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<ノベル>
二月十四日。
何でもない土曜日の、太陽が立ち去りかけた静かな夕暮れ。
舌触りのいい、絹のようなクーベルチュール・チョコレートを細かく刻んで鍋に。
そこへ、新鮮なミルクをほんの少し注いでガスコンロに火をつけ、弱火でゆっくりとチョコレートを溶かす。
ゆるりとたちのぼる、濃厚で深い、甘い香り。
他に喩えるもののない、チョコレートという独特の食物の匂いだ。
世界中の人間を虜にして止まぬその香りに眼を細めながら、少しずつミルクを注ぎ足し、焦げ付かないよう、鍋の中の液体を木べらでゆっくりかき回す。
チョコレートが完全に溶けたら、風味付けにラム酒を小さじ一杯、隠し味に塩をひとつまみ。
指先で液体に触れて温度を確認し、ガスを止める。
そしてそれを、美しい青のラインで蘭が描かれたボーンチャイナのカップふたつに、こぼさないようそっと注ぎ入れれば、作業は終わりだ。
「出来たよ、ルースフィアン」
緩やかに湯気を立ち昇らせる、ふたつの、揃いのカップを手にしたレイエン・クーリドゥが、穏やかに微笑んで振り向くと、
「……いい匂いだね」
ルースフィアン・スノウィスは宝石のような青の双眸をゆったりと細めて頷いた。
「ティータイムには少し遅いけれど、夕飯にはまだ少し早いから、ひとまず……ね」
言いながら、レイエンはダイニング・テーブルへと歩み寄る。
テーブルの上には、艶やかな茶紅色――ショコラ色、と称すべきだろう――の薔薇が二本、繊細なガラスの花器に生けられて飾られており、室内の控え目な照明に、光沢のある花びらが、静かな輝きを放っている。
「はい、どうぞ、ルースフィアン。少し熱いよ、気をつけて」
「うん、ありがとうレイエン。……ああ、美味しそうだ。舌を火傷しそうになりながら飲みたいね、こういうのは」
カップを受け取って、笑い、目を細めるルースフィアン。
レイエンも微笑み、同じカップを手に、ルースフィアンの隣に座った。
「……なんだか、今日は、色々あったね」
ホット・チョコレートを一口啜り、ルースフィアンが、ふう、と溜め息をついた。
「疲れたかい、ルースフィアン?」
レイエンが問うと、ルースフィアンは小さく頷いたが、彼の目は、唇は、笑っている。
「ちょっと、ね。でも……」
「でも?」
「楽しかったな。幸せな気分になれたし」
「……ああ、そうだね」
顔を見合わせて、くすくすと笑う。
テーブル上の、ショコラ・カラーの薔薇が、ふたりの笑い声にあわせて揺れた。
――それは、お昼過ぎのことだった。
* * * * *
今日はバレンタインという日だ。
宗教的には、愛のために聖人が殉教した日だが、この銀幕市が所属する日本という国では、特に女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白し、また思いを伝える日なのだと言う。
周囲が羨むほど深い愛によってつながれているルースフィアンとレイエンに、今更初々しい告白などは必要ないが――もちろん、毎日、周囲が呆れるくらい何度でも、愛していると繰り返し囁いているから、とのもある――、楽しいイベントに乗っかって、お互いにチョコレートを贈り合うのは悪くない、と、連れ立って出かけていたふたりは、あともう数分も歩けばいつものショッピング・モール……という辺りで、不意に、高貴で穏やかな甘い芳香に鼻腔をくすぐられた。
その、甘い香りに誘われて、いつもと違う角を曲がった先で、ふたりを出迎えたのが、不思議な雰囲気を持つ薔薇園だった。
「すごいな……綺麗だね」
半開きになった瀟洒な扉の向こう側に、色とりどりの薔薇を見い出し、ルースフィアンが呟くと、レイエンはそうだね、と返して中を覗き込んだ。
「気持ちが穏やかになるような、いい香りだ」
「……扉、開いてるね。入ってもいいのかな?」
「どうだろう……ルースフィアンは、見てみたいかい?」
「うん、少し。なんだか……呼ばれたような気がするから」
「そうか……じゃあ、行ってみよう」
レイエンがルースフィアンに、ごくごく自然な動作で手を差し伸べる。
ルースフィアンは幸せそうに、嬉しそうに……少し照れたように笑って、レイエンの、芸術品のように美しい手を取り、ゆっくりと歩き出した。
「薔薇の冠を戴いているみたいだ」
アーチ状の扉をくぐり、中へ踏み込む。
ふわり、と、薔薇の香りが強くなり、ほんの一瞬、眩暈がした。
「……レイエン……?」
そう思った時には、レイエンの姿はなく、ルースフィアン自身、いつの間にか、薔薇園のただ中にいた。
むせ返るような薔薇の芳香が、四方からルースフィアンに迫る。
「……圧倒的、って、言うのかな……」
だが、その香りは、決して不快ではない。
胸の……心臓の奥底まで届き、心を甘やかにするような、蠱惑的な薫りだ。
だからなのだろうか。
突然恋人と離れ離れになっても、不安を感じないのは。
レイエンの姿を求めて周囲を見渡し、色とりどりの薔薇に眼を細めたあと、ルースフィアンは、ジャーナルの記事を思い出していた。
それは、薔薇迷宮のムービーハザードだ。
恋人同士で訪れると必ず迷い込む、その、果てが見えないほど広い庭園には、数万本とも数十万本とも言われる薔薇があり、闇雲に歩いていてもそこから出て行くことは出来ない。
ふたりで同色の薔薇を摘み、お互いに交換すると出られるのだという。
ここはその程度の、これまで特別大きな被害も出していない、言ってみれば、恋人たちの絆を確かめる、他愛なく可愛らしいハザードなのだった。
「レイエンは……どうしてるかな」
レイエンのことだ、恐らく、全能なる存在としての能力で持って、ルースフィアンの無事を理解しているだろう。
ルースフィアンもまた、レイエンの無事は判る。
このハザードが攻撃性のものではないと知っていたから、ではなく、ルースフィアンの全身が、魂が、レイエンは無事だと、ルースフィアンを捜していると感じている。
「力尽くの突破は、無粋だね」
見れば見るほど美しい薔薇たちだった。
赤、黒、ピンク、オレンジ、白に黄色、そして青。
情熱的なレッドローズ。レジェンド、光彩、華厳、クリスチャン・ディオール、熱情、ミス・イーディス・ケイヴィル、パラダイスにオリヴィア。
コケティッシュなブラックローズ。黒蝶、黒真珠、ブラック・ガーネット、ブラック・スワン、ブラック・プリンス。
華やかなピンクローズ。クイーン・エリザベス、ロイヤル・ハイネス、ハイネス雅、パルメガルテン・フランクフルト、レディ・ローズ、レディ・ライク、恋心、芳純にエスメラルダ。
色鮮やかなオレンジローズ。ネクター、プロミネント、ラ・セビリアーナ、デスティニー、ハーモニー、花かがり、彩雲にルイ・ドゥ・フューネ。
清楚なホワイトローズ。アスピリン・ローズ、アルバ・マキシマ、ファンテン・スクェア、メモアー、オフィーリアに銀嶺、そしてジャンヌ・ダルク。
柔和なイエローローズ。ミラベラ、イエロー・フェアリー、秋月、サン・ダンス、サン・キング、ランドラにゴールデン・ハート。
幽玄なブルーローズ。ブルー・バユー、ブルー・ライト、ブルー・パフューム、そしてブルー・ヘヴン。
花たちの合唱のように押し寄せる、高貴な芳香。
これらの、あまりにも美しい花々を蹴散らし、その芳香を乱してまでここから出て行くことは、ルースフィアンには躊躇われた。
薔薇には、何の罪もないのだ。
「……抜けるには、同じ色の薔薇を摘む、か……」
呟き、ルースフィアンは薔薇園を見渡す。
レイエンは、どうしているのだろう。
レイエンは恐らく、薔薇園を抜ける方法を知らないはずだ。
だとすれば、この美しい迷宮を、ルースフィアンを探し求めて彷徨っているのだろうか。
自分の姿を求めて薔薇園を彷徨うレイエンの美しい姿を脳裏に思い描くと、今すぐに逢いたい、という切ない思いが込み上げて、ルースフィアンはひとつ、溜め息をついた。
ふ、と流した視線の先に、艶やかなチョコレート色の薔薇を見つけ、ルースフィアンは、そういえば、と、外出の理由を思い出していた。
「バレンタイン、か……」
レイエンと食べるチョコレートなら、どんなものでも甘くて苦くて切なくて美味しいだろう、と、くすぐったく思いながら、ルースフィアンは、ショコラ色の薔薇に手を伸ばす。
――それが正解だ、という確信はなかった。
ただ、不安も、なかった。
絶対に巡り会える、という確信だけなら、呆れるほど強かった。
「ごめんね……一輪、もらうよ」
ぱきん。
詫びて、その枝を折り取る。
その瞬間。
「……あれ? レイエン?」
ふと気づくと、ルースフィアンは美しい噴水のある広場に佇んでいた。
たくさんの薔薇に彩られ、穏やかな陽光が差し込み、小鳥が囀り遊ぶ、美しい広場だった。
「おや、ルースフィアン。しばらくぶり、だね?」
悪戯っぽく微笑むレイエンの繊手には、ショコラ色の薔薇が輝いている。
「なるほど……同じ薔薇を摘んだら、よかったんだね」
「レイエン、それ、」
「これかい? そうだね、多分、ルースフィアンと同じことを考えたよ。一緒にチョコレートを買いに行こうと思っていたんだ、ってね」
「そうなんだ……!」
このハザードのことを何も知らなかったはずのレイエンが、同じ薔薇を摘んだことにルースフィアンは驚いたが、同時に、このバレンタインという甘やかな日に即して、自分たちが同じことを考えたという事実が嬉しく、くすくすと笑ってレイエンに抱きついた。
レイエンもまたくすりと笑いの吐息をこぼし、やわらかくルースフィアンを抱き締める。
顔を上げたルースフィアンの顎を、レイエンの繊手が捕らえ、鼻先に、額に、目尻に、唇に、啄ばむようにレイエンの口付けが落とされる。
ルースフィアンはくすぐったげに、そして幸せそうに笑った。
事実、嬉しくて、心の中がふわふわと温かくて、いっそ困ってしまうくらい、彼は幸せだった。
「じゃあ……レイエン?」
「ああ、そうだね」
考えたことは、同じ。
ルースフィアンの白い手が、レイエンの華奢な指先が、ショコラ色の艶やかな薔薇を、お互いの伴侶へと差し出し、お互いに受け取る。
と、ふわり、とまた強い薔薇の芳香が押し寄せ、眩暈がする……と思った時には、ふたりは、薔薇園の入り口に帰還していた。
一体どれだけの時間彷徨っていたのか、空はすっかり夕暮れの色だ。
「ただいま、レイエン」
「おかえり、ルースフィアン」
くすくすと笑いあって指を絡め、ふたり同時に踵を返す。
もう、ショッピング・モールへ行く時間はなさそうだ。
だが、ルースフィアンは、それほど落胆はしていなかった。
この美しいムービーハザードに迷い込んでいた時間に、充足すら感じていた。
「帰って、ホット・チョコレートでも飲もうか。チョコレート・ムースを作ろうと思って買ったクーベルチュールがあるから」
「……うん」
レイエンが作ってくれるものならば、それはルースフィアンにとって神々の飲み物ネクターと同等の貴さを孕む。それはきっと、ショッピング・モールで買った高級チョコレートよりも、甘く苦く、胸を満たすだろう。
「じゃあ、帰ろう」
「そうだね、なんだか……不思議な一日だった」
赤く染まった空を見上げ、ルースフィアンは歩き出す。
離し難く結ばれた手指と手指の感触を、この上もなく幸せだと思いながら。
――小さなアクシデントも、偶然すらも、ふたりをつなぐ絆の一端なのだと、そのすべてがふたりの愛を知らしめるピースのひとつひとつなのだと、痛いほどに……胸が詰まるほどに感じ、その幸いを噛み締めながら。
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クリエイターコメント | 大変お待たせいたしました! 毎度代わり映えのしない挨拶で誠に申し訳ありません。
ともあれ、オファー、どうもありがとうございました。 バレンタインとチョコレートと愛情にまつわるプラノベをお届けいたします。
おふたりには、らぶ甘なシーンを色々と書かせていただいておりますので、今回も楽しく、微笑ましく執筆させていただきました。本当に素敵な、幸せな関係だと思います。
おふたりが、この銀幕市で、最後の最後まで幸せであられるよう、記録者もまた祈ってやみません。
それでは、素敵なオファー、どうもありがとうございました。 またの機会がありましたら、よろしくお願い致します。 |
公開日時 | 2009-03-07(土) 23:30 |
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