★ 狐狸を斬る ★
クリエイター西向く侍(wref9746)
管理番号252-2208 オファー日2008-03-02(日) 20:24
オファーPC 岡田 剣之進(cfec1229) ムービースター 男 31歳 浪人
ゲストPC1 清本 橋三(cspb8275) ムービースター 男 40歳 用心棒
<ノベル>

(はてさて、これで何人目だったか)
 清本橋三(きよもと はしぞう)は油断なく得物(えもの)を構えつつ、頭の片隅でそのようなことを思案していた。
 彼の眼前では雄牛のような男が、ふがふがと鼻息を荒くしていた。巨体からゆらゆらと立ちのぼる陽炎は、闘気ではなく、単なる湯気だ。寒風が肌を突き刺す二月の午後に、慣れない運動のせいで、身体が異常に熱を発しているのだ。
「ふぎっ!」
 食いしばった歯の隙間から仔豚のような唸りが漏れた。ふらりと上体が傾(かし)いだが、なんとか持ち直す。目はうつろで、口の端からは涎が垂れていた。
(その体型でここまで来たのだ。無理もあるまい。それでも……)
 橋三は切っ先を対戦相手へと向ける。応じるように、男が大上段に振りかぶった。
(剣を捨てぬとは、天晴れ!)
 男の渾身の一撃が振り下ろされる。
 橋三が半身になってかわすと、男はその勢いのままアスファルトにつっぷし、自滅した。
「御免」
 言いざまに、男の後頭部をエアー長剣で一打ちする。
「勝負あり!」
 試合の趨勢(すうせい)を見守っていた審判が、右手を挙げ高らかに宣言した。観客からは歓声と拍手がわき起こった。
 男は「チキショウ!」とわめきながら、悔しさに涙をにじませ、アスファルトに拳を叩きつけ、八つ当たりしている。
 橋三はその背中に静かに一礼を送ると、エアー長剣であるのに、いつもの癖で血振りを行い、試合場をあとにした。
「やはり圧倒的強さです! これで清本さんの決勝進出が決定しました! そして、決勝の対戦相手はこのあとの準決勝第二試合で決定します!」
 アナウンサーの声がマイクでハウリングを起こし、デパート『にこにこタウン』の屋上にキンキン響く。すでに試合場に入りつつあった、次の試合の選手も顔をしかめて片手で耳を塞いでいた。もう一方の手には薙刀(なぎなた)がある。
(次のお相手は薙刀か。おぬしはどう立ち回るかな?)
 橋三は、自分と入れ違いに試合場へと足を運ぶ武士(もののふ)に視線で問いかけた。
 黒の着流しにざんばら髪といった典型的浪人の風貌である橋三と違い、その武士はきちんとした裃(かみしも)に身を包み、髷(まげ)を結っていた。
 名を岡田剣之進(おかだ けんのしん)という。
 剣之進は橋三とすれ違う際に目礼のみを残した。
(清本殿、やはり決勝まで残られたか)
 橋三と『にこにこタウン』の入り口で偶然に出くわした際に、こうなるのではないかという予感が頭をもたげた。その後、お互いに知己であるから、挨拶をかわしながら、さりげなく来訪の目的をたずね、はっきりと確信した。
 嗚呼、やはり。という思いが橋三の面相から見て取れ、おそらくは己の顔も同じものを浮かべているのだろうと思った。
「目的が同じならば、剣之進殿と剣を交えることもあろうな」
 橋三の言は、疑問形ではなかった。こちらも確信に近い言いぐさだ。
「そのときは正々堂々と」
 武士としての矜持か、はたまた脊髄的な反射か。とにもかくにも、剣之進は挑戦的な橋三の言葉に、同じく挑戦的な応じ方をした。
 今思えば、この銀幕市に来て久方ぶりに、胸の内にひそむ剣の虫が騒いだのかもしれない。平素はハンバーガー屋のアルバイトとして働いてなどいるが、彼は本来、剣に生くる者なのだ。
(よもや鈍ってはおるまいな)
 自問する。
 毎日とはいわないが、鍛錬は続けている。問題は、実戦でしか養われることのない、闘いの勘だった。
 相手はほとんどが素人だ。本職である剣之進が技量の上で負けるはずもない。負けるとしたら気迫、そして勘の部分であると、彼は正しく理解していた。だがそれも、準決勝に至るまでに取り戻しつつある。
(ここまで、抜かりはない)
 審判からエアー長剣を受け取り、対戦相手を見透かす。
(長得物(ながえもの)か)
 相手はすでに薙刀の先を剣之進に向かって突き出していた。ひょろりと背の高い、痩せぎすの若者だ。胸にキョウコちゃんの笑顔がプリントされたトレーナーを着ていた。顔には欲望と執念とがべったりと張り付いている。
(腰がひけているな。あれでは力のある動きはできまい。長さを活かして近づかせず勝ち残ったか)
 一通り頭の中で立ち回りと剣筋(けんすじ)とを巡らせてみたあと、剣之進は八相(はっそう)に構えた。



「ふわー! あのお侍さんの格好をしたレイヤーさんたちつよーい」
 特別観覧席で両手をたたいて喜ぶキョウコちゃんに、マネージャーはため息をついた。
「キョウコちゃん、彼らはコスプレしてるんじゃないんだよ」
「え? そうなの?」
 心底不思議そうにしている彼女に、マネージャーのため息がさらに深くなる。
「ちゃんと説明しただろ。ここは銀幕市といって、映画の世界から実体化した本物のスターたちがいるんだよ」
「えっ? えっ? ってことはぁ……あのレイヤーさんたちって本物なの?!」
 マネージャーはこめかみを押さえて襲い来る頭痛に耐えた。
 そもそもこのスポーツチャンバラ大会は、ちょっとしたおまけイベントの予定だった。主役は二人のムービースターなどではなく、最近テレビで活躍中のアイドル、キョウコちゃんだったのだ。
 彼女の初主演となる映画のピーアールのための握手会。それがこのイベントの本来の趣旨のはずだ。
 ところが、おまけであるはずのスポチャン大会に二人の侍が参加していたことにより、事態は予想外の方向へと転がりつつある。買い物に来ていた大人たちが侍たちの活躍に喝采を浴びせ、ついてきていた子供たちも声を上げて喜んだ。問題なのは、優勝賞品である、キョウコちゃん特製手作りバレンタインチョコを目当てに参加していたはずのファンたち(アイドルオタ)までもが、当のキョウコちゃんではなく侍たちに目を奪われつつあるということだ。
(このままじゃ、イベントは大失敗に終わってしまう)
 焦るマネージャーの耳に、割れんばかりの拍手が飛び込んできた。決勝に進むもう一人が決まったのだ。審判が勝ち名乗りを上げているのは、やはり岡田とかいう武士だった。
「こうなったら手段を選んでいられないな」
「ん? なんか言った?」
 訊ねるキョウコちゃんに答えることなく、マネージャーはパイプ椅子から立ち上がっていた。



「さて、ついに決勝戦です! 決勝に進まれたお二人の条件を同じにするため、ここで五分の休憩をとりたいと思います」
 アナウンサーの宣言に、観客たちが緊張の糸をほぐすように雑談しはじめた。世紀の一戦を見逃すまいと、今のうちにトイレに駆け込む者たちもいた。
 周囲の喧噪とは裏腹に、二人の武士(もののふ)は静かだった。
 橋三と剣之進は、試合場横に設けられた簡易テントでパイプ椅子にかけながら、涼をとっている。二月に涼をとるとはおかしなことに思われるが、決勝まで十戦以上こなしている二人にとって、冬の寒風は夏の涼風に等しかった。
「酒が――」
 先に口を開いたのは剣之進だった。
「酒が恋しゅうござるな」
「ほぅ、これまたどうして?」
 橋三の黒瞳に面白がる色が浮かんだ。二人で剣について語らい、茶を飲むことはあっても、いまだ杯を酌み交わしたことはなかった。酒席に誘われたことは一度もなかったのだ。
 一方、剣之進は剣之進で、そのことについて明確な理由を持ち合わせていなかった。年上であり、剣の上でも先達である橋三に対して、遠慮していたのかもしれない。
「拙者の剣の師は、酒が好きな御仁でしてな。剣を振るったそのあとには、必ず酌のお供をさせられたもので」
「なるほど。酒好きも師匠直伝というわけか」
 橋三がしきりにうなずく。
「呑むとかならず昔話をはじめる。嘘か真(まこと)かもわからぬ話が多くあり申した」
 剣之進が袂に手を差し入れたまま懐かしげに目を細めた。
「ほほぅ、たとえば?」
「狐狸(こり)のたぐいを斬ったことが、あるとかないとか」
 剣之進は苦笑してかぶりを振った。
 古来、齢(よわい)を経た狐や狸は人を化かす術を身につけるという。狐狸に化かされる話は、まだ夜の闇が深く静かだった時代には多く存在した。そして、それらを退治する話もまた多い。
 剣之進は「面白い師だったのだな」と大笑いでもされるのを覚悟していたが、橋三はそうはしなかった。見ると、思索にふけっている様子だ。
「狐狸を斬る、か」
 橋三のつぶやきを耳にし、剣之進は怪訝そうに眉をひそめた。
「存外、真かもしれんぞ」
 橋三が記憶をたぐるように空を見る。
「以前、聞いたことがある。狐狸を斬ることこそ剣の奥義であると説いた剣客がおったことを」
 最初は「酔っぱらいの戯れ言でござるよ」と否定しようとした剣之進だったが、橋三があまりに真剣に言うので、さらに当時のことを思い出そうとしてみた。
「しかし、酔ったとき以外にはそのようなこと聞いたこともござらん……」
「そうか。では、勘違いであったかもしれぬな。俺は剣術というものを正式に学んだことがない。すべて我流ゆえ、もともとその手の話にはうとい。すまぬ」
 丁寧に頭を下げる橋三に、剣之進はあわてて頭を下げ返した。
 五分とは思った以上に短い時間らしい。アナウンスが決勝戦の開始を告げた。
「では、仕合い場で」
 まずは剣之進が席を立った。やはり黙礼をして、橋三に背を向ける。
 彼がこのスポチャン大会に出たのは単なる腕試しが理由だった。いや、正しくは腕慣らしだったであろう。橋三の参加を知るまでは、誰に負けるつもりもなかったからだ。
(たまには実戦に近い感覚を思い出すのもよかろう)
 その程度だったに違いない。しかし、いまやこの決勝戦は真の腕試しの場となった。名の通った『斬られの清本』と刃を交えるのだから。
 この瞬間、剣之進の心中には酒も、博打も、女も消えている。師とともに過ごした研鑽の日々と様々な剣法の記憶とが、めくるめく思考の渦となりひとつの戦略を生み出していく。
 橋三の剣に型というものはない。それは知っている。知っているからこそ、柔軟に対応することが肝要と知る。
(己の型に当て嵌めて、相手を見てはならぬ。すべてが、まやかしと思わねば)
 ふと、狐狸を斬るという言葉が浮かんだ。狐狸とは化かすものである。
(もしや狐狸を斬るとは、まやかしの裏に潜んだ真実を斬ることなのかもしれぬ)
 剣之進の足は自然と歩を速めた。
 対して、橋三はゆったりと腰を上げ、ゆったりと風を感じた。余裕があったわけではない。むしろその逆だ。
(逸(はや)る心を落ち着けねば、到底まともな仕合いとはなるまい)
 彼がこの大会に名を連ねた理由は、友情だ。友人がアイドルのファンであり、賞品である手作りチョコを熱烈にほしがっていた。その頼みを受けての出場だった。
 剣之進の胸のうちに勝ち負け以外の雑念がないように、橋三の胸中からもまた闘いの目的は消え去っていた。一意専心。ただ一心に目前の勝負へと向かう。
 剣之進の太刀筋は正統である。訊ねたところによると、彼が修めたのは小さな流派であったようだが、それで侮るのは愚の骨頂というものだ。名にし負う剣流のみが強いとは限らない。それでは無流派である自分の腕前さえ否定することにもなる。
(それに、あの剣之進殿が無策で挑んでくるとは思えぬ)
 橋三はあらためて勝利への意志を強固にかためた。今回は、斬られるわけにはいかないのだ。
 双方、それぞれ、剣を振るう理由を持って決勝に臨んでいる。だが、二人ともそのような些細なことなど語りはしなかった。いかなる理由を聞いたところで決意が変わるはずもなく、剣が鈍るはずもない。ゆえに、聞いても聞かなくとも同じなのだ。



「あれあれぇ? マネージャーさん、どうしたの?」
 いつの間にかいなくなり、いつの間にか戻ってきたマネージャーに二の腕をつかまれ、キョウコちゃんはパイプ椅子から腰を浮かせた。
「いいから、こっちに来て」
 ぐいぐい引っ張るマネージャーに、彼女は不信感をあらわにした。
「もうすぐ決勝戦がはじまっちゃうよ?」
「だから、急がないと」
 言っていることがわからない。このマネージャーはいつもこうだった。強引に彼女を連れ回す。キョウコちゃんは腕を振り払おうとした。
「キョウコちゃんはアイドルだろ? だったら、みんなを楽しませなきゃ」
「そ、そうだけど……いったい何をするの?」
 そして、すぐに丸めこまれるのも、いつものことだった。彼女はマネージャーの早口の説明を聞くと、うんうんと大きく何度もうなずき、喜々として会場をあとにした。



 風が凪いだ。
 これから始まるであろう激闘を予測してか、自然さえも沈黙を選んだようだった。
「キョウコちゃんの手作りチョコは果たして誰の手に? 特別イベントもついに残るは決勝戦となりました! 勝ち進んだのはこの二人!」
 相変わらずハウリングのひどいマイクを使ってアナウンサーが二人を紹介する。
「まずは赤コーナーから清本橋三さん!」
 割れんばかりの歓声が橋三の背中を押した。ついっと前に出る動作に隙はない。右手にはすでに抜き身のエアー長剣が握られていた。
「つぎに青コーナーから岡田剣之進さん!」
 橋三の時よりもいくぶん控えめな拍手が起こった。決勝に至るまでの剣戟(けんげき)を見て、観客たちは剣之進よりも橋三を選んでいた。実直な剣技をあつかう剣之進よりも、斬られ役として派手な動きを身につけた橋三のほうが、見た目には格好いい。当然、二人は観客の人気など気にも留めていない。
 剣之進もまたエアー長剣を手にしていた。
 今回のルールでは、短刀、小太刀、長剣、杖、棒、槍、薙刀から、得物はなにを選んでもよいことになっていた。橋三はそれなりにどれもあつかうことができた。剣之進もすべてとは言わないが、小太刀や槍あたりならたしなんでいた。それでもそれぞれが長剣を手に取ったのは、最も得意とするものだからだ。
 試合場の中央まで歩を進め、どちらからともなく半歩身を引いた。草履がアスファルト上の砂を噛んで、じゃりと鳴いた。
 剣之進は正眼に構えた。
 橋三は八相に構えた。
「それでは、決勝戦――はじめっ!」
 審判の合図とともに、『にこにこタウン』の屋上に静寂が満ちた。皆、固唾を呑んで二人の侍を見守っている。
 スポーツチャンバラのルールでは、どこを打ってもよいが、どこを打たれてもいけないことになっている。つまり、斬るか斬られるかの勝負だ。そういった意味では真剣での仕合いに非常に近い。
 剣之進の剣線は、橋三の喉元にぴたりとすえられたまま、微動だにしない。
 橋三の太刀もまた、肩口から空に伸び、動かなかった。
 橋三のとっている八相の構えは、陰の構えとも言われ、俗に、相手の動きに臨機応変に対応する構えとされる。つまりは様子見に適した構えということだ。これに対し、剣之進の正眼は攻防一体の構え。こちらもどちらかといえば様子見と言えよう。
(実力は伯仲。ならば、先に仕掛けたほうが不利)
 剣之進はあくまで相手の出方をうかがうつもりでいた。
(これは、我慢くらべでござる。半刻でも一刻でも待つ)
 こめかみを汗が流れる。
 と、橋三が先に動いた。すいっと、水が高きから低きに流れるがごとく、天を指していた刀が地に流れた。
 剣之進は一瞬、筋肉を硬直させ、また力を抜いた。敵の意図が読めなかったからだ。
 剣をおろした姿は、とらえようによっては下段に構えているとも取れる。だが、それにしてはいかにも無造作だ。だらりと腕を垂らしているだけにも思えた。
(罠……と考えるべきか)
 橋三の表情からは何も読みとれない。
 剣之進は意を決した。肩を引き、拳を持ち上げ、刀身を地面に平行に保った。この体勢から繰り出されるのは必殺の突きだ。
 橋三の眉がわずかに上がった。
(なんと思い切りの良い!)
 内心舌を巻く。
 彼の動きはまったくのはったりだった。いわば敵の動揺を誘うための搦め手だ。ところが、剣之進は、虚の動きに対して、一点の曇りもない実の動きで応じてきた。
 円の動きである斬撃と違い、刺突(しとつ)は直線であり点だ。曲線よりも直線のほうが速いのが道理。剣之進は、橋三の動きの目的がわからない以上、有無を言わさず攻撃することを選んだのだ。
「岡田剣之進、参る」
 耳に届いた言葉と、胸元に届いた切っ先とは、どちらが先だったろうか。
 反射的に下段から跳ね上げた橋三の剣は、迫りくる突きをかろうじて払っていた。
 互いの位置が入れ替わったとき、剣之進はほぞを噛み、橋三は胸をなで下ろしていた。
 必殺の突きが威力を発揮できなかったのは、剣之進の胸の片隅にひっかかっていた、これは罠ではないかという疑念、つまりは橋三への警戒の念だった。
(清本殿のこと、なにかあるやも、と思ってしまった! しかし、化かし合いはこれにて終わりにござろう)
 素早く長剣を返す。
 橋三も体勢を立て直した。
(十分ではなかったが、虚は突ける、ということか。ならば……)
 今度は橋三が斬りつけた。縦横無尽に奔る軌跡は、まさに無形(むぎょう)。
 それを的確に受け止め、弾き、斬り返す剣之進もまた、無形に近い。
(型どおりの剣士かと思えば、これはこれは一筋縄ではいかん)
 無意識かもしれないが、確かに剣之進は型に縛られない闘い方をしていた。これは正統派の免許皆伝である者にとって、並々できることではなかった。
 会場は静まりかえったままだった。それほどまでに壮絶な斬り合いだった。彼らが振るっている得物が、エアー長剣ではなく、真剣として目に映る者さえいた。
 風は凪いだまま、落ちていく夕日だけが時の流れを刻んでいる。鈍い赤光が、舞い踊る男たちの影を、長く長くアスファルトに焼き付けていた。
 少しずつ、だが確実に、勝敗の天秤が傾きつつあった。
 橋三が押されている。
 剣客としての経験は橋三のほうが豊富に違いない。勝負を決しつつあるのは、体力の差だったろう。四十を過ぎた橋三よりも、剣之進は十も若い。勝負が長引けば、若者が有利になるのは道理だ。
 そのうち、橋三の膝が、がくりと折れた。気持ちに足がついていかなくなったと見えた。
(見えた!)
 剣之進の視界に無防備な胴がさらされる。
(斬れる!)
 確信と同時に、がら空きの脇腹に向けて剣を振り下ろす。
 剣之進の中の何かが急を告げた。本能、勘、虫の知らせ、なんでもいい。とにかく、それはそういったたぐいのものだった。
 橋三の二つ名は――『斬られの清本』!
 気づいたときには遅かった。
 橋三が、故意に曲げた膝を一気呵成に伸ばし、攻撃の打点をずらす。浅く斬られるのは覚悟のうえだ。その一方で、みずからが深く打ち込めばよい。
(今日は負けるわけにはいかんのだ――許せ)
 普段であれば斬られる場面だ。斬られることができるのだから、斬られないこともできる。最初から罠なのだ。
 剣之進の長剣が着物をかする。今度は彼の頭頂が無防備だった。
(御免)
 勢いよく落下させる橋三の一刀を――
 なんと、体勢を崩しつつも、すくい上げるようにして、剣之進の一刀が迎え打った。剣の返しの速さが尋常ではない。
 一閃が頭頂を割るか。
 はたまた脇腹を斬り裂くか。
 刹那の後。
 二人は三歩ほど距離を置いた位置で、荒い息をついていた。
 なにが起こったのか、当人たちにしかわかるまい。実際、審判は生じた事象を正しく理解できずに、赤の旗も、白の旗も、上げることができずにいた。
 橋三の脇に鈍い痛み。
 剣之進の髷のあたりに赤いあと。
 相打ち、だったのだ。
「あそこから斬り返すとは、岡田剣之進こそおそるべし」
 思わず漏れた感嘆に、
「決め技は最後まで隠しておくものでござる」
 にやりと薄い笑み。
 虚においても、実においても、まさしく互角の剣技。
 果たして、勝負はついたのだろうか。
 おそらく真剣であれば、双方とも命果てていただろう。幸運にも、いや、不幸にも、スポーツチャンバラのエアー長剣では命は断てない。
「よもや、これで終わりではござらぬな?」
 剣之進が構えなおした。
「未だ我が乾きは潤されず」
 つぶやいて橋三も構えなおす。
 まだ決着はついていないのだ。武士の勝負に、引き分けなのどありえないのだから。

 と、そのとき。

「くのいち、お銀。見参!!」
 映画内での衣装である、しのび装束に身を包んだキョウコちゃんが、マネージャーに背中を押されて二人の間に割って入った。
「チョコレートが欲しかったら、この私を倒してみなさい!!」
 


 闖入者の出現で、会場のだれもがデパートにやって来た当初の目的を思い出した。全員が決勝戦に夢中になるあまり、忘れかけていたものだ。張りつめた空気が、一気にゆるみ、ファンたちの目が過激な衣装のキョウコちゃんに釘付けになった。
 もちろんこれはマネージャーの演出である。すっかり趣旨が変わってしまったイベントを無理矢理に本来の姿に戻そうとしたのだ。その目論見は当たった。
「おおっと、これは可愛らしい挑戦者の登場だ!」
 それまで仕事を放棄して、試合にのめり込んでいたアナウンサーが、本来の調子でしゃべりはじめた。ますます、ぴりぴりとした雰囲気が霧散する。
 キョウコちゃんもキョウコちゃんで、お色気ポーズでファンサービスなどしていた。もはやそこは決戦の場ではなく、ただのイベント会場に逆戻りしていた。
「さぁ、かかってらっしゃい」
 ウィンクするキョウコちゃんに、しかし、剣之進は殺意に近い感情をおぼえていた。ゆらゆらと肩から立ち上っているものは、今度こそ湯気ではなく闘気だったろう。
 真剣勝負に水を差された。しかも、本来、戦場(いくさば)に足を運んではならぬ女性(にょしょう)によって、だ。
(いったいこの女御(おなご)はなにをしておるのだ! 己の犯した罪をわかっているのか?!)
 剣之進の怒りは、時を追うごとに灼熱していった。
「それほど、死にたいのなら……」
 ずいと不浄の存在に向かって足を踏み出す。おそろしい眼光に、キョウコちゃんは金縛りにあったかのごとく、動けなくなった。
「拙者が斬り捨ててくれよう」
 抑えがたい怒気とともに、剣を振りかぶる。
 おそらくキョウコちゃんの目には、エアー長剣が真剣に映っているはずだ。それほどの迫力だった。
 このままではキョウコちゃんは斬られてしまう。しかし、あまりに唐突な出来事で周囲のだれもが動けない。ファンも、審判も、アナウンサーも、観客も、マネージャーさえも。
 だれも動けない。
 ただ一人をのぞいて。
 そこに、橋三の、妙に気の抜けた掛け声がかかった。
「いやぁっ! 我が一刀で斬り捨ててくれる〜」
 剣之進よりも早く、橋三がキョウコちゃんに斬りかかった。珍妙な掛け声で正気に戻ったキョウコちゃんが、映画内で唯一習得した殺陣(たて)そのままに腰の短刀を抜きはなった。
「いやっ!」
「ぐはっ!」
 呻(うめ)いて地面に倒れ伏したのは橋三だ。なんとも立派な、堂々たる斬られっぷり。
 ぱらぱらと始まり、最後には屋上中に広まった拍手は、キョウコちゃんに向けられたものだ。それに応えて、投げキッスを連発するアイドル。
 その足元から、むくりと起きあがり、そっと会場を抜け出す橋三だった。
 頭の中が真っ白になり、どうしていいかわからないまま、剣之進はそのあとを追っていた。



「チョコレートは残念だったな」
 エレベーターに乗るやいなや、橋三が笑顔で声をかけた。
「いや、拙者はそれが目的ではござらぬゆえ……」
 最後は消え入るように小さく、剣之進の返答は釈然としなかった。
(あそこで拙者がキョウコちゃん殿を斬っていたら……)
 そう考えると、ぞっとする。おそらく彼は傷害事件の犯人となっていただろう。もしかしたら熱狂的なファンたちの手によって暴動が起こっていたかもしれない。
(なんたる未熟!)
 剣之進はみずからの行為を恥じた。頭に血が上り、その程度のことも考えられないようになっていたのだ。皮膚を破るほど強く、唇を噛んだ。
 あの場を巧く切り抜けるには、橋三の取った手法がもっとも効果的だった。相手に花を持たせることによって場を収めたのだ。それこそ『斬られの清本』でなければ、できない芸当だったろう。
「俺は友人から頼まれていたのだがな。仕方がない、頭を下げるとするか」
 しかも、それを驕る風もなく、橋三は飄々としている。
 剣之進は穴があったら入りたい気分だった。
 狐狸を斬る。
 剣之進は、橋三という狐狸の化けの皮を剥ぎ、斬り捨てるつもりでいた。実際、その行為は巧くいきかけていたのだ。ところが、物事の本質を見抜けていなかったのは、彼のほうだった。
(もしや、狐狸を斬る、とは、まやかしを使う狐や狸のたぐいを斬ることではないのかもしれぬ)
 そもそも狐狸は人を化かすというが、そのような話は御伽噺であって、真実ではない。狐狸とはなんの害もないただの畜生だ。
(斬る必要などないのだ)
 すると、狐狸を斬るとはどういうことであろう。橋三が今回そうしたように、斬る必要のないものは斬らない、ということかもしれない。剣之進は、なんとなくそう思った。
「――のしんどの、剣之進殿!」
 物思いから立ち返ると、橋三が心配そうに彼の顔をのぞきこんでいた。
「すまぬ。少し物思いにふけってしまったようでござる」
「ならば、聞いていかなったな?」
 不思議そうな表情の剣之進に、橋三は無邪気な笑みを向けた。
「剣之進殿、これから一杯ひっかけぬか? 剣を振るったそのあとには必ず、であろう?」
(この御仁には、まったくもってかなわぬ。いや、いつかは超えてみせようぞ!)
 橋三の提案に、剣之進は一も二もなくうなずいたのだった。

クリエイターコメントお届けが遅くなり申し訳ございませんでした。
深くお詫びいたします。

さて、武士二人、ということで楽しく書かせていただきました。
試合の顛末はお任せ、ということでしたので、このようになりましたが、いかがでしたでしょう?

リテイク、訂正等あれば、遠慮無くお申し出ください。
今回はすばらしいオファーをありがとうございました。
公開日時2008-03-31(月) 22:20
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