赤の王――叢雲のヴォロス襲撃、ナラゴニアの襲来、それに続く最大の戦役。 東京を舞台に繰り広げられたその決戦の場において、赤の王に飲み込まれた者が三人。 内二人は仲間の呼びかけに応え、あるいは外こそが本来の道と見て、帰還。 残る一人は――闇へと、その身を籠らせた。 ブルーインブルー。 いつかのようにじりじりと暑い日差しも夕暮れとなるにつれ徐々に和らいでいく。 その浜辺は今日も静かに波の音をひびかせていた。 寄せては返すその音と相対した少年が一人。 その手には銀色のハーモニカ。 かつて穏やかなこの空に溶けていく音色をはなっていたそれを握りしめ、リエは砂浜へと腰を下ろした。 陽が沈みゆく、黄昏の海。 思惟は解け、瞑った目の内で、静かに闇が深まっていく。 瞼の裏に映るのは、最後に別れた「知り合いのガキ」の立ち去る背中。 ――別了、小虎。 少し前。言葉を託されたものより伝えられたそれは、彼らしく端的なもので。 「これが本当にお前の望みか」 奥歯を一度、噛み締める。 そのままに倒れた背。ふてくされたように大の字に寝転がるリエの意識は、やがてもともと寄り添うてきた闇に静かに誘われて行く。 穏やかに響く波の音が、現と幻の境目を一層薄くするかのように少年の心へ忍び入り。 ふと、しゃく、と頭上の砂を踏み分ける音がした。 目をあけた先。 見上げる位置に立っていたのは夜空に調和する色の髪。 琥珀の瞳はいつものように不機嫌に歪められてはいたが、どことなく剣呑な光が薄れている感もした。 「……よぉ」 ぶっきらぼうに頭上からかけられた声。 数度の瞬きを経て、リエはその身を勢い良く起こし振り返る。 「てめぇっ!!」 砂をぱらぱらと散らしながら、リエはグレイズの襟を掴み、殴りかかる。 一発目は、無抵抗だった。 だが二発目は綺麗なカウンターを決められてしまう。 数発、無言での拳の応酬。避けて、避けられ、掠めた一撃はしかし腕をとられ、動きを制限される中腹部への一撃を見舞われる。 響く鈍痛、だが殴られた腕を掴み、リエは浜辺へと巻き込むように投げ倒した。 幾度か相身を入れ替え砂まみれになる二人。 やがて、荒い息を吐きながら上になったリエが、再びグレイズの襟をとって問いかけた。 「他の、道は、なかったのか」 「――だ」 とぎれとぎれの呼吸の中で発された問いに、口の端から血を垂らした少年が応じる。 掠れた声は音を紡ぐのを難しくしてしまっていた。 リエによく聞き取れなかった事が分かったのだろう、少年は再び口を開く。 「満足なんかしちゃいねぇ――だけど、図書館に戻るよりはましだ」 「なんだとっ!?」 危険な光に目を煌めかせたリエが右の手に再び力を籠めようとする。 その前に、グレイズが言葉を重ねた。 「お前といるのは、楽しかった」 けど、と。 「あいつらのことを忘れそうになる――それは、嫌だ。図書館に戻って楽しくやれることはできただろうよ。けどそれじゃ駄目だ。あいつらが一番じゃなくなっちまう」 その言葉は、リエの内部に渦巻いていた怒りを急速に鎮めるものだった。 その想いは、否定できないと。リエ自身がそう感じたからだ。 そんなリエを見て、グレイズはぶっきらぼうな顔を常になくゆるめ、口の両端を少し釣り上げる。 それが不器用な笑顔なのだと理解するのに、やはりほんの少しの時を要した。 「大事な人が見つかって帰属するのか――良かったな」 そう言うグレイズを見て、リエの表情が苦さで歪んだ。 「なぁ、これは夢か? お前は――俺が俺に都合のいいことを言わせたくて呼んだ幻か?」 膝で立ち、ついた両腕の間。自らの下に寝転がるグレイズを見下ろしながら、リエは問う。 返されたのは、先ほどよりも自然な笑みだった。 「んなこたぁどうだっていいだろ」 そう言ったすぐ後、その言葉を恥ずかしく感じたかのようにチッと舌打ちを一つする少年の姿を見て、リエもようやく微笑みを浮かべた。 身を起こし、ゆっくりとした所作で少年の上からその身をどける。 少し離れたところに落ちていたハーモニカ。 それを拾うべく立ち上がり歩き始めたリエ。 グレイズは寝転がったままに、その様子を眺めている。 手にとった銀色の楽器を優しくはたき、砂を落としたリエ。 空を見上げ、瞬く星の光を一度目に入れて、リエは口をつけて笛を吹く。 ゆったりとした、追悼の曲。 どこか重々しさを残しながら、底流にある何かを感じさせるその調べは、葬送の曲。 しばし響く音色と波の音だけが、冥く染まる汀を占めた。 やがて、終止符が打たれ、音が途切れる。 「お前に聴かせたくて練習したんだ、ハーモニカ」 寝たままに瞳を閉じて聞き入っていたらしきグレイズへと顔を向けて、リエが言う。 「上手かった」 返されたのは、端的な感想。 「けどこれで最後にしろよ。これから大事な人を護るってんなら、葬送曲は必要ねぇはずだ」 「……そう、だな」 もらっていていいんだよな。 そう問いかけるリエ。上半身を起こしたグレイズが、リエを見上げて肩をすくめる。 「捨てろって言いてぇが聞かねぇだろ。なら、せめて明るい曲を大事な人に吹いてやれ」 「ああ」 ゆっくりとリエが、グレイズの側へと歩み寄る。 横に並ぶのではなく、背中合わせに腰を下ろしたリエ。 視線を合わさぬままに、両者の会話が交わされる。 「これからは別々の人生だな」 「ああ」 静かな波の音に紛れて、海岸に群れる草の擦れる音が、静かに囁く二人の間を抜けていく。 「俺はインヤンガイに帰属して、そこで生きていく。でも、お前の事は絶対忘れねぇ。ずっと友達だ」 そう言ったリエの瞳が捉えるのは月。 まばゆく夜天に輝く満月ではない。満ちて、欠けて、そして新たに満ちる前の下弦の月。 それが昇ろうとする様だった。 「友達なら約束しろ。おまえが見つけた道の前だけを見て、大事な人を何があっても守れ。俺が言うのはなんだけど、おまえなら幸せになれるさ」 そう言って笑うグレイズが、不意にチッと舌をうつ。 「どうした」 「なんでもねぇよ」 照れを隠そうとしているのがわかる、ぶっきらぼうな声。 だから、リエは追及しようとはしない。 ただ、互いの気配を感じ、夜気の暖かさを味わっている。 背中合わせ。 見る景色も違う。 だが、それに何を感じるのか――その心の質は、きっと似ている。 会った時に無視できなかったのは、きっと無意識の中で感じていたのだろうな、とリエは思う。 そんな彼の背中で、小さな声が響いた。 「いつ以来だろうな」 振り返ろうとして、自制した。 振り返ってはいけない。 まだ。 「普通に笑える日が来るなんて、想像できなかった」 そう言った声に、馬鹿野郎、と小さく返す。 返ってきたのは、チッと小さくならされる音。 そして声。 別了、小虎――ありがとよ ゆっくりとリエは、背中を倒す。 先ほどまでなら、すぐに相手にあたりとまったはずだった。 渚に向けられた背はしかし、障害物に邪魔されることなく静かに浜辺に倒れ伏す。 目に映るのは、満天の星。 いくつかの星が煌めきを強め、そして流れ落ちていく。 静かに更けて行く夜の光景は夢の中なのか、現実か。 いずれでもいいと、そう思えた。 ゆっくりと閉ざされた瞼の向こう側で、静かに、静かに波の音が響いてる。 ひいてはかえす波の音に心を包まれながら、リエは再びの眠りの中へ、その心を投じていく。 手に抱えたハーモニカだけが、細やかな月の光を反射して、夜天に小さな煌めきを生み出していた。
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