★ 【御先さんの幽霊な日々】迷える子羊たちに救済を。 ★
<オープニング>

「トーコさん、お掃除終わりました」
 聖林通りの外れ、裏道横道を抜けた静かな一角。ぽつりと明かりがあるのは、桃の花をモチーフにした商品が多く並ぶ、隠れた名店、ファンシーショップ『桃花』である。
「アリガト、ベラちゃん。今日もお疲れサマ」
 言いながら桃色桃柄フリルのエプロンを外すのは、がっしりとした体格の身長百九十センチメートルはあろうかという巨漢。彼こそ『桃花』の店主、桃代桃子、年令秘密、である。
 トーコは白い歯をのぞかせて笑うと、タッパを差し出した。
「さっき休憩時間に作っておいたスベリヒユのお浸しよ。食べてチョーダイ」
「いつもありがとうございます」
 ベラが微笑んで受け取ると、いいのよぅ、と野太い声で腰をひねって笑った。
「日が長くなったとはいえ、夜なんだから道には気をつけてネ。この間は近くで火事があったし」
「……はい、気をつけます」
 それは、つい二・三日前の出来事だ。聖林通りを抜けた住宅で、不審火があったのだ。結果、家屋は全焼、居間から一家五人が発見された。ちょうど、夕飯時のことだった。
「可愛い女のコを一人で帰すのは心配だけど……」
「大丈夫ですよ、素早く帰りますから」
「……屋根の上を走っていかないようにネ?」
 それに笑って、ベラは『桃花』を出た。空は茜色に染まっている。
 ベラは人通りの多い道を選んで家路を急いだ。腕に覚えがあると言っても、シャガールたちが口を酸っぱくして言うのもあった。不自然じゃない程度の早足で、ベラは聖林通りを抜けていく。釣瓶落とし、とまでは行かないが、陽は急速に落ちて、空は藍色に色を変えていった。
 住宅街に入る。静かな音の中に、獣のような似ても似つかない咆哮を聞く。これは確か──
「ひぃいいいっ!」
 地面とゴムとが擦れる甲高い音と、男の甲高い悲鳴。
「あ、やっぱり車」
 膝前十センチで止まった鉄の塊に向かって、ベラは満足そうに笑った。それに悲鳴を上げたのは、車の中で冷や汗を流しまくっている男だ。
「ゆ、ゆゆっ、ゆゆゆううゆうゆゆうれぇえええええええっっっ!! 南無阿弥陀仏ナンマンダ主よ我を助けたもれ……」
 両手をがっちりと組み、ぶるぶると震えている男は目をつぶって何やらブツブツと言っている。ベラは、どうやら自分が驚かせてしまったらしいと思い、こつこつと窓を叩いた。
「あの」
「ひぃいいっ! 今日も厄日ですよぅ、早く帰って寝よう……あ、これはもしかして夢? そーですよねー! 夢だ夢です、夢に決まってます」
「夢じゃありませんよ?」
「思いたいぐらいいいじゃないですかぁあああっっ!!」
 男は滂沱しながらベラを振り返る。落ちくぼんだ目が真っ赤に充血していた。
「あの、とにかく落ち着いてください。驚かせたことは、謝ります」
「謝られたってこっちだって困ります! 関わりたくないです、幽霊となんかっ!」
「あの、ですから、私は幽霊じゃ」
「わーわーっ、聞こえないっ聞こえませんっ、私はなんにも聞いてませんーっ!」
 耳を塞ぎ叫き立てる男。どうしたものかと思ったが、とりあえず黙らせるのが先決である。
 ベルトにつないだ小さな鞄から針金のような細い棒を取り出し、鍵穴に差し込むと、取っ手に手をかけてバガン、と乱暴に開けた。男は喉の奥で悲鳴を上げて、今にも失神しそうだ。
「そんなに怖がられると傷つきますね。幽霊じゃないですよ。ほら、こうして触れますし、ね?」
 男の頬に触れて、ベラは微笑む。男は目をぱちくりとさせて、それから赤くなったり青くなったりしながら、どうにか落ち着いたようであった。どうやってドア開けたんだろう、と少し寒くはなったけれど。
「すすすすすみません……っ! 白い髪が真っ先に目に入ったものですから」
 ぺこぺこと頭を下げる男は、御先と名乗った。ベラは笑って気にしないでと首を振った。
「それで、どうしたんです?」
「へぇ……三日ほど前にこの界隈で火事があったことはご存じでしょうか」
 ベラは頷く。仕事は休みだったのでベラ自身が見たわけではないが、今日もトーコにそれで注意を受けたばかりだ。
 御先は大きくため息を吐くと、もともと丸まっている背中を更に丸めた。
「近頃、タクシーを走らせていると、気がつくとその火事の現場に行ってしまうんです。意識なんか、当然してませんよ。火事現場なんて、出来れば近付きたくないですし。でも」
 御先は顔を青ざめさせて、胡乱な目でベラを見た。
「見てしまったんです……焼け焦げた家の中を、ゆらゆら〜っとした影が動くのを!」
 自分で言いながらひぃいっと悲鳴を上げて、御先はがしっとベラの手を握った。
「お願いしますっ、どうにかしてください!」
「え」
「もうこの数日、ずっとなんです! しかも毎回なんかいるんですよ!!」
「ええと」
「これも何かのご縁ですっ! お願いしますぅううっ!!」
「は」
「『はい』!? はいって言ってくださいましたっ!? ありがとうございます、それじゃ明日、対策課で待ってますから!! きっと来てくださいねっ!! 絶対ですよ!? 約束しましたからねっ!!」
 ぶんぶんと手を振って、御先はタクシーに乗り込むと走り去っていってしまった。あまりの勢いに思わず呆然と立ち尽くす。
 しかしそこはベラである、ただボウッと立っているなど、生産性のないことはしない。頭を働かせ、どうするべきかを考える。
 近所のことだし、困っているようだし、依頼を受けることはいいだろう。お頭達にも話して、シャガールとアルディラは仕事だから、セイリオスかハリスにも来てもらおうか。御先は対策課と言っていたから、銀幕市の人々も来てくれるだろう。
 ベラは空を見上げる。
「……火事、か」
 頭一つ振って、ベラは駆けだした。

種別名シナリオ 管理番号724
クリエイター木原雨月(wdcr8267)
クリエイターコメント久しぶりのシナリオ提出となりました。
木原雨月です。

今回のシナリオは、御先行夫に無理矢理こじつけられたベラと共に、御先の困り事の種である火事のあった家屋に行っていただくことになります。
御先のタクシーがなぜか引き寄せられる火事のあった家屋、ゆらめく人影についての謎を、どうか解いてください。

皆様はベラを見かけるか、御先の依頼を受けるといった形になります。
もちろん単独行動なさっても構いません。
火事については、新聞やテレビでも取り上げられ、周知のこととします。

それでは、皆様のプレイングをお待ちしております。

※募集日数が短くなっております。悪しからずご了承ください。

参加者
続 那戯(ctvc3272) ムービーファン 男 32歳 山賊
四幻 ヒサメ(cswn2601) ムービースター その他 18歳 氷の剣の守護者
ウィレム・ギュンター(curd3362) ムービースター 男 28歳 エージェント
麗火(cdnp1148) ムービースター 男 21歳 魔導師
<ノベル>

 朝である。
 鬱陶しい陽射しと湿気が入り交じる空気の中、涼しい顔をしてぶらついていた麗火は、ふと知り合いの気配を感じて足を止めた。焔がむすりとした雰囲気を醸す。逆に風は、嬉しそうにくるくると躍った。
「あれぇ、麗火くんー。久しぶりだねぇ」
 相変わらず間延びした間抜け声。鱗の生えた手をひらひらと降って、青白い肌の男はへにょりと笑った。その隣りで、男の肩ほどしかない少女がにこりと微笑んだ。
「元気そうだな」
「とっても元気だよー。あ、でもセイくんは不機嫌だけどー」
「アイツはいつも不機嫌だろう」
「あははー、そうだねぇ」
 並んで立って、麗火は微かに驚いた。いつもからかっている少年は自分よりも頭半分ほど小さいが、鱗の男、ハリスは自分とほとんど同じか、少しばかり背が高い。
「今日はどうしたんだ」
「ベラのお願いでね、対策課に行くところなんだー」
 対策課、と聞いて麗火は回れ右をした。こういう時関わって、ロクな事があった試しがない。
「そうか、邪魔したな」
「まーまー」
 言って、ハリスは麗火の腕を掴んだ。そのままずるずると引きずっていく。思いのほか強い力に、麗火はまたも驚いた。
「ちょ……っ!」
「今日ねぇ、セイくんどうしても抜けられない仕事があってー」
「それと俺となんの関係がっ」
 引き離そうと力を込めるが、がっちりと掴まれた腕はまるで大人と子供のようにびくともしない。
「まーまー。なんて言うんだっけー……そうそう、ここで会ったが百年目ー」
「だから使い方が違ぇっ! おい、ベラとか言ったか、なんとかしろ!」
 ギロリと深紅の瞳を向けるが、セイリオスとのやり取りをよく知っているせいか、ベラはにこにこと微笑むだけでなんの助太刀もしなかった。ただ一言言ったのは、
「ありがとう、麗火さん」
 例え無理矢理にでも巻き込んでしまえば、ベラたちの勝ちだ。それに、やると決めた事はきっちりやる、そんな麗火の性をよく理解している。風が嬉しそうに麗火、ハリス、ベラ、そして麗火と頬をなでてゆく。
 麗火はがっくりとしたまま、ずるずると対策課まで引きずられていく事となった。合掌。

 対策課の扉を開けると、そこには先日のタクシー運転手、御先行夫が落ち窪んだ目をぎょろりとさせて、ベラたちに気付くと顔をほころばせた。
「お待ちしてましたよ、ベラさんっ!」
 疲れ切って目の下に隈まで作った顔が嬉しそうに笑っても幽霊のようにしか見えないが、頓着した様子もなくベラは微笑み返した。
「お待たせしました。こちらが、協力してくださる麗火さん」
「いやだから俺は」
「それと、ハリス。見た目はこんなだけど、食べたりしないから安心してくださいね」
「よろしくー」
「人の話を聞けっ!」
 そんな麗火を華麗にスルーして、ベラは御先の後ろで微笑んでいる二人に目を向けた。
「初めまして。四幻ヒサメと申します」
「僕はウィレム・ギュンターといいます。どうぞよろしく」
 ヒサメは紫の瞳をにこりとさせて、ウィレムは青い瞳をふわりと微笑ませた。
「兄妹、ってわけじゃないんだねぇ」
 ハリスが言うと、二人は首をかしげる。
「二人とも髪が白くてー、あ、ウィレムくんは銀色っていうのかなー。目の色も似てるし、細いし背が高いからー。綺麗な顔してるしー」
 ヒサメとウィレムは顔を見合わせる。言われてみればそうかもしれないが、顔のパーツはまるで違うし、似ているとは思えないのだが。
 それに、ベラが苦笑した。
「ハリスは、色が似ていればみんな血縁関係だと思ってるから、気にしないで」
「あ、ベラも並ぶと三人兄妹みたいだねぇ。もちろんベラは僕たちの家族だからー、違うけどー」
 ベラは白い髪に青い瞳。確かに色の特徴は似ている三人が集まったものだ。
 こっそり逃げ出そうとした麗火をがしっ、と捕まえて、ハリスはにこにこと微笑む。
「あのー……そろそろいいですか?」
 ひょうろりと手を上げた御先に、四人ははたとした。
 ウィレムが依頼を受けたのは、対策課にやって来たところで、御先と会ったことだ。御先のことは、とある人物から聞いていた。以前、御先の依頼を受けた事があったという。
「こんにちは、御先さん。知り合いに聞いた事がありますが、相変わらず事件に巻き込まれているようですね」
 知り合いが誰かということを聞くと、確かに覚えのある人物で、御先はがっしとその手を握って離さなかった。
 ヒサメがこの依頼を受けたのは、ベラと同じ理由だった。たまたま一人でふらりと出掛けたその帰り道、日は既に落ちていた。慌てるような車の音を耳にして目をやると、車は急ブレーキを踏んだ。何事かと思ったところ、甲高い悲鳴が聞こえた。それが、御先だったのだ。
「失礼ですわよね、人を幽霊と間違えるなんて。確かに、体温は低いし、色は白いですけれども」
 それにベラが頷くと、御先は小さくなった。
「けれど……ここに来て日は浅いですけれども、私がお役に立つのならば」
 微笑んで、頷く。
 それに、ウィレムもまた頷いた。
「火事の現場、揺れ動く人影……シンプルに考えれば犠牲者と考えるべきなのですが……幾分、情報が少ないですね」
「ヘイ、ユー? 人影ってぇのは、どういうことだ?」
 突然の声に、六人は振り返った。

 続 那戯は、市役所に来ていた。新聞を読む為だ。「山賊」の異名を取る那戯は、定住をしていない。世界中を放浪しており、新聞など取っていないのだ。
 数日前のことだ。那戯の目を引いたのは、一つの記事だった。不審火。数日前、正確には四日前、住宅一棟と一家五人を呑み込んだ、忌まわしい出来事である。
 とある出来事から火事と聞けば原因を調べる那戯は、消防署や警察のツテ、手下を使って情報を集めていた。しかし最も信じられるのは自分の目である、図書館へも足を運んだ。
 何か別の情報はないかと市役所へやってきたところへ飛び込んで来た声に、那戯は目の色を変えた。
「火事の現場、揺れ動く人影……シンプルに考えれば犠牲者と考えるべきなのですが……幾分、情報が少ないですね」
 揺れ動く人影。
 心臓を鷲掴みにされたようで、気付いた時には身体が動いていた。
「ヘイ、ユー? 人影ってぇのは、どういうことだ?」
 驚いた顔が六つ。自分の頭を見て、瞳を見て、それから肩に乗ったボイルドエッグのバッキー、オーエンを見て、更に首を傾げている。
 それも仕方がないだろう。那戯の髪はオレンジ、瞳は紫。それだけ見ればムービースターのようだが、肩にはバッキー。ムービーファンだとは、とても思えない出で立ちである。
 最も、ファン疑惑のあるファンなど銀幕市には何人もいるわけで、六人はどこかでそこに到達し、互いに頷き合い、再び那戯に目をやった。
「俺様は、四日前の火事のことを調べていてね」
 言うと、赤髪の眼鏡の男が微かに目を細めたが、気にしなかった。
「奇遇ですわね。私たちは、その火事のあった家屋の影を調べるところですわ」
 紫の瞳の少女──彼女はムービースターなのだろう、本物の紫色だ──の言葉に、那戯はそれだ、と目を光らせた。
「もっと詳しく聞けるか」
 詳しくと言われても、とヒサメは僅かに顔を曇らせた。答えたのは、ウィレムである。
「先日のニュース以上には、あまり新しい事はわかっていません。目新しいことと言えば、何故か御先さんが火事現場に引き寄せられてしまう事、火事現場に人影と思しき影が揺らめいている事、そして何かのうめき声のようなものが聞こえるという事だけです」
 情報は限りなく少ないが、那戯は自分が調べたこと、調べさせたことを思い返した。
「貴方は?」
 聞かれて、那戯は紫の瞳に目をやる。
「私は四幻ヒサメと申しますの。貴方のお名前と、もしも貴方が何か知っているのならば、教えていただけませんか?」
 腰まで伸びている白い髪が微かに揺れる。ふわりと微笑む瞳に、那戯は軽く手を挙げて、空いている椅子にどっかと座った。取り出したのは、紙束である。
「名前は続那戯。俺様が知っている事は、そこの銀髪の男が言った事に加えて、五つだ」
 那戯は幾つかの紙束を示しながら、口を開いた。
「まず一つ目は、家族構成な。折り重なるようになっていたから解り難かったそうだが、五人家族だ。夫と妻、娘が一人と息子が二人。息子二人は双子だったそうだ」
「折り重なるように、とは?」
 ヒサメが聞くと、那戯は表情を変えずに淡々と喋った。
「小学校に上がったばかりに双子の息子を守るように父親、そのすぐ隣りに娘とそれを守るような母親。そしてその上に、焼けて落ちた梁。これが、解り難かった原因だな。落ちてくる梁から子供たちを守ろうとしたんだろう。娘は僅かに母親から這い出しているような恰好らしい、っつーことだから、娘はおそらく母親に守られたんだろうな。だが、抜け出せずにそのまま」
 那戯は言葉を切る。沈黙があって、那戯は別の紙束を指した。
 小さな切り抜きをスクラップしたものだ。新聞のコピーやインターネットで拾った記事、それから手書きのメモなどである。古い日付から順番に並んでいる。
「……全部、火事の記事ですか」
 ウィレムが眉をひそめた。
「銀幕市で起きた、な。まあ火事っつっても、ほとんどがボヤ程度のもんだ。一つ一つは、大したモンじゃねぇ。だが、」
「……ずいぶん多いな」
 麗火が言うと、那戯は小さく頷いた。ざっと見ても、五十件は下らない。
「ついでに言っておくと、これは全て放火だ」
 顔が、一斉に那戯に向いた。放火、とヒサメは口の中で呟く。那戯は机をコツコツと指で叩いた。
「火事の出火原因っつーのは、失火が最も多いが、次に多いのが放火だ。最低なことにな」
 コツと机を叩いて、那戯は一枚の資料を示した。
「俺様がスクラップしたこれらは、同一犯だと思われるものだ」
 微かに息を呑む音がする。示されたものには、ほとんど同じ意味の言葉が、やはり日付の古い順に並んでいた。
「やり口が同じだ。どれも小規模なモンだが、それは出火後すぐさま住人が気付いたからだ」
「それだけで、同一犯とするのは些か性急に過ぎませんか」
 ウィレムが冷静な目で那戯を見る。
「まあな。だから、思われる、っつったろ。被害者すべてから同じ証言が得られたからって、同一犯っつーのは、急ぎ過ぎだ」
「被害者すべてから、同じ証言?」
 麗火が言うと、それだ、と那戯は言った。
「これだけの件数があって、すべてからまったく同じ証言が得られた。これが、二つ目だ」
 示していた紙束をめくる。
「時間は夕飯時。コツコツと窓を叩くような音がして、それに気付いた住人が窓を開けると、火が出ていた、っつーことらしい」
「犯人の目撃者は」
「今のところ、いねぇな」
 出火を知らせ、なおかつ姿を見せない。やり口は巧妙かつ狡猾で、愉快犯とも見られる。もちろん、グループによる犯行という線も考えているが、同時に多発しないことから、単独犯の可能性を警察は見ているらしい。
「三つ目は、死者が出るほどの大火事は今回が初だってことだ」
「手口は?」
「仏さんになっちまったからな、聞きようがねぇ」
「では」
 ヒサメがうつむいた。
「御先さんが見たという影は、その方たちなのでしょうか……?」
「それは、行ってみないと何とも言えねぇな」
 再び沈黙が落ちる。
 麗火は静かに紙束を見つめていた。家族。その絆に、密かに憧れている彼は、僅かに目を伏せた。幸せに過ごしていたはずの家族を引き裂いたもの。麗火の瞳が微かに揺らいだ。
「そんで、四つ目だが」
 沈黙は破ったのは、やはり那戯だった。示されたのは、一枚の写真。
「あ、これ知ってるよー。えーっと、犬っていうんだよねー?」
 ハリスが自慢げに言うと、ヒサメがくすりと微笑んだ。
「これが、何か?」
「この家……ああ、名前を言っていなかったな。水町家で飼われていた犬だ。種類は芝、日本犬の定番ってやつなんだが」
 がりがりと頭をかき混ぜて、那戯は一同を見やってから、口を開いた。
「庭の犬小屋に繋がれていたリードの先が、見つかっていない」
 それはどういうことか。
 ウィレムがはっと顔を上げた。
「呻き声」
 人とは思えぬ声と、御先は言っていなかったか。
 那戯の人工的な色の瞳が頷く。
「可能性は、ある。そんでこれが、五つ目。火事があったから、付近の住民は移動しているんだが、どうも出るらしい」
「出るって」
 麗火が頬を引き攣らせた。それに、那戯は肩をすくめる。
「犬ってのは、忠誠心の高い動物だからな。守ろうとしているのか、それとももっと別の意味があるのか、それは行ってみないことにはわからん」
 頷く。
 情報は、集まった。
 可能性も、見えた。
「御先さん」
 振り返ると、そこには赤沼と談笑し茶をしばく御先の姿が。
「……御先さん」
 ヒサメはにっこりと微笑み、ひやりとした手で御先の首筋に触れてやる。飛び上がった御先は振り返り、ひぃ、と喉の奥で悲鳴を上げた。

 御先のタクシーには、助手席に那戯、後ろにヒサメ、ウィレム、麗火が乗っていた。窓の外では、ベラを背負ったハリスが走っている。走っている、というのはまさしくその通りで、車と同じ速度で通行人の邪魔にはならぬよう、塀の上を走っているのだ。麗火が呆れた顔で冷ややかに見やっていると、それに気付いたハリスがひらひらと手を振った。
「足がお速いですわねぇ」
「速いとか、そういう次元じゃねぇよ、ありゃあな」
 那戯がきゃらきゃらと笑った。

 ◆ ◆ ◆

 御先は手に汗を握っていた。
 ああ、この景色は嫌だ。
 この先に待ち受けているものが何なのか、直感で感じた。それは、彼のありがたくない性によるものである。
 ああ、行きたくない。
 けれど、行かなければならない。
 二つの相反するジレンマに、御先は止めることも出来ずに車を進めた。聖林通りを抜けて、住宅街へと入っていく。
 心臓の音が、五月蝿い。
 四人が何事かを喋っているようだったが、まるで耳に入らなかった。
 あるのは焦燥感と、不安感だけだ。
 自分は引き寄せられているのか。
 それとも、自らの意思で走っているのか。
 御先にはわからなかった。
 あの角を曲がれば。
 御先は胸の奥が熱くなるのを感じた。体が大きく前のめりになり、次にはシートベルトに引っ張られてどっと背もたれに背を打ち付けた。目の前が真っ白になった。
「おい、大丈夫か」
 肩を叩かれて、御先は落窪んだ大きな目をぎょろりと動かした。不振そうな顔をする、オレンジの髪の男がじっとこちらを見ている。
 脂汗と冷や汗が額と背中を伝っているのを感じると、奥歯がカチカチと鳴った。
「へ、へぇ……そ、そこ、の角を曲がったとこ、ろが……れ、れれ例の、家、です」
 それだけなんとか絞り出して、御先は視界が真っ暗になっていくのを見ていた。

 急ブレーキを踏まれて、四人は大きく体を振られた。
「ちょっと御先さん、安全運転してくださいよ」
 軽い嫌味のつもりで叩いた口だったが、御先の顔を見てウィレムは眉をひそめた。
「御先さん」
 ヒサメが心配そうな声をかける。しかし聞こえていないのか、ただ呆と……いや、恐怖に引き攣った顔のまま、動かない。
「おい、大丈夫か」
 那戯が肩を叩く。ゆるりとした動きで大きな瞳が那戯を向き、はっと我に返ったように息を吐きだした時には汗が噴き出した。
「へ、へぇ」
 まるで歯の根の噛合っていない状態のまま、御先は早口に水町家の所在を言うと、そのまま気を失ってしまった。
 麗火が目を細める。
「おい」
 那戯がもう一度肩を叩くが、まるで反応がない。どうしたものかと顔を見合わせたところで、窓の叩く音がした。ハリスがひらひらと手を振っている。四人はシートベルトを外し、鍵を開けて外へ出た。鼻の奥につんとくる、いがらっぽい臭いがしていた。
 タクシーをそのままにするのは不安で、ヒサメがドアの一部を凍らせる。
「私の氷は、私が望まぬ限り、決して溶けはしませんわ」
 外から開く事は不可能だ、ということのようだ。念のために、那戯は携帯電話に手を滑らせる。
「なんだ?」
「ん、手下を呼んだだけだ。何かあった時には、どうにかするだろ」
 手下って。
 現代日本に置いて、電話一本で手足のように動く人間がいるとは。
 ファンもなかなか侮れない。
「それでー、えっとー、ホントに行くの?」
 ハリスが間延びした声で、頬を掻きながら聞く。
「ここまで来て、行かないはないだろう」 
 麗火の言に、そうだよねぇ、と困ったように笑う。ちらりとベラを見て、それから腕に生えた鱗をパキンと剥いだ。
「持っててー。まあ、お守りみたいなものかなー。ヒサメちゃんには、いらないかもしれないけどー」
 へにょりと笑って、人数分の鱗を剥ぐと、それぞれに差し出す。
 ハリスの鱗は半透明のアイスブルーで、触れるとひやりとした。彼の傍にいると涼しいが、鱗に触れて冷気を帯びているのがはっきりとわかった。
「そんじゃ、行くか」
 鱗をポケットにねじ込んで、那戯が先頭に立つ。オーエンは、じっと肩に掴まっている。ヒサメとベラを挟むように、六人は角を曲がった。

 おおん、と低い音がする。
 家の前には、立ち入り禁止のテープがいまだ貼られている。二階建ての家屋は屋根も崩れて、奥の家が瓦礫の向こうに見えた。
 ベラは左腕を庇うようにさすった。それに気付いたヒサメが、そっとその肩に触れる。微笑んで、再び家へと目を向けた。
 一階部分よりも二階の方が焼け方が激しいように見えた。二階はほとんど焼けて崩れてしまっているので、御先が影を見たのはおそらく一階部分だろうと思う。
 一人テープを潜ろうとしたところで、ヒサメがその腕を掴んだ。ひやりとした感触があって、振り返る。
「お待ちください。……そのまま入ってはいけません」
 その厳しい瞳の色に、那戯は足を止めた。
 ヒサメは軽く手を振り、足元から家屋を囲むように氷菱を巻いた。火の気配を感じたら、氷柱が現れるように仕組み、溶ければ消火用の水にもなる。
 おおん、と低い音がする。
 麗火がぴくりと眉を上げた。
「おい」
 しゅうしゅうと、ヒサメの巻いた氷菱が蒸気を上げて溶けていく。氷は溶けて、蒸気を上げ、そしてまた凍っていく。
「これは、化物か」
「いいえ」
 ヒサメが真直ぐにソレを見つめ、ウィレムがちきりとランスを低く構えた。
「霊です」
 おおん、と低く啼き、それは巨体を持ち上げた。
 黒に覆われた、禍々しい深紅の瞳を煌めかせた、犬というにはあまりに巨大なそれ。
「これが」
 ヒサメが目を伏せる。
「大火の、果てですか……?」
 ヒサメは『剣の守護者』と呼ばれる存在だ。その中の、氷の剣の守護者であるヒサメは、氷を司る。彼女と同じように、彼女には兄弟とも言えるものたちがいる。その次姉が、火を司っていた。彼女の領分である火が、醜悪な様相を得て、更には哀しいとしか言えない存在を生み出してしまったことが胸に刺さる。
 おおん、とそれは啼いた。
 麗火は己の目を疑っていた。彼は、魔導士である。だが、魔導士だからと言って、幽霊とか言う存在が見えるわけではない。『視界の切り替え』が必要なのだ。彼は今、視界を切り替えないままに、その巨体を深紅の瞳に映している。那戯は、リードの先が見つかっていないと言った。
 だが。
「いやおかしいだろ、死んだら普通に死んどけよ」
 眉間に皺を寄せて、ぶつぶつと呟いた。
 おおん、と一つ、高く啼いて、それは地を蹴った。通路は車がようやく擦れ違える程度しかない。ウィレムは細く息を吐いて、鋭い牙をランスで受け止めた。足に力を込める。細身の体からはまるで想像もつかないほどの力で、ウィレムはその牙を押しとどめた。
「……望んで迎えた結末とは言えないでしょう。ですが、だからと言って、貴方がここに留まる理由はなんですか?」
 巨大な黒犬は、柴犬とはとても思えぬ凶悪な牙をガチガチと鳴らす。喉の奥で低く唸り、深紅に燃える瞳でじっとウィレムを睨め付ける。
 ウィレムはこの犬の気配に、どうにも不審を感じていた。だからこそ、防御に徹するのみなのだ。周りの住宅へ被害が出ないよう、巧みなランス捌きで襲い来る牙と爪とを受け止めていた。そしてそれを思っていたのは、那戯とヒサメも同じである。
 犬は、非常に賢い動物である。
 それは、霊という存在になっても変わらない。
 賢いが故に、わからないことがある。
 この犬は、積極的にウィレムたちを襲うつもりがない、ということだ。襲うつもりはないが、家に近づけさせたくはないようだ。
 骨は、すでに消防と警察がそれぞれに集め、確認をしている。
 家を荒らされたくないという事なのか。
 考え込む二人をよそに、麗火はふと火の気配を感じて視線を映した。その、先に。
「……おい」
 麗火の低い声に、那戯とヒサメが顔を上げる。その、割れた窓の先に。
 黒い影が、揺らめいた。
 おおおおお、と黒い獣が咆哮した。麗火に向かって突っ込んでくる。ごおう、と炎が吹き出した。麗火を守護する焔である。それと同時に、風が吹き荒れた。これも、麗火を守護する精霊だ。ヒサメの氷が巨大な氷柱を天へ向かって突き立った。
「……おまえ」
 麗火は深紅の瞳を見つめた。黒い獣が、静かな瞳で麗火を見つめている。黒い体が、ゆらゆらと形を崩し、戻り、鋭い牙をガチガチと鳴らしながら麗火を道路の方へと押しやる。
 那戯は、パズルのピースが見事に嵌ったのを感じた。
 ──そうか、こいつは。
 那戯は黒い獣に歩み寄った。獣は低く身を構え、じっと深紅の瞳を向ける。牙が鳴り、ぐっとその足に力を込めるのがわかる。
「……落ち着け。壊しに来たんじゃ、ない」
 犬は那戯の言葉がわかるかのように、瞳を細くした。ぐいぐいと、那戯の体を道路の方へと押した。
「わかってる。……大丈夫だ」
 軽く鼻面を撫でてやると、巨大な黒い犬は瞳を閉じた。しゅるしゅるとその巨体が縮み、那戯の膝ほどまで敷かない、柴犬の姿へと変じた。
「ヒサメ、ユーは降霊術はできるか」
「降霊術、とは多少違いますけれど、似たようなものはできますわ。……ただ、アレが応じるかは微妙なところですけれど」
 ヒサメが言うと、那戯はなんとかなるだろ、と頷いた。
 犬が、六人を招くように振り返り、家の中へと入っていった。それに、四人が続く。
 ハリスは、ぎゅっと左腕を抱くベラの背を軽く押した。
「大丈夫だよー、僕が守るから。お兄ちゃんだからねぇ」
 それに小さく笑って、ベラは四人の後を追った。

 家の中に入ると、臭いはいっそう強くなった。黒ずんだ床は、いつ踏み抜けてもおかしくはない。壁も、調度品も、黒く焼け焦げている。
 犬が、ぴたりと足を止めた。そこに、一人の少女が立っていた。ゆらゆらと体を揺らめかせて、暗い顔で、髪も服も焼け焦げ、目だけがギラギラと異様な光を放っていた。
「呼ばなくとも、お出ましか」
 飄然とした表情は消え、そこにはただ痛まし気な悲痛な思いがあった。ヒサメはそれに少し驚きつつも、少女へと目を向けた。
「お名前を、お聞かせ願えます?」
 少女はただゆらゆらとギラギラと、こちらを見ているだけだった。生前は、きっと可愛らしい面立ちをしていただろう顔も、今は焦げた髪に隠れてよく見えない。
 じっと動かないそれと見合って、ただ時間だけが過ぎていく。
 やがて口を開いたのは、少女だった。
『……どうして』
 擦れたような、低い声。
 煤で汚れた頬を、透明なものが伝った。

 ◆ ◆ ◆

「ただいまー」
 夕暮れ時である。
 そうとはいえ、夏真っ盛りである今だ、すでに七時を回っているが、空は燃えるような赤で彩られていた。
 少女は小走りに、水町、と書かれた家の玄関を開けた。
「おかあさーん、晩ご飯なにー?」
「まったく、帰ってきて早々これなんだから」
「だってお腹空いたんだもーん」
 靴を乱暴に脱ぎ捨てて、少女は鞄を放り出した。
「こら、ちゃんと部屋に置いてきなさい」
「だってすごく良いにおい。うーん、これはカレーね!」
 パタパタと台所まで駆けてきて、少女はことことと音を立てる鍋に微笑んだ。
「お姉ちゃん、お帰りー!」
「お帰りー!」
 居間から双子の弟が顔を出す。ただいま、と微笑んで、少女はぎゅうと二人を抱きしめた。
「ほらほら、ミズキ。カバンを置いて、手を洗って来なさい。ミズハ、ミズホ、お父さん呼んで来て。ご飯にしますよーって」
「はーい」
 三人は声を揃えて、笑って台所を出た。
 ミズキは放り投げた鞄を拾って、玄関脇の階段で二階へと上がる。右奥の部屋が、ミズキの部屋だ。ドアを開けると、湿気を含んだ空気がもわんと広がった。ミズキはうへぇ、と顔をしかめ、窓を開けた。その下に庭が見えて、飼っている柴犬、ミズユがわおんと一つ吠えた。ただいま、と笑って手を振って、階段を下りた。
「おとうさーん、ごはんにしますよーって!」
「しますよーって!」
 コンコンコン、とドアをノックして、ひょこりと顔を出すと、椅子の上で大きく伸びをしていた父が笑顔で振り返った。
「そうか、ありがとうな、二人とも。……お、今日はカレーかな?」
「カレーカレー!」
 きゃはは、と笑う、双子の声が家に響く。
 居間に来ると、熱いカレーが五つ、テーブルに並んでいる。スプーンを持って、ミズキが台所から出て来た。
「お父さん、ただいま!」
「お帰り、ミズキ。学校はどうだった?」
「ん、あ、あのね、」
「はいはい、お話はまた後で。座って、食べましょう」
 サラダボウルを持った母が後ろから出て来て、ミズキは肩をすくめてぺろりと舌を出した。
「いっただっきまーす!」
「はい、どうぞ」
 いつもと同じ風景。
 家族そろっての晩ご飯。
 幸せだった。
 暑い日に食べるカレーは、いつもよりも美味しく感じた。
 ──それなのに。
「ミズユ、どうしたんだろ」
 首を傾げる。
 滅多に吠えない賢いミズユが、先ほどから唸ったり吠えたりしている。
 母が叱責に行くと、ミズユはくぅんと鳴いて、耳を垂れた。そわそわとして、落ち着かない。落ち着くように撫でてやって、ミズキに水を持ってくるように言う。しかし、ミズユは水には目もくれず、そわそわとしていた。
 首を傾げながらも、テーブルに戻った。
「それにしても、今日は暑いなぁ」
「そうね、クーラーもちゃんとかかってるのに」
 両親が首を傾げたのは、ミズキの話に一段落が付いた時で。
「カレー食べてるからじゃない? 暑いもんね」
「もんねー!」
「ねー!」
 無邪気な笑い声が響く。それもそうかと、納得しかけた。
 外で、また犬の吠える声が聞こえる。
「ミズユ?」
 吠え方が、尋常ではない。うなり声が聞こえ、リードがガチャガチャと音を立てる。不審に思って立ち上がった。
 その時。
 コツコツコツ。
 窓を叩く音。
 カーテンを開けたのは、父だった。
 目の前に広がっていたのは。
 赤。
 夕焼けにも負けぬ、赤々とした。
 母が立ち上がった。
「勝手口へ!」
 父の声で、子供たちはびくりと立ち上がった。
「ミズユっ……!」
 ミズキが叫ぶが、母に促されて走る。母が扉を開けると、目の前を炎が遮った。
「っ玄関へ! 急げ!!」
 父が叫ぶ。ミズホが足をもつらせて転んだ。父が抱き上げて、走る。黒い煙が充満し始めていた。階段の前。ミズキは息を呑んだ。
 火が。
 もう、玄関を遮っている。
 何故。
 階段を振り返ると、炎が階段を舐めながら降りて来ていた。
「二階に火が回っているのか!?」
 父の驚いた声。
 はっとする。
 窓。
 自分の部屋の窓。
 開け放しは、しなかったか。
「ぅあ、あ、あああっ」
 泣き崩れた。
「ミズキ、どうしたの? しっかり立って!」
 汗だくになった母が、ミズキの肩を揺する。
 どうしよう。
 どうしよう、どうしよう。
「くっ……書斎へ行こう、あそこの窓からなら、外へ行けるかもしれない!」
 父の声。
 ミズキは母親に引きずられるようにして足を動かした。頭が真っ白になる。
 黒い煙が充満して来ている。まだ幼い双子の弟達が、咳き込む。
「口と鼻を押さえるんだ、できるだけ煙を吸わないように!」
 父の声。
 天井。
 ギシリと、嫌な音がした。
「─────っ!!」
 叫んだのは、誰だったのか。
 父か、母か、弟達の叫び声だったのか。
 それとも、自分の絶叫だったのか。
 背中に息苦しい重みを感じて、ミズキは顔を上げた。
 目の前には、うつぶせになった父と、弟たち。
 お母さん。
 探して、視界の端に白い腕を見つける。
 お母さん。
 視界が歪む。必死に腕を掻いた。
 お母さん。お父さん。ミズハ。ミズホ。
 噎せた。
 喉の奥が、目が、熱い。
「ぅう、うぅううっ!」
 床に爪を立てて、もがいた。
 息が上手く吸えない。
 熱い。
 熱い。
 熱い。

 ──誰か。

 おおきなおとがして。
 まっくらになった。

 ◆ ◆ ◆

『……ただ、幸せに暮らしていただけなのに』
 擦れた声。
 麗火は、心臓が激しく鳴るのを聞いた。
 胸が、痛い。
『幸せに、ただ幸せに暮らしていた』
 ギラギラとした目が、歪む。
『ただ、それだけなのに!』
 ごおう、と、黒い炎が逆巻いた。
 ハリスにもらった鱗が弾けて、炎を押しやった。那戯たちは後ろに飛び退った。
 柴犬が、鳴いた。
 少女の瞳は、まるで炎が燃え盛っているように赤々としている。まるで、何も聞こえていないようだ。
「あつい、あツいあつイィあついアぁツいアツイアツイあぁアあアァアアぁああアアァァアアア」
 少女が狂ったように叫ぶ。
 黒い炎が少女の体から迸った。
「……こんな」
 ヒサメは唇を噛んだ。
 私に、出来ることは。
 目を閉じた。
 自分の内にある、命の源。
 真の氷の剣。
 腰まで伸びた長い髪が、ふわりと翻った。
 目を開く。
 氷菱が少女の足元を撃った。命中したところを中心に、凍てついていく。
「アツイ、あつい」
 黒い炎が氷に呑み込まれていく。
 くぅん、と柴犬が鳴いた。
 少女の瞳がそれを見つめる。
 那戯が、凍りづけになった少女にそっと触れる。
「……このままでは居るな。相応しい場所で、休んでな」
 言うと、少女はにこりと、笑ったように見えた。
 柴犬が一つ、吠えて、尻尾を振って寄り添う。
「──つめたい。きもち、いいね」
 すぅ、と、少女と犬はまるで煙のように消えた。
 それを、見送って。
 那戯はギリと、拳を握った。

「……さん。御先さん!」
「ぅへぃひやあっ!?」
 ぺしん、と頬を打つ衝撃に、御先は飛び上がった。ついでに変な声も出した。何度も瞬きをして、六人を見渡す。
「あ、あれっ、あのっ!」
 火事のあった家は、と続けようとして、ウィレムは人差し指を当てた。
「大丈夫です。解決しました」
 一応は、と心の中で呟く。それに、御先は心底ほっとしたように笑った。……ようだ。
「ああもう、なんか疲れた……」
 ぐったりとちゃっかり御先のタクシーに乗り込んで、麗火。
 あそこにいた犬は、多分、思念と……悪霊と化してしまった少女が、誰かに危害を加えないように、そして少女を守る為に、きっと居たのだろう。
 少女は。
 思って、麗火は目を閉じた。
 目を閉じれば、浮かぶ。
 熱いと叫んだ少女を。
 微笑んだ、少女を。
 麗火は、忘れるということがない。
 心配そうに、風と焔が麗火の頬を撫でた。それに軽く笑ってやって、麗火は目を閉じる。
「ともかくも、市役所へ戻りましょうか。報告をしなければなりませんし」
 ウィレムの言葉に頷いて、タクシーに乗り込む。
 それを見やって、那戯は踵を返した。
「続さん」
 ヒサメの声に、足を止める。
「行け。俺様は調べものをしたいんでね」
「……犯人、ですか」
 ちろりと見やって、那戯は不適な笑みを顔に浮かべた。
「俺様は火事が嫌いなんだよ」
 吐き捨てるように言って、振り返る事なく去っていった。肩では相変わらずボイルドエッグのバッキーがじっと掴まっている。
「……僕たちも、行きましょう」
 那戯とは逆の方向に、タクシーは走っていく。

 ただ、幸せに暮らしていただけなのに。
 少女の声が、耳に蘇る。
 那戯は空を見上げた。まるで、燃えているかのような、夕焼け空。
 ただ、幸せに、善良に暮らしていた兄夫婦。
 早くに親を亡くした那戯は、兄に育てられた。苦労をして、頭を下げて、屈辱も噛み締めながら懸命で、自分を必死に育ててくれた兄の姿を、その兄と幸せな景色を作り出した兄嫁の姿を、何よりも強く覚えている。
 昔から放浪癖があり、稀に姿を現すと、怒ったような素振りを見せながら、笑顔で迎えてくれた人たち。
 馬鹿馬鹿しいほど暖かく、幸せで、決して失われてはならないものだった。
 そんな、優しい人たちを奪ったのは、火事だった。
 ただ一人、兄の娘、那戯にとっての姪を残して。
 あの時の事を、決して忘れはしない。
 兄夫婦を奪った、あの赤い悪魔を。
 ──決して許しはしない。
 那戯が世界中を飛び回るのには、もう一つ理由があった。
 それは、兄夫婦の蘇生。
 それが、自分の我が儘だと自覚はしている。
 だから、今回の被害者……水町家の人々をも、その枠には入れようとは思わなかった。
 蘇生が、彼らにとって幸福とは決して限らないと。
 休んでいろと、言った。
 けれど。
 兄夫婦は、どう思うか、わからないけれど。
 自分の我が儘だと、完全な自身の我が儘ではあるけれど。
 その自覚は、あるけれど。
 那戯は、目を閉じ、そして開いた。
 ただただ、燃え盛る空を睨み付けていた。

 ◆ ◆ ◆

 ぺたぺたと、ひたひたと、夜の街をうろつく。
「キヒヒ」
 聞いている者があれば、耳障りな笑い声を上げながら。
「やった、やった」
 キヒヒヒ、とそれは笑う。
 ぺたぺたと、ひたひたと、夕飯時の住宅街をふらふらと。
「のろし、のろし、のろしは上がった」
 それは笑いながら夜の闇を歩いた。
「アァ、違った、のろしはとっくに上がってる」
 ひひひ、と喉の奥から笑い声が漏れる。
 ポケットからがさごそと、ボロボロの紙を取り出した。
「赤はキレイだなぁ、ヒヒヒ。まっかっかだ」
 気分が高揚して、楽しくて仕方がない。自然と鼻歌が零れた。
 ぺたぺたと、ひたひたと。
 それは、きゅきゅっと印をつけた。
「まっかだ、まっかだ、キヒヒヒヒ。これでいいんだろう?」
 口端をにぃとつり上げ、それは虚空に向かって笑った。
 山形に、北から南に向かって広がっていく、真っ赤な印。
 折りたたみ、再びポケットに突っ込んだのは、地図。
 キヒヒ、と喉の奥で笑って。
 ぺたぺたと、ひたひたと、夜の闇へと消えていく。

クリエイターコメントお待たせいたしました。
木原雨月です。

情報が少なかったことを非常に申し訳なく思います。
それでしたのに、皆様のプレイングが本当に真摯で嬉しく思いました。
また、思いもよらないプレイングもいただき、これは入れねば、と書かせていただいた部分もございます。
ありがとうございました。
少女ミズキも、柴犬ミズユも、きっと皆様方と出会えた事が幸福だったと思います。
犯人につきましては、またどこかで対峙することになるでしょう。その時は、またどうぞよろしくお願い致します。
改めまして、ご参加ありがとうございました。

口調や呼び方など、何かお気づきの点がございましたら遠慮なさらずにご連絡くださいませ。
ご意見・ご感想などもありましたらば、是非お気軽にお送りください。
それではまた、何処かで。
公開日時2008-09-23(火) 12:40
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