★ 微笑みへのアンダンテ ★
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
管理番号136-1328 オファー日2007-11-26(月) 00:05
オファーPC 西村(cvny1597) ムービースター 女 25歳 おしまいを告げるひと
<ノベル>



 少し灰色の雲がかかった青空の下、きいんと澄み切った冬の風が流れていく。木々は葉を黄に、茶に染め、その葉を落とし、堂々たる冬の幹の姿へと変わりつつあった。道路をすす、と進んでいく木の葉達。
 そして、木の葉を踏む時の、カサリ、とした音があちこちで鳴り響いている。
 銀幕市の片隅にある、とあるコンビニで、今日も西村は黙々と働いていた。最近ようやくレジ打ちの仕事も板につき始め、淀みなくレジ打ちをする事が出来るようになったようである。と言っても、西村独特の口調が変わることは無かったが。
 丁度今の時間帯、勤め人が働いている午前中という事もあって、このコンビニにやってくる客はまばらである。
 そんな訳で西村も、時間を見計らっては、レジ周りにある細々とした雑用をやや危なげであるが、確実にこなしていた。
 そんな中、西村のいるレジに、ホットの缶コーヒーがこつんと小さな音を立てて置かれた。人のざわりと動く気配。
 西村は仕事をしながらそれに気付き、客の顔を見る前にその缶コーヒーを手に取った。
「あ、りがとう……ございまー……」
 バーコードを通しがてらお客の顔を見るために顔を上げて。
 その言葉の途中で、そのまま表情を強張らせていた。
 ピッ、というバーコードが通された機械音が、やたらと場違いに響く。
「――?」
 お客は、ぼそりと何かの、もしかしたら誰かの名前だったかもしれない――、を呟いたようだったが、今の西村の耳には届いてはいなかった。
 何故なら。丁度西村の内面を表しているかのような心底驚いた表情で、財布を取り出そうとポケットに手をやったままの姿で固まっているそのお客さんは。
 かつての彼女の映画の中で、彼女と行動を共にしていた、そして西村も少なからず好意を寄せていた、あの青年。
 その青年に瓜二つ、いや、同じ男性が、その場に立っていたから。

 同じ背格好。同じ髪型。そして同じ瞳の色、同じ手の大きさ。
 ――まさか。
 西村の脳裏に、ほんの僅かな期待感が浮かぶ。――勿論、脳の片隅では、そんな事はないと理解してはいたけれども。
 頭の思考回路が停止してしまったみたいに、何を言えば良いのかが分からない。
 ただ、勝手に心臓が高鳴るのを馬鹿みたいに感じていた。

「――西村さん?」
 二人とも時間が止まってしまったかのようにじっと見つめ合っていたので、隣で一緒に仕事をしていた店員が訝しげに声を掛けてきた。
 西村も、相手の男性も、その言葉にはっと、目を覚ましたかのように我に返った。西村は止まったままだったレジの仕事を再開し、男性はポケットから財布を引っ張り出す。
「――……『西村』、さん……?」
 男性は訝しげに、隣の店員が呟いた西村の名前を呟いた。眉根を寄せて、何かしら考えている様子である。
「は、い……?」
 男性は、恐る恐る返答した西村を再びまじまじと見つめ、そして彼女の肩にちょこんと乗っている黒々とした堂々たる体格を持つ鴉を見た。
「……もしかして、『おしまいへのアンダンテ』の、西村さんですか……?」
 西村はこくりと頷いた。男性はその反応にしばし信じられないと言った表情を浮かべていたが、やがて、それは静かな苦笑に変わっていっていた。
「銀幕市では、魔法で映画の中の人物が実体化している、という噂が流れているのは知っていましたが……、本当にそんな事が起こっていたんですね」
 そうして、財布を開いてレジに表示されている金額分の小銭を出しながら、彼はぺこりと頭を下げる。
「初めまして、かな? 僕は『おしまいへのアンダンテ』で青年役をしていた南原と言います」
 その言葉に、西村の中では、だからそっくりなのかという納得と、そして少しばかりの落胆の感情がない交ぜになって浮かんでいた。
 そしてそんな西村にその男性――南原は、微笑を浮かべてこう言うのだった。
「初めてこの銀幕市に来たので、実はどこに何があるのか全然分からなくて。折角の機会ですし、それに僕も西村さんに色々お話してみたい事がありますし。――西村さんさえよろしければ、仕事の後にでも銀幕市を案内して頂けませんか?」
 ぽかん、と口を開いた西村の横では、早速鴉が突っかかりそうな勢いでカアカアと鳴いていた。


*  *  *


 そして数時間後、二人と一羽は聖林通りへの道をゆっくりと歩いていた。
 空には先程よりも幾分、分厚い灰色の雲が増えて、日光が翳ってきていた。暖かさが少しずつ消え、冷たい風が二人と一羽の間をすり抜けていく。
 隣の道路には、幾つもの車が排気ガスを撒き散らし、運転者の心情を反映するかのように忙しそうに通り過ぎて行っていた。
 彼らが歩いている歩道も、幾人もの人々が、寒そうにコートの襟を寄せて通り過ぎていく。
 西村はひとつ、息を吐いた。吐く息が白い霧となって、空気中へと溶けていく。
 隣では、鴉がカアカアと鳴きながら南原へと突っかかっていた。
「鴉……くん、つつく、のー、駄目」
 そう言いながらもほんの僅かながら、西村の眉が顰められる。
 どうしても、南原へとつっかかる鴉の、この光景が、かつて見ていたあの光景と被ってしまう。
 あの青年との、ひとときに。
 南原は、鴉に突付かれこづかれ、痛いと言いながらも不思議な事に口には微笑を浮かべていた。
「……?」
 西村の疑問の眼差しに気がついた彼は、再び苦笑しつつ、鴉へと目をやった。ゆっくりとその形の良い口から、柔らかな声が流れ出す。
 あの人と、同じ声が。
「CGだった君がここでは本物になってる。不思議な感覚だね」
 その言葉にカアカアと叫んでいた鴉も、僅かな間だが、突付くのを止めた。
 鴉が南原に話しかけたからなのかどうだかは、鴉の言葉が分からない西村には分からなかったのだが、鴉を見た後に、南原の笑みが自然と深くなる。
 ――あの人と同じ笑みで。
 違う人だとは分かってはいた。けれども、自然とその笑みに安らぎを覚え、自らが満たされるのを感じている自分がいる。


「ここが聖林通りですか。すごいお店の数ですね」
 南原の言葉に、西村は顔を上げた。
 そう、西村はどこを案内するべきか迷った末に、ひとまず銀幕市らしく、そして活気のある聖林通りを選んだのだった。
 平日でも観光客で賑わいを見せているその通りは、早くもあちこちのお店がクリスマス仕様となっていて、たくさんの煌く飾りや、ふわふわした雲や、スノースプレー、そしてイルミネーションなどで綺麗に飾り付けられていた。
 行きかう人の種類も様々で。映画のグッズを販売しているショップを楽しそうな表情で覗き込む少年に、しょうがないな、と苦笑を浮かべる父親。
 手を取り合って、幸せそうに歩いているカップルもいれば、颯爽とマフラーを寒そうに口元に寄せながら歩いていく女性もいる。
 通りに響くのはお店から溢れる、クリスマスソング。
「さすが銀幕市ですね。映画に関連したお店が沢山ありますね」
「……は、い……、そうですー、ね」
 南原も興味深そうに、先程の少年が覗いていたお店のディスプレイを眺めていた。西村もつられて覗き込もうとした時、彼女の鼻腔をふわん、とした匂いが掠めていく。
 美味しい、お腹が空きそうな匂い。というか現在進行形で貧乏生活を満喫している西村にとっては、お腹に沁みるような匂いである。
 西村がその匂いのもとへと目をやると、店頭でクレープを売っている店がそこにはあった。
 道理でやけに甘い匂いがする訳である。
「このお店は映画グッズを売っているお店なんですね。じゃあ、僕達の映画のグッズも何かあるのかな」
「え? ……あ、は……い?」
 そう言って南原がにこりと西村へと微笑みかけたのだが、先程のクレープ屋に視線は釘付けだった西村は思わず空返事をしていた。少しばかり焦った感じの返答に、南原はきょとんと首を傾げる。
「……もしかして、西村さんってこういうのお嫌いでしたか?」
「い、え……そんな、事はー、無い、です。……あ、これ……、鴉く、んだ……」
 まさか会ったばかりの人に、クレープ屋さんに視線は釘付けでした、なんて言う訳にもいかないので、西村は慌ててショーウインドウに飾られているディスプレーに目をやった。
 そして、たまたまそこに飾られていた、西村の肩に乗っている鴉をモチーフとした、ミニサイズの縫いぐるみのキーホルダーを見つけ、本気で(内心で)驚いて、人差し指をぺたりとガラスにくっつけた。
 南原もその指先に目線を送り、そこに飾られているキーホルダーに驚きの視線を送る。
「本当だ! 随分本物よりも可愛くなってる……」
「カアアアア!」
「うわっ! 嘘だって! 冗談だからつつかないで!」
 南原の言葉に瞬時に反応した鴉が、叫びを上げながら南原の頭に突付きを入れる。それに驚いて、頭を抱えて攻撃の範囲から逃れようとする南原。
 ――それはいつの日か、見た光景。
「あ、ほら、もっと大きな縫いぐるみもあるよ! ほら!」
 南原が店内の天井から吊り下げられてる鴉の等身大と思しき縫いぐるみを発見し、攻撃の範囲内から逃れるように店内へと入っていく。それを追いかける鴉。
「――西村さん?」
 自動ドアの向こう側で、南原が再びきょとんとした表情を見せてこちらを向いていた。その姿に、我に返った西村は、ゆっくりと店内へと足を運んだ。


「カアアア!」
 店内では、鴉がその吊り下げられた縫いぐるみと、どちらが素敵な外見をしているか睨めっこをしている所であった。
 南原が興味深そうに腕組みをしてそれを見上げている横で、西村も天井を見上げる。
 南原の方は、どうやら鴉がどうして睨めっこをしているかの趣旨を理解しているようであったが、残念な事に、鴉が一番理解して貰いたいと思しき西村には、彼の趣旨は全くもって伝わっていなかった。
 ただ、いつも共にいる鴉の縫いぐるみなんて、今まで滅多に目にする事が無かったので、こんなものが売っているのかと言う新鮮さから、自然とその縫いぐるみに鴉よりも視線が行ってしまう。
「……すごい……」
 ぽつりと、それだけ言葉を漏らして天井の鴉の縫いぐるみを見上げていたので、どうやら鴉は勘違いをしてしまったようであった。
「カアアアッ? カアアアア!」
「ああっ! それは突付いちゃ駄目だよ!」
「ああー! うちの商品に何てことするんだいっ!」
「鴉くん……、こ、わし、ちゃ、駄目……」
「カアアアア……」
 逆上したと思しき鴉が、縫いぐるみに突っつき、南原が慌てて止めようとするも店員に見つかった彼等は、早々にその店を後にする羽目に陥った。


「ご、めんなさーい……、ご迷、惑をおか、け……して、し……まって……」
「いやいや、気にする事はないですよ。僕としては面白いものも見せて貰いましたし」
「カアアアッ!」
「うわっ、痛い痛いっ!」
 映画のグッズを販売していたお店を出て、再び二人と一羽は聖林通りの道をぷらぷらと歩いていた。隣では、南原が余計な一言を言っては(言わなくても)、鴉の突付き攻撃にあっている。
「それにしても……、貴女はやっぱりその口調なんですね」
「……? は、い、……そうですが……?」
 やや、かつての映画を懐かしむかのように南原は言う。西村が首を傾げる横で、唐突に彼の表情が、面白い事を思いついたかのような輝きを見せた。
「そうだ、試しに早口言葉言ってみません?」
「……は、や……口、言葉ー……、ですか……?」
 西村はやや面食らい、口ごもった。
「そうです、……じゃあ、生麦生米生卵、とか」
 さすが俳優業であるからか、さほど突っかかる事も無く、南原はすらすらとそれを口にした。西村は依然戸惑っていたが、彼の興味津々と言った眼差しに押されて、恐る恐る口にする。
「……なま、む、ぎ……生ごーめ……、生た、ま……ご……?」
 彼女としては、最大限頑張ったつもりでいたのだが、そっと南原を見やると、彼は噴き出す一歩手前の表情を見せている。
「それじゃあ、早口言葉にはならないですよ。こう、途中で延ばしたり、切ったりしないように言わないと」
 そう言って彼は今度は違う単語をすらすらと述べた。
 早口言葉とはこんなにも難しいものなのか、とうっすら感じながら、西村も真似してその単語を言ってみる。
「赤ま、き……紙、黄ー巻紙……、青、ま……き紙……?」
「うーん、さっきよりは少し上達したか……な?」
 南原が今度は苦笑を見せながら首を捻った。
 その時、再び西村の鼻腔に、ふわんとした良い匂いが漂い、彼女は歩みを止める。お腹に沁みる、肉の香ばしい匂い……。
 後ろを振り向くと先程は早口言葉に没頭していたせいか、気付かなかったようであったが、そこには出店で、中華まんを売っている店がそこにはあった。蒸篭からいかにも出来たてといった、白い湯気がもうもうと上がっているのがさらに食欲をそそる。
「……まあ、僕も早口言葉はあまり得意ではなくて……て、……?」
 南原は最初は西村が後ろの店に視線が釘付けである事に気付かず、早口言葉について語りかけていたが、隣に彼女の気配が無い事に気がつき、後ろを振り返った。
 しばし西村が何に視線を奪われているのか理解できなかったが、やがて彼女が中華まんを蒸している蒸篭に視線が釘付けである事に気がついた。
 彼の口の端が、少し上がった。

 西村はしばしその店をじっと眺めていたのだが、不意に彼女の視界に南原の姿が映り、は、と我に返った。
「……?」
 西村の前を南原は歩いていく。やがてその足は、たった今まで眺めていた店の前で止まった。
 彼は何事かを店員と話し、そしてポケットから財布を出して小銭を渡し、そして白い包みを受け取って――。
「はい、良かったらどうぞ……、肉まん以外のものが売り切れらしくて、肉まんしか買ってこれなかったんですけど」
 微笑を浮かべながら、白い包みの片方を西村へと差し出した。
「え……、そ、んな……」
 そこでようやく、西村があの店をじっと見ていた事に彼は気が付いていたのだ、という思考に至り、内心では恥ずかしくなりながら、西村は首を小さく振った。
 だが、南原はいえ、と言いつつ西村の手にその白い包みを乗せる。
「僕が我侭を言って、案内をお願いしているんですから」
「は、あ……」
 包みは、じわりとした暖かさを持っていた。そっと包みを開くと、そこにはつやつやと白く輝く肉まんが見える。
 西村は、そっとその肉まんを半分に割ってみた。香ばしい匂いと共に、白い湯気がもうもうと立ち昇り、思わずお腹が鳴りそうになる。
「おい……しー、そう……」
 隣で南原が自分用にと買ったらしい肉まんにかぶりつくのを見ながら、西村もそっとそれを口に運んだ。
 そして心の奥底に浮かぶ、何とも言い難い違和感のようなものをちらちらと感じながら。


*  *  *


 二人は聖林通りでも、やや人通りの少ない所を歩いていた。彼等の手にある肉まんは、ほとんど胃に収められている。
 空は完全に厚い雲に覆われていた。かなり冷え込んでいるので、これはひょっとしたら、雨が降ったとしたら、雪に変わっていくかもしれない。
 お店から溢れるクリスマスソングも、人通りが少なく、店もそこまで無いせいか、小さく、遠くの彼方を浮かんでいる気がする。
 西村が最後の肉まんの欠片を胃に収めてほっと一息ついたとき、唐突に南原が灰色の空を見ながら呟いた。
「本当に、貴女が隣にいる事は今も不思議な感じです。――貴女が、貴女を演じたあの人にあまりにも似すぎていて」
 その言葉は、先程までとは違って、どこか頼りない響きを持っていた。
「……そ、の……方、は……、今ーは……?」
 西村の問いに、南原は僅か、西村を見た。その顔が、泣き笑いのような表情を一瞬だけ見せる。
「……亡くなりました。この映画が映画賞を受賞した日に、事故で」
「……そん、な……」
 西村はただ呆然と呟く。南原は再び空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「――よく怒って、すぐ哀しんで泣いて。……そして、よく、笑う女(ひと)でした」
 彼はゆっくりと西村に視線を移した。
 その眼差しが、遠い過去を振り返るかのように、一瞬ぼうやりとなる。
 そして、ゆっくりと呟いた。
「――お願いがあります。……――笑ってくれませんか……?」

 彼の顔には、痛切な哀しみの痛みと、懇願の表情が浮かんでいた。張り裂けてしまいそうな痛みを抱えた表情が。
「……貴方、は、そーの……人、を愛し……て……い、たの……ですか?」
 西村は、笑う代わりに、ただ静かに問うた。
 彼は、何も言わず、ただ黙って空を見上げるだけであった。
 ぽつり、と彼女の手の甲に、一粒の雫が落ちていく。

 ――彼のその表情を見た時に、泣きたいくらいに彼の気持ちを理解していた。
 けれども。だからこそ。
「あな、たの、愛し……た人と、私は……、違う……存在、です……」
 そう呟いた瞬間、南原は突然夢から覚醒したかのように、ハッと息を呑んだ。なおも西村は続ける。「私達、は……夢。何時か……醒、める……夢。だから、私達……に。逃げ……口を求、め、ない……で。現実では、決して、死者、は……帰っ、て来……な、い……か、ら」 
 それは、死神として、そして何よりも、彼女自身が痛切に感じている言葉。
「……ごめんなさい……貴女の存在を否定してしまった……」
 そう言いながら南原は、心底すまなそうな表情を浮かべていた。
 その表情に、その言葉に、ぎりぎりと、どこかがねじれているように、ささくれ立っているような痛みが奔る。 
 南原は一転して明るく笑顔を見せ、ぱっと大通りに向かって駆け出した。
「肉まん食べたら喉が渇いちゃって。ジュースでも買ってきますね。西村さんも何か飲みますか?」
「は、い……」
 西村は軽く走って行く彼の背中を見、そして初めて顔をくしゃりと歪ませていた。
 ――自分は何をしているのだろう。
 偉そうな事を言っておいて、彼を傷つけて。
 ずっと、一緒に歩いている時から、彼にあの人を重ねて見ているのは、自分だって同じなのに。
 締め付けられるような、寒さを感じた。
 その時、ふわ、と彼女の掌に、今度は粉雪が舞い降りてきた。
 つられて空を見上げると、灰色の雲から、ふわふわと音も無く白い雪が舞っていくのが見える。

 白い雪に手を伸ばそうと思った次の瞬間、どおん、と鈍い、あの時と同じような、車と人がぶつかる衝撃音が彼女の耳に届いた。
 思わずハッと南原が駆けて行った先に目をやる。
 そこには、「あの時」と同じように、車にその身体を弾き飛ばされる、彼の姿があった――。


*  *  *


 半ば無意識に車道に飛び出し、次の瞬間しまったと悟った時には、もう遅かった。
 急ブレーキをかける、ゴムが擦れる音が響いたかと思うと、凄まじい衝撃が加わって、ぽおんと上空にその身体が投げ出されていた。
 馬鹿みたいに景色がゆっくりと進んでいく。

 ――じゃあ、また、表彰式で。彼女はそう言って、にっこりと微笑んだ。
 そして、それが最後に見た、彼女の笑みとなった。
 会場で幾ら待っても彼女は現れず、さすがの南原もいささか待ちくたびれた頃に、急に会場内のスタッフが騒然と動き出していた。
 何かあったのか。そう思って立ち上がろうとした彼の元に、マネージャーが血相を変えて走って来て。
 ――大変だ。彼女が事故にあったらしい――。
 そこから先は、よく覚えていない。ただ、時間がまるで凝縮されたように過ぎて。
 そして次に会った時は、彼女は既に冷く、その瞳は永遠に開かれる事は無かった。
 ――またって、あの時言ったじゃないかっ……!
 ただ、血を吐くような声音でそう叫んだ事だけ、覚えている。
 もう自分に笑ってくれる事はない、それだけが事実として残っていたから。
 だから、西村に会ったあの時、一瞬奇跡が起きたのではないのかと、自身の目を疑った。
 ――もしかしたらと、思った。
 でも――。
 
 再び激しい衝撃と共に、道路に投げつけられた。背中と、頭と腕を特に強く打ったようで、全身ガンガンと響くように痛む。
 特に頭には痛みの他に、熱い灼熱感も感じていた。
 ざわり、と周りが騒々しく動き出すのを何となく気配で感じる。ぽつ、と顔に、雨のような雪のようなものが落ちた。
 ざわざわと人が動く中、彼の視界に、彼女の姿が映る。彼女は心配そうな表情を見せつつも、やや小走りで近付いてきた。彼の近くまで来ると、静かにその場に膝をつく。
(――)
 彼が彼女の名前を呟こうとした時、西村が静かに言葉を放った。
「おし……まい、に、し……ます、か? つ、づ……け、ます……か?」
 南原の頭の隅で勝手に予想していた言葉とはかけ離れた、一種残酷な西村の問いに、一瞬彼は目を見開いた。
 ――ああ、そうか。
 そう感じると同時に、自然と口の端が上がるのを感じる。
 彼女は、あの人ではなく、死神なんだ。演技なんかではない、本物の。
 南原は、切れた唇を何とか湿らせ、切れ切れに呟いた。
「……ここで終わらせてもいいかもしれない。……でも、まだ終わるわけにはいきません」


*  *  *


 だから、つづけます。
 南原のその言葉と同時に、静かに彼の手が西村の頬に伸び、そっと触れてきた。
 西村は南原の言葉に安堵を覚えると同時に、愕然とした。
 ――彼の手が、死の瀬戸際でも温もりを持っていたから。
 
 あの人は、既に死人だった。
 だから、体温も無く、何より触れることさえ、叶わなかった。
 
 あの人と同じ容姿。同じ声。同じ眼差し。
 けれども西村の頬には、確かに彼の掌の感触があった。温かさがあった。
 ――それは、奇跡なのかもしれない。
 しかし、だからこそ、はっきりと分かってしまったのだった。
 彼と南原は、違う存在であると。

 気が付けば、西村は聖林通りの中ほどへ、駆け出していた。
 幾人もの通行人や、店の店員が訝しげな視線を寄越してきていたが、今の彼女にはそれを気にする余裕は無く。
 ただ全力で、走っていた。

「あああああああああああああ――っ!」
 
 そして普段彼女を知っている人物が見たら驚くような声の大きさの絶叫が、その喉から迸った。
 悲痛な想いが混ざった、叫びが。
 声はただ空しく、空に吸い込まれていく。
 それでも尚、叫び続ける彼女の周りには、ふわふわと粉雪が舞っていた。


*  *  *


 幾日か、日は過ぎて。
 冬の快晴が広がる銀幕市の駅のホームに、西村と鴉と南原の姿があった。
 幸い彼はあの事故では打ち所が良かったようで、頭の出血と各所の捻挫くらいで済んだ為、長期間の入院などはせずに済んでいた。
 からりとした風が再び吹き、ざわりと彼等の髪を揺らしていく。
「だい、じょう、ぶ……です、か……?」
 無表情ではあったが、声には少しばかり気遣う気配が見て取れた。それに気が付いた南原は、小さく微笑む。
「ええ、お陰さまで。まあ帰ってからもしばらくは病院通いですね。しばらくは、仕事も様子を見てこなす事にしますよ」
「……お大事に、して、く……ださい……」
「ありがとうございます。――今回は色々とお世話になりました。本当にありがとうございました。――……次に僕の作品が出たら、是非観てくださいね」
 ぺこりと頭を下げつつも、茶目っ気が入った最後の言葉に、西村は小さく口の端を上げて頷いた。
 機械的な女性のアナウンスが駅のホームに鳴り響き、静寂を保っていたホームが俄かに音を取り戻す。
 北風と共にホームに滑り込んできた電車を見やり、ふと南原は西村を振り返った。きょとんと彼の顔を見返す西村に、南原は優しげな笑顔を向ける。
「……やっぱり、貴女は笑っていた方が素敵ですよ、……『西村さん』」
「……え」
 ぽかんとした表情を滲ませる西村に、再度笑顔を向け、南原は丁度開いた扉から電車に乗り込んだ。
「……さようなら」
 機械的なメロディが鳴り響き、音を立てて扉が閉まる。
 こちらを向く南原に、ほんの僅か、西村は口の端を上げて、笑っていた。
 彼を乗せてがたん、と電車は動き出して。
 

*  *  *

 
 南原はむわっとした暖かさが漂う電車に乗り込んだ。くるりとそのまま方向転換して、西村を見やり、別れの言葉を告げ。
 そしてドアが騒々しく音を立てて閉まる直前に、西村は静かに笑った。
 唐突に見せてくれたその笑顔に、自分で言い出しながらも、しばし呆気に取られて。
 その間にも電車は動き、そして彼女が少しずつ遠ざかってゆく。
「――」
 南原は彼女を見て、誰かの名を呟いたようであったが、その小さな呟きは暖房の音に、電車が動く音に、車内のアナウンスにかき消されていた――。
 彼は既に駅を通り過ぎて、代わりに窓の外に流れていく銀幕市の光景を見つめながら、そっと口を開いた。



*  *  *


「――」
 西村はぽつりと、去ってゆく彼を見ながら、誰かの名を呟いた。だが、それは、あまりにも小さすぎて、電車の動く音にかき消されてしまっていた。
 ばさり、と彼女の肩で羽を動かす鴉に目をやり、すっかり遠くに行ってしまった電車に視線を向け、そして、抜けるような、雲ひとつない澄んだ青空を見上げ、そっと口を開いていた。

*  *  *


「愛していました。大好きでした。ここには居ない、あなたでない、あなたを」


クリエイターコメントお待たせいたしました。ノベルをお届けさせて頂きます。

今回、かなり切ない内容、しかも久方ぶりの恋愛もので、いろんな意味で泣きそうになりながら書いておりました。…すこしばかりでも巧く心情が表現できていると幸いです。

それでは、オファー、ありがとうございました。また銀幕市のどこかでお会いできましたら、嬉しく思います。
公開日時2007-12-13(木) 08:40
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