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<ノベル>
ホテル・スフィンクス。そこで小日向悟が年の離れた友人と有意義な休日を過ごしたのは、もう、半年以上も前のことだ。悟は久しぶりの休日に、久しぶりの臨場感あふれるミステリを楽しもうと、「あまり命の危険がない」ムービーハザードに、友人を誘った。
誘った友人のひとりは、すでにホテル・スフィンクスのミステリを体験している。他でもない犬神警部だ。悟は今回、もうひとり友人を誘っていた。最近知り合い、ちょくちょくメールを交わし、行動をともにするようになった――殺人鬼。ジェイク・ダーナー。
待ち合わせは午前10時、ホテル・スフィンクスの前。
犬神警部とジェイク・ダーナーは、待ち合わせ場所に到着した。時間通りだった。周囲には他に人影はなく、ホテル・スフィンクスの入口もひっそりと静まりかえっている。 所作なく待ち合わせ場所で立ち尽くす刑事と殺人鬼は、ややしばらく、お互いが同じ人間を待っているということに気づかなかった。
10時だ。
警部は腕時計を何度も確認していた。彼を誘った人物は、若いけれどもしっかり者で、時間はきちんと守る性分のはずだった。
10時を5分ばかり過ぎた。
「……なあ、あんた」
陰鬱な声が、犬神警部の横顔に投げかけられる。パーカーのポケットに両手を突っ込んで、ジェイクが警部に歩み寄った。
「もしかして、悟、待ってるのか」
それを聞いたとたん、犬神警部の全身の産毛が、ぞわわと逆立った。ほとんど反射的に、警部は身をひるがえして、ジェイクの顔を指さしていた。
「そうかッ、犯人はおまえかー!」
びしィいいーッ!
「……は?」
「おまえがヒナくんを誘拐したんだな! ヒナくんをどこに閉じ込めた!?」
「……違う。何言ってんだあんた……」
目深にかぶったフードの奥にあるはずの、ジェイク・ダーナーの顔かたちは、不自然なくらいにようとして知れない。警部は顔を真っ赤にして彼に詰め寄り、パーカーの襟をつかんでがくがく揺さぶっていたが、そんな目の前の警部にさえ、ジェイクの顔立ちがわからないのだった。
「……悟の居場所は、こっちが聞きたいくらいだ。……あいつ、『今日はもうひとり誘った』って、言ってたからな。あんたのことなんだろう」
「むう。そう言えば、確かに、『今日は3人で』と。……君のことだったのか」
「……ジェイク・ダーナー」
唐突ではあるが、フードをかぶった殺人鬼はぽつりと名乗った。
「警視庁捜査一課の犬神警部。あ、っと……警備員の犬神雪之丞だ。警視庁所属なのは映画の中だけだった」
警部は名乗りながら、ふと、まだ姿を見せない悟のことを考えた。雪之丞という名前をくれたのが、他ならぬ悟だったせいもあるかもしれない。ほんの5分だ。たった5分約束の時間に遅れたくらいで、何を心配しているのだろう。刑事のカンというやつだろうか。悟に何かあったのではと、胸騒ぎを感じてしまうのは。
「……手……」
「うん?」
「……手、いい加減、離してくれ」
我に返ると、犬神警部はまだジェイクの胸倉を掴んだままだった。警部が手を離そうと思った瞬間、足元の地面がなくなった。
ずどどざざざおおおんんん、という大げさな落下音に、「あっ」というささやかな驚きの声が混じる。
石の天井に穴が開き、石のブロックや土や埃とともに、犬神警部とジェイクが落下してきた。天井から床まで、5メートル以上はあっただろうか。悟にとっては見慣れたコートとパーカーが降ってきたし、そのうえ、ぼきっと嫌な音まで聞こえたので、彼は思わず声を上げていた。
「雪之丞さん! J君!」
もうもうと立ちこめる煙をかきわけ、悟は自分が誘った友人たちのもとに駆け寄った。犬神警部は、咳きこみながらもすぐに身体を起こしていた。短い髪の上に石のかけらが乗っているが、彼に怪我はない。
「ヒナくん」
「……よう」
警部がよろめきながら立ち上がったあと、ジェイクが身体を起こした。どうやら、ジェイクが下敷きになったおかげで、警部は無傷ですんだらしい。
「ごめん、J君、雪之丞さん。オレがあのレバーを倒したせいだ」
しょんぼりと眉と肩を落として、悟が背後の壁を指差した。
確かに、レバーがあった。見る者の好奇心をくすぐり、「とりあえず倒してみよう」という気持ちを起こさせる、罪作りな見かけのレバーである。RPGやアドベンチャー映画ではすっかりおなじみだが、現実ではそうそう世話になることもない類のオブジェクトだ。
「……べつに、気にするな」
ジェイクは軽く肩をすくめた。
「あんなレバーなら……おれだって倒す」
「しかし、まさかヒナくんが崩落させた犯人だったとは」
「本当にごめん。状況を進展させたかったんだ」
状況。警部とジェイクは、あたりを見回した。
オペラ座の怪人コスプレの白いバッキー、それを肩に乗せた長身の青年。これはべつに不思議なものでもなんでもない。ただの小日向悟だ。何度も会っている。
しかし、いま、自分たちを取り囲んでいるのは――石である。褐色と灰色の四角い石が、モザイク模様を描くように、しかしその実不規則に、整然と積み上げられている。詰まれた石は、迷宮を造り上げていた。それは見たこともない、どこかの遺跡の内部の様相だった。
現代の機械で切り出したかのように、ブロック石の辺はまっすぐだ。そして、テレビの遺跡ドキュメンタリーでよく言われているとおり、「カミソリ一枚通らない」ほど合わせ目がぴったりだった。階段も、もちろん窓もないのに視界は明るいのは、回廊の壁に等間隔でたいまつが取り付けられているからだった。
黴臭く埃っぽい、閉ざされた地下。しかし火は燃えつづけ、ほとんど息苦しさも感じない。何とも都合がよく、非現実的な空間だ。
悟は、あたりの様子をうかがうふたりに、自分がこの遺跡に来た経緯を説明した。
待ち合わせの10分前、ふたりを待つ間に、自然公園を歩いていて、地下へつづくあやしげな階段を発見したこと。
好奇心旺盛なバッキーのファントムが、自分の肩から飛び降りて、階段を駆け下りていってしまったこと。
そして、バッキーを追いかけて階段を降りたこと。
「そしたら、『お約束』が起きて……」
「出入り口がふさがれてしまったというわけだな」
「……この高さじゃ、あの穴から出るのも難しいな……」
頭上5メートルの天井を見上げて、ジェイクがため息をついた。彼と犬神警部が落ちてきた穴の向こうは、なんとも不自然なことに、真っ暗だった。地上は午前10時過ぎの銀幕市のはずで、朝からずっと快晴だったはずだったのに。
「……公園の地下に、こんな遺跡があるわけない……よな。……ムービーハザードか?」
「ホテル・ファントムの例もあるし、建物型ムービーハザードもありえないわけじゃないからね」
悟が頷いた。
「閉じこめられてから少し歩いてみたんだけど、部屋も階段も見当たらなかったよ。あのレバーみたいな『明らかなしかけ』はあちこちにあったけどね」
そう言いながら、彼は手にしていたノートを開いた。
「ヒナくんは常に筆記用具を持ち歩いているのか。感心だな。いやいや、実に感心だ」
「え。だって、今日は3人でミステリに挑む予定だったんですよ。証言から状況から、全部メモを取っておかなくちゃ」
「……おれなんか、手ぶらだぞ」
シンプルな大学ノートの中には、彼が見て、歩いてきた道が、事細かに記されていた。ジェイクと警部は、黙ってノートを覗きこむ。悟手製のマップには、角から角への歩数まで記してあった。
回廊は一本道で、曲がり角は四つだけ、それも90度の角だ。廊下にはいかにも動き出しそうな石像もあれば、頭蓋骨が捧げられた祭壇も設置されていた。
「正方形の遺跡か。廊下が一本だけとは、まったく意味がわからんな。しかし……なんだか以前のピラミッドを思い出すじゃないか、ヒナくん」
地図を睨み、顎を撫でて、警部が唸る。悟はにっこり笑って、大きく頷いた。
「そうですね。雪之丞さんとは同じチームでした」
「その雪之丞という名前をつけてくれたのも、あの騒ぎのときだ。やけに懐かしくなってきたなあ、随分昔の事件のようだぞ」
「……そのピラミッドが、また現れたってのか……?」
「それが、遺跡は遺跡でも、時代も国も違うと思うんだ。ふたりとも、ちょっとこっちに」
悟に導かれるまま、警部とジェイクは、崩落した天井の瓦礫を背にして歩きだした。
すでに冒険は始まっていて――3人とも、本来の今日の予定を忘れてしまっていた。
100メートルほど歩いたところで、悟は足をとめ、壁を指し示した。石の壁を覆っている埃が、一部分だけ手で簡単に拭われた形跡がある。悟が、ほんの5分前に調べたのだ。
その壁石には、浮き彫りによるレリーフが刻まれていた。彩色はされておらず、石の色のままだ。たいまつの揺らめく炎が、浅いレリーフの影を際立たせる。
「なんだこれは。やけにごちゃごちゃしてるな。確かにエジプトらしくないが」
「……目がある。……目だけ、銅かなんかでできてるな……」
「なにい、目というのはどこだ? 自分にはただの模様にしか見えんぞ」
「確かに少しわかりづらいですけど、ここが顔で、ここが身体で」
悟は警部が理解できるまで、さらさらとレリーフを指でなぞりながら解説した。
「生き物っていうより、神を表しているんじゃないかと。マヤとかアステカ……南米の古代文明でよく見る絵柄です」
「エジプトの次はアステカか。確かに、よく映画のネタにもされているな」
「……目が気になる……」
ジェイクは呟き、金槌を手にしてレリーフに近づいた。警部はその横で目を丸くする。
「お、おい。君は手ぶらじゃなかったのか」
「あれはJ君の能力なんですよ、雪之丞さん。いいなあ、さすが殺人鬼だなあ、常識もトリックも必要ないんだ」
警部に事情を説明する悟は、なぜかうっとりと嬉しそうだ。ジェイクは振り返り、顎をしゃくってレリーフを指す。
「……どうせ、しかけを何とかしなけりゃ、進めないんだろ。……やってもいいか?」
「うむ、まあ仕方がない」
「うん、状況は進展させないとね」
ふたりの許可を得たジェイクは頷くと、金槌を振り上げ、神の目を叩いた。
やはりその目は、石ではなかった。響いた音が、やけに甲高かったのだ。
こァァァァァん、カァァァァァン、ァァァァァン、ンンンンンンン……。
奇妙な鳥の鳴き声のように、音は地下遺跡の回廊を駆けめぐる。
音はやがて、尾を引きながら消えた。
凍りついたような沈黙。
何も起こらんじゃないか――犬神警部がそう言おうと口を開いた、そのときだった。づづづづづ、と人間の耳に聞こえるか聞こえないかの重低音が起こり、石の遺跡は小刻みに揺れ始めたのだ。
神のレリーフ周辺の石壁が――褐色と灰色のブロックで構成されているわけだが、そのうちの灰色の石だけが――ごうん、と引っ込んだ。がこん、と褐色の石が動いた。
「J君!」
壁から三歩ばかり距離を取っていたおかげで、悟はジェイクより先に危険を察知できた。
神のレリーフの両側の壁に穴が開いて、人のかたちをしたものが現れたのだ。それは一見、死体であった。炭のように黒ずんだ身体が、灰色の文身と、黄金の装身具で彩られていた。皮をかぶっただけの頭蓋骨に等しい顔に、目はなかった。しかし、ぽっかり開いた眼窩の中の虚無は、レリーフの前に立つジェイクを睨みつけていた。
手には黒いもの。
黒曜石のナイフ。
「おいこらッ、そんな物騒なものを!」
ジェイクの左側に立つミイラ戦士に、犬神警部が猛然と立ち向かった。干からびた戦士が奇妙な声を上げる。ストップモーションじみた動作で、戦士は黒いナイフを振り上げていたが、警部はその懐に飛びこみ、あざやかに背負い投げを決めた。
ジェイクはと言うと、どこからともなく取り出したマシェットで、「物騒なもの」ごと戦士の手首を刎ねていた。さらには、返す刀で戦士の首を飛ばした。こちらもあざやかな手並みだ。
しかも殺人鬼は、目の前の敵が倒れるのを見届けるや否やくるりと反転し、犬神警部が床に叩きつけた戦士の脳天にも、山鉈の一撃を見舞っていた。自分の顔のすぐ横を、唸りを上げて通過した凶器に、警部は「ほあッ」とおかしな声を上げて驚いた。
「J君が持ってるもののほうが、物騒だったかもね」
「い、いきなり驚かせないでくれ」
「……悪い。……これやるから、許してくれ」
ジェイクが犬神警部にマシェットを差し出す。警部は思わず素直に受け取ってしまった。
血の臭いがこびりついた、凶悪な凶器だ。この凶器に頭を割られた死の戦士は、ぴくぴく四肢を痙攣させてはいるものの、起き上がってはこなかった。
「……殺気がまだ……消えてない。ミイラは2匹だけじゃない、……と思う」
「本当だ」
ジェイクが言う前に、悟はあたりを見回して、死してなお動く戦士の気配を感じ取っていた。たいまつが照らす一本道の回廊で、影が揺らめくのがわかる。
「おい、ふたりとも! 奥に行けそうだぞ」
新たな道を見つけ出したのは、警部だった。ミイラ戦士が現れた壁の穴は、ただのくぼみではなかったのだ。あらゆる光を飲みこもうとしているかのような暗黒。だがその暗黒に向かって目をこらせば、古い埃と黴にまみれた石の道がかすかに見える。
乾いた手足と、黄金の防具がこすれ合う音は、確実に近づいてきている。
悟はすばやく壁からたいまつを取った。
「右と左、両方から来てる。挟み撃ちにするつもりなんだ。中へ!」
3人は、ミイラがやってきた暗黒の中に飛びこんだ。
(神の眠りは破られた! 血塗られた〈黒のウィツィロポチトリ〉は目覚めた!)
(夢を破られたときこそ、神の目覚めが定められしとき)
(祝福せよ、祝福せよ! 神を畏れよ、神を祀れ!)
悟がたいまつで照らせば、古の迷宮が、目の前に現れる。たいまつが照らしていた一本道の回廊とは違い、そこは、角が複雑に入り組んだ迷路だった。
無数の足音が、正方形の回廊から近づいてくる。悟はさっと適当な角を曲がって、入ってきた穴からたいまつの光を隠した。
つい先ほどまで歩いていた回廊とは、空気さえも違っている。太陽どころか、たいまつの火が生む光さえ忘れた迷宮だ。この空気は、何千年も前に閉じこめられた、古代の空気なのだ。
蜘蛛の巣には埃が積もり、主などとうに失っている。
歩けば、時折足元でぱきりかしゃりと乾いた音。灯で床を照らしてみれば、ほうぼうに白骨化した犠牲者が散らばっている。
壁がやけにでこぼこしていると思えば、それは壁一面に神の姿が浮き彫りにされているからだった。削られた凹面や残された凸面にも埃や蜘蛛の巣が積もっているので、奇妙なエンボス地の壁紙にも見える。
「……雰囲気あるな。……こういうところ、嫌いじゃない」
「しかし、出口からはますます遠ざかっているような気がするぞ。ヒナくん、大丈夫なのか?」
「ここまで来たら楽しまなくちゃ損ですよ、雪之丞さん」
「ううむ、しかしだな……食いものも水も持ってきていないんだぞ。長居はできん」
「そうだった。すいません、雪之丞さん。食料と水のことはオレも考えてませんでしたし、持ってきてないです。楽しみながらもすみやかに、ここから脱出する方法を見つけないと」
「結局楽しむつもりなのか、君は。まったく」
「オレひとりだったら、脱出は難しかったかもしれません。でも、雪之丞さんとJ君がいますから、何も心配ないですよ」
「……出口がないなら、作ればいいだろ……」
「ん、その手もあるね。ハザードを消すって手だ」
悟がジェイクににっこり微笑みかけると、警部はううむと唸ったきり黙りこんだ。
と、悟の表情が急に変わった。笑みが一瞬で消えた。犬神警部は面食らったが、悟は警部の横をすり抜け、背後の壁にたいまつの火を向ける。
「どうしたんだ、何か手がかりでも?」
「そうかもしれません。この壁だけ、レリーフがやけに大きい」
悟は壁の埃を払う。ジェイクと犬神も、無言で手伝った。
程なくして現れたものは、単なる浮き彫りによる神の姿ではなかった。
壁画であった。彫刻刀で石に刻まれた大作である。
「アステカは文字を持たない文明だった」
悟は火で壁画を照らしながら呟く。
「絵で伝説を著したんだ……」
翼を持ち、くちばしを持ち、鉤爪を持つ怪物が、その口から炎を吐いていた。炎は羽根を持つ蛇を焼き払い、太陽すら溶かし、粗末な腰布をまとうだけの人々を焦がす。鉤爪は人の首と人の心臓を鷲づかみにしている。漆黒の丸い目からは光線が放たれていた。
炎を吐くくちばしの端からは、よだれが垂れている。
この怪物は、恐らく神をも超えた神なのだろう。そして、怒り狂い、生贄の血肉を求めている。すでに多くを捧げられながら、それでも決して満足していない。
「なんだこれは。ヒナくん、いったいこれは何を意味しているんだ?」
「正確なことは何も。ただ、この焼かれているのは、ケツアルコアトルという神だと思います」
「……本で読んだ……〈翼のある蛇〉か」
「うん。でも、ケツアルコアトルは神話ではかなり力があって、信仰も篤かったはずだし……何より……善の神だったはずだ。こんなふうに描かれるのは珍しい」
「ヒナくんは神話にも明るいのか。いやまったく感心だな!」
「そんなに詳しくないですよ。J君と同じで、本を読んだだけですから」
「……目だ。やっぱり目が……違うものでできてる」
ジェイクが、火を吹く怪物を指さした。悟がたいまつの火を近づけると、確かに、黒い目はぎらりと冴えた光を表面に浮かべた。
「あれは石だな。やつら、あのミイラどもが持っていたナイフに似てる」
「じゃあ、黒曜石かもしれない。加工しやすいし、当時は儀式にも使っていたはずです」
「さっきも目がしかけになっていたな。……調べてみるか」
「……手が届かない」
「方法ならあるよ、肩車とか」
「待て待て、ヒナくんが土台では折れそうで心配だ。自分がやる」
「……刑事に担がれるのかよ……」
「なんだ、問題か?」
「……。……べつに」
「まったく最近の若者はグダグダと文句が多いな! 素直なやつが少ない。それに比べてヒナくんは――」
ぶつぶつと小言をつづけながらも、警部はジェイクを軽々と担いだ。ふたりのやり取りを見つめる悟がやけに嬉しそうに笑っていたのを、見たものはいない。
「悟。……これ、外れそうだ」
「じゃあ、やることはひとつだよ」
ジェイクは頷き、パーカーのポケットからアイスピックを取り出して、怪物の目と壁の隙間にこじ入れた。ジェイクの作業を見上げながら、警部は固唾を呑む。きっと、また何かが起こるだろう。刑事のカンがやけにささやく。
コン、と何とも言えない音がして、黒い石の目が壁から外れた。
「ふたりとも、壁から離れて!」
肩車中のふたりの背後で、悟が声を上げる。
犬神はジェイクを担いだまま、慌てて後ろに下がった。
ずわっ、と壁画の凹面を炎が走る。
翼のある神と大地と人は、本物の炎に包まれた。
埃と蜘蛛の巣が焼ける匂いが立ちこめ、暗黒の迷宮が火によって照らされる。
ジェイクは犬神の肩から飛び降り、そして天井を見上げていた。悟も犬神も同じだった。炎が照らす天井を見ていた。
天井には、整然と頭蓋骨が並んでいた。
プラハの骸骨寺とは違い、そこには苦痛と恐怖がある。大きく口を開けた骸骨は、耳の上に巨大な穴を開けられていた。穴には、石の梁が通されている。
再び近づいてくる、無数の足音。天井から視線を無理やり剥がし、犬神が周囲を見回す。
「ヒナくん、階段だ!」
警部がびしっと指差した先に、炎に照らされ、おぼろげに闇に浮かび上がる下り階段があった。
「……地下に行ってどうすんだ」
「例のミイラが近づいてきてるんだぞ、逃げるところだろう、ここは!」
「……皆殺しにするところじゃないか……ここは……」
「あーッ、最近の若者はすぐ『殺す』だの『死ね』だの! ヒナくん、君の意見はどうなんだ!」
悟が口を開いた瞬間だった。
どおん、と迷宮が揺れた。3人が思わずバランスを崩しかけるほどの衝撃だった。
どおん!
どおん!
衝撃と音はたたみかけてくる。
「おお、なんだっ、扉が!」
落とし扉だった。頭蓋骨をつづる梁と梁の間から石の壁が落ちてきて、迷宮の狭い通路を次から次へと封鎖しているらしい。
「――階段に行くしかなくなりました」
悟はさっきの警部の質問に答え、走りだしていた。
地上に出るのが目的なのに、地下へと向かう3人。
悟とジェイクは、うすうす感づき始めていた。
追い詰められている気がしないか? そうとも、ホラーでは、家に逃げこんだ人物はたいてい2階や3階へ逃げて、追い詰められて、殺される。
自分たちは地下へ、奥へ。石造りの迷宮の中心へ向かっている。もしかすると、向かわされているだけなのではないか……。
階段の壁に刻まれているのは、あの壁画だった。偉大なる神と無力な人々が焼かれ、異形の神が血と死を求めるという神話。階段は長く、神話は繰り返し繰り返し刻まれている。
悟は気がついていた。
下りれば下りるほど、文字のない神話の異形神の口が、笑みのかたちに歪んでいくことに。
細長い出口が見えた。闇が長方形にくり抜かれて、ほのかなオレンジ色が視界の中央でにじむ。出口に飛びこむと、視界が開け、異常な熱気が3人の顔に吹きかかった。
「うおっ――」
犬神警部の口から、驚愕が飛び出す。
長方形に切り出された出口は、平らな正方形の祭壇――階段ピラミッドの頂上に繋がっていた。
祭壇から降りる階段がはるか下へ、さらにつづいている。階段の下には、地面があるべきだったが、広がっているのは溶岩の海だった。
祭壇の中央に設けられているのは、黒光りする円盤。円盤の中心で、刻まれた異形の神が舌を出している。神の周りに彫りこまれたのは、首のない人、焼かれた蛇、数珠繋ぎの頭蓋骨。
(神は目覚めた!)
(生贄を!)
溶岩が渦巻き、唸りを上げるその音が、数万人の民の祈りと歓喜の喝采に聞こえる。いや、確かに、溶岩の海は人の海にも見えた。銀幕市の地下に、神が統治する王国があるのか。そう思わしめる、恐るべき光景だ。スケールが大きすぎる。
溶岩が吹き上げる蒸気が、3人の眼前でのたうち、集束し、翼を広げた。
黒い目を持った異形の神が現れたのだ。くちばしの端からよだれを垂らし、鼻の穴から煙を噴き上げ、鉤爪を生贄の血に染めた神だ。
「こんな神は知らない」
悟はささやく。
「でも、もしかしたら、アステカの人々が恐れたのは、こんな神だったのかも……」
文字も残さず、古の文明は滅びてしまった。現代に生きる人々は、神話を想像するしかない。
だから、誰も知らない神を捏造してしまっても、誰にも笑う権利はない。できるのは、誰かが想像した神話に身を委ね、自由なロマンを楽しむことだけ。
これは想像の産物だ。新たな想像によって、いくらでも書き換えられるフィクションだ。
「雪之丞さん! ロケーションエリアを!」
「な、なに、なんだって!?」
「舞台は熱帯の密林です。かれらは雪を知らない。きっと対処できないはずです!」
「よ……よし!」
ゴん、と犬神警部を中心に広がる波紋。
熱気がひと息に冷めたよう。
溶岩が囲む世界に、どこからともなく、猛烈な吹雪が割りこんできた。
神が奇妙な声を上げてもがいた。その身体に雪が張りつき、凍り始めていた。
神だけではなく、溶岩まで驚き怯えて、凍りついていくようだった。神さえ知らない白いものが吹いてくるのだ――。
ジェイクがすかさず、何かを投げつける。投げつけたあとで、
「……あ?」
と、疑問の声を上げていた。神の顔面にぶつかって砕け散ったのは、クリスタルガラスの灰皿だった。古典的なミステリの凶器だ。少なくとも、スプラッター・ムービーの凶器ではない。
「……マシェット出したつもりだったのに、なんで……」
「自分のロケーションエリアだからな!」
なぜか胸を張る警部に一瞥をくれて、ジェイクはポケットから次の凶器を取り出した。
ロープだった。たぶん絞殺用だ。
ちっ、と舌打ちして、ジェイクは凶器を出し直した。
青酸カリだった。ラベルに丁寧にわかりやすくそう書いてある。
ジェイクはため息をついた。そしてまだ自慢げな警部の手から、自分が貸したマシェットを取り戻した。ものも言わず、彼はそれを神めがけて投げつける。
今度こそ、神の脳天に、マシェットが炸裂した。
翼が凍てつき、頭を貫かれた異形の神が、円盤の上にどうと落ちる。
そのときだ。悟の肩から、白いバッキーが飛び降りた。
「ファントム!」
「……追いかけなくていい」
ジェイクが悟の肩をつかんで制止した。
そうだ、と悟は思い出す。
この血塗られた遺跡に迷いこんだのは、バッキーを追いかけたからだった――。
白いバッキーは吹きすさぶ吹雪と溶岩の熱気の中、痙攣する神の上に飛び乗った。そして小さな口を大きく開けて、かぷり、と神のくちばしに噛みついたのだった。
づづづづづ、と溶岩の海が沈んでいく。熱気が消え、観衆が消える。
この閉ざされた世界の中心が消えたのだ。あとは静かに、すべてが消えていくだけだ。
と、思われたが。
「……ちょっと、皆殺しは時間かかるな」
ジェイクも気が進まないくらいの数のミイラ戦士が、奇怪なときの声を上げて、ピラミッドの階段を駆け上がってくる。溶岩の下に潜んでいたのか、ピラミッドの下方に彼らの詰め所でもあったのか、定かではない。
3人はきびすを返すと、下ってきた階段をほうほうのていで上り始めた。
迷宮ではまた『お約束』が起こっていた。崩壊だ。
★ ★ ★
「体験したジャンルはミステリではなかったけど、3人で楽しい時間を過ごせたから、予定は達成できたも同然だなあ」
ファントムの膨らんだお腹を撫でながら、悟はご満悦である。服もショルダーバッグも何もかも、土と埃と煤で汚れていたが、幸せな笑顔は輝いていた。
地下遺跡は天井も壁もすっかり崩れてしまったが、おかげで積み上がった瓦礫をよじ登って地上に脱出できた。ジェイクはけろりとしていたが、四十も半ばを過ぎた犬神警部は若干まいっているところだ。
「……まだ2時か」
「なんだって? あれから4時間しか経ってないだと? 自分はもう帰って寝たいぞ」
「ホテル・スフィンクスに泊まるって手もありますよ」
木々の間から、今日入るはずだったホテルが垣間見える。悟はホテルを指差し、屈託ない笑みを警部に向けた。犬神警部は脱出口のかたわらでどっしりあぐらをかいたまま、深いため息をついてうなだれる。
「……泊まらなくてもいいけど、……ホテルなんだから、レストランくらいあるだろ」
「お、おい、本当に行くつもりか」
「……腹減ったし」
「あ、そう言えばそうだね。お昼どころじゃなかったから忘れてた。ファントムは満腹みたいだけど。雪之丞さん、行きましょうよ」
犬神警部は深い深いため息をつき、重い腰を上げた。
ホテル・スフィンクス。アドベンチャーの次はミステリだ。世の中には映画館をはしごする人間もいるし、そもそも、昔はよく二本立ての映画上映もあったもの――。
20分後、ホテル・スフィンクスのレストランで女の金切り声が上がった。同席していた夫がワインを飲んだ途端苦しみ始めて倒れたのだ。死んだ男の唇からはアーモンドの香り……。
「犯人はおまえだな! ジェイク・ダーナー!」
びしぃいーッ!
「自分はおまえがさっき青酸カリの瓶をポケットから出したのを見たぞー!」
「……」
「あーやっぱりこっちにも来てよかった……!」
〈了〉
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クリエイターコメント | オファーありがとうございました。 タイトルの邦訳は「呪われしウィツィロポチトリ」です。アステカ神話はなかなか血なまぐさくて好きですよ。 トラップの数は少なめになりましたが、それは3名のかけあいが思いのほか弾んでしまったせいでした。警部が殺人鬼くんをどう思っているのか、それはPLさんに采配をゆだねるところなので、曖昧にしておきました。初対面でもありますし。 ではでは、これからも皆さんが仲良く楽しく過ごせますように。 |
公開日時 | 2008-08-31(日) 21:00 |
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