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<ノベル>
純白の花びらが、散っていた。彼の前をふわり、と舞う。むわっとするような甘い匂いも一緒に、舞っていた。
その純白の花びらには、鮮やかな赤い色が混じっていた。鮮血の、色。
呆然とする彼の前で、ゆっくりと消えていくのは――。
ノアクティ・スパーニダは、息を呑んで我に帰った。今の彼の周りには、銀幕市の一場面。くすんだ色の道と、様々な年代の人々が、まるで標識のように佇む長身の彼を避けるように歩いている光景が広がっている。
夢、か――。ノアクティは、やや弾む息を抑えるようにゆっくりと息を吸い込んだ。そして、つい先程までしていたようにゆっくりと歩き出す。
夢と言うには、それは哀しさに満ちていて、悪夢と言うには、それはあまりにも綺麗過ぎる夢であった。
彼は眉根を寄せて、そっと顔にある、額の右から左の頬までかけて奔る傷跡に指を這わせる。
「シャーレイ……」
目の前で彼の掌からすり抜けていった、この世の何よりも愛しい人。
そっと、その名を呟く。
*
夢が醒めたのかと思った。
それが、シャーレイがこの銀幕市に実体化して最初に抱いた思いであった。
その言葉は、彼女達の住まう世界が夢の中とされているので、大きな意味を持っている。
何せ、今までひたすら険しい山道を走っていたのだ。追ってくる、幾人もの人間たちから逃げていたから。
――ノアと一緒に。
そう思って、シャーレイはハッとあたりを見回した。
灰色の道の真ん中にひとり座り込んで、必死にあの長身の面影を探す。
けれども、いない。つい先程まで、隣で一緒に歩いていたのに。
少しずつ頭の中が混乱していく中、ひとりの若い男性がシャーレイを心配してか、彼女のもとに寄ってきた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「え?」
そう声を掛けられ、彼女はびくりとしながらそうっと声の方向に顔を上げた。そこには、心配そうな表情を浮かべた男性の姿。普通に見れば、その男性は銀幕市に実体化した彼女を気遣っていると見えるであろう。
だがしかし、シャーレイのその緑の瞳にはそのようには映らなかった。
彼女の世界での特殊な立場から、生まれてからずっと殺意と、憎しみとに追われ続けていたシャーレイ。
今まさに肩に手をかけようとしている男性も、もしかしたら彼女を狙っているのではないのかという思いにさらされて。
「……!」
「ちょ、おい、お嬢ちゃん!」
シャーレイは差し出された手を跳ね除けて、走り出した。
彼を探さなければ。
彼女にとって、ただひとつの、希望。
「ノア……!」
ぶわり、と澄み切った冬の風が、彼女の漆黒の髪に結わえられた緑の太い幅の布を攫っていく。
雲ひとつない、蒼穹に。
*
何とも言い難いもどかしさに襲われながらも、あまりの疲れに少し休憩しようと思い、ノアクティは近くにあった喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
「……コーヒーをひとつ」
照明が程よく落とされた店のカウンターに腰掛け、本当は酒が飲みたいと思いつつもそんなものはないので、コーヒーを注文する。
注文を受け、カウンターの向こうで店主の男性が手慣れた手つきで準備をするのをぼんやりと眺めていた。
(――殺されるなら、ノアの手で)
真摯な視線を向け、静かに語るシャーレイ。
絶望と恐怖が行き交うあの世界で、シャーレイもまた、その恐怖の中にいた。
ノアクティは勿論、シャーレイを殺す事なんて出来るわけが無い、と今も思っている。
しかし、シャーレイのその言葉は決して、軽はずみに口に出している訳ではなかったから。
ノアクティはあの逃亡生活の中、苦々しい思いを胸に抱きつつ頷いたのだ。
どうしてあの時頷いてしまったのだろう。こうして彼女が隣にいない今、彼は時折激しい後悔に襲われている。
本当ならば、頷くべきではなかったのだ。
白い花びら。赤い鮮血。
ゆっくりと、倒れていく身体。
(ノア……!)
幻想に浸っていた時、シャーレイの声が聞こえた気がした。思わず椅子から立ち上がる。
幻想に浸っていたから、彼女の声が聞こえたのかもしれない。だが、そう決め付けるにはあまりにも鮮明すぎる声の響きであった。
「おや、お客さん?」
店主が呼ぶのも構わず、ノアクティは店の扉を押し開いて外に出た。
あたりを見回すが、そこには誰もいない。
(やはり幻聴か……)
そう胸の内に呟いて、空を見上げた。
そこには。
ひらりと舞う、緑のリボン。
「!」
冬の強い風が吹いて、どこかでよく見たリボンが空を舞っていく。
ノアクティは息を呑んで、どこかでそれが落ちてくれないかと思いつつ、そのリボンの後を追いかけていった。
上ばかり見て歩いているせいで、幾人にぶつかりってしまう。
人々が不快そうな視線を向けるのも構わず、彼はそれを目指していた。
やがてノアクティの期待通りその布の重量に風が負け、リボンがはらはらと道路に落ちてくる。
「やはり……シャーレイのだ」
ゆっくりと拾ったそれを見て、ノアクティはそっと呟いた。
何日間空を彷徨っていたのだろうか。そのリボンはいつも彼女の頭にあった時よりも幾分泥に汚れていた。
ノアクティはそれをゆっくり握り締め、安堵と嬉しさと、そして不安の波に苛まれていた。
やはり、シャーレイはここにいるのだ。ここに生きて、自分と同じように実体化しているのだ。
けれども、どうして見つからないのか。今彼女はひとりで、大丈夫なのだろうか。
どうしても、どうあっても、彼女を見つけなければ。
ノアクティのリボンを握り締める手に、知らず力が篭っていた。
ふと、彼女の言葉が脳裏に甦る。時折呟く、あの印象的な言葉。
(――殺されるなら、ノアの手で)
*
「じったいか……?」
「そう。映画の中から人とかが現れる事をここではそう呼んでいるんだ。君も、ムービースターだね」
「……」
シャーレイは何も分からず銀幕市を彷徨っていた。それを見かねた市民のひとりが、道に倒れそうな表情でよろよろと歩いていた彼女を何とか説得して、近くにあるレストランに連れて行っていた所だった。
外見は幼く見える彼女であったから、声を掛けた方としてはそんな彼女を心配しての事で悪意など無い行為であっただろうが、やはりシャーレイは不安で堪らなかった。
――この人が優しくしてくれるのは、後で自分を殺すからなのではないのだろうか。
――この人が色々教えてくれるのは、後で絶望を与えるからではないだろうか。
どうしても、目の前の優しい表情を信じる事が出来ない。
こんな時、のアクティがいてくれたら。
再びそんな思いを胸の内に呟く。
「お待たせ致しました」
頭上から声がして、驚きのあまり思わずシャーレイはのけぞりそうになった。
コトリ、と小さな音を立ててテーブルの上に食事が置かれる。彼女のいた国では滅多に見られない、陶器の小さめな器に盛られている不思議な食物の数々。
それを見て、不思議だと思う前に、恐怖が湧き起こってきた。その恐怖はその場にはいられない程の大きさである。
この人はまだ何もしていない。それはよく分かっていた。けれども。
「……ごめん、なさい」
「え? ちょ、ちょっと?」
シャーレイはやっとそれだけ言うと、その場から駆け出した。呆気に取られている市民を後ろに、その店を飛び出す。
店の外に出て、やっと少しだけ息が苦しくなくなった気がし、そっと胸を押さえた。
あの緑の深い森の中で見つけた、ひとつの気配。
シャーレイはそれが人間の気配だと悟り、今までずっと人間には追われ続けていた彼女はまたかと、半ば失望しながら袖に隠されている爪でその人間に襲い掛かっていた。
その場に飛び散る、赤い花びら。
ざり、という音と共に、皮膚を引き裂いた感触が指に伝わった。
相手が呻いて一歩下がるのが分かった。それでも手は緩めず、攻撃を続けようとする。
彼女自身でも分かるくらい、彼女はひとりだった。
ひとりで何もかもしなければならないと思っていた。そして事実、そうであった。
絶えず襲いにくる人間。彼女に出来るのは、ただそれを迎え撃ち、殺す事。そして、それが続いて。
いつの間にか、彼女はむき身の刀のような危うさと鋭さを漂わせていた。
もしかしたら、それが相手にも伝わったのかもしれない。
その人間は額から、肩から血を流しながら。
――そっと彼女に手を差し伸べたのだ。
「どこにいるの……? ノア……」
小さく呟きながら周囲を見回す。彼女の周りを取り巻くのは、灰色の壁や、分厚いコートに身を包んだ市民達の姿だけ。
ここにはいない、とため息をつきながら少し遠くを見た時だった。
「……!」
明らかに、他の人々とは群を抜いた長身の男が通りを足早に過ぎ去っていくのが見えた、気がした。
さっきまで、彼との思い出を思い出しただからだろうか。
そう思いながらも、足はひとりでに動き出していた。
「ノア、……ノア!」
角を曲がっていった彼を追いかける。少しずつ近づく彼の面影。
だが、大通りに出たところで、沢山の通りを行きかう人達に呑まれ、視界を奪われて、彼の姿を見失ってしまった。
車道に飛び出そうとした彼女の前を車がクラクションを鳴らしながら過ぎていく。
呆然と立ち尽くす、シャーレイ。そんな彼女を人々は興味深げに眺めながら通り過ぎている。
さっきまで、確かに彼の姿は視界にあったのに。
一体、どこへ行ってしまったのだろう。
彼女の前に差した、微かな光がしぼんで消えていくように感じた。
「……大丈夫ですか?」
「……っ!」
ふと彼女を心配してか、そっと声を掛けながらシャーレイの肩に手を掛けてきた人がいた。思わず身を竦める。
彼女の肩に手を置いた人物は、不思議そうな顔をして彼女を見返した。そしてそんな二人を興味深げに、あるいは立ち尽くすシャーレイを心配そうに見ている、幾人かの取り巻きの人々。
(こいつだ! 竜人だぞ!)
(こいつさえ捕まえれば、後は遊んで暮らせるぜ)
(捕まえろー!)
幾重にも重なる、恐怖と絶望の記憶が彼等の瞳に重なって。
(――ノア)
見つけて、私を。
もう一度、私にその手を差し伸べて。
その言葉は、この場にいる人々には理解不能の咆哮となって響いていた。
――彼女の中に凝り固まっていた不安が、爆発していた。
*
ノアクティはシャーレイを何とか見つけようと、自分も実体化してから最初に訪れた市役所へ向かっていた。
(シャーレイ?)
急ぎ足早に歩いている途中、ふとシャーレイの気配を感じ取った気がして後ろを振り向く。
だがそこには幾人もの人々が行き交う大通りが見えるだけだ。向こうの通りを見せる暇なく、車が行き交っている。
ノアクティは気を取り直し、市役所の中へと入っていった。
かつて自分もそこで名前を登録したように、住民名簿を閲覧出来る窓口へと向かう。
「こんにちは。どういったご用件でしょうか?」
「……同じ映画から実体化した人を探したいんだが」
「はい。その方のお名前は?」
「……シャ」
ノアクティがシャーレイの名前を告げようとした時、市役所の入り口から幾人かの人々がどたどたと大慌ての様子で入っていった。彼らは迷いなく、対策課の窓口へと向かっていく。
「た、た、大変だ! ここの近くで、青い何かが暴れてるんだ! ど、どうにかしてくれ!」
青い何か。
ノアクティはその言葉に敏感に反応していた。
その瞬間、初めて出会った時の彼女の体に、青い鱗が煌いた事を思い出していた。
「……!」
「あ、あの……?」
ノアクティは走り出していた。
彼の中で、冷やりとした嫌な予感を駆け巡らせながら。
かつて赤々と燃え上がる炎の中に、全てを無くした。
半ばぼんやりと生きている時に見つけた、ひとつの花。光。
彼女は、自分にとって全てだから。
だから、今度こそ。
ノアクティが騒ぎの大きい方を目指して走ると、そこには確かに「青い何か」がいた。
それは暴走した、シャーレイの姿だった。沢山の人々の中心で、いつもの少女の姿ではなく、青い鱗を身体中に生やした不思議な姿をしていた。そして不思議な言葉、彼等の世界で申請言語と呼ばれる言葉を叫んでいる。
ノアクティはやっと彼女を見つける事が出来たことに微かに安堵の表情を浮かべた。休む間もなく、人々の波を押し分け、彼女のもとへと歩いていく。
「シャーレイ」
名前を呼んでその手を掴もうとするが、正気を失った今の彼女には、それさえも撥ね退け、さらにノアクティへとその鋭利な爪を向けた。
ざりっ。
「……!」
皮膚の裂ける音と共に、一瞬で彼の差し出した右腕が血に溢れていく。
けれども、ノアクティがその手を引っ込めることはない。
「シャーレイ」
再び名を呼び、そっと両手を差し伸べた。
そして、彼女の背に両腕を回し、そっと抱き締める。
腕の中でじたばたとシャーレイがもがくが、彼はそのまま、彼女が正気を戻すのを待っている。
「もう、大丈夫だから」
幾重にも背中の外套に彼女の爪が奔るが、それでも彼は腕の中の彼女を放さない。
――やがて、その声が届いたのか、少しずつ、少しずつ彼女の動きが弱まっていくのが分かった。
少しずつ、同胞の命が心無い人間によって消されていくのを感じながら、シャーレイは毎日必死に逃げていた。ひとりで。
やっと追っ手をまいて少し安心できる所に来れた、そう思った途端にどこからか新しい追っ手がやってくる。
険しい山道も、道無き獣道も、ただひたすらに疲れ果てるまで走っていた。
心は知らず、荒んでいく一方で。
けれども。そんな時、人間でも信じられる人が出来た。
いつでも隣にいてくれる、頼もしい存在。
今まで暗かった世界に、光が差した気がしていた。
だから。考えていた。
いつか私は殺される。それならば、貴方の手で、と。
貴方になら、殺されても構わないから。
「――……ノア?」
ぼんやりとシャーレイの視界に、かつていつも隣にいたノアクティの顔が入った。彼女はそっと彼の名を呼ぶ。ノアクティがそれに反応し、微かに微笑を浮かべていた。
ノアと呼ばれて彼を微笑ませることが出来るのは、多分シャーレイだけであろう。
「ノアなの……?」
ここに来てから、ずっと、ずっと探していた。この世の何よりも大切な人。
不安と恐怖と絶望から解き放たれて、彼女の胸に安心と安堵が満ちていく。
知らず、シャーレイの瞳から一滴の雫が零れ落ちていた。涙はそれをきっかけに、後から後から溢れ出す。
「良かった……。ずっと探したけど見つからなくて……」
やっと貴方の場所に帰ってこれた。涙ながらにそう呟いたシャーレイに、ノアクティの腕に力がこもっていた。
ゆっくりと、彼女を纏っていた青い鱗が、滑らかな白い人のそれへと変化していく。
あの白い花々が咲き誇る谷で。
この掌からするりと抜けていった人がいた。
舞う、白い花びら。
彼に向けられた、儚い笑顔。
――その笑顔を守りたかった。
永遠に。
「……怖かった……まだあの人達に追いかけられているみたいで」
「そうか……」
少し震えるシャーレイの背中を、ノアクティはそっと撫でながら宥めていた。
「もう、大丈夫だ。……逃げている時、約束した事があったよな?」
「え? ――ええ」
唐突な言葉に、シャーレイはやや戸惑いながらも頷いた。
約束。決して忘れはしない。
「殺されるなら俺に、とおまえはそう言った」
「ええ。……どうせ死ぬのなら、貴方にと思ったから」
(――殺されるなら、ノアに)
「あの時俺は頷いた。だが、俺はその約束を破る。……俺はお前を殺せない、――殺さない」
「――え」
ノアクティの強い言葉に、思わず息を呑んでシャーレイは彼を見上げた。彼は彼女に回していた腕をそっとほどき、外套のポケットからごそりと何かを取り出す。
「あ……リボン」
そこには、彼女が頭に結わえている緑のリボンがあった。どうやらシャーレイの知らぬ間にリボンがほどけ、どこかに飛んでしまったらしい。
彼はそれを見つけてくれたのだ。シャーレイの心に、暖かい灯が宿るのを感じた。
ノアクティはそのリボンをそっと頭に結わえてやった。
「俺はおまえを殺さない。その代わり、誰にもおまえを殺させたりはしない。そう、決めた」
「――……ノア」
「幸い、ここにはおまえを追う人間もいないようだしな」
ノアクティはそう言って微笑んだ。息を呑んだまま動かないシャーレイに、そっと両手を差し出す。
――一緒に生きよう。ずっと一緒に。
シャーレイは静かに微笑んで、彼の手に、自分の手を重ねていった。
一滴の雫が、ぽつりと地面に落ちていく。
――今度は、この手を離さないから。
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クリエイターコメント | お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。 今回は、お二人の出会いを過去の一場面を取り入れながら描かせて頂きました。お互いのすれ違いの行動の場面などは書いていてとても楽しかったですvv これからお二人が銀幕市でどんな(ラブラブな 笑)生活を描いていくのか、楽しみですね。
それでは、オファーありがとうございました! またいつか、銀幕市のどこかでお会いできることを願って。 |
公開日時 | 2008-02-11(月) 12:00 |
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