精神汚染、狼をちらっと見たアクアーリオが、姉と同様深く頭を下げた。その後頭部を、茜海妓がぱしりと叩く。 「どこの世界で汚れてきたかわからぬ小僧が付き添いかえ、『弓張月』の女が知れる」 だが、それだけで茜海妓は身を引いた。顔を上げたリーラとアクアーリオが去っていくのにまだやいやい騒ぐ女達を、 「舞台準備は済んだんだろうね、遊んでいたからとは聞かないよ!」 一喝して引き上げさせる。その背中にリーラはもう一度頭を下げる。 「姉さま、ありがとうございました」 「さあて、お次は誰なのっ!」 桂花の銃が立て続けに弾丸を吐いた。麻酔弾と氷結弾、連射しつつ足止めと攻撃の無効化をはかる。素早い移動、的確な射撃、インヤンガイで、他の世界で、繰り返し遭遇した戦闘経験は確実に身についている。自分の命が危険に晒されるほど、浮き立つように元気になってしまうのはなぜだろう。 「おっと、そいつは無駄だ」 「っ!」 背後でリエの声が響いて光が走った。振り返った視界に地面に輝く太極図、ごろつきどもの相手に酔っている間に忍び寄っていた金夜叉組が弾き飛ばされる。 その紐を狙って桂花は火炎弾を放った。どれほど強靭なものであっても、基本は紐、ましてや火炎弾とリエの太極図からの業火ではひとたまりもない。攻撃をしかけても次々と炎上していく状態に、強く舌打ちをした狐面が、身を翻して家屋の影に消えていく。 「待ちなさいっ!」 頭の中に地図を思い浮かべる。少し先では確か。 「ぎゃあっ!」 ぼうん、と派手な音がして、狐面が再び空を飛んだ。真下に居たのはラオン、金属の扇のようなものをかざし、舞い散らせたのは黄色い紙の人がた、敵に接触するや否や質量をもって膨れ上がり、まるまるとした腕で男達を殴り飛ばす。血迷ったのか、再び桂花に向かってきたのは、こちらなら倒せると軽んじたのか。 ぺろりと唇を舐めて、桂花は銃を構える。 「こっちのみーずは、あーまいぞっ、と」 どんどんどんどんっ! 「商標に偽りありだろ、それ」 屋根のリエがペンダントを掴みながら、桂花がぶっ飛ばした男達を眺める。 「花王妃は今どこまで進んだの!?」 「今……ちょうど『金界楼』だ」 外道が、とリエが吐く。 浅黒い肌、きつい金色の瞳。金剛砂妓の豪奢な衣は金糸で縫われ、そのしなやかな足先には金色の華奢な靴をはいている。その靴先で、今リーラは容赦なく踏みつけられていた。 「野良犬を守護につけるのか、『花王妃』」 「申し訳ございません」 リーラが低く謝る。 「私もまた下賎の身なれば、追い払うこともできませぬ」 「あれを殺せばこの足をどけてやらぬでもない」 がしっ、と鋭く尖った踵がリーラの顔を掠める。それでも傷はついていない。薄赤くなったこめかみから頬、リーラはなおも頭を下げる。 「お許し下さい、我が身を思えば殺す資格さえありませぬ」 「今度の『花王妃』は非礼よの」 くい、と顎をしゃくった金剛砂妓の合図に、奥から一人の女がくすくす笑いながら盥を持ってきた。あ、とわざとらしくよろけて、リーラの上に中身をぶちまける。拭き掃除後のものか、泥水がリーラの頭からかかる。 「これで去れ」 金剛砂妓が衣を翻して奥へ入る。けらけら笑いながら盥を持っていた女が、ふいに鼻を押さえて俯いた。盥に見る見る鮮血が溜まる。 (そうだお前は怒っている…こんな小娘が花王妃になったことに。怒れ怒れ怒れ怒れ…鼻血を噴いてお前の衣装を赤く染めろ) リーリスの精神汚染が広がっていく。手拭いで顔を拭ったリーラが進み始めるのに、アクアーリオはリーリスの背中を押さえた。 「やめて。お姉ちゃんが、哀しむ…」 きり、っとアクアーリオは歯を鳴らし、リーリスもまた軽く唸った。 予想外の迎撃に金夜叉組は泡を食って娼館の廃屋へ逃げ込み、そこで体勢を立て直して一気にケリをつけようと考えたようだ、だが。 「なぜ手勢が減ってる」「それが……妙な奴らが動いてます、頭」 金狐の面がそれぞれに揺れる。 「『弓張月』が手配したのか」「そんなそぶりは見せません」 手配りした者は次々と連絡を絶ち、確認に赴けば紐を焼き切られ、意識を失って昏倒し、あるいは痣だらけになって倒れている。命までは奪われていない、だが戦闘に戻れる状態ではない。 「ここで奪うぞ」「はっ、金夜叉組の名にかけて、『花王妃』は亡きものに」 「そ、れ、はっ、無理、ですぅっ☆」 明るい声が戸口から響いた。振り返る間もなく、どこから吹き出たのだろう、巨大な水流が手近の狐面から次々吹き飛ばしていく。絶叫と悲鳴、混乱に逃げ惑う男達の彼方で撫子がにこやかにギアを振り回す。 「ぎゃああっ」「げはっ」「ひいっっ!」 「ええいっ、女の子を苛める悪い子はみぃんなっお星さまになれいっ★」 ばふばふばふっ、ばしゅーーーっっっ!! 「すっとらーいくぅ!」 特大の水流が廃墟の壁と天井をぶち抜いた。水流に流され柱や屋根に叩きつけられた金狐がボウリングピンさながらに飛び散っていく。支えを失った廃墟は派手な音と地響きをたてて崩れ落ちる。 「『花王妃』は今『闇芝居』ぐらいですかねぇ」 妙に明るくなってしまった廃墟『跡』で、撫子は汚れた手の埃を軽く叩いて、トラベラーズノートにペンを走らせる。 『アクアーリオ君、そちらは大丈夫ですかぁ? こちらはそこそこ順調に相手を叩きのめしてますぅ。「弓張月」に無事戻るまでがお仕事ですからぁ、きついこと言われてもリーラさん守って上げて下さいぃ。ファイトですよぅ☆』 「頑張って、って」「ええ」 トラベラーズノートに届いた激励をアクアーリオはリーラに伝えた。 『闇芝居』での挨拶は口汚いののしりだった。汚水で汚れたまだらな白装束を嗤われ、乱れた髪を引っ張られ、こちらを見てちゃんと挨拶しろと顎を掴まれた。 「さあさ、こんな奴を相手にしているだけ時間のむださ、いくよ、お前達」 黒髪のおかっぱ、両肩に大きな傷があるのを刺青で飾った暗闇姫妓は、言い捨てるとぺっ、と唾を吐き捨てた。それがリーラの額に飛んだが、リーラはじっと動かない。暗闇姫妓が奥へ入るまで、顔一つ歪めずに凌ぎ切る。 『闇芝居』を出て、廃墟の娼館があるはずの場所には瓦礫の山があった。そのあちこちに、金狐面の男がびしょ濡れで転がり、倒れ、呻いていた。 「お姉ちゃん、皆が」「ええ、最後よ、しっかり行きましょう」 頷き合うと、リーリスが駆け寄ってきて、くいくい、と頭を擦り付けてくる。 次は『銀夢橋』だ。 「…っ」 見守っていた桂花は思わず飛び出しそうになった。 『銀夢橋』は見かけは銀細工がちりばめられた平屋だ。だが、橋の下、と呼ばれる何層もの地下遊郭が売り、その前に立っていたのは白とピンクのメイド服様のドレスに、銀細工のティアラをつけた少女、左の頬に大きな涙の粒を模した紫と赤の化粧、そこにきらきら光る宝石の粒を貼りつけている。ぷくんぷくんの唇で、 「お初にお目にかかりますのん。『涙宮』ですのん」 「『弓張月』、『花王妃』リーラにございます」 「馬鹿は嫌いですのん。馬鹿を取り巻く奴らも嫌いですのん。ちょうだいな」 奥へ呼びかけてすぐに持ち出された妙な形の黒い容器、中身が一気にリーラに注がれる。生温かな黄色い水、わずかに湯気が立って臭気が鼻を突く。 「今手に入ったばかりの小水、呑めと言わないのは宮の優しさですのん。ありがたく思し召せ。寒さに凍ゆるのを哀れんでの善意ですのん」 さすがにリーラの唇が険しく引き締められた。ぎちりと歯を食いしばる。やがて、押し殺した声が漏れた。 「『涙宮』さまのおことば、謹んで承りました」 「『花王妃』には我が指一本、触れてませんのん」 どこかでばしゅんっ、と堪え損ねたような水音がした。がきっ、と屋根瓦を踏み砕くような音も響いた。どんっ、と空中に向けて放った銃声も。背後の狼が唸る声、全てにリーラは支えられる。 「……我が里は、」 リーラが顔を上げる。ゆっくりと顔を掌で拭う。 「傷みを癒す里でありますれば、宮様もまた、いずれおいでもあるでしょう」 「……死ねや」 がんっ、と叩き付けられた尿器はがらがらと無様に転がった。もう一度頭を下げたリーラを、他の『銀夢橋』の女郎が見守っている。その面々に微笑みかけ、リーラは戻りましょう、と声をかけた。 「つつがなく無事終わった。感謝する」 宴の席で、銀鳳、金鳳は両手を突いて深々と頭を下げた。 「まあ、むかついた分は、帰り道の連中で晴らさせてもらったし?」 桂花が杯を空ける。 「廃墟で逃げた金狐さんもぉ、後追いして来られたので、うんと遠くへ逝ってもらいましたしぃ☆」 おかわり、と撫子は5杯目の椀をそっと出す。 「ぎりぎりに突っ込まれたのは驚いたけど」 リーリスはあわやで突っ込んできた男の攻撃を変化したまま庇った。捕まえて塵化できなかったが、投げて来たナイフは塵化して防いだ。 リエはずっと『巡礼』を見守っていて、敵側が仲間を集め何かしようとする度に陣から呼び出した炎の虎を突っ込ませて連携を崩した。 「料理はまだまだある、ゆっくりやっててくれ」 「お酒もよろしく!」 桂花の笑い声を背中に、銀鳳と金鳳、それにリオとリーラは別室のリエの元にやってきた。 「話がある、ということだったな」 銀鳳が座る。並ぶ金鳳、リーラ、そしてアクアーリオ。リエが珍しく正座しているのは、これから話す決意の重さを支えるためだ。 「俺を弓張月の用心棒にさせてくれ。此処で働きたい」 言い放つと、銀鳳が眉を上げた。 「…話せば長くなるが……俺のお袋も育ての親も娼婦だった。生みの親は刃傷沙汰で刺し殺されて、育ての親は流行り病で野垂れ死にだ」 脳裏を掠める数々の顔、その幾つが今も側に居るだろう。 「だから……そんな女がもう出ねえよう守りたい。困った事があれば呼んでくれ。必ず手を貸す」 「しかし……探偵から、いやリーラからも多少の話は聞いている。そんなに自由がきく身ではないだろう」 「これを見てくれ」 ふいにリエは服を脱いだ。上半身裸になって、くるりと銀鳳達に背中を見せる。そこには一匹の虎がいるはずだ。険しい崖の上、研いだ爪を突き立てて、柔らかな月光に炯々と眼を光らせ、月を仰いで吠える虎。 「月を守る虎……これが俺の覚悟の証だ。てめえらと一緒に弓張月を背負ってく覚悟のな」 吐いた声が微かに震えた。今日の『巡礼』を見て確信した、郭の傷みを引き受けるここには、強くたじろがぬ守りが要る。 「リ……エ」 服を着て向き直る。『巡礼』でさえ泣かなかったリーラが、今にも零れ落ちそうな涙を一杯にため、口を押さえて震えていた。 「看板が重くて倒れそうなら、俺や誰かに寄っ掛かりゃいい。一応、舞台で顔も売れてる。必要に迫られりゃそこの姉弟の代わりに体を売っても構わねーぜ……なんてな……床上手なんだぜ? 俺」 片目をつぶったリエを銀鳳は厳しい顔で見つめていた。その返事を待たぬまま、リエは立ち上がり、リーラとリオに近づき、ぽんぽんと二人の頭を撫でる。 「よく頑張ったな」 気に障ったんなら悪ィ、と微かに苦笑した。 「俺もずっとこうして欲しかったんだ……叶わぬ夢だったけどよ」 よく頑張ったな、と大きな手で、温かな指で、認めて、慰めて欲しかった。くい、と顔を上げ、濡れかけた黄金の瞳で笑いかける。 「辛かったら胸を貸す……肩を貸す」 お前は独りじゃねえ、リーラ。 「リエ・フー、と言ったか?」 銀鳳が苦しそうに口を開いた。 「実は、今よりリオは『弓張月』に居を移す」 この子は元よりインヤンガイに属する者だ。だが、お前はこれまでの世界を捨てることになる。 「背中の覚悟、骨身に沁みて有難い。今すぐからでも手を借りたい、だが」 銀鳳は珍しくそっとためらうように微笑んだ。 「俺はお前が苦しむのは辛い」 『弓張月』はお前の部屋を用意しよう、リエ。 「いつから住むかは、お前に任せる」 低く静かな許しが出た。 「……リエ?」 去っていくロストナンバー達を見送るアクアーリオは、目を見開く。リエの頭上に何か、陽炎のようにちらつくものが浮かんでいる。ひょっとすると、あれは。 「…真理数…?」
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