『Crayon de Couleur』は、上質なものだけを提供することを理念としてつくられた、最高級フレンチ・レストランであるそうだ。 五百年を数える伝統と血統、未だに衰えぬ強い影響力を持ち、近年では国際社会への進出もめざましい蓮見沢家の系列によって運営されるらしい。 「へえ……風格のある佇まい、っていうのかな、これは」 ムジカ・アンジェロは、モノトーンで統一された、シックな建物を見上げて眼を細めた。 彼は建築に明るいわけではないものの、超のつく高級店ばかりが立ち並ぶ通りの一角で、静かに佇むそれが、外観としてはシンプルでありながら、細部にまで職人のこだわりと矜持の見える、芸術品といって過言のない代物であることは判る。 金に糸目をつけない、湯水のごとくに金を使って……などという表現では少々、品がないが、発案者と職人、そして料理人たちは、金銭のためではなく、客に最高の時間を提供するためだけに頭をひねり、腕を揮うのだろう。 「色鉛筆、ね。意味深だな」 ムジカがつぶやくと、 「お店そのものは画用紙なのかな。お料理やお客さんが、その画用紙に色をつけるのね、きっと」 「エレナはおれの思ったことを写し取ったのかい」 「ふふ、もしかしたら、ムッちゃんと心がつながっちゃったのかもね」 傍らのエレナもくすくす笑って言った。 「楽しみだね、ムッちゃん。アヤちゃん、おいしいものたくさん用意して待ってるって言ってたよ」 ムジカは苦笑し、肩をすくめる。 「正直、こういう場は慣れてないんだが……まあ、おれはエレナお嬢さまのおつきってことで」 「そうなの? ムッちゃんがおつきだなんて、ぜいたくなお嬢さまだね」 悪戯っぽく片目をつぶってみせるエレナは、職人が意匠の限りを尽くしたビスクドールのように愛らしい。しかも、それは、冷たく透き通ったただの陶器ではなく、薔薇の花弁のように上気した瑞々しい色を伴っている。 「いや、違うな、エレナお嬢さまのお供が出来るおつきのほうがぜいたくなんだ」 「じゃあ、お互いにぜいたくなんだね」 「そうともいうかな」 他愛ないやりとりをかわしつつ、美しく整えられた庭を通り、扉へと歩み寄る。 ドアマンが洗練された所作で一礼し、歓迎の意を品よく示しつつ扉を開いてくれる。心得た様子で、ごくごく自然な「ありがとう」の言葉とともにエレナが足を踏み入れ、ムジカはその後ろにゆったりと続いた。 色鉛筆と名付けられた店は、内装もまたシンプルだった。 表面的には、ラグジュアリーだとかゴージャスだとか、そういう華やかな言葉とは縁遠い、すっきりと整った店内は、しかし、調度や照明、装飾のひとつひとつがこだわり抜かれたと思しき統一感を持ち、またそれらは百年間ここにあったかのようにしっくりと馴染んでいる。 スタッフも同じで、案内役から給仕役、料理人まで、ここでは皆が、生まれてこのかたずっとこの店で働いている、とでもいうような自然さでそれぞれの仕事に精を出しているのだった。 ――今日、開店初日を迎えるという店だと言われてもにわかには信じがたいくらい、ここは「あって当然」の場所だった。 この場所をつくりあげるのに、どれだけの気配りと財力と労力が必要とされたのだろうか、などと柄にもなく考えていると、 「やあ、いらっしゃい」 親しげな声がして、背の高い、しなやかな身体つきの青年がふたりの前へと歩み寄った。 エレナがにっこり笑う。 「お招きありがとう、アヤちゃん」 アヤちゃんと呼ばれた、本名を蓮見沢 理比古という青年は、下手をすれば十代にも間違われそうな、驚異の幼顔をやわらかな笑みのかたちにすると、エレナの前でそっと身を屈めた。 「『Crayon de Couleur』の招待を受けてくれてありがとう、エルライアノーラ・レイアストリア・ニア・ナンナ・エーデルローゼ。“高貴な薔薇”家の知恵深き泉、光輝の女王、玲瓏と祝福のお嬢さん。会えるのを、とても楽しみにしていたよ」 エレナの、とんでもなく長い本名をすらすらとそらんじてみせながら彼女の小さな手を取り、その甲へとそっと唇を触れさせる。 「ふふ、あたしだって忘れちゃいそうな長い名前を憶えてくれるんだから、みんな、すごいよね」 エレナは、生まれついての高貴な家柄の人々がそうであるように、優雅に、鷹揚に、その『挨拶』を受けている。理比古の顔立ちに気品があるのも相まって、そこはさながら幼い女王と信奉者たる貴族の青年の集うサロンのようでもあった。 「ムジカさんも、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」 理比古の言葉にムジカは苦笑し、頷く。 ムジカは理比古とそれほど親しいわけではない。 いくつかの依頼に同行したくらいのことだ。 だから、彼が今ここにいるのは、ほとんどエレナとのつながりゆえだった。 「新装開店だったか」 「うん、そう。会長として記念パーティに出席しろって言われて、だったら誰か、お招きしようと思ったんだ」 ひとまずこちらへ、とふたりを誘いつつ、理比古はエレナのいでたちに感心することしきりだ。 「今日のエレナはいつにもまして綺麗だね。大人っぽいし、優雅だ」 エレナは、スカート部分を蓮の花モチーフにした、ふんわりと広がる淡い色彩のドレスを身に着けている。黄金の絹糸のような髪には、ビーズがちりばめられた花飾りが光る。これは、ディナーにふさわしい程度の華やかさを持たせるためだろう。エレナの相棒であるところのぬいぐるみ、びゃっくんもちゃんと、首元のリボンの部分に蓮の花をあしらっておめかししている。 「ふふ、そうかな、ありがとう。アヤちゃんも素敵よ」 一族の当主としての仕事もあるからか、理比古も仕立てのよいスーツに身を包んでいる。それは、やわらかく気品のある顔立ちの理比古を、社交界デビューしたばかりの青年紳士のごとくに見せていた。 理比古に案内され――係の人々には恐縮されていたが、性分なのだろう――、奥まったテーブルへ行き着くと、そこには氷のような銀髪を丁寧に整え、給仕役の制服をまとったドイツ人の姿がある。 蒼穹めいた青の眼が、三人を映して細められる。 「『Crayon de Couleur』へようこそ。賓客のお越しを歓迎いたします」 流麗な所作とともに一礼され、席へ通される。無駄のない、洗練された動きには隙もなく、ムジカは、この男が荒事という意味でも手練れであることを知る。 エレナの隣にはびゃっくんの席も用意されていて、そのことに少女探偵が喜んだのは言うまでもない。 「クゥちゃん、『ジ・アヴァロン』で会った時みたいね」 「そうだな、今日の俺は給仕者だから」 「クゥちゃんはごはん食べないの? お腹すかない? もし空いたら、あたしのを分けてあげるから、言ってね」 「はは、ありがとよ。心配要らねぇ、『Crayon de Couleur』は賄い飯も美味いんだ」 口調を砕けさせ、男が笑った。刃のような鋭利さが、笑うと和らぐ。 「あんたがムジカか。お噂はかねがね……と、言えばいいのかね。なるほど、不思議と軽やかな、それでいて玲瓏たる空気を持つ男だな」 「ずいぶん、詩的な噂をされていたんだな、おれは」 「ははあ、確かに耳に心地よい響きの声だ。音楽家には、これほど相応しい噂もねぇだろう」 「なるほど、そうかもしれないな」 紹介によると、彼は虚空、世界図書館に籍を置くロストナンバーにして、蓮見沢家当主理比古に仕えるしのびであるという。 「まあ、実際のところは俺の世話役っていうか、ウチのお母さん役だけどね」 「賓客の前で蓮見沢本家の実態を赤裸々にばらすのはやめてくれ」 主従の軽妙なやりとりにエレナが笑う。 それを合図とばかり、食事の時間が始まった。 * ズワイガニのテリーヌに、九条ネギのポン酢ジュレソースを添えて。 やわらかな甘味を持つ聖護院蕪のポタージュには、独特の香気が食欲を増進させる春菊が添えられている。 完璧な加減で蒸された芽キャベツと蕪、金時人参に、ポーチドエッグとトリュフを添えて。 明らかに養殖ものにはない、淡い桃色をした寒ブリに軽く塩胡椒し、オリーブオイルでさっと焼いたものに、チコリやエンダイブ、ルッコラなどの葉野菜を添え、粒マスタードのソースとともに。 口直しには、柚子と生姜の風味が溶け合った爽やかなソルベを。 ほどよい歯ごたえの、噛めば噛むほど肉汁が滲み出る牛フィレ肉の網焼きは、粗くおろしたわさびと醤油のシンプルなソースで。 つけあわせのパンはもちろん自家製である。歯ごたえがよく噛めば噛むほど味わいが増す、油分を含まないリーンなパンと、ふわりと甘い香りと舌触りの、バターをふんだんに使ったリッチなパンの双方がたっぷりと用意され、濃厚なクリームからつくられたバターが添えられている。 「すごいね、アヤちゃん。どのお料理も、びっくりするくらい美味しくて、食べても食べてもお腹が空いちゃう」 「そう言ってもらえると嬉しいな。企画発案者がね、蓮見沢の遠縁にあたる人なんだけど、この人がとにかく食いしん坊でね。俺も時々、美味しいものをご馳走してもらうんだけど、彼のモットーが、『おいしいものは世界を平和にする』なんだよね」 「それ、判る! あとね、あたしあんまり壱番世界の日本っていう国に詳しいわけじゃないんだけど、すごく国や地域に根差した食べ物を使っているような気がして。なんていうのかな……そう、しっくりくる?」 上機嫌のエレナが言うように、フレンチと銘打ちつつ、出される料理は、日本の美味な、伝統の食材をふんだんに使った、シンプルでありつつ深い味わいを持つものばかりだ。 「さすがエレナ。俺たちの言いたかったことを理解してくれて、ありがとう」 品よく――しかし旺盛な食欲を見せつつ――銀器を操りながら、理比古がにっこりと笑う。 そう、結局のところ、ここの理念は常に一致しているのだ。 すなわち、上質を知る者だけが、その、真の贅沢を理解できる、という。 「実際のとこ、フレンチだからってフランスの食材にこだわる必要はねぇんだよな。フレンチの理念を理解しつつ、その場所その場所のうまい食材を使った食い物をつくるのが一流なんじゃねぇの、って」 絶妙のタイミングで料理をサーヴしつつ、虚空が言う。ムジカのグラスに、流麗な手つきでワインを注ぐ。牛肉の供ということで、天鵞絨のような滑らかさを持つ、どっしりとしたフルボディである。 「ボルドーやらブルゴーニュの名シャトーから各種取り揃えた中でも、特に品質がいいって評判のやつだ。主菜との調和を楽しんでくれ」 「このお店では、1995年物と1999年物を主にお出しすることにしているんだけど、今回はお祝いっていうことでボルドーの1990年物をどうぞ」 「その違いは?」 「ざっくり言えば熟成の度合いってとこか。ただまあ、ブルゴーニュの1995~1996年、1999年はいわゆる当たり年ってやつでな。その辺りのは、だいたいどれもうまいから」 「さすがだな。本職……というわけではないんだろうが」 「本職はアヤの補佐だよ、一応な。でもまあ、好きだからなあ。ソムリエの資格も取ろうかどうかって話なんだよな」 「ふうん……おれはどうも、その辺りはあまりこだわりがなくて。ただ、話を聴いていると、とても面白いと思う。世の中にはいろいろなこだわりがあって興味深い」 「そうだね、ワインづくりは奥深くて、知っても知っても全然足りない、って思うよ。あと、まだ若いんだけど、ブルゴーニュ地方は2005年もすっごい当たり年だったみたいで、今から熟成が楽しみなんだよね」 「理比古は酒豪なのか?」 「いや、強くないよ。好きだけど、あんまり飲むと笑い上戸になったり勝手にどこかへ行ったりしちゃうから控えろって虚空が」 「クゥちゃん、たいへんそうだね」 「……かなり前の話だが、桜の魔王がどうしたとかいう話があったろう。あれ、探しに行ったら酔っ払って地面に埋められてたからな、このご主人様は」 「すごいな、それだけ聞いても何のことかまったく判らないのがいっそうすごい」 感心されてもあんまり嬉しくねぇと虚空が呻く中、ムジカは洗練された所作で、独特の形状を持ったグラスを口もとへ運ぶ。理比古も同じグラスを手にしているが、外見的にも実年齢的にも成人していないエレナは、綺麗な花の彫刻がされたグラスに、濃厚な葡萄のジュースを饗されている。 「葡萄の味が、お肉の脂をさっぱりさせてくれるのね。いっしょに食べたり飲んだりされてきたものには、理由があるっていうことなんだ」 「そういうことだな。実は、肉料理といっしょに赤ワインを、魚料理といっしょに白ワインを呑むことは、消化を助けるって意味でも理にかなってるんだ」 薀蓄を披露しつつ、虚空がエレナのグラスに葡萄ジュースを注いだ時、 「もしや……ムジカ・アンジェロ氏では?」 不意にそんな声がかかった。 こうべを巡らせば、質のよいスーツに身を包んだ、四十路前後と思しき男が、驚きに眼を瞠りつつムジカを見ている。 「いや、おれは」 今はオフだからとムジカが言うよりも、感激の様相で男がテーブルへと歩み寄るほうが早かった。 「ああ、やはりそうだ。『永遠のバンディエラ』、聴きましたよ。心が震える経験とは、まさにあのことでした」 「……それは、どうも」 ムジカが苦笑する。 男の眼は、純粋な歓びと、崇拝にも似た感嘆で輝いている。 「この感動をどうお伝えすればいいやら。僕にとってあなたの音楽というのは感性の泉のようで――」 「お客さま」 ムジカと、今にも彼の手を取らんばかりにまくし立てようとする男の間に、虚空がそっと割って入る。百八十を軽く超える長身の、しかも筋肉質の男であるから、威圧感はなかなかのものだっただろう。 「こちら、蓮見沢会長の賓客でございますので」 口調こそ丁寧だが、断固として譲らぬ態度で虚空が言うと、それで男は我に返ったようだった。このパーティに招かれたもので、蓮見沢の力を知らぬ人間はいない。何より、この場において洗練されていないことはある種の恥でもある。 男は、理比古とムジカを交互に見やり、 「たいへん失礼しました……申し訳ない、つい」 非常に恐縮しつつ、何度か頭を下げて去って行った。 小さなレディであるところのエレナにも謝罪をしていったのは、ここへ招かれるに足る品格の持ち主であるというところだろうか。 男の姿が見えなくなるのを見計らって、虚空が苦笑する。 詫びとばかり、ムジカの前に甘いリキュールが置かれる。 「悪いな。あの人も悪気はねぇんだ、許してやってくれ」 「いや、問題ないよ。おれの顔まで知っているからには、相当好いてくれているんだろうとも思うから」 「ムッちゃんは人気者だねぇ。ムッちゃんの歌、きれいだもんね。あたし、なんだか誇らしい気持ちになっちゃう」 エレナがにっこり笑うと、それだけで空気が華やかに、和やかになる。 「そういえば、一衛はムジカさんのことを百様のトゥルバドゥールと呼んでいたっけね。俺も、ムジカさんの音楽は好きだなあ」 理比古もまた穏やかに笑う。 それは光栄だとムジカが洒脱に肩をすくめてみせる。 そろそろデザートの準備を、といったん厨房へ向かった虚空は、客席の片隅に気になる人物を見かけた。 今日の記念パーティには、主に三種類の客が招待されている。 常日頃から蓮見沢と親密なかかわりのある上客、蓮見沢コンツェルンの統率者であるところの理比古の特別な賓客、そして地位や財力という意味で上客ではあるのだが、さまざまな問題から積極的なつきあいは推奨されていない客である。 虚空が見かけたのは、三番目の客だった。 「……アヤ」 足早に戻った虚空がそっと耳打ちすると、理比古は眼を瞬かせ、続きを促す。 「塩原が来てる」 「ああ、そうなんだ」 「あいつのとこ、いよいよ焦げ臭いって話じゃねぇのか。よく招待したな、阿蘇倉さん」 「いろいろあって断りきれなかったって聞いてたけど……」 「あーもう、嫌だわー大人のしがらみって」 溜息交じりのそれを、厄介ごとのにおいを敏感に感じ取ったムジカとエレナが、注意深い眼差しで聞いている。 「何かあったの、アヤちゃん?」 問われて、理比古は一瞬、考えるそぶりを見せたが、すぐに口を開いた。ふたりに黙っていても意味がない、という判断によるものだ。 「……うちの、けっこう大きな取引先で、いわゆる裏社会とつきあいのある人がいるんだけど、こないだ揉めたらしいんだよね」 「しかも、命を狙われるレベルで、だ」 「――ここの警備は?」 さすがの鋭さで周囲を素早く見渡し、ムジカが問う。 「まずかねぇよ。でも、さすがに、この一等地で軍隊みてぇな警備を敷くわけにもいかねぇだろ」 「なるほど。こういう場所はさまざまな思惑や利権が絡む分、そうそう安易に襲撃するわけにもいかない、か」 「出来ればご遠慮いただきたかったみたいだけどね。ただ、塩原さんのほうでも、自宅にこもっているよりこっちのほうが安全だって考えたのもあるんじゃないかな」 しかしながら、権謀術数とはほど遠い、猪突猛進を地で行くのもまた、裏社会の人々の特徴ではある。 「虚空、阿蘇倉さんにこの話」 「してきた。あっちはあっちで何とかしてもらうしかなさそうだ」 虚空が、ちょっと見回りに行って来る、と言うよりも早く、つんざくような銃声と、何か大きな塊が硬いものに激突するような音がして、店内に不自然な沈黙が落ちる。 ――そして、唐突に店内の照明が消えた。 辺りは重苦しい暗闇に包まれる。 * 「あーあー、この辺りも物騒になったよなぁ、ほんと」 虚空が溜息交じりに腕まくりをしている。 非常用電源云々の話が聞かれる中、店内は騒然としているが、スタッフが冷静に対応しているのもあって、まだパニックには至っていない。 「せっかくの記念すべき日なのに、優雅さの欠片もないな」 苦笑しつつ、理比古が支配人や責任者の人々と対応を協議しに向かう。 残された三人は、辺りの様子を冷静に伺いつつ、状況把握に努めていた。 「虚空、血なまぐさいことを考える連中が、目的を果たすために押し入ろうと考えた場合、どこを使う?」 「大通りに面した入り口は、どうも事故を装って自動車か何かを突っ込まされたみてぇだな。非常口はいくつかあるが、塩原が『いつでも逃げ出せるように、一番奥の、もっとも非常口に近い席に』座ることを向こうさんが知っていたら」 「……知られていると考えるべきだろうな。行動範囲を把握されているからこそこういうことになった、と」 「でも、そうすると、塩原さんに他のお客さんといっしょに避難してもらうの、難しいよね?」 「そういうことだ」 万が一のことがあってはいけないという判断で、警察への連絡とともに、スタッフが客の避難誘導を始める。一族の長である理比古もその先頭に立った。 「アヤちゃんが頑張ってるなら、あたしたちもひと肌脱がなきゃね?」 「そうだな、一宿一飯の恩義に報いる……なんて言葉も、世の中にはあるようだから」 びゃっくんを抱いたエレナとムジカは、ちょっとそこまで散歩に行く、程度の軽やかさだ。緊迫した場面にあっても、そこに恐怖や焦りは感じられない。 当の塩原は、停電の理由も、銃声の意味も理解しているのだろう。がたがた震えながらその場にうずくまり、何ごとかをぶつぶつとつぶやくばかりだ。早く逃がしてくれと騒がれるよりはマシだが、情けないことも事実である。 「あたし、腕力じゃ貢献できないから、こっちでサポートするね。ふたりは外に出るんだよね? 気をつけてね」 エレナに見送られつつ、 「ムジカ」 「どうした、虚空」 「今度、いつでもいい、よければ一曲、聴かせてくれ」 「構わないが、なぜ?」 「『永遠のバンディエラ』に、興味を持った。あんたの紡ぐ玲瓏が、どんな美を見せるのか、ってな」 「なるほど。なら……ひとまず、すませてしまおう」 やはり、緊迫とはほど遠く、並んで歩く。 別の非常口から、周囲を伺いつつ外へ出て、今まさに突入しようとしている武装組織の姿を見つける。 黒ずくめで、銃火器で武装した人々の数は全部で十ほど。飛び道具を手にしたプロの殺し屋という意味では、一般人にはなすすべもないくらい危険な相手だが、残念ながらというか幸いにもというか、ムジカにせよ虚空にせよ素人ではない。 それどころか、双方、方向性こそ違えど、荒事に慣れているという意味ではなんら変わりない。 「――先、行くわ」 「どうぞ」 トラベルギアを手に虚空が走り出し――いつの間にか、その肩にはフォックスフォームのセクタンがいる――、ムジカはその背後でコトノハを詩銃へと籠めている。 ふっ、という軽い呼気とともに、虚空がトラベルギアの苦無を投擲する。 それは恐ろしい正確さで襲撃者のひとりの肩口へと突き刺さり、小規模な爆発を起こして彼を吹き飛ばした。巻き添えを食ったもうひとりが火に巻かれて地面に転がる。 驚愕が彼らを席巻するより、 「『ギ・インドラが天の矢は流星の寵/アマガハラの野を駆けて、箱庭を白く照らし給う』」 高らかに謳い上げられたムジカの詩(ことば)が、光る矢になって数人を打ち据え、昏倒させるほうが早かった。 背後から襲撃される動揺に崩れつつ、さすがはプロと言うべきか、ふたりが店内へと突入し、残り三人が迎え撃つ体勢を取る。 拳銃だのアサルトライフルだのを向けられても、虚空に焦りの色はない。 「ヒンメル、火ィ頼む」 セクタンの撃ち放つ狐火で彼らの眼を眩ませる。 「『滴るアムリタは慈悲の蜜/聖性の夜に白蓮は開き、御代の子らを育み給う』」 胸を打つ、深い声がシンと冷たい空気を震わせる。 歌は力になり、詩銃から撃ち放たれる。 ムジカが詩銃にて彼らの足をすくう間に、ひと息に間合いへと飛び込むと、 「粋じゃねぇ真似、してんじゃねぇよ」 呆れの含まれた言葉とともに、虚空は彼らの急所を的確に打ち据え、あっという間に意識を刈り取った。 そのころには、ムジカが店内へと飛び込んでいる。 塩原の始末に走ったふたりを止めるためだが、実を言うと、あまり心配もしていなかったのだ。 なぜかというと、そこには、 「残念でした。みんなが楽しむ場所で、おイタは駄目だよ」 可愛らしくも頼もしい相棒が陣取っていたからだ。 ムジカの目の前で、男のひとりが、メカびゃっくんのロケットパンチで吹っ飛ばされる。男は壁にぶつかって滑り落ち、そのまま気を失った。もうひとり、有線のパンチで線に絡み付かれ、振り回されて眼を回したと思しき男が、やはり床に転がっている。 拍子抜けするほどあっけない終わりだった。 「あ、ムッちゃん。表は、おしまい?」 「ああ。しのびというのはさすがだな、おそろしい身体能力だ」 「アヤちゃんのお世話をするために日々鍛えてるって言ってたからね」 その辺りで、警察のサイレンが聞こえ始めた。 「ったく、アヤたちの楽しいメシの時間を邪魔するたぁ、ふてぇ野郎どもだ」 ぶつぶつ言いつつ、襲撃者たちを縛り上げた虚空が店内へ入ってくるころには、お客の避難誘導は完了し、「仕事したらお腹空いちゃった」という通常運転とともに、理比古もまた戻ってくるのだった。 「中断は残念だったけど、美味しかったし楽しかったね」 「そうだな、興味深い話も聞けた」 ふたりの言葉に、理比古が破顔する。 「ありがとう、俺も楽しかったよ。だけど、せっかくだから、この埋め合わせはしたいよね。また、招待を受けてくれる?」 「もちろん、喜んで!」 「虚空に、歌を聴かせる約束もしたしな」 快諾は、理比古に、野の花のような笑みを浮かべさせる。 そこへ、せめて、と虚空が茶器と焼き菓子を持って戻ってきた。厨房から拝借してきたものであるらしい。 「もうちょいしたら、白菜がとんでもなく甘くなるから、その辺りにもう一度呼ばれてほしいな。ここのシェフがつくる白菜のクリーム煮はシンプルだが絶品なんだ」 見事な手つきで茶を淹れつつ虚空が言う。白磁のカップに注がれた紅茶の、華やかな香りが鼻腔をくすぐる。 ようやく電源が復旧し、店内は明るくなった。 支配人ほかスタッフが警察への事情説明に追われる中、わずかな時間でことを収めてしまった功労者たちは、何でもない顔をしてお茶会に勤しむ。 日常のような非日常のような、騒々しくも他愛ない一幕のことである。
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