★ 【閉鎖戯曲】Solomon's depression ★
<オープニング>

 始まりは、突然だ。
 一切の予兆もなく、銀幕市立中央病院特別棟――その最奥に併設された研究棟の一角が、突如迷宮じみた館へと変貌を遂げ。
 そして、そこに≪死≫が溢れた。
 振り上げられた凶器を目にしたモノが、別の狂気に魅入られて。
 繰り広げられていくのは、装飾された死者たちと、装飾した生者たちと、そのどちらかにいずれ分類される出演者と、彼等によって≪登場人物≫に指名された観客たちで進行される≪惨劇≫だ。
 大きなソファをベッド代わりにして横たわり、ローブで覆われた女の腹は横に裂かれ。
 冷たいステンレスの調理台の上で、男は額を割られ。
 ピアノが置かれたサンルームでは、白い布でひと括りにされた男女が天井から吊り下げられ、ぽたりとぽたりと床に鮮赤を滴り落とす。
 現実と非現実は入り乱れ、舞台は周囲を巻き込みながら広がり続け、どこからともなく聞こえてくる繊細な歌声に乗って人々は『死』を演出し続ける。
 そうして、書斎と思しき部屋でもまた、ひとつの≪死≫が展開されていた。
「……ヒトは、他者に与えれた役割を全うしようという心理的作用が強いものですが……」
 アンティークの安楽椅子に細い鎖で全身を絡めとられた精神科医は、まるでそこが自室であるかのようにゆったりと思案する。
 背後では、7つの文字が刻まれた古い柱時計が振り子と連動し、ギリギリと音を立てて鎖を巻き取っていた。
「だからと言って、進んで死体役に立候補したがるヤツもいないんじゃないか、ドクター?」
 それを、江戸時代の蘭学者は形容しがたい表情で見つめ、嘆息する。
 文字通り死に至るまでの時間が刻まれていくにも拘らず、顔色を変えない相手へのいかんともしがたい感情だ。
「……わたしも『出演者』に選ばれてしまったようですから仕方ありません。ですが、この世界を支配している『見えない脚本』と、『それを紐解いてしまった方』を探すことで、これから先の悲劇は回避できるかと」
 お願いできますか、源内さん。
 そう続く穏やかな問いかけに、返す言葉を選ぶことなどできない。
「どんな手段を使ってでも捜査員を掻き集め、見つけ出す。だからアンタはそこで待っていてくれ。ただし、いざという時はせめてその頭を貸してほしい。……頼めるか?」
「ええ、もちろんですよ」
 蘭学医と精神科医は視線をかわし、頷きをかわし、そうしていくつかの言葉をかわし、やがてひとりだけが部屋を出た。


『館』の窓一面が、奇怪なモチーフのステンドグラスに覆われている。
 差し込む光は歪みねじれて、悪夢の泡のような影を降りこぼす。
 ――外は、秋晴れのはずなのに。
 神の兵はもういない。神殿ごと、幼い死神も姿を消した。集ったひとびとが、異形と知りながらも守り抜いたこの街は、抜けるような青空を取り戻しているものを。
 思わぬ幕切れにそれぞれの苦い痛みを呑み込んで、哀しいほどに強い彼らはいつものカフェで、明るく談笑していることだろう。陽光に満ちたその場所が、今はこんなにも遠い。
 また、彼らに助けを乞わなければならない。鎖に絡め取られた精神科医が、そして、この館を彷徨う自分が、プレミアフィルムになってしまう前に。
 血と闇の濃霧に満ちた廊下に佇み、蘭学医はサングラスを外して懐に仕舞う。代わりに取りだしたのは、小さなネジのついた、からくり仕掛けのペンギン――
「ったく、こんなときに限って携帯が電池切れとは。こいつで外に連絡をつけるか――受取人は『対策課』の植村直紀。頼んだぞ」
 機械のペンギンは渡されたメモをくわえるなり、小さな翼を上下させて了承の意を伝え、走った。
 ペンギンにあるまじき、風のような速さで。  


「あ〜〜れ〜〜〜?!」
「ぴ? ぴいいー!」
 凄まじい勢いで市役所に走り込んできた『からくり飛脚ペンギン』は、風呂敷包みを抱えた珊瑚に正面衝突し、すっ飛んだ。
 包みを死守しながらも珊瑚は盛大な尻餅をつき、ペンギンはくるんと空中で一回転して、植村の机の上にちゃっかり着地した。
 メモを差し出すペンギンを怪訝そうに見て、それでも、銀幕市の荒波に揉まれ、ちょっとやそっとのことでは動じなくなった植村は、そのまま源内の走り書きに目を通す。
「これは……!」
 神からの電話を受けたときに似た驚愕が、植村の双眸に現れる。
「銀幕市立中央病院の研究棟に……猟奇的なムービーハザードが出現して――ドクターDが囚われている?」
 横合いから覗き込んだ珊瑚も、目を見張り息を呑む。
「何ということ……! 源内の就職の御礼に、れぎなんに頼み込んだ特製『楽園』のすいーつ詰め合わせを、差し入れに伺うところでしたのに!」
 風呂敷包みを抱え直し、珊瑚は、市役所に居合わせた面々を振り返る。
「皆を誘って研究棟を訪問しかけた矢先にこんなことになりましたが……。猟奇なぞに負けず、どくたーにすいーつを届けたく思うのは、無茶ですかのう?」
 
 ★ ★ ★

 柱時計が、時を刻む。
 ギリ、と、鎖がまた少し、締め上げられていく。
 巻き込みたくは、ないのだけれど。そう思いながらも、ゆっくりと携帯を取りだした精神科医は、信頼しうるひとびとの顔を思い描き――伝える。
 午後のお茶にでも誘うような声音で。

「――よろしければ、手を貸していただけませんか?」

種別名シナリオ 管理番号239
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメント今回は神無月WRを巻き込んで、ぷちイベコラボに至る病に思い切りよく罹患してみました。
銀幕市立中央病院、その研究棟を襲った美しくも猟奇的なムービーハザード。
完全共通OPにてお送りしていますが、情報の入手先により、皆様には二手に分かれて頂きます。

・『対策課』にて、植村さん&珊瑚姫からの依頼→【脚本探し:刻一刻と惨劇が重ねられていく『館』を探索し、このハザードを止める】
・囚われのドクターDからの電話依頼→【真犯人探し:研究棟全体を対象に、このハザードを引き起こした黒幕を突きとめる】

もちろん、上記以外の手段で情報を入手することも可能です。

わたしは【真犯人探し】を担当いたします。
惨劇は一定のルールに則って進行しており、時間が過ぎていくことで事態は悪化の一途を辿ります。
出来るだけ早く、真犯人を捜し出してくださいませ。
ただし、研究棟内はハザードに浸食されつつあり、かつ、様々な【病】のサンプルも存在する一種の【パンドラの匣】でございます。
被害者、あるいは加害者とならぬようお気をつけ下さいませ。
なお、携帯を通してハザード内のドクターと会話が可能でございます。
相談、情報収集、カウンセリング他、ご入用の際には電話越しにそっとお声を掛けてくださいませ。

それでは、惨劇の舞台で皆様をお待ちしております。

参加者
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
尼子崎 竜次(ccch5878) ムービーファン 男 24歳 チンピラ
吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
<ノベル>

 薔薇を模したステンドグラスから注ぐあやしげな光と研究所の透明なガラス窓から注ぐ陽の光が、リノリウムと大理石が混じりあう床で交差する。
 浸食し続けるハザードの、その境界線上。
 銀幕市立中央病院特別棟、その最奥に併設された、通称〈ガラスの箱庭〉と呼ばれる研究棟内にはいま、四人の男の姿があった。
 そこに立つ彼らの事情はそれぞれ異なる。
 直接ドクターDから『招待状』を受け取った者、対策課経由でこちらに赴いた者、そして、
「ったく、信じらんねぇっス! 知り合いが病院行ったまんま帰ってこねえって相談受けて、自分の、ああと……幼馴染も帰ってこねえし、なんかあったと思ったらコレっスよ」
 尼子崎竜次は崩れた白スーツの袖をまくり上げ、かしかしと雑にまとめた黒髪を掻き毟った。見た目を裏切らず、彼の職業は『チンピラ』という一言に集約される。
 しかし、集った人々の中でひとり自分の毛色が違うことを彼は気にしない。気にする必要がないからだ。今の銀幕市においては、特に。
「そもそも今回の事件ってのは、ドクターが巻いた種なんじゃないっスか? 前々から思ってたけど、いかにもイカレ野郎に好かれそうじゃないっスか、あのヒト」
 繰り出される言葉は辛辣だ、しかし、その声音には行方の知れない知人や大切な存在の安否を気遣う優しさがほの見える。
「……必ずしもそうとばかりは言えないんじゃないのか?」
 シャノン・ヴォルムスは、自身の銃に弾丸を充填しつつ、至極冷静に答える。
「ムービーハザードに巻き込まれることで、時には自分の感情すらもあっけなく呑まれるものだからな」
「だが、怨恨もまた考慮すべき線ではあるだろう? 俺たちに与えられたのは探偵役なんだ、可能性が可能性である内は疑うべきだろうな」
「貴様は?」
 横から言葉を挟んできた青年に、シャノンは胡乱な視線を投げる。だが、相手は憮然とした表情で答えを拒絶した。
「名前を答える必要はないだろう? 俺はドクターに呼ばれてここに来た探偵だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 気だるげに黒の巻き毛を指先でいじりながら、青い目を眇めて言う。
「ああ、犯人役を見つければこの茶番も終わるんだったか。いっそ誰かが横から『役』を奪うというのはどうだ?」
「なんなんっスか、それ? マジで考えてるんスか?」
「……何を考えている、貴様」
「いや、面白い提案だと思うよ、俺はね」
 吾妻宗主は、手にした可愛らしい紙バッグを持ちかえながら、やんわりと微笑んだ。
「ただし、ミイラ取りがミイラになってしまったら意味がない。俺としては行動に移る前に犯人の特徴、あるいはそれに類する情報の片鱗だけでも手に入れておきたいところなんだけど」
 けして和気藹々とはいきそうにない面子に自身の携帯電話を示し、首を傾げた。
「さて、ドクターはいつでも電話していいって言ってくれたけど……どうしようか?」
 提案は至極穏やかな声で差し出される。
「賛成っスね。あの医者には言ってやりたいコトが山ほどあるっス」
「ここから別行動になりそうだしな、聞けるなら今がいいかもしれん」
 竜次とシャノンの賛同を得、無言の探偵の視線に促がされ、宗主は笑みをたたえたまま携帯電話を操る。
 呼び出しはわずか二回。
 電話の向こうで、捕らわれの精神科医がこちらの言葉を待っている。
「これから研究所内、ならびに洋館の探索を開始するのですが、その前にニ、三の質問に答えて頂いてもいいですか?」
 ええ、という言葉を待って、宗主は次の台詞をさらさらと口にした。
「ドクター、まず確認しておきたいのですが、最近関わった患者の中にこの手の事件を引き起こすだろう可能性を持った人物はいたのでしょうか?」
「特に歌とか鎖っスね、そういうのに固執するタイプっスよ」
 竜次はきつい眼差しで、宗主の手の中の携帯電話を睨みつける。
「アンタと関わった患者が引き起こした事件だって睨んでるっスよ。アンタが最近関わった患者を片っ端から調べ上げるからカルテの保管場所を吐くっス!」
「……質問というより、取調べだな……」
 こそりと呟いたシャノンの言葉は、彼には幸い届かなかったらしい。
「この藪医者、とっとと答えやがれッスよ」
 なおも宗主を挟んで罵倒に似た詰問を繰り出すが、当の精神科医はわずかな笑みを含んだゆるやかな声を返す。
『個人情報である患者さまのカルテをこちらから進んでお見せするわけにはいきませんが……そうですね、よろしければ研究資料の場所をお教えしましょうか』
「研究資料?」
「面白そうだ。教えてくれ」
 すいっと、気配を感じさせずに背後に立った黒髪の探偵が、竜次の手から携帯電話を取り上げた。
「な、なんなんっスか、アンタ。なんで自分と吾妻さんの間に割り込んでくるんっスか?」
「なら聞くが、お前は一度聞いただけでここの研究所の配置が把握できるのか? 地図は頭に入っているか? ハザードが起きなくとも、この建物は迷宮めいている」
「……う……確かにその通りっスけど……」
「“ロジックの積み重ねには詳細にして正確なデータが必要だ”……そうだろう、ドクター?」
『ええ。では場所の説明をさせて頂きましょうか』
 そんなやり取りを横目で見やり、シャノンは溜息をひとつ。
 そして、カシャリと銃の感触を手の中で確認すると、おもむろに一歩を踏み出した。
「俺は先に〈洋館〉内へ行っている。貴様らもせいぜい出演者とならないよう、気をつけるんだな」
「それじゃ俺は遺体の検分をさせてもらおうかな。どうかな、シャノンさん。ご一緒させてもらっても?」
 首を傾げた拍子に、さらりと銀の髪が肩から胸へと滑り落ちる。
「かまわん」
 金と銀、一対の美しい存在が境界線を越え、惨劇の迷宮へと踏み込んでいった。
 彼らは取り込まれずにいられるだろうか。
 揺らぎに負けずにいられるだろうか。
 複雑な思いを抱いて二人の消えた扉を眺め、そして、竜次は探偵と名乗った男を振り返った。
「それじゃあ自分らも行くっスよ」
「しかたないな……」
「ほんとに渋々ってのが前面に押し出されてて腹立つっスねぇ」
「せいぜい俺の足を引っ張らないことだ」
「ソレはこっちの台詞っスよ!」
 律儀に言い返しながら、それでも竜次は彼と肩を並べ、ドクターに指し示された『研究資料管理室』へと向かった。



 壊れた世界、病んだ色、外から内へと染み込んでくる、深い深い罪悪の痛み。
 ではこの痛みは、どこからやって来るのだろう……?



 一度訪れている研究所とは明らかに様相が違うことを、シャノンは不穏な空気とともに実感する。
 鉄筋とコンクリートで築き上げられた白亜の塔が、15〜6世紀のルネッサンス時代を髣髴とさせる建築形式に取って変わられている、それだけで一種異様な雰囲気が付きまとうものだ。
 しかも、嗅覚を刺激するのは、消毒薬ではなく強烈な血のニオイ。扉を開ければ、そこら中に『死』がばら撒かれていて、それらを見下ろす窓はまるで宗教画を思わせるステンドグラスだ。
 果たして、これにも意味があるのかどうか。
「また腹を裂かれた女、か」
 いま、シャノンと宗主が立つのは、ソファに倒れこみ、裂かれた腹を見せて息絶えた女の部屋だった。
 ただし、その姿、正確には似た様なシチュエーションで殺された死体を、既に彼らは二ヵ所で確認していた。話に聞いていたのはみっつの死。けれど、いま目にしているものはソレに訂正を掛ける。
「……ひとつのモチーフに複数の死……か」
 宗主は独り言のように小さな呟きをこぼしながら、彼女の骸の前に膝をつく。
「なぜだろう、この傷……まるで何かを引きずり出そうとしたみたいだけど……正中線にそって臍から下に……」
 どこに持っていたのか、ゴム製のディスポ手袋を嵌めてそっと触れていた。
「……子宮を、探したかったのかな……」
 だとしたら、これまで見てきた真横に引き裂かれている事例は、手を下したモノの無知を表していたということになるだろうか。
「貴様、平気なのか?」
「……あまりいい気持ちはしないけど……一度は医療の道を進んだからね。解剖の講義も実習も履修済みだよ」
 口元にはほのかな笑み。けれど、瞳に落ちるのはかすかな影。それが表す意味を知ること、相手に問いを投げかけ領域に踏み込む権利は自分にはないと判断し、シャノンはステンドグラスへと視線を逸らした。
「どういう意味を込めたのかは分からんが、こんなものを作ろうと考えるヤツはよほど神に恨みでもあるんだろう」
 ほとんど無意識に、感じたままを口にする。
「シャノンさんは、神への冒涜と感じるの?」
「……ん? 貴様は感じないのか?」
「死者への冒涜だとは思うけど……俺が日本人だからかな? ああ、でも……そっか、神への冒涜……」
「殺害方法からプロファイリングでもするつもりか?」
「尼子崎さんが興味深いことを言っていたから、少しその方面も考慮しているところなんだけどね」
 近くに置かれていた白いシーツをそっと広げ、宗主はごく自然な動作で、これまでと同様に彼女の上にソレをやさしく掛ける。
 無残な死が、鮮烈な赤が、無垢な白の下に隠された。
「意味があると思うんだ。うん……そう、意味がなくちゃいけない。それも、七つ分の意味が」
「一体どんな意味を込めているのかは分からんが……ドクターが囚われている時計の文字盤を確認できれば何かのヒントにはなるか?」
「一体どんな文字が刻まれていたのかは知りたいね……でも、そうすると……」
 再びドクターに連絡を取るべきか。
 もしくは、今この館の中で『見えない脚本』を探している者たちを経由し、源内に連絡を取るべきか。
 できるなら直接自分の目で古時計を見ておきたいのだが、とまで考えて。
「いま、どこかで何か動かなかったか?」
「え」
 シャノンの緊張感を帯びた声が、思考の海に沈み掛けていた宗主をこちら側へと呼び戻した、その瞬間。
 ぎしりと館が歪み、唐突に床から突き出てきた漆喰の壁が、宗主とシャノン、二人を分かつ。
「組み変わり続ける迷宮……」
 ソレはどちらの呟きだったのか。
 あるいは、双方から洩れたものだったのか。
 起きてしまった事象は巻き込まれたものの意思を完全に無視して、どこまでも展開し続けていく――



 資料管理室と名付けられたそこは、膨大なディスクと書類によって、壁という壁、棚という棚が埋め尽くされていた。目に入るものすべてが文字を持っている。
 当然といえば当然の光景なのだが、けして乱雑なのではないのにひたすらに圧倒される質量を前に、竜次は思わず吐きそうな顔で息をついた。
「なんっスか、これは……目のやり場に困るっスよ」
「資料室というのだから、研究資料だろう」
 微妙に用法を間違えた台詞はあえてとりあわず、淡々と彼は文字であふれる白い世界を探索し始める。
「ソレでも十分に守秘義務は生じているはず。ドクターは最大限の情報源を提供してくれたことになるか……」
「どうせならもっときっちり分かりやすいヒントを寄越しやがれって感じっスよ……」
「この程度で音をあげる男が何故わざわざこの資料室に来た? ヒト探しなら、いっそ館内部に入り込んだ方がよかったはずだ」
「……自分は自分のやり方や考えがあって行動を決めてるっス。犯人が分かれば、そいつに特攻掛けて叩き潰すだけっス」
 一瞬、竜次は、あえて館の探索を別の二人に任せた理由を、彼の青い瞳に見透かされた気がした。
 だから無理矢理会話の方向性を捻じ曲げてみる。
「そういや、あんたはドクターとはどこで知りあったんスか?」
「……とても興味深い事件があった、その時にだ。ただし俺が本当に言葉をかわしたのが何人目のアイツだったのかは分からない」
「何を言ってるのか、さっぱりっスよ?」
「分からないならいい」
 意味深な台詞を吐きながら、その真意を問えば解答を拒否する男に、思わず竜次の唇がへの字に曲がる。
「これだからムービースターは嫌いなんっスよ……」
 そこに、本音が混じりこむ。
 心からの思いが透けてしまっていただろう。
「ひとつ、俺の見解を述べておく」
「なんっスか?」
「このハザード内にいる限り、ムービースターはこの街のルールに則った死を迎えることはない」
「ソレがなんだって言うんっスか?」
「マガイモノの死であっても、お前を脅かす存在となるだろう、という話だ」
「……」
 やはり、この黒髪の探偵は気づいている。
 どこでそれを知ったのか、どこでそれに思い至ったのか、探偵という人種はどうやってその答えに行き着くのか、竜次には分からない。
 だが、あえて反論することがより自分を追い詰めることだけは十分に理解できた。
 議論をしてはいけない。自分に関するヒントを与えてはいけない。交わすべき言葉、選ぶべき話題は、いま目の前にある探しモノについてのみ、だ。
「犯人の手がかりっスか……」
 何故この研究所内でハザードは起きたのか。何故、ドクターが捕らわれなければならなかったのか。彼はいまどこにいて、犯人はいまどこで何をしているのか。
 膨大な文字列の中に埋め込まれたヒントは、果たしてどう拾いあげるべきだろうか。
「歌、鎖、ドクターを狙うだけの理由……理由……理由……」
 精神科医という立場にあり、なおかつ、研究者である心理分析官という役柄をも割り当てられたムービースター。
 理由など、きっとその辺りに転がっているのだ。
「この病院の研究棟が狙われた、ドクターが標的となった、これはどう考えたって状況証拠になるはずっス」
 少なくとも彼と関わりの深いものでなければならない。
「でも、だとしたら、患者だけじゃねえってことになるっスね……研究員だって、後はジャーナル読んだどっかの誰かだって……」
「言っておくが、ここにはIDカード、もしくは特別な許可を持つものしか入れないことを忘れるな」
「あ、なるほどっス……じゃあ、部外者の場合は忍び込めるスキルが必要ってことになるっスか」
 思いがけないところから探偵の返事を得、軌道修正を掛ける。
 そうして竜次は、自身の中の疑問や引っ掛かりを整理するためだけに、思いつくままに言葉を発し続けた。
「あの薮医者、どんだけ恨まれてんのかわかんねぇっスよ、ねぇ?」
 今度は同意を求めるように声を掛けつつ、探偵がいると思しき方向へ振り返り、
「あれ?」
 どこにも誰もいない空虚な光景にきょとんとしてしまう。
 気づけば、黒い巻き毛の探偵が消えていた。
 ここは広い。うんざりするほどに積み上げられた情報の海のどこかに潜ってしまったのだろう。
 竜次の視線が、ふとある一点に引き付けられ、停止した。
「“銀幕市における罪と罰の所在”……?」
 よく見れば丁寧にカテゴライズされている一角の、さらに細分化された資料棚を見つけてしまった。
 並ぶ背表紙には、ケースごとのタイトルが付けられているのだが、その中のひとつが妙にこちらの目を引き付ける。
 ほとんど無意識に手を伸ばし、ソレを引き出していた。
「何をしてるんですか?」
「へ?」
 突然の声、突然の問いかけ、突然の第三者の出現に、竜次はせっかく取り出したファイルを取り落とし、床にばら撒いた。
「貴方、誰です?」
 白衣を来た青年の警戒した視線が、派手なシャツに白スーツを合わせた闖入者に突き刺さる。
 そして。
 周囲がザワリと大きく身震いし、その姿を近代建築から何世紀も過去に遡った洋館に変えた。



 時計の針は時を刻む。
 古時計は、悲劇までの時間を刻む。
 彫刻のような男を束縛する鎖は、進んだ『時』の分だけその本数を増やしながら、死へのカウントを行っていた。
「やあ、ドクター。いい眺めだね」
 天井からすとん…と降りてきたのは、金の髪と抑え切れない病をシルクハットの下に隠した灰色の奇術師だった。
「おや、ローズウッドさん」
「ちょっと息抜きに顔を見に来たよ、ドクター」
 くすりと、ヘンリー・ローズウッドは笑って見せる。
「先ほどはお電話を有難うございました。今回は『黒髪の探偵』としてご参加くださったんですね」
「アンタがわざわざ僕を呼ぶなんて実にめずらしいことだからね。ちょっとくらいは演出に凝らないと失礼じゃないか」
 紳士の嗜みだとうそぶいて、ついっと、精神科医を戒め捕える鎖のひとつを指先で掬い上げた。
 力任せに引っ張り、次いで、戯れに取り出した銃で一発。
 しかし。
「へえ……この鎖、断ち切れないんだ?」
 破裂音と火花が空間を裂くが、華奢なはずの銀の鎖はごくわずかな傷すらつかず完璧な輝きを誇っていた。
「ハザードのひとつですから、定められたルールの上では強固な存在となるのでしょう」
 あまりにも物騒かつ突飛な行動にも驚く素振りを見せず、ドクターDは視線を巡らせる。
 彼は自身の命に頓着しないのか。
 問いかけてみようと思ったが、やめる。
 その代わり、さも面白いことを思いついたと言った表情で、パチリと指を鳴らした。
「ああ、そうだ。せっかくだからさ、ヘンリーって呼んでくれないかな? 友達になろう、ドクター。その方が盛り上がる」
 僕がね、という台詞を鮮やかに口にして、すっと顔を近づけた。鼻先が触れ合うほどの至近距離で囁く言葉は毒を孕む。
「では、ヘンリー。友人であるあなたにひとつお願いがあるのですが、よろしいですか?」
「もちろんさ。死に瀕した友人のために、僕は一肌脱ぐんだ。さあ、何を言いたいのかな、D? もしかして遺言かい?」
 まさしく『死』が覆い被さっているはずの当人は、黒い言葉を微笑みで受け止め、小さく首を傾げる。
「遺言になるかどうかはまだ分かりませんが……」
 彼の唇が紡ぎ出す願い。
 ソレが、奇術師の笑みを深くする。
「面白いから特別にやってあげよう。さて、それじゃあそろそろ舞台の上に戻ろうかな」
 シルクハットのつばの位置を直し、流れるような所作でドクターの手をするりと取り上げた。
「ところで……アンタは本当に黒幕が誰なのか、見当がついてないのかい?」
 問いかけには、ナイショ話めいた色が滲む。
「正確なデータがないままの予断は、真相に至る推理を鈍らせますよ、ヘンリー」
「探偵の鑑だね。まあいいさ、このくだらない惨劇にはとっとと幕を下ろして、またふたりでティータイムに謎解きをしよう。またおもしろいネタを仕入れておくから楽しみにしているといい」
 だからそこで待っているといいよ。
 そう笑い、イタズラめいた仕草で彼の手の甲に軽く口付けて、ウィンクひとつもオマケでつけて、奇術師は密室から姿を消した。
「ええ、お待ちしています」
 再び古時計の部屋には、精神科医だけが取り残された。
 じゃら……ん。
 ぎしり。
 時は刻まれ、歯車は回り、精神科医を締め付ける鎖がまた本数を増やし、少しだけ、きつくなる。



 鐘が鳴る。
 旋律が変わる。
 あらたな悲劇の準備は整った――



 ロココ、ネオクラシック、アールヌーボーと、木製の扉に手を掛け押し開くたび、壮麗なデザインが非現実感をもって、シャノンとはぐれ、ひとり歩き回る宗主を出迎える。
 描いてみたい、と思う。
 そんな場合ではないのに、指先が知らず、デッサンを取ろうと動いていた。スケッチブックがあれば、触発されたデザインたちを紙面に描き写していたかもしれない。このハザードの元となった映画は一体どんな看板を掲げていたのだろう、とまで思った。
 もし許されるなら、何日でもここに留まりたい。
 そう、この場所で――
 ふと、そんな宗主の耳に、いずことも知れない場所から鐘の鳴る音が届けられた。
「四つ目の鐘……かな……折り返し地点だ」
 冷静に数を数え、ひとりごちる。
 タイムリミットは、おそらく七つ目の鐘が鳴るまで、だ。
 できるだけ早くに真犯人を見つけ出さなくてはいけない、なのに、組み立てた推測の実証に映るより先に悲劇が次の段階に進んだことを知る。
 腹を裂かれた女、頭を割られた男、天井から吊るされた男女、同じモチーフでありながらわずかずつ趣向を変えた死であふれたこの館に、またひとつ、悲劇の種がまかれたのだ。
 旋律が、美しい惨劇を完成させろと優しく唆す。
 コレは、揺らぎ。
 美しい揺らぎだ。
 死への装飾という、甘美にして倒錯的行為への誘い。
 ヒトは死ぬと死人になるのではなく死体になるのだと言ったのは誰だったろうか。ヒトの死は色を失うことから始まる、最後の締めくくりこそ華々しくすべきなのに。
 自分ならば、どうするだろう。
 魂が抜けた冷たい骸を前にして、自分ならばどうするだろう。
 あるいは、死を目前としながら生かされるモノを前にした時、自分はどうするだろう。
 自分のチカラを試したい。
 自分を試してみたい。
 医者としての感性、絵画を愛する絵描きとしての感性、双方からのアプローチによって、そう例えば【発病】をモチーフに据えた時、自分はどんなカタチに【死】を作り上げようか――
「――くっ」
 思考を止めたのは、ガラスの破片。
 ソレは石膏のような腕に赤い線を走らせ、つ……っと、手の平から指先を伝い、床へと赤の色彩を滴らせた。
「……ヒトの死は悼むもの。ヒトの死は不可逆であるがゆえに、尊重されるべきもの。敬意を失い、尊厳を奪う真似は許されない……」
 呪文のように繰り返す。
 繰り返しながら、携帯電話を取り出した。押すべき番号はただひとつ。呼び出しのベル三回分で相手の応答を得られた。
 どうなさいました、と医師特有の問いかけが心地良い安堵をもたらしてくれる。
 この電話が何を求めて掛けられたモノなのか、彼は気付いているのだろうか。
「ドクター、ひとつお伺いしても?」
『ええ、なんでしょうか吾妻さん?』
 古時計に刻まれた文字列を聞くべきではないか、という思いがふと頭をもたげる。けれど、口を突いて出たのはまるで違うものだった。
「あなたは〈死〉に慣れましたか? 数多の事件に関わり、数多の患者と関わる中で、慣れることができましたか?」
 冷静さは取り戻しているはずだ。けれど、まだ胸の奥のさざめきが消えない。気を抜けばすぐにでもあの『誘惑』に身を委ねたくなる。
 許されないと知りながら、自身もまた、この『舞台』の出演者になりたいと頭の片隅で望んでしまっている。
 だから、あえてドクターに問うのだ。医師としての彼に、己の死生観を。
『吾妻さん』
 穏やかな呼びかけと、手の平の傷が、自分をここに繋ぎとめている。
『死という現象は、とても複雑です……冷静に対処できることと、鈍感になることとは別のものだとは思いませんか?』



「……まったく、おかしくなりそうだ」
 何度折れたか分からないほど折れ曲がった廊下を歩きながら、シャノンは何度もかぶりを振り、『声』を払いのけようとしていた。
 自身の内側に、直接囁き掛ける声。
 遠くで時計が鳴っている。
 わずかに届く旋律も、それと同時に曲調を変えたようだ。変えて、歌う。たどたどしく、時折不明瞭になりながら、歌は鐘の音に乗ってこちらを浸食してくる。
 じわりと、心の奥底から湧きあがってくるのは、暗い嗜好。それに興じるモノがどこかにいると分かっているのに、脳内に描いた地図を頼りに歩きまわっても、それらしさのカケラもない。
 ふと、視界の端に何かが映った。
 角の向こう、銃を構え、音を立てずに跳躍し、距離を詰めた。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……よっつめの悲劇……」
 ふわふわと歩き、さまよう男。
「……研究棟の人間か?」
「よっつめは、発病……病が芽吹く瞬間を、カタチに変える。そう、例えば発芽とか芽生えとか、そんな感じに」
 虚ろな視線が、こちらに向けられた。彼の頬にも手にも白衣にも誰のものとも知れない赤の色彩がべっとりと付着していた。
「病の芽吹き……」
 男の手の中にあるのは、黒く鈍い光を反射する鉄串が数本。
「悪いが貴様と遊ぶつもりはない」
 研究員か、ハザードの付属人物か、それとも巻き込まれた一般人か。区別する術を持たないままで対処するにはどうするべきか。
 あの時のことを思い出す。
 かつて【死に至る病】が蔓延するのを止めるために研究棟へと入り込んだあの夜、自分が為したことを思い出しながら銃を握った。
 不要な血を流させるつもりはない。
 ただ、どうしようもなく黒い想いが渦を巻いていた。
 どうする。どうすればいい。
「死は等しくヒトの子の頭上に掲げられている……ならば、俺も……」
 いっそ、いっそすべてを自分と同じ色に染め上げてしまおうか。
 愛しいものすべて、眩しいものすべて、白く美しいものすべてを、自分と同じ罪と穢れにまみれた存在に落としてしまおうか――
「駄目に、決まっているだろうが」
 声に出し、否定する。
 きっぱりと、一切の妥協を含まぬ強さで否定して、銃のかわりに平手で男を弾き飛ばした。まるでジャマな虫を払うように、けれどギリギリまでチカラを制御して。
 がしゃんっ
 べしゃり。
 鉄串を手放し、無様に転んで、相手はぐったりと脱力し動かなくなった。横たわる体に、ステンドグラスを通した陽が静かに注ぐ。艶かしく厳かな光を投げ掛けている。
 シャノンは、その光景を眺めつつ、自身の携帯電話を取り出した。
 四回の呼び出し音。
 そして、
『どうなさいました?』
 電話ごしに、やわらかな精神科医の声が届く。淡く優しい春の陽射しを思わせる、静かで落ち着いた声を耳にし、安堵を覚える自分がいた。
 それでも、気を抜くことはできない。
「聞きたいことがある」
 眉間にきつく眉を寄せて、鈍い頭の痛みを耐えるように言葉を吐き出す。
「お前はこの世界をどう思っている? 自分という存在、自分がいた世界、ソレとこの銀幕市とのギャップに戸惑いはしないか?」
 黒い衝動はまだ、自分の腹の中で渦を巻いている。
 それを必死に抑えながら、声にも表情にも苦痛を乗せず淡々と、シャノンは質問を続けた。
「怖いと思う俺は、おかしいか?」
 この街はきれいで、眩しい。
 例えバランスが崩れ掛けているのだとしても、自分が生きてきたと考える場所に比べ、あまりにもすべてが眩しい。罪深き咎人たる自分には、触れることすらためらわれる場所。
 穢れたこの手で触れてしまえば、美しいこの世界も、そこから膿み、腐り、崩れていってしまうのではないか。
『……ヴォルムスさん、ひとつだけ確かなことがあります。お聞きになりますか?』
「ああ、聞かせてくれ」
 かすかに身構えながら、それでも願う。
 彼の言葉を。
 彼が差し出すだろう言葉のチカラを。
『幸福になることを怖れてはいけません』
 静かに、けれどチカラを持った言葉が、シャノンの中に落ちてきた。
 かつて、自分は『ドクターD』と対峙した。
 殺すしかない、殺すべきである、そしてその役目は自分であると定めたシャノンを、罪ではないと受け入れ、肯定してくれたモノが再び言葉をくれる。
 だから、シャノンは顔を上げる。
 愛しいモノのために、あるいは、自分のために、顔を上げ、やるべきことを見極める。
「四つ目は発病、か……」
「面白い言葉だよね」
「……貴様、ヘンリー・ローズウッド」
「やあ、久しぶりだね、ミスターヴァンパイア。懐かしい顔に出会えて嬉しいよ。この間は別の病院で美女と野獣コンビ復活に立ち合ってね、ちょっとした同窓会を楽しんだところだったんだけど」
 すっかり嫌われちゃった、と彼は笑った。
「さて、つもる話はあと回しにして、僕からひとつ提案があるんだけど聞いてもらえるかな?」
「貴様の提案だと?」
「正確には僕の提案じゃあないんだけどね」
 警戒するシャノンに向けて、奇術師はにこやかに手を差し伸べた。



 磨き込まれた床に響き渡るのは、複数の硬質な靴音だ。
 逃げるモノと追いかけるモノ、双方の距離は開いては近付き、近づいてはまた引き離される。
「どうなってるんっスか、これ!」
 竜次が掴んでいるのは、蛍光灯の明かりを冷ややかな白さを持った無銘の日本刀――白木によって竹刀にカムフラージュされた代物と、そして研究者の青白い腕だ。
 資料室で出会った青年は、竜次よりも年若く見えたが、その表情は自分よりもはるかに年経たモノのようだった。
「アイツら、いきなりなんなんっスか」
 彼らは今、追われている。
 理由は判らない、けれど明らかな殺意を背後からぶつけられている。
「ここはね、銀幕市だからこそ起こりうる心的外傷やストレス、内面変化、それらから派生する様々な病について研究しているチームなんだ」
 問いへの答えのようで、ずれた回答がよこされる。
「彼らも出演者になったのかもしれないね。残念だな……発症しちゃった」
「アンタら、病気の研究してんなら、免疫くらいつけとけっス!」
 しごく最もな意見を叫ぶ。
「でも、その研究はとても危険を伴う。ね、誘惑が多いんだよ、とてもとてもとてもとても……」
 竜次は、背筋に大量の氷を押し当てられた気がした。
 何故、気づかなかったのかと、苛立ち紛れに拳を壁に叩き付けたくなる。
 鐘が鳴っているではないか。
 遠くで鳴っているではないか。
 それは、悲劇が呼び寄せられる音――
「よっつめの鐘は……発病を知らせている。ね、キミの病は進行していくよ。どんどんどんどん不可逆的に進行していくんだ」
「は?」
「殺して殺されて映画のワンシーンを飾るんだ、キミの作り出した死が、この銀幕市に新しいフィルムを提供することになる――素敵な循環だ」
「ふっざけるな!」
 怒りが、脳天を突き抜けていく。
 思わず掴んでいた腕を引き寄せ、そのまま床に華奢な研究員を押し倒した。
「ムービースターはいいっスね! 全部設定だ。ヒトを殺しても、どんな悪行を重ねても、どんな過去を背負っていても、ここにいれば全部“そういう設定だった”で許されるんっスから」
 慟哭がほとばしる。
 あふれだすのは憎しみか嘆きか。
 自分はいまだ、悪夢のように赤く染まった拳が見え、うなされ、苦しめられている。
 目の前に横たわる死。
 その『死』は、けして美しいものではない。
 この手についた赤い穢れを拭い去ることは許されない。
 赦されないようにできている。リセットの効かない人生は、ただ一度の過ちで簡単に壊れてしまうのだ。壊れたモノを修復することは相当に難しい。
 なかったことにできない死、友人の死、大切な存在だと思っていた者の死が衝動によって消し去られてしまったという事実が、魂に亀裂を作る。
 癒えない、癒されない、癒えることなど赦されないから、生々しく醜く引き攣れた傷を抱え、耐えて生きていかなければならない。
「この街で〈死〉をキレイゴトにするのは、自分が許さないっス」
 起き上がる気配のない研究者に一瞥をくれ、次いで、追いついた追跡者たちを竜次は竹刀袋に包んだままの日本刀で、勢いに任せ横に薙いだ。
 重い感触。
 鈍い音と一緒に空気を吐きながら、したたかに腹を叩かれた男たちが床に転がり、気を失った。
「ったく……ああ、もう、資料の意味を聞きそこねたじゃねぇっスか! あの薮医者に文句言ってやるっス」
 昂揚感に煽られるまま、竜次は携帯電話の番号を押す。
 だが。
 呼び出し音が、二回、三回、四回、五回……と延々鳴り続けても、ドクターからの返答はなかった。
 何故出ないのか、何故出られないのか、そのワケが頭の中でひらめいて――

 ぱちぱちぱち。

 出し抜けに、薄っぺらい音の拍手が天井から降ってきた。
「やあ、素晴らしい啖呵だったよ、チンピラくん。感動のあまり思わず拍手を送ってしまったくらいにね」
 唐突に、呼びとめられた。
 ステンドグラスが嵌め込まれた窓枠の、ほんのわずかな足場に立って、自分を見降ろしているもの。
「な、なんなんっスか、アンタ!」
「さあ、なんだろうね。いま僕にソレを問うよりも、キミは僕の手を取るべきだよ」
 ね、そうだろう。
 笑う彼は、竜次の返事を待たずに窓からひらりと飛び降りて、そして腕を掴んだ。
「ホストのドクターはどうもまだカオを出せないからね、代わりに友人である僕がキミたちの案内役さ」
 ステキだろう、と自慢げに笑い、そして竜次のもう一方の腕もしっかりと掴んで――



「……何故、気づかなかったんだろう……」
 宗主の足元には、彼の拳と蹴りによって床に沈められた加害者候補たちが転がっている。
 ドクターは電話口で言った。
 死とは複雑なものであり、冷静であることは鈍感になることと同義ではないと。
「……もし、初めの死が出産だとしたら……」
 神の冒涜だとシャノンは言った。神を身近に感じるものの発言は、この洋館を構築するモノの意図にも通じる気がした。
 では、神と共にあるものが、生まれて後にすることは?
「洗礼……少なくとも、そう言う位置づけは可能……」
 そして、洗礼を受けたものはやがて年を経て婚姻の契りを交わすだろう。
 この流れの中に、かつて大学の講義でたわむれに講師が話した映画のストーリーを思い出す。
「憂鬱な歌……七つで表す七つのキーワード……ここまで凝るのなら、そう……行きつく先は……」
 宗主の瞳に閃きが宿る。
 断片的な情報に一本の筋道が見えた、ならば後は組みあげていけばいいだけだ。
 けれど、そう、できることならこの考えをまとめるための相手が――
「やあ、悩める絵描きくん。僕の手を取るつもりはないかな?」
「おや、キミは」
 にこやかに、灰色のスーツの男は手を差し伸べる。
「話し相手がほしいなら、僕が案内してあげよう。お茶会とまではいかないけれど、ちょっとしたブレイクタイムさ」
 天井から逆さづりでウィンクする青年が何者か、宗主は知っている。
 知っているが、あえて彼の誘いを受けた。
「では、お願いしましょうか」
 差し伸べられた手に、自分のソレをためらいなく重ねた。彼に負けず劣らずの素晴らしい笑みを浮かべて。

 くすくすくすくすくす……

 壊れた影、壊れた視線、壊れた目をした奇術師に誘われ、『探偵役』兼『被害者候補』兼『加害者候補』たる三人は半強制的なブレイクタイムに引きずり込まれる。



 人は死ぬ。
 生まれ、洗礼を受け、婚姻し、病を発症して――やがて、死ぬ。
 埋葬される不可避の運命、ならばそれを――いっそ鮮やかに飾り立てればいい。



 かつては職員たちの休憩室だったらしいが、ハザードに飲まれた今は合わせ鏡の趣向を凝らしたロココ調のティールームだ。
 そこに集う、四人の男たち。
「……ヘンリーは何を考えている?」
 ふたり掛けのアンティークソファにもたれ、足を組み、シャノンはこの状況に問いを投げ掛ける。
 自分をここへ連れてきた奇術師は、既に姿を消していた。
 神出鬼没の紳士強盗。彼が何をしたかったのか、その意図を汲めたかどうかは分からない。
「でも、迷宮化した屋敷の中から俺たちを見つけ出し、こうもたやすく一箇所に集められたのは彼の能力ゆえかな」
 宗主は彼を評価し、にっこりと笑ってみせた。
「あり得ねえっス、ほんとにあり得ねえっスよ!」
 状況を飲み込みきれてない竜次は、まだどこかにあの男が潜んでいるような錯覚に陥り、落ち着かない。
「しかもアンタ、どこ行ってたんっスか? 人がハザード内で必死に戦ってたっつー時に」
 動揺のせいか、指を差して黒髪の探偵に叫んだりもする。
「調査をしていた」
 当然だろうと言わんばかりの眼差しで、相手は足を組みかえる。
「ロジックは美しくなければならない……揃えた材料が本当に必要なものかを吟味する時間も必要だ」
「同感だね。俺もできることなら美しい論理で解決を望みたい」
 宗主は気だるげな彼に微笑みかけ、すっと指先で資料をなぞった。竜次が資料室から抱え、もって来たファイル達だ。
「……一週間の歌を知ってるかな? 月曜日から始まって、日曜日でオチがつく、いろんなパターンがあるんだけどね」
「なんっスか、それ?」
「見立て殺人……よくミステリーの題材にもされているんだけど」
「ドクターが捕らわれている古時計の文字盤の画像だ。そこの男の推理を裏付けられる」
 宗主の言葉を補うように、探偵が携帯電話を開いて画面を全員に向けてかざす。
 Born…Christened…Married…Took ill…Worse…Died…Buried……
 そして、
「読めるか? 〈This is the end〉の文字が、ごく小さくだが最後に連なっている」
「な、どうやってこれを手に入れたんっスか、アンタ!」
「だから調査をしていたと言っている」
「すごいな、俺の知りたかった材料だ」
 嬉しそうな宗主に、ちらりと視線で応える。
「ただし、このモチーフには、特定の誰かを殺したい、という意思がないように思う。死体役は誰でもいい、殺す役も誰かが問わない、だとしたらコレはただのパフォーマンスだ」
 黒髪の探偵は、憮然とした表情で溜息をつく。
「確かに、宗教的な意味合いをもたせようとはしているが……所詮、そういうポーズを取ってみただけとしか思えんな」
 シャノンは自身の両手を眺め、そして目を細めて天井近くに嵌め込まれたステンドグラスに視線を向ける。
 ここに掲げられているのは、病の床につく重病人のようだった。死神とも病魔ともつかないものに抱き寄せられている。
 しかし、教会を身近に置いて生活していた目から見れば、そのデザインはひどくデフォルメされ、本来の姿から程遠い曲解で成立していた。
「無知な輩がイメージだけで作り上げたという感触しか俺は得られない」
 装飾された死体。その役に選ばれた理由は不明、というよりも無差別に近い。加害者となったものたちもまた、無差別だ。
「……無差別、まではいかないのかな。そう……資質を問われているんだって言うことはできるかもしれないね」
「資質、っスカ? 加害者になれるような、って言うとすごいヤな感じっスねぇ」
「ともかく、四つ目の鐘『発症』をキッカケに、出演者の数も一気に増えたと考えていいだろう」
「累積していく死、か……うん、どんどん研究所も呑まれているし、巻き込み型としてはちょっと厄介な段階に来ているね」
 宗主、竜次、シャノンの間で展開していく言葉たち。
「ひとつ、面白い可能性を見つけた」
 その間隙に差し込むように、アンティークのソファに体を投げ出した探偵が、眠たげな声で口を開く。
「これほどまでに作りモノ的な悲劇があるのか? 映画とは思えない。演出家気取りの愚かモノが、映画のつもりで舞台を演じているようなおかしさだ」
「舞台……ああ、そうか、舞台なんだ。観客を巻き込みながら広がっていく感触は確かに」
「ならば、演出を重んじるモノは、自ら立つ場所すらも完璧なカタチにしようと考える、だろう。この惨劇を用意したモノは、それすらも楽しんでいるはずだ」
「ふん……好きなモノ、好きなこと、趣味嗜好がおのずと自身のいるべき場所も決めるか。貴様ら、ソレが言いたいんだろう?」
「ケムリとワルモンは高いところが好きってやつっスか?」
「ああ、うん、まさしくそれかな。面白いことを言うね」
 ふわっと微笑んだ透明な笑みに、なぜか無闇にドキドキし、竜次は思い切り顔をしかめた。
「そういうえっらい笑顔、自分にまで向けてくんなくていいっスよ」
 思わず赤くなりながら、ごまかすように資料を掴みあげる。
 そして。
「ああ! アレだ、アレっスよ! ドクター崇拝者!」
「いきなりなんだ?」
 唐突に叫んだ彼に、シャノンが容赦なく不審な視線を向ける。
「患者じゃないなら研究員、でもってドクターに関わりを持ってて、それでもってこの資料、コレ読んだ可能性はでかいっスよ」
 ばさりと、閉じられていたレポートをテーブルに大きく広げた。
 タイトルは、“銀幕市における罪と罰の所在――凶星”。
「それも考慮すべき可能性のひとつだ。黒いフィルム、凶星と呼ばれた一連のムービーキラー事件、病の蔓延……そして断罪。そこに触発されたのだとすれば、おのずと〈ヤツ〉の居場所も見えてくるだろう」
 探偵は立ち上がり、ゆっくりと広げられたレポート用紙の表紙をなぞった。
「俺なら、最も印象深く、最も意味深い場所を最終舞台に選ぶ」
 研究棟は罪の記録が積み上げられた場所でもあるのだ。
 でも最も罪深かったのは、最も血塗られた記憶を持っているのは、その場所は――
「たとえば、そう……ドクターの研究室などどうだ?」
「でも、場所のヒントが欲しくたって、あの薮医者、電話に出ないっスよ?」
「……え、尼子崎さん、それって……」
「案内する。時間はもうあまり残されていないようだからな」
 宗主の不吉な予感に応えるように、シャノンは無表情のまま、誘導役を買って出た。
「ただし、目的を持った俺に躊躇というものはないから、そのつもりでいろ」
 その宣言に、意義を唱えるものはいない。
「せいぜいこの破壊行為が、ハザード解除と同時にリセットされることを祈ってやれ。誰にとはあえて言わないがな」
 シャノンのあとに、宗主、竜次が続いた。
「ああ、そうだ。愚かな演出家気取りに敗北をつきつけるため、ひとつ仕込みをしたいんだが聞くつもりはあるか?」
 最後にようやく一歩を踏み出した探偵は、全員の背に向けてポツリと問うた。



 そして、鐘は鳴る。
 五つ目の鐘が、遠く近く、鳴り響き、聞くものに甘美な誘いをかけてくるのだ――



 ゆらり。ゆらゆらと、佇む男は幽鬼のように覇気がなく、現実感も存在感も希薄だった。
「惨劇は巡る……美しい世界が作られ、終わる……美しい舞台劇、あなたのための舞台劇……もっともっともっと、広がっていけばいい……」
 彼が見上げるモニター画面に映し出されるのは、洋館の惨劇だ。
 五つ目の鐘は【危篤】を知らせる――このモチーフで、ヒトはまた更なる死を装飾するだろう。
「美しいもの、滴り落ちる美しい血の色、完成すべき絵画にして完全なる舞台劇……愛しいモノに捧げる物語」
 ゆるりと微笑んで、青年は部屋の中を睥睨する。
 頭上で瞬くモニター画面。ガラスの不透明な壁を背にして置かれた机の上には、積み上げられた書籍と研究レポート、そして、デスクトップ型のパソコンが淡い光を放っている。それら全てに、ハザードの影響だろう、ゴシックのテイストが加えられていた。
 しかし、彼のためにあつらえたわけではないこの部屋は、まるでサイズの合わない洋服のように、彼を滑稽なほど浮いた存在に見せていた。
 着ている本人だけがソレに気づかない。
「あなたのために、用意した。死に損なった美しいあなたのために、あなたにふさわしい死を、僕は用意したんだ」
 映像を切り替え、複数のモニターは館を映す。
 けれど、ただひとつ、映像が一箇所に留まったままのものがあった。
 そこに映るのは、古時計、無数の銀の鎖、そして囚われ、死を待つ銀の髪の男。
「罪はどこにあるんだろう。愛だと言えば、芸術だと言えば、いっそ許されてしまわないかな? ねえ、ドクター……あなたが犯したあなたの罪は、どこまで許されるんだろう」
「そういうくだらない命題や妄想を他人に押し付けるな。迷惑だ」
 うっとりとした独白は、重く騒々しい破壊音と、それに連なる冷徹な声に遮られた。
 金属の扉の向こう側からやってきたものは、
「ああ、あの時と一緒だ。ドクターが死んだあの時と同じ。ようこそ、金の髪の断罪者……確か、シャノン・ヴォルムス、だっけ?」
 銃を突きつけられてなお、嬉しそうに青年は笑った。
「作り変えられて行く迷宮の床や壁をぶち抜いてここに到達するなんて、驚いたよ。すごい力だね」
「……このハザードを止めろ」
「止められるわけがない……舞台は進行してるんだからね、一度始まったら、観客も役者もただ終幕まで待つしかないんだ、与えられた役をまっとうしながら、さ」
 止められない、止める気もない、だからボクの手の上で踊れと、不遜な態度で侵入者を見下す。
「死は等しく悼むべきものだよ。少なくとも、現実の死を、物語の演出として楽しむことは許されないと思うんだ」
 宗主は穏やかな笑みを口元に浮かべつつも、冷ややかな視線で告げる。
「そして、映画を、芸術を、愛すべき素晴らしき情熱を冒涜する行為を、俺は許さないよ」
 瞳と言葉に宿すのは、揺らぎのない彼の矜持。
「キレイゴトなんか聞きたくねぇっス」
 竜次は吐き捨てた。
 白木の鞘からすらりと取り出された刃が、明かりの下で艶かしく閃いていた。
「その根性、叩き直してやるっスよ!」
「僕を殺すのかい? 殺せるなら、どうぞ……でも、できないはずだよ、君はヒトを殺せない」
「なっ、何を言ってるっスか!」
「死体が怖いんだろう? ここでちゃんと聞いていたからね、ボクはキミなんか怖くない」
「ダマレ――」
 踏み込み、感情のまま薙いだ竜次の刃、しかしソレは青年の首を切り裂く寸前で止まった。どれほど努力しようと、そこからの一歩を踏み込めないかのように、白刃は男に届かない。
「ほら、無理はしない方がいい。キミは殺せない、キミのトラウマが透けて見えてる。ああ、それからそこの断罪者も。僕はムービースターじゃないからね。殺したら、キミがヴィランズ認定されるよ……絵描きのキミはボクに挑むつもりはないのかな?」
「俺は別のモノを用意したから……反撃はこういうカタチでもできるんだよ」
 そうして宗主は、すっと体を横に移動させる。
 彼の背後から表れたモノ、ソレは――
「ドクター!」
 驚愕に、青年の瞳が見開かれる。
 たった今まで得ていた優越者のしての余裕が、見事なまでに動揺した。
「どうして……ドクター、あなたがどうしてそこに……最後の鐘まで動けないはずっ」
 見上げたモニターの中には、まだ彼の姿がある。
 あるのに、目の前に彼が立っている。
「あなたに相応しい埋葬を用意してあげたのに、これは誰にも止められないはずだったのに、どうして――っ」
「知らなかったのか、貴様。役者だって観客だって、始まった舞台を中断させるチカラを持っている」
 呆れたようなシャノンの言葉に重なるのは、
「それを捻じ伏せるだけの支配力を、ヒトはそうそう手に入れられるものではありません」
 深海色の瞳を細めた精神科医の、静かな声音。
 けれど、口元に浮かぶのは、彼らしからぬ鮮やかな嘲笑だ。
「……何で、なんで、ただ僕は知りたかった、ボクは、ドクターの研究を実証しようとしただけなのに」
 呪詛を込めて、問いが吐き出される。
「どうして、ボクの邪魔をする……ドクター……あなたが知りたいと望んだ罪の所在をボクは用意してあげるんだ。美しいだろう? 喜んでくれるだろう? ねえ、ドクター」
「少なくとも今の“わたし”は、断罪の場を望んではいませんよ」
「……だそうだ。どうする、それでもまだ、貴様は演出家を気取るか?」
「あなたの脚本にはずいぶんと無理があるよ……観客を巻き込むのなら、もっと融通も利かせなくちゃ、あっという間に破綻する」
 イレギュラーへの対応策は本当に万全だったかな。
 そう、宗主は微笑み掛ける。
「ここは映画の中じゃないっス……アンタの思い通りになる世界はアンタの脳みその中だけっスよ」
 竜次は憐れむように、けれど突き放すように、跪いた男を見下ろす。
 白刃を振りかざした時の怒りはきれいに消えており、先程のアレがこの瞬間を迎えるための演技でしかなかったことを示していた。
 黒髪の探偵が用意し、それに乗ってみせた者たちの舞台劇が、この瞬間に帰着する。
「脚本も、無事に見つかったみたいだな」
 シャノンの台詞に応えかのように、あるいは青年の敗北を決定付けるかのように、館を構築する魔法が溶けていく。
 画面ごしに、移り変わる景色たち。
 目に付く限りのあちらこちらから、崩壊の兆しを見せつける。
 もう、青年にできることなど何もなかった。
 彼は地に這いつくばるしかない。
「自分の負けを認めるんだね。チェックメイトだ、犯人くん」
 精神科医の口調が変わり。
 見つめる瞳の色は青、けれどその姿は、灰色のスーツに身を包んだ奇術師へと変じていた。
「……トリックスターであるこの僕を脚本どおりに動かそうというのが、そもそもの間違いだったと思うね」
 夢は醒めた。
 もう、鐘は鳴らない。
 夢は醒めた。
 研究棟は、研究棟たる姿を、まるでVTRを巻き戻すがごとく急速に取り戻していく。
 あるべきモノが、あるべき姿へ。
 あるべきモノが、あるべき場所へ。
「あとはドクターの居場所か……」
 シャノンが見上げた先、モニター画面の中でいまだ鎖に繋がれたままの彼は、今どこにいるのか。
「これは俺の勘なんだけど」
 宗主は人差し指を立て、まっすぐにガラスの壁を指し示した。
「多分、彼はそこにいる」
「やあ、奇遇だね。僕もちょうどソレを言おうと思ってたんだ」
「……マジっスか?」
「どこまでも下らん演出をしたがるな」
 シャノンは自分たちを映すガラスの扉を力任せに押し開けた。
 ドクターDの書斎、その裏側に用意された彼だけの研究室へと続く扉。
 迷宮の呪縛から解き放たれたそこに、アンティークの安楽椅子に鎖で戒められた彫刻のごとき青年がいると信じて。



 六つ目の鐘を迎える前に、古時計は破壊された。
 これですべての魔法が解け。
 戯曲は幕を降ろす。
 そうして、死に瀕していた精神科医は、探偵たちから差し伸べられた手に、ゆったりと笑みで応えた。



 五つの棟の中心に据えられた吹き抜けのラウンジでは、天窓から見える満点の星空の元、研究室スタッフの手によってお茶会の支度が整えられていく。
 お世話になりましたという言葉とともに、恐縮しながら、彼らはせっせと探偵たちをもてなす準備を進める。
 館内にあふれていた死者たちは、ハザードの消失と共にフィルムも残さず消えていた。それを幸いと取るかどうかは考えが分かれるところだろう。しかし、少なくとも、望む日常は戻って来た。
 ただひとり、この事件を引き起こした『研究員』を除いて。

 宗主はそんな彼らの間をすり抜け、指定席と化しているらしいテーブルに着いていたドクターの元に歩み寄る。
「お疲れ様でした、ドクター。ご無事で何よりです。隣、いいですか?」
「ええ、ぜひどうぞ」
 微笑む彼の首筋や手首など、露出する部分に痛々しい鎖の痕が赤い色彩となって目につくのだが、本人はそれを気にする素振りも見せない。
 だからあえて宗主もそれを指摘しない。
「改めて……お会いできて光栄です、ドクター」
 代わりに差し出すのは、伝えたかったこちらの思い。
「死についての解釈も含め、できれば一度じっくりお話したいと思っていました。一度カフェスキャンダルで挨拶は交わしましたが、こういう機会には恵まれなかったので」
「こちらこそ、そう言っていただけて光栄ですよ、吾妻さん。あなたの冷静な分析能力は素晴らしく、そして的確です」
「けれど、それでも俺はあの中で揺らいでしまいましたから、まだまだです」
 いつのまにかスタッフのひとりが宗主のための紅茶を淹れ、置いていってくれたらしい。ほのかな香りが二人の間の距離を埋める。
 ティーカップに手を伸ばしたところで、後ろから、電話で知り合いと思しき人間の無事を確認し終えた竜次と、ヘンリーのやりとりが聞こえてきた。
「……これでよしっと。あ、そういや、なんで黒髪と金髪でキャラが全然違うんっスか?」
「癖みたいなものさ。深い意味があったとしても、ソレをキミには教えないよ」
「うわ、どっちにしろアンタってなヤツっスねぇ!」
「そうかな?」
 これだからムービースターは、という台詞をまたしても洩らす竜次にクスクスと愉しげに笑いかけ。
 ヘンリーは、宗主と談笑するドクターの背後にするりと移動した。
「さてと、ドクター、僕はそろそろ退場させてもらうよ。大勢とお茶を飲む趣味はないんだ。観客と聴衆は多い方がいいけれど、語らうべき相手はひとりで十分だからね」
 耳元に唇を寄せて、悪びれもなくそう言ってのける。
「では、ヘンリー」
「ん、なにかな?」
「あなたとのティータイムを楽しみにしていますよ。今回のお礼を兼ねて、わたしも何かご用意したいと思いますので」
「いいね、約束だ、僕も楽しみにしている」
 にやり……シルクハットの下でチャシャ猫のような笑みを浮かべて、そして奇術師は消えた。
 得意の、タネも仕掛けもないかとしか思えない、見事なまでの消失の実演。
「どこまでも好き勝手なヤツだな」
 スタッフからグラスに美しいシャンパンを注がれ、上機嫌となったシャノンがふらりとやってくる。
「ドクター、本来なら依頼料を取るところだが、今回はそうも言ってられなかったからな。貸しにしておいてやろう」
 俺は優しいだろう、という問いかけに、ドクターはふわりと微笑み、肯定の頷きを感謝の言葉に代えて返す。
「あ、そうだった。忘れないうちに」
 宗主は可愛らしくラッピングされた白い箱を取り出し、差し出した。ずっと持ち歩いてきた、大切な届け物。
「ドクター、珊瑚姫からの預かってきたお菓子です」
「もしかして、ずっとこれを持ち歩いてくださってたんですか?」
「汚れたり崩れたりしないよう、注意はしたつもりですが」
「それを持ち歩いてあの事件を乗り切っちゃったことがすごいっスよ、アンタ……」
「まったくだな」
「でも、どちらが先に辿り付けるかも、無事に届けられるかも分からなかったので、残り半分は姫が持っているんだけどね」
 その彼女も源内や他のメンバーとともに間もなくこちらに合流できるだろう。彼のためのスイーツを携えて、彼に聞かせるべき物語を抱えて。

 そして、夜の帳に包まれて、賑やかなティーパーティが始まる――



END

クリエイターコメント はじめまして、こんにちは。
 この度は、『猟奇な見立て殺人事件in銀幕市立中央病院』なコラボ企画にご参加くださり、誠に有難うございますv
 【真犯人探し】のため、探索というよりは推理がメインとなった今シナリオ、じんわりと病んだ世界と感性をご堪能いただけましたでしょうか?
 内面描写に焦点を当て、個別シーンが多めとなっているのですが、お待たせした分も含め、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

>ヘンリー・ローズウッド様
 【死に至る病】より引き続き三度目のシナリオ参加、有難うございますv
 今回は黒髪の探偵と金髪の奇術師を使い分けてのご参加ということで、このような演出となりました。
 相変わらずものすごく好き放題にネタを詰め込ませていただいてますが、トリックスター的言動は書いていて本当に楽しいです。
 ぜひまた、ドクターをお茶に誘ってやってくださいませv

>シャノン・ヴォルムス様
 同じく、【死に至る病】より引き続き三度目のシナリオ参加、有難うございますv
 今回、いわゆるバックボーンに教会や『神』がきっちりと存在している方特有の感覚を大事にしたいと思い、舞台の演出に織り込ませて頂きましたが、いかがだったでしょうか?(ドキドキ)
 また、ドクターのカウンセリングをご希望いただきまして、このやりとりが、揺れ動く内面やシャノン様の銀幕市との心理的距離感を表現できていればと思います。

>尼子崎竜次様
 初めてのご参加、有難うございます。当シナリオが尼子崎様のデビューノベルとなるため、ドキドキしながら描写させていただきました。
 抱えていらっしゃるトラウマ、ムービースターへの思い、死への感性など諸々をとても興味深く拝見し、今回はこのような役回り、感情表現の場をご用意させていただきました。
 複雑な胸中を織り込みつつの掛け合い含め、少しでもイメージに近いお姿となっていればと思います。

>吾妻宗主様
 初めてのご参加、有難うございます。お噂は兼々v
 ドクターとのティータイム指定まで頂きまして、光栄でございます〜
 一度でも医学の道に踏み込んだ者特有の感性や視点は、面白いスタンスになるとしみじみ感じた次第です。
 そのうえで、微笑みを絶やさない強固な精神力と、優雅な雰囲気を心がけながら描写させていただきましたが、いかがでしたでしょうか?

 それではまた、夢と惨劇が踊る銀幕市のいずこかで再び皆様とお会いできますように。
公開日時2007-11-02(金) 22:30
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