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<ノベル>
六月上旬。
午前零時を少しばかり回った夜更け。
夏を間近にしても、夜の風はまだ、どこかひんやりと冷たい。
「……来ましたか」
ベルヴァルドはサングラスの内側で目を細めた。
彼の視線の先には、ゆったりとした足取りでこちらへと歩み寄って来る老人の姿がある。焦げ茶色のトレンチコートは、彼が外出する際、必ず身につけているものだ。
ベルヴァルドが張り付いたような笑みを浮かべて見守る中、焦るでもなく彼の前へと辿り着いた老人は、
「来たくはありませんでしたが……致し方ありますまい」
穏やかな物腰、静かな物言いの中に、ひやりとした雰囲気を滲ませてそう言った。
「ふふふ、そうでしょうとも。そのために、彼女のことを出したのですからね。私が本気であるか否かは、君ならばよく判るはず」
「ええ、無論です。だからこそ、私(わたくし)はこちらへ参ったのですよ」
――六月の十三日で、銀幕市にかかった魔法は消える。
それが、女神となったリオネが告げた、揺るぎようのない未来だった。
自分が消えること、愛する、親しい人々と別れることへの哀しみ、寂しさ、恐れなどはベルヴァルドにはないし、他者のそれらにも興味はない。否、興味はあっても理解することが出来ない。
だからベルヴァルドは、別に、自分が消滅することなどはどうでもいいのだ。彼はうんざりするほど長く生きているし、そもそも己の死や消滅など恐れてはいない。
ただ、彼は、刺激的なことが大好きで、退屈が大嫌いなだけだ。
平穏でつまらない『最後の日々』を過ごした挙げ句プレミアフィルムになるのでは、まったくもって面白くない、と思っているだけだ。
「最初で最後のショウ・タイムです。……始めましょうか」
だから、ベルヴァルドは、彼をこの闘いへと誘(いざな)ったのだ。
どちらかが生き、どちらかが死ぬだけの、死闘へと。
「やれやれ……気忙しいことでございますね」
「ええ、私はせっかちなのですよ、」
老人が溜め息をつくのへ酷薄に笑ってみせ、唐突に力を解放する。
「――こんな風に、ね」
額と、両手の平、そして首から下の全身に、赤と黒で彩られた眼が現れ、老人を喜悦の目で見据えた。
それと同時に、ベルヴァルドの全身から、常人であればその場で失神してもおかしくないような、濃厚にして激烈なる闘気と殺気とが噴き上がり、周囲をどろどろと轟かせる。
「ベルヴァルド様のそのご気性はよく存じ上げておりますが……」
しかし、老人はどこまでも静謐で、揺るがない。
唇には、静かな笑みすら浮かんでいる。
「私にも、帰らねばならぬ事情がありますゆえ」
言って、老人がゆっくりと両手を掲げた。
数千人の聴衆がその始まりを今か今かと待つクラシック・コンサートの指揮者のような荘厳さだった。
老人の周囲で、きらきらとした光が舞う。それなりの力を持ったものになら、それが、老人の操る『糸』であることが判っただろう。
「――孫と、かの女王陛下のお茶会へ出かける約束をしましたのでね」
穏やかな微笑みの向こう側に見える、冷徹で冷酷な意志の光。
彼が、見かけ通りの“しがない老人”などではないことを、その光が教えてくれる。
ベルヴァルドは喜色を隠すことすらせずに笑った。
「素晴らしい。君との闘いは、この最後の日々を彩るに相応しいものとなることでしょう」
そして、両手の爪を、すべて、長く鋭く伸ばし、
「では……心躍る一時を過ごすとしましょうか」
返事も待たずに、『最初で最後のショウ・タイム』の始まりを宣言する。
やれやれ。
老人が苦笑交じりに嘆息する。
――その苦笑に、恐怖が一欠片も含まれていないことは、ますますベルヴァルドを興奮させ、満足させた。
* * * * *
エズヴァード・ブレンステッドは、残された日々を、穏やかに過ごしたいと思っていた。
無論、目にいれても痛くない孫娘とともに、だ。
明後日には、森の女王と四季の女神が主催するお茶会が平和記念公園で催されることになっており、孫娘はエズヴァードとともにそこへ出かけるのを心底楽しみにしているようだった。
最後に臨んでも、ふたりの間に流れるきめ細かな、穏やかな愛情、そして至福と呼んでなんら差し支えのない感情に変化はなく、エズヴァードは、最後まで一緒にいられる自分たちは世界一幸せな祖父と孫娘に違いない、とすら思っているほどだ。
悪魔紳士に死闘へと誘われたエズヴァードが、やんわりと……しかし断固としてそれを断ったのは当然でもあった。何故、孫娘と過ごす時間を中断してまで、望みもしない戦いに身を投じねばならないのか、誰でも首を傾げるに決まっている。
それでも闘いを望むベルヴァルドが、彼の支配能力である『目』を使い、孫娘の居場所をエズヴァードに告げたのは、それがエズヴァードにとってもっとも効果的な方法だと知り尽くしていたからだろう。
受けなければ、彼女は危害を加えられる。
ベルヴァルドは自分の目的のためならば手段を選ばない。
恐らく彼女は、あのいたいけで可愛らしい少女は、冷酷非道な悪魔の手にかかって殺されるだろう。
だから、エズヴァードはここに来た。
孫娘を寝かしつけ、明日は『楽園』でタルトを買ってお茶にしましょう、と約束までして。
「……争いは私の望むところではありませんが……」
あくまでも刺激を求め続ける悪魔紳士に、最後の日々くらい平穏に過ごす気になれないのか、などと、問うだけ無駄だと判っている。自分の望みと彼の望みが、まったく別の方向を向いていることも、知っている。
ならば、エズヴァードの取るべき行動は、闘うことだけだ。
闘って勝利し、孫娘とお茶会に行くことだけが、エズヴァードにとって正しい行動なのだ。
「あの子をひとり、残して逝くわけにも参りません」
胸元のループタイ、ラヴェンダーヒスイのモティーフで飾られたそれにそっと触れると、両手の爪をレイピアの如く変化させたベルヴァルドを見据え、エズヴァードは両手を一振りする。
と、夜の星の光を受けて、きらきらとした筋が周囲に閃き、彼らがたたずむひとけのない空き地周辺を覆った。
「……結界ですか。人の好いことです」
「邪魔が入っては面倒です……二度も三度も、時間を割くわけにはまいりませんので。心置きなく闘うための準備ですよ」
言って、エズヴァードは右手を一閃させた。
魔力で織られた不可視の『糸』が、ぶわりとしなってベルヴァルドを襲う。
魔力を持たぬものには見ることすら出来ない、高濃度のエネルギーによって創られた『糸』だ。
普通の人間なら、触れただけで賽の目に刻まれているそれを、
「素晴らしい……心が躍りますね」
ベルヴァルドは歪んだ喜悦の表情とともに爪のレイピアを揮い、あっさりと斬り散らしてしまった。
むろんそれは予想の範囲内のことなので、あちこちに能力を仕込みながら、エズヴァードは驚くべき速さで踏み込み、間合いへと入り込んできたベルヴァルドの猛攻を、軽やかなステップで避けた。
ヒョ、ウッ。
並の刃物よりも尚鋭い爪のレイピアが、エズヴァードの頬をかすっていく。
『糸』を盾に再度の攻撃を防ぎ、後方へと距離を取る。
後方へ撤退しつつ、『糸』を揮ってベルヴァルドを刻んでいくことも忘れない。
「ふふふ……」
身体中に浮かぶ目を喜悦のかたちにしてベルヴァルドが笑う。
頬や腕、手に入った『糸』の切れ目は、すぐに塞がり、痕も残らなかった。
上級悪魔と言うのはそういうものだ。
「そうでなくては面白くありません」
「……私は別に、面白さを欲してはおりませんが」
「おや、そうでしたか、それは残念ですね」
慇懃だが冷ややかな言葉を交わし、エズヴァードが再度『糸』を揮おうとした時、
「では、もっと面白くしましょうか」
笑ったベルヴァルドが、サングラスに手をかけた。
赤い赤い、不吉な眼がエズヴァードを見つめた――見つめようとした時、背筋を冷たいものが流れた。そう思った瞬間、エズヴァードは横に跳んでいた。危機感に背を押されての、ほとんど無意識の行動だった。
じゃッ!
不可視の何かが奔った。
否、それもただの錯覚かも知れぬ。
ただ、ベルヴァルドの視線を受けたエズヴァードの左腕が、内側から弾け飛んだことだけは、確かだ。
「!」
痛みなどにエズヴァードは頓着しない。
自分の肉体が破壊されたところで、どうという感慨もない。
彼ら上級悪魔にとって、肉体とは、いくらでも変わりの利く物体に過ぎないのだ。
「……破壊の視線……でございますか」
見たものの身体を内側から破壊し続け、最後には死に至らしめるという恐るべき視線。分身である今のベルヴァルドにはコントロールが難しいらしく、普段は特殊なサングラスで封じているという代物だ。
めきめき、べきべきと、破壊の力が腕を這い上がり、肩へと辿り着こうとする。
それであっさりと死にはしないが、胴に入り込まれては面倒だ、と、エズヴァードは迷わず『糸』を繰り、左腕を肩から切断すると、すぐにその場から離れた。
破壊の視線にさらされた腕が、ぼろぼろに砕けて肉塊と化すのを目の端に見ながら、再度距離を取り、ベルヴァルドと向き合う。
ベルヴァルドは満足げだった。
「見事な判断です」
「それは、どうもありがとうございます」
破壊の力さえ除去してやれば、丈夫で頑丈な悪魔の肉体は、すぐに末端部分を再生してくれる。
「おやおや……みっともない姿をお見せしてしまいまして」
残念ながら一緒に切断したスーツやコートは再生出来ず、白い肌が肩からむき出しになってしまったが、みっともないと言いつつエズヴァードは頓着していない。
彼は、広い空き地を意識内でぐるりと見渡し、自分の『仕込み』が終わったことを確認して静かに微笑んだ。
「問題ありませんよ、さあ続きを」
サングラスを装着し直し、ベルヴァルドが両手で印を描いた。
空中に、光る線で陣が描かれる。
「さすがはベルヴァルド様……」
戦闘に特化した悪魔紳士の、ひたすら闘いに向かう姿勢にいっそ感心していると、ベルヴァルドの紡いだ魔法が発動する。
火、水、土、風。
基本的な四元素を巧みに組み合わせた攻撃魔法が、見事なコンビネーションで襲い掛かるのを、『糸』の盾で防ぐ。そこへ、爪のレイピアを閃かせ、ベルヴァルドが突っ込んでくる。それを避けると、ほんの一瞬サングラスを外したベルヴァルドから破壊の視線が放たれる。
エズヴァードはそれらを、『糸』を駆使し、肉体を駆使して回避し、『糸』を波状に織り上げて攻撃に転じた。
圧倒的な魔的質量を伴った『糸』の波がベルヴァルドを襲うが、
「ああ……何と楽しい時間なのでしょうか。これが、永遠に続けばいいものを」
悪魔紳士はうっとりというのが相応しい表情と口調で、一部避けきれず半身を刻まれつつも、酷く楽しそうに笑っている。
――エズヴァードもまた、笑っていた。
今、このときばかりは、孫娘の笑顔も、孫娘と過ごす穏やかな幸せも、彼の脳裏からは消えていた。
そう、彼もまた、破壊と闘争に本能を捧げる悪魔のひとりなのだ。
そうして、攻撃と防御、破壊と再生を、どのくらいの間、続けただろうか。
激しい戦いの中にあって、やはりふたりは笑っていた。
肉体の一部を欠損し、すぐに再生させ、攻撃を喰らい、吹き飛んで叩きつけられ、相手を地面に叩きつけ、踏み躙り、反撃されてまた吹き飛びながらも、ベルヴァルドは終始上機嫌だったし、エズヴァードもまた笑みを絶やさなかった。
「名残惜しいですが……そろそろ、フィナーレを飾りましょうか」
悪魔紳士の喜悦は最高潮に達しているようだ。
魔力を駆使しての攻防に、服装にまで意識がまわらず、ふたりともぼろぼろだが、双方、そんなものを気にしてはいなかった。それどころではなかったし、それが無粋だと言うことも知っていた。
「私の使い得る最大級の魔法で送りましょう……こんなにも私を楽しませてくれた礼として」
ベルヴァルドの頭上に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
エズヴァードは瞬時に、それが、核爆弾級のエネルギーを秘めた爆裂系焔魔法であることを見て取った。
興奮のあまりか、ベルヴァルドが普段はなかなか見られないような、本気の哄笑を響かせている。
「さあ……見せてください、恐怖と苦痛の表情を……!」
世紀のマエストロよろしく両手を開き、歓喜と快楽に身体中の目を輝かせてベルヴァルドが告げる。
おおおおおおおんんん、と、魔法陣が鳴いた。
朱金の焔が生み出され、身を捩り、巨大な龍の姿を取ってエズヴァードへと襲い掛かる。
これを喰らえば、エズヴァードのみならず、エズヴァードが張った結界ごと粉々になり、恐らく空き地周辺の民家や人々も――下手をすれば銀幕市の多くが――、塵ひとつ残さず消滅するだろう。
しかし。
(――……それを、待っておりました)
エズヴァードの狙いは、そこにこそあったのだった。
ベルヴァルドと同じく両手を広げ、この戦いの間に仕込んでおいた『仕掛け』を発動させる。
きらきらとした光が、空き地中に散った。
――エズヴァードの『糸』だ。
不可視、不可触のそれを、彼は、ベルヴァルドにすら察知出来ぬよう、ひっそりとすべての空間に潜ませておいたのだ。
そしてそれは、
「私の主たる能力を……ベルヴァルド様はご存知でしょう」
『無生物を含むすべてを操る』という、エズヴァードの能力を余すことなく発揮するための『仕込み』だった。
「……では、参ります」
エズヴァードは静かに言い、両手を掲げた。
『糸』が編み上げられ、巨大な網となって、焔の龍を絡め取る。
同時に、『糸』に込められたエズヴァードの力、ありとあらゆるすべてを操る彼の能力が、焔の龍を彼のものにする。
「おお……!」
ベルヴァルドが声を上げた。
それは、歓喜に満ちていた。
焔の龍は、エズヴァードのものになった瞬間、巨大なあぎとを開いてベルヴァルドを襲った。
ベルヴァルドが防御に転じようとした瞬間、彼の佇む地面が割れ、砕けた破片が彼の脚を捕らえて動きを封じる。
こちらもまた、エズヴァードが仕込んでおいた『仕掛け』だった。
無論それは、足止めという意味ではベルヴァルドの動きをほんの数秒封じただけのことだったが、ベルヴァルドが全魔力を込めて創りだした最強の龍にとって、その数秒は、致命的な隙に相違なかった。
――朱金の焔が翻る。
巨大なあぎとの中に、ベルヴァルドの姿が飲み込まれる。
そして、激しい爆音、目も眩むような光。
「……!!」
耳をつんざく轟音に紛れてかすかに聞こえたそれが、ベルヴァルドの声だったのか、エズヴァードには判らない。彼の最後の言葉が何であったのかも、どうでもいいことだ。
――ただ、上級悪魔の彼をしてさえ目を眇めずにはいられないような激しい光の中で、一巻のプレミアフィルムが、粉々に砕けていくのが見えた……ような気がする、それだけで、充分だ。
「きっと……貴方様は、満ち足りておられるのでしょうから」
音が、光がおさまったのは、数分が経ってからだった。
『糸』の結界を収束させると、そこはもう、夜更けの静かな空き地でしかない。ここで、つい先ほどまで死闘が行われていたことを示すものは、何ひとつ残ってはいなかった。
しかし、死闘の仕掛け主は、それで満足なのだろう、と、
「さて」
彼とともに死闘を演じた片割れは、穏やかに微笑むと、踵を返した。
ぼろぼろのコートとスーツを見下ろして、
「用事も終わったことですし、せっかくですから、衣装を新調しましょうか……マリエとのお茶会を、もっと素晴らしいものにするために」
激闘の中、それだけは無事だったループタイ、孫娘の贈ってくれたそれをそっと撫で、エズヴァードは満足げに笑った。
そして彼は、あとはもう、振り返ることもなく、その場から立ち去ったのだった。
――きっと、何もない場所で、あの方も満足げに笑っておられるのでしょう、などと、益体もない想像に意識を遊ばせながら。
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クリエイターコメント | オファー、どうもありがとうございました! 銀幕市での思い出を描くプラノベ群【Sol lucet omnibus】をお届けいたします。
楽しい素敵な思い出……とは言い切れない内容になりましたが、戦闘シーンを大変楽しく書かせていただきました。 刺激を求めて止まぬ悪魔紳士と、孫との平穏な日々を望まれるエズヴァードおじいさま、双方何度もお世話になった方々のワンシーンを――特に悪魔紳士の選ばれた最後を描かせていただけてとても光栄でした。
この場を借りて、ご愛顧に深く感謝いたします。
このノベルが、おふたりの銀幕市での日々に彩りを添えられたのなら、幸いです。
それでは、オファー、どうもありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-07-22(水) 22:20 |
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