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<ノベル>
■脳髄■
昇太郎が見たのは、自分の肩口をかち割るマシェットではない。
自分の肩口ごとかち割られている、山口朋子という若い女性の顔。頭。脳味噌だ。血が遅れて噴き出していた。昇太郎は彼女のことを何も知らない。名前も、落ちたハンドバッグの中から飛び出した保険証で知っただけだ。
男の顔は見ていない。ただ、夜の街を歩いていたら、――死の匂いがして――、女性の悲鳴が聞こえ、やつが血塗れのマシェットを振り上げているところに出くわしたのだ。
声で制止するよりも先に身体が動いていた。やつが何者なのかということも考えなかった。昇太郎はそこに走り寄り、悲鳴を上げるばかりの女性をかばった。
落ちたバッグ。山田朋子。彼女の、恐怖に引きつった顔に、ほんの一瞬だけ安堵の色が戻ったような気がする。だが次の瞬間には、新たな恐怖で顔が歪んでいた。彼女もまた、昇太郎の名前すら知らなかっただろう。しかし、その一瞬でわかったはずだ。
このひとはわたしをかばってくれるようだが、そのかわり、このひとがこいつにころされる。
それさえ甘い考えだったということを、誰が予想し得ただろう。
マシェットは昇太郎の肩にめりこんだ。肩の骨というのは頑強だ。しかし、やつが駆るマシェットは、そんな骨をまるでバター扱いした。昇太郎の肩は砕かれ、マシェットの長く分厚い刃は飛び出し、彼がかばったはずの女性の頭を、荒々しく潰してみせた。
まるで昇太郎を嘲笑うかのような暴力。結果。死にざまだ。
昇太郎は我が目を疑う。
山口朋子が、自分を責めている顔をしているような気さえした。
この、やくたたず。けっきょくまもれないなら、きたいさせないでよね。サイテー。あんたいきてるいみなんかないわよ。
彼女が実際そう思っていたかどうかは、わからない。確かめるすべはない。ただ昇太郎が呆然と見つめるのは、潰れ、裂け、血と脳漿と脳髄と骨のかけらにまみれた、無残なデスマスクだ。
彼が驚き、我を見失ったのは、それでもほんの一瞬だ。振り向きざま剣を抜き、やつに反撃を浴びせかけていた。山口朋子の屍が倒れるのと、得体の知れない敵に昇太郎の剣がめりこむのは、ほとんど同時だ。
街灯の光を背にしている大男。
どういうほけか顔の印象がない、昇太郎の記憶には焼きつかない。
そして、ばっくりと胸まで割れた肩の傷をものともしない昇太郎同様、相手も昇太郎の剣撃をものともしなかった。茶色い、山口朋子の髪の毛をまとわりつかせたマシェット。赤黒い肉片、ピンクの脳髄、透明な脳漿、そして血にまみれたマシェットが、昇太郎の身体を無造作に薙ぎ払った。
昇太郎からつかず離れず飛び回る鳥が、その剣風にあおられる。
それほどの衝撃。
剣でそれを受け止めようとした昇太郎の身体は、横様に吹っ飛んだ。道の両脇を固めていた民家の塀が粉々に砕け、昇太郎は血まみれになりながら狭い庭に突っこむ。
そして、やつはまた、忽然と姿を消した。
やつは獲物の死を確かめない。自分の腕力に自信があるのか、面倒なのか、興味がないのかはさだかではない。
あまり手入れされていない庭で、昇太郎が呻きながら身体を起こしたことを、やつは恐らく知らないだろう。
そして昇太郎は、助けられずに死んでしまった女性の魂が、天にのぼるのもかなわなかったことを知らない。昇太郎の周りを飛び回る鳥ならば、知っていただろうか。
ダスト、そしてダスティ。
映画の中から現れた死神は、わけもわからないまま死んだ女の魂を、ぐばりとひと呑みにしてしまった。
「お? おおっ? おおおおっ?」
陰気な男が担いでいる黒い棒きれには、カタカタと顎を鳴らす髑髏がついている。歯を鳴らすだけではなく、しゃれこうべは言葉を発した。
「おいおい、旦那! 見ろよ、わかってるだろーけど見ろよオイ! 今喰ったの、正真正銘の人間のモンだ。オイ、わかってんだろ、ウジャウジャだ! 人間が死にすぎてンぜ、ヒャヒャヒャヒャヒャ、書き入れ時じゃねェか、よう旦那!」
そう、この辺りでは今、人がやけに死にすぎている――死神がそれを察知し、姿を現すほどに。長髪の陰気な男は、一言も喋らない。ただ、髑髏だけがケラケラと下卑た哄笑を上げている。死神がそれを聞いているのかどうかも、さだかではなかった。ダストの顔は長い髪で隠され、ようとして知れないのだ。
「おおっ?」
ゆっくり、ダストの視線が動き、やがて、血みどろの身体で立ち上がる男をとらえていた。
「ククククク、面白ェヤツもいるもんだ。アイツ、くたばれねェらしいぜ。気の毒なモンだ。ヒヒヒヒヒ……」
ダストは、昇太郎というムービースターを知らない。
だが、彼が死なない――死ねない――存在であるということは、本能的に感じ取った。しゃれこうべがひたすら嗤う中、死神は足音も立てず、昇太郎に歩み寄っていった――。
■眼球■
万霊節前夜祭というのは、日本のほぼ裏側にある国から始まった風習のひとつだ。お祭り好きで西洋好きなこの国にも、まださほど浸透していないイベントである。しかし、ハロウィンというのは、言ってしまえば「西洋のお盆」だった。聖人や悪人の霊が、この夜、現世にふらふらと戻ってくる。太古の人々は儀式を執り行い、ランタンに火を灯し、悪霊を翌朝までに現世から追い払った。
それが転じて、現代では賑やかな、カボチャ色のお祭りになったのだ。いつからか、子供も大人も、怪物や幽霊の仮装をしてパーティーや近所の挨拶回りをするようになった。
映画の町銀幕市には、姉妹都市ロサンゼルスをはじめとした様々な欧米諸国の都市から、映画関係者が訪れている。そのまま住み着いてしまう者も珍しくない。恐らくこの町は、現在、日本でいちばんハロウィン好きな町だろう。
いつもの銀幕市なら、映画の中の登場人物やモンスターに扮する市民が多いのだが、今年は少し事情が違う。これまで仮装してきた人物そのものが町を闊歩しているのだ。今年の市民の仮装は、オーソドックスでクラシックなモンスター――吸血鬼、魔女、狼男、シーツをかぶった幽霊――が大半を占めている。ムービースターにはかなわない、ムービースターに悪いから、という感情が働いているのだろう。だが、たまにはこんな典型的なハロウィンもいいのでは、と皆が思っていた。それに、例年よりも派手にしようなどとは思わなくても、今の町の状態なら、ほとんど自動的に例年よりも派手になる。あらゆる祭り、あらゆるイベントが、良くも悪くも普通の盛り上がり方ではすまなかった。
銀幕広場のイベント会場の盛況ぶりは、およそ正気の沙汰とは思えないようなものだった。しかし本当の意味で正気ではなくなっていたのは、このお祭り騒ぎの中にあっても、平和で幸せな時間を過ごすはずだった、片隅の住宅街だ。お祭り騒ぎに翻弄されたか、対策課の初動が遅れた。だから、たまたまそこに――惨劇の現場に――居合わせた者が、最初の抵抗者で、最初の負傷者になってしまったわけなのだが。
仮装していないのに、見るからに殺人鬼。
銀幕市はすでに厄介な殺人鬼を抱えていたのに、この惨劇。
銀幕市は本当に、夢の魔法をかけられているのか?
呪われている、の間違いでは?
クレイジー・ティーチャーが、金槌を引きずり、人魂を引きつれ、ケラケラ笑いながらハロウィンの夜を歩いているのだ。
「ウーン、ステキな夜だネ。“Trick or treat!” アアなんてイイ響きナンだろう! 一年中ハロウィンならイイのにネェ。……あ、1年に1回しかナイほうが盛り上がるのかナァ、やっぱり」
上機嫌で人魂に語りかけながら、殺人鬼はフラフラと夜の通りを闊歩する。子供たちの、はしゃいだ“Trick or treat!”を聞きながら。学校に通う子供たちの嬉しそうな、楽しそうな声を聞くのは、クレイジー・ティーチャーにとって至高の喜びであり、ある意味原動力にもなっていた。
だが、その通りにさしかかったとき、クレイジー・ティーチャーの本能のようなものが――スイッチやセンサーと言ってもいいのだろうか――はたらいて、彼は足を止めていた。
果たして、聞こえてくるのは悲鳴である。子供たちの「いたずら」で驚いているような、そんな生易しいものではない。クレイジー・ティーチャーの肌が、ぞくぞくと高揚で粟立つのだ。
これは、恐怖の声である。彼にはそれが、わかるのだ。
「しんでる! しんでるう! しんでるよう!」
「しんでるんだよう!」
「し……!」
大人の悲鳴に混じって、半狂乱の子供の叫び声も聞こえてきた。これで状況はよくわかった。殺人事件が起きたのだ――しかも、クレイジー・ティーチャーのスタンスにぴったりの、血なまぐさい死に様だろう。
クレイジー・ティーチャーは、考えるよりも先に笑みを深め、ふらふらと歩き出していた。
「ヒヒ、……死んじゃったらお菓子もらえナイじゃないカァ」
辺りは、騒然とし始めている。
ホラー映画では、あまり見かけられない光景だ。人が死んでも殺されても、誰も気づかず、夜の闇は沈黙したまま。やはり現実とフィクションは違うということか。遠くからパトカーと救急車のサイレンが近づいてきている。
クレイジー・ティーチャーも、悲鳴の渦の中心に、確実に近づいていた。
しかし、やつが現れたのは、渦の中心ではない。やつは、馬鹿ではないようだ。移動している。そして、よりにもよってクレイジー・ティーチャーと鉢合わせたのだ。
「Hi」
ニタリと笑って、殺人鬼は殺人鬼に声をかける。だらりと両腕を下げた彼は、一見隙だらけに見える。だがそれは、所詮「一見」でしかない。ふたりの間を横切ろうものなら、たちまち首が飛びそうだ。
「イタイケな子供たちをイタズラに怖がらせてるクソッタレな(ピー)はキミかなァ?」
相手は、一言も喋らなかった。
まさに問答無用!
やつが手にしていたのは、金属バットである。どこの家から拝借したのか、そんなことはどうでもいい。問題は、そのバットがすでに充分血を吸っていたということ。そしてやつがバットという凶器を持っているということだ。鉄は血と肉片でぬらぬらと赤い光を帯びていた。歯と骨のかけらが、その血にはりついている。
やつはそれを片手で振りかぶり、猛然とクレイジー・ティーチャーに突進してきた。
「ヒケケケケケ、いきなりナンだい、アブナイやつだなァ、キャハハハハ!」
ぶん!
「ハ!」
がキ!
「ハッ――」
ごキ!
金槌で迎え撃った殺人理科教師。
彼の哄笑が唐突に止む。
金槌が一撃でへし折られたのだ。しかも、彼の右腕ごと。まっすぐに振り下ろされたバットが、金槌をへし折り、クレイジー・ティーチャーの右手首をへし折った。折れた手首の骨が、べじゃりと音を立てて肉と皮膚を突き破る。親指と人差し指はあらぬ方向に曲がった。右手から血を噴き出しながら、クレイジー・ティーチャーがよろめく。よろめき、うなじがむき出しになった。
やつは殺人鬼の血を吸ったバットを再び振り上げ、振り下ろす。殺人鬼の後頭部めがけて。唸りを上げるとはこのことだった。とてつもない音と衝撃が、クレイジー・ティーチャーの頭蓋を叩き割る。赤い目が片方、神経を引きずりながら彼の顔から飛び出した。脳が割れた頭蓋に潰され、押し出されて、やつのバットにこびりつく。
そして、それからも一方的だった。やつは倒れゆくクレイジー・ティーチャーの背中にバットを叩きつけた。背骨は近所中に響きわたる音を立てて砕けた。その勢いで地面に叩きつけられた殺人鬼を、彼は無造作に蹴り上げた。肋骨がまとめて21本砕かれた。一瞬で血袋にされた胸、浮き上がったその身体――バットを両手持ちにしたやつは、渾身の力でスイングし、クレイジー・ティーチャーの胴を打ちつける。
「ごワげばべブわハぁ!!」
斬新な奇声とともに、クレイジー・ティーチャーは流星になった。道ばたに駐車されていたベンツに、血みどろの身体が突っこんだ。どういう理屈か、大爆発が起きた。血に染まった白衣の切れ端、肉片、歯、そして人魂を浴び、やつは感情のない視線を火柱に向けていた。
火柱の中心からは悲鳴が聞こえる。あづい、あづい、だずげで、あ゛、あ゛あ゛あ゛ばばばばばばががががぎぎぇぇええ。それは、クレイジー・ティーチャーのものではなかった。ベンツには人が乗っていたらしい。火だるまになったその誰かが飛び出し、夜の路上で踊り始める。
それも浮かれた、ハロウィンのダンス。
炎の中では、肉塊と化した殺人鬼が、いい具合にちりちりと焼けていた。レアはとうに通り過ぎ、ミディアムも通り越したか。そろそろウェルダンだ。
■肝臓■
(おそらく)ムービースターによる、殺人事件が起きている――その報せを受けて、シャノン・ヴォルムス、宝珠神威、榊闘夜が現場に駆けつけた。報せを受けたわけではないが、ミリオルも来ている。彼は純粋と言うにはあまりにも純粋すぎた。殺人鬼によるパニックさえ、ハロウィンのイベントの一環だと思ってしまっているのだ。面白いことが起きているにちがいないと、わくわくしながら近づいてきただけ。
今回の被害は一般人にも及んでいる。何人殺されたのか、はっきりとした数字は出ていない。やつが今、どこにいるかもわからない――。現場は混乱している。
「手口から、犯人が人間ではないことは確かです。今悪役会に問い合わせて、該当するヴィランがいないか調べてもらっています。恐らくスプラッター映画の殺人鬼ではないかと。凶器を使っているようなので、モンスターではないだろうという安易な考え方なんですが」
「できるだけ急いだほうがいい。一般人がこれだけ大っぴらに殺されては、ムービースターの風評にもかかわってくる」
シャノンは冷静だった。顔面蒼白の植村は、それを受けて、頷くしかなかった。
そのときだ、
住宅街の一画で爆発が起きた。
シャノンたちが集まった住民や対策課から事情を聞いているこの場所から、そう離れていないところだ。足元を揺らす衝撃、頬を撫でる衝撃に、彼らは揃って同じ方角に目をやった。
「うわ、すっごい! お金かかってるねー。見に行ってくる」
ミリオルにとっては、それも花火のようなもの。異形の四本脚をもって、大股に、彼は歩き出していた。ちょっと待て、とシャノンが微妙な困り顔であとに続く。シャノンを笑っているのかミリオルを笑っているのか、にこにこしながら神威も歩きだした。闘夜への自己紹介を、早々に切り上げて。
「探す手間が省けたか?」
オレンジと赤の光を見つめ、闘夜が呟く。手は札をいじっていた。彼の命令ひとつで、それは狼の姿を持った式神になる。
「まあ、見境なく人を殺すようなお馬鹿さんですからね。まだボーッとその場に突っ立ってくれているかもしれません」
神威は笑みを絶やさず、そう言った。闘夜は神威の仮面のような顔をちらりと見返す。皮肉とも取れる台詞だが、神威がどういうつもりで、本当は誰を嘲ったのか、深く掘り下げないほうがよさそうだと判断した。……掘り下げるのが面倒だったと言ってもいいだろうか。
ぴッ、と闘夜が札を飛ばした。札は札として地面に落ちず、唸りを孕む狼として地面に降り立っていた。狼は闘夜を無言で一瞥し、すぐさま風のような疾さで走りだしていた。
何も知らず危険地帯に足を踏み入れた者は、ミリオルの他にもいた。来栖香介だ。
酔っていたかもしれない。酒に――いや、この夜そのものに、それ以上。ハロウィンの戯れ歌を口ずさみ、菓子こそそれほど持っていないが、来栖は浮かれて、はしゃいでいた。子供のようだった。自分でも、自分がすっかりハイになっていることには気づいている。だが、それの何が悪いと、開き直っていた。今夜は祭り、一年に一度のフェスティバルだ。楽しんだもの勝ちである。
来栖はTrick or treatと歓声を求め、ふらふらと銀幕市をさまよっていた。ある住宅街の片隅で何が起きているか、彼は知らなかったのだ。騒がしい街並みは、自分と同じように、ただ酔っているのだろうと……思っていた。
大柄な男がひとり、手に重そうな袋を抱えて、のしのしと来栖の前を歩いているのが見えた。
――アイツもか? やっぱり今夜は、あんなデカい図体したヤツも楽しんでるんだな。ガキみてぇにさ。
重そうな袋の中には、パーティー用品か、酒か、お菓子が詰めこまれているのだろう――そう思って、来栖は男の背中に近づいていった。そのとき、風が吹いた。来栖は風下にいた。風が運んできたのは、まごうことなき、血肉の匂いであった。
来栖の高揚が……、あまり良くない方向へ、ねじ曲がっていく。
そして高みへ。
立ち止まる。男も来栖も。
バッキーのルシフが、来栖の肩から飛び降りて、鼻息を荒げた。もともと、バッキーにはあるまじき気性の荒さを誇るバッキーだ。純白のバッキーは、猛然と、その男に向かって走りだしていた。来栖が制止する間もない。
「ギぴっ!」
「!」
ルシフの奇妙な悲鳴が、来栖の精神に突き刺さった。
来栖は、ルシフがやつに蹴り飛ばされる光景を目の当たりにした。まるで――そう――映画を観ているような、気分だった。ゴムボールのように飛んでいくルシフの動きに、スローモーション効果がかかっているような錯覚さえ、あった。
「……、Trick or treat!」
来栖の顔には、異様な笑みが張りついていた。
「こんなイイ夜に、何しちゃってるんだよ、あんた」
やつがぶら下げていたビニール袋が裂け、ばだりぼだりと中身が落ちる。
赤黒いもの。髪の毛。髪の毛がついた丸いもの。頭だ。首?
■首。■
しかし、やつが来栖香介を殺すよりも先に、動いた影がある。
それは、影そのものだった。闇、と言ってよかった。ぐろん、と異様な音を立てる闇が、大男を取り囲んだようだった。
ケタケタと嗤う髑髏つきの大鎌が、振り上げられ、振り下ろされる。
死神ダストが、殺人鬼を射程にとらえた瞬間だった。
ガツリと黒い巨大な刃が殺人鬼をとらえる。だが、殺人鬼はひるまない。倒れない。死ななかった。
「ヒャハハハハハ、コイツも死なねェ!」
己の危機に、何が楽しいのか、鎌は嗤った。
やつは鎌を胸に埋めたまま動き、すばやく腕を伸ばして、ダストの右の肩を掴んだ。まるで力を入れているようには見えなかったが、ぼぎりと死神の右肩が砕けて潰れた。やつが、ダストの肩を掴む手を力任せに引き下ろした。ダストの右腕は引きちぎられ、鎌から引き剥がされた。
やつはダストの右腕を振り上げると、灰色の脳天に叩きつけた。
ダストの頭と右腕が、無残に潰れた。血ではなく、黒い粘液と煙のようなものが、ダストの傷口からぶハりと噴き出す。
しかし――ダストの残る左手は、鎌から離れない。しゃれこうべはずっと笑っている。殺人鬼は今度は左手を伸ばし、ゲラゲラ笑いつづける髑髏を掴むと、事もなげに握り潰した。哄笑はようやく止まったが、その場にいる者の脳裏に、下卑た笑い声はいやらしい余韻を残していた。
やつは髑髏を潰した手を離さず、そのまま自分の身体から鎌を抜き取る。普段は不可視の刃が、今は見える。殺人鬼の、呪わしい血がまとわりついているからだ……。
殺人鬼は、片腕だけになった死神からやすやすと鎌を奪い取る。そして、もったいぶるようにゆっくりとした動きで鎌を両手に持ち、
「オイ! オレを無視すんなッ!」
来栖が叫び、短剣を手に、殺人鬼に挑みかかっていた。
殺人鬼はダストではなく、新たな標的――来栖めがけて鎌を振り下ろした。凄まじい烈風は来栖の耳をかすめ、肩に食らいついたが、深刻な傷ではなかった。来栖は死ななかった、まだ動ける。しかも充分に。肉を切らせて骨を絶つ、その格言に来栖は乗った。肩を切らせて、手首を絶った。
やつの手首で、ぱっくりと深い傷が口を開ける。骨と動脈の切り口は、たちまちほとばしる鮮血で、すぐに見えなくなった。
殺人鬼は無言だった。手首の傷も、胴を鎌が貫いたことも、まるで損傷の勘定のうちに入っていないらしい。殺人鬼は無造作に足を振り上げた。来栖は足をすくわれ、その場に倒れこむ。短剣は手放さなかった。
やつは死神の鎌を、振りかぶる。来栖めがけて振り下ろすつもりだ。
いや、
つもり、だった。
遠吠え。
場違いな狼が1匹。アスファルトを踏みしめ、不可思議な狼が、殺人鬼と、倒れている死神と歌い手を見て、高らかに夜空に吼えていた。
殺人鬼が信じられないほどすばやい動きを見せた。やつはダストの鎌を、狼めがけて投げつけたのだ。回転しながら飛ぶ刃は、さながら鋭利な円盤であり、殺人鬼の呪わしい血を周囲に撒き散らしながらまっしぐらに狼を目指した。
遠吠えは唐突にやんだ。
首を飛ばされた狼は、真っ二つになった札に姿を戻し、ひらひらと舞い落ちる。
やつは、その狼が何なのか、遠吠えが何を意味していたか、知らないだろう。彼の足元では、ダストと、ダストの潰れた頭から流れ出す『黒』が、びるびると蠢いている。はじめ、やつはその『黒』のざわめきを無言で見下ろしていた。そんな殺人気の右のすねに、短剣が突き刺さる。
「なに余裕こいてンだよ、この野郎」
来栖が殺人鬼の足元で、凄惨な笑みを浮かべていた。
じっと、何かをうかがうように、やつは来栖の目を真っ向から見つめ返していた。
ぱゲ。
その、首が、砕けた。
びしゃびしゃと、骨のかけらが混じった血が、来栖の顔に振りかかる。
「Daaaaaaaaiiiiiiiiiiiiiieeeeee……!」
血を這うような、しかしどこか甲高いような、怨嗟の声が空気を撫でる。
は、ぁぁぁぁぁぁぁ。
怪物の吐息が、絡みつく。
「aaaaaaaI kiiiiiiiill youuuuuuuuuuuu……!」
「あ、なんかケンカしてら」
狼の遠吠えを聞きつけ、四足で塀や車をまたぎ、ミリオルがその場に駆けつけた。そこには、無邪気なミリオルが目を輝かせるような光景が広がっていた。
蠢く黒いもの。その中に横たわる若い男。首がないのに立っている大男。そして、焦げているのか骨折しているのか潰されているのかわからない痩せた男。
「This city doesn't need another fu××’in murderous fiend!」
ずたずたの男は、英語でなにごとかわめきながら、壊れた金槌を振り回している。
彼らが、血みどろになるほど真剣にケンカをしているのは明白だった。
「おーい、なにしてん――」
ぷつっ、
画面に、世界に、一瞬、黒い『間』があった。
ミリオルの異形の足が一本、何かに掴まれた。
「の……」
ばき、ッ!
ミリオルの足は一本、やつにもぎ取られていた。鋭い爪を備えたその足は、やつにとっては格好の凶器だろう。
やつの動きが見えなかった。
いや! やつは瞬間移動したと言ってよかった。
あの黒い、まるで「切り替え」の瞬間のような一瞬で、やつは場面も場所もジャンプしていた。それこそは、殺人鬼の、理不尽な能力のひとつだ。やつらはいつでも先回りしていて、ひどいときには数キロの距離を一瞬で移動している。
殺人鬼は力任せに、ミリオルの足でミリオル自身を殴りつける。ミリオルが思わず叫んだ。異形の左手で顔をかばったが、自分自身の足がその左手を叩き潰した。
「なっ、え、いたッ、なにすんだよぅ!」
あまりにも純粋な抗議の声だった。
そして、その反撃も、子供じみていた。
失われた脚も腕もたちまち再生し、ミリオルは怒りで顔を真っ赤にしながら、力いっぱい乱暴な男を殴りつける。鋭い爪をまともに胸板で受け止め、その勢いで一歩ばかりよろめいたが、やつはひるまなかった。
ミリオルの脚を、また振りかぶる。
「ミリオル! 下がれ!」
「『弾』!」
ふたつの声と、銃声が、重なりながら飛んでくる。下がれ、と言われたミリオルは、下がるまでもなかった。殺人鬼のほうが後ろに吹っ飛んでいたからだ。
シャノン・ヴォルムスの2丁の銃、宝珠神威の言霊から、強力無比な弾丸は飛び出していた。殺人鬼の身体は炎にまかれ、5メートルばかり派手に宙を舞った。右腕は神威の言霊によって半ばからちぎれ、ミリオルの腕を掴んだまま、ぼとりと地面に落ちる。やつの手はトカゲの尻尾のようにびくびく痙攣していた。
悲鳴はなく、呻き声もない。
狼だ――大神の遠吠えが、彼らを呼び寄せた。榊闘夜が軽く溜息をつきながら、真っ二つにされた式神の札を拾い上げる。
ぷつっ。
あ、まただ。
シーンが切り替わり、殺人鬼が、いつの間にか立ち上がっていた。
砕かれたはずの頭部も、吹き飛ばされたはずの右腕も……ざわざわと黒くざわめきながら、もとあった形に戻っていく。
ぷつっ。
あ、また。
気づけば、やつは神威とシャノンの背後にいた。どこから持ってきたのかもわからない、斧を振り上げて。
「『壁』!」
神威はそれでも笑いながら反応した。猛然と無言で襲いかかってきた殺人鬼は、突如現れた見えない壁に行く手をはばまれ、無様に顔面をぶつけた。突進の勢いが激しかったぶん、やつ自身に跳ね返った衝撃もかなりのもので、大柄な身体が仰向けに倒れた。
シャノンは冷静にマガジンを交換し、スライドが戻るや否や発砲した。
がちん、と冷気が爆発し、殺人鬼の膝が砕け、あまつさえ凍りついていた。
「こいつは瞬間移動ができるらしい。さすがは殺人鬼だ」
「ああ、わかった。足を止める」
闘夜が手を打った。
びしっ、と殺人鬼の身体に稲妻のようなものが走る。彼は一度、びくんと激しく震えた。だがそれきり、仰向けに倒れたまま、動かなくなった。
「目を離すな。こいつは……『殺人鬼』だ」
シャノンは予断なく、銃口を向けたまま、凶悪なムービースターに近づいた。
「目を離したら、『いつの間にか』復活している。……そんなものですよ、ね?」
神威は微笑を浮かべて、振り向いた。同意を求めたのは、クレイジー・ティーチャーだ。誰もがこのハロウィンの殺人鬼に注目していた間、殺人理科教師の傷はいくらか癒えて、顔には狂った笑みが戻っていた。
「そうダヨ、そんなものサ」
「おい……」
苦しげな制止の声が上がる。
ずるずると傷ついた身体を引きずるようにして、剣を引っ提げた男が、殺人鬼を囲む輪の中に加わってきた。
昇太郎だった。死ぬこともできない男は、まだ傷を負ったままだ。あえて傷ついたままにしておいたのかもしれない――助けられなかった命に、詫びるために。
「待てぇや……そいつな……、俺がぶち殺す」
「死ぬようなやつだといいんだが」
シャノンは一瞬、ちらりと昇太郎を見た。
この場にいるほとんどの人物が、この残虐非道な殺人鬼に殺意を抱いていた。こいつは、ここで息の根を止めなければならない。銀幕市に住んでいるのは、殺しても死なないムービースターばかりではないのだ。現に、限りある命がいくつもこいつに消されてしまった。
ときおりぴくりと跳ねるだけで、見えない力と氷に戒められた殺人鬼は――ただ大柄で、薄汚れたツナギを着た、顔立ちもはっきりとはわからない、特に目立った特長もない、ありふれた殺人鬼だった。
昇太郎が、血まみれの顔に怒りをにじませた。
見つめるうち、憤怒と殺意は膨れ上がっていく。
「ぅぅ、ぁぁぁぁぁぁ……!」
燃えるような黒い衝動のまま、昇太郎が剣を振り上げる。
殺せ。
何人がそう思っただろう。
殺せ。
殺せ、こいつを殺せ。
今すぐ殺せ、
さあ殺せ。
■殺人鬼、復活! やつは再び蘇った! 今度は何人叩き殺すのか!?■
ばぢん!
■ 屍 ■
昇太郎の顔が、上半身が爆ぜた。
腕だけは剣の柄を握りしめたままだった。端正な顔は血の塊の中に消えた。血飛沫と内臓を噴出しながら、彼の身体は地面に倒れる。そしてやつは、起き上がる。
この血みどろの舞台の床を這いまわる、影も形もない、黒い感情。それが流れていくのを、死神が、少し離れたところで見止めていた。殺意と敵意が流れ着いた先は、まぎれもなく、あのオーソドックスな殺人鬼の身体だった。
闘夜の封印も、凍らされた足の戒めも、やつは引きちぎった。
その身体は、倒れる前よりも膨張し、異様なかたちに歪んでいる。両腕も、まるで骨がなくなったかのようだった。5本の指や肘や肩が、関節の存在を無視し、ぎゅるぎゅると湿った音を立てながらうねっている。振り回せば、それは鞭になった。指の先からは、ナイフのように鋭利で硬質な爪が飛び出している。
ばづっ、と奇妙な音。丈夫な布が、裂けるような。
それはやつの首筋で起きていた。
やつの内部で膨らむ何かが、ついに、やつの頚動脈を突き破り、頚椎を破壊しながら、外に飛び出したのだ。やつの首は大きく左に傾いだ。左耳が、肩にくっつく。黒いような赤いような液体のような紐のようなものが、破れ目からびうびう噴き出す。
おお。
それは、フィルム、では、ないか。
鞭が唸り、ミリオルの脚が叩き折られた。しかも2本、3本、バランスを崩して倒れた腹にもう一撃、おかげでミリオルは激しく血を吐くはめになった。返す鞭で、「『弾』!」と叫んだ神威の足をすくった。鋭い爪は、彼女のふくらはぎをざくりと抉る。言霊は黒いフィルムを穿ったが、新たに伸びた黒いフィルムが、たちまちその傷をふさいでしまった。「そう来なくっちゃ」とゲラゲラ笑って、「今度こそブッ殺」と叫びかけたクレイジー・ティーチャーの頭が、ぼん、と砕けた。黒いフィルムと爪でできた鞭が、13本ばかり同時に彼を殴りつけたからだ。「こいつ殺人鬼じゃねぇ」、来栖が舌打ちする。「ムービーキラーだ。くそっ、早く起きろ!」白目を剥いて気絶しているバッキーの頬を、ぴたぴた叩いていた。闘夜の身体が唐突に宙に浮いていた。殺人鬼の伸びた腕が、3本ばかり彼の身体を貫いていた。シャノンは大口径のリボルバーを抜き、全弾を撃ちこんだ。黒いフィルムの破片がばらばらと飛び散り、夜風に溶けて消えていく。だがその黒い霧の中から、新たに鞭と爪と腕は現れて、シャノンの右腕を縦に割った。左腕を細切れにした。舌打ちをしたシャノンの胸の肉が、ごっそりと消えた。彼は自分の肺を見た。
もう誰も、無傷ではなくなっていた。
唯一不思議なくらい血を浴びていないのは、やつの、腹から下である。両足はしっかり地面を踏みしめ、のしのし歩いていた。壊せるものがあれば立ち止まり、後ろに下がり、向きを変え、ほつれては伸び、唸りながら風を切る上半身で、見境なく攻撃を続けていた。はっきりしない顔立ちの頭部と、その足だけは、黒い変化を知らないようだ。
いや。やつの両目と鼻と口からも、どろどろと、得体の知れない黒い液体が流れ出している。
「とめろ!」
来栖の咆哮が、おかしくなった夜を裂く。
誰もがはっと息を呑み、その言葉に耳を傾ける。
「とめろ! とめるだけでいいッ!」
ぐぱ、
ムービーキラーの足元の影が、なにかをかたちづくるように、動いた。
ハエトリグサのようだった。
ムービーキラーを包み、ばくりと閉じた黒い闇の中に、死神ダストの暗い視線があった。
血を吐きながら闘夜が印を結ぶ。ミリオルが再生しかけの足を伸ばす。クレイジー・ティーチャーの腕だけが動いて、フィルムの1本を掴んだ。神威が「『圧』」と叫んだ。鳥が鳴き、昇太郎が、血を飛ばしながら剣を突き出し、やつの太股を貫いた。
ムービーキラーの前進が、確かに、止まった。
ほんの数秒後には、再び彼らを薙ぎ払い、自由の身になっていただろうが――
数秒あれば、充分だった。
目つきの悪いバッキーが、来栖の腕の中から飛び出して、ムービーキラーに駆け寄り、太い足を幹に見立てて駆け上り、その、だくだくと黒を流す首筋に、食らいついたのである。
それからは、まるで魔法のようであった。
人の頭の大きさにも満たないバッキーが、がつがつと大男を食べていくのだ。その小さな白い腹に、黒い頑強な身体が、見る見るうちに消えていくのだ。10秒もかからなかっただろう。ムービーキラーが再び動き出すまでに、来栖のバッキーは食事を終えていた。
■ペリット■
「美味かったか?」
血を拭いながら、来栖は膨れた腹を抱えるバッキーに歩み寄る。夜らしさが戻った夜に、疲れた溜息だけが漂っていた。ハロウィンは、いつの間にか終わっていた。悪霊たちは、もう、帰る時間になっている。今は、11月1日だった。
おや。
溜息の中に、ぐるぐるごろごろと、不穏な音。
来栖のバッキーが、露骨に顔をしかめて、もぐもぐ不快そうに口を動かしていた。嫌な音は、かれの腹の中から響いてきているようだ。
「ルシフ? ……おい、どうした?」
「見るからに腐ってましたからねえ」
神威が苦笑する。
ミリオルが、背をさすってやろうかと、右腕をのばしかけたとき――
げッ、とバッキーがフィルムを吐き出した。
アスファルトに転がったフィルムは、真っ黒に染まっていた。しかも、ぼろぼろだ。触れただけで崩れ去ってしまいそ
ざン。
昇太郎が、険しい顔で、剣をフィルムに振り下ろしていた。フィルムは、刃ではなく、剣風によって砕かれたかのようだった。クレイジー・ティーチャーが軽く抗議の声を上げ、恨めしい視線を昇太郎に向ける。彼も、やつを殺したかったのだ。
「疲れた」
闘夜が、ぶっきらぼうに、それだけ言い捨てた。
全員、同感だ。
「悪役会とホラーマニアの協力で、殺人鬼の正体がわかりましたよ」
「まあ、でも、なんとか解決しましたからね……その問題は」
「そうですね。正体なんて……大した問題じゃありませんよね」
「それで……? その……」
「……被害者は7人です」
「そうでしたか……」
「……」
「報告では、その殺人鬼もムービーキラーだったとありますが」
「ええ、そのようです」
「7人。……ムービーキラーは、あの7人で終わりというわけではなかったということですか。7人は……そう……始まりだった」
「逓信病院の件もあります。これから、もっと増えるとしたら……」
「……そろそろ行きましょうか、植村君。斎場に。混みますよ……きっと」
「はい。……あの、市長」
「なんですか?」
「もう、どうしたらいいか、わかりませんよ」
「……」
「……」
「……」
彼らの視線の先には、ゴミ捨て場があった。
笑顔のカボチャが山ほど、捨てられている。
〈了〉
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クリエイターコメント | ハッピーハロウィン! うふふふふ楽しかったですうふふふふふいいお祭りの夜でした。ただの殺人鬼にしてもよかったのですが、一応ストーリーに絡めまして、ムービーキラーという要素を出しました。 でも、銀幕市で、間接的に魔法に殺された人をまともに描くのは、諸口作品では初めてだったかもしれませんね。でも、魔法にかかった夏から、大怪我をしたり殺されたりした人は、きっと大勢いるのです。 今回ヒドイ目に遭わせてしまったPCの皆さんにちょっとお詫びしつつ、ご参加のお礼を申し上げます。
最後に、『悪魔のいけにえ2』の公開当時の宣伝コピーが「あの惨劇から13年! 今度は何人切り刻むのか!」というものであり、今回の章タイトルにネタとして取り入れたことを告白しておきます。 |
公開日時 | 2007-10-31(水) 20:00 |
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