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<ノベル>
――この事は、人が持つそれぞれの考えによって、様々に捉えられることだろう。ある人は科学の、超常現象の進歩を喜び、ある人は神の冒涜だと罵るだろう。
私としても、こんな事を勝手に押し付けて逝ってしまうのは逃げのように思えるし、お前にも非常にすまなく思う。
だが、私には、時間がない。罵る気配は憎悪に変わりつつある。
きっと私は殺される。
これは私の、最期の言葉だと思ってくれ――。
ライエルとホーディスの視線は、今は黒の闇が支配する世界においてやや色を失っている、腰くらいの高さの緑の茂みへと向けられていた。
彼らがこれから調べようとしている施設の周りには、そこが未だにその施設に住む者たちの所有地であるからか、それとも単に実体化した場所が場所だからか、雑草が心のままに伸び放題の空き地であるようだった。彼等の右手には、秋の風物詩のひとつとも言える、やや古ぼけた黄色のススキが群を成している。左手前方には、研究室から続くなだらかな丘によく見る芝生に似た雑草が生えているだけで、背丈の高い草は見当たらない。
そして彼等の後方には、たった今凝視している少し背丈のある茂みが形成されていたのだが。
そこにあったのは、茂みからひょこりと隠し切れずにのぞいている、漆黒の頭であった。髪の毛が月の光を反射して、より一層目立っている。その人物は気配を隠すのはお手の物のようで、視線を向けて確認しない限りそこに彼がいる事には、気付かなかったであろう。
だが、何ていうか、このシリアスな場面において、非常にマヌケに見える。とても。
「……」
二人はその頭の持ち主に、見えていると声を掛けるか、それとも見なかった事にしてそのまま自分達を尾行させてプライドを護らせるか、しばしの間躊躇った。何とも言い難い微妙な間が、二人を覆う。
しかし、その躊躇の間に、頭の持ち主はひょこりと目元まで茂みから顔をのぞかせてしまった。
二人の視線と、その彼の視線が絡み合う。そしてはじかれたかのように、彼は立ち上がった。
「うわ、実はバレてたってやつ?」
しまった、と髪の毛に絡まっていた小さめの葉を左手でがしがしと払い落としながら、茂みをかき分けて二人の前に姿を現したのは、映画の中、そして実体化してからも市の片隅で万事屋を営む梛織であった。
どちらかと言うと中性よりな、やや鋭い銀の瞳を持つ顔を僅かに顰めながら、黒のジャケットにも未だにくっついている葉を払っている。
「俺がここにいる事がバレてるなら、さっさと教えてくれれば良かったのに」
どうやら、二人が声を掛けなかったことに、不満な様子であるようだった。ホーディスは、でも、と首を心持ち傾げた。
「何だか、悪い気がしてしまいまして」
「教えてくれない方が性質が悪いだろ! 余計、マヌケに見えるからっ!」
ホーディスの言葉に、即座にずびしとツッコミを入れる梛織。巷ではツッコミプリンスの名を欲しいままにしている彼のツッコミは、夜だろうが本日も健在のようであるらしい。
「まあ、気付いて下さったのですから良しとしましょう。……それにしても、一体、今日はどうしてここへ?」
続いて投げかけられた至極最もな疑問に、梛織はう、と言葉に詰まった。
少し時は遡って、梛織がたまたま外を歩いていた時、彼はちょうど通りの向こう側にホーディスを見つけたのだ。
ホーディスに声を掛けようと手を上げた時、梛織はその時ホーディスが見せていた表情に、上げていた手を下ろし、喉まで出掛かった言葉を飲み込んでしまった。
――何かを追っているかのような、張り詰めた、鋭さを帯びた横顔。
いつも梛織がホーディスに何だかんだで巻き込まれる時、ほとんど笑顔とお金儲けに関する悪知恵を絶やさずにいる彼しか見たことがない梛織に、それはいつもの調子で声を掛ける事を躊躇わせる雰囲気であった。
そして同時に、一体何をしているのか、その表情の理由に対する興味が湧き出てきているのを感じてもいた。
丁度その時は万事屋の仕事もなかった事も手伝って、ホーディスをを遠くからひっそりとつけて来た訳である。
だが、それを正直に告白するのには少し気が引けていた。しかし、ここで嘘八百並べ立てても仕方のない事でもあった。
「……さっき、通りをホーディスさんが凄く真剣そうに歩いているのを見掛けたから、何してるんだと思ってさ」
「なるほど」
ホーディスはそれでどうやら合点がいったようで、つとライエルの方を向いた。ライエルは、無言で梛織に二枚の紙を放った。ひらり、と無秩序に揺れる紙を戦闘に与するもの特有の反射神経で彼は掴むと、その文面に目を落とす。
一枚は、青インクで書かれた、無骨さが溢れている、癖のある文字で埋められていて、もう一枚は顔写真、そしてその写真の横に文字が打ち込まれている書類の一部のようなものであった。
「……これは?」
「あの中にいると思われる、ヴィランズの犯罪集団よ。映画の中では、他の犯罪集団に仕事を回して、金をその集団から受け取る、という黒幕的存在だったようね。銀幕市に実体化してからも、ほとんどそのように動いていたから、正体を掴むのは大変だったわ」
その時、彼女の言葉を補足するかのように、横合いから男の声が流れ出てきた。
「最近、とあるヴィランズを潰したお陰で、彼等は資金源を失い、自らで動かざるを得なくなったと言う事だな。それで、ようやく正体が掴めてきた、と」
「……シャノンじゃないか」
突然、横から、よく聞く声を耳にして、梛織は驚きと共にその文面から目を離した。ホーディスとライエルも、声した方向を見やる。
闇の中からほんの小さな足音と共に、ひっそりと姿を現したのは、ヴァンパイアハンターのシャノン・ヴォルムスであった。色が失われる時分に置いても、むしろこの時分だからこそ、彼だけは自身が持つ闇とも言える色を濃く浮き上がらせているようである。
「俺もあの後、色々と調査を進めていたが……調べれば調べるほど胸糞が悪くなる奴らだな」
そう言いながらシャノンは眉を顰めた。以前に対策課から受けた依頼で、その標的とされていた犯罪集団のひとりから「真実」を伝えられた者として、個人的に調査を行っていたようであった。
「そうね。自らはただ『火種』を相手に渡すだけで、後は傍観者を決め込む。……一番後を追うのに難儀する集団ね」
ライエルも静かに言葉を紡いだ。かつて、警察官としていくつもの犯罪集団を追っていた者として、そしてこの市に来て見つけた、唯一人の愛する者が死へと進む事を止める事が出来なかった者としての、揺ぎ無い心が言葉に浮かぶ。
それまでのやりとりを微動だにせず見守っていたホーディスが、つとシャノンに向けて唐突に、口を開いた。
「あなたは?」
――ここに、何を伝えに来ましたか?
先程ライエルにも向けたその言葉。シャノンは迷う事無く、即答する。
「壊滅」
まあ、どうして未だにこういう事をしているのに興味はあるが、と彼は静かに続けて呟いた。彼の瞳から、幾つも浮かんでは消える想いを読み取るのは難しかったが、それらは恐らく全てが、今しがた放った二文字へと集約されるものなのであろう。
「なるほど。あなたらしいですね」
ホーディスはシャノンの答えに、ひっそりと微笑んだ。それらを耳にしつつ、文面に目を通していた梛織は、ふと幾つかの疑問を持ったようである。
「あの後? それに、この写真、ほとんど子供達しかいないんだけど?」
「前に犯罪集団を壊滅させる依頼があってな、その時に奴らの黒幕はここだと言われたんだ。……その時の集団は孤児院みたいなものだったから、今回もそれに近いんじゃないか?」
「そうね」
シャノンの言葉に、ライエルも頷いた。かつて受けた依頼で知った真実の、さらなる真実を求めて、二人は動いているようである。
「……子供達も戦力にしてるのか。何か嫌だな、そういうのは」
「ああ、そうだな」
露骨に嫌そうに眉をしかめた梛織にシャノンも同意して頷いた。梛織は、どうも、と言いつつライエルにその紙を返した。ライエルは、それを無言で受け取ると、その紙を丁寧に元の折り目の通りに畳んで、上着のポケットから出してきた封筒にしまい込んだ。
「では、梛織さんはどうします?」
ホーディスの言葉に、梛織は彼の方を向き、確信を持って頷いた。
「行くよ。ここまで来ちまったしさ」
・・・ ・・・
りりりりりりりりりっ……!
部屋の片隅に備えられている、赤い警告灯がゆっくりと緋の光を発して回転すると共に、部屋中、施設中に警報が鳴り響いた。
「侵入者ね、ビル」
その部屋の広さに似合わない小さい灯りを点け、大きなダイニングテーブルの片隅でスープにスプーンを突っ込んでいた少女は、相変わらず無表情に向かい側に座って、フランスパンを千切ろうと奮闘していた少年に呼びかけた。
ビルと呼ばれた少年は、やっとの事で千切れたパンを口に運び、咀嚼しながら立ち上がる。
「やはり予想通りだったね。さて、あの部屋に行かないと」
「……そうね」
やや躊躇いがちにスプーンを置き、席を立つ彼女の姿に、ビルはその瞳を僅かに曇らせた。
だが、行かなくてもいい、という言葉を発する権利は、彼は持っていない。
「カナ」
その代わりに発した彼女の名前に、少なからず案ずる響きがある事を感じ取った少女――カナは、僅かに微笑をその無表情な顔に、乗せた。
「……侵入者、か……」
夜でも蛍光灯の光で昼と同じ明るさを保っているその部屋で、先程まで少女の髪に触れ続けていた少年は、ゆっくり警告灯へと首をめぐらせた。
その横で、この施設の中で唯一の大人とも言える男性が、色のついていない、透明なガラスの花瓶に白百合の花を生けていた。それをベッドサイドに備え付けられていたテーブルに置くと、ため息をついて折り返していたシャツの袖を元に戻す。
「あの集団が潰された時に、何らかの形で浮かび上がるとは思っていたが……やはり来たか」
部屋の向こうの廊下から、バタバタと四つの足音が聞こえてくる。部屋の入り口にいた青年も、静かに部屋の中へと足を踏み入れてきた。その青年に、男性は呼びかける。
「ヤナはここを頼む」
「――マーズは」
「……僕は『あの部屋』に行ってくる。何とかしてアレを止めてくるよ」
「……頼む」
青年と少年に頷きかけ、マーズと呼ばれた男性は、その部屋を走って出て行った。そしてその代わりに、四人の少年少女が駆け込んでくる。
「ヤナ、俺達は……」
「……それぞれ、非常時に護る場所の位置に」
青年――ヤナは、その部屋に備え付けてある、警告灯の解除スイッチを押すと共に、そのスイッチの横にあるもうひとつのスイッチを押していた。そのスイッチは、戦闘時の非常時に押されるものであると理解している五人の顔に、緊張が走る。
「分かった」
四人はそれぞれに頷いた。その時、不意にベッドの傍らにいた少年がぽつり、と呟きを漏らした。
「……お前達は、お前達だけは、俺を裏切らないよ、な……?」
その言葉は、淡々とした響きであったが、彼が不安な時に発する響きであるとその場にいた誰もが一瞬の内に理解していた。
「大丈夫だよ。何せ、俺らには爆弾が詰まってるんだからさ」
ビルは、微笑を浮かべながら心臓の辺りを軽く拳で叩いた。それを聞いて、さらにその少年の表情に悲哀が混じっていった。
四人が再びその部屋を駆け出すのを見届け、少年はぽつりと言葉を落とす。
「……だからこそ、だよ……」
・・・ ・・・
先程梛織やシャノン達が佇んでいた場所に、ざらり、と靴底の砂を押し潰す音を立ててその場に姿を見せたのは、頭にココア色のバッキーを乗せた青年、神月枢であった。
「……どうやらここで合っているようですね」
手元に、今まで調べ上げた情報の一部がプリントされているファイルを手に、彼はぼそりと呟いた。
最早医師と名乗っていいのかどうか怪しい程に、様々な仕事をこなしている枢だが、今回は仕事だけという訳でなく、どこからか子供の暗殺者がいるという噂を聞き、独自に様々な情報網を駆使して調べ上げていったようである。
目の前に鎮座する白い、四角い、ある意味病的にも取れる建物を見やる。
ぼうやりと、月の光に浮かび上がる、自らの掌。
静寂の夜は、想い、封じ込めた記憶がどこからともなく甦り、そして時にガラスの破片のように自らの胸に突き刺さる事が、ままある時分。
こうしてただ夜の中に佇んでいると、彼の信念の奥底にあり、そして彼の記憶の底に沈んでいる、とある記憶が浮上してくる。
それは決して忘れる事の出来ない、痛みと悲しみを伴った欠片。過去の輪郭をなぞるかのように、彼は目を細めた。
文字通り、自らの目の前でその瞳の輝きを失っていった、かけがえのない友人の姿が幻影のように彼の前に浮かんだ気がして、枢は緩やかに頭を振って、そして静かに苦笑した。
「やはりこの想いも、所詮人に言わせればエゴ、なのでしょうね……」
それでも、彼は歩みを止める事なく、その建物へと進んで行った。
少しでも、この想いがこの中にいるであろう子供達を救える事が出来るのなら。
その確固たる想いを抱えて。
枢が去った後、静寂が訪れ、代わりに俄かに施設内が騒がしくなるのを僅かに受けているその場に、ひとりの女性が首を傾げながら現れた。
すらりとした長身に文句のつけがたい美貌、そして月の光を弾いて光る赤い髪。その女性――リカ・ヴォリンスカヤは、肩から掛けていた、少し大きめのケーキが入っていると思われるクーラーボックスをひょいと抱え直し、もうひとつの空いた手に持っている銀幕市マップ(配達専用)を睨みつつ、再び首を傾げた。
その地図の中心には、大きくペケ印が赤ペンで付けられ、横に「田中」と書き添えられている。
「ここで良いのかしら、田中さんち」
きっと地図にはここって書いてあるから間違っている筈ないわよね、とさらにひとり呟き、彼女は現れた時と同じく、颯爽と目の前にそびえ立つ建物へと向かっていった。
……残念な事に、丁度ここには彼女の行動を止める事の出来る人物は存在しなかった……。
・・・ ・・・
梛織、シャノン、ライエル、ホーディスの四人が研究所の外観をしている建物に足を踏み入れた時、異様な、何か魔物のようなものが佇んでいる空気に四人は反射的に身構えた。
玄関口と思われるその部屋の照明は全て落とされ、月の光が僅かに入り口側、そして壁に切り取られた小さな窓から差し込むばかりであった。その光でお互いの顔が唯一判別できる程度の暗さである。その彼らが入ってきた入り口の奥の扉から、異様とも取れる、何かが蠢くような、そんな空気が流れ出してきていた。
「なんだ、これは……」
その言葉が暗闇に浮かぶと同時に、四人の中でただひとり、違う方向に気を取られていたホーディスが、咄嗟に右手で印を描いて、紫の、精巧に描かれた魔法陣を放っていた。
ばちり、と静電気が起きる時の十倍くらいの大きさの音が鳴り響いて、同時に紫の魔法陣が消滅していく。
「! ホーディス!」
ライエルとシャノンが同時に叫んだ。魔法陣を返されたホーディスの身体は透け、足元から消えていっていた。まるで違う空間に取り込まれるかのように。
「私は大丈夫です。それよりも、皆さん……」
何かを伝えようと必死に叫んでいた彼の顔が虚空に消え、言葉も途中でぷつりと不自然に途切れていった。
「ホーディスッ?」
ライエルが咄嗟に彼が消える場所に手を伸ばしたが、手は空を切るばかり。
「一体……」
呆然とした表情で呟いた梛織。そんな時、彼らの前に、二人、いや、三人の少年少女達がふらりと姿を見せた。
「やっぱりあなた達には、ばれちゃったか」
ひとりの少年――ビルが、やや苦々しげに言った。あなた達、というのはおそらくライエルとシャノンの事を指しているのだろう。その言葉に呼応するかのように、銃を取り出そうとした少女の手をもうひとり、奥の背が低い棚に無造作に腰掛けていた少年が止めていた。
「俺、ひとつ試してみたい事があるんだよね」
「――試す?」
カナの言葉に、そ、と棚からぴょん、と飛び降りた少年は、手にしていた携帯ゲーム機のような物体の、とあるボタンを押した。
途端に、彼等の床、そして天井とグリッドのような真緑の線が走り、四角い空間を作り出していく。いつの間にか、四角い格子が彼等の周りを満たし、今まで見えていた壁や、扉や、家具などの一切のものを消し去っていた。
「僕等の能力、面白いでしょ?」
「!」
その言葉と共に、梛織とシャノン、ライエルの周りに、自分と幾分違わない分身のような人間達がが音もなく、幾体も出現していた。
「幻影か?」
シャノンが鋭く彼らを観察する。その言葉に呼応するかの如く、ゆらり、とシャノンと同じ型をした人形の、深緑の瞳が彼を睨み付けた。
そこから発せられる、黒く、闇が濃く漂う気、ともいうべき程に、ほとんど自らと同じものをかぎとった彼は、いつもの彼に似つかず、しばし動揺を胸に抱えた。
(――これは、まるで)
その一瞬の同様の内に、彼の人形達の一体が、機敏な動作で愛銃を抜き、照準を一瞬で合わせて幾つもの銃弾を放ってきた。
――銀。銃での勝負は一瞬の内に勝敗が入れ替わる世界。彼は反射神経を最大限に引き伸ばし、銃口から軌跡を予測し、銃声と同時に、皮一枚向こうに銃弾が飛び交うところでその銃弾を避けていく。
その時、真横を掠めた銃弾に、彼の意志や理性というものではなく、それらによって、普段は抑制されている、ヴァンパイアとしての本能、人のようで、決して人とは決定的に異なるその本能が、彼の身体中に散らばっているセンサーとも言うべき器官に、警報を発していた。
――危険、銀。
彼の身体に流れるヴァンパイアの血は、普通のヴァンパイアとは一線を引いた存在、始祖の血。勿論普通の銃器で傷つけられた傷は高速で再生してしまうし、普段ヴァンパイアの苦手としている銀でつけられた傷も再生する。だが、やはり銀が苦手な部類に入る事に代わりはなく、再生するまでに倍の時間を必要とするのだ。その為もあって、身体中が警報を自然と発しているのだろう。
シャノンは自らも応戦する為に、銃に掛けていた安全装置を外し、そして照準を合わせ、引き金を引くという一連の動作をほぼ無意識に、そして一瞬の内に行う。
身体は動きつつも、脳内では思考を繰り返していた。
――ならば、今、俺が相手にしているのは、俺、なのか――?
「面白いでしょ? 人間の善悪って、紙一重なんだよ、きっと」
――ねえ、何が善で、何が悪なの?
それは、幾度も自らの善が塗りつぶされていく様を見届けた、少年の純粋な想い。
「くっ……!」
梛織は、自らに繰り出される、自らの蹴りを頭を下げ、必死に避けながらも反射的に蹴りを繰り出し、自らの分身を後ろに退かせていた。
しかしながらも、頭は動揺の一途を辿っている。
――どうして、自分が?
初めは隣にいたシャノンと同じ考え、幻影かと考えていた梛織であったが、その分身が自らと同じ動きを繰り出し、それを受け身で防御した際の、右腕の筋の痛みの鮮烈さに、さらに目を覚まされた思いであった。
上方から二体が同時に飛び込んで来るのを視線に入れ、素早く後ろに後退する。
右腕にほんのすこし様子見のつもりで触れたのだが、途端に激痛が襲った。
――これはもしかしたら、骨に異常が達しているかもしれない。
じわりと拡がるだけで収まる所を知らない痛みに、知らず唇をかんで向こうにいる自らを見据える。
周りにいる、幾体もの自分。空気を読むかのように一糸乱れぬ連携攻撃を仕掛けてくる彼ら。
もし、あの場に「自分」がいれば、それは同じようにしたのかもしれない。
――だが。
(――俺は、違う)
憤りとも思えるその言葉を胸中に吐き出し。やたら薄らと笑いを浮かべている、人形を出現させているであろう少年を正面から真摯に見据えた。
それは決して怒りだけで語ることは出来ない、彼の強い、想い。
流れてくる空気で、見据えられた少年が、その視線の意味に困惑と焦りの色を浮かべているのが感じられた。
梛織自身も周りの大人に比べれば、まだまだである事は、百も承知であるが、目前にした少年は、その彼よりも未だに幼いと言う事が、窺い知れる。
――あの子は、誰かと正面きってぶつかった事があるのだろうか。
ならば。梛織は心中でひとつ頷き、再び自分の分身へとぶつかっていった。
――正面切って。
防御の魔術を弾かれたホーディスは、別の空間へとその身体が取り込まれていくのを感じていた。
空間に亜空間を創りだす魔術は、非常に精巧かつ高度なもので。ホーディスでさえも滅多に使う事はない。
足元から、元の空間が蒼一面の床へと変化を遂げていくのを見やり、そして自分の目の前に現れつつあった少年へと視線を移していった。
リーシェから話を聞いた時から、頭の隅にひっかかる事があった。
そして、それが彼女の心を壊してしまうかもしれない事実に繋がる恐れがあることを感じ取った。
だからこそ、彼はライエルを追ってきたのだ。リーシェと同類、いやむしろ、心が強いだけリーシェより分かりやすいかもしれない、ライエルの行動を読み取るのは非常に容易いことであった。
漆黒の髪に、漆黒の瞳を持つその青年の姿が鮮明に映し出されていくに従って、ホーディスは、唇の端に笑みを乗せる。
「これはこれは。また凄い数ですね」
その空間は、蒼一色の、何もない空間であったのだが、ただひとつ、その少年の後ろの壁だけが、純白の色に染め上げられていた。
――否、その純白の壁と思われる物体は、全て丹念に折られたと思われる折り鶴であった。彼の姿が鮮明になるに従って、その純白に色が刺され、鮮やかさを一層増していく。
赤、緋、橙、緑、深緑、薄緑、桃色、薄紅梅、黒、灰。
「なぜ、わざと取り込まれたんだ?」
その大量の色彩の中から、ひとつ折り鶴を手に取り、姿を完全に現した少年はひっそりと笑う。
ホーディスは、何も答える事無く、ただ笑みを返しただけであった。
・・・ ・・・
普通なら正面に見えるだろう大きな両開きの扉から侵入するであろう所を残念ながら天地がひっくり返っても、本当に素直で純情な好青年であるとは言えない枢は、建物正面を通り過ぎ、右側に曲がった所で、窓の鍵が取れかかっている大きめの窓を見つけていた。
これなら、侵入できるかもしれない。密かにそう確信した彼は、靴裏から少し太めの頑丈そうな針金を手に取り、微妙に空いている窓の隙間からそれをひょっこりと伸ばしていった。
そんな頑丈そうな針金がどうして靴に収められていたのか、なんてことは聞いてはいけない。
何だか妙に手慣れた手つきで針金を動かし、あっけなく取れかかっていた鍵をささやかな音を立てただけで外した彼は、静かに窓を横に動かして開けた。
「よいしょ、と」
小さな掛け声と共に一挙動で壁を乗り越え、窓の枠を越え、反対側の床へと音も無く柔らかに着地した。
きゅ、とビニール質の床が靴底と擦れて、彼の本来の仕事場でもよく聞く音を立てた。その音に床へ目を向け、そして再び前に視線を戻す。
――そこには、闇にほとんど溶けるようにして、ひとりの青年が壁に寄りかかっていた。もし、その壁の隣に部屋の扉の為に穴が開いていなかったのなら、枢は気付かなかったかもしれない。それぐらい、もう半分の闇に溶けるように、気配なく彼は存在していた。
「――お前も、侵入者か」
その言葉と同時に、十メートル程前にいたはずの彼の姿は、ほんの一瞬にして枢の目と鼻の先にと近付いていた。ひゅ、と風を切るような音が、耳に届く。
常人よりも高い身体能力を持つ彼は、その音と共に首を少し捻り、右足を後ろに退く。
ごう、とさらに強い風音。鼻先を青年の右手の拳が過ぎていった。
「侵入者は侵入者ですが、あなた達と闘って無駄に体力を消費しにきた訳ではありませんよ」
攻撃を受けても何ら慌てる事は無く、枢は言葉を紡いだ。その一切慌てる事無く、ただ攻撃を避けるだけの彼に、青年――ヤナは、眉を顰めた。
「では、何をしにきた」
「子供の暗殺者がいると風の噂に聞きましてね。――俺は彼らが属する組織は許す事は出来ませんが、子供は助けたい」
その言葉に、ヤナは、一歩跳躍して後退する。そしてさらに眉を顰めた。不審がるかのように。
「――言っている事が矛盾していると思うが」
「そうかもしれません」
正論を突く言葉に、枢はただ苦笑するばかり。それは、間違っている言葉では、決して無かったから。
もしかしたら、この行動は、自らの自己満足に過ぎないのかもしれない。
それでも。彼が行動を取り消す事は、決して無いのだ。
「……それでも、私はまだ幾つもの未来を持つ、子供達には笑っていて欲しいんです。あなたが、子供の部類に含まれるかどうかは何とも言えませんが――」
「俺は、さすがに子供の時代は過ぎただろうな」
青年は緩やかに首を横に振る。そして、不意に、無表情になると同時に、足が地をふわり、と離れた。ヤナが、眼前から風のように掻き消えた。と、上方に気配を感じる。
咄嗟に頭上の定位置にいるバッキーのソールを右に放ち、自らは前方へ転がり込んだ。
べたり、とソールが壁に貼り付き、枢が前に五十センチ程移動した。ぶわり、と背中に風を感じる。その一瞬後に、ヤナの拳が、今は誰もいない床へと激突した。
ごおおん、と突飛な衝撃音が耳をかすめる。振り返ると、そこには床の一部が無残にも破壊され、下の基礎が見え隠れし、コンクリートの欠片がさらされていた。
今を生きている枢には、魔術の類のような、非科学的なものは分からなかったが、それでも、余程ヤノの拳が強くない限り、常人の力では床を破壊する事は不可能であった。
ペタペタ、とソールが枢の背中を登っている。
微かに、遠くで何か銃声のような乾いた音と、何かが壊れる音が、聞こえてくる。
それ以外は近くに建物はない。音は少なく、静か過ぎると言っていいほど、静寂が空間を占めていた。
そういえば、周りはほとんど雑草だらけの荒れた、広い空き地であった。もしかしたら、この空き地も映画の中から現れてきたものなのであろうか。
研究施設。周りは、空き地。
まるで、何も寄せ付けないかのように。
ふと、疑惑が彼の頭の隅をかすめた。
「……どうして、反撃しない」
青年は、無表情さに僅かに苛立ちを含めた声で、問うてきた。そしてさらに、左足を軸にして、右足で強烈な前蹴りを繰り出してくる。
「どうして? ――先程から言っている通りですよ」
その蹴りを、文字通り紙一重で身体を右、左にずらして避けつつ、それらに動じる事無く微笑んだ。揺らぎの無い、嘘の無い笑み。その笑みに、ヤナは攻撃の手を止め、その場に立ち止まる。
全ての音が、一瞬消え去った。
「……どうして、……こんな、俺達なんか、に……?」
先程の苛立ちを含めた声は、今や困惑の色に取って、代わられていた。そしてゆっくりと背にある月を振り向いて、仰ぐ。
「きっと、俺だけではないと思いますよ」
「え……?」
「この街には、馬鹿が付くぐらいのお人好しが多いんですよ、今も昔も」
「……」
青年は、顔を半分だけ月から、枢へと向ける。
かつて、自らが傷ついていることさえ、理解できないほどの傷を抱え、それが決して今も全て癒える事のない、闇の深淵を知る者達の真摯な視線が、ぶつかりあう。
「……あなた達が、映画の中でどのような生活をしていたのか、詳しくは分かりませんが、ここでは映画の中より、ずっと多く、そして真摯に協力して下さる人がいるはずです」
その視線と、言葉とに偽りの色は見受けられない。ヤナは、静かに上げていた拳を下げると、ゆっくりと、――その瞳に苦渋の色を浮かべた。
「俺は、どうなっても構わない。……ただ、護らなければならない人が、いるんだ」
心からの苦しさを滲ませた言葉。そこに隠れる事無く溢れ出ている、護る人間としての強さと弱さの色に、枢はただひとつ、頷いた。
「誰が、あなた達を縛り付けているのですか? リーダーのようであるこの人ですか?」
彼は、ポケットにしまい込んでいた、調査した時に作り上げた彼等のプロフィールを引っ張り出し、その内、唯一壮年にさしかかろうとしている、三十代後半程の男性を指差した。
青年は、首を横に振る。
「違う。彼も、俺と一緒の考えの人間だ。――リーダーは、こいつ」
ヤナが指差したその先の人物に、枢は目を見開いた。
「――どうして」
「……俺達は、誰かに縛り付けられている訳ではない。ただ、この世界、この社会に縛り付けられているんだっ……!」
彼の唇から零れ落ちる言葉は、血を吐くような激しさを持った声音であった。
「俺達は、俺達は……この世界、この社会の闇を凝縮した、化け物なんだ――」
・・・ ・・・
「単刀直入にお聞きします。あなた達の身体は、もしや改造を施されたものですか?」
鶴を手に、その場に佇み続けている少年に、ホーディスは世間話でもするような雰囲気で、のんびりと話しかけた。
それに対して、少年の方は「改造」という二文字に、ハッとしたかのようにホーディスを見やる。
「……どうして、そう思う?」
「これでも、魔導師のはしくれ。『違い』くらい、分かりますよ」
「……」
「それに……」
ホーディスはそこで言葉を切って、蒼の壁の天井を見上げた。ふと、笑みが顔の表面から消えていく。
「……」
黙りこくったままの少年の手の中で、折り鶴が命を吹き込まれたからのように、ひらり、と動いた。
・・・ ・・・
ざらり。梛織の右こめかみの横僅か一センチの所を、分厚く、硬い靴底が突風を起こして切っていった。致命傷になる攻撃を避けると同時に、ぐわり、と腹部を鈍い、重い衝撃が突き抜けていく。
「ぐっ……!」
内臓が破裂するかのような圧迫感。そして内部から拡がる、うずくまって呻きたくなるような痛み。それでも、彼は動きを止める訳にはいかない。
応戦の為にくるりと反転して、自分と同じ顔の人形のとび蹴りを避けつつ、回し蹴りを放つ。狙い通り、人形の一人の首筋に直撃、その人形は不意を狙われ、直ぐ傍にある格子の壁に激突した。
どろり、としたどす黒い感情が滲んだ、銀の瞳が梛織をじっと見据える。
自分でないと分かっていても、それはあまり気分の良いものとは言えない。
胸の内に、むかむかと湧き上がる、決して痛みのものではない、本能的な嫌悪感。
――キモチワルイ。
そんな気分でも、勿論相手は止まってくれなどしない。どんなに自分(本体)が止まれと念じても、自分(分身)は攻めの手を緩めない。
「あー、くそっ、いい加減にとまれっつーの!」
抑え切れずに苛立ちを吐き出しつつ、怒りを込めて横に蹴りを繰り出す。しかし、感情のせいか、間一髪でそれは空を切った。
代わりに感じる、鈍い、辛うじてギリギリまで避けたが、避けきれなかった人形の右足が胸を掠める時の音と、肋骨への鋭い痛み。一瞬、息が詰まる。
「……!」
その動きを止めた一瞬で、攻勢が逆転した事を悟った。再び脳の位置を狙った、ハイポジションの高さの蹴り。自らと同じ靴がゆっくりと近付いてくる。
妙に、時間がゆっくりと感じられた。自分の頭脳へ、じわりと吸い込まれるかのように分身の足が動いているのが、はっきりと見て取れた。
人が死ぬ寸前とは、こういう時間が流れるのか。頭の片隅で、朧にそんな事を考えていた。
「梛織ッ!」
雷が落ちるかのように、鋭い、聞き慣れた声が梛織の脳をひっぱたくかのようにして揺り起こした。
そして、ぐい、と人外の力で強く脇腹を引っ掴まれ、引っ張られる。
ドッ、ゴッ! 頭を同じ引っ張られた腕で強く押さえつけられ、地面に膝をつく格好になった梛織の頭上で、鈍い、嫌な音が響いた。
「が、はっ……!」
ごぽり、と続く音。梛織の眼前に、黒い、赤の雫がぽつりと落ちるのが見えた。それは床に落ち、小さな染みを作る。
その雫で、彼の頭で一瞬の内になにが起きたのかが氷解された。
「シャノン! ……っ!」
弾け飛ぶかのように立ち上がった梛織の目に映った、友人の姿に思わず息を呑んだ。
シャノンは荒い息をつき、口元を空いている手でぐいと拭っていた。その唇の端からは、血の筋が幾つも幾つも零れ落ち、拭いきれなかった鮮血はぽつぽつと彼の黒のシャツに、じんわりと染みを広げつつあった。
そして拭っていたその手は、口から溢れたと見られる鮮血で、朱に染まりきっていた。掌からも、ぽつり、ぽつりと血の雫が床へと落ちていく。
明らかにそれらは、梛織を助けに入った際、本来ならば彼に直撃していた蹴りが、彼を助ける際に無防備になったその身に直撃した時のものであった。
シャノンは梛織を見やると、にや、と不敵に唇を釣り上げた。
「なかなか効いたぞ、お前の蹴り。……貸し一、だな」
「……何かそう言われると、ありがたみを感じられないんだけど」
梛織はぼそりと呟きつつ、くるり、と振り向いて、前に現れた自分の人形を何の躊躇いもなく、蹴り飛ばした。
少し向こうで、ライエルが自分達と同じように傷つきながらも、決して怯む事無く、銃を両手に、自分と同じ、いわば分身に向かっているのが見えた。その動きには、露ほども迷いは見られない。
今なら、何となく彼女が迷わずに向かっていける理由が、分かった気がする。
何故なら自分も、もう迷う事はないだろうから。
限界まで引き伸ばされた動体視力が、梛織に致命傷を与えようとしている人形の動きを捉えた瞬間、一瞬にして幾パターンもシュミレートしていた戦闘の動きを吹き飛ばした。
気が付いたら、身体が全て勝手に動いていて。彼の代わりに肋骨にまともに蹴りを食らい、肋骨の何本かが折れて肺に突き刺さった、その時に味わった凄まじい、針を飲み込むかのような痛みを受けてやっと自我を取り戻した。
次の瞬間、器官に生暖かい違和感を感じ、そして鮮やかな鮮血が口から溢れ出た。息が出来なくなる程の痛みが断続的に襲う。
同時にその痛みが、今まで眠っていたかのように脳を覚醒させるような感覚を味わわせていた。 そして、自分の前で振り向いた友人の顔が驚愕に彩られるのを見て、やけにホッとする感覚を覚えていた。
何を自分は馬鹿みたいな事を考えていたのだろう。軽口を叩きつつ、後ろを振り返り自分に向かって移動してくる、自分と同じ身体をした人形の動きを一瞬の内に頭に入れる。
こんなのが、自分である筈なんてない。
何故ならば。
これが、俺だから。
猛然と攻撃を再開したシャノンと梛織であったが、やはり内臓にダメージがいっていると言う事もあり、初めのように機敏な動きは不可能になっていた。
人形達は、本物の二人よりかは能力が低いものの、こうなってしまってはどちらの方が強いのか、判然としなくなってしまっていた。しかも向こうはやたら数が多い。
少しずつ、シャノンの腕や肩を銃弾が掠っていくようになり、梛織の皮膚に、摺れたような赤い痕が目立ってきていた。
それを見計らってか、傍観を決め込んでいた少年と少女が動き出す。
少女は手に銃を構え、少年は鮮やかに跳躍し。
その動きをシャノン、梛織、そしてライエル達全員が捉えてはいたものの、そこまで気を回す事は不可能な状況であった。
少女の銃から銃弾が飛び出す。それは真っ直ぐに、ライエルを狙っていた。
ライエルは今、二人の攻撃を受けていた。その場から動く事は出来ない。
「――!」
その時だった。
一閃の鋭い光が、銃弾に真っ直ぐに直撃した。僅か遅れて、カキィィィン、と乾いた、光に似た性質の鋭い音がその場に響く。
さらに遅れてもうひとつ、一閃の鋭い光が宙を真っ直ぐに飛ぶ。
目に鮮やかに光の残像が残っていく。
「うわっ!」
それは人形達を生み出していると見られる少年の手にあった、何らかの携帯ゲーム機のような機械に、真っ直ぐに突き刺さった。
銃弾は弾道を逸らされて天井に激突し、格子にぐるりと囲まれたその亜空間は、一瞬にして紙ふぶきが舞うかのごとくに崩れ落ちた。
彼らと向き合っていた、自分と瓜二つの人形が、跡形も無く空に溶け去る。
三人は、最初に足を踏み込んだ、月光と闇に大部分を支配されている玄関ホールに戻ってきていた。
「ねえ、ちょっとこれ、どういう事?」
彼等の後ろから不意に声が聞こえ、三人は反射的に振り返っていた。
――そこには。
片手にナイフ、もう一方の腕には、肩から提げられたクーラーボックスのようなものを抱えて不審そうにこちらを見ている、リカの姿があった。
・・・ ・・・
「ちょっと、何でここにシャノンと梛織がいる訳? 何でそんなにボロボロなのよ」
明らかに場違いの質問を繰り出してくるリカに、梛織とシャノンは眉を顰めた。ライエルは首を傾げて成り行きを見守っている。
一度、攻撃を繰り出してきた少年少女は突然現れた闖入者に、元の位置まで後退していた。
「お前こそ、何でこんな所にいるんだ?」
どうやら助けてくれたらしい事はありがたいが、とシャノンは子供達の動きをちらりと気にしつつ問うた。
「何でって、見ればわかるじゃない。ケーキの配達よ。ここ田中さんちじゃないの?」
「あーなるほど、ってひと目見れば分かるだろっ!」
真面目に聞いているらしいリカの言葉に、即座に梛織が力一杯否定する。リカはさらに小首を傾げた。
「あら違うの? おかしいわね、どこでどう間違えたのかしら」
「……そういう問題か……?」
二人は思わず脱力する。まあいいわ、とリカは言いつつクーラーボックスを下ろし、部屋の隅に丁寧に追いやった。
「それで、何であなた達は闘っているの?」
俄かにリカの瞳が鋭さを帯びていった。その姿に、ライエルがそっと近寄っていった。
どうやらこの場所が田中さんちではない事をようやく理解したリカは、近付いてきた細身の強い眼の力を持つ女性――ライエルに、この場所の事、そして彼らが何をしているのかについて、簡潔な説明を受けた。
「暗殺者、子供、ね……」
二つの単語を唇に乗せながら、遠目で、油断無くこちらの様子を窺っている、少年少女を見やる。その瞳には、冷酷な、「人」を「物」という対象で見る、暗殺者としての特有の輝きが見られるかどうかを確かめたのだが、彼らにそのような瞳の色は窺えなかった。
その瞳は、思春期特有の、深い悩みと、そして孤独さを秘めた瞳。
――この一番感受性の強い時期に、人を殺すのを強いられるその辛さは、いかほどのものなのだろう。
彼女の脳裏に、ぱし、と閃光が奔った。それはリカの、かつての記憶を鮮やかに映し出す。
その、鮮やかさに思わずよろけそうになるほど、目がくらんだ。
それは、彼女にとって、痛く、哀しい、ひとつの記憶。
――物陰から見届ける、この手で消されていく幾つもの、命。
人の命は、途方も無いくらいの重さのはずなのに。その感覚さえ、麻痺していくような気がしていた。
街を歩く度にすれ違う、自分と同じ年代の女性達。
キラキラ、眩しい、甘く可愛い砂糖菓子のような笑顔を見せて歩く彼女達に、気が付いたら立ち止まり、振り返ってその姿を追っていた。
彼女たちは、眩しく見えた。光り輝く、凍えきった太陽を溶かすかのようだった。
きっと、その時に感じた凍えるような寒さは、自分が極寒の地にいるからだけではないのだろう――。
かつての過去の再来もあって、リカの心には彼らに対する、慈しみのような同情と、かすかに親しみが生まれていた。
そして、それだけではなく彼らに対する怒りの心も。
何故なら、それは――。
「……何とか、武装を解除して、きちんと彼らと話すことが出来れば良いのだけれど」
「……そうだな」
リカの言葉に頷く三人。リカは、どこからかナイフを取り出して、それの重みを確かめるかのように握り締めた。
四人は、無言のうちに目配せをし合う。
そして、四人は同時に足を踏み出した。それぞれ、無言の内に交わされた役目を果たす為に。
梛織は、左足で柔らかに踏み込んで跳躍すると、先程のゲーム機のようなもので人形を出現させ、操っていた少年の前に飛び込んだ。少年は、訓練を受けたと思われる素早い動きで銃を抜きつつ、彼の蹴りが激突する直前に右腕を上げて防御、受け流していく。
隣で、僅かに違う銃声の二重奏。シャノンとライエルとで、その手に銃を構え、幾つも少年、少女達の太腿から下を狙って撃ち込んでいた。もちろん相手もただ避けているだけではなく、銃を手に応戦してくる。
連射による銃撃が飛び交い、あっという間に硝煙の匂いが立ち込めた。クリアな視界が遮られた気がする。
少女達は、さらに身軽な動きで床を蹴りつつ、子供とは思えない慣れた手つきで銃の照準を素早く合わせていく。シャノンは銃口を尋常でない視力で読み取り、ギリギリの所まで引きつけて避けていった。
そして、その場から忽然と消えたリカ。彼女は完全に気配を殺し、窓から落ちる月明かりさえ届かない暗がりを素早く駆け抜け、彼らとは反対側の、大きくて太い柱の陰に身を隠した。
そう、今攻撃を仕掛けている彼等は、言わば囮という名の扇動役。
真の攻撃を仕掛けようとしているのは、リカであったのだ。
身軽に飛び込んできた梛織の額の位置に、銃口が突きつけられた。
「おっと!」
彼が言葉と共に頭を下げると同時に、銃声が響き渡る。間一髪で交わした梛織は、そのまま膝を使って少年の脚部を狙った。
シャノンに向けて銃を連射していた少年――ビルは、銃を片手に、跳躍して迫ってくる。どうやらシャノンに狙いを定めたようであった。
しなやかに跳び、彼に銃口が向いた。至近距離まで近付いた所で、シャノンは唐突に、屈みこむような仕草を取った。銃を握っていない手をブーツへと伸ばす。
その一瞬の内に、銃弾が背中を通り過ぎていった。寒気のような、皮膚が粟立つ感覚。鳴り響く銃声。
「!」
ほとんど目と鼻の距離まで近付いていたビルが、言葉にならない声を上げて、後ろに上体を反らした。その上体の真上に、鋭い、刃物が空を切る音と共に閃光が通り過ぎる。
シャノンの空いていた筈の手には、鋭利ながらも、シンプルで美しい、流れるようなラインが特徴のナイフが握られていた。
ふと少年に対し、シャノンは微笑む。堂々たるまでの、美しさと楽しさと余裕を込めて。
その瞬間だった。
ひゅ、とひとつの風切り音と共に、三つのナイフが同時に虚空を切り裂いた。リカは陰でそのナイフの行く先をじっと、見守っている。
三つのナイフは行く先違えず、それぞれ少年、少女達が持っていた銃に真っ直ぐに激突した。
彼等の手から鋭い音と共に小さく火花が上がり、銃が零れ落ちていく。
それを信じられないといった瞳で見つめる彼ら。
「何の為にお前らが何してるのか知らないけどもさ、あんまりおいたが過ぎるのはどうかと思うよ、俺は」
梛織は少年に真摯な表情を見せた。再び見せられた表情に少年は戸惑い、そしてぷいとそっぽを向く。
それでも彼は少年を見限る事は無く、真摯に見つめ続けている。
その時、今まで無表情と無言を貫き、今も無言で痺れる右手と、地面に落ちた銃を見つめていた少女が、口を開いた。
「こうしなければ私達は生きていけなかった。私達は、生まれてきてはいけない存在だった。……あなたには分かるの? この社会の闇に生まれて、生きる事を拒否された私達の気持ちが」
彼女からは、ちらりと孤独の陰に、認められない者達の身を滅ぼしてしまうかのような、痛い灯が点っていた。隣にいた少年も、皆。
その言葉に、シャノンはふと意地悪い表情で微笑む。ライエルも目を細めた。
「そうだな、じゃあ俺が今まで生き抜いてきた中で味わってきた、この痛みは分かるのか?」
「私の、目の前で大事な人が消えていく、この喪失感は分かるの?」
「そんなの……」
少女はちらりと下を向く。その表情には、僅かに困惑の色が取れた。
「そんな他人の痛みを分かってくれなんて、ガキの言う事だな」
「なっ……!」
少女がはっきりと気色ばむ表情を見せた。
その時、後ろの柱の陰から歩いて出てきたリカは、真剣な表情を見せていた。
「それにね、誰が生まれてきてはいけない、なんて決めるのよ? 誰が生きる事を拒否するのよ。……あなた達は、生きているじゃない」
かつて、暗殺者として、同じ境遇に在った事があるからこそ、厳しい言葉を放つ。だが、その厳しさは、彼等の身を案じ、救い出したいと心から願っているからこそのものである。
「それに、こんな悪い事に手を染めなくても、幾らでも生きていけるはずよ。あなた達なら」
少女は、リカの言葉についに、くるりと振り向き、彼女に掴みかからんばかりの勢いで詰めよった。
常に共に行動しているビルでさえ、驚きを覚えずにはいられない勢いで、彼女は半ば叫んでいた。
「なら……! どうすれば悪い事から抜け出せるんだ……? どうすれば、善いと社会から認められるんだ? ……こんな皆から狙われて死ぬと決まっているんだったら、どうして、私達は生まれてきたんだよぉっ!」
絶叫がその場にこだまする。彼女の目の縁は、うっすら赤く染まっていた。その言葉を感情を真正面に受け止めるリカ。
――彼女は、唐突に華やかに笑みを浮かべた。
「どうして生まれてきたって? そんなの決まっているじゃない、ハッピーになる為よ」
「……え?」
唐突な表情と言葉に、呆けたようにリカを見上げる少女。リカは、自信満々に、腰に手をやって、さらに続ける。
「その証拠にホラ、この私を見なさいよ。ちょっと昔は殺し屋やってたこともあるけど、今はとってもステキなパティシエに生まれ変わっているんだから! ……そこにいる梛織なんか、わたしのケーキ食べたら脳天がフッ飛びそうだって言ってんのよ」
「……ほんとに……?」
少女は、ぎこちなく首を傾げて梛織を見た。
「うーん……、そうだな、本当に脳天が吹っ飛ぶかと思ったな、うん」
笑みを浮かべてみせる梛織であったが、明らかに笑顔が引き攣っているし、焦っているようにも見える。隣で、シャノンが堪え切れない様子で吹き出した。
「ちょっ、シャノン、笑うなって!」
さらに慌てた様子で、彼を肘でどつく梛織。それでも一度浮かんだ笑みは中々収まりそうになかった。
そんなこんなでようやく笑みを引っ込めたシャノンは、少しだけ、遠くを見るかのような目つきになった。
「まあ、尤も……泥沼どころじゃない生き方をしてきた俺からすれば……そう悩めるだけ贅沢とも思えるがな」
悩む暇も、振り返る暇もなく今まで奔り続け、そしてこれからも奔り続けるであろう彼の言葉は、それだけの重みを持っていた。
「……」
「私は、ただ、真実が知りたいの。あなた達がここにいる、本当の理由を」
だって、そうじゃないと、憎む事も、赦す事も出来ないじゃない。
ライエルの苦渋が混じった言葉に、今までずっと口を閉ざしたままでいたビルが、一歩前にでて口を開いた。
「俺達は……」
・・・ ・・・
「コントロール・ドール・システム……? どういう意味なんですか、それは」
青年の口から出た未知な言葉に、枢は眉を寄せた。青年は説明の為に、何秒間か口を閉ざして考え込んでいる様子であった。
「……どこから説明すれば良いのかが難しいが……この施設は、俺達の映画の中の国が秘密裏に運営している研究所でな、そこに親に捨てられた子供達、親に死別されて、親戚をたらい回しにされたあげく、捨てられた子供達が保護という面目で集められた」
「……」
枢は冷静に自分の中に湧き起こる怒りを分析しながら、目を細めた。おそらく、青年も自分と大差ない歳から考えて、その子供の一人であったのだろうと予測が付いたからである。
「国の政治は綺麗事だけではやっていけない……それが世の常。俺達は、その闇の部分の一翼を担うべく、頭の部分を魔法みたいなものと、現代の科学力を結集させた手術で改造された。……視力の増強、筋肉の最大瞬発力の増加、五感全ての鋭敏化。そして……身体と感情、それらの全てを一人の人間によって完全に制御化できる装置も付けられた」
彼は、そう言って、心臓の部分を軽く叩いた。
「制御化……?」
「そう。ここは、俺達の暴走と反乱から科学者を失わない為に、完全に無人化されている。暗殺などを行う計画が実行される時は、リーダーの脳に直接信号が送られ、その信号によって、俺達に指令が下される。リーダーはもともとその為だけに、全ての他の感覚を排除されてしまっているからな。俺達はその時、完全に暗殺者、闇で働く者として全てを制御され、国の為に働く人形となる。……尤も、本当に国の為かどうかは分かったものじゃないが」
青年はそう言って、両手を見下ろしつつ淡く、儚い笑みを浮かべた。かつては自分も浮かべていたかもしれないその表情に、自分の心も痛むように感じる。
その時、ふと彼が手にしていたリストに、明らかに連れてこられた子供と一線を画している人物がいることを思い出した。
「この方は……?」
枢の指差した人物の写真に、ヤナは、ああ、と一言頷いた。
「こいつは、ある日突然ふらりとやって来たんだ。それで俺達に向かって、何とかして俺達の呪縛を解いてやるって言い出してな……。ほら、俺達はこんな境遇だから、最初は馬鹿にして信じていなかったんだが……奴は研究施設を探り続けて、ついに俺の爆弾の設定を解除する事に成功した。それで、本気なんだなと、少しずつ受け入れるようになったんだが……」
青年の言葉に、枢は引っ掛かるものを感じる。再び目を細めた。
「爆弾? 呪縛? どういう事ですか?」
「簡単さ。俺達が暴走したり、リーダーの意志とは違う行動に走った時の為に、その制御装置には自爆装置が付いている」
「な……」
枢はそのあまりの非人道行為に、絶句していた。青年は、そんな彼の様子を気に掛けるでもなく、話を続けている。
「その爆弾は、随分複雑に出来ているらしくてな。しかもひとりひとりで解除方法がまた違うらしい。解除には膨大な時間と、そして膨大なお金が必要だった。あいつの研究室を見てみたが、やたら精巧な機械を組み立てていたよ。……俺達は、ささやかな未来の希望に、掛けたんだ」
「……だから」
枢の言葉に、静かにヤナは頷いた。
そう、だからお金が必要だった。幾らかお金は得ていたが、それだけでは足りなかった。だから、制御されての暗殺の他に、青年自らも、幾つも幾つも手を下した。他の金のない孤児院の弱みに付け込んで、彼らを犯罪集団に巻き込んだ。その為に、かなりのお金を手放さなければならなかったが、その代わり、今までの何倍ものお金を得る事が出来た。そして、元より彼等は国では抹消された存在、であったから、警察の手を掻い潜れたし、他に犯罪集団を作ることによって、他の闇の集団からの追求の手も逃れる事が出来た。
映画の中では、それでも良かった。ただ、国と社会と繰り返される連鎖を恨んで憎んで、それを糧に生きていく事が出来た。
「でも……銀幕市にある日突然、俺達は現れて……」
最初は、戸惑って、びっくりして。おそるおそる、研究室の窓から、違う風景を眺めて。
そして、ここが自分達の生まれ育った国では無い事に、皆が喜びの声を上げた。しがらみから逃れる事が出来た、と。
ひとりの少年が、笑いながら市役所を目指して研究施設から走り出した。
何が原因かは、未だに分からない。ただその時彼らが目にしたのは、どぉん、という轟音と共に、燃え上がる赤々とした炎だった。
その時、リーダーは、普段閉じたままの目を見開いて。
ただ、一筋の涙を流していた。
青年はそこまで語って、苦々しげに瞳を閉じた。
「やはり、俺達は所詮、社会の闇でしかないのだろうか……俺達は悪でしか、生き続ける道はないのだろうか……」
彼の目の縁が光っていた。それを眺め、枢は言葉を紡ぐ。自身のかつて味わった、痛く、苦く、そして哀しい想いをゆっくりと反芻するかのように。
「……闇夜でも、良いじゃないですか。闇が無ければ、誰も光を知る事さえ出来ないのですから」
ゆっくり紡がれた言葉に、青年は意外だと驚きに満ちた表情で、瞳を開いた。枢は微笑を浮かべて、続ける。
「それに……、物事の善悪を絶対的に正しく知る者はいません。規範たる法が存在するくらいですからね。……あなたは生きたいが為の希望の光がそれだった。それが、法に反するだけだった。それだけのことではないのですか」
「……」
青年はただ呆けた表情で、穴があくかと思うほど、枢の顔を眺めていた。
辺りは、痛いほどの静寂が広がっていて。辺りは青白い光に包まれていた。壁も、天井も、床も、彼の顔も、枢の顔も、闇の中には呑み込まれていなかった。
やがて青年は、ゆっくりと両手を広げ、そこにある光を掬うかのような動作を見せる。
ぽつり、と一滴、水滴がその掌に落ちた。
「この光も、……俺達がいなければ、誰も存在を知る事が出来なかったのだろうか……?」
枢はゆっくりと、だが確かに頷いた。
「……リーダーの下へ案内しよう。だが覚悟しておいた方が良い。あいつは、俺達の中でも、一番大きな傷を抱えている」
ごし、と目元をこすり、その次の瞬間には見事に普段の表情に戻った青年が、手で彼等の向こうにある、廊下に光が漏れているドアを指し、歩き始めた。
・・・ ・・・
「何だそれ? そんな事が許されるのかよ!」
彼等の呪縛の内容を知って、憤った梛織が我慢できずに叫んだ。彼等に怒りの矛先を向ける訳にもいかず、もやもやとした気分が彼の心の内に残る。
「胸糞悪いな……」
シャノンはただそれだけを呟き、押し黙る。だが尋常でない怒りを抱えている事は、彼の瞳の鋭さから窺い知れた。
「でも、どうして誰も頼らなかったのよ。銀幕市なら……」
リカの言葉に、少年が痛々しく微笑んだ。
「分からなかったんだ。ここの人達が、かつての俺達をここに追いやった人達みたいな人なんじゃないのか。多分、リーダーが一番それを恐れているんだと思う」
「だが、それでもお前らをこのまま野放しにする事はやはり許されん。また悲劇の連鎖が生まれるだけだ……」
シャノンはそうして手にしていたナイフを月光にかざした。鋭利な、青白い輝き。
その鏡のように周りの光景を映し出しているナイフの腹に、ふと彼が手に掛けたあの栗のような色の髪が映し出された気がして、彼は素早く周囲に目を走らせた。もちろん、そこにはあの少年はいない。彼はフィルムに還っていったのだから。
だからこそ、少しでも自分の行動が……組織を壊滅させる事が、あの少年の手向けになるのならば。彼の覚悟は、揺らぐ事はない。
「僕達は、やっぱりそっちに行く事は出来ないのかな。善の世界に」
少年の何もかも諦めたかのような笑みに、梛織は眉をひそめた。
「どうして何もかも決め付けるんだ? まだ人生十何年しか生きていないのに、人生とか、善悪なんて決め付けるのは勿体無くねえか?」
「……そうよ。それに、出来ないなんて言うもんじゃないわ。まだやってもいないんでしょ?」
「……」
二人の言葉に、顔をゆっくりと上げる少年。傍らでそれを聞いていた少女が、意を決したかのように、ぐっと拳を握った。
「……リーダーの心を取り戻せれば……」
隣でビルもひとつ頷く。
「そうだな。きっとそれしかないだろうね」
「ならば、そのリーダーとやらの部屋に案内するんだ」
シャノンの言葉に、彼等は走り出した。彼の言葉は、精一杯の譲歩であったのかもしれない。
――もしこれでこの組織が同じ道を進むのであれば、その時は――。
彼も先に走り出した周りの面々を一瞬見、そして走り出した。
静寂の中に、何か電流が流れるような不思議な音と、そしてカチリという小さな音が響いた。
・・・ ・・・
「やはり、脳への改造か……」
ホーディスが少年から聞いた話に、ふむ、と頷きつつ呟いた。
辺りには、翼が折れたかのように、幾つもの極彩色の折り鶴たちが床を満たしていた。
少年も、ホーディスも、先程のように無傷ではなく、あちこちに幾重ものどすぐろい血筋が流れ、亜空間で行われていた、戦いの凄まじさを物語っていた。
「……やはり?」
やや息を弾ませてその場に戻った少年は、彼の言葉に一抹の疑問を感じ、その言葉を反芻する。
だが、ホーディスはただ微笑むだけであった。
そこに、僅かながらも一片の哀しみを覗かせて。
「さあ、行きましょう」
その代わりに、彼は少年を促した。
彼等を操る、リーダーの下へ。
・・・ ・・・
ドアを開こうとした時、彼等が歩いてきた反対側の廊下から、バタバタと幾重もの足音が響き渡ってきた。そして、闇からぼう、と、何人かの少年少女達と、青年たちの姿が浮かび上がってきた。
「ビル」
青年が、少年の一人の名を呼びかける。少年は、枢の姿を見て、僅かに身を強張らせたが、そこにヤナの姿があることを知り、ほっと表情を緩めた。
「あら、あなたもこの研究所にいるの?」
「違いますよ」
リカが、初対面であるらしい枢に話しかけた。やや眉根を顰めて、枢は反論する。
「ふうん……枢、ね。私はリカよ。リカ・ヴォリンスカヤ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
初対面であろうと気にせず、ずけずけと話しかけてくるリカに、何とも言い難い、非常に微妙に嫌そうな表情を浮かべて枢は言葉を返した。
「ここが、リーダーの部屋だ」
青年がそう言いつつ、ドアノブをゆっくりと回して扉を開けた。ぎい、という音と共に白い光が廊下に広がっていく。青年に続いて、彼等も足を踏み入れていった。
「……!」
そこは、何もかもが、病的にさえとも取られる程の白い部屋であった。光沢を放つ白、白、白。それはいかに、今までの部屋が暗かったのかを思い知らされるかのようであった。
そして、ベッドの脇には、ひとりのひょろりとした長身の少年が佇み、こちらをじっと見つめてくる。そこには諦めと哀しみの表情が浮かび上がっていた。
ベッドには、ひとりの少女が眠っていた。ただ、規則正しい呼吸を繰り返して、その場に眠っていた。彼女の頭には、幾重ものケーブルと思わしきものが繋がれ、隣にある白い、ベッドよりやや高めの長方形の箱に接続されている。そしてベッドの前には、点滴が三つ、彼女の腕に繋がれ、その内のひとつがぽつり、ぽつり、と規則正しい音を立てていた。
ただ、病人のように眠っている少女なのに、彼女の体からは、魔物を思わせる、薄ら寒い気配が流れ出していた。それは、彼等が思わず息を呑みそうになる程の強さで。
少年は、静かに目を伏せる。
「……この人が、俺達を操っているリーダーです」
そして、静かにベッドの上で眠っている少女に目を向けた。少女は、一切の表情を見せる事無く、ただ安らかな顔で目を閉じていた。
「起きて……」
「無駄だ」
彼等は少女に呼び掛けようとベッドに向かおうとするが、少年の静かな、多分に諦めを含んだ声によって遮られる。少年は静かに首を振った。
「彼女はあの手術によって、基本的に生存に必要な能力と、一部の感情以外は、全てその動きを停められている」
「そんなの、やってみないと分かんないじゃない!」
リカはキッ、と少年を見据えると、ベッドへ向かい、少女に声を掛けた。その時、彼等がいる部屋に、二つの足音がパタパタ、と近付いてきた。
反射的に後ろを振り返ったシャノンと梛織、枢の目に入ったのは、ホーディスと少年であった。彼らはやや息を弾ませながら、部屋に足を踏み入れてきた。
「彼女が……」
「ああ、そうだな」
短い会話を交わし、ホーディスもベッドへと向かう。梛織は少女の頭に繋がれているケーブルの異様な光景に、ただ、その場で目を瞠っていた。枢は、そのケーブルや点滴を医師としての目で、検分しようとしているようであった。シャノンは、ライエルと共にその様子をじっと見守っている。
少女の近くで、ホーディスは小さく指先に緋の光を出し、それを静かに彼女の口元目掛けて放った。ぼう、と人魂のような光が彼女の中に吸い込まれていくが、何ら変化は起きない。
「……気つけのような魔法を掛けてみたのですが……」
それでも、先程からずっと彼女の顔を見ていたリカと、ひょろりとした少年は、彼女の眉がほんの僅かに動いたのに気が付いたようである。
「!」
「ねえ、起きてっ!」
そして。
少女は、まるで機械の目を開くかのごとくに、唐突にぱちりと目を開いた。そして機械的に頭を動かし、部屋の中を眺める。蒼い瞳が、彼等を見据えた。
「!」
少年達は、久しぶりに彼女が動きを見せた事で、驚きに目を瞠り、呼びかけていたリカや、ホーディスは、喜びに顔を上気させた。
だが、心の傷を測ることが出来たのなら、もしかしたら気付いたのかもしれなかった。
彼女がこのような状態になるまでに受けた心の傷は、ここにいる誰よりも、深いことに。
そう、そこに見知らぬ「オトナ」がいるだけで、全てを拒絶してしまうほどに。
「きけん、危険危険きけん……! 怖い、怖いコワイ……!」
その唇から、未だ幼さを残した、だがどこか機械的な言葉が紡がれる。
彼女と「繋がっている」彼等の脳裏に、浮かび上がる、様々な人間が起こす「闇」の中の、様々な行為。
鈍器で殴られて死んでいく人間。刺されて消えていく命。撃たれて倒れる人の姿。燃えていく家。沢山の男とそれに囲まれる女性。どこかの施設の前にうち捨てられた子供。沢山の子供にたかられる、ひとりの子供。ビルの屋上から飛び降りる人間。重りをつけ、水の中に沈んでいく人。凄まじい、赤く黒く変色した傷。手首。腕。足。周りに散らばる、沢山の薬。何十個もの薬を一片にあおる女性。酒にひたり、妻を殴る夫。子供を尋常でない力で殴る、親。走っている子供を、車で追いかける青年。寄ってたかって、皆で同じく薬を吸う、青年達。注射で打つ青年。
――誰も信じられない。信じたくない。
「ウ、ワ、ワアアアアアアアッ……!」
少女は横になった体勢のまま、意味が取れない叫び声を上げた。今まで脳裏のイメージを振り払うかのように耳を塞いでしゃがんでいた少年のひとりが、ハッと立ち上がって駆け寄る。
「大丈夫、リナ! 大丈夫だから、何も怖いものはないから」
必死に髪を梳き、宥めにかかるが、少女の叫びは止まらない。
それを見ていた青年が、不意に枢の肩を押した。
「もうこのままでは、俺達は爆発する。さあ、巻き込まれないうちに逃げるんだ」
強い力で押されるが、枢は首を横に振った。
「子供達が死ぬ所など見たくもありません。我侭で申し訳ないのですが、譲れませんよ」
「ちょ……!」
彼は青年の手を押しのけると、未だに呻き声を上げ続けている少女の元へと向かった。
入り口に「研究室」と手書きのプレートが掲げられているその部屋には、ひとりの男性が沢山の機器に囲まれながらも、暗がりの中で、必死に手前に浮かんできたモニターの文字を追っていた。
「やはり、全員と言うのは難しいか……」
男は、絶望的な呟きと一緒に、そのモニターのスイッチを消そうとする。
その時、そのモニターに「警告」の二文字が浮かび上がり、続いて、それらに属している機器が全て臨戦状態に作動を始めた。
それを見た男の瞳が、哀しげに光を放つ。モニターに再び向き合い、そしてキーボードをかちゃり、かちゃり、と操作していった。
「皆と一緒に生きたかった……」
やっと見つけて。
不審な目で思い切り見られたが怯む事無く。
どうせなら、やりたい事が一杯あった。
一緒にこんな忌々しい所を抜け出したかった。
どうして、そんな当たり前の事が、叶わないのだろう。
「……ヤナ。ここに残る者達を頼む。僕は……」
助けられなかった者達と共に、飛んでいくから。
彼がその言葉を唇に乗せた瞬間、彼の心臓は粉々に引き裂かれ、そしてそこから炎が噴き出した。
その身体が、一瞬にして炎に包まれる。
どぉん、と不気味な音が重なって響き渡り、その場にいた少年と少女、四人の心臓辺りの場所から炎が一気に噴出した。
「……!」
ヤナは、未だ爆発していない、彼等のリーダーでもある少女に駆け寄ると、その頭に繋げられているケーブルを必死に引きちぎっていく。
「そんな……、こんな事ってあるのかよ……!」
思わず唇を噛み締めた梛織に、先程ゲームを操っていた少年が彼に近づけるギリギリまで近付いていった。
「……」
ただ、少年は口を必死に動かして、微笑みを浮かべて。そしてゆっくりと前のめりに倒れていった。じわ、と炎が床を焼いていく。
「……とにかく、一旦脱出だ」
シャノンは目の前に広がる炎に、呆然としたままその場に立ち竦んでいる梛織の腕を強引に掴んで、その場から走り出した。
「……あんなに、人の命が軽く扱われる事があっていいのか……?」
未だに衝撃から抜け出せないでいる梛織を彼は横目でちらり、と見やる。そして再び前を向いて走り続ける先を見据えた。そこに、彼の答えがあるかのように。
「……残念ながら、それがこの世の常だ。奴の命を重んじるなら、梛織がその記憶をいつまでも留めてやるといい。人の命は途方もなく重いと俺は感じる時があるがな」
そして、それが……。
シャノンの脳裏にふと掠める、大切な記憶の欠片。彼はその記憶が持つ、途方もないくらいの懐かしさに、思わず目を細めた。
「……そうか。そうだな」
隣で梛織が、静かに頷く気配がした。
少年は、目の前の光景に呆然とすると同時に、重大な事に気が付いた。
どうして、自分は爆弾の直撃を受けていないのか。そして、このリナも。
訳が分からない。おそらく、他の皆が爆発しているのからすると、彼女は錯乱のあまり、無差別に爆破を命じたのだろうと思われるのに。
隣では、リカがヤナを叱咤しながら、少女のケーブルを外し、窓から外へと運ぼうとしていた。それも何だか遠い出来事のように思えた。
「さあ」
ふと、目の前に、ひとりの青年が手を差し伸べてきた。彼はそれを、驚きを持って見つめる。
ありえないと思っていた。父に打ち捨てられた、あの日から。
際限もなく繰り返す、殺戮と犯罪行為が、全て悪夢なら良いのに、と毎日感じていた。
死にたくはなかった。
ただ、消えたかった。
誰からの記憶もなく。
ただ、消えたかった。
一瞬、その青年の姿が、心の奥底で彼が迎え入れてくれるのを焦がれていた、父親と重なった気がした。――いや、あれはマーズか……。
その時不意に、彼は自分が爆弾の直撃を受けていない理由が分かった気がした。
青年はただ、言葉を紡ぐ。
「差し伸べられる手は幾らでもあるんです。それを掴めるかどうかは、あなた次第ではないでしょうか」
その言葉が、ゆっくりと身体の中に浸透していく。
――ああ、そうか。求めていたものは、実は案外近くにあったのかもしれない――。
ただ、気が付かなかっただけで。
彼は、そっと自らの手を差し出していた。
青年の手は、熱かった。
目の前で、ゆっくりと研究所が炎に包まれていくのをライエルは、じっと眺めていた。
「……真実は、見つかりましたか?」
いつの間にか隣に来ていたホーディスが、彼女に話しかけてくる。その言葉に、彼女はひとつ、頷いた。
「ええ」
これからも、私はただ、真実を追い求めようと思う。例え、それがどんなものだとしても。
それが、かつての私の信念であったから。
――いいよね、アルフレッド。
心の中で呼びかけたライエルの目に、炎に彼が微笑む顔が、垣間見えた気がした。
夜の闇は、地平線の縁が少し赤く明るく染まり、今まさに退散しようという頃合いであった。
――もう一枚の地図に記した場所に、研究所への道筋が書かれている。そこには、私たちの、全ての研究の成果が残されている。それは、素晴らしいものであるが、残酷でもあるものだ。
そこにいる、あの少年と、少女は――お前の弟と、妹だ。
許してくれ。俺がそうしなければならなかった。責任者のひとりとして。彼等を差し出さなければならなかった。
だから、ただ願わくば、あいつらを闇の底から、助け出してやってくれ――。
――ただ、一緒に生きたかったんだ。
炎にまみれた所内で、未だ燃えずに残っていた一枚の白い紙が、じわり、と端から黒く、燃えていった。
・・・ ・・・
半ば呆然とした状態で、目の前に上がる炎を青年はただ、眺めていた。彼の腕の中には、一人の少女が再び目を閉じ、ただ安らかに眠っている。
「どうして、こんなにもあっけなく人の命は散っていくのに、未だに俺は生きているんだろう」
みんな、みんな、還ってしまった。ただ、自分が残ってしまった。
決してそれをこの手の中にいる少女の責任にする事は出来ない。彼女を孤独の闇の中から、救い出せなかった自分達の責任でもあるし、人間が抱えている闇のせいでもあるのだから。
「本当に大切なのは、これからじゃないのか? 俺達には、まだまだ先の人生があるはずなんだからな」
「……そうかな」
青年は、後ろから掛けられた声に、ゆっくりと首を傾けた。
「そうじゃないと、俺はこれからもお前らを追い掛け回すぞ。それが、俺のやるべき事、だからな」
先に施設を脱出していた梛織とシャノンが、青年にゆっくりと近付いていった。
「いっそ、その方がスリルがあって良いかもな」
シャノンの言葉に、小さく口の端を上げるヤナ。だが、その笑みは弱々しいものであった。
「……俺達が、赦される時は来るのだろうか……?」
「おそらく、死ぬまで無理でしょうね。勿論、それはあなただけに当て嵌まるものではない、私達全員に当て嵌まるものです」
ぽつり、とこぼした呟きに、ホーディスが厳しいとも取れる言葉を突きつける。
「所詮、消えてしまった命に私達が出来ることは、その命の重さを背負う事。私達の強さは、所詮人の命を消し去る事でしか図ることのできないものです。……だからこそ、その命の重みを背負えることが『強さ』と言うのではないのでしょうか」
「……久しぶりに感じるよ、途方もない、重すぎる、命の存在を」
青年はやや困ったかのように静かに目を伏せた。そして、その腕に存在する少女を確かめるかのように、腕に力を込める。
やや遠くから、少年と枢がこちらへと歩いてくるのが見えた。
「俺は未だに信じられない……どうしてアンタが俺を助けたのか」
少年は、横を歩いている枢に、ぽつりと話しかけた。枢は紳士なまでの優しさを持って、少年へと言葉を返す。
「俺はあなた達が死ぬ所など見たくないんですよ。俺のエゴかもしれないですけど、これだけは譲れないんです」
その言葉に、更に困惑したかのように眉根を寄せる少年。
「俺は、そんなに価値のある人間なんかじゃない。死んで当然の人形なんだ……」
「誰がそんな事を決めるんですか?」
「……え?」
少年にとっては、意外な言葉に、顔を上げて、彼の顔を見る。枢はそれを受け止めて、静かに続けた。
「最後に自分の価値を決めるのは、自分でしかないんですよ。……でも願わくば俺はあなたに生きて、笑ってほしいですね。生きる為とはいえ自分が為した事を省みる時間も必要でしょう?」
「そう、かな……」
少年がそこまで呟いた時、前方からリカが早足で寄ってきて、彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ、仕事がないならウチのお店で働きなさいよ。わたしから店長に頼んであげる」
彼女の顔に浮かぶ表情には、哀しみを乗り越え、他人を案じる程の「強さ」が浮かんでいた。
「…………ええ?」
そして、唐突な彼女の提案に、しばし頭の回転がついていけず、数十秒の沈黙の後、やっとその言葉の意味を理解した彼は、驚きの言葉を上げた。
「大丈夫よ、あなたまだまだこれからなんだし、何でも物事挑戦よ」
「……」
ただ驚きのあまり言葉を発することの出来ない少年に、ひっそりと枢は微笑んだ。
前に、少年と同じように困惑した顔でこちらを見ている青年の姿が近付いてきた。
その場を後にする一瞬前、二人はゆっくりと燃え盛り、黒く炭化していく施設を振り返る。
「俺、ここに百合を植えにこようかな」
「百合、か……。それも良いな」
二人はひっそりと呟き、再び前を向いた。
あなたの身体に、百合を植えよう。
いつかそれが、そこに「自分がいた」証になるように。
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クリエイターコメント | 大変お待たせ致しました。作品をお届けさせて頂きます。
今回、皆さんの、痛みを持つ子供達を思う真摯なプレイングを沢山頂きまして、非常に嬉しかったです。ありがとうございました。少しでも、PCさんの心理が巧く描かれていると良いなあと思います。
これは「闇」の世界を生きる、光の世界に焦がれる私個人の問い掛けや思いも沢山込めさせて頂いた作品となりました。そのせいもあり、少しメンタルな部分も 入ってしまいましたが、思春期特有の痛々しい感情を読み取って頂ければ幸いです。
それでは、またいつか、お会いできる事を願って。 |
公開日時 | 2007-10-23(火) 18:30 |
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