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<ノベル>
ふんわりと漂うのは、昆布と鰹の合わせ出汁の香り。
嗚呼これぞ日本の香り。
銀幕市というのは、ロサンゼルスおよびハリウッドと密接なかかわりを持つ都市なので、表立った街並みはどこかアメリカ西海岸を思わせる。それでも、ダウンタウンやベイエリアの奥まったところなどには、つつましい漁村であった頃の面影を残しているのだった。そういったところでは、昆布や鰹から出る出汁、サンマや粕漬けの白身魚が焼ける香りが、静かに風に運ばれている。銭湯があり、古書店があり、文房具屋がある……。
そして、頑固なおやじが切り盛りする、うまいラーメン屋やそば屋があった。
ランドルフ・トラウトをふらりと惑わせたのは、合わせ出汁の香り。
路地に面した壁にはガラスの大窓があって、そこから店の主人のそば打ちを見ることができた。
ランドルフは、そばがどういう料理か知っている。知っているので、まともに食べたことがなかった。麺類――ことに日本の麺料理は、味も栄養価もあっさりしていて腹持ちが悪いし、ランドルフは燃費がよくない。食べれば食べるだけ英雄視されるという「わんこそば」の話も聞いたことだけはあるが、残念ながら彼はまだわんこそばを食べる機会にめぐりあえていなかった。
この街に実体化してからの彼の趣味は、もっぱら食べ歩きだった。見た目に反して甘いものが好きで、銀幕市の名だたるスイーツ店はほぼ完全に網羅していた。日本庶民料理の代表であるラーメンやカレーも食べている(ラーメンも麺類だが、ラードが使われているせいか腹持ちがよかったので、ランドルフを満足させてくれた。ただし特盛、替え玉2回)。
そばの香りは、あきらかに和の色で、あっさり系だった。ちょうど昼時だが、平日のためか店の客入りはさほどでもない。ここで出汁の香りに惹かれたことにも何かしら意味はあるだろう、一度くらいは食べてみるべきではないか。迷うランドルフの目は、店主の手元に向けられた。
ランドルフは、そこで、魔法を見たように思えた。
60代と思しき店の主人は、紺色の作務衣に利休帽という典型的な出で立ちで、ガラスの向こう側の大男には見向きもしない。細かな白い打ち粉を広いまな板の上にまぶし、プラスチックのボウルから取り出したそば生地を置く。灰色とも薄紫ともつかない不思議な色の生地を、主人はこねながら延ばしていく。
打ち粉を生地の上にもまぶして、どこからともなく取り出した麺棒を使い、あざやかに生地を薄く大きくさらに延ばした。ひとりの大男が食い入るように見つめる中、生地はあっと言う間に、驚くほど等しく薄く大きく、まな板の上に広がっていく。
まるで布のようになった生地を、主人は無言で、いっそ機械的にも思えるほど、正確にたたんでいった。
たたんだ生地の上にも、まな板の上にも、念入りに打ち粉を追加する。
そして再び、主人はどこからともなく道具を取り出した。菜切り包丁にも、ただの鉄板に柄をつけただけにも見えるそば包丁だ。打ち粉で真っ白になった生地を、彼は手際よく刻んでいった。包丁がリズミカルに生地の上を通過して、細い細い糸のようなものを残していくのを見たとき、はじめてガラスの向こうの大男は、この主人が「麺」を作っているのだと知った。
麺は細く、それでいてどれもまったく同じ太さで、次から次へと切り出されていく。ただの布のような生地から、麺というものが生み出されていく。そしてその麺たちは、ばらばらになることもなく、きちんと頭と尻を揃えて、打ち粉の上に載っているのだった。
手際よく生地をすべて麺に変え、主人は一人前ずつ切り分けていく。
そして包丁を置き、顔を上げて、一瞬ぎょっとしていた。
彼は身の丈2メートル以上の大男の存在に、ようやく気づいたのだった。
これは魔法ではないだろうか。
すっかり魅せられていたランドルフだったが、ガラスの向こうの主人が顔を上げてぎょっとしたのを見ると、我に返った。
「あ……、どうも。こんにちは」
直前まで圧倒されていたので、無難な挨拶しか出てこない。
店の主人の驚きはほんの一瞬だった。彼はどうやら古き良き頑固職人であるらしく、むっつりとした表情で、ふいっとまな板の前を離れてしまった。挨拶は、返ってこなかった。といっても、ランドルフのとっさの挨拶は少し小声だったので、単純に彼に届かなかっただけかもしれないが。
ガラスが古くて少し曇っているので、ここから厨房や店の様子はうかがえない。
ランドルフは目の前の手打ちそばを見て、ごくりと生唾を飲んだ。
この麺だけではちっともうまそうではないのだが、これがまずいわけがないという確信がある。これは、食べなければ。腹持ちの良し悪しなど知ったことか。目の前に匠の技があるのに、それを口にしない手があるだろうか。
のれんをくぐり、ぎりぎり肩がつかえないくらいの幅の入り口から、ランドルフは店内に入った。
「いらっしゃい。あらぁ、カウンターじゃ窮屈そうね。奥のテーブルにどうぞ」
ランドルフの接客をしたのは、60代くらいの割烹着の女性だった。たぶん……確証はないが……あの店主の奥方だろう。狭い店内をぺこぺこしながらのしのし歩き、ランドルフは奥のテーブルに座った。
出汁と醤油とそばの香りが、はちきれんばかりに店内に詰まっている。
小さなメニューを手に取ったはいいが、そばもうどんも食べたことがなかったランドルフには、難易度が高いメニューだった。料理名と値段しか書かれていないのだ。もちろん写真などついていない。
かけそば? なにがかかっているのだろう。
かしわそば? あの大きな葉っぱは食べられるのか?
きつねそば? ……キツネ!? あのキツネか!?
たぬきそば? ……!!!
天ざる? 月見? ちから? ……ちから?
「……すいません、ちからそばをひとつ……」
「はい、ちからひとつね」
どんなそばなのか知らないが、たぶん力持ちにふさわしいそばなのだろう。そういうことにしておこう。ランドルフはメニューを置き、店内を見回した。
ランドルフがそばを注文してからしばらくすると、店内にいた他の客が皆食べ終わり、会計をして出て行った。新しい客が入ってくる様子もない。およそ繁盛しているとは言えない店だ。
――こんなに美味しそうなのに。
香りも、あの手打ちそばも、まだ料理としての実体を持っていないのに、じゅうぶん食欲を刺激してくる。確かにこの店は大きな通りにも面していないし、ロケーションがいいとは言えないが……。
あれこれ考えるランドルフの目に、レジに貼られた手書きのビラの文字が飛び込んできた。
『年越し蕎麦 御予約承ります』
なんだろう、と目を細めたランドルフの前に、とん、とどんぶりが置かれた。
「はい、ちからそばひとつね」
彼が頼んだそばは、上に、ネギと海苔と、揚げた餅が2個のっていた。
ぱちん、と力を加減して割り箸を割る。
箸の扱いは慣れたものだ。彼の大きな手では、菜箸がちょうどいいくらいで、割り箸はとても使いにくかったが。
餅より先に、そばを口に運ぶ。
つるりと口の中に入ってくる、湯気とつゆとそば。
鼻から抜ける出汁の香り!
軽く揚げた餅は噛めばさくさく音がする。
湯気を吹き飛ばしながら、ランドルフはものの2分で麺をたいらげ、濃い味のつゆをひと息に飲み干した。冬の寒さなど、身体の中から追いやられていた。
「――ごちそうさまです。大変美味しかったです、いや、感動しました」
「あら。おそば初めて?」
「ええ」
「たくさん食べそうなお客さんだから、お餅2個にしといたげたわ」
「そうだったんですか。それは、ありがとうございます」
割烹着の老婦はにこにこと愛想良く話しかけてきてくれるが、店主は難しい顔で、カウンターと湯気の向こう側にいる。まったく口を利かず、鍋をかき回しているだけだ。
食事はとうに終わっていたが、老婦はお茶を入れてランドルフに持ってきた。それから、そばの話が弾んだ。つい15分前までメニューの意味がわからなかったランドルフだったが、そば談義のおかげでたぬきやきつねの誤解を解くことができた。
「それで、あの『年越しそば』というのは……」
「ああ。日本じゃ、大晦日の夜にそばとかうどんを食べるのよ」
「へえ! でも、どうして?」
「おそばみたいに細く長く生きられるようにっていう、まあ、げんかつぎだわね」
「風習というわけですね。ということは、日本国民みんなが食べるんですか?」
「たいがいの人は食べるだろうねえ。あたしらなんか、こういう商売してるから、もうおそばなんてあんまり食べたくないんだけど、それでも年越しそばは毎年必ず食べるから。ねえ、おとうさん」
「……」
妻に話を振られても、主人はちらっと面倒くさそうな一瞥をくれただけだった。
ランドルフは主人の愛想のなさなど気にもとめなかった。年越しそばの話とそばの味に、妙に感銘を受けてしまっていたから。
日本は海外の文化に感化されやすいが、年末年始の行事だけは昔ながらの伝統を守っている(ように、ランドルフは思える)。これから先何百年も、きっと大晦日にそばやうどんを食べる風習は残るだろう。このすばらしいそばの味は未来に残る。
夢が終わって、ランドルフ・トラウトという存在が、消えてなくなってしまっても。
「……おそばというのは、どうやって作るのですか?」
ランドルフがそれを尋ねたのは、老婦ではなく、カウンターの向こうの主人だった。
その一瞬で、主人は面倒くさそうな顔を、むっとしたような顔に変えた。相変わらず、口は利かない。
「この味とあの麺を作るのは、簡単ではないとわかっています。でも、その……本当に、とても美味しくて……」
「このそばがうまいだって?」
主人がはじめて口を開いたが、放たれた言葉はささくれだっていた。
「そりゃアなんだ、おれへのあてつけか。そうでなかったら、あんたはそばのことをなんにもわかっちゃいねえ。そばの作り方なんざ、最近は本屋に行けばわかる!」
主人はそう言い放つと、大またで厨房の奥に入っていってしまった。
「おとうさん! お客さんにそういう口の利き方あるかい、もう!」
「い、いえ、いいんです。失礼なことを聞いてしまって」
「ちがうよ。あの人が偏屈なだけさ。まあ、でも……うん」
「……なにか事情が?」
老婦は寂しい笑みを浮かべて、ランドルフの他に客がいない店内を眺めた。すこし、遠い目だった。
「あの人は16からそば打ちを始めて50年なんだよ。さすがに身体にガタが来ちゃってね。3年くらい前に手首を痛めて、それっきり、思うように力が入らなくなったみたいなの」
「……」
「そば打ちっていうのは、けっこうな力仕事でねえ。特に、こねるのと延ばすのが大事なんだよ。あたしも手伝うようになったんだけど、やっぱり、味が落ちてねえ。お昼時でもこの有り様だから、お客さんはわかってるんだろうね」
「……」
ランドルフはしばらく、言葉を見つけられなかった。
味が落ちたと主人の妻は言っているが、今しがた食べたそばはランドルフが感動するほど美味しかった。美味しいことにちがいはない。
『年越し蕎麦 御予約承ります』
ランドルフはレジに貼られたビラを見つめ、そして、立ち上がった。
「あ、お、お客さん!?」
ものも言わずにランドルフはカウンターの中に入り、のしのしと厨房の奥に進んだ。換気扇のそばで主人は煙草をふかしていたが、突然闖入してきた大男の姿を見ると、さすがに焦って後ずさっていた。
「ご主人。お願いです」
「な、な、なんだ」
「お手伝いをさせてください。皆さんの年越しそばと、ご主人のために働きたいんです。腕力になら自信があります。いや、私には力しかありません。どうか……お願いです」
「で……」
主人はごくりと一旦固唾を飲んだ。
「弟子はとらねえ」
「はい。そんな、ご主人が50年もかけて積み重ねてきたものを、今日初めてそばを食べた私が継ぐのはおこがましいです。だから……、せめてお手伝いを。お願いします、どうか」
ランドルフは冷たい厨房の床に手と足をついて、深々と頭を下げた。
その頭上で、店主と、駆けつけてきたその妻は、ぽかんと口をあけた顔を見合わせていた。
ランドルフは、昼食時を少し過ぎた14時頃をめどにして、足しげく一軒のそば屋に通うようになった。
金属のボウルは使わない。よく洗ったプラスチックのボウルに、そば粉と強力粉を入れる。水と、といた卵を回し入れる。
こねて、こねて、こねていく。力任せにこねればよいというわけではない。まんべんなく、すべての材料が混ざり合うように、こねて、こねて、こねていく。
大きなまな板の上に、ふるいにかけた打ち粉をまぶす。
丸くまとめたそば生地を、ゆっくり、丁寧に、圧し延ばす。ここも、力任せではいけないのだ。生地が割れてしまったら、また丸めた状態からやり直し。
薄く薄く生地を延ばして、そうっと、ゆっくり、丁寧に、打ち粉をまぶしながらたたんでいく。
そば包丁は見ながら振るうものではない。大切なのは感覚とリズムだ。証拠に、主人は目をつぶっても、まったく同じ太さで麺を切り分けることができた。
自分が作って失敗したそばは、全部ランドルフが責任を取って食べた。どんぶりに山盛りの、不恰好で不揃いなそばの上に、主人の妻が揚げた餅を2個も3個ものせてくる。そのうち、餅3個に作りすぎた揚げ玉ものせるようになった。
「お、何だいニイさん、いいもん食ってるじゃねえか。おばちゃん、ニイさんが食ってるの、なにそばだ?」
年の暮れも差し迫った昼過ぎに、威勢のいいおやじが客として入ってきて、ランドルフのそばを見るなりそう言い出した。
これは売り物ではないです、失敗作なんです。ランドルフが慌ててそう言おうとしたが、その前に、割烹着の奥様は答えてしまった。
「どるふそば」
ランドルフは激しく噴いて、鼻から麺を一本出してしまった。
「じゃあそれ、ひとつ。それとビール」
おやじはランドルフを見舞った惨劇に気づかず、上着を脱いでカウンター席につく。
湯気の向こう側で、いつも難しい顔の主人が、ぷるぷる肩を震わせていた。
20分後、おやじは揚げ餅3個に揚げ玉どっさり、麺大盛りの「どるふそば」を平らげて、席を立つ。ゲップはしていたが、彼もなかなかの胃袋だ。
「おウ、おやっさん。なんか、先週食ったときよりコシがあって、うまかったぜ」
おやじは1000円札と500円玉をレジに置いて、颯爽と店を出て行った。
次の日から、レジに貼られたビラが一枚増えた。
『どるふそば 1500円』
それを見たとき、ランドルフの大きな身体が、ぶるりと震えた。
いつものようにそば打ちを始めようとしていた主人に、彼は、涙を浮かべながら礼を言った。主人もその妻も、ランドルフがどうしてそんなに感極まっているのか、理解できていなかったが。
「……礼を言いたいのは、こっちのほうだ」
主人は打ち粉をまな板にまぶしながらぼそりと言った。
「おまえさんが手伝ってくれるようになってから、客が増えた。……3年前までのコシが戻ったってな。……ああ、客は増えたんじゃない、戻ってきたのか……」
「ほ、本当ですか」
「そうだよぉ、年越しそばの予約も去年より多いしね。ドルフさんのおかげ」
「……おう。よかったら、これからもちょいちょい手伝いに来てくれるか」
主人はランドルフの顔を見もしなかった。かわりのように、主人の妻が嬉しそうな顔でランドルフを見上げてくる。
ランドルフは頭をかいた。
ランドルフの自宅の中に、昆布と鰹の合わせ出汁の香り。
嗚呼これぞ、日本の大晦日の香り。
テレビからは、NHK独特の微妙な間と笑いを交えた司会に、選ばれた人々の歌が聞こえてくる。
ぱきぱきと、薄いプラスチックのパックを開けて、ぐつぐつ煮え立つ鍋の中に、白い粉がまぶされた生そばを入れる。
吹きこぼれそうになっても、水はささない。火力を弱めればいいだけだ。
特大のどんぶりに、二人前のそば。隣のコンロで揚げた餅を三つ入れ、揚げ玉――のかわりに、スーパーまるぎんで買ってきた海老天をのせる。年末なのだし、これくらいの贅沢は許されるはずだ。
ちょっと贅沢どるふそば。
――私がいなくなったあとも、餅3個に揚げ玉に、麺大盛りのそばは、どるふそばという名前でいてくれるだろうか。きつね、たぬき、かしわ、そんな名前と、ずっと肩を並べていけるだろうか。無理かもしれない。でも、せめて、この銀幕市の中だけでも……。
「……」
物思いを振り切って、さて、食べようかと箸をつけたとき――
ごううん、と低い音が、壁と窓をかすかに震わせ、遠くから忍び寄ってきた。
ごうううん。
ごうううん。
これは、除夜の鐘、というものだ。日本の年末に、欠かせないもの。去年か一昨年、誰かに教わったのだ。
ごうううん。
ランドルフは鐘の音からそばに目を移す。
ごうううん。
嗚呼、今年が更けていく。
〈了〉
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クリエイターコメント | どちらでもよい、ということなので、そばにしました。車で1時間の町のそば祭りに行くくらいには、諸口はそば派なのです。ただうどんが嫌いなわけでもないです。 美味しそうな感じが伝われば物書き冥利につきます。 ゲリラオープン窓、つかまえてくださってありがとうございました。 |
公開日時 | 2008-12-30(火) 10:00 |
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