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<ノベル>
べっとりと濡れた赤が両手を汚す。
錆びていながら生臭い、独得のニオイをまとった赤い色彩が、べっとりとまとわりついている。
溢れ出る赤は床を穢していき、壁や天井に飛び散った赤はやがて粘つくどす黒いモノへと変色していく。
転がるのは死体。
たったいま自分が切り刻んだモノの死体だ。
そして、ソレを見ながら、《自分》が哂っている。
哄笑が内と外から自分を苛む。
転がっている自分、切り刻まれた自分、切り刻んだ自分、自分が自分を、そして自分の大切な存在を、そこら中に散らかして――
エドガー・ウォレスは、ノドが破れ血を吐くまで長く長く悲鳴をあげ、慟哭した。
*
その研究施設は、第一に清潔感、続いて機能性と合理性を重視して構築されたかのような白い世界だった。
ケアという名目で身柄を預けられているのだが、エドガー・ウォレスが思うように出入りすることが許されている場所はほとんどない。
冷たく無機質な『匣』の中で、一体自分はどれだけの時間を過ごしているのだろうとすら思う。
そしていま、テーブルを挟んで向かいに座っているのは、同僚などではなく初老のカウンセラーなのだ。
「気分はどうかな、エドガー? どうも心ここにあらず、といったふうに見受けられるが」
「……いえ……すみません……」
こうして彼と向かい合う間も、別室ではこのやり取りを記録し、データとして集積しては分析している者たちがいるはずだ。
問題行動を起こせば当然のようにカウンセリングが勧められ、プログラムが組まれ、精神科医が大丈夫だと診断書に記入してくれない限り仕事に戻ることは許されない。
――二重人格の能力者。
そんな厄介な存在が、研究所内の注目を集めていた。
もしかするとこれは、カウンセリングという名目の『研究』なのかもしれない。
いわゆるサンプリングというやつだ。
サンプルとして採取される自分の存在。
「なあ、エドガー。きみはきみの心の中に生まれた存在――我々はソレをシャドウと呼んでいるのだが、その存在にかなりてこずっているようにも見える」
俯いたまま沈黙するエドガーに、そっと言葉が投げかけられる。
「人は誰しも心の中に正反対な自分を作りだしていく。社会で自身が正しいと思う自分を演じれば、それと同じだけの質量でシャドウも育っていくだろう。抑圧された自我というヤツだ。……ああ、こんな説明はきみにはつまらないのかもしれないけれど……そうだね、別の話をしようか」
カウンセラーは指を組んだ両手を机の上に乗せ、それを更に組み変えてから、エドガー・ウォレスをやわらかく見つめた。
「夢を見るかね、エドガー・ウォレス? きみは一体いまどんな夢を見ているのだろう?」
彼は問う。
夢を見るか、と。
「……ああ……、ああ、毎晩見ているよ……うんざりするような夢をね」
もちろん夢を見ている。
毎晩毎晩、うなされるほどに強く鮮明なアカイユメだ。
何かを暗示しているのかなど、考える必要もないくらい明白だ。
「それを私に教えてはくれないだろうか」
「あまり、気持ちのいい話じゃない……あなたはきっと、俺の頭がおかしくなったと思うだろうからね」
「そうかな?」
「……いや、とっくに俺はおかしくなってるのかもしれないな……」
エドガーは自分の手に視線を落とした。
カウンセラーとは対照的に、どこか所在なげにテーブルの上で組まれた手。
この手は本当に自分自身のモノなのか、だんだんと分からなくなってくる。
切り刻まれた。
バラバラにされた。
自分と同じ顔をした見知らぬ表情を浮かべる存在に、鮮やかな光を放つ日本刀で幾度も幾度も切り刻まれた。
その感触はあまりにもリアルで、全身を痛めつけるのに、精神を苛むのに、どうして見つめているこの両手は無傷なのだろう。
分からない。
あの夢は本当に夢なのだろうか、それすら分からない。
意識が引き摺られそうになる中、辛うじて踏み止まっていられるのは、なにかの奇跡としか思えなかった。
「……エドガー?」
訝しげな声で問われ、はっとして顔を上げる。
「ふむ、どうやらきみはすこやかな眠りを手にできていないようだね、エドガー?」
「あ、ああ……そうだね、うん……あまり眠れていない……もうずっと、俺は眠っていないのかもしれないよ……」
自覚すればさらに重みを増して圧し掛かる疲労感に頭を抱えた。
「少し薬の量を調整しようか、エドガー。きみの精神が安定し、安寧な眠りが約束されるように」
「……」
「心配はいらない。もうひとりの自分を消滅させるのではなく統合させる、という方法だってあるんだからね。焦らずにいこう」
今日はここでやめよう。
そう告げられ、エドガーは研究スタッフに付き添われてカウンセリングルームを出る。
だが。
「やあ、エドガー」
そこにいやな顔があった。
ここの研究員であり、心理面の分析に携わるスタッフのひとりだ。エドガーと同い年のはずだが、その言動は妙に子供じみたところがある。
「なあ、話を聞かせてくれないか。そこにいるんだろ? もうひとりのエドガー・ウォレス、いやもしかすると名前が別にあるんじゃないか?」
「……」
「なんだ、今日もオレとは話をしてくれないのか?」
エドガーが目の前にいるのに、彼はまるで目の前のエドガーを見ていない。
研究者の中には、この手のタイプも珍しくはないのだろうが、苦手なものは苦手なのだ。
露骨に表情に出すことはしないが、それでもエドガーは身構え、足早に彼の脇を通り抜けようとする。
「なあ、なんて名前で呼べば答えてくれるんだ? オレはさ、あんたと話がしたいんだよ。どんな気持ちだった? 何を考えていた? あの時、あの瞬間、あんたは何を見てたんだ?」
それでも構わず、彼はエドガーを追いかけてくる。
「教えてくれよ、あんたの話を聞かせてくれ」
「……やめてくれないかな……」
「なあ、話をしよう、話をさせてくれ、あんたの話が聞けたら、画期的な発見につながるかもしれないだろう?」
ついに腕を捕えられ、エドガーは足を止めた。
こちらの顔を覗きこんでくる彼から視線を逸らし、絞り出すように願いを口にする。
「……話しかけないでほしいんだ。呼び起こさないでもらいたいんだ。あいつを、あの存在を、確固たる存在にまつりあげないでくれたら、それでいいから」
けれど彼はソレをまるで取り合わない。
「オレにはキミがとても魅力的に見える。なあ、教えてほしいんだよ、《シャドウ》と呼ばれる存在がいかにして生まれ、どのように世界を知覚しているのか、その感覚はどんな回路を持っているのか、教えてほしいんだ、知りたいんだよ、能力者の影をさ」
呼びかける、言葉を重ねる、その直接的な声に、エドガーの内側で《何か》がちらりと反応を示し――
「そこまでだ!」
唐突に、背後から声が飛び込んできた。
2人のやり取りに気付いたのだろう。
あるいは、気づいてはいたがいつ止めるべきかタイミングを測っていたのかもしれない。
「今日のカウンセリングは終わってるんだ。これ以上むやみな刺激をするな!」
割って入った別の研究員の一喝に、彼はニヤニヤと笑いながら引き下がった。
「OK、それじゃまた会おう、もうひとりのエドガー。今度キミの名前を教えてくれよ?」
彼の瞳は、残酷な好奇心で輝いている。
エドガーの精神を消耗させるほどに、彼はもう一人のエドガー・ウォレスに執着していた。
「悪いな、あんたヒトリで自分の部屋まで帰れるか?」
「……問題ないよ」
「分かった。迷わないようにな」
無数の監視カメラが設置されている白い匣の中で、エドガーが迷うことは許されないだろう。
研究員は別の同僚に腕を掴まれ、数ある部屋のひとつに引きずられていった。
ばたん。
その姿をじっと視線で追いかけて。
ふ……、と、一瞬《エドガー・ウォレス》の口元に浮かんだ笑みを捕えられたモノは、無機質な監視カメラを除けば誰ひとり何ひとつなかった。
エドガーはゆっくりと歩きだす。
自身にあてがわれた、静寂に支配された病室とでも呼ぶべき自室へ向かって。
戻ってみれば、一体いつ誰が届けたのか、新たに処方された薬がテーブルの上に他の薬袋と一緒になって置かれていた。
袋から取り出し、処方内容を確認してシートから指定の2粒を手の平に転がす。
白い錠剤はひどく小さくて頼りない。
けれどソレを口に含み、他の薬とともに飲み下せば、やがて眩暈を伴った眠りの淵が口を開く。
それも驚くほどのスピードで。
エドガーは襲ってくる眠りに逆らわなかった。
休息を求め、崩れるようにソファへとその身を沈める。
一切の知覚を閉ざした、泥のような眠りを期待しながら――
だが。
夢を見る。
おぞましい夢だ。
声がする。
憎しみと恐怖をあおる、陰湿な声だ。
『エドガー』
眠れば夢でヤツが笑う。
起きていてもふとした空白の瞬間に囁きかけてくるあの声が、今日は一段と鮮明だった。
『素直になった方がいい……憎しみは復讐でしか癒せないんだ……そうだろう?』
耳を塞ぐ両手には、錆びたニオイの赤い色がべっとりと張り付いている。
幻覚だ。
あるいは夢だ。
けれどひどくリアルで、ひどく生々しくて、そしてひどく心を抉ってくる。
夢。
赤い夢。
鼻腔を刺激する、むせ返るような錆びついた生臭い赤のニオイ。
視線を転じる。
目を見開いて、彼女がこちらを見ている。
手足がバラバラに投げ出され、壊れた人形のように横たわっているのは、コーヒーを持って来てくれた若い同僚。
相棒もいる、大切な仲間達が、かつての会社の同僚も、今DP警官としてともに戦っている同僚達も、みんな、赤く染まっている。
油断するから。
ああ、だからほら、そのせいで、ほら、赤い色が広がっていく。
赤い、赤い、陶酔する蠱惑的な色。
『――そろそろ、眠ったほうがいいんじゃないか? 君だって疲れただろう?』
冷たく響く、けれどどこか甘い響きのある、誘いの声がエドガーの意識を更なる眠り、深い闇の淵へと沈めていく――
*
カウンセリングの時間だ。
自室の扉が叩かれ、白衣の男によってカウンセリングルームという名の実験室に連れて行かれ、意味があるのかないのか分からないような『診察』を受ける時間がやってきた。
また眠れないのかと問われるだろうか。
あるいは、どんな夢を見ているのかと。
今日こそ彼に応えるべきだろう。
とっておきの答えを、自分は用意してきた。
ふと。
扉の閉まる音がして、顔を上げた。
入ってきたのは、担当の初老のカウンセラーではない。
「君は」
「廊下や他の場所じゃどうしても邪魔が入っちゃうからな。今日はふたりきりでじっくり話し合おうじゃないか」
どこかとても楽しそうに、はしゃぐ子供のように指でくるくるとキーチェーンを回していた。
「鍵を?」
「そうだ。鍵を掛けた。これで邪魔者は入ってこれないだろ? 我ながらグッドアイデアだ。ああ、もちろん監視カメラにもちょっとした細工をしてきた。しばらくは無駄に録画映像が流れることだろう。な、すごいだろ?」
まるで褒めてくれと言わんばかりに得意げに笑って、彼はいつもカウンセラーが座る席に自ら着いた。
「さあ、話をしよう、エドガー・ウォレス。君もいつもの席に着きなよ、さあ早く」
促がされるというよりはせがまれているように感じながら、それでも肩をすくめて彼の指示に従う。
「さあ、話だ。もうひとりのエドガー、《シャドウ》という名で呼び掛けるにはしのびないんだが、他の良い名があったらぜひ教えてもらいたい」
「そうか。そういってもらえるのは光栄だね」
「そうだろ。……そう……、ん?」
相手からの呼びかけに正面から視線を合わせて微笑みかける、その表情に何かの変化を感じ取ったらしい。
「やめろと、あんなに忠告したのにね。君は語り続け、問いかけ続けた。その結果がこれというわけだね」
よせばいいのに、と揶揄を含んだ溜息をこぼして見せる。
そして、
「君は血の色についてどう思う?」
一度は席に着きながら、エドガーはふっと腰を上げた。
手をつき、身を乗り出して、対面する男へと鼻先が触れるほどに顔を近づけ、囁き問う。
「は?」
研究員の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
「とても蠱惑的だと思わないか? あの色は見るモノの心を躍らせる。鮮やかで、吸い込まれそうなほどに魅力的だ」
なのに、と呟く。
「なのに、すぐ、黒ずんでしまうんだよ……実に残念なことにね」
ゆらりと、上体を起こす。
ソレまで軽口を叩いていた男が、反射的に身構え、怯えを晒して、見なれた造形に見知らぬ表情を浮かべたエドガー・ウォレスを凝視する。
「……おまえ、誰だ?」
「俺に会いたかったんじゃないのかい?」
エドガーが動くたび、同じだけの距離を保とうと、彼は後退する。
がこっ、ご――っ。
鈍く重い音が響いた。
エドガー・ウォレスはアンチサイ所有者――能力を中和させる能力しか持ち合わせていないはずだ。
なのに、いまの目の前で頑強なテーブルの脚4本が、ほぼ同時に捻じ切られた。
そうとしか表現できない。
飴のように、キャラメルのように、捻られ、引き離され、テーブルの板が派手な音を立てて落ちた。
「……な、なにが――ひ、ぃ――ッ」
「声を出さないでもらえないかな?」
笑う。
哂う。
嗤う。
エドガー・ウォレスは哂いながら、ゆっくりと男の首筋に視線を固定した。
視線のみだ、なのに、ギシギシと、研究員の皮膚の下で、不可視のチカラが頚部をゆっくりと締め上げていく。
「本当は心臓あたりの血管を縛るつもりだったんだけど、今回は見逃してあげよう。仮死状態に陥られるのはちょっと面白くないし、……ああ、大丈夫、延髄にも手を出さないよ。即死されるのもつまらないからね、気管を締めてノドを潰すっていうのもありかな、どうだろう?」
研究員は目を見開いている。
見えない腕に押さえつけられ、床に倒され、声が出ないままにもがき苦しむ。
「ああ、いいね、じつにいい。俺はね、本当は絞め殺すよりも切り裂く方が好きなんだけど、しかたない」
手に馴染んだ日本刀は取り上げられてしまった。
主に自殺防止だ。
だが、本当は自傷と同じ比重かそれ以上でもって他傷を警戒されていたと考えていいだろう。
それほどまでに、エドガー・ウォレスは危険だった。
不用意に近づき、触れてはならない存在だった。
研究員はおそらく後悔しているはずだ。
なにもかもがもう手遅れだろうけれど。
「ああ、そうだ。いいことを思いついた」
笑って、エドガー・ウォレスは、捻じ切れ、先端が鋭く尖ったテーブルの足を一本拾いあげる。
「こういう類でも、血を視ることはできるんだ」
目を細めて、笑いはさらに広がる。
「ああ、ヴァンパイア映画にこんなシーンがあった様な気がする。どうかな、君は見たかい? 俺の記憶違いだったら申し訳ないんだけど、そう、確かこんなふうに」
ダン――っ!
振り上げられたテーブルの足が、床に倒れた男の右足に突き立てられた。
木の杭は思いがけない力で男を貫く。
「――っ」
やはり男から声は洩れなかった。
ただ、音にならない絶叫が、締め付けられた喉の奥から空気となってほとばしるのみだ。
不可視の手がいまだ研究員ののどを締め上げているからだ。失神できないギリギリのところで彼を捕えているからなのだ。
「君がいけないんだよ。不用意に俺に話し掛けるから。まあ、アプローチは嬉しかったんだけど」
2本目の杭が穿たれた。
「殺す瞬間の気持ちを聞きたがっていたっけ? 楽しかったよ、アレはすばらしい昂揚感を与えてくれた。アレは実に好ましい感情であり感覚であり、長年求め続けた悦楽の味がしたんだ」
そして、3本目。
じわりと、血があふれ出る。
清潔感を第一にと考えられ、配慮されてきた白く冷たい床を、鮮烈な赤が浸食していく。
いい色だ。
蠱惑的で魅力的で目眩がするほどに芳醇な色彩だ。
「すばらしいね、これは実にいい眺めだよ。さあ、それじゃあ、トドメといこうか?」
最後の一本を、心臓めがけ振り下ろそうとしたその刹那。
『やめろ――』
内なる声が、エドガー・ウォレスのノドから迸った。
動きが止まる。止められる。自身の意思とは無関係に、内なるモノのチカラが腕を掴みあげ、体の主導権を握ろうと足掻き。
からん。
杭は手からこぼれ、床に落ち、一度バウンドして、そのままコロリと転がった。
ソレがきっかけ。
「……薬が、切れてしまった、か、……な……」
床には1本の杭と1人の血まみれの人間が転がっている。
そして。
そこにもうひとり、《エドガー・ウォレス》が加わって、赤い飛沫で汚れた床に、1本の杭と1人の血まみれの人間と、意識を手放した1人の能力者が転がった。
――夢を見ていた。
そう、ひどく赤く黒い夢を見ていた。
闇色にのったりと塗り込められた、おぞましい世界だ。
そこでふたりは対峙する。
何度出会っただろう、何度こうして向かい合っただろう、何度こうして互いに互いの顔を見つめ合っただろう。
「また俺の邪魔をしたね? 一体何度俺の邪魔をすれば気がすむんだ、君は」
「違う、お前が俺の邪魔をしたんだ、俺の生き方を、お前は嘲笑うようにして――」
「笑ってるさ、笑ってるとも、キレイゴトで生きようとしてる間抜けで気味の悪い貴様を哂ってるんだ。素直になれよ、殺したいほど憎んだ相手なら、殺したって構わないはずだ、違うか? 違わないだろう?」
「違う、間違っている、俺は望んでいないよ、誰かを傷つけたいなんて思わない、誰のことも、……あの研究員のこともだ」
「キレイゴトで抑え込んだ本音が俺だよ。君は俺で、俺は君なんだから。ほら医者もいっていたじゃないか。無理はするものじゃない」
「無理じゃない、無理なんかしていない」
「無理だよ、無茶だ、ほら、君は小さな薬で俺を解放してしまうくらいに疲弊している、ああ、なんならもっとずっと深い眠りに落としてあげれば良かったんだ」
はじめから、そうすればよかった。
シャドウは笑う。
おぞましいほど鮮やかに病んだ哄笑をあげて、冷徹な光を放つ白刃の刃を振り抜いて――
――エドガー!!
ソレは悲鳴だった。
そして確かな呼びかけだった。
夢が破られるほどに強固な声が――
「エドガー!」
「君は……」
エドガーの双眸が驚きの色に染まり、見開かれる。
同僚の顔だ。
ずいぶんと久しぶりに見た。
「何があった、なんて聞くつもりはないが、しっかりしろよ、おい!」
懐かしさに襲われるほど見慣れた同僚の、安堵を誘うほどに信頼している《DP》における相棒の声。
「……どうして……」
鍵の掛けられた密室に、《彼》は扉を介さず、出現した。
いや、それ自体に問題はない。
なぜなら彼の能力は《瞬間移動》なのだから、彼の前に密室という枠組は存在しない。
だから、そう、何故と問うたのは、彼の出現方法ではなく、彼が出現したタイミング、いまこの瞬間に自分の前に現れてくれたという、その理由だった。
まともに言葉にもならないけれど、抱いた問いを彼は正確に受け止めてくれる。
「いやな予感がした。それだけだ。俺はあんたの相棒だからな」
そういって相棒はこちらを気遣いながら、床に転がる研究員へ近づき、彼の介抱に移っていた。
「……まだ息はあるな……すぐに助けを」
「……あ」
つられて視線を転じたエドガーは、そこで目撃した惨状に、たったいま自分がなしてしまった行為にはじめて気づき、同時に全身の血が抜け落ちていくほどの寒気を覚えた。
罪悪感が凄まじい質量を伴って心から噴き出す。
思いだせる、すべて思いだせてしまう、指で聖書の文字をなぞるようにたやすく、エドガー・ウォレスは自身の途方もなくおぞましい行為を思い出していた。
自分は抑えられなかった、自分はあの存在に呑まれようとしていた、いや、いまも呑まれようとしている。
赤だ。
赤い夢。
途方もない赤で彩られた夢を現実に変えるためのカウントダウンは既に始まっている。
自分は殺す、ヒトを殺す、殺す、大切な仲間も、尊い命も、何もかも一緒くたにして壊そうとしている。
だめだ。
自分は生きていてはダメだ。
あの存在を、あれを、消し去らなくては――
「エドガー!」
たった1本残っていた杭を、エドガーが自らのノド元に突きたてようとして――
一発の銃声がソレを止めた。
鉛の銃弾はエドガーの心臓を止める代わりに、木の杭を弾き飛ばし、砕いた。
腕に受けた衝撃でバランスを崩し、床にひざまずく。
「……エドガー」
彼もまた、膝を折った。
どこか照れの混じった笑みを浮かべて、しかしソレもすぐに消える。DP警官となって得た相棒のカオはこれまで見てきたどの瞬間よりも真剣だった。
「なあ、エドガー……聞いてくれ」
彼の手がエドガーの両肩をがっしりと掴む。
「DPの連中はみんな、アンタの帰りを待ってるんだ。アンタとともにまた働けるのを心待ちにしてるんだよ、アンタには帰る場所がある、アンタに帰ってきてほしい人間たちが待ってるんだよ!」
できる限り抑えた静かな声だ、けれどそこには熱く強い想いが込められていた。
緊急事態を告げるブザーが鳴っている。
ようやくこの部屋の異常に気付いた誰かが押したのかもしれない。
あるいは、やはりどこかでタイミングを見計らっていたのかもしれない。
この研究所の性質を本当の意味では理解していなかったが、それでも、まもなく他の研究員たちがここにやってくるだろうことは理解していた。
そしてこの惨状に驚き、怯え、非難の声をあげるかもしれない。
その声によって、再びもうひとりの自分が表へと出てくるかもしれない。
自分にはない《サイコキネシス》を使って、今度は本当に誰かを殺し、取り返しのつかない事態を引き起こし、ありとあらゆる大切なものを破壊し尽くすかもしれない。
けれど。
けれど、でも――
「なあ、エドガー……俺の声が聞こえるか? 聞こえているなら、俺の手を取ってくれ」
差し伸べられた手はあたたかく、見つめる瞳は力強かった。
「……ああ……」
相棒の名を、エドガーは口にする。
口にして、その手に捕まり、引き上げられるようにして立ち上がった。
血の匂いがする。
色の変わったどす黒く粘つく赤にまみれながら、それでもエドガーは、押し寄せてくる痛みに抗うように固く目を閉じ、振り払う。
囁きかけてくる内なる声を心の奥底まで沈めながら、引き連れたノドから、かすれた声で答えを返した。
「……待っていてもらえるかな……俺を……。必ず戻るから、……約束、するから……」
「もちろんだ」
絶望の深淵は、捕えた獲物であるエドガーを逃さないかもしれない。
一度育った影は、容易に消えることなどないかもしれない。
だが、エドガーは友人のために、同僚のために、待っていてくれる、信じていてくれる仲間のために、這い上がることを誓う。
例え《影》が、無駄な足掻きだと嘲笑っていたとしても。
エドガー・ウォレスは、大切なモノのために存在し続けることを誓った――
END
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クリエイターコメント | コラボシナリオご参加から引き続きまして、プラノベでのご指名有難うございました! 銀幕市に実体化する前が舞台ということで、エドガー様がひとつの世界で重ねられていくエピソードの一端を、捏造をまじえながら描写させて頂きました。 非常に《赤い》お話となっているのですが、カウンセリングシーンをはじめ、少しでもイメージに近いモノとなっていれば幸いです。
それではまた銀幕市のいずこかでお会いすることができますように。 |
公開日時 | 2008-12-17(水) 23:10 |
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