テリガン・ウルグナズは、銀の小枝と琥珀の葉が降り積もる地面を踏みしめて、皈織見(カヘリミ)の森を歩いていた。 そこは、現実味と時間の概念を失った、とてつもなく美しいところだった。一秒と百年が同時に存在するかのような、一秒と百年が同じものであるかのような、刹那と永劫の交差する場所だ。 「綺麗なとこだな。静かで、寂しくて、ものを思わせる場所だ」 踏み出すたびに、さくさく、さくさくと小気味よい音がする。 「……全部、鉱物や金属に見えるのに、全部、生きてるんだなあ」 先ほど、視界を遮るほどに吹いた幻迷嵐(マドイアラシ)は、今は収まっているらしい。 危険、という言葉とは、ここはなによりも無縁に思えた。テリガンは、美しくも幻想的な景色に誘われるようにして、奥へ奥へと踏み込んでゆく。 「これだけ綺麗な、『止まった』場所なら、もうひとりのオイラと出くわしたって、おかしかないのかも」 噂では聞いている。 ここは、『そうならなかった自分』と巡り会う、『もしも』の森なのだと。 「もうひとり……かぁ……」 テリガンにも、想像はつく。 多様な世界が無数に存在する、この世界群の実情を知れば、パラレルワールド、『あの日、選択しなかった自分』が生きるまったく別の世界が存在しても、おかしくないとも思う。 おそらくそれは、選択と後悔、分岐の数だけ存在するのだろう。 「……うん、判る。きっと、オイラは、そいつと会うだろう」 どこかから、金属の鈴が鳴るような、繊細で美しい音が聞こえてくる。誰から教わったわけでもないのに、小鳥のさえずりだと判った。 さくさくと、枯れた枝葉を踏みしめて進む。足音がやけに大きく聞こえるのは、テリガン以外、誰の姿もないからだろう。 無常すら感じる、まぶしく明るい静謐の中、純白の幹、銀の枝、琥珀の葉、幹を彩る雲母状の煌めきを愛でながら、テリガンは心の赴くまま、歩みを続けた。 そして、ひときわ巨大な樹木の傍らをぐるりとまわった先で、『彼』と出会った。 半ば予測はしていたことだったが、やはり、ばったり出会うと驚きが先立ち、全身の毛が逆立った。 「……!」 向こうは向こうで、驚愕と衝撃のあまりだろう、羽が盛大に膨らんでいる。 「ああ、やっぱりな」 テリガンがつぶやく先で、純白の羽毛がふわりと舞った。 ――そう、そこにいたのは、白い翼のテリガンだったのだった。 想い人が喪われたのちも、神を恨んで堕落することなく、敬虔な神のしもべであり続けた、天使のテリガンだ。 彼は、鳥のそれと同じ白い翼を持つ以外、黒い翼を持つテリガンと何も変わらない。スーツ姿で、想い人のロザリオもつけている。 「お前……!」 天使のテリガンもまた、自分が出会うのが何者か、予測していたのだろう。手にした、対悪魔用の拳銃は、新品のように磨き上げられ、また、その引鉄には、すでに指がかかっていた。 大きく見開かれた金の眼には、憤りとも憎悪とも嫌悪とも取れぬ感情がちらちらと揺れている。 予想通りだ、と、悪魔のテリガンは、内心で微苦笑する。 以前、ヴォロスのメイムで、対峙した。あの時は、夢の中で、というかたちだったが。 「よう」 特に気負うでもなく声をかけると、相手の顔が歪んだ。 「なんで笑ってるんだ」 憎々しげに言われ、肩をすくめる。 確かに、そうかもしれないとは思う。 否、テリガン自身、自分がこんなふうに余裕を持って『もうひとりの自分』と向き合うことが出来るようになるなどとは思ってもみなかった。夢で邂逅した彼に激昂した、ほんの数か月前の自分を懐かしくすら感じる。 しかし、理由なら、判っている。 テリガンの幸運は、彼が、ロストナンバーとなり、たくさんの経験を重ねられたことだ。そして、自分の愚かさ、過ち、盲目的な傲慢を知ると同時に、自分は許されていいのだと、本当はとっくに許されているのだと知ることが出来たことだ。 「……天使は嫌いだ、白い翼も、それを束ねる数多の神々も。セシルが死んだ時からずっと、ずーっとそう思い続けてきた」 言うと、天使のテリガンの顔が更に歪む。 そこには殺意さえにじみ始めている。 「だけど」 テリガンはかすかに笑った。 「アンタはきっと、オイラと真逆のコトを考えてる。悪魔は嫌いだ、黒い翼も、それを束ねる数多の魔族も。天使と契約したセシルが死んだ理由もきっと、魔族にある。って考えてる」 「当然だ」 硬い声が言い、引き金にかかる指にぐっと力が込められた。 「……はは」 テリガンは、思わず笑っていた。 「なにがおかしいんだ!」 「ん? いや、考えてること、ほとんど同じじゃねぇか、ってさ」 「違う! 悪魔なんかといっしょにするな!」 「違わないよ。結局、『何もかも、相手が全部悪い』って主張してることに、何の変わりもないんだから」 冷静に言うと、天使のテリガンは眉をひそめた。 「……それは。だけど、事実だから、」 「オイラにとっての事実、な」 さらりと言えば、ぐ、と言葉に詰まる。 テリガンは苦笑した。 天使のテリガンも悪魔のテリガンも、結局同じ愚を犯している。 「悪魔になったことに、オイラ、後悔はしちゃいない。たぶん、アンタだって同じだろ。後悔って自省より、何もできなかったことを顧みるよりも、誰かを、何かを槍玉にあげることで自分を保ってきたんだ……カッコ悪いったらありゃしねぇ」 それは、つまるところ、どちらに転んでも、テリガンは、まったく同じように――そう、他者を責めるというかたちで――しか憎めなかったということなのだ。 「ハッ、傑作だね、こりゃ……泣けてくるよ、自分の無力に」 「何を、判ったようなことを!」 天使のテリガンが激昂し、拳銃をテリガンに向けようとするよりも、彼が素早く歩み寄り、その銃口を手で押さえるほうが早かった。 「テメェ、あんとき言ったよな、オイラはオイラのこと一番よく判ってるって!」 あれは夢だと思いつつ、しかし現実でもあったという確信があって言えば、天使のテリガンが何か言いたげに口を開こうとした。 テリガンはそれを牽制する。 「おっと、今さら否定とかするなよ、こっちはやっと判りかけてるトコなんだからさ!」 天使のテリガンはあくまでも言いたいのだろう、天使の自分と悪魔のお前は違う、と。 しかし今や、少しずつ開かれつつある悪魔のテリガンには、彼我にそれほどの差異があるとは思えない。 「結局、あのころの、力のないオイラは、憎むことしか出来なかったんだ。そうでなきゃ自分を保ってられなかった、天使でも、悪魔でも変わらない」 テリガンがきっぱり言うと、天使の、白い翼が動揺に揺れた。 「……そんな、こと……」 言葉では言いつつも、しかし、銃口は、自然と下がってしまっている。 天使の彼もまた、気づきつつあるのだ。 天使であることを選んだ自分と、悪魔に堕ちることを選んだテリガン、双方に大きな差異などないということに。属性こそ変われども、『自分が悪いんじゃない』と他者に責任を押し付け、悲嘆と憎悪、無力感の捌け口にしていた醜い在り方に、何の違いもないことに。 テリガンは晴れやかに笑った。 もはや、天使のテリガンへの怒りも憎しみもない。 ただ、それでも、そのくらい大切な人だったのだと、今でも彼女を愛しく思うのだと、お互い、そう想える相手と出会えたことへの、奇妙な共感だけがある。 「……終わりにしようぜ、憎しみの応酬はさ。人を慮ることなく自分だけが正しいって思い込んで、誰かを責めて、結果、自分もまた苦しみに囚われつづけるなんて悪循環は、もうまっぴらだ」 静かに言う彼に迷いはない。 ――否、迷うことはあるかもしれないが、なお躊躇わずに進むと、諦めずに探すと決めたのだ。 テリガンは見ることが出来た。 多種多様な世界が、ロストナンバーと呼ばれる人々が、見せてくれた。 「そこから生まれる“力”は、もう必要じゃない。――オイラは、新しい“力”を見つけるって、決めたんだ」 復讐という矛先を失って、テリガンは確かに弱体化しつつある。 しかしそれを希望だと言ってくれた人がいる。テリガンもまた、誰かを傷つけるためだけの『力の方向』はもう要らないと思う。 「そんなもの、本当に見つかると思うのかよ? 一度、堕ちた分際で」 言葉こそ厳しいが、語調は静かだった。 そこに確認の色合いを感じ取り、テリガンはまっすぐに彼を見つめる。 「――……信じてる」 テリガンがそう、はっきりと、笑みすら含んで言った、その時だった。 強烈な風が吹きつけ、辺りの枯葉や枯れ枝を舞いあがらせ、テリガンの視界を遮ったのは。 「う、わ……」 眼を開けていられず、風に押されて一歩下がる。 琥珀の葉にすべてが覆い隠される寸前、天使のテリガンが、泣き出しそうな顔で笑い、こちらを見たような――そんな気がした。 「あっ、おい!」 その時、テリガン自身、何を言おうとしたのか覚えていない。 思い出す必要もないくらい、もう、判りあったような気すらした。 幻迷嵐が収まり、琥珀の枯葉が地面へと再度降り積もったとき、そこにはもう、テリガンしかいなかった。
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