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<ノベル>
『もしお時間があるのでしたら、手を貸していただけませんか?』
流鏑馬明日とランドルフ・トラウトのもとへドクターDから連絡が入ったのは、銀幕市を巻き込んだ大掛かりな殺人事件が終結した、その週の終わりだった。
電話越しから伝わるのは、普段よりずいぶんと賑やかな雰囲気ではあるが、けして不穏でもなければ切羽詰った感じも受けない。
一体、彼は何をしてもらいたいのだろうか。
そんな素朴な疑問とともに、非番の明日はランドルフとともに、銀幕市立中央病院スタッフルーム、通称〈ガラスの箱庭〉を訪れたのだが――
「やあ、流鏑馬さん、いつ見てもかわいいね。というわけで、はいこれ、着てね」
「え、あの」
「ドルフさん、久しぶり。やっぱデカイなぁ、大丈夫か、これ着れる?」
「え、ええと、みなさん?」
「美女と野獣コンビが来てくれたとあれば、鬼に金棒、一騎当千、頑張ってください」
「期待してます、いろんな意味で」
「うんうん、いいんじゃないか? いいねぇ、うん、実にいいよ」
「戦闘準備が整ったら、今日の作戦を伝えるからね」
「あ、流鏑馬さんはこっちの更衣室つかってぇ」
研究所メンバーにあっという間に取り巻まかれ、清々しいほど満面の笑みを浮かべる彼等からクリーニングから返ってきたばかりと思しき『白衣』を手渡された。
というか、押し付けられた。
断るタイミングも事情を訪ねる機会も完全に失い、ただただふたりは研究員たちに圧倒され、流されて。
本当に彼らは研究員なのだろうかと疑問に思いたくなるようなやり取りがさらに繰り広げられて。
口を挟む間もなく、気づけば、それぞれの着替えを完了していた。
「……いやぁ似合うねぇ、さすがいいねぇ、ロマンだよね、ナース服」
ジャケットの代わりに上から白衣を羽織るだけでもずいぶんと印象が変わるのだが、看護師姿はまた格別だ。
はたして、白衣は戦闘服である、とは誰の言だったか。
私服刑事から一転、白衣の天使となった明日へ眩しげな視線が注がれる。
「……め、明日さん……、と、とてもよくお似合い、です……」
一気に血圧が上がった気がしつつ、ランドルフは真っ赤になりながら、明日へとしどろもどろな賛辞を贈る。
それを受け、気恥ずかしさと照れと戸惑いに混乱しつつもなんとか無表情を保った明日は、研究員の一人へようやく真っ先に言うべきだった質問を口にした。
「詳しい状況を説明して欲しいのだけど……、これは、なに?」
真顔で『なに?』と問われて、彼らは互いの顔を見合わせる。
そして、思い切りよく責任を転じた。
「ドクター、流鏑馬さんが説明を求めてますー」
「ドクター、ご指名ですよー」
「ドクター!」
この部署の実質的責任者は、数人からの呼び出しに答えるように、奥の部屋から資料を携え、姿を現した。
「ああ、流鏑馬さん、トラウトさん、もういらしてくださってたんですね。すみません、急な打ち合わせが入っていたものですから」
あいも変わらず彫刻のように端整な顔立ちの精神科医は、やはりあいも変わらずやわらかな微笑をたたえて二人を見る。
「ようこそ。お忙しい中、お呼び立てしてしまい、申し訳ありません。白衣、とてもよくお似合いですね」
さらりと褒められ、明日の、何故こんなカッコウしなければならないのかという追求の意思がくじかれそうになる。
「……ドクター、これは一体なんなのかしら?」
「そ、そうです、あの、ドクター、私たちはなにをすればいいんでしょう?」
「本日、病院開放イベントを行うのですよ。一応病院関係者と患者さんがメインなのですが、なにぶん人手不足でして……」
手を貸してもらいたい、その主旨が穏やかな声で伝えられる。
「で、午前中、ちょっと抜けられない予定が入っててね。だからさ、二人にはぜひぜひ頑張ってもらって」
「そうそう、午後にはちゃんと交代するから」
「それにほら、白衣は病院のシンボルだから」
「ロマンだから」
「よろしく頼むね、メイヒちゃん、ドルフさん、白衣要員ってことでひとつ、頑張って」
にこやかに過ぎる言葉に押し出されるように、明日とランドルフはドクターに案内されるまま、白衣姿のままで向かうこととなった。
病院長の短いアイサツと、それに続くファンファーレ。
晴れやかな春の陽射しを受けて、整然と並ぶ窓ガラスがきらきらとひらめく中、ガラスの箱庭をはじめとする銀幕市立中央病院は、かねてからの予定通り、年に一度の一般開放イベントを開催する運びとなった。
これも一種のお祭りなのだろうか。
行きなれた吹き抜けのラウンジではなく、裏手に広がる病院の敷地内(駐車場スペースだろうか)に屋台のようなものが連なり、縁日さながらの舞台ができ上がっていた。
病院スタッフが主催するヤキソバやお好み焼き、ジュース類を取り扱った屋台が並び、ヨーヨー釣りや、果てはクマのキグルミが風船を配り、ピエロに扮した男が大道芸を披露する。
そこへ、点滴したままの子供や車椅子の老人、病院のパジャマにカーディガンを羽織っただけの青年やその家族たちが思い思いに過ごすのだ。
患者もスタッフも、どちらもとても楽しげで、どこか文化祭のような雰囲気が醸し出されている。
その中で、ランドルフはすでに大きな輪を作っていた。
「あ、ドルフだー」
「どるふ、どるふ、だっこしてー」
「よろしいですよ、さあ、どうぞ」
スキンヘッドに三白眼、更に巨体という、いかにも悪人といった外見にはまるでおかまいなしに、子供たちは歓声を上げて群がってくるのだ。
2メートルの体は、ジャングルジムにちょうどいいのだろう。
よじ登ったり、しがみついたり、抱っこをせがんだり、キャーキャーと楽しげに笑みをはじけさせる。
「では、少し歩いてまわりましょうか?」
「やった」「オレも、オレもあるく」「あたしも〜」
車椅子の子や松葉杖の子を中心に両の腕と肩に乗せ、背中にぶら下がってくるようなエネルギーの有り余った子らも含めれば、ランドルフが抱えている子供は7名を越えていた。
それを何の苦もなく引き受けて見せる姿と、本当に嬉しそうな子供たちに、見守る人々の視線も微笑ましげなものとなる。
「それじゃ、出発しますよ」
彼が歩けば、その後を更にぞろぞろと子供たちがついてきて、さながらハーメルンの笛吹き男のようだった。
一方、明日は、警察手帳も手錠もすべて研究室のロッカーにしまい、着慣れないナース服への気恥ずかしさで、なぜか妙に落ち着かなかった。
それでも、まるで介護のベテランであるかのように、スマートに人々の間をてきぱきと動く。
「本部の場所ですか? ご一緒しましょう。あの、良かったら手を」
「あらあら、ごめんなさいねぇ」
祖母との二人暮しが長かった明日は、お年寄りの目線で危険はないか、困っている人はいないかを確認するクセがついている。
さほど大きなイベントではないが、賑わいはなかなかのものだ。病棟内ではあり得ない障害物の出現と混雑の中で戸惑うことも多いのだろう。
足運びや表情からいち早く相手のしたいことを見抜き、てきぱきと声をかけては読めない文字を代わりに読んだり、目的地へ誘導し、時には休憩を勧めたりしていく。
「すみませんねぇ、ありがとうありがとう」
「いえ、いいんです。足元、気を付けてください。ここ、段差になってますから」
病棟へ戻るという老婦人をスタッフの元まで手を引き案内した時には、何度も何度も手をあわせられたりもした。
刑事の仕事とはまた違った世界が見える。
祭りともいえるイベントでスタッフとして振る舞う内、張り詰めていた緊張もやがてほどよくとけていった。
周囲への目配り、気配りも、ごく自然に行えるようになっていく。
だから、気づけたのだろうか。
それとも、やはり気質が刑事ということなのか。
楽しげな光景の中に、一瞬、違和感を覚えた。
一瞬、ひどく異質なものが紛れ込んでいるような気配を感じた。
なんだろうか。
わからない。
だが、
「ドクター、ちょっといいかしら?」
「おや、流鏑馬さん、どうなさいました?」
振り返る彼の傍には、つい先程まで子供たちに囲まれていたはずのランドルフが立っていた。
「ああ、明日さん」
「ドルフ?」
「もしかして、明日さんも同じ用件ですか?」
「それじゃあ、あなたも?」
「はい……何か妙にこう、不穏なニオイが漂ってきまして……子供たちには休憩所で少し待っていただいて、ここにきました」
明日が抱いた不安と似たものを、彼もまた感じ取っていたらしい。ランドルフは顔をしかめ、空を振り仰ぐ。
「敵意とか悪意というほど黒い感じはしないのですが、それが帰って不安で……できることなら、私の気のせいであってほしいのですが」
そしてその視線を、今度はぐるりと周囲へ向ける。
「気のせいでは終わらないかもしれない?」
「……ええ、いまにでも何かが振り切れそうな――っ」
ランドルフの台詞を断ち切るように、突如、ぐらりと地面が揺れた。
地震……ではない、ソレは世界の変革、既存の風景を一瞬で塗り変えてしまう〈奇跡のチカラ〉の発動。
和やかで賑やかなイベント会場が、一面、見知らぬ医療機器と機械音とアラームと怒声と呻きと見知らぬ寝衣をまとった怪我人達で埋め尽される。
担架がかつぎ込まれ、ストレッチャーが走り、どこまでも広い部屋にずらりと並んだベッドはカーテンで仕切られ、そこに人々が横たわっていた。
「大腿裂傷だ!」「12エリアへ搬送しろ」「これ、なに?」「先生、レートが50切りました」「VT出現です!」「え、え、なんで? なんでこんな」「レベル300です!」「ママ?」「プレドパ開始!」
例えるなら、さながら外国映画やドラマで見る救急救命外来だ。
戦場のごとき医療現場にまきこまれ、祭りを楽しんでいたスタッフや患者も区別なく、またたくまに〈急患〉としてベッドに縛りつけられていく。
一体何が起きたのか。
事態の急変に追いつけず、パニック症状を呈する者まで現れ、騒然とした現場に拍車が掛かる。
その中でいち早く衝撃から立ち直った明日は、他のスタッフとともに、人々の動きに目を走らせ、機敏に指示を飛ばし、被害を最小限に抑えようと奔走していた。
「怪我人をこっちへ」「子供たちを一箇所に」「動ける方は動けない方に手を貸して、お願いします!」
すらすらと言葉が飛び出してくる。
誘導の合間にも、次々と〈急患〉は増え続け、いきなり目の前で倒れた人に驚いた子供が声をあげて泣き出した。
どうしていいのか分からずに泣く幼い少女へとランドルフは駆け寄り、そして抱き上げた。
「大丈夫、大丈夫です、すぐに元に戻りますから」
そうしてあやし、泣き病んだ彼女を別のスタッフへ引き継ぐと、眉間にシワを寄せたまま彼は明日とドクターを振り返った。
「これはどういうことなんでしょうか?」
「……ムービーハザードでなければ、ロケーションエリアということになるわ。でも」
混乱は更なる混乱を呼びこむ中、とっさに明日は、ドクターを振り返る。
「……どなたか、この事態を引き起こされた方がいらっしゃいますね」
このような状況下でも『取り乱す』という状態から最も遠い冷静な物腰で、精神科医は周囲を眺める。
「おそらくはロケーションエリアを展開しているのではないでしょうか?」
「その相手を捕まえればいいのね?」
「ええ」
微笑みを崩さずに、彼は頷いて見せた。
「ですが、それと同時進行で、動ける方は診察や処置にあたる必要があります。医療スタッフよりもはるかに多くの負傷者がいらっしゃいますから」
「患者さんの搬送でしたら、私が」
ランドルフには、目の前で苦しんでいる、怯えている、その姿を黙って見ていることはできない。しかし、医学系の知識を持たない以上、手出しはそこまでだ。
しかし。
「では、トラウトさんのために、ロケエリの重ね掛けをお願いしましょうか」
「え」
「救いの手はあらゆる所から伸ばされてくるものです……そうですよね?」
ドクターはランドルフの後ろに立っていたらしい男に手を上げ、合図を送る。
「そのとおりさ、ドクター。OK、まかせてくれや」
つられて振り返れば、白衣を羽織った壮年の精悍な顔立ちの男が、にっと笑ってサムズアップを返してくる。
途端。
ただカーテンで仕切られただけの広い平地を白い壁がぐるりと取り囲み、U時型のカウンターが出現し、カートやワゴンが立ち並ぶ。
「ちなみに、ロケエリ効果は〈白衣着てりゃ皆医者〉ってヤツだ」
「……白衣を?」
「おうよ。猫の手だって借りてェ現場なら猫に白衣を着せりゃいい。そんじゃ、トラウトだっけか、アンタは俺と来てくれ。法律に触れねぇ範囲で手伝ってもらう」
「はい!」
ニヤリと笑ってみせたベテラン医師の後につき、ランドルフは颯爽と白衣を翻して混乱する現場に身を投じた。
その後ろ姿はどこまでも頼もしい。
「では流鏑馬さん」
彼を目で追い、そしてドクターはおもむろに明日へと声を掛ける。
「流鏑馬さんには犯人の捜査に関わって頂きましょう。相手は30分間におそらく何らかのアクションを起こすと思われます」
歩きだしたドクターの後についていきながら、明日はそっと自分の唇に触れ、思考する。
「妨害、なのかしら? わざわざこの日を選んだのは、愉快犯だから? それとも怨恨かしら……」
「あるいは……、そうですね、どなたかへのアプローチというのも考えられますが」
喧騒の間にあって、交わされる情報と推測と仮定、そして一定のロジックによって決められていく行動指針。
「アプローチというのなら、相手はこの混乱に乗じて、必ず目当ての人物に接触してくるはずね」
「例えばこのようなロケーションを展開した時、相手は何を目的とするでしょうか」
「怪我人を見て喜ぶ、という悪趣味な思考回路もありうるかしら」
「いささか発想は飛躍しますが、怪我人を初めとし、治療者と患者間にはある種の連帯感めいた特別な感情が生まれる場合があります」
「それを得たがために?」
「その可能性も考えて差し支えないかもしれませんね」
「でも、だとしたらなぜ……」
「なお、今日この日を選んだ理由についてですが、部外者が見咎められることなく紛れ込めるという利点を入れておきましょうか」
深海色の瞳はいま、そこに何を見ているのだろうか。
「さて、流鏑馬さん」
救急外来の受付として設定された場所で足を止め、ドクターは改まった声で、明日に向き直る。
「わたしはおそらくこのロケーションエリアが登場する映画と、関連するスターに辿り着いたように思えるのですが」
「え」
「いささか発想に飛躍はありますが、試してみたいことがあります。お付き合いいただけますか?」
彼の申し出、願い事に対し、明日は今まで〈否〉という返事をしたことはない。
だからただ、しっかりと頷きを返した。
ランドルフは患者の移乗といった力仕事の傍ら、止血をはじめ、急患に対して一次救命と呼ばれる業務にはいっていた。
「どうも動脈まで切ってる……やれるか?」
「問題ないようです、任せてください」
ザックリと裂けた傷を止血するため、どこを圧迫し、どのように包帯を巻き、どのような態勢でいてもらえばいいのかが瞬時に判断できてしまう。
今まで感じたことのない昂揚感とたしかな技術、そして鮮明な思考を得ていた。
医学の知識はない。
救急救命病棟で働いた記憶はおろか、まともな応急処置の知識もないのだ。
なのに。
「ヤバイ、蘇生だ! ランドルフ、頼む、こっちにきてくれ」
「はい!」
言葉すくなの指示でも、戸惑うことなく体が動く。
まるでルーティンワークのようにごく自然に、次に何をすべきかが見えている。
「循環動態確認、呼吸停止、心停止、心マ、アンビュー続けて、1、2、3のリズムで、行きます!」
心臓マッサージ、人工呼吸、飛び交う指示と、状態確認。そして、
「ダメです、AED装着、離れてください!」
これまで目にしたことはあっても一度たりとも触れたことのない機材すら、患者の状態にあわせて仕様方法が理解できてしまう。
AED――自動体外式除細動器の機械質の声を聞きながら、ランドルフは手早く心停止した患者の蘇生に当たった。
医者も患者も入り乱れ、ハザードによって実体化できたのだろう物も含めれば、おそろしいほど多くの重傷者を抱える羽目になる。
ひとつ終われば、またすぐ別の場所から声が掛かる。
医師たちの指示のもと、ランドルフは現場を飛び回り、次々と処置を行っていく。
その合間合間に、ロケーションエリアが展開される前に一瞬嗅ぎ取った〈不穏な気配〉を探りながら。
次々と運び込まれてくる、あるいは発生する患者を振り分けていく明日の姿は、まるでスポットライトを浴びた役者のように周囲の視線を集める。
「その怪我人を第3ベッドへ運んで! その人を奥のICUへ! ……大丈夫、大丈夫よ」
怯えて立ちすくんでいた小さな少年に気付き、指示の合間に彼の前にかがみ込んでその頭をそっとなでた。
そんな明日の背後に、そろりとひとつの影が近づく。
「あら、かわいい看護婦さんね。どうして看護婦さんがここでそんな真似をしているの? そこは私の場所よ、私の役目よ?」
やわらかな声音だが、かけられた問いには明らかな棘がある。
にこりと笑う彼女に、ザワリと鳥肌が立った。違和感。あるいはおぞましいほどの狂気の片鱗が垣間見えた。
「ねえ、その子をこっちに渡して。私がやるわ、私がやるの、あなたではなく私が」
渡してはいけない、それは直感であり、犯罪者に対峙する刑事の本能だ。
「あなたにお願いすることはできないわ」
「なぜ? ねえ、どうして、してあげるっていってるのに!」
女の表情が憤怒の形相に豹変し、つかみかかってくる。
普段、パンツスーツの明日にとって、若干タイトなナースの衣装は予想外に行動を制限されるものだ。
子供を逃がすのに精一杯で、更に攻撃から身をかわそうとした明日は、その体を引き戻す強い力にバランスが取れず、回避も出来ず、地面に転がった。
「――っ」
悲鳴はあげなかった。とっさにとった受身によって痛みもほとんどない。ダメージを最小限に抑える術は体が覚えているのだ。
「あら、よく見たら、あなたヤブサメメイヒね? 看護婦さんだと思ったら、あなただったのね」
床に転がる明日を見下ろし、不意に彼女は嬉しそうに笑った。
「ね、会いたかったわ、ね、ステキ、黒のスーツもいいけれど、白衣もよく似合ってるのね。こうして会えるなんて運命かしら?」
転ばせてごめんなさいね、と彼女は殊勝な態度を見せもする。けれどその瞳にひどく危うげな光を宿っていた。
「……これが、運命?」
「そうよ、運命。ああ、そうだわ。それじゃあランドルフもいるわね? 彼にもご挨拶しなくちゃいけないわ。こんな現場で出会えるなんて運命的だもの。出会いを演出するにはもってこいよね?」
何を言っているのか、一瞬分からなかった。
「ね、私、アナタのファンなの。アナタのこと、たくさん調べたわ。アナタの日常も、アナタの行動パターンも、どうすればアナタとこうして出会えるのかも、調べたの」
陶酔した表情で、彼女は両手を組み、うっとりと言葉を綴る。
「銀幕市立中央病院、もしくは〈ドクターD〉そのものでもいいのかしら、ね? あの人が関われば、あの人に何かあれば、あなたは間違いなく来てくれるって確信してたの。もちろんランドルフもね」
「……どうして」
「ねえ、ステキよね。ステキな関係だわ。だからねえ、仲間に入れて、ねえ、仲間になりましょうよ、うらやましいわ、ドクターと一緒にねえ、私も事件に関わって、周りから声を掛けられて、ねえ、仲間に入れて」
彼女の願いは、支離滅裂だ。
だが、彼女の行動原理が何によるモノなのか、明日は理解できてしまった。
「ああ、そうだわ、ケガをしたアナタを私は助けるわ、そうしてランドルフに紹介してもらって、ねえ、患者としてじゃない私をドクターに見てもらうの。良かった、今日を選んで、ねえ、良かったわ、これで私も特別な存在ね」
自らの思いつきがとても素晴らしいものであるかのように、彼女は白衣のポケットからジャックナイフを取り出した。
振りかぶる、振りあげられる、それは酷薄な光。
けれど、
「明日さん!」
突然伸ばされた力強い両の腕が、明日の体を軽々と抱き上げ、床からさらう。
「ドルフ!」
そして、
「……運命とは、罪を犯すことで構築するものではありませんよ。信頼関係とは、力ずくで得るものでもありません」
ナイフを握った彼女の腕を自らの手と言葉によってやわらかく制止するのは、ドクターだった。
「流鏑馬さん、お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ、問題ないわ」
「あまり無茶はなさらないで下さい、明日さん」
「でも、こうすれば確実に彼女が来るだろうと予測できたから。それに……」
必ずふたりが来てくれると信じられたから、という言葉を心の中で続ける。
ランドルフの腕から下ろされると、明日は、ドクターに捕らわれている彼女の前に歩み出る。
「障害罪の容疑であなたを逮捕するわ」
あいにくいまの自分には警察手帳も手錠もない。
だが、一般市民にも逮捕権はあるのだ。
「……どうして? ……どうして私はダメなの、私も混ぜてほしいのに、どうして……」
壊れた彼女の問いだけが繰り返されて。
そして、30分間の悪夢が消える。
救命病棟は、再び、文化祭とも縁日ともとれるイベント会場の姿に立ち帰る。
もちろん、ロケーションエリア内で負わされた傷は跡形もなく消え失せ、患者は患者に、スタッフはスタッフに、見舞い客や家族も含め、それぞれの〈元の状態〉に巻き戻された。
そうして、この騒ぎを引き起こした彼女は通報を受けて駆けつけた銀幕署の刑事に引き渡されていき。
かくして、一度はトラブルに見舞われたイベント会場にも一応の平和は取り戻されたのだが。
「……せっかく楽しいイベントになるはずだったのに」
「あの、がっかりなさってるんじゃないでしょうか?」
この催しを心から楽しんでいた者たちの笑顔が曇ることに胸を痛め、ランドルフは思わず俯いてしまう。
しかもその原因の一端が自分たちの存在だというのが余計に哀しい。
騒ぎは収まっても、元どおりの楽しい時間が戻って来ないのではないか。
「いえ、そうでもないようですよ」
「え」
「あ、あの?」
ドクターの言葉に促がされるまま、顔を上げれば、ふたりを向かえたのは想像もしていなかった笑顔の数々だった。
「すごいな、びじょやじゅコンビ」
「かっこよかったぜ、あんたら」
「ありがとう」
「ありがとう、おつかれさま」
ありとあらゆる事件に見舞われ、災害に見舞われ、防災意識も防犯意識も高い銀幕市民はあらゆる意味で強くたくましいのだ。
先程までの混乱はどこへやら。
またたくまに、もとの、ひどく明るく無邪気で楽しい時間へと、時間を巻き戻してしまう。
笑顔がはじけ、拍手がうねり、歓声が上がる。
まるで大規模で手の込んだアトラクションをひとつ楽しんだ後のように、その場にいる人々の笑顔には一点の曇りもない。
ひとりの少女の妄想――ソレによって引き起こされたのは、何の前触れもなくやってくる嵐のような時間だった。
突然やってきて、会場を引っ掻き回し、30分たらずではあっても十分過ぎるほど暴れまわった。
しかし、その傷痕は驚くほどに浅い状態で済んだのだ。
上空に輝く太陽の元、キラキラと光り輝くような笑顔とともに、イベントは無事幕を閉じた。
*
「おかえり」
「おかえりなさい、お疲れ様」
午前中のプログラムが終わり、休憩を挟んだところで、スタッフルームに戻ってきた三名を研究員が総出で出迎えてくれる。
「本当に有難うございました、流鏑馬さん、トラウトさん」
今回一番の功労者たるふたりへ、ドクターも改めて礼を言う。
「いえ、少しでも役に立てたのなら良かったですよ」
てれくさそうにカシカシとうなじを掻くランドルフの隣で、密かに明日は思う。
穏やかに微笑む精神科医は、果たして今回の騒動をどこまで予想していたのだろう、と。
明日とランドルフを今日この日に呼んだのも、もしかして、あのような事態になることを見越していたのではないだろうか。
白衣を用意していたのも、あのような事件が起こることを想定したのではないだろうか。
考え出せば切りがない。
ここで問いかければ彼は答えてくれるかもしれないが、もしかすると、微笑み、はぐらかされるかもしれない。
それでも、明日は考える。
考えずにはいられない。
けれど、問いを口に出すより先に、相手から別の言葉が差し出されてしまった。
「ところで、もしまだお時間があるのでしたら、これからお茶でもいかがですか?」
そう告げたドクターに続き、スタッフたちもわらわらとランドルフと明日を取り囲む。
「打ち上げってことで、ご苦労さん会ってことで、さささ、どぞどぞ、おふたりとも!」
「え、ええと、あの、み、みなさん?」
「ぜひぜひ、ここで」
「功労賞ってことで、ね、ね」
「でも、あなたたちはどうするの?」
「午後からのイベントを頑張るんだよ。後片付けもね」
「ささ、ここに座って、ここに。ああ、何もしなくていいよ、座ってるだけでOK」
普段からやり慣れているとしか思えないほどの手際の良さで、資料が積み上げられた研究室は瞬く間にお茶会の場へと変わる。
テーブルには白のクロス。
戸棚から取り出される白磁のティーセットは、きっちり人数分。
控え室の奥から運び込まれてくるのは、マドレーヌやクッキーといった焼き菓子をはじめ、冷蔵庫でしばらく冷やしていたらしい手作りケーキや果物のジュレにまで及ぶ。
まるで、去年ラウンジで開かれたクリスマス・パーティの時のようだ。
ノリの良い研究員たちの中には、ずいぶんと菓子作りが好きなものがいるらしい。鮮やかで華やかな色彩が白いテーブルを飾っていく。
「あ、あの、これは一体どう……」
「いつのまに?」
ランドルフも明日も、ただただ圧倒され、それ以上の言葉が続かなかった。
「今日はね、ホントはこっちがメインイベントだったりして」
とっておきの秘密を打ち明ける瞬間の子供のような顔で、彼らは笑う。
「ちょっと時期外れちゃったけど」
「実は美女と野獣コンビ結成一周年記念も兼ねてたりなんかして」
「え」
「そ、それは」
驚く明日とランドルフに、研究員たちはニコニコと本当に嬉しそうに笑いかける。
「というわけで、俺達はまだまだやることあるからお暇するけど」
「ゆっくりしてってね」
「ね、ゆっくりたのしんでって」
「いつもありがとう、メイヒちゃん、ドルフ」
「でもって、おめでとう、かな?」
「思いがけない騒動が起きたりもしたけど、いい想い出になってくれたらいいな」
研究員たちは明日とランドルフの前にありったけの感謝とやさしい言葉を送り、そしてニコニコしながら〈ガラスの箱庭〉を出ていってしまった。
かくして茶会の席には、主賓として迎えられたらしい明日とランドルフ、そしてホスト役を務めるらしいドクターDだけが残される。
「改めまして、今日は本当に有難うございました」
彼は優雅な手つきでティーカップに紅茶を注ぎ、数種類のタイムを組み合わせた模様で縁取られるカップをランドルフへ、トルコ桔梗を散らしたデザインのカップを明日へ差し出した。
それぞれのソーサーには、ローズマリーのひと口クッキーが添えられている。
「今日は本当に有難うございました。“わたし”は、この銀幕市という世界でふたりに出会えたことをとても感謝していますよ」
深海色のやさしい瞳をしたその人は、絶望ではなく希望を抱いて、あたたかく静かに微笑みかけてくれる。
「私も、私も初めての事件で明日さんと巡りあえて、そしていま、明日さんとドクターとこうして過ごせて……本当にうれしいです」
大きな両の手の平で小さなカップをやわらかく包みこんで、そのぬくもりを感じながらランドルフもしみじみと呟く。
「……、あたしもよ……」
言葉すくなではあるけれど、心の底から、明日もまた彼らの言葉に同意する。
銀幕市に来て、ムービーファンとして最初に対峙した『あの事件』は、終結して一年経ったいまもまだ胸に深く刻まれている。
あの日、あの時、ここで交わされた言葉は、いまでも鮮明に思い出せてしまう。
『苺のチーズタルト……もしかすると中で崩れているかもしれないけれど、あなたに』
『私は、あなたとともに生きたい。あなたと色々な話がしてみたい。あなたが抱え込んだ痛みを分かち合いたい』
『わたしはわたしの絶望から這い上がるつもりはありません。そして、自身の手で終わらせるつもりもありません』
『どうして……どうしてこういう結末ばかり』
『……願わくば……あなたからのケーキを受け取れるわたしとの……幸福な、再会を……』
『違う……あたしの考えを聞いてくれた、あたしを家まで送り届けてくれた、あたしが苺のチーズタルトをお礼として渡したいと思った人は……』
落ちていった言葉たち。
届かなかった手。
告げられなかった思い。
絶望という病に侵されてなお、綴られていた願い。
叶えられなかった、いくつもの望み。
けれどいま目の前には、確かにあの時思い描いた幸せが、カタチとなってそこにある。
別れがあり、出会いがある。
いまここにある幸福。
いまここにいられる幸福。
それを噛み締めながら、改めて、『彼』と向き合う。
いまここで、自分たちの前で穏やかに微笑む彼は、かつてそこにいた『彼』とは別人だ。
けれど、あの日別れた彼とは違った時間をともに過ごし、彼と過ごしたよりもはるかに長くやさしい時間を積み重ねている。
あの日、あの時、願っても叶わなかった関係。
望んでも築くことの許されなかった関係。
それが、こうして周りの人々に祝福されながら、続いている。
これこそが奇跡ではないだろうか。
「思いがけないことばかりでしたが、すごく素敵な日になりました。ですよね、明日さん?」
「ええ、すごく……いい日……」
普段ほとんど表情が動くことのない明日の口元がほころび、幸せそうな笑みが浮かぶ。
「そう言っていただけると、光栄ですね」
夢が生まれ、夢が叶う、この銀幕市の奇跡。
ティーカップの中で澄んだ色を揺らす紅茶と、ふわりと心をくすぐる甘いお菓子に囲まれて。
かつて悲劇が繰り広げられたこの場所で、不可思議な運命によって再び出会った3人は、望まれたやさしい時間に満たされていく。
END
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クリエイターコメント | いつも大変お世話になっております! この度は、ドクターをまじえてのご指名、誠に有難うございます。 銀幕市立中央病院を舞台に、ドタバタ系とほのぼの系としんみり系が混ざり合った不思議テイストと相成りました。 みっちりとした依頼文を拝見し、可能な限り、詰め込めるだけのネタを詰め込んでおります。 めいっぱいお待たせした分も含め、楽しんでいただければ幸いです。
それではまた、事件の絶えないこの銀幕市で、〈美女と野獣コンビ〉のお二方に巡り会うことができますように。 |
公開日時 | 2008-05-16(金) 21:40 |
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