ロウ ユエが、平和と平穏を取り戻したシャンヴァラーラの一角、電気羊の欠伸と呼ばれる【箱庭】へと向かったのには理由があった。 「……菓子づくり? を?」 「そうだ、ゾラ、きみに教えてもらいたいと思って」 「……俺に?」 「ああ」 そのような次第ではあるのだが、実を言うと、思い立ったことに特別な理由はなかった。同郷の同属であり、なんとか再会することのできた従者でもある青年に、いつも世話を焼かれてばかりでは情けない、と漠然と思っていたのがきっかけと言えばきっかけかもしれない。 「しかし、なぜ」 「先日、想彼幻森を訪れた際、七色ベリーの焼き菓子というのをお裾分けにもらった。あれはうまかった。ああいう、うまい菓子をつくれる誰かに、教えてもらいたいと思って」 最初は、従者の青年に頼もうと思ったのだ。 しかし、ユエ至上主義者と言えばいいのか、とにかく彼の世話を焼くことに至福を感じているらしい彼には、そんなもったいない、自分ごときが畏れ多いと平身低頭の勢いで固辞され、あまりの恐縮っぷりにこちらが申し訳なくなって断念したのである。 次に思いついたのが、腕のいい料理人のいる彩音茶房『エル・エウレカ』だが、あそこはとにかく危険の絶えない場所で、人をゴスロリ魔女ッ娘化させるビームを目からぶっ放す魔女ッ娘おっさんがいるかぎり、心穏やかに菓子をつくるなど不可能に近いと気づいて脳内から排除した。魔女ッ娘の衣装を可愛らしく着せられてキャッキャウフフとばかりに菓子をつくる己を想像するだけで前のめりに意識を失いそうだ。 そんなわけで、いくつかのツテを思案した結果、ここが一番安全であることに思い至り、唐突に尋ねても迷惑かもしれないと思いつつ、当たって砕けろの精神でユエはやってきたのだった。 「とりあえず、俺に出来るのは従者に教わった野草や薬草の料理か、いわゆる野営料理くらいで、あまり下地というものはないんだが」 しかし、手先は器用なほうだし、つくってみたいという熱意はある、という意志を込めて言えば、ゾラこと明佩鋼=ゾラ=スカーレットの朱眼が困惑に歪んだ。 「待ってくれ、俺は菓子づくりなんて出来ないぞ」 「えっ」 「七色ベリーの焼き菓子に関しては、近隣の住民から分けてもらったというだけで、俺が焼いたわけじゃない」 「え、そう……だったか……?」 「どこかで聞き違えたんだろうが、少なくとも俺は自分に菓子づくりが出来るなんて知らない。記憶の半分くらいしか戻っていないにしても、その辺りは忘れるものじゃないだろう」 困ったように言われて、ユエは頭をがしがしと掻き回した。 「そうだったか……うーん、じゃあどうしようかな」 彼の言から失望を感じ取ったのだろう、ゾラが小首をかしげる。 「あんたはなぜそんなに菓子をつくりたいんだ? 市販でも、うまいものはたくさんあるだろうに」 「いや、まあ、そうなんだが」 もっともな疑問に、ユエは苦笑した。 「別々に覚醒した身内と、この前再会してな。そいつが、故郷ではいわゆる俺の世話役だったんだ」 「ほう」 「再会後はずっと俺の身の回りの世話をしてくれているわけだが、たまにはなんというか、お返しがしたいじゃないか」 「ああ、そのために、菓子を?」 「そういうことだ。それにな、あいつがいつも淹れてくれるようにやってみても、茶が同じ味にならないのも気になってる」 従者の青年、ヒイラギと暮らし始めてから、彼に食事から茶、茶請けまで、すべてを負ってもらっている。あれで様々な暗殺技術を会得した武人なのだから世の中というのは判らない。 とにかくヒイラギは手際がいい。 なんでもつくれるし、ユエがときどき仕入れてくる異世界の食文化に関する知識を聞いただけでそれを再現して見せることもある。手際もいいし、何より、何をつくってもうまい。 「さんざん観察してみたが、どこにどういうコツがあるのかまでは掴めなかった。おまけに、あまりじっと見ていると挙動不審になるから、余計判らなくなって断念したというわけだ」 「『エル・エウレカ』に行けばよかったのに」 「あそこはどちらかというと精神を強制的に鍛錬させられるからな……」 「精神の鍛練と菓子づくりが一度に出来るなら一石二鳥では?」 「君の観点ではそうなのかもしれないが、俺個人としては無理だ。鍛錬の前に何というか大切なものがしぬ」 すでに一回は犠牲になっているユエである。 もしかしたら彼が記憶の彼方に追いやっているだけで、実はもっと被害に遭っている可能性すらある。 そんなわけで、禍の芽は摘んでおくどころか、まず発芽しないようにしたいユエが考え込んでいると、 「ああ、そうだ」 不意に、ゾラがぽんと手を打った。 「十雷に教わればいい」 「……十雷?」 唐突に出てきた名前に首をかしげる。 風や天候、それに付随するもろもろを司る白羊アーエールの化身であるところの十雷は、背の高い、鋭さのある美男子である。その彼に教われとはいったいどういうことかとゾラを見やれば、 「あいつは十色の化身の中で一番人間的だし、家庭的なんだ。おまけに最近、ロストナンバーが壱番世界をはじめとした様々な世界の食文化を持ち込むものだから、自領域の住民たちと料理教室? というのか? そういうのを開くようにもなったらしい」 ひとは見かけによらない、を地でゆく答えが返るのだった。 無論ユエにそれを拒否する理由はなく、ゾラと連れ立って、白の領域へと出かけてゆくこととなる。 * 白の夢守、十雷はふたりの訪れを素直に歓迎した。 ユエの希望を聞き入れ、 「我流だが」 と簡単な菓子のつくりかたを、コツとともに教えてくれたものである。 白の領域は、黒の領域と比べると理不尽かつ不条理な現象や原理は少なく、住民たちも壱番世界でいうところの普通の人間に非常に近い外見をしていた。味覚や食文化も、壱番世界とあまり変わらないらしく、ロストナンバーたちが持ち込む菓子などには皆が喜ぶのだそうだ。 その結果、十雷が壱番世界風の菓子を習得するに至ったものであるらしい。 「実は、菓子づくりというのはそれほど難しくないという結論に至った」 曰く、ふんわりとしたケーキを焼き上げたければバターを滑らかなクリーム状にすること。甘味には蜂蜜を少々、そしてさらさらの粉砂糖を準備すること。これを滑らかになるまですり混ぜ、更に玉子を加えてふわふわになるようよく混ぜること。粉を加えたら決して練らず、木べらなどでさっくりと切るように混ぜること。 これだけ守れば、簡単にしっとりふんわりとしたパウンドケーキが焼けるのだそうだ。パータ・ジェノワーズもしくはスポンジケーキなどと呼ばれるデコレーション用のケーキは、また少し勝手が違うようなのでそれは次回に教わることになった。 「基本のパウンドケーキが焼けるようになったら、次はラム酒に漬け込んだ乾しブドウや、刻んだナッツや、チョコレートチップなんかを加えてみるといい」 何という材質で出来ているのかも判らない漆黒のスキンスーツに、身体のあちこちからプラグやコードやコネクタを生やした、人間とは一線を画した存在である夢守が、白いボウルと泡だて器を手にした様は、何とも言えないちぐはぐな、しかし微笑がにじむような親しみをユエにもたらすのだった。 「なるほど……勉強になった、ありがとう。これで、ヒイラギをあっと言わせてやれる」 「ああ、従者に食わせてやりたいんだったな」 「それと、故郷に帰った時、面倒を見ていた子どもらに食わせてやりたくてな。俺の故郷はとても厳しいところだから、甘いものなんていうぜいたく品はほとんど口にしたことがなかったんだ。向こうへ戻って、人間のための領域を広げられたら、菓子をつくって食うような、穏やかな時間を手に入れたいとも思っているんだよ」 強大な力を持つ化け物たちによって蹂躙され、今にも滅びんとしている人類だが、ユエはそれをどうにか打開する可能性をすでに手に入れている。そして、故郷へと帰り、その可能性を実行に移す日は、おそらくそう遠くないという確信もある。 だからこそ、ユエは、唐突とも言えるタイミングで菓子づくりを教わりに来たのだ。 「ついでに、うまい茶の淹れ方は判るか? なぜ、俺が淹れるのと、彼が淹れるのでは味が違うのか、いつも疑問なんだ」 せっかくなので、と十雷が設けてくれた茶の席でも、ユエは研究に余念がない。重ねて問えば、十雷は思案する風情をみせた。もしかしたら、どこかのデータバンクに接続していたのかもしれない。 「経験と、あとは」 「あとは?」 聞き返すと、彼はにやりと笑った。 「愛だな」 「なるほど、ユエへの深い愛がなせる業か」 「納得するなよ。……いやまあ、否定もしないが」 ヒイラギの、ユエへの深い献身と忠誠、そして愛情に疑いようのあるはずもない。今のユエは、彼ら――今はもう喪われてしまった片割れも含めて――のおかげであるといって過言ではないのだ。 「なら、まずは経験のほうから重ねてみるか。愛のほうは、あいつのあれに報いられるほどのものを返せるよう、努力してみる」 苦笑交じりに言えば、ゾラと十雷、双方から微笑ましげな激励が寄せられた。 ユエは肩をすくめる。 「まあ、まずは、自分のつくったお茶請けで、茶の時間を過ごすことから始めてみるよ。――たまには、くらいの頻度になりそうだが」 ユエが焼いたケーキを饗された時、従者の青年はいったいどんな顔をするのだろうか。 それを想像すると、どうにも楽しい気分になってきて、ユエはかすかに笑った。
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