銀羊フルゴルの化身、九能(クノウ)は、ふたりの姿を見つめ、楔型の瞳孔のある奇妙な黒眼を細めた。「あら……いらっしゃったのね」 ターミナルが不穏に揺れ、異世界シャンヴァラーラもまた大いなる変革と力の波に揺れ動く中、ムジカ・アンジェロと由良 久秀は『電気羊の欠伸』を訪れていた。「ああ、なんだか久しぶりだ」「そうね、いろいろなことが起きているようですもの」「こちらのことは?」「ゾラを通じて、それなりに」「ああ、なるほど」「それで……ご用の向きは? お茶を飲みにいらした……というわけでは、なさそうですわね」「預けたままだったフィルムの回収と、それから……頼みがあって」 しばらくの近況報告ののち、本題に入ると、水晶柱に星を綴じ込めたようなグラスへと、一定時間ごとに色合いを変える茶を注いでいた九能が手を止める。蠱惑的な唇にはゆるゆると笑みが浮かんだ。「あなたから、そんな言葉をお聴きすることになるとは思いませんでしたわ」 ムジカは苦笑した。「おれだって人に頼みごとくらいするよ。ましてやここは、人智を超えた神秘の領域なのだから」 どうにも落ち着かない風情の由良を視界の隅に認めつつ、率直に切り出す。「ほしいものがある」「それをフルゴルと九能にお求め?」「無理なら、製作可能な領域への紹介を」 性急ですらあるムジカの言葉に、九能は興味を惹かれたらしかった。「あなたがそのように強く仰るのは珍しいですわね。――事情は特にお尋ねしませんけれど、どのようなものをお求めかしら」 小首を傾げての問いかけに、ムジカは謳うように答える。「《真実を隠す匣》」 それはどんなものか、と九能の双眸が問うてくる。 ムジカは、『匣の中に品物がある限り、匣の中の品物に関することがらを口に出すことが出来ない制約が互いにかかる匣』である旨を説明した。 それが手に入れば、罪の証拠になりうる写真や、ふたりが関わりを秘めてきた諸々の事件の写真を入れることになるだろう。「それらの秘密、真実を、強引な手段で暴こうとする行為――そうだな、精神干渉や、自白剤などの薬物から護ってくれる、そんな力を付与してもらえれば、なおありがたい」「真実を。そう……」 九能はしばし、考えているようだったが――もしかしたら、フルゴルと話し合いをしていたのかもしれない――、ややあって小さくうなずいた。「そう……ですわね。ご希望の品をおつくりすることは可能ですわ。エネルギーの問題を解決して、お持ち帰りいただくことも」 しかし、そこには、何らかの対価が必要だ、というニュアンスがにじむ。「教えてくれ、おれたちはそれを得るために、何を支払えばいい?」 ムジカが言うと、九能は、察しのいい人は歓迎されます、と微笑んだ。 そして、「では、戯灰ノ奈落(ギカイノナラク)へお越しになって。示される迷ヒ道を超えること、それそのものが対価になりますから」 彼女が手を差し示した先に、いつの間にか、忽然と、それは現れていたのだった。「……あれは?」 パッと見ただけなら、それは銀色の陽炎に見える。 しかし、目を凝らすと、奇妙な奥行きが見て取れることからして、ただの陽炎ではなさそうだった。「迷路のようなものですわ。中に入られたら判りますけれど、とても美しいところですのよ」「……だが、美しいだけではないんだろう、どうせ」 アイテムはほしいが、理不尽な世界の理不尽なギミックはまっぴらごめんだと言わんばかりに由良が言う。呆れたような、詰るような口調だったが、九能は楽しげに笑うばかりだった。 つまるところ、由良の言うことは全面的に正しいのだ。「きっと、あなたがたの世界ではありえないような、不可解で摩訶不思議な、理不尽で幻想的な、狂っているとしか思えないのに自然と涙があふれてしまうほど美しい、そんな光景をご覧になるわ。そしてそれらは、あなたがたに、真実を語れと要求することでしょう」 秘めておきたい真実とは何なのか。 そして、なぜその真実を秘めておきたいと思うのか。 それらを語れ、赤裸々に示してみせろ、迷ヒ道はそう、声なく要求するのだという。 それに応えることができ、最奥へと辿り着けたなら、望むものは必ずや手に入るでしょう、と、九能は言った。「精神の正常な部分を試されているような、削られているような、そんな思い、恐怖に駆られるかもしれないけれど。それこそが試練なのだと思し召して、心を強くお持ちになって」「ああ、ありがとう」「もちろん、あなたがたが正常な精神を手放して、狂気と幻想の世界に生きることになってしまわれた時は、わたくしが一生お世話いたしますわ。ですから、ご安心あそばして」 何をどう安心しろというのか、碌でもないことを言いつつ、九能はどこまでも楽しげだ。夢守というのはこんなのばかりなのか、と小声で愚痴る由良を促し、ムジカは揺らぐ陽炎を見つめた。「行ってみるしかなさそうだな。おれたちには、知られたくない、おれたちだけで共有する秘密が増えすぎた。そして、あそこに、ひとの秘密を暴き立てたがり、明かされたくないものごとへ土足で踏み入ろうとする輩がいる限り、《匣》は必要だ――どうしても」 厭悪さえにじませて――この、普段は軽やかな、なにものにも囚われない男が、だ――ムジカが言い、由良は苦々しげに頷く。 では、と九能が艶やかな笑みを浮かべた。「行ってらっしゃいませ、どうぞお気をつけて」 気をつけたからといってどうにかなるばかりでもありませんけれど。 またしても不吉な言葉に見送られ、ふたりは銀に揺らめく陽炎へ向かって歩き出した。 迷ヒ道は、ぽっかりと、虚ろですらある口を開いて、ふたりを飲み込もうとしている。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>由良久秀(cfvw5302)ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)=========
銀の陽炎へと踏み込んだ途端、何かがぐにゃりと歪むような感覚があった。 「……相変わらず、気色悪い」 由良が、心の底から嫌そうな顔でぼそりとこぼす。 いつの間にか、周囲は銀に揺らめく迷路のごとき回廊へと変化している。 何かの声が聞こえる。気配がする。 何かが蠢く音が響く。今までに嗅いだこともないような臭いが鼻腔をくすぐる。 視界の隅を、得体の知れない何かがかすめてゆく。 振り返っても、何もない。ただ、何かが嗤っていたような錯覚だけが残る。 踏み込んで、わずかに数分でそれだ。 「……」 由良は、苛立ちを隠しもしない様子で顔をしかめている。 足取りは、当然ながら軽いとは言い難い。 「大丈夫か?」 逆に、恐怖とは無縁といって過言ではないムジカには、それらの不可解な現象を冷静に見つめる客観的な意識がある。そして、由良を気遣う余裕も。 「大丈夫じゃない」 溜息交じりの由良の、肩を軽く叩く。 それでも退けないことは、ふたりとも最初から判っているはずだ。 「行こう、由良。おれたちは進むしかないんだ」 彼らは、数多くいるロストナンバーの中でも、おそらく平凡に位置するであろう普通の人間だ。 ただただ、虚しいばかりに無力な人間だ。 そしてその無力さが、ついに看過できぬまでの状況に陥って、ふたりはこうして銀羊のもとを訪れたのだ。 「……そう、だな」 すでに若干の疲労を見せつつある由良を気遣うよう、導くようにムジカは進む。由良がまた、深々と溜息をついた。 気づけば、来た道が消えていたので、どちらにせよ進むしかないのだ。由良とて、この得体の知れない空間に、永遠に囚われるなどということは遠慮したいだろう。 「しかし、真実を、というが」 「ああ?」 「その『真実』が真実であるかどうか、この迷ヒ道とやらは、いったいどう判断するんだ? 告白者にとっての真実ならいいのか?」 「さあ? でも、『電気羊の欠伸』の領域内で、おれたちの常識に当てはめてものごとを考えても、あんまり意味はないんじゃないか?」 「それは、そうだが――……、ッ!?」 ムジカはその時、背後を、くすくすと笑った何かがよぎっていった気がして後ろを確かめていた。 だから、更に言い募ろうとした由良が、咽喉から奇妙な音を立てて沈黙したとき、何か妙なものが横切りでもしたのだろう、と思った。 「どうした、由――」 言いつつ、前へと向き直り、そして眼を瞬かせる。 「……すごいな」 そこは広大な平原だった。 そして、うつくしい草原だった。 やわらかにけぶる草と木々によって覆われた大地には、まぶしくも力強い陽光が降り注ぎ、開く花々や実る果実を宝石めいて輝かせる。小鳥らしきものが愛らしい声で囀りながら空を横切ってゆき、草や花々の間には、蝶らしきものが舞い飛ぶさまが見られる。 しかし、それらは、絶対的に歪んだ何かを孕んでいた。 その最たるものが、空にあった。 ――逆さ吊りにされた巨人たちが、空から生えている。 どこから、何によって吊られているのかは見えない。 巨人たちが、命ある存在なのかどうかも判らない。 だらりと垂れさがった手が、地面を擦っている。 のっぺりした身体つきの、性別があるかどうかすらさだかではない巨人たちだったが、異様なのは、貌だけが驚くほどリアルに、人間的なかたちを持っているからだ。 彼ら――といっていいのかは疑問だが――は、皆、何がしかの表情を浮かべている。貼り付けている、と言ってもいい。 満面の笑み、微笑、苦笑、陽気な大笑。怒り、憤怒、瞋恚、哀惜、悲嘆、憎悪、絶望、苦悩、苦痛、羞恥、快楽、嘲笑、友愛、憐憫、未練、期待、諦観、空虚、笑み、笑顔、哄笑。 それは、彼らが声ひとつ発しないがゆえに、なお異様で寒々しかった。 色もかたちのそれぞれの、そこだけやけに個性的な眼が、感情が貼り付いたいくつもの顔が、気づくとふたりをじっと見ている。 「――やめろ!」 苛立ちを滲ませて由良が言い、足早にその場を行き過ぎようとする。 顔色がひどく悪い。 「由良、大丈夫か?」 問いに答えは返らなかった。 青白い横顔からは、彼が、ムジカには判らない何かを見たのだろうと察せられたが、おそらく由良はそれについて言及すまい。 もとよりムジカに、ひとが秘めておきたいと思う何かを無理やり暴こうなどという気持ちはなく、彼もまた足早に由良を追い、そこをあとにする。 巨人たちは、ただ、ふたつのまなこを開いて、彼らの背を見送るのみだ。 * 奈落の迷ヒ道は、そのあとも、あとからあとから、不条理で不可解な世界をふたりの前に突きつけた。 どちらが上でどちらが下か判らなくなる鏡うつしの天地。 今にも割れて砕けそうな、華奢で不安定な翅で飛ぶ硝子細工の蝶。 ネジと歯車と鉄片で出来た金属の翼と、鉱物が擦りあわされるような囀りを持つ鳥。 薄闇の中で花ひらく幽玄なる花々は、その花弁に、なぜか経文がしたためられている。 オーロラや蜃気楼の中を歩くような、見るたびに色合いが変わり距離感が変化して、遠近感の狂う景色。 光のトリックを多用したような、明度の高い幻影。 事象すべてが、大小さまざまなかたちを持つヒトの手で出来た領域も通り過ぎた。開く花も空舞う蝶も、地を這う虫も、建物も木々も手という、あまりにシュールで不気味な光景だった。 由良は、その手の想像力には欠ける。 そんなものがあれば、今頃、人など殺めずもっと小器用に生きていたはずだという諦めもある。 しかし、予想外の事象を押し付けられて、余計なダメージを受けたくないという思いは強く、己がこれまでに見てきた実際の光景をもとに、それなりに心の準備をしてきたつもりだ。 ――つもりだが、やはり、疲れる。 (なんで、こんなことに) 足元の花が、声をそろえて歌っている。 総じて言えば荘厳な、讃美歌のごとき歌だったが、 『お・ま・え・を ヲ・ヲ を ヲ ユる ゆル、さ ナ ゆる ゆ サ、サ な イ』 歌声に、そんな、聞き覚えのあるノイズが混じった気がして、――葉陰に、木陰に、行き過ぎてゆく真珠色の雲に、以前自分が手にかけた人々の顔が映ったような、そしてそれらが皆、自分を見つめていたような気がして、 (どうせ幻影だ、虚構だ) 由良は、それを呪文のように唱え、自分に言い聞かせた。 おぞましく醜悪なはずの光景が、なぜかうつくしく思えるのが、怖かった。 自分の中の正常な価値観、正常な基準点が侵され、歪められてゆくのではないか、と。 「由良」 ムジカの声が気遣いの色を帯びる。 「相変わらず目が疲れる。頭が痛くなる、吐き気がする」 答えとも取れぬ答えを返しつつ、とにかく、目的のものを手にしてここから出るしかない、と、由良はひたすら進む。 (本当に……なんで) 由良は、特殊能力を用いた干渉に抗う手段が欲しかっただけだ。 彼には、あまりにも、知られたくないことが多すぎる。 だからこそ、ムジカの申し出を受けたわけだが、秘密を閉じ込める匣の対価が告白だというのは盲点だったし皮肉だった。よくよく考えれば当然のことでもあるのだが、選択を誤ったと早々に後悔したのも事実だ。 もやもやとした不安に包み込まれているのが判る。 「――……すごいな」 ムジカがぽつりとつぶやいた。 そこでは、金色の雨が降っている。 それはかぐわしい芳香を伴っていて、雨を受けた植物は一斉に生長を早めた。壱番世界ではペガサスと呼ばれる有翼の馬の群れが、喜ばしいいななきを上げながら駆けてゆく。 まるで、馬たちが雨を運んできたかのようだった。 「“天よりの甘露は携えられて、翼持つ神馬は空駆け与う”」 即興だろう、ムジカが光景を歌にした。 楽器の演奏もない、簡素な歌だったが、それは由良に現実を感じさせ、ほんのわずか、彼を落ち着かせる。 「……大物だな」 呆れとも感嘆とも取れぬ口調で言うと、ムジカはそうかな? と軽妙に笑った。 この男は、どんな場所でも変わらない。 ムジカへ対する感情の半分は、諦めにも似たものだが、しかし今は、その不変がありがたい。少なくとも、彼が隣にいるうちは、自分の正常を疑わずに済む。 ――そして、そのころからだった。 『声』が、聞こえ始めたのは。 (捧げよ) 重厚な鐘を幾重にも打ち鳴らすかのような声が、脳裏に響く。 声は淡々と、しかし拒絶を許さぬ強さで、彼らにそれを求める。 (真実を) (求めるモノに相応しい、真実を) 声は、自分にだけ聞こえているようだ。少なくとも、ふたり同時に、ではない。 それとともに、現実味が薄れ、由良は、自分がすべてから切り離され、何もないところへ立っているような錯覚にとらわれはじめていた。 そしておそらく、それは『真実』だ。 たとえ由良がムジカの秘密を知っていようと、ムジカが由良の秘密を知っていようと、本当の意味での真実は、個人個人にしか語り得ないのだ。 「真実……」 早く何もかも放り出したい。 安全な場所に封じ込められた秘密を枕にして、安堵して眠りたい。 それは由良の、偽らざる内心だ。 しかし、それを差し出すとは、つまるところ自分の犯した罪を赤裸々に暴露することに他ならない。 「それなら、ここにある」 由良が取り出したのは、あのフィルムだった。 「俺は、これを隠したい。撮れたはずのない写真を持ち歩くことが、心底おそろしい」 それは決して嘘ではなかった。 しかし、由良が本当に秘したいものでもなかった。 由良は、この期に及んで往生際悪く、フィルムに籠った恐怖を生贄にして、『対価』として出し、誤魔化す心算でいたのだ。むしろ、対価不足もこの場合仕方ないとさえ思っていた。 さわさわ、さわさわと、何かがざわめくような、もしくは何かが動き回るような音が聞こえる。姿は見えないのに、それは由良の周囲を取り囲んでいた。はっきりとそれが判り、由良は背筋を泡立たせる。 ――品定め、されている。 (それが真実か) (はは) (本当に?) (ホントウニ?) (あはははははははは) (ははははは) (くすくすくすくす) (あはは、はは、あははははは) (本当に? ほんとうに? ねえ、本当に?) (ほ ん と う に?) 声が歪む。 耳元で殷々と響く。 脳に直接絡みつくような笑い声が不快で、同時におそろしく、激しい震えが来た。 「そうだ、本当だ、それが俺の、」 必死で声を重ねようとしたところで、 (ほんとうに?) 聞き覚えのある声がした。 しかしそれが誰なのかは判らない。 ただ、見開かれた目の前に、いくつもの影が立ったことだけは判った。 影は由良を見ている。そして嗤っている。眼も口もないのに判る。血の臭いがした。そして、怨嗟の気配がした。 由良は一歩下がる。 否、下がろうとして失敗した。 見えない何かに取り囲まれて、身動きが出来ない。圧迫感が増し、心臓まで苦しい。見えぬ手が伸ばされて、首を絞めようとしている気がする。伸ばされた無数の手が、自分を雁字搦めにしようとしている気がする。 (捕まる) 恐怖が込み上げた。 (連れて往かれる!) 早く、ここから抜け出さなくては、二度と戻れなくなる。 抜け出すために必要なものは何だった? ――対価、そう、対価だ。 真実を、差し出すのだ。 「俺、は!」 ここから出たい、その一心が勝った瞬間だった。 「俺は人殺しだ」 もう何人も殺した、そう口走る。 「だから、何だ、何が悪い!」 叫ぶように言った。 「全部お前らが悪い、俺は悪くない……俺は悪くない!」 自暴自棄に、自己を正当化する。 醜悪だからなんだというのだ。 自己を護ること以上に大切な何かがどこにあるというのだ。 頭を抱えて蹲る。 「俺は、何も悪くない……!」 滑稽なほど震えながら、何度も同じ言葉を口走る。 それそのものは由良の偽らざる本心だ。 しかし、実を言うと、殺人は隠すべき、忌むべき罪との理解はある。何度も同じことを繰り返す自分への、苦い自己嫌悪さえある。 おそらく、誰にも理解されない真実ではあるが。 * 「真実……か」 ムジカは静かに脳裏の声を聴いていた。 唇には静かな笑みさえある。 世界が狭まり、自分と『声』しかここにないことが判る。 彼は今、『声』と対話しながら、自分とも向き合っているのだ。 「真実……と、呼べるほど大それたものではないけど」 彼が語り、彼が想うのは、秘めておきたい『モノ』へ向ける心だ。 「おれには、護りたいものがある」 異世界の人々が持つ命、絆、決意。 異世界を旅して出会ったそれらを、ムジカは貴く、愛おしく思う。 しかし、その中には、ロストナンバーの独善によって喪われるものがある。あった、と、過去形にせざるをえないものもある。 「悪意じゃない。それは判る。だけど、一方通行の善なら、それはもう、善とは呼べない」 ブルーインブルーに生きる海賊たち。 鉄仮面の囚人。 エイドリアン・エルトダウン夫妻。 その他、これまでに出会ってきた、異世界の人々との絆、ムジカはそれを大切にしたいのだ。 「――護り切れなかったものなら、せめてその記憶を封じて、誰にも暴かれない、暴かせないように」 一番、何よりも閉じ込めたいのは、エイドリアン夫妻の音楽だ。 それは、ナレッジキューブで錬成した小さな匣に、小ぢんまりと収められている。 あの夜の奇跡を、ムジカは身が震えるほど貴く、愛しく思う。 それゆえに、あの夜を共有した由良以外には伝えたくないし、触れてほしくないとも思うのだ。 そう、決して穏やかではない噂とともにあった夫妻の、胸を締め付けられるほど切なくいとおしい真実も、音楽も、ふたりが今生きている場所も。なにひとつとして、知られたくはない。 『声』が、なぜ欲するのかと問う。 ムジカは苦い笑みを浮かべた。 「……自白剤を使われたことがある。あれはなかなか、きつかった」 特殊能力を持たない人間が、人智を超えた力を、壱番世界の常識を超えた技術を有する何者かと対峙しようと思うなら、自分もまたなにがしかの力を手に入れるしかない、そう思わされたのが、あの一件だった。 「面白みのない『真実』ではあるけれど、これがおれの、すべてだよ」 この場において、偽る必要など感じない。 透徹とともに言うと、空気の質感が変わった。 (差し出された) (聞き届けた) (ならば……与えよう) (望みのままに) その言葉とともに、視界が変わる。 何かが晴れてゆく。 陽炎の迷ヒ道は、ゆっくりと消えてゆく。 ムジカは悠然と――笑みさえ浮かべて、佇んでいる。 * 気づけば、九能と銀羊のいる、いつものテーブルについていた。 「……疲れた……」 由良はぐったりとうなだれている。 ムジカの手には小さな匣があった。 一片につき10cmにも満たぬ、小ぢんまりとした匣だ。 色は鈍い銀。 装飾は少ないが、蓋に位置する面に意匠化された薔薇の彫刻が、そして底に位置する面にはローズマリーの彫刻がなされている。 「薔薇は沈黙の神が預かる秘密の花。ローズマリーは追憶の象徴」 歌うような音韻とともにムジカが言えば、九能はよくご存知ね、とにっこり笑った。 「使い方は?」 「かたちあるモノならば、中へ入れるだけ。かたちのないモノは、中へ吹き込むだけですわ。出したければ、そうお望みになって」 「そうか、ありがとう」 言って、ムジカは匣の中へ何ごとかを囁き、ふたを閉めた。 閉めたそれを、由良へと手渡す。 由良は深々と溜息をつき、フィルムを匣に放り込んだ。 再びふたを開けると、そこには何もない。 仕掛けなど、問うだけ無駄だろう。 ここはすべての理不尽が集う領域、『電気羊の欠伸』なのだから。 「まあ、これに頼らなきゃいけない日が来ないことを祈るよ。――由良、どうする、どっちが持つ?」 「お前はどうなんだ」 「おれ? どっちでも。おれの封じたいものが何なのか、全部知ってるだろ、由良は」 そうかと頷いた由良が、 「匣に触れるものを殺すたぐいの罠を仕掛けることは可能か?」 物騒なことを尋ねると、九能は意味深な笑みを浮かべた。 「真実が暴走して、いつか自分自身が食い殺される覚悟をお持ちなら?」 愉しげな物言いに、由良が顔を引き攣らせる。 「今すぐにでも付け加えますわ。いかが?」 「……いや、いい」 匣から思わず手を引っ込める由良に、九能がご心配なく、と笑った。 「それを認知できる方は多くありませんわ。触れて、開ける方は更に少ないでしょうし、開いたそれから秘密を取り出せるのはあなたがただけです」 面白がる風情はいつも通りだが、言葉に偽りがあるようにも思えない。 「ありがとう、九能。それからフルゴルも。無理を言ってすまなかった」 感謝と信頼を示せば、悪戯っぽい笑みが返った。 「どういたしまして。わたくしたち永遠をゆく夢守にとって、おねだりをしてくださる方々というのは偉大なのですもの」 どこからともなく茶器が出てくる。 ――迷ヒ道でのあれこれが幻だったかのような、穏やかな時間が始まろうとしていた。
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