トラベラーズ・カフェは今日も賑わっている。「俺さあ、帰属? ってしてみよっかな、とか…」「……メモリーになるって痛いの…?」「チャイ=ブレに飛び込んだ奴さあ……」「どうしても見つけたいんだ元の世界、でも…」「……よね、あんまりだと思って…」 様々な種族の、いろいろな生き物達が、テーブルを囲んで話し込んだり笑ったり沈み込んだり半泣きになったり。 その中のテーブルの一つに、落ち込む沈み込む悲嘆にくれる、そういった感情とは違う、あえて言えば諦観とでも言いたいような静けさを纏って、軍服姿の男が一人、日本茶を前に座っている。 黒い短髪、切れ長の双眸、獣のように険のある顔立ちはそれでも端正で、腰に銃を吊るしている。壱番世界の歴史に詳しいものが見れば、男の着衣が日本帝國軍人のものであることに気づき、彼の時代背景を推察するところだが、その瞳は髪のぬばたまを裏切る黄金色、しかし、その金は上海で諜報活動を行っていた時の偽名、王虎(ワンフー)にふさわしい。「…」 端然と思考を凝らしていた鷹遠 律志が、小さく吐息をついて瞑目するのを、遠くから見ていた桐島 怜生が、隣の冷泉 律を突いた。「いたいた、リエぴょんのおとーさん。かたっ苦しい顔して考え込んでるぜ? どう切り出す……って、おいおい」 ことばの最中で、まっすぐそのテーブルに向かって歩き出す律に、怜生は呆れて後を追う。「何なの、今回は当たって砕けろ? 十八番奪われるといろいろ喪失するもんがあって哀しいんだけど」「…今なら誰もテーブルに居ない」 いつもなら多少は突っ込んでくれる律は、怜生のぼやきに振り向きもしない。 それほど大事で思い入れがある一件、そういうことなのだろうが。「それだけでもなさそーな感じ」 ちらっと見ただけでも、律志は職業軍人、つまりは『人殺し』が仕事な人。 先日の依頼の一件で、律は越えてはならない一線を越えたのかも知れない。そのあたりの何かが、これほど激しく律志に迫ることを促している、ということもある。「やれやれ」 だから生真面目な人はヤっちゃ駄目ってことなのかなあ、ずるずる引きずって背負っちゃうから。 溜め息まじりに、それでも放ってはおけなくて、怜生は律志のテーブルで立ち止まった律の背後に立つ。 律は考えていないようだけど、万が一、ほんとヤバイ人なら、それこそ引きずり込まれて美味しく頂かれちゃうじゃん? 気がついたら頭と胴が泣き別れしている律は見たくない。「…失礼します」「……」 きちんと姿勢を正して声をかけた律を、相手は訝しげに見上げた。 殺意はない。敵意もない。 けれど、金色の目が放つ容赦なさは、確かに息子に受け継がれている。「突然、申し訳ありません。よろしいでしょうか」「……どうぞ」 律の目を見返し、続いて背後の怜生の顔を見上げ、律志は無造作に席を示した。「あの、私は、あなたの息子さん、リエ・フーの友人で冷泉 律と言います」「同じく桐島怜生です」 何が同じくなんだよ、そう突っ込みが欲しいところだ。 だが、律志は驚いたように金色の瞳を見開いて、もう一度、律と怜生を見やった。やがて、微かな笑みを唇に浮かべ、「リエ・フー、か」「なぜ息子さんに会おうとしないんですか」 おやおや律くん、全開だ。 苦笑とも取れる笑みは律の厳しい表情にゆっくりと薄れる。「……今更父と名乗り出る? ……資格がない」「卑怯な言い方ですが、もし何か負い目があるのでしたら、なおのこと会って話してください」 穏やかに断った律志に、律は詰め寄った。「私はもう両親とは会いたくても会えない。あなたたちは会えるんです。それは当たり前のことじゃなくて、とても貴重なことなんです」 ああ。 律、そこかよ。 わかってはいたが、怜生は律の声に含まれた切実さに笑みを消す。「何を話せばいいのか分らないなら、そう素直に言えばいいんです。話すことなんていくらでも出てきます。天気のことでもリエさんのいる弓張月のことでも。なんなら、リエさんに自分に聞きたいことはないかとたずねてもいいんです」 ほんとはさ、そうやって話したいんじゃないの、律。もう一度会えた親にはさ、何を話せばいいのか分からないつって、天気のこととか今居る所のこととか、でもって、聞いて欲しいんじゃねえの、何か聞きたいことはあるかってさ。 律志の顔には困惑が浮かんでいる。なぜ、そんなことを、そういう困惑。どうして君が、そういう困惑。 諦め切っていた願いを、今全て叶えてやると言われれば、人はこういう顔をするんだろうか。 その困惑に律も気づいた。一瞬はっとしたように色素の薄い茶色の瞳を瞬きし、唇を噛み、やがて少し押さえた口調で続ける。「その、何も知らないからこそ好き勝手に言えてますけど。でも、間違ってはいないと思います」 何も知らないのに間違ってはいないって言い切るなんて、律らしくないよほんと。 そんなに話させてやりたいんだねー。なら俺はそいつに乗っかるか、そう怜生は思い定める。決めてしまえば、突っ走るだけ。一番落としやすそうな所を狙って叩きつけるだけ、簡単だ。 体を固くして全身槍のようになって律志の拒否に立ち向かう律の後ろから、ぬうっと若さゆえのずうずうしさを存分に使って覗き込む。「律を助けると思って、会いに行ってあげてくれない?」 律志の瞳が怜生に向けられた。たいした胆力だ、揺らぎもしてねえ。だから、ツボを突かなくちゃな。「リエぴょんも素直じゃないから自分から会いたいとか『死んでも』いわないだろうしさー。ここは大人が大人にならないと話が進まないと思うんだよねー」「……」 黄金の瞳が瞬いた。リエなら絶対見せないだろう、柔らかな逡巡の色。「そう、だろうか」 よっしゃ、乗った。「そうです」 律がここぞとばかりに頷く。「ね、怜生の一生のお願い!」 大人ならこんな戯言効くわけもない。お前の一生なぞ二束三文で売り飛ばすほどたくさんあるんだろうと嗤われるのがオチだ。 けれど、息子に会うのに『資格』がいると考えてるような相手は別だ。息子の友人というのは特別許可証みたいなもんだ。「虎鋭…いや、リエ・フーが会いたくないと言ったら」「俺がリエぴょんにお願いする!」 二つ目の『一生』を使っちゃう、とこれはさすがに口にしなかった。ぎゅっと体の前で握りしめた怜生の両手を、キモイ、そう言う顔で律が睨む。「だから絶対大丈夫!」「お願いです」 律が懇願した。「一緒に、どうか、『弓張月』へ」「しかし、チケットが」「それなら用意済みです」 肝心なところは外さない律が、ぴっと三枚チケットを差し上げ、律志は深く溜め息をついた。「……わかった。行こう」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鷹遠 律志(ctuh9535)冷泉 律(cczu5385)桐島 怜生(cpyt4647)=========
大門前には赤蟻が待ち構えて、一行を笑顔で迎えた。 「朝っぱらから、おつかれさんでやす」 全体的に色素が薄い印象を与える冷泉 律、溢れる覇気がにじみ出る桐島 怜生と一線を引き、寡黙な軍服姿の鷹遠 律志に、礼を失するまいとしたのだろう、腰を屈めて膝に手を突き、頭を下げる。 「楊虎鋭が一の舎弟、赤蟻と言うつまらねえ男でやす。楊の兄貴には店ともども深く恩義を感じておりやす、以後よろしくお見知り置き下さいますように」 「楊…虎鋭」 律志はその名前を呟いたとたん、今にも回れ右して立ち去っていきそうな居たたまれない表情になった。 おいおい、あんた諜報部所属のエリートだろ、修羅場は何度も潜ってるだろうに、何、そのウブな振舞いは、ねえ。 突っ込みたいところを我慢して、怜生はにぱっと笑いかける。 「こちらこそ、お世話になりますっ! 本日一日、リエぴょんの代行頑張りますのでよろしくっ!」 「これ、この前の写真です」 側で律が二つ折りにしたフォルダを示す。 「銀鳳金鳳さん達にお渡し願います」 「へい、確かに受け取りやした。では、どうぞ」 いつもと違って畏まった赤蟻は、付き従う律志を振り返る。 「本日、楊の兄貴は金鳳様と『銀夢橋』のほうに出向かれる予定でさ。『涙宮』妓が『菊花月』に療養しておられるんで、ややっこしい話がありまして」 「ああ、なるほどおー」 強面の有象無象がやってくるかも知れないってんで、リエぴょんが必要なんだ? 「へい、常なら、楊の兄貴が夜守のジャグド達と入れ替わって、昼守につくとこなんですが、お三方いらして下さるなら、ちょうどいいってことになりまして」 「お三方…」 律が薄く眉を寄せた。 「リエ、鷹遠さんが来るって知ってるのか」 頭の回転の早いリエのことだから、きっとすぐに情報を集めて察しをつけたことだろう。約束を果たすために、怜生が来るのはわかる、律が一緒なのも想像がつく、けれどもう一人同行するというのはどういうことだ、今更ながら親子対面なぞを企んでやがるんじゃないか、そう気づいたのだろう。 『竜星の戦い』の一戦で、ロストレイル牡羊座号の周囲に湧き出た無数の巨人に対して、多くのロストナンバーが闘ったのだが、実はリエはそれと知らずに鷹遠と共闘しており、薄々何者か気づいていた気配がある。 「えーリエぴょん逃げちゃったの……っておい、どこ行くのっ!」 朝早い時間の奇妙に静まり返った娼館街を通り抜け『弓張月』へやってきた、そのとたん、律志が一行から離れてどこかへ行こうとするのを、怜生が腕を掴む。 「俺は間諜だ」 「は?」 「尾行と偵察は慣れている」 「え?」 「まずは虎鋭の仕事ぶりが見たい。虎鋭のあとをつけて一日の行動を把握する」 生真面目な顔に並々ならぬ熱意を漲らせる律志に、律は瞬きし怜生は呆れ返る。 「あの、鷹遠さん」「…まじ?」 二人同時にもう一度深く大きな溜め息をついた。 「虎鋭には好きな女ができたと聞いた。リーラ……どういう少女か興味がある」 おいおい。 遠く離れた場所からしか子どもを見ていなかった男親というのは、ここまで不器用でどうしようもないものなのか。 「では」 「ではじゃねえって! 用心棒を尾行とか怪しいことこの上ないから!?」 見かけによらずあっさりと怜生のホールドから擦り抜けるあたり、やはりただ者ではないが、それでも頭は煮え詰まってしまっているらしい。 「親父が自分を尾行してるとか知ったら、信用してねぇのかって息子は怒るよ?! それより一緒に辺りをぶらついて親子水入らずとかにしとこう! ね!」 思わず必死にかき口説いてしまった怜生に、律志は驚いたような顔で瞬き、悩んだ顔で空を見上げ、やがてゆっくり見下ろした。 「そういうもの、なのか?」「そういうものなの!」「ですね」 ああもうだめだこの人、リエぴょんに素で逢わせるのがとんでもなく危険な行為に思えてきたどうしよう。頭を抱える怜生、律は鷹遠に胡乱な笑みを向ける。 「とにかく、私達は今日一日、『弓張月』でリエの仕事を手伝います。リーラさんは『菊花月』に居るはずですから、直接顔を見て来ては如何ですか」 「うむ…」 律志が不承不承頷く。 本当なら、律こそこの人に聞きたいことがあったはずなんだ。 怜生は穏やかな微笑を浮かべる律の横顔を見やる。 俺だったら、考えないようにするもんな。とっさだったり自分が死にそうなのに、相手を殺さずなんて余裕はねぇだろ。仕方ないで片付ければいいのに、不器用というか真面目というか。 「へい、それならどうぞ、おい、誰か!」 『弓張月』の入り口で声を張り上げた赤蟻は、律志を奥へ案内するように言いつけた。律志が姿を消すと、怜生と律に向き直る。 「いやいや、肩が凝った…何者だい、あのお人は」 ぐるぐる肩を回して一転砕けた口調で尋ねてくる。 「虎鋭のお父さんですよ」 「父親か!」 思わず大声を出した赤蟻が首を竦める。 「これまた、似合わねえほど堅気なお方だなあ」 律が苦笑した。 「リエさんも鷹遠さんも素直とは言えない性格ですから、皆さんの方から教えてあげてください、きっと凄く喜んでくれると思います」 「そうかそうか、働き振りを見に来たかよ」 赤蟻が苦笑いしながら顎を撫でる。 「リエはどうですか?」 律の問いに、赤蟻が瞬きする。 「どう、とは?」 「気負い込み過ぎたり、浮いたりしてませんか」 「…虎鋭はいい仲間に恵まれてんだな」 赤蟻がにやにや笑いながら、『弓張月』の中へ二人を引き込んでいく。 「虎鋭は他の用心棒達と入れ代わりで、夜守と昼守を務めてる」 用心棒の番小屋のような場所にかかった札を示してみせた。 「大門が閉じて、朝開くまでが夜守、そこから大門が夜閉じるまでが昼守だ」 夜守は踏み外した客が騒いだり、わきまえのない娼妓がごねたりするのに関わるぐらいで、揉めると長いがこじれることは少ねえ。 「けど、昼守は、娼妓を離したがらない奴や増し払いを渋る奴、商売仇の肝いりがらみで面倒事を起こす奴と、こじれ出したらややこしくなる類が多い。ところが、虎鋭ってのは、そこのところを納めるのが滅法うまくてよう」 無駄な争いはしねえが、手を出したらきちんと納める。 「今じゃ、『紅蓮の虎』と二つ名で呼ばれて、『弓張月』以外の揉め事にまで呼び出しがかかる始末さ。難儀な昼守も嫌がらずに務めてくれるから、仲間内の評判もいい。まあ、そりゃあ多少、リーラが関わるとぶち切れたりはするようだがな」 ほりほりと顎をかきながら、けど、それも男の甲斐性だろうがよう、と赤蟻は付け加える。 「じゃあ、俺達が今日やんのは、その昼守ってわけ?」 「おうよ」 これを片腕に巻いておいてくれ、と差し出されたのは、引き出しから抜かれた黒くて細い帯。ちょうど金鳳の眼帯を細工したようなもので、欠けた銀の月に囲い込まれるような金の菊花が刺繍されている。 「それが、『弓張月』用心棒の徴だ。面白れえ意匠だろ? 最近じゃ、この菊花が満月に見えるってんで、ここを『二つ月』って呼ぶ客も居るぜ」 赤蟻が上機嫌で笑いながら、まあ、表の『弓張月』の銀鳳にリオがついて、裏の『菊花月』の金鳳にリーラ、つまり虎鋭がついてるからよ、名実ともに二つ月だよな、と続けた。 「にしてもー」 周囲の巡視に出るという赤蟻に続きながら、怜生はぼやく。 「リエぴょん、逃げるなんて狡いんだから〜」 「っくしょっ!」「なんだ、風邪か?」 リーラと離れてるのが、そんなに切ねえかよ。 「抜かせ」 からかう口調の金鳳に、虎鋭は鼻を擦る。 「何となく、想像がつくけどな」 どうせ碌でもねえ奴らが、碌でもねえ噂をしてやがんだ。 険のある目で『弓張月』のほうをみやる虎鋭に、金鳳は機嫌よく続ける。 「じゃ、そろそろ帰るか」 「えっ」 「えって、他に何かあるのか?」 にやりと嗤いながら、金鳳はさりげなく肩を竦める。 「『銀夢橋』は『涙宮』を見限った。残った年期分の証文を『弓張月』が半額で買い取って合意、後々一切手出しはなしだ。『銀夢橋』は『虹宮』が一番娼妓になり、『菊花月』で『涙宮』が戻ったなら、年期証文を全額で買い戻す」 「結果的にはこっちは損になるな」 虎鋭の呟きに金鳳はひんやりと応じる。 「それがそうでもねえ。『菊花月』で『涙宮』が落ち着き次第、夜伽願いたいって話が来てる……ああいう、ただ座ってぽろぽろ泣き続けるような女の前で何やらしたいって男もいるってことだ」 「下衆が」 リーラがうんと言わねえぜ、と虎鋭が吐き捨てると、それでも娼妓だからな、と金鳳が呟いた。 「そこのところは、誰よりもリーラが知ってる」 見定めて寄り添って、それでも店に出すしかないなら出すだろう、『弓張月』だけではなく『菊花月』をも支えていくために。 「まあ、客からとことん搾り取ってやってくれるさ」「…違いない」 くつくつ笑った金鳳に笑みを返して、虎鋭は小さく吐息をついた。 「なら、帰るか」 「ん?」 「……一人で相手してくれてそうだ」 今度『弓張月』を振り向いた金色の瞳は、人恋しそうに潤んでいた。 「この脚は、虎鋭が見立ててくれたんですよ」 穏やかな陽射し差し込む縁側に、灰色の木と茶色の革で作られた異形の脚が二本並べられている。 その側にからころと鳴る車に座ったリーラ、そして、勧められた座布団も敷かず堅苦しく正座したままの律志の姿があった。 「この車では、行きたい所へ行けないだろう、見たいものも見れないだろうと」 優しく撫でる木の車はあちらこちら傷だらけで、飴色になった表面は磨かれたようだ。 「失礼ながら、こうやって」 リーラが車からよいしょ、と自分の脚を引きずり出し、太腿近くまで巻き上げた着物に頓着した風もなく、義足を細く萎縮した下肢に巻きつけ嵌めていく。 返事をほとんど返さないまま、律志は、いつ帰るか、それとも一日が終わるころまで帰らないつもりなのかも知れない息子に、何を話せばいいものか、何から伝えればいいものか、行きつ戻りつする思考に溺れそうになっていた。 「よいしょ、と」 リーラが両脚に義足をつけて、ぱらりと着物を落とし、律志は我に返った。 縁側から滑り降りようとする少女を、慌てて支えにかかる。 「いえ、どうぞそのまま」 リーラはくすくす笑いながら手を振った。傍目にはあからさまに不安定な様子で、義足に体重を載せる。どこか痛むのか、軽く眉を寄せたがにっこりと笑って振り返った。 「見てて下さいね?」 体を軽く揺らせる。その揺れに応じて、危うく均衡をとりながら、一歩、前へ進む。続いてもう一歩。木靴に布を巻いたような足先が、ゆっくりとリーラを前へ進ませ、だが、僅かな高さを越え損ねた。 「あっ」「っ!」 倒れかけた体は軽かった。差し伸べた腕にくたりと被って、それを一気に振り払えるほどに。律志の力が勝ってしまい、ざっくり抱え上げるような状態になる。りん、とどこかで澄んだ音が鳴る。甦った記憶を重ねて呟いた。 「軽いな」 「…ふふふっ」 「?」 「重くては、あの車では動けませんから……けれど」 見上げた青い瞳が明るく輝いている。 「同じことを言いました、リエも」 お義父さま。 「っ」 竦む律志に、リーラはまっすぐな目をして言い放った。 「私は『菊花月』の娼妓、リーラ。虎鋭を我が夫とする許可を頂きたく存じます」 「ふえーっ、気持ちいーっ」 ざぶざぶと冷たい水で手足を洗いながら、怜生は隣の律にぼやく。 「けど何よ、あのおっさん? 抱いたつもりはなかった体が乗っかっただけだから金は払わないって、どういう理屈?」 「乗ったことを認めただけいいんじゃないか」 律は頬を擦った拳の気配をゆっくり流し落としながら肩を竦める。 「通りかかった瞬間に術に封じられて床に落ちたから、こちらが被害者なので金を支払えというのは、どういう理屈だろう」 「まあまあ、それでも殴り掛かってきてくれたから儲け物さ」 赤蟻が一発食らった顔を冷やしながら唸る。 「口だけとなると手出しにしにくい、やりやすかった方だ」 「リエぴょん、よくこんなの毎日やってるよなあ偉い偉い」 「この後、昼飯の片付けと掃除して、夜はまた見回りと揉め事対処。一日早いだろうね」 律は渡された手拭いで顔を拭き、そっと奥の方を覗く。 「静かだな」 さっきリエが戻ってきた。律志が『菊花月』にリーラと居ると聞くと、律から写真を受け取るのもそこそこに、すっ飛んでいってしまったが、その後ほとんど物音がない。親子水入らずの方がいいとは思ったものの、どうしても気になって、お茶を運んでみたものの、リーラは引っ込んだようだが、縁側で胡座を組んで遠くを見ているリエと、座敷できちんと正座したまま、リエの横顔を見つめている律志という光景に、お茶の位置さえ微妙な感じで間にぽつんと置いてきてしまった。 意地っ張りと生真面目、今までの離れていた時間はすぐには埋まらないだろう。信用しないわけではないが、非常に繊細な問題なので気になる。 「肩もみを勧めてみようか」 「へ?」 「肩は凝ってないかもしれないが、ちゃんとお互いが触れ合うことで何かしら思うところが出てくるかも知れないし」 「いやちょっと待ってそれは大胆でしょ」 だって、触れるどころか話すことさえしてなかった親子だよ? 「いきなり肩揉めなんて言ったら、リエぴょんお前の首揉んでやるとか言って締めそうだし!」 怜生は真剣に考え込む大大大親友の顔に思わず瞬きする。 ぶっちゃけ俺以外、皆真面目系? 律も真剣に考え過ぎて、ちょっと方向がびみょーな感じだし、親子水入らずの時間を作ったはいいが、これ会話できんの? 『弓張月』の面々は、それとなく気を遣ってくれたようだ。リエのいつもの仕事とか街の中の評判とかリーラとのこととか、律志にちょっとずつは話してくれてたし。律志もそれを聞いて、結構嬉しそうだったし、ほっとしたようだったし、これはうまい具合に急接近できる、と思ったのに、状況は膠着状態だ。 「うーん」 何ということもなく、行きのロストレイルの中の会話を思い出した。 ずっと厳しく険しい顔の律志は、怜生や律と話そうともせず、沈思黙考熟慮轟沈、とにかくどんどん内側に籠っていくばかりの気配、これではリエぴょんと話なんて陶器の狸にランバダ踊れって言ってるようなものじゃん、とお手上げになりかけた時、律が切り出したのだ、『人を殺したら、どうしたらいいんでしょう』 唐突でまっすぐな問いに、律志は虚を衝かれたのだろう。一瞬緊張を解かれた顔を、再び静かな想いで満たしながら、じっと律を眺めた後、『勘違いしてるようだが、密偵は人殺しが仕事ではない』、そう切り返した。 勘違いしてるようだが、密偵は人殺しが仕事ではない。隠密に動く為に人を闇に葬る事はあれど、密偵の任務はあくまで情報の取得。俺も軍人の端くれ、自らが生き延びる為人を殺めた事はあるが……。 しばらくの沈黙に、返答らしい返答もないのかと危ぶんだが、やがて漏れた柔らかな声が沈ませていた思考の中身を語った。 『虎鋭ならどう言うだろう。息子は人を殺したことがあるのだろうか………この先、愛する人やものを守る為に、同じインヤンガイの人間を手にかけることはあるのだろうか』 報告書を読めば、リエがどれほど派手に闘っていたのかわかるはずだ。帰属したインヤンガイでも、他のいろいろな世界でも、リエが闘うべき時に尻尾を巻いて逃げ去るようなことなどなかった。それでも、続いたことばが親心なのだろう。 『その日が来ないよう願いたいが……』 リエが帰属したのは、インヤンガイなのだ。 その日はとっくに来てしまっているし、これから何度も来るだろう。人を殺さないでくれと軍人の父親が願ったと知ったら、リエは冷笑するだろう、じゃあ俺は今ここまで生き延びてちゃいけなかったんだな、あんたの願いを叶えるためには。 律に律志はこう言った。 『人は人を殺すが生かしもする。人殺しを悔やんでいるなら、次はどうすれば殺さずに済むか必死に考えろ。俺に言えるのはそれだけだ』 そんないきあたりばったりな。そんなコメント律の助けにならないじゃん。 思わず唇を尖らせた怜生だったが、律はその怜生の想像の上を行く真っ当さで応じた。 『助言ありがとうございます。私もそう思います』 え、まじ。それで良かったの律。そんなことできたらしてるじゃんよ。そんなことができなかったから聞いたんじゃねえの。 『過去はどんなに望んでも変えられない。両親の事故死で痛感しました』 ぎょっとした怜生の頭を殴りつけるような衝撃。 人殺しと両親の事故死が繋がっちゃうんだ、律の中で。なら余計に広がるのは無力感じゃねえの、何もできなかったんだからさ。 わけのわからぬ恐怖にガクブル来そうな怜生の耳に、涼やかで爽やかな律の声。 『初心に戻るというべきですか。ギアに頼ることなく不殺を貫くよう精進します』 微笑。律は笑ってる。 『私は器用ではないですから、できることに専心します。両親に胸を張れるように、別の答えを見つける時まで』 ああそうなんだ、と思った。 律の中では、まだまだ途中なんだ。結論なんて出ていない。結果が出切ったわけじゃない。下手に思いつめていないし、自分の姿勢を変えていない。 心の奥がほっと緩むのを感じながら、ブレないよなあと感心した。 『いやいや俺とは違うなぁ~。でも、それでいいかな。俺と同じ必要ないし、なれなくていいし、なって欲しくない』 ん、と振り向く律の目を見返しながら、透き通った水晶のように固まってくる気持ちがあった。 『律』 『何だ』 『もし、もしだけどさ』 俺が道を踏み外したら、律に殺されたい。 『怜生』 『逆はないと思うけど、逆なら俺が殺しにいくよ』 約束な。 いつものようににかっと笑ってみせたのに、律は笑わなかった。ので、付け加えた。 『そうすれば、俺はびびって道を踏み外さないと思うからさ』 律に殺されるのは苦しい。律が人を殺したことにどれほど苦しんだのか、もう知ってるから。律を殺すのは苦しい。律は俺が苦しんだだろうと考えてくれるから。 びびるよな。どれほど深く律を傷つけてしまうのかって思うとさ。道踏み外さないほうが断然楽に決まってる。 「……何か聴こえた」 「あ?」 「ちょっと行ってくる」 お茶を入れ替えよう、と台所へ入っていく律の後を、怜生は慌てて追う。 座敷に正座したまま、律志はしげしげと息子を眺める。 あの巨人との闘いの時、息子の背中を守って闘った時間は幸福だった。非常時なれど、元の世界では決して叶わなかった夢が叶った。 世界図書館の報告書を貪るように読み漁った。人間性を打ち砕かれるような経験を繰り返し、やっと得たささやかな絆ももぎ取られ、そうして一人生き延びてきた息子の生き様は、人殺しをするのしないのという段階ではないのだとよくわかっている。 ならばこそ、息子は再会した父親の前で遠くを眺めて沈黙し、自分はことば一つ見つからず、こうして糾弾を待っている。 「………………そうか」 糾弾を待っているのか。しかし、それは愚かな親の甘えだ。 そう気づいたとたん、やるべきことは決まった。 立ち上がる。息子の前に進み出て、訝しく見上げる黄金の瞳をまっすぐ見下ろした。そのまま静かに頭を下げる。何かを感じたらしく、虎鋭も立ち上がる。 「言い訳はしない。俺はお前と秀芳を捨てた。罵ってくれて構わん」 顔を上げる。虎鋭が唇を引き締めた。罵るなんて甘えを見せるかよ、と言わんばかりに。構わず、続ける。 「だが……成長したお前と再会でき、とても嬉しい。大きくなったな虎鋭。そしていい友を持った」 逃げるだろうか。それでも構わない。最初で最後、父親として触れられるなら。 手を伸ばし虎鋭の頭に置いた。掌に余る。何てことだ、こんなに大きい。がしがしと撫でる。虎鋭は俯きがちに黙っている。堪えているのか耐えてくれているのか、それとも。 「お前は俺の、生きた証だ」 ぴくりと虎鋭が震えた。ちらりと上目遣いに見る瞳、猛々しく輝く金色、それが鏡の中に覗き込む自分そっくりだと不意に気づいた。 「分不相応な頼みだとわかっている。俺は一生根無し草。どこにも帰属する気はない。秀芳に操を立て、男やもめとして生きる。だが……お前とリーラの間に子が産まれたら一度でいい、抱かせてほしい」「やなこった」 間髪入れずに切り返されてことばを失った。 「さっき、リーラに鈴を渡したろ」 「あ、ああ」 ずっと肌身離さず持っていたが、いずれ息子と夫婦となる貴女に託そう、末永く幸いあれと願いを込めた。 「リーラがこれを渡せとさ」 差し出したのは菊の花が彫り込まれた櫛。思わず受け取る律志に、 「俺が初めて贈ったものだ。鈴の対価はこれしか思いつかねえとさ」 「対価など」 見かねたのか、律が口を出す。 「卒業式とは違いますけど、第二ボタンは心臓に近い位置にあると言われてます。ちょっと気障かもしれませんが、心の一部はいつも一緒に在るという意味でお互いに交換するのはどうでしょう?」 「見ての通り、俺の服には第二ボタンなんかねえ」 虎鋭は両手を広げてみせる。そのまま、ずいと片手を差し出した。 「律の顔をたててやる。そっちがよこしな」 意味はわからないが、虎鋭が欲しがるならばと律志は急いで第二ボタンを千切り取る。広げられた掌に落とすとそれを握りしめた虎鋭はくるりと背中を向けた。 「櫛の対価に受け取っとく。その櫛は俺にとってもリーラにとっても大事なもんだ」 肩越しにこちらを見やった顔が微かに綻ぶ。 「壊れてねえか、時々ちゃんと見せに来い」 虎鋭は知らない、昔、同じ仕草で促され、律志は秀芳と約束した、もう一度必ず逢いにくると。その約束は守られなかったが、今度こそは。 「虎鋭、」 誓いを口にしようとした気配を察したのか、飯にしようぜ、と歩き出しながら、虎鋭はぼそりと呟いた。 「第一、赤ん坊だって、一度抱かれたぐらいじゃ、じーさんの顔を覚えられねーだろが」 照れくさそうな虎鋭の横顔、茫然と立ち竦む律志の救われたような顔。 ぱしゃりと律のデジカメで怜生が写し取る。 「、てめっ」「今度はこの写真届けにくるから、首洗って待ってろよ!」 サムズアップする怜生を振り向いた虎鋭が真っ赤になった。
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