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<ノベル>
思えば、奇妙な話だ。
微かな月明かりの下、長身の男は独り歩いている。
彼が行くのは夜の山道だ。うっそうと茂る森の木々をくぐり、月光すらほとんど届かないような闇の中を、彼は足取りも確かに歩いていく。
やがて、その目前が急に開けた。
森の中を抜けたのだ。そこは丘がいくつも連なる見晴らしのよい高台で、たくさんの石が斜面に沿って整然と並べられているのが見えてきた。
墓地である。香港にある、ハッピーバレー地区の公営墓地が実体化したものだ。
彼はその光景に、一瞬だけ目を細めた。だが足を止めることもなく先を急ぎ歩を進める。
最後の日。
もうまもなく、ムービースターが一人もいなくなり、この街の魔法が解けてしまう夜。
ユージン・ウォンは、自分の墓へと向かっているのだった。
* * *
その奇妙な感覚──違和感とでもいうべき感覚を、ウォンは実体化したときからずっと感じていた。
彼がたどり着いたのは、二つ並んだ墓の前である。大きな椿の木の下だ。堅い緑色の葉が風に揺られてさざ波のような音を立てている。
墓の銘は、恩人であるジャレッド・ウォンと、彼自身だ。
──香港の路地裏で、捨てられた犬よりもひどい生活を強いられていたウォン。その彼を、何のきまぐれか拾って養ってくれたのがジャレッドだ。彼の人生はそこから始まり、そして組織の一員だった若者に撃たれて終わった。
映画の中でウォンは、命を落としてここに埋葬される。
つまり、今。死んだはずの自分が、自身の墓の前に、立っていることになる。──これが正常なことと言えようか。
ウォンは思う。自分がこの墓の前に立っていることこそが、この街の魔法のねじれそのものだ。
しかし、だからこそ。自分はここに来た。
最後の時を迎えるのに、これほどふさわしい場所は他にない。
──ここで、この場所で。自分は、ただ静かに時が終わるのを待つのだ。
嘆息し、懐から黄色い紙の束を取り出すウォン。
紙で出来た冥土への贈り物──紙紮だ。マッチを擦って線香に火をつけ、小さな炉に紙紮をくべていこうとする。
と、その手がふと止まった。
ウォンは、炉の手前に花が供えてあることに気づいたのだ。
白い花は枝ごと切り取られ、横向きに置いてあった。控えめに、そっと。まるで自らの存在を隠すように。
──クチナシ、か?
花に詳しいわけではないウォンだったが、それが何であるかは分かった。クチナシ。ちょうど今時分──初夏に咲く花だ。ここへ来る途中にも、咲いているのを見かけた。
誰が供えたのだろう──。
ウォンは、きちんと作法を守り紙紮を火にくべながら思った。
花の感じからして、今日置かれたことは間違いない。
自分以外の誰がここに来て、クチナシを供えていったのか。
──リガ?
ウォンが真っ先に思い浮かべたのは、年若い恋人の姿だった。赤い髪と、そのサファイアのように青いブルーの瞳。
すでに別れは済ませてきた。それでも、彼女の姿は鮮明に瞼の裏に焼き付いている。
彼女が、凍えていた彼に温もりをくれた。地の底の暗闇を這っていたような自分に手をさしのべてくれた。
少女の手の温かさが──それがまだ自分の身体の中に残っているような気がする。
かけがいのない存在である彼女。
あの可憐な少女が、自分の墓に花を供えたのだろうか。
──違うな。
ウォンは、かぶりを振った。彼女は独りでこんなところには来ないだろうし、そもそも場所を教えてはいない。
そう思い、彼は花の形をした紙紮を取り出した。微かに頬を緩め、それを燃やす。恋人への感謝の気持ちをこめながら。
──それとも、彼か?
次に思い浮かんだのは、巨躯の陰陽師だ。
彼の弟子と、ウォンは友人だった。それも、この街に実体化し同じように苦しみに囚われていた友人だ。
それがまさか、あんなことになるとは──。
彼は目を伏せ、目前の自分の墓石をただ見つめた。
少年と彼の部下は、この街の魔法のねじれに巻き込まれ、時を同じくして狂い──そして死んだ。
すべてが終わったあと、あの陰陽師とウォンは出会い、彼らの魂の欠片とでもいうべきものを、この墓に納めたのだ。
いや──彼でもない。
ウォンは、クチナシの花に目を落とす。はっきりした理由は無かったが、あの陰陽師ではない気がしたのだ。
次に取り出した紙紮は、ちょうど銃とナイフの形をしていた。
ウォンはそれを火にくべる。
一足先に逝った部下には銃を。友人だった少年にはナイフを捧げようと。じっと紙紮が燃えていく様を見守った。
──なら、残るはディヴか?
最後に思い浮かんだのは、もう一人の恩人である。いつも長袍(チャンパオ)に身を包み、落ち着いた物腰を崩さない初老の男だ。
今にして思えば、彼がこの街でも共にいてくれたことは、ウォンにとって大きな精神的な支えだった。
実体化して生きねばならぬ苦痛に、部下を失った辛さも重なって、ウォンは憎しみに自分を見失いそうになっていた。それを、彼は無理に諭すこともなくただ見守ってくれた。
感謝してもしきれない相手である。
取り出した紙紮は、扇の形だ。ウォンは彼が、扇を開き涼しい顔で自分をあおいでいる様子を思い浮かべながら、紙の扇を燃やす。
恩人が、恋人が、友人が。彼らの支えがあったからこそ、今の自分がある。ウォンは燃えていく紙紮に自分の思いをのせるように祈った。
同じようにフィルムに戻る者もそうでないものも。彼らに多くの幸せを──。ウォンは目を閉じて。一人ひとりに思いを馳せた。
それは静かな、安らかな時間だった。
それにしても──これはディヴのやり方ではないな。
やがてウォンは、例のクチナシの花に視線を戻し、かぶりを振った。恩人は用意周到な人物である。もし花を供えようとするなら、きちんとしたものを持ってくるはずだ。このクチナシのように、現場で調達するようなことはしないだろう。
──では、誰が?
あと数十分。最後に叩頭し墓参りを終えたウォンは、広大な墓地の中を、ぶらりと歩きだした。
* * *
歩きだしてすぐ、ウォンはもう一人の人物が墓地の中にいるのを見つけていた。
ある墓石にもたれかかるようにして、青年が目を閉じて座っていたのだ。見たこともない、知らない顔だ。
ウォンが足音を隠さなかったので、相手はすぐ彼の姿に気づき、目を開けて彼を見上げた。
やはり、知らない顔だった。
しかし何故ここに居るのかは、聞かずとも分かった。彼も同じように最後の時をここで迎えようとしているのだ。誰にも見つからないように、ひっそりと。
無言のまま、ウォンは彼がもたれかかっている墓を見た。小さな遺影には、十代後半ぐらいの少女の顔が写っている。
青年も彼の視線を追って、その写真を見た。恋人だったのだろうか。しかし彼には悲しむ様子はなく、視線はただ穏やかに写真の中の微笑みに注がれていた。
「あそこの墓に、クチナシの花を供えたのはお前か?」
何も構わず、ウォンはいきなり本題に入った。青年は気を悪くした様子もなく、ただ小さくうなづいた。
「通りがかりだったんで」
「これだけ多くの墓があるのにか」
「あなたは有名人で、同じ香港出身者だから」
淡々と答える青年。
「あの花ぐらいしか無かったんです。気を悪くされたのなら謝ります」
「いや」
ウォンはそれだけ応えると、無言になった。
ふいに、二人の間に沈黙が訪れる。
ウォンは、ただじっとその青い瞳で青年を見つめた。そのまま微動だにしない。
青年の方は、ずっと遺影の少女を見つめていた。ウォンと視線を合わせようとせずに。
「──彼女が忘れられなくて」
小さな声で、ふいに青年が口を開いた。ウォンの様子を気にしている節もない。
「生きている時の彼女が実体化しないかと、ずっと待っていたんです」
そうか。相づちを打つウォン。
「彼女は実体化しませんでした。でも、俺は幸せでした。この街に来てから、俺を好きになってくれる人にも出会えました。ようやく普通の──映画の主人公じゃなくて、普通の人が送るような普通の生活を過ごせたんです。だから」
もう一度、彼は言った。
自分は幸せだった、と。
それを聞いて、ウォンは何故か──苦笑した。それは彼を知る者が見たら、非常に珍しいことだった。
青年も、驚いたのだろうか。目を上げて彼を見た。
「あなたはどうでしたか?」
ウォンはただ、苦笑するだけで、それには答えない。あることに気づき、彼は笑うしかできなかったのだ。
「あなたは──幸せではありませんでしたか?」
辛抱強く、青年は同じことをウォンに訪ねた。
彼は答えを欲しているようだった。相手の口から、その答えを聞こうと、ぶしつけなほどに強い視線をウォンに浴びせている。
「──時間を得た」
ぽつり。ウォンは答えた。
「え?」
「三年の月日は、自分自身の死を思うには充分だった」
彼はそう言い、まっすぐに彼を見下ろした。口端に浮かべた笑みを消さずに。
──多謝。
ウォンが広東語でそう言うと、青年は弾かれたように立ち上がった。
「俺は、あの──」
「何を驚いている?」
もう話は終わったとばかりに、ウォンはきびすを返した。青年の姿を振り返ろうともしない。
「花を供えてもらった礼だ」
ただ、そう言い残してそこを後にする。彼は振り返らなかったが、青年は呆然としたように去っていくウォンの後姿を見つめていた。
そして無言で頭を下げる。
彼は、ウォンの姿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げていた。
* * *
実体化したころは不快でたまらなかった。
眠っていたところを、文字通りたたき起こされたのだから。
無理矢理、墓から引きずり出されたと、ウォンは苦しみ、もう一度安らかに眠ることを願った。
早く、元に戻りたい、と。
それが、今は──。
何と穏やかな気分だろうか。
自分の中にわだかまっていたものが全て無くなったような気がしていた。身軽になったような、何かから自由になった解放感すら感じる。いろいろなものが身体から剥がれ落ちていき、ただ魂一つだけが残っているような。
そして、最後の夜にしてようやく気付くことが出来たのだ。──長い間抱えてきた、あの奇妙な違和感の正体に。
恩人と並んだ彼自身の墓。
そもそも、この墓地が実体化していたこと自体に注視すべきだった。
ここが銀幕市に存在しえたのは、恩人や部下が映画のラストにあたるシーンで彼を弔ってくれたからだと、今まではそう思っていた。
しかし主役でもない人物の墓がそう都合よく実体化するだろうか。中華圏では映像化することにも憚られる墓地のシーンが。
きっと、自分が知らないシーンがあったのだ。ウォンは思う。
彼が死んだ後。恩人たちの他にも誰かが彼の墓を訪れ、弔ってくれたのだ。
そう。誰かが──。
ウォンは最も見晴らしの良い高台に立って、下を見下ろした。
谷間に銀幕市が見えている。大小さまざまな灯りが、人々の営みをあらわすように瞬いていた。夜の闇の中でも、その灯りを一つひとつ、はっきりと見ることができた。
あの灯りのどこかに、恋人や友人たちがいるかもしれない。
そう思うと、あの光たちから目を離したくなくなった。彼はただ、光の点をじっと見つめ続ける。
もうすぐその時が来る。しかしすでに自分の死を経験しているウォンは、恐怖の類はまったく感じなかった。今の気持ちは、映画の中で撃たれた後のそれと似ていた。
冷たい床に倒れ頬を冷やしながら、去っていく“彼”の後姿を見送る──。
身体の感覚がなくなり、しんしんと染み込んでくるような肌寒さに包まれていく。ああ、これが死ぬということなのか。ウォンはその感覚を思い出す。
晴れた空が雲に覆われ、そして真っ暗になるように。意識が闇に沈むのだ。
そんな中でも、ウォンは“彼”が無事に逃げられたかどうかを気にしていた。自分が教えた抜け道を無事に脱出できただろうか。最後の数秒を、自分を殺した相手のために使った。
思えば──今も同じだ。
街の灯り一つひとつに宿る心を残し、彼はこの街を去っていく。
もう逝く時間だ。
ただ彼は、自分の見つめる光がまた明日も、そのまた次の日も光るであろうことが嬉しかった。自分がこの世界から姿を消しても。自分が無に帰っても。あの光は、また光り続けるのだ。毎日、何ら変わることなく。
光は消えない。
自分が居なくなっても、彼女たちはこの世界で生き続ける。
ウォンには、それが何よりも嬉しかった。
心配するな。俺はもう凍えることはない。
これから、冷たくも温かくもないところに行くのだから。
笑わないで聞いてくれ。
もし、叶うなら。今度は俺が夢を見てみたい。
これで、ようやく──眠れる。
(了)
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クリエイターコメント | ありがとうございました! そしてお疲れさまでした!
ウォンさんの最後の最後のシーンを、お任せいただいて言葉も出ないほど感謝しております。 クチナシの花言葉は「私は幸せでした」だそうです。 冬城から贈る言葉でもあります。
どうか、ウォンさんが安らかな眠りにつかれますように──。
おやすみなさい。 |
公開日時 | 2009-07-24(金) 23:50 |
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