暑い季節がだらだらと重い腰を上げ、そろそろと狼狽えるようにやって来た実りの季節。未だ炎天と秋空を行ったり来たりする中、今日は穏やかな春の日に似て散歩に適した清々しい蒼空だ。
男は月白に漆黒を挿した髪を揺らしながら歩いていた。特に目的があるわけでもないようで、ふと気が向いた路地を曲がってみたりする。歩を進めるたびに、一房二房とだけ伸びた月白の髪が首を擽った。その首もまた髪に劣らず白く、身に纏う黒の衣服がさらにそれを際立たせた。
ちらちらと振り返る人々。この銀幕市においては、男は特別な存在ではなく、また珍しくもない。ここには夢の子供によって魔法をかけられ、異形とも呼べるものたちが日夜闊歩しているのだ。男は色素は多少変わりこそすれ、人型をしている分、近付きやすくもあるだろう。右の瞳は金色で、すうと鼻筋が通った好男子だ。しかしその左半分は、奇妙な仮面が張りついていた。いや、仮面などではない。確かにそれは男の皮膚である。白い肌はぞわぞわと鈍色に浸食され、本来は白い筈の角膜は闇に染まり、虹彩は闇にぽとりと落ちた血色をしていた。それが人の目を惹いたのだ。男は歩き続ける。
その足をはたりと止めたのは、視界に見覚えのあるものを捕らえたからだ。首を回して見やれば、淡い紫の花弁を羽のように開いた儚げで可憐な花。
ふいにつきりと痛んだ気がして、男は胸に手をやった。
白いくっきりとした鎖骨の下に刻み込まれた、No.413───……
◆ ◆ ◆
大きくなったら、僕、必ずここに戻ってくるよ。
戻ってくる?
うん。
ホント?
本当だよ。絶対、ここに戻ってくる。約束する。
わかった。約束よ。ずっとずっと、待ってるから。ミサギのこと、ずっと、待ってるからね。
約束。
春の事だった。
十三歳になった木野壬鷺は、真新しい服を着て、壁の薄汚れた孤児院の前で、待っていた。
今日は、壬鷺に新しい家族が出来る日である。
壬鷺がこの小さな田舎町の孤児院にやってきたのは、五歳の時の事だった。両親と壬鷺と三人で、ドライブをしていた。街から離れた緩やかな山が連なっていて、トンネルも掘られていないのでぐるぐると山を回るように越えていく。事故が起きたのは突然で、何がどうしてそうなったのか、壬鷺にはわからなかった。覚えているのは、和やかな笑顔と笑い声。それから、目の前が真っ白になるほどの衝撃と、耳を劈く悲鳴。その時に、両親は死んだ。壬鷺だけが奇跡的に助かった。
父と母が死んだなんて、信じられなかった。緩やかな勾配の山に隔絶されたこの小さな田舎町に、引き取ってくれた孤児院に馴染むのには、かなりの時間が掛かった。それでも壬鷺がここで笑っていられたのは、五人の孤児と、孤児院の院長、アンナのお陰だった。アンナは穏やかな目をした強い女性だった。泣き叫んで目覚めた夜も、眠れなくて孤児院を飛び出した時も、強く抱きしめて、静かに背を撫でていてくれた。五人の孤児は、ひもじいだろうに文句の一つも言わず、アンナを手伝った。煩がって怒鳴った時も、喧嘩になった時も、それでもミサギと名前を呼んで、笑ってくれた。それが、どんなに救いになったか。自給自足の毎日は、食いつなぐので精一杯だったけれど、穏やかで満たされたものだった。
そうして八年が過ぎ、十三歳になった壬鷺に里親が現れた。このまま穏やかな日が続くのだと、なんの根拠もなく漠然と思っていた壬鷺だったが、それをきっかけに将来というものを考え始めた。
自分に出来る事はなんだろう。
この、暖かな場所に恩返しをする方法はなんだろう。
そうして行き着いた答えは、町の外で多くを学び、それを孤児院のために役立てたい。
今日は、その決意が形になる日だった。遠くの方から、エンジン音が響いてくる。黒い車でやってきたのは、眼鏡をかけたスレンダーな女性で、スミハラと名乗った。会うのは二度目。緊張はしたけれど、壬鷺は期待で胸がいっぱいだった。
「ミサギ」
声に振り返ると、アンナと子供たちが並んで立っていた。一人が、花を抱えてやってくる。ランという同い年の女の子で、一番の友人だった。赤毛の三つ編みを、鎖骨の辺りまできっちり結んでいる。
「これ、持って行って。……元気でね。私たちの事、忘れないで」
細長い花びらを持つ、淡い紫の花。壬鷺が、一番好きな花。ふと顔を見れば、今にも涙が溢れそうで。壬鷺は笑った。
「大きくなったら、僕、必ずここに戻ってくるよ」
ランの大きな瞳が揺らいだ。
「戻ってくる?」
「うん」
「……ホント?」
拗ねたような口調と表情に、壬鷺は本当だよと少し向きになった。返事をする前に、壬鷺はスミハラに聞いていた。外の街では色んな事を学べるだろうかと。勉強して、いつか戻ってくることはできるだろうかと。スミハラは言ったのだ。この町では学べない事がたくさんあるだろう、色んな事を学んで、やるべき事をやったなら、戻ってくればいいと。ここでは学べない事を外で学び、それを生かす場にすればいいと。
ランは壬鷺の剣幕に少し驚くような顔をして、きゅうと壬鷺の裾を握った。
「絶対、ここに戻ってくる。約束する」
「わかった。約束よ。ずっとずっと、待ってるから」
「約束」
アンナに教えて貰った、約束を守るしるしの指切り。それから壬鷺は、貰った花束から一本花を抜き取った。それをランに渡した。スミハラに呼ばれて車に乗り込んだ。アンナが体に気をつけてねと、目の端を滲ませながら笑っていった。壬鷺もきゅっと口を一文字に結んで、笑って、手を振った。
「きっとよ」
走り出した車を追い掛けて、ランが叫ぶ。
「ミサギのこと、ずっと、待ってるからね」
ランが点になり、見えなくなった。見えなくなるまで、壬鷺は窓から体を乗り出して、腕を振り続けた。
「いい子ね。……寂しい?」
スミハラが聞いてきた。壬鷺は、零れる涙をぐいと拭って、真っ直ぐにスミハラを見た。
「寂しいけど、寂しくないです」
貰った花束に顔を埋めて、壬鷺は目を閉じた。目を閉じれば、少し目頭が熱くなりながらアンナやランたちの笑顔が瞼の裏にはっきりと映る。
スミハラは、そう、と目を細めて笑った。
「ねぇ、壬鷺。その花の名前を知ってる?」
聞かれて、壬鷺は首を振った。薪拾いに山へ入った時、偶然に見つけたのだ。あんまりに綺麗だったのでみんなにも見せてあげたくて、引っこ抜いて持って行った。子供たちは喜んでくれたけど、アンナはあまりいい顔をしなかった。一生懸命生きている命を、そうやって殺してしまっては駄目でしょう、と。また元気になるかはわからなかったが、元の場所に植えた。それは、そのまま枯れてしまった。申し訳なくて、悲しくて、一晩中泣いていた。季節が巡ってまた春になると、同じ場所でその花を見つけた。とても嬉しかった。今度は花が散って種が出来るのを待って、その種を持ち帰って庭に撒いた。芽が出るといいねと、みんなで大事に育てた。やがて小さな芽を出し、緑の葉っぱが膝を超えた頃、こぢんまりとした庭の一角に、紫の花が咲き誇った。一番喜んだのは、きっと壬鷺だったろうと、思い出すと少し恥ずかしい。
「それはね、シランというの。紫の蘭と書いて、紫蘭」
紫蘭。
口の中で小さく呟いて、壬鷺は笑った。ランの名前だ。大きくなって戻ったら、一番にこの花の名前を教えてあげよう。ランの驚いた顔と、照れくさそうに笑う顔が思い浮かんで、壬鷺は微笑んだ。
どれだけ走っただろうか。日が暮れる頃には、町を取り巻く緩やかな山を越えていたと思う。慣れない車と緊張のせいか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。スミハラに呼ばれて目を覚ました時には、見た事もないような、大きな岩のような四角い建物がたくさん並んだ道を走っていた。空はすっかり暗くなっていたが、道にはたくさんの明かりが並んでいて、昼間のように明るかった。壬鷺は目をまん丸くして見入っていた。木が見えないのも、不思議だった。どこもかしこも何か固いもので覆われて、土がまるで見えなかった。
壬鷺は少し、怖くなった。空は狭く、星は見えない。とても窮屈に思えた。
けれど、これからこの場所で、壬鷺は暮らすのだ。そしていっぱい勉強して、そして大きくなったならあの小さな町に戻り、きっと役に立つのだ。そう思うと不安は消えて、頬が緩んだ。
やがて車は、天辺の見えない壁のような建物の中に吸い込まれていった。灰色の壁がたくさんの白い明かりに照らされて、少し寂しい感じがした。広い場所に、車がぽつりぽつりと止まっている。壬鷺は首を傾げた。
家に行くのでは、ないのだろうか。
いや、もしかしたらこれが噂に聞く「まんしょん」とか言う家がたくさん集まった場所で、スミハラはそこに住んでいるのかもしれない。大きな街では「まんしょん」に住む人が多いらしいと、聞いた事がある。
車は進んでいく。とても静かで、車のエンジン音とタイヤの擦れる音がやけに響いた。そしてようやく止まると、壁と同じ色のドアから同じ格好をした男の人たちが車をぐるりと囲んだ。ドアが乱暴に開けられ、引き摺るように車から降ろされる。堪らずスミハラを振り返ると、大丈夫よ、と微笑んだ。壬鷺は小さく頷いて、促されるままに歩き出した。その拍子に手から花がこぼれ落ちる。紫蘭。ランと同じ名前の花。拾おうと振り返ったが、止まる事は許されなかった。紫蘭は無残にも黒い靴に踏みにじられた。壬鷺は何か言いたかったが、舌が喉に張り付いたかのように声が出ない。後ろでスミハラと男が喋っている。心臓の音が耳に五月蠅くて、何を言っているのかはわからなかった。
壬鷺は真っ白な廊下を引き摺られるように歩いていた。両側を体躯のいい男にがっきと捕まえられていて、歩幅もまるで違う壬鷺は時々足が宙に浮いた。ずっと階段を下りていく。階段は薄暗く、寒かった。身が震える。
階段を下りきると、壬鷺は目を見開いた。そこには鉄格子がずらりと並び、壬鷺と同じぐらいの年の子供が鎖に繋がれていたのだ。それは、牢屋と言うが相応しいものだった。呆然とする壬鷺を強引に引き摺って、男たちは扉を開け、壬鷺を放り込む。バランスを崩して壬鷺は倒れ込んだ。嫌な匂いがする。立ち上がる間もなく足を引っ張られ、固い床に頭を打ち付けた。冷たい感触が足に食い込む。何、と思った次にはもう片方の足も引っ張られて冷たい床に這いつくばった。その足にも冷たさが走って、壬鷺は思わず足を引いた。思い金属音がして、ずっしりとした重みが両足にかかった。見ると、鈍い光を弾いて、壬鷺は壁に鎖で繋がれていた。全身が震える。
ここは、一体、なんなんだ。
混乱する頭で必死に考えるが、思考は空回りして霧散する。
鈍い金属音がして、壬鷺は振り返った。そこには、壬鷺と同じように鎖に繋がれた少年が居た。薄汚れた顔は、窶れていた。目だけが異様にギラギラと光っている。
「よう、新入り」
口の端を歪めて、少年は笑った。壬鷺はただ少年を見返した。
「残念だったな、こんなところに連れてこられちまってよ」
言っている意味が、よくわからない。
「お前、幾らで売られたんだ?」
壬鷺は目を見開いた。
売られた。
誰に。
あの町の人たちに。
アンナに?
「違う!」
叫んだ。
売られたなんて、そんなこと、ない。
「アンナは、そんな人じゃない。両親が事故で死んで、一人になった俺を家族として迎え入れてくれた。そこに住んでた子たちもそうだ。スミハラって人が来た時も、行け、って言わなかった。スミハラさんは僕が気に入ったから、引き取りたいって言ってるけどどうする、って聞いてくれた。アンナは、残ってもいいって言ってくれた。でも、僕は、町を出て勉強して、あの孤児院で役に立ちたいから、いつかきっと戻るって、約束して、それでっ」
「ノコノコこんなトコに来た、ってワケか。ふん、どっちにしたって馬鹿だな、お前」
壬鷺はぎり、と唇を噛んだ。
少年は冷ややかな目で壬鷺は見下ろした。
「お前、帰れねぇよ」
帰れない。
なぜ。
だって。
必ず帰ると、約束して。
「お前だけじゃねぇ。ここにいる全員、生きてここを出られねぇ。連れて行かれたら、二度と戻ってこねぇ。鎖を外したヤツもいたけど、その場でズドンだ」
言って、少年は顎で斜め向かいの牢屋を指した。見やると、黒く汚れた床に、腐って腐臭を撒き散らす物体が転がっていた。それが人だと気付いて、壬鷺は思わず口に手をやる。
「ああやって、見せしめにすんだ。どう足掻いたって、逃げらんねぇって脅してんだ。どっちにしたって、生きて帰すつもりなんかねぇくせによ」
唾を吐く。冷たい床に音が反響して、しんとなった。
「ここ、は」
ようやく口を開くと、少年は壬鷺を振り返った。
「ここは、一体、なんなの?」
「ここか」
少年は口端を歪める。
「ここは、生体兵器を作ってる、実験所さ」
「せいたい……へい、き?」
聞き慣れない言葉に、壬鷺は首を傾げた。
「お前、マジでド田舎から来たんだな」
呆れたように言って、少年は座り直す。
「この組織はな、どっか別の組織と戦争してんだよ。でも、機械じゃ限界ってモンがある。AIっつー人工知能も、人間にゃ敵わねぇんだと。だから、人間を改造して、兵器にしようって考えた。だから、子供をあっちこっちからかき集めて、実験を繰り返してる。孤児なら後腐れがねぇって考えたんだろ」
壬鷺は言葉を失った。
まるで真っ暗な穴の中に一人、放り込まれたような気がした。
何もない。
ただ、真っ暗な穴。
少年はトントンと自分の胸を指した。目だけ上げると、痩せて骨張った体に、文字が刻み込まれているのが見えた。
「No.409。これが、ここでの俺の名前」
そう歪んだ口端が、目が、寂しそうに笑って。
壬鷺は目を伏せた。なんて言っていいのか、わからなかった。
「名前は聞かねぇよ。見ての通り、ここじゃ意味ねぇからな」
冷たい金属の音がする。
「お前は、ここに来た理由を話したから、俺も言っとく。俺は、十万でここに売られた。たかが十万が、俺の命だってよ」
壬鷺は目を見開いた。思わず少年を見つめた。
十万という金額が、どれだけのものなのか、壬鷺にははっきりとはわからなかった。自給自足が普通で、服は小さくなった服を繋ぎ合わせたり繕ったりしていたからだ。
けれど。
売られた。
その事実が、信じられなかった。
そんなことが、あるなんて。
「親は……生きてんのか死んでんのか、知らねぇ。赤ン坊の時、孤児院の前に捨てられてたんだってよ。まあ、それを恨んでねぇったら嘘になるかもしれねぇけど、顔も知らねぇヤツなんか、怒る気も起きねぇやな。そんで……まあ、俺は暴れモンだったからよ、あの孤児院もあんまり居心地は良くなかった。あんまりよく思われてねぇのも、知ってたし。だけどな、ココよりゃ、マシだった。ずっと、ずっと、マシだった。だから、売られたって知った時は、正直……ショック、だった」
アンナは、親じゃないけど、お母さんがいたらこんな感じなのかと思った。
ランは、兄弟じゃないけど、もし兄弟がいたらこんな感じなのかと思った。
両親は、とうに死んでしまったけれど。
微かな記憶に、笑顔が残っている。
「おい」
少年の顔が、くしゃりと歪んだ。
「なんでお前が泣くんだよ」
言われて、自分が泣いている事に気付いた。
わからない。
どうして泣いているのか。
ただ、溢れ出して止まらなかった。
少年が壁にもたれる。冷たい、金属の音。
「お前は、良いヤツだ。幸せなとこで育ったんだな。それは、ちょっとだけ羨ましい」
そう言って笑った顔は、壬鷺とあまり年の変わらなく見えた。
次の日、少年はあの同じ服を着た屈強な男に連れられていった。じゃあな、と言って笑った顔が、寂しかった。
少年が戻ってくる事は、なかった。
薄暗い部屋では、時間の感覚は失われた。食事はお腹が空いてお腹が空いて、空腹も感じなくなった頃にようやく運ばれてくるという有様だった。実験のための大事な体だから、餓死させるということはないのだろう。実験体となって死ぬくらいなら、餓死を選んでやる。そう思った時もあったが、食事が目の前に運ばれてくると、夢中になって貪り食った。
死にたくない。
その一心で。
アンナたちの顔が、よく浮かんだ。今頃、どうしているだろう。
今の壬鷺を見たら。
どう、思うのだろう。
涙が溢れて止まらなかった。
壬鷺が牢屋から出されたのは、元々痩せている体がすっかり窶れてからだった。壬鷺の目を見て、男は薄く笑った。
引き摺られるように階段を上って、久々に見た白い壁はあまりに眩しくて、目が潰れる気がした。男は歩き出す。相変わらず歩幅が食い違って、壬鷺はよろよろと歩いた。真っ白な壁の中を歩いていると、気が狂いそうだと思った。
やがて大きな扉の前に出た。番人のように、男と同じ服を着た奴らが立っている。壬鷺を見ると、巨大な扉を開いた。中はやっぱり真っ白で、だが真ん中にはベッドが一つと、何かゴチャゴチャとした機材が所狭しと置かれていた。
人体実験。
壬鷺の頭に、その言葉が蘇る。
生体兵器開発のための。
今までの人たちは、どうなったのだろう。死んでしまったのか。戻ってこない、人たちは。
あの人は。
No.409と刻まれた、自分と変わらない年に見えた、あの少年は。
思っていると、壬鷺はベッドの上に転がされ、拘束具でまるで身動きが取れないように固定された。かろうじて指先が動く程度だ。
目だけを動かすと、見覚えのある顔が見えた。女。スミハラ。笑ってる。
壬鷺は怒りを覚えた。瞬間、体に電撃が走る。思わず叫んだ。胸が熱い。苦しい。汗が噴き出した。胸の圧迫感が消えても、熱さは引かなかった。転げ回りたかったが、動けなかった。
荒い息を吐いて、スミハラを睨め付けた。ギリと歯を食いしばる。スミハラは一層笑みを深めて、何か指示をするように手を振った。腕に冷たい感触があって、微かな痛みがあった。細い針が、腕に刺さっている。注射だと気付いた時には、何かが体の中で暴れ出した。まるで巨大な蛇が体を突き破ろうと暴れ回っているようだった。
叫んだ。
拳を叩き付けてやりたかったが、動けなかった。
ただ叫んだ。
暴れ回る蛇が、腕を、腹を、足を、胸を、頭を駆け巡る。
壬鷺を突き破って外へ出ようと、藻掻いている。
死ぬのか。
ふいにそんなことが浮かんだ。
死ぬのか。
こんなところで。
死ぬのか。
約束があるのに。
死ぬのか。
戻る事も出来ず。
死ぬのか。
アンナ。ラン。みんな。
笑顔が浮かぶ。
紫蘭の花。
あの花の名前を、教えてあげるんだ。
戻って。
必ず戻って。
叫んだ。
蛇が暴れ回っている。
死にたく、ない。
体中が燃えるように熱い。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
こんなところで、死にたくない。
会いたい。
もう一度。
あの、優しい笑顔に。
あの、温かい場所に。
いきたい。
目の前が真っ赤に染まった。
「素晴らしいわ。流石は、あの方々の子ね」
女の声がする。
「ええ。今まででしたら、アレを投薬しただけで死んでいましたからね」
男の声がする。
「第一段階は、成功といったところかしら」
「ええ、ようやく」
くすくすと笑う、声がする。
「では、目覚め次第、続けて頂戴。楽しみだわ」
「ええ、まったく」
うっすらと目を開ける。真っ赤に染まったと思った視界は戻って、白い光が目に刺さった。白衣を着た男が、目の前で手を振る。眉根を寄せると、手は引っ込んだ。
「気分はどうだい、No.413」
さっきの男の声。
「No.413。聞こえているかね」
眼鏡をかけた、太った男の顔が視界に入って、自分が呼ばれているのだとわかった。
No.413。
それが、ここでの僕の名前か。
そう思って、嗤った。
「No.413」
「怒鳴らなくても、聞こえてるよ。気分はどうだ、っていう質問だったっけ。悪いよ。とても悪い。あなたのせいでね」
男の顔が歪む。肉のせいで、どんな顔をしたのかはわからなかった。顔が引っ込む。腹に衝撃を感じて、息が詰まった。口の中が酸っぱい。何かを吐き出した。つんとした臭いが鼻を突いた。また腹に衝撃が来る。断続的に続いて、それが終わる頃にはもう何も吐くものはなかった。顔を乱暴に拭われて、腕に痛みがあったかと思うと、そのまま意識を失った。
目が覚めて、白い天井を見つめた。
腹に違和感を感じて起き上がろうとしたが、体が動かなかった。それで、拘束されていた事を思い出す。頭も首をベルトのようなもので固定されているようで、腹に何があるのか、確認する事はできなかった。
扉の開く音がする。視線をやると、あの太った男がかろうじて見えた。男は驚いた顔をした。
「いや、驚いた。大した回復力だな、No.413」
「お腹を、開いたの」
言うと、男はニヤリと笑ったようだった。
「知らなくてもいいんだよ、No.413。君は、生き残ればいい。それだけさ」
生き残ればいい。
確かに、その通りだった。
その日はまた何かを注射された。初めの時のような暴れ回るような感覚はなかったが、何かが体の中を這い回っているような感じが気持ち悪かった。
目を閉じる。
目を閉じれば、あの優しい笑顔が蘇る。
あの笑顔に会うために。
いきよう。
「髪の変色、瞳の変色、一部の肌の変色と、色素異常があちこちに見られます。精神が不安定で、それから、一部の記憶障害ですね。身体能力は、素晴らしいのですが」
「拘束具を外した時は歩けないのではないかと危惧しましたが、No.413はいきなり駆け出しましたからね。今やもう、どの測定器も壊されてしまって計りようがない」
「いやぁ、あんまり興奮するんで驚いたよ。警備兵を配備していて良かった」
「それにしても、予想以上の結果ですね、彼は」
「ねえ、スミハラ主任」
「そうね、あの方々の子ですもの。貴方方にミスがなければ、彼は必ず私たちの役に立ってくれるわ」
「……うーわ、おっかねぇ」
「浮かれるな、と言いたいのだろう」
「最も、色素異常や記憶障害は想定の範囲内だとして、問題はこれからだしな」
「ああ。今は異常で済んでいるが、精神が崩壊してしまったら使い物にならない」
「気を引き締めていかないとな。ヤツはもう、鎖を引き千切るくらい、訳ないぞ」
「今日は何をするんでしたっけ?」
「主任の前で言うなよ、首と胴を話されたく無かったらな」
「冗談ですよ、新薬の投薬でしょ」
五月蠅い。
頭の上で、何かがゴチャゴチャ騒いでる。
握り潰してやりたかったが、今は大人しくしていなければならない。
狂って暴れたものの末路は、この目で見た。
蜂の巣。
そんなもんじゃない。
あれは。
ただの、肉片だ。
五月蠅い声が遠ざかって、目を開けた。太った男がにこにこと気持ち悪い笑みを浮かべている。
「お目覚めかい、No.413」
「見ればわかるだろ」
鼻で笑うと、男は明らかに表情を変えた。これだから、単細胞の豚は。
「やれやれ、君も口が悪くなったものだ。誰に教わったんだい」
誰に。
知るか。
ああ、だけど。
誰だったか、前に、こんな喋り方をするヤツがいた気がする。
誰だっけ。
……まぁ、いいか。
腕に痛みが走る。いつもながら、突然だ。だが、いつもと何か様子が違う。壬鷺は眉根を寄せた。
「おい」
「何かね」
しれっと言う男に、唾を吐きかけた。途端、男が耳障りな声を上げて転げ回る。肉の焼ける臭いがする。悲鳴に廊下からバタバタと駆けてくる足音が四つ。何か怒鳴り合っている。ああ、五月蠅い。
目を閉じて、体を走る感覚に意識を向けた。
暴れ回る感覚が、いつもと違った。いつもは外へ外へと向かっていたものが、今は内へ内へと忍び込んでくる。舌打ちをした。
「てめぇ、毒を打ちやがったな! 俺がこれぐらいで死ぬと思ったか! それとも嫌がらせのつもりか!」
喚き散らした。頭を振る。白と黒の斑になった髪が何かに引っかかった。舌打ちをして喚く。唾が飛ぶ。落ちて頬に掛かり、肌を焼いた。焼けたところから、新しい皮膚が這うように覆い被さる。
「殺してやる、この豚が! いつまでもイイコチャンでいると思うなよ!」
「おい、押さえろ!」
「口塞げ! 唾に触れるな、焼けるぞ!」
「畜生、触るな! 虫酸が走る! てめぇ一人じゃ何も出来ねぇ豚のくせに、いっちょ前に毒なんぞ打ちやがって! 殺してやる、殺してやる、四肢を引き抜いて転がしてやろうか! 豚は豚らしく、転がってりゃいい! 畜生、触るな、畜生!!」
「どうしたの、No.413」
「危険です、主任!」
スミハラの声。金の瞳をぎょるりと向けた。
「ああ、シュニン。そこの豚が俺に毒を盛りやがった。殺させろよ、殺していいだろう、こんな豚、代わりは幾らでも居るだろう!」
豚が情けない声を上げる。スミハラはただ静かに微笑んで、そっと頭を撫でた。
「良い子だから、静かになさい。あれの処分は、私がしておきます」
「それじゃあ、駄目だ。俺の気が済まねぇ。いい「実験台」だろう? 俺も、あいつも、今のこの状況も、アンタにとっちゃぁよ!」
「お、おい、No.413……っ!」
ただの鎖だったら引き千切ってやるものを、いつの間に何かの合金に変えたのか、ガチャガチャと台が揺れるだけで、外れる気配は今のところ無かった。それがまた苛立たしい。腹が熱い。豚なんかもうどうでもいい、さっさとこの熱さを取り除いて欲しかった。
「そうね、その通りよ。でも、今は駄目。まだ、彼は使い道があるの。二度と彼に貴方を触らせない。これで、どうかしら?」
「そんなもんはどうでもいい、さっさと解毒剤を打て。腹が熱い」
「今、打つわ。動かないで頂戴」
息を吐いて、力を抜いた。ぷつと腕に痛みが走る。すぅと体に溶けていく感じがする。腹の熱さがもうなくなった。
「ああ、楽だ。もういい。俺は寝る」
「ええ、おやすみない」
目を閉じた。
瞼の裏に、誰かの笑顔が映っている。
誰だ?
まあ、いいか。
「すごいな、何を打ったんです?」
「ただの葡萄糖」
「ええ、それでどうして」
「彼が打ったのは、新薬よ。間違いなくね。彼は馬鹿だけれど、愚かではないわ。けれど、No.413は毒だと判断した。それだけ、彼が気に食わなかったんでしょうね。あんなに嫌がっていたのに、ふふ、自分から酸の唾を吐いたわ」
「はぁ……」
「貴方も気をつけなさい。No.413に殺されたくなければ、馬鹿な事は考えない事よ」
目を開けた。
スミハラと、ひょろりとした男が立っている。
「お目覚めね。今度から、彼が貴方に触ります。いいわね」
「いいさ、アンタの好きにすればいい」
言うと、スミハラは男に頷いて、ガラスの向こうへ行った。スミハラはいつも、ガラス越しに見ている。ひょろりとした男が注射針を持つ。
「それじゃ、注射します。今回投与するのは、新薬です。かなりキツイと思うんで、覚悟してください」
「わかった」
冷たい感触がして、それから微かな痛みがある。何かが体に流れ込んでくる。血管を通って、体中を巡っていくのが解る。それは、不思議な感覚だった。冷たい。冷たい何かが、這い回っている。ふいに頭を殴られたような気がして、焦った。視界が歪む。息が苦しい。
なんだ。何が起こっている。
体が動かない。何かが自分を取り押さえて、殺そうとしている。このままではいけない。逃げなければ逃げなければ逃げなければ。
ふいに笑顔が浮かぶ。
誰だ。スミハラ。違う。
温かい。薄汚れた壁の。小さな花壇があって。子供たちが笑ってる。花。花が咲いている。紫の。あれの、名前は。笑顔。なんだ。何か言ってる。聞こえない。何を言っている。呼んでいる。俺を。僕を。アンナ。そうだ。ラン。花。紫蘭だ。小さな田舎町。帰る。帰るんだ。帰ろう。あの温かい場所へ。
体が動かない。視界が真っ赤に染まる。
笑顔。
誰だ。男。女。車。山道。笑い声。違う。焦ってる。何を。逃げる。何から。窓ガラス。割れる音。黒い。黒い車。同じ。同じ服を着た。叫んでる。女が。男が。怖い。怖い。どうして。僕は。運転してるのは。父さん。衝撃。体が跳ねて。黒い。黒い筒が。狙ってる。こっちを。その向こうで。笑ってる。女。誰。叫ぶ。何を。何て言ってるの。聞こえない。違う。聞こえてる。叫んでる。僕の名前。あなただけは。そう。笑った。赤い。真っ赤だ。笑ってる。笑ってる。笑って。動かなくなった。真っ赤だ。真っ赤だ。
「母さん!!」
誰か。
誰か。
誰か。
誰か。
誰か。
助けて。
母さん。
助けて。
熱い。
苦しい。
痛い。
体が引き千切られる。
痛い。
痛い。
悲しい。
苦しい。
母さん。
どこ。
どこに。
母さん。
黒い。
黒い筒の向こう。
母さん。
助けて。
誰か。
母さん。
母さん。
母さん。
「ミサギ」
笑ってる。
手を差し伸べて。
僕に。
俺に。
笑ってる。
ああ。
ああ。
母さん。
母さん。
母さん。
ああ。
もう熱くない。
寒くない。
温かい。
とても。
とても。
「母さン、俺、とテモ眠インだ」
「いいわ、今はゆっくり眠りなさい。ずぅーっとここに、いるから」
「ソレなラ、安心ダ。ナんだカトテも体が重クて、トても疲レた」
「ちょっと疲れているだけよ。眠れば、疲れも取れるわ」
「ウん。ソウだと良いナ。おヤスミ、母さん」
目を閉じた。
とても温かい。
「……ふふ、可愛い子。そうよ、それでいいのよ。たくさん動いて疲れたでしょう。お腹も一杯になったでしょう。ゆっくりお休みなさい、ミサギ。明日からは、その身体の使い方を覚えていきましょうね」
ガラスが破れ、機械は破壊され、肉が飛び散り、血が飛散する。
地獄絵図の中で、母さんは微笑んだ。
山道を走っていた。
なだらかな山で、トンネルさえもない。いつまで経ってもちっとも近付かない山が面白かった。ぐるぐると山を回って越えると、こぢんまりとした小さな町が見えてきた。一面緑の畑が新鮮で、窓に張り付いて見ていた。
縄梯子の掛かった奇岩の脇を走り抜けて、車は止まった。車を降りる。町の人々が、こちらを見ている。
「ミサギ」
母さんが言った。
「この町を、壊しなさい。生きている人間は、殺しなさい。そうそう、自己紹介を忘れずにね」
「ワカッた、母さん」
左腕を上げる。腕の形がどろりと溶けて、響めきが起こる。気にせずに続行した。ぼこぼこと形を変化させ、黒い塊が姿を現す。それを、ぽかんとしているものに向けて。
「初めましテ、皆サン。ミサギ・スミハラと、お見知リおきくだサイ」
戸惑いの声が、驚きの声に変わった。
そんなものは気にせず、ミサギは撃った。母さんが、町は壊して人間は殺せと言ったからだ。
轟音が鳴り響き、悲鳴が蔓延する。ミサギは駆けた。右腕から日本刀を生やし、手近な人間に斬りつけた。耳障りな悲鳴がして、脳天に刀を突き刺した。これで静かになった。逃げる人間がいる。ミサギは振り返ることなく、それを蜂の巣にした。後頭部からサブマシンガンが覗き、煙を吐いている。
「化け物!」
誰かが叫んだ。ミサギは首を傾げ、町を蹂躙していく。果敢にも鍬を振り上げてきた青年を、避ける事もせずに左腕で首を締め上げた。右腕が落ちている事に気付いて、ゲル状にして足にくっつけた。ボコボコと身体が波打って、それはともかく新しい右腕を生やした。人間が、自分を睨み付けている。右腕からもう一度日本刀を出現させて、その首を引っ掻いた。血が天に向かって噴き出した。青い空に赤が舞って、綺麗だと思った。
少し離れたところにぽつんと建つ家を見つけて、ドリルで壁を引っ掻きながら玄関まで回った。玄関に回る頃にはもう家は傾いていて、一押しすれば崩れてしまいそうだった。扉を開けようと手をかけると、勢いよく扉が開いて何かが飛び出してきた。軽く腕を振ると、背中からバッテン印に血が噴いた。泣き声がして、五月蠅いと思った。マシンガンが吼えて、静かな肉塊になった。静かになったところで、家を本格的に崩し始めた。壊すのが、母さんの望みだ。ガラガラと音を立てながら、家は崩れていく。草が生えた一角も、足から車輪を生やして踏みつぶした。
すっかり平らになって、満足げに頷く。母さんの所に戻ろう。思って、ふと足下を見やればさっき背中を斬って殺した人間が、見覚えのある花の束を持っているのに気付く。細い花弁の、紫の花。なんだっけ、と思ってしゃがみ込み、摘んでみる。知っているような気もするが、知らないような気もする。首を傾げて、ぽいと放った。それからふと人間を見る。きっちりと三つ編みにされた髪をなんだか知っている気がして、ぐいと引っ張って持ち上げた。口端から血を流している。目からは透明なものを流したようだ。
つきりとどこかが痛んだ気がして、胸に手をやる。怪我は、していない。
「ミサギ」
母さんの声に、振り返る。
「その女を、バラバラにしなさい」
「ワカッた、母さん」
もう一度だけそれの顔を見て、首を傾げて、赤い髪を掴んだ。肩を押さえて、引き抜く。死んでいるので噴き出しはしないが、夥しい量の血が流れ出して、川を作った。その顔をもう一度見て、ぽいと転がした。両腕と両足も引き抜く。腹を踏みつぶして、二つに裂いた。中身がぶちまけられる。
「行くわよ、ミサギ」
母さんは満足そうに笑って、踵を返した。
「ワカッた、母さん」
答えて、それから転がした頭をもう一度、見た。うっすらと、誰かの影が重なったような気がしたけれど、やっぱり何も思い出さなかった。
◆ ◆ ◆
「……───?」
ふいに視界が歪んで、ミサギ・スミハラは目を擦った。濡れている。
泣いて、いたのか。
なぜ泣いているのかわからなくて、ミサギは首を傾げた。
視線の先には、見覚えのあるような気がする、細い花弁の紫の花。
なんとなく、春に咲く花だったと思う。
今日は天気が良くて春みたいだから、間違えて咲いたのか。
そんなことをなんとなく思いながら、ミサギは立ち尽くしていた。