★ ウェイ・オブ・ザ・ボディ ─猛蜂過江─ ★
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
管理番号106-3599 オファー日2008-06-20(金) 20:00
オファーPC ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
ゲストPC1 デヴィッド・チャオ(cfbs9216) ムービースター 男 65歳 黒社会組織の香主
<ノベル>


 曇天だった。
 ユージン・ウォンは堅い土の道を踏みしめながら、ゆっくりと丘の小道を歩いている。いつもとは違う白いスーツだ。その青い瞳はサングラスに隠れ、表情を伺い知ることはできない。
 その小高い丘は墓地であった。銀幕市に実体化した、香港ハッピー・バレー地区の公営墓地である。
 鳥がさえずり、彼の頭の上を越えていく。木々が風に煽られてさわさわと音を立てている。静かな時の中、ウォンは黙々と歩いていった。
 前にここへ出向いたときは、桜の頃であったか。ちょうどあの桃色の花が散りかけていた時期だった。
 ああ、見えてきた。王の姓を持つ者の名が刻まれた二つの墓。大きな椿の木の下。
 そこに眠るのは彼の恩人と映画中の彼自身、そして──。
 ウォンは墓の前に立つ。
 あれから──あの事件から、100日が経ったのだ。


 レン。
 心配をかけてしまったな。
 お前の想いが聞こえた。そうだ。しっかりと。
 もう私は哭かない。だから心配は無用だ。
 眠れ。
 すべき事が終われば、私もそちらへ逝く。
 だから、もう少しだけ──待っていてくれ。
 安らかに、眠れ。



 ──── 一日前 ────



 ──思えば、拾ったときは使えない男だったな。
 ウォンは車窓の外を流れていく木々を見ながら、亡くした部下のことを思い出していた。彼が乗るリムジンのエンジン音は静かで、彼の思考を邪魔することはない。
 レナード・ラウ。
 元は刑事であった男だ。だから銃器の扱いには慣れていたが、黒社会に入ったばかりの頃は、それが逆に裏目に出ていた。
 鉄火場に伴った時、ラウは自らを殺そうとしている敵の急所を撃てなかったのだ。彼が撃ったのは相手の手足だった。
 ──なぜ、胸を撃たなかった!
 ウォンは、撃たれて倒れていた彼の腹を蹴った。当然、ラウは負傷していたが、そんなことは関係なかった。
 ──死にたいのか、クソが。立て! 踏み込め!
 ラウが敵の急所を撃てなかったのは、彼が警官だったからだ。香港の警官は、宗主国イギリスの警官と一緒で、まず武装解除のために手足を撃つよう訓練を受ける。
 ウォンはそれを知ってはいたが、配下に加えた者に容赦するような男ではなかった。
 やがてラウは場数をこなし、ウォンの腹心と言われるまでの男に成長した。こなした鉄火場の数が、そのまま二人の絆の強さにつながった。
 もし、自分が死を迎えることがあったとしても──。
 ウォンは映画の中でも、実体化した後も同じことを思っていた。ラウが居れば、安心して逝ける。そう思っていたものを。
 まさか、あんな形で、ラウと別れを迎えることになろうとは。

「ジーン?」

 自分の名前を呼ばれ、ウォンはハッと意識を取り戻した。
 車の中である。隣りを見れば、そこにはデヴィット・チャオの姿がある。
 彼はラウのことを思い出すあまり深い思考に入り込んでしまっていたようだった。我に返り自分が今、何をしていたのかを思い出す。
 ウォンとチャオの二人はリムジンに乗って、目的地に向かっているところだった。
 車は街中ではなく、アップタウン郊外の山道を走っている。山奥へと進む道の両脇は新緑に包まれており、走っているのはこのリムジンと、後ろを走るもう一台の車だけだ。
「今の話を──聞いていたか?」
「いや」
 ふむ、とチャオは嘆息した。しゃんと背筋を伸ばしたこの初老の男は、怪訝な顔から一転、心配そうな彩を瞳に浮かべた。
「レナードのことでも思い出していたのか」
 見事に当てられてしまうと返す言葉もない。ウォンは沈黙する。
「明日で百日、卒哭忌となるのだな」
チャオは静かに言い、チャンパオ(長袍)の袖をきちんと膝の上に載せた。「あそこにはお前一人で行くといい。私は明日用事がある」
 要らぬ気でも使わせたかと、ウォンがそう思った時、チャオは──新義安の香主は目を細め、そのことよりも、と厳かな口調で切り出した。仕事の話に切り替えたのだ。
「これから始まる会合のことだ。お前にいくつか言っておくことがある」
 相手が自分を見るのを待ち、その青い瞳をじっと見つめると。チャオはゆっくりと話を続けた。
「今日の会合で、例の“翡翠の令牌”を受け取ることになる。それは分かっているな?」
 ウォンは無言で頷いた。

 彼らは『刑天荘』という郊外のチャイナ・レストランに向かっていた。そこで開かれる三合会──中華系マフィア連合の会合に出席するためだ。
 チャオの話にある令牌とは、チャイナタウンでの様々な裏取引のお墨付きともいえるものである。“翡翠の令牌”は薬物取引、麻薬やドラッグの類の取引を一手に取り仕切る者の証であり、数々の利権の中でも、最も金銭的な利益をはじき出すものであった。
 三合会のマフィアたちは、華人同士の要らぬ抗争を避けるため、定期的に会合を開き、こうしたシステムを使ってチャイナタウンを支配し、周りに触手を伸ばしていた。

「待ちに待った翡翠の令牌が、我々に回ってきた。だがこれは順番であり前から決められていたことだ。今日の会合でめったな事が起こることもないだろう。しかし」
 チャオは手にしていた扇を、強く握る。
「私は『鶴云門』の掌門、タム・チーカイ(譚智楷)とサシで話をしようと思っている」
「タムと?」
「今日のホスト役は鶴云門だ。奴とサシで話が出来る機会は、そうそう無いのでな」
 何の話だろうか。ウォンは思案する。鶴云門は、三合会の中でも格、勢力ともに新義安に並ぶ組織ではあるが、とりたててチャオが懇意にしているわけでもない。
「コンユンが、連中と交流を持っていたことは知っているだろう」
 眉を寄せるウォン。ヤン・コンユン(楊坤玄)──自分の師の名前が出たからだ。
「鶴云門は、元は深土川市に本拠地を持つ海賊が結成した武装集団だ。武道家も多い。コンユンはよく試合と称して連中と腕比べをしていた。武道家同士、ウマが合ったんだろう」
 お前と金燕会との関係と同じだ、とチャオは付け加えた。
「──ジーン。今さらだが、なぜコンユンがあんな事をしたと思う?」
 問われ、ウォンは静かに首を横に振った。
 彼の師ヤン・コンユンは、ある時突然、豹変したのだ。今日のような会合の時に、居合わせた者を皆殺しにした。後日、三合会に所属しない『焔房』という組織と協力していたことが分かったのだが──。
「楊大哥は、焔房の連中に何かそそのかされたんだろう」
「焔房? あのマカオの連中にか? それは表層だけだ。現にお前が連中を潰したというのに、まだ火種が消えてはいない」
「ディヴ」
 ウォンは相手の名を呼び、じっとその顔を見つめた。
 この話の流れ。わざわざ説明されずとも分かる。
「──あんたは、鶴云門が裏で糸を引いていたと? そして今でも、俺たちを潰す機会を狙っていると言いたいんだな」
 厳かに、チャオはうなづいた。
「そもそも、我々がこの街に来た時、一番最初に揉めたのはどこの組織だった? 最初の武器取引を邪魔したのは? ──あの鶴云門だ。黄鎗幇のゴウ・ウィンの仲介で、我々は和平を結んだが、連中はあの時のことを忘れてはいなかったのだ」
「だが、証拠はあるのか」
「先日捕まえた鼠が喋った。その鼠は死んだがな」
 そう、チャオが答えた時、車がカーブを曲がり終えた。森林の中に、大きな橙色の屋根が見えてきた。あれが、会合の行われる刑天荘だ。
 何か続きを話そうとしていたチャオだったが、目的地が見えてきたのを見るとそちらに視線をやって口をつぐんでしまった。短く息をつく。
「だから、この会合の後、タムと話をする。ジーン、お前は茶でも飲んで待っていろ」


 三階の特別室にチャオを残し、ウォンは会合の行われる場所を後にした。彼と同じような立場の者たちが会場を調べ──誰かが不意に殺害されるような仕掛けがないことを確認し、次々にそこを後にしていく。
 皆、少人数である。これは平和的な会合である。どこの組織も、ホスト役の組織──鶴云門の警備を信じ、数人の護衛しか連れてきてはいない。武器の類も入口で預けていた。
「エド、お前たちは庭を頼む」
 ウォンもたった二人の護衛しか伴っていない。死んだラウの相棒であり、もう一人の腹心であるエドワード・チョウを階下に向かわせ、自分はこのフロアに残ることにした。
 チャオに近い場所で、不測の事態にそなえるのだ。
 やがて会合が始まったようだった。ウォンは扉が閉められるのを確認すると、三階のフロアを歩き出した。何か不審なものがないか一応確かめておこうと思ったのだ。
 カツ、カツ、カツ……。
 ウォンの靴音が廊下に響く。
 角を曲がり歩いていくと、男が一人、壁に寄りかかって文庫本を読んでいる姿が目に入った。前を通り過ぎようして、ふと本の背表紙が目に留まる。
「──カフカ、か」
 作者の名前を言うと、相手の男が目を上げてこちらを見た。襟の無い青藍色のシャツを着た30代前半ぐらいの男だ。彼はウォンを見ると、フ、と頬を緩めた。
「あんたと同じさ。ヒマなんでね。こうして時間をつぶしてる」
 彼はそう言うと、また文庫本に目を落とした。
「朝、起きたら自分が芋虫になってたっていう、くだらねえ話だ。あんたは好きかい?」
「いや」
 ウォンは無意識のうちに、相手を観察している。クセのある髪を耳下まで伸ばし、服装もマフィアというにはラフで、背もあまり高くない。しかし袖から見える腕の筋肉は引き締まっており、かなりの訓練を積んでいる証拠だ。そして何よりも纏っている雰囲気が並の者とは明らかに違う。
 ──この男、かなりの手練れだ。ウォンは直感で悟った。
「あんたが、ジーンだろ?」
 ふいに彼が言った。目線は本を見たままだ。
 顔には出さなかったが、ウォンは内心驚いた。なぜ、初対面のこの男が、自分の愛称を知っている?
「楊大哥に聞いた」
男はそう言うと、本から目を上げ微笑んだ。「世にも珍しい青い瞳の弟子がいるってな。あんたのことだろ? ユージン・ウォン」
 だが、ウォンは笑わなかった。
 サングラスを外し、胸ポケットに収める。
「楊大哥のことを知っているのか」
「ああ、何回か手合わせしてもらったことがある。この本も、彼から勧められたんだ」
「カフカを?」
「くだらねえ話だから一度読んでみろってな。彼が言ってた通りだ。本当にくだらねえ」
 そう言うと、彼はようやく本を閉じ、それをジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
 ウォンが無言でいるのを見ると、壁を離れて立った。
 そして──もう一度、破顔し、スッと右手を差し出す。
「鶴云門のユン・ジンファイ(元正輝)だ。ファイで構わねえよ」
「……」
 ウォンはしばし相手の目を見、ゆっくりと手を差し出した。
「新義安のユージン・ウォンだ」
 名乗り合い、二人はグッと握手を交わした。


 翡翠の令牌。
 チャオは、目の前に置かれたそれに手を伸ばし両手で持った。硯(すずり)程度の大きさしかなく、文字も無く、ただ蓮の文様が描かれているだけの代物だ。しかし、そのひんやりとした冷たさは、彼の指と手を伝って身体の隅々にまで浸透していくようだった。
「趙光亮、謹んでお引き受けいたします」
 これが金と欲望の塊か。チャオは令牌を恭しく両手で掲げ、他の者に三度、礼をした。
 誰も何も言わない。部屋の中は窓から差し込む光だけで、薄暗く。ともすれば相手の微妙な表情すら見落としてしまいそうだった。
「さあ──これで儀式は終わりだ」
 一人の男が、沈黙を破った。黄鎗幇の若き幇主ゴウ・ウェイ(高偉)である。彼は40代前半だが、ここに集まった者たちの中で最も古い映画から実体化していることから、年齢は若くとも周りから一目置かれていた。
 令牌を布で包み、チャオはそれを膝の上に置いた。それを見計らって、目の前の黒い髭の男がドアに向かって手を挙げた。すると給仕が部屋に入ってきて、茶と茶菓子を出し始める。
 この黒髭の男が、鶴云門の掌タム・チーカイである。年齢は52才で、長めにした黒い髪を背中に垂らしている。彼自身も武道家である。
 チャオがタムに目を留めていると、他の者たちが緊張が解けたように口を開き始めた。華人以外の犯罪組織のことや銀幕市内の動きについてなどだ。やがて、話題は令牌自体の話に戻っていった。
「趙香主の次にその令牌を手にすることになるのは、譚掌門ですな」
「この90日間は、さぞや待ち遠しいのではありませんかな? 譚掌門」
「いえ、そのような」
 タムは眉を上げて答え、自分はホスト役として忙しいのだという態度を取る。チャオは無言で茶杯を口に運んだ。
 そうしていると、同席の一人が彼に話しかけてきた。
「ときに、趙香主。燕が飛び立った後の巣の住み心地はいかがかな?」
「半年も経てば、荒地でも人が住めるようになるものです」
 金燕会のことか。チャオは無表情で言葉を返す。
「荒地とは──。趙香主もお人が悪い」
 と、彼は扇をバサッと音を立てて開き、笑った。さらに隣りの男が付け加えるように言う。
「マカオの焔といい、旺角の燕といい。趙香主は素晴らしい土地を得る機会に恵まれておりますな。この狭き別世界において、全く羨ましい限りだ」
「──おやめ下さい」
そこでゴウ・ウェイが口を挟んだ。「お二人とも、言葉が過ぎるのではありませんか」
 彼が窘めると、何か言おうとしていた者も口をつぐむ。
「我々は、華人の繁栄と誇りのため、こうして集まっているのでは?」
「高幇主、私は構いません」
 ゴウにチャオが静かに問いかける。新義安が潰れた組織のテリトリーを立て続けに獲得しているのは事実である。この程度の言われようは想定範囲内だった。
「同胞たる私どもが困窮に喘いではいないかと、皆、気を使ってくださったのでしょう」
 微笑すら浮かべて言うチャオ。言葉に詰まったように、男たちは目線を彼から逃した。
「良ければ、私からも一つ寓話を。最近、興味深い出来事に遭ったのです」
「と、申されますと?」
 気まずくなった場を、新しい話題でとり繕ってくれるのか。そんな期待を込めて、ゴウが相槌を打つ。
「先日、屋根裏を掃除したところ鼠を一匹掴まえたのです」
 チャオはテーブルの上に手を置き、一人ひとりに目を合わせながら、ゆっくりと指を組んだ。
「あまりに汚かったので鼠かと思ったのですが、洗ってみれば、それは鳥でした」
「鳥?」
 不思議そうに、ゴウ。
「洗えば洗うほど、それは白くなっていき、しまいには白い鳥になりました」
 ククッとチャオは可笑しそうに笑いだす。
「──この街には魔法というものが実在するらしいですな。皆も気をつけることです」
 狐につままれたような顔をして、皆はチャオを見た。構わず、新義安の香主は、面白い冗談を言ったかのように喉の奥で笑い続ける。
 彼は笑いながら、その細めた目で見ていた。
 輪の中に、たった一人だけ、目を伏せた者がいることを。


 ウォンとファイの二人が外に接した廊下に出ると、手すりに留まっていた小鳥がパッと飛び立っていった。
 ファイはヤン・コンユンと懇意にしていたこと、手合わせの勝敗は引き分けが多かったことなどを話してくれた。ウォンはウォンで、この男に興味があったし、自分の師の話にも少なからず興味を引かれていたので、静かに相手の話に耳を傾けていた。
 廊下を歩いていくと、すれ違う鶴云門の者が、皆、ファイに挨拶をしていった。中には彼を“大師兄”と呼ぶ者がいて、ウォンは、なるほどと納得する。ファイは門下の中でも最高の地位にいる者であり、要するに鶴云門のナンバー・ツーなのだ。
「──楊大哥には、よく故郷の話を聞かれたよ」
 ファイは快活な男だった。よく笑い、よく話す。
「俺らの映画は新世紀に入ってからだが、あんたらは香港返還前なんだろ? 彼の記憶とは随分と様子が違うらしくて、何度も何度も繰り返し聞かれた」
「……?」
 ウォンは話の展開に、わずかに首を傾ける。故郷とは恐らく、江の向こう──中国本土、深土川市のことだろうが、なぜヤンがファイにそれを聞きたがるのか。
 ファイはその彼の様子を見て、ああ、と言った。
「知らなかったのか。楊大哥は深土川市羅湖区の出身だ」
「──そうなのか」
 ウォンは、密かな驚きをもってファイを見返した。そんな話は初めて聞いた。
「元は軍人だったとは聞いていたが」
「それは市民権を得た後の話だ。彼は若い頃に、自力で密入国を果たしたのさ」
「まさかあの海を、泳いで、か?」
「ああ。真夜中の海をな。8時間ぐらいかかったって言ってたぜ」
 ──俺らの時代になりゃ、ビザを取ればいくらでも行き来が出来るんだがな。ファイは言う。その横顔には、哀れみに似た何かの感情が浮かんでいた。
「彼は、羅湖に居られなくなったんだ」
「なぜ」
「友人の父親を殺したと言ってた。ちなみにその友人ってのは、女だ。──そう言えば、分かるだろ?」
 知らなかった。
 この後に及んで、師の知らない一面を知ったのだ。
 それも弟子たる自分ではなく、他組織の人間にそんな話をしていたことを知って。ウォンは少なからず寂しい思いに囚われた。無言で息をつく。

 ふと彼の脳裏に、亡き師の後ろ姿がかすめた。

 暗く、冷たい海を、ひたすら泳ぎ続ける──。それはどんな気分なのだろうか。
 息が続かなくなっても、引き返すわけにはいかない。死ぬかもしれないと思っても、前に進むしかない。
 越えてきた、海。その向こうに残してきたもの。
 彼は、実体化したあとも、永く想っていたのだろうか。
 故郷に──帰りたい、と。

「今なら、彼の……できる気がして、な」
 ぽつりと、ファイが言った。その言葉にウォンは我に返る。
 今、なんと──?
 聞き返そうと、ファイを見る。彼は林の木々を静かに見つめたまま、こちらを見てはいなかった。
 ウォンが口を開こうとしたその時、背後でドアの開く音がした。二人は同時にその方を見た。
 給仕が扉を開き、会合に集まっていた面々が廊下へと姿を現す。
 扉へと視線を転ずると、チャオとタムが連れ立って向こう側へと歩いていった。その際、チャオはウォンに視線を移し、待っていろ、と目で言う。
「──会合が終わったようだな」
 ファイと目を合わせ、言うウォン。
 今日に限って、死んだ者のことばかり思い出す。まったくどうかしている──。
 そう心の中でつぶやき、彼は気持ちを仕事に切り替えていった。


 巨大な筒状になった茎の植物に手を触れ、タムは上機嫌そうにチャオを振り返った。この刑天荘の最上階であり、大きな天窓のある広いホールである。
 ただ、柱や壁に沿って並べられた植物の鉢により、そこはまるで熱帯雨林のジャングルか、植物園のような様相を呈していた。
「これはサラセニアの一種ですよ」
タムは言う。「いわゆる食虫植物ですな。この茎は壺のようになっていて、近寄ってきた虫を捕らえて落とし込み、それを消化し吸収してしまうのです」
「ほう。これは珍しいものなのですかな?」
「北アメリカからカナダが原産です。葉の形といい、花といい、みな個性的でして」
 ──大変、面白いものですよ。タムは、チャオを伴いながら、自分が集めている食虫植物のコレクションを丁寧に紹介していった。
 あの会合が終わった後、彼が誘ったのだ。──趙香主、もしお時間がありましたら、私の道楽をご覧になりませんか、と。チャオには誘いを断る理由など無かった。
 初老の男は、失礼でない程度の笑みを口端に浮かべて。タムの後ろを着いて歩く。
「食虫植物と一口に言ってもいろいろな虫の捕まえ方がありましてな。このサラセニアのような落とし穴タイプ、ハエトリグサのように葉で挟み込んで虫を捕まえるタイプ。──このムシトリスミレなどは、ネバネバの葉で虫が逃げないように包み込んでしまいます」
 タムは、小さなスミレに似た花を持つ植物に触れる。
「武道家たる貴方が、このような殊勝な趣味をお持ちとは」
 ──真に結構なことですな。淡々とチャオは言う。
「なに、きっかけはこちらですよ」
 何気なくタムが指し示したのは、花の咲いていない腰ほどの高さの緑の植物だ。手の平の形に似た葉が幾重にも重なって見えていた。
「貴方をここにお連れしたのは他でもない。貴方がたと私どもは、この街で令牌を通し兄弟となった中。これを機に、若輩者の私からこの麻を何株か贈らせていただきたかったのです」
タムは、邪気の無い笑みを浮かべて見せた。「いかような形でも、貴方のお好きな形で届けさせていただきますが?」
「なに、お気遣いは無用です」
 チャオは静かに、しかしきっぱりとそれを断った。
 何もなければ受けたはずの申し出だ。こうした贈り物は、華人が古くから活用してきた和睦の業である。ここで断ることは相手の面子を潰すことにもなる。
 だが──いや、だからこそ、か。チャオは断った。
 タムが顔を引きつらせた。
「この麻は貴方が育てたもの。貴方がご活用されるのが良かろう。それよりも──」
 相手の動揺をよそに、チャオは淡々と話題を変える。
「食虫植物、ですか。私は初めて見ましたが、なかなか興味深い代物だ」
「興味深い?」
 おうむ返しに、タム。
「このスミレに似た植物は、我々人間より上だと思ったのです」
チャオはタムに背を向け、小さな花に手を伸ばした。「虫が来るまで、待つことが出来るのですから」
 タムが何か言ったが、チャオは無視してそのまま続けた。
「だが、人は違う。虫が近くを飛んでいるのを見れば、人はわざわざ手を伸ばして、それを捕らえてしまう。待てばよいものを、待つことが出来ない」
 斜に相手を振り返り、チャオは小さな瞳をタムに向けた。
「人間の業は深い。──そうは、思いませんか。譚掌門」
 
 ファサッ、と衣擦れの音がした。
 
 チャオは咄嗟に身を退こうとした。──だが、遅い! 間合いを詰めていたタムが手を突き出すのを見る。チャオも反応し、その一撃を止めようとして──。
 ポタッ……。
 明るい色の煉瓦に、血が、したたり落ちた。
「よく止めたな──」
 二人の向き合う中心に、匕首(あいくち)がある。
 ニィッと笑うタム。匕首の刃を握り締めているのはチャオだ。武器を押し留めようと両手でグッと力を込めるが、刃は彼の手の平に深く食い込んでいく。
 また、チャオの血が零れ落ちた。
「引退目前のあんたを殺るのは、少々気が引けるが、仕方が無い」
 タムの口調が低く変わっていた。
 眉を寄せるチャオ。汗が額からにじみ出て、頬を伝っていく。
「死んでくれ、趙香主」
「──焔房とコンユンを引き合わせたな?」
 ぶるぶると震える匕首が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「だから、どうした? この狭き世界で、糧を得るには他人から奪うしかないんだ」
 ──あんたの言う通りだよ。タムは容赦無く、手に力を込める。
「あの“鬼老”を呼ぶつもりだろうが、その前にフィルムに戻してやる」
「コンユンに、何を吹き込んだ?」
 それでも、チャオは冷静だった。力を込めたまま、相手に問おうとする。
「吹き込んだ? ハッ、奴は勝手におかしくなったのさ。私は、辛いなら死ねばいいと教えてやっただけだ。誰かに殺してもらいたいなら、同胞を殺せ。殺せないなら、狂えば良い、と」
 鶴云門の頭目は、目を細め笑った。
「──狂え。さすれば、道は開かれん、さ」
 チャオの瞳に、みるみるうちに怒りの色が浮かんだ。
「この外道が……ッ」

 ──タンッ!

 銃声が鳴り響いた。それと共に、二人がパッと離れる。小さく声を上げたタムが、自分の顔を押さえていた。彼の指の間から血が滲み出す。
 そのタムから距離をとるように、チャオは二、三歩、後ろへと立つ。
 彼の手に小さなデリンジャーがあった。どこに隠していたのか、撃ったのはチャオだった。銃弾はタムの左目を貫いたが、寸前で身体をひねったのだろう。タムは斃れない。
 おのれ……! と叫ぶ、タム。
 必殺の一撃を外してしまった──。チャオは内心で舌打ちしたものの、すかさず銃を相手に向けた。が、澄んだ音とともにそれを弾かれてしまった。タムが匕首を飛ばしたのだ。
「このロートルが、私に勝てると思うな!」
 地を蹴って跳ぶ、タム。彼の脚力であれば、一歩でチャオの元へたどり着き、二歩目で彼の首を掴みへし折ることも可能だろう。
 一歩、地に足を着くタム。自分が首を掴まれる絵を思い描き、チャオは目を閉じた。
 
 二歩。そして、音が消えた。

 チャオは、ハッと目を見開く。
 彼は、自分の前にそびえ立つ男の背中を見た。一瞬。
 その姿が消え、右方へと振れていった。
 ──ジーン!
 チャオが叫んだ。
 走りこんできたウォンがタムの首を目掛けて手刀を打ち込んだのだ。跳ね飛ばされたタム。しかしこの武道家はすかさず受身を取り、すでに体勢を立て直している。
「来たな、鬼老!」
 攻撃とともに床をきれいに一回転し、ウォンは立ち上がる。
 彼は答えなかった。
 代わりに答えたのは、その手の中にあった銃だった。
「しまっ……!」
 驚いたタムの言葉を一発の銃声が引き継いだ。弾は、武道家の鳩尾のあたりに赤い花を咲かせていた。──チャオの持っていた拳銃である。ウォンはそれを拾って撃ったのだ。
「鬼老(グワイロウ)か、久しぶりに聞いた言葉だ」
 腹を押さえ、まさに倒れようとしているタムに、ウォンはつかつかと近寄った。“鬼老”とは、広東語で西洋人を指す蔑称である。
「その言葉を聞くと、無性に腹が立つ」
 言い終えると、彼はタムの腹を蹴った。靴の先を使い、相手の傷そのものを狙ったのだった。タムは悲鳴を上げて跳ね飛ばされ、地面に仰向けに倒れた。
 ウォンは弾の無くなった拳銃をうち捨てた。すぐに倒れたタムに近寄ろうとして──動きを止めた。
 タムの背後に、一人の男が立っていたのだ。
 気配もさせずに、いつの間にか、そこに存在していた男。
「ファイ」
 相手の名前をぽつりと、ウォンは口にした。


「ファイ! 奴らを殺れ」
 足元の男が自分の腹を押さえながら、一番弟子に言う。
 ファイは──鶴云門の次期掌門は、ウォンの目を見たまま、腰を屈め自らの師を助け起こした。ちらりとその傷に目をやる。
「警備に当たってる連中をここに寄こせ、早く、こいつらを──」
 タムの言葉が終わらないうちに、鈍い、ゴキッという音がした。ファイが、彼の首を抱きこむようにしてひねったのだ。
「!」
 目を見張る、ウォンとチャオ。
 力を失ったタムの身体が、ずるりと床へと滑り落ちていった。傍目にも彼の命が失われたのは、明らかだった。
 カラン、と。鶴云門の掌門は、一本のフィルムに戻る。
 
「こういう機会を、俺が待っていたと言ったら──あんたは驚くかい? ユージン」
 
 静かに立ち上がり、ファイが言った。
「俺は映画の中で、この男の尻拭いから始まった抗争で命を落とす。死ぬのは真っ平だ、そう思うのは自然の摂理だろ」
 彼はじっとウォンの目を見ている。
 その黒い瞳に殺意が消えずに残っているのに気付いて。ウォンは、チャオを守るように前へ進み出た。チャオも意図を察して、柱の影に自分の身体を隠す。
「俺は“主人公”だ。本来であれば師を殺めるなんてことは許されん。だが、楊大哥が教えてくれたんだ。俺たちは異形なんだよ。巨大な芋虫さ。こんな姿になることと引き換えに俺たちがこの街で手に入れたものがある」
ファイは微かに笑った。「──自由、だよ」
 なあ、そうだろ? ユージン。
 ファイが一歩を踏み出し、構えを取る。ウォンは左掌を前に突き出し、構えを取った。
「“師の仇”を討つつもりだな」
「そうだよ。物分かりが良くて助かるぜ」
フン、とファイは鼻で笑った。「俺は鶴云門を立て直す。前掌門のフィルムと、あんたら二人のフィルムで復讐劇が完了するのさ──」

 二人が動いた。

 わずかに早かったのはファイの方だ。ウォンの進路を阻むように右足を踏み込み、拳を突き出してくる。恐ろしくスピードのある、力強い突きだ。
 パンッと音をさせて、ウォンがそれを外側に弾く。が、肘を極めたはずが、僅かにずれていた。腕を絡め取るつもりが失敗し、弾ききる前に次の左拳が迫っていた。
 ──まずい! ウォンは咄嗟に身体をひねりながら、ファイの腹めがけて回し蹴りを放った。
 彼の右足は空を切った。しかし、後方に飛びのいた相手とはうまく間合いがとれている。
 二人の距離は最初に戻っていた。無言で、ファイが片眉を上げる。
 彼は洪家拳の使い手である。中国南部が発祥とされる南拳の一派で、南派少林拳の流れを汲むとも言われる“剛”の拳だ。
 それは知ってはいたが──このスピードに、この重さ。ウォンは神経が冴え渡っていくのを感じる。今のは、この街で戦ったどの相手よりも質量のある拳だった。
 ウォンは息を整えながら、ファイの目から視線を外さない。
 一方、ファイは、間合いを詰めようと動きながらも、怪訝そうに眉を寄せていた。
「どういうことだ。ユージン、そんな身体じゃ戦いは無理だ」
「何を──」
「The body can't breathe。屍に気は宿らん」
 ──!
 ウォンは一瞬、息を止めた。文字通り、死している彼には呼吸は必要のないものだ。今の短い組み手だけで、ファイは彼の身体の秘密に完全に気付いたようだった。
 相手は手練れの武道家だ。気付かれても不思議はない。
「お前は運が良かった。私は運が悪かった。ただ、それだけだ」
 ウォンの言葉に、静かに首を横に振るファイ。
「哀れみは、無用だな」
 そう言ったものの、彼の口調は沈んでいた。まるで悲しんでいるかのように。だが、それで終わりだ。ファイは、右拳を前に突き出し大きく足を開いて静止する。
「行くぞ」


 ザッ、と深く踏み込んできたファイ。ウォンはそれに右足を合わせた。
 接近した二人の腕が交差した。それが互いの身体に打ち込まれようとして──弾かれた。胸を狙ったウォンの掌打は身体をひねってかわされ、ファイの拳はウォンの両腕で下方へと弾かれる。パンッ、タ、タン! リズミカルな音をさせて、数秒の間に何発もの打撃が繰り出され、弾かれていった。
 強く威力のある拳も、流れを生かしたまま受け、相手に返してしまえば技となる。ウォンは相手の拳を掴み取り、威力を奪わぬまま相手の腹に蹴りを放つ。が、ファイは咄嗟に腕を曲げ、身を翻す。ウォンの蹴りを寸前でよけたのだ。
 互いに、まさに一歩も引かない攻防だ。
 ファイの拳の重さにも慣れてきた。二手先で、うまく踏み込めば──。ウォンはサッと身を退き、転じて相手の側頭部めがけて蹴りを放った。自分のリーチの長さを生かした攻撃だ。
 ガツッ。当たった。だが、ファイは倒れない。
 まるで、鉄でも蹴ったかのような感覚をウォンが味わった時、その足をファイが掴んだ。解こうとする間もなく、彼の世界が空転する。──投げ飛ばされたのだ。
「ぐッ……」
 ガシャン! と、大きな物音をさせて、食虫植物の中に落ちるウォン。鉢や土、花、様々なものが飛び散り、回りに飛散した。
 が、倒れている間もない。視界の端に、両足を振り上げて宙を舞うファイの姿が目に入る。全体重をかけて自分の首に蹴りを落とすつもりだ。ウォンは察知し、身体をずらせるように素早く転がった。
 間一髪、今まで彼の居たところにファイの蹴りが直撃した。盛大な物音がし、植物の鉢と一緒に下の煉瓦までもが破壊される。恐ろしい破壊力だ。
 一方、ウォンは足を回転させながら跳ね上がるようにタンッと立ち上がる。そのまま振り向きざまに、遠心力を生かした腕の打撃を相手の肩に放つ。鈍い音がして、ファイが飛びのいた。
 ヒュゥ、とファイが口笛を吹いた。だが顔は笑ってはいない。打たれた肩をコキリと動かし、調子を整えている。
「鋼気功か」
「あんたは内家の方が得意なんだろう。俺の死角を打たないのか?」
 誘うように言うファイ。彼は、気の力で全身を鋼のように堅くしているのだ。打撃があまり効かないのはそのためだ。ウォンはその隻眼を細める。
 その時だった。

 ──タタタタタ……ッ。

 二人は同時に顔を上げる。階下か、意外に近い場所で銃声が聞こえたのだ。それも複数の人数が発砲している音である。
「始まったか」
 そう言ったのは、ファイだ。
「なに?」
「加勢は来ないぜ。あんたの部下も今ごろは始末されてるはずだ」
 すまんな、となぜか彼は謝った。その手にはいつの間にか、棒状の武器──三節棍が握られている。
「あんたとしばらく素手でやり合っても良かったが、その時間が無いようだ」
 ファイは、タッと地を蹴った。
 来る、と身構えたウォンだったが、ファイが跳んだのはこちらでは無かった。
 柱の影に姿を消すファイ。自分ではない。──まさか! その意図を察して、ウォンの背筋が凍った。よせ! と叫びながら彼の後を追う。
 くぐもった悲鳴が上がった。
 ファイがサッと横へ飛び、振り返る。その先の壁の前にチャオが立っていた。悲鳴を上げたのは彼だ。その右腕の付け根に、匕首が深く突き立てられている。
「ジーン……」
 恩人の意識はしっかりしていた。だが、身体ごと壁に縫いつけられ、そこから動けないのだった。
「貴様──!」
「分かってるだろうが、不用意にその匕首を抜いたら香主は出血多量で死ぬ」
 ジャラッ。ようやく、ファイは三節棍を構えた。
「あんたらがこのホールを出るのは、フィルムになってから、だ。奇跡が起きて俺を倒せたのなら、ゆっくり手当てしてやりなよ。俺もあんたが立っている限りは、香主には手を出さない。それがルールだ」
 生き残ってみろよ、ユージン!
 ファイは、ウォンに向かって一気に間合いを詰めてきた。
 三節棍は三つの棒を鎖でつないだだけの武器だが、ファイの手にかかるとそれは生き物のようにウォンに絡みつき牙を剥いた。
 自在に繰り出される棍が、ウォンの胸を、顎を、肩を打つ。
 素手で掴もうとしてもうまくいかず、弾けば手の平にも衝撃が残る。
「防戦一方だな、ええ!?」
 シュッ、シュッ、と棍を放ちながらファイ。刺すような鋭い突きだ。ウォンは腕で急所をガードしながら、じりじりと後退を余儀なくされていく。
「惜しいぜ、あんた。そんな身体じゃなければ、俺より上だったかもしれない」
 まるで鶴の嘴(くちばし)についばまれているかのような、突きの連打だった。それが上半身に集中している。
 ──頭を狙っているのか。ウォンは隙を伺いながらファイの目を見る。的確な判断だ。首を飛ばされれば、生きた屍たる自分とて無事では済まないだろう。
 間隙をついて足払いを放ったが、これも三節棍で弾かれた。もう数歩も後退すれば、壁に背中が当たってしまう。
「映画の中で、あんたはなぜ死んだ? それだけの腕があって、なぜ負けた」
「私は──」
 ウォンは答えようとして、ファイの三節棍が自分の肘の上をすり抜けてくるのを見た。
 このままでは直撃する──!
 ひどくゆっくりと流れる時間の中で、自分の咽喉元に迫る凶器を見る、ウォン。

 ──天だ。
 
 あの時も思った。
 『彼』の銃が、自分の左胸を貫いた時。
 手加減など全くしなかった。遥かに劣る力しか持たない『彼』が勝てるはずがなかった。それでも『彼』は生き残った。
 だから、ウォンは思ったのだ。天が『彼』を生かそうとしたのだと──。

「──王大哥!!」

 ウォンの瞳に彩が戻った。自分を呼ぶ声。
 相手の凶器はまだ宙にある。のけぞるように、身体を反らせて地面に手を着く。まるでスローモーションのように三節棍が自分の上を通過して、背後の壁を破壊するのを見た。
 王大哥! と、誰かがもう一度叫んだ。誰だ、チョウか、ラウか?
 何かの影がよぎり、パッとファイが身を翻して飛び退いた。振るった三節棍に弾かれたナイフが床に刺さる。
 そして、ウォンも体勢を戻し、地を蹴った。
 空中にあったものを掴み──そして撃つ。

 銃声は二発だった。

 ジャラッ、と三節棍の端を脇に挟み、構えを取るファイ。その左腕を鮮血が伝い、床にしたたり落ちる。
 ウォンは両手に自分の愛銃を持ち、腰をわずかに落としていた。
 その後ろ。破壊された壁の向こう側に、部下のエドワード・チョウがいた。彼があの、決定的瞬間にファイにナイフを放ち、穴からウォンに銃を投げ渡したのだ。王大哥、と叫んだのは彼である。
 背後の壁の向こうに部下の気配を感じながらも、ウォンの視線は敵に据えたままだった。
 ファイは片方の銃弾を武器で弾いたのだろう。腕の傷も深手ではない。
「エド、手は出すな」
 ──これは私の闘いだ。ウォンは静かに部下に言う。
「しかし」
「お前は、外の連中を」
 そう言い残して、ウォンは銃を構えて跳躍した。反応し、ファイも棍を向ける。

 キンッ、とウォンが撃った銃弾を、ファイは三節棍を振るって難なく弾き飛ばした。真っ直ぐに突き出す右手のグロック34が続けて火を噴く。ファイは素早く身を伏せて、それをかわしウォンの足元めがけて棍の先を放った。
 蜂が舞うように、飛び上がり相手の頭上を越えるウォン。
 鶴が虫を狙うように、反転しそれに向かって棍を放つファイ。
 逆さまになりながら、ウォンは引き金を数度引いた。ファイは棍を手元に戻したかと思うとそれを回転させ銃撃を全て弾いた。
 タッ。着地したウォンはそのまま左方へと走った。ファイも同様だ。
 二人の間に出来た大きな円。
 その輪が、すぐに縮まった。手を出したのはファイの方だ。左腕の負傷を全く感じさせない動きである。棍の端を両手で持ち、あえて接近戦に持ち込もうとする。
 最初の一撃を右手の銃で受け流し、ファイの頭めがけて撃つウォン。相手はヒュッと顔を傾けてかわし、二撃目の棍を放つ。それを左手の銃で受け流したとき、ウォンは相手の棍が自分の懐に滑り込もうとしているのに気付いた。身を退き、右手の甲ではたくように棍を弾く。
「──剛中に柔を帯びる、拳中の尊たり。勝負を分けるのは内功の差だ」
 激闘の中、ファイが言った。
 ぐるん、と、彼の三節棍が、ウォンの右手の上で反転して、その銃を打った。
 銃が手を離れ──床に落ちる。
 まさか! ウォンは目をみはった。それほど重くもない一撃で、なぜ銃が──。
「言ったろ? 不完全な気しか練れないあんたは俺の敵じゃない」
 それに──。ファイは続けた。

「俺は主人公だが、あんたは違う。あんたの勝ちは、万が一にも無い」

 それは動揺だったのだろうか。ウォンの手が、一瞬、遅れた。
 その間をついて、棍が──鶴の嘴が、強烈に彼の胸を刺した。ドンッ、と鈍い音をさせて、背後へと飛ばされたウォン。壁にめり込むように、身体を叩き付けられる。
 ごほっ。一瞬の後、ウォンは口から血を吐いた。致命傷ではないが、内臓をかなりやられたようだ。ずるずると壁から滑り落ちながらも、膝をつく。
 それでも、彼は銃を落とさなかった。
「──時間だ」
 ファイが、跳んだ。
 放たれる無慈悲な棍の先。その嘴の先がまっすぐに、手負いの蜂に襲いかかった。


 これで、死ぬのか。


 あの一撃を頭に食らえば、助からない。
 ウォンは左手に銃を。彼の恩人の形見であるそれに右手を沿え、死を意識した。
 心に、亡くした者たちのことが、次々に浮かんでくる。
 この街に来てから二年弱。
 これで、ようやく、あの小さな神の気まぐれから開放されるのか。
 暗く静かな世界に戻れるのか。
 死ぬことは怖くない。ファイのような手練れの武人に負けて死ぬのなら本望だ。
 二つの薔薇の刺青。大切な師、ヤン。血塗れの狐面。よく笑う男だった、ラウ。
 彼らの近くに、もうすぐ逝ける──。
 ウォンは瞳を閉じた。

 ──思えば、拾ったときは使えない男だったな。

 その時。声が、した。
 
 ──なぜ、胸を撃たなかった!

 閃光のように目蓋の裏によぎった光景。
 それは彼の腹心。
 死んだ、レナード・ラウの姿。


 ──死にたいのか、クソが。立て! 踏み込め!


 そう言ったのは、誰だ?

 ウォンは、カッと目を見開いた。
 立ち上がり、彼は、足を踏み出した。
 左手の銃が、彼の意を汲んで動く。恩人の銃。グロック17L。
 蜂の頭を吹き飛ばそうとする、鶴の嘴が、点となって目の前に迫っていた。
 ──撃った。
 ウォンは、何度も何度も、引き金を引き続けた。
 何かファイが叫んだ。しかしウォンの耳には届かなかった。
 彼は、全ての弾を撃ち尽くさんがばかりに射撃を続けた。狙いは──ただの一点。

 嘴が折れた。

 馬鹿な! とファイが叫んだ。有り得ない方向から──先端に何度も銃撃を受け続けた三節棍が、縦に割れて、宙に散った。
 棍を破壊した銃弾が、その破片の中を突き抜ける。
 時が止まったかのように、見えていたその銃弾が、ファイを襲う。

 蜂の針が、鶴の咽喉を貫いた──!

 後方に跳ね飛ばされたファイ。床にあおむけに倒れ、彼は撃たれた自分の咽喉に手をやろうとする。が、その手が途中で力を失い、パタリと落ちた。彼はそのまま静かになり、動きを止めた。
 このホールの、全ての音が消える。ふいに訪れた静寂。
 ウォンは、ようやく銃を降ろした。
 終わったのだ。
 彼はゆっくりと倒れたファイに近寄った。彼の咽喉からあふれるように血が噴き出し、倒れた男の背からじわりと丸い血溜りが広がっていく。
 ファイは、両目を開いたまま、絶命していた。


「片付いた──な」
 開いた目を閉じてやろうと、ファイの死体に手を伸ばしたとき、それがフィルムに姿を変えた。手を止めたウォンに背中から声がかかる。チャオだ。荒い息をしながらも、彼はウォンに視線を移す。
「二人のフィルムと、私の受けたこの傷が、我らの身の潔白を証明することになるだろう」
「──ディヴ」
 何気なく聞いたチャオの言葉の意味に、少し遅れて気付くウォン。
 強い口調で相手の名を呼び、彼は恩人の元へと歩み寄った。
「タムに先に手を出させたのは、ワザとだな?」
「鶴云門を叩く大義名分になっただろう」
 指摘されても、淡々とチャオは答えた。
「死んだらどうするつもりだった!?」
「こんな老いぼれ、死んだところで大した損害にも──」
と、言葉を止め、彼はウォンの顔を見る。フ、と彼は頬をゆるめた。「怒ったか? ジーン」
「あんたでなければ、5、6発はブチ込んでいる」
 そう言うと、ウォンは本当に怒った様子でチャオの胸倉を掴んだ。だが、すぐに力を弛めていく。
 ──今回のようなことは二度としないでくれ。小さな声で、そう付け加えながら、胸倉から手を離す。そのまま彼はチャオに肩を貸し、壁から助け出した。
「我々は異形ではないぞ、ジーン」
 ふと、チャオが言った。
「コンユンも、レナードも、そうだ。我々は皆、ただ江を越えてきただけだ」
 何も言わないウォンの横顔を見て、初老の香主は長く息をついた。
「越えた江を戻ることは出来ない。ここが我らの存在すべき場所だ。どんな酷い世界だろうと、そこが自分達の世界であり、人生なのだから」
「だが、この災いは──」
「神、か?」
 チャオは笑った。
「天網恢恢、疎而不失。天の網は粗く穴だらけのようだが、その実は細かく、悪を逃さんのだ。何人たりとも──例え神であろうとも、天道からは逃れられない。どのような者も、必ず、犯した罪に等しい報いを受ける時が来るだろう」

 だから、お前は──。

 そうして彼は言ったのだ。
 ウォンに名前をつけてくれた人と、同じ言葉を。



 ──── 当日 ────



 白いスーツを着たウォンは、長い回想から覚めた。
 紙で出来た冥土の金が、燃え尽きようとしていた。灰がひらひらと彼の目の前を舞い、空を踊るように飛んでいく。
 ここは香港ハッピーバレー地区の公営墓地だ。昨日の事件で怪我をしたチャオを残し、彼は一人でここに赴いていた。
 彼の腹心があの「穴」に往ってから今日が100日目。心の中でラウと、一緒に散った少年の二人に祈りを捧げる。
 ──安らかに眠れ。
 そして、ウォンは言葉を付け加えた。


 レン。
 お前たちの死が、人々を動かした。
 やがて、この街は本来の姿に戻るだろう。
 そうだ。真の平穏が訪れるのだ。
 私はそれが来るまで、この街に留まろう。
 気に病むな。私は大丈夫だ。
 お前がくれた時間を使って、私はこれから起こることを、この瞳に刻む。
 そして全てが終わった時、安らかに眠るとしよう──。


 そう言い終えると。
 雲の隙間から柔らかい光が差した。
 彼はサングラスを外し、眩しそうに──それを見上げた。




                     (了)
 
 

クリエイターコメントありがとうございます。
プラノベは分量がわからず、またちょっと長めになってしまいました。

ちなみに「猛蜂過江」はこのノベルのテーマでもあるんですが、映画「ドラゴンへの道」の原題「猛龍過江」からとりました。
英題は“The Way of the Dragon”です。まあそゆことです(笑)。
“江”は、とても大きな川=海を指しています。

今まであった様々な物語と齟齬が出ないように合わせつつ創作を加えています。
何か整合性の取れないことがありましたら遠慮なくお聞かせください。

それから、作中の深セン市のセンの字が、文字化けしてしまうため、仕方なく「深土川市」と書きました。本来は土と川がくっついた漢字なんです。苦肉の策です。

ちなみに、
カフカの「変身」はわたし好きですよ。決してくだらなくないです(笑)。

では、ありがとうございました(^^)。
公開日時2008-07-16(水) 18:50
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