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<ノベル>
引き締まった背中を水が伝い落ちて行く。薄く残る傷痕をなぞるように。ごくごくわずかに残るこの傷に気付く者は恐らくこの街にはいないだろう。
しばらく冷水に甘んじていると体の芯からじんわりと火照りが生まれる。その心地良い瞬間を待ってからコックに手を伸ばし、温水へと切り替えた。
「おはよー」
「おはよ……」
「あ、ねぐせ!」
すりガラスのドアの向こうからは快活な声が聞こえてくる。さっと体を洗い、いつものローマンカラーシャツを着込んで部屋に戻ると子供たちの笑顔が出迎えた。
「先生、おはようございます!」
「おはようございます、皆さん」
子供たちは綺麗に声を揃え、マイク・ランバスもまた柔和な笑みで応じた。
六月十三日。教会兼保育所兼孤児院を経営する牧師の一日はいつものように始まった。
彼ら彼女らはあの後どうなったのだろう。ふとそんなことを考える時がある。
映画の中で、マイクは主人公たちを逃がすためにゾンビの発生元となった研究所に残った。襲い来るゾンビたちにひとり徒手空拳で立ち向かい、負傷し、やがて研究所は炎上した。そして、炎に焼かれるまさにその場面から実体化したのだった。
傷は親切なムービースターの魔法によって治癒された。背中に残る傷痕もそれと知って注視せぬ限りは分からないほど薄い。
初めは戸惑いもした。己がムービースターという存在であることについて何も感じなかったわけでもなかった。
だが、これもまた受け入れるべき運命なのだろうとじきに悟った。それに、この場所には自分の性を知って尚受け入れてくれる子供たちがいる。
ならば自分は子供たちに正面から向き合い、報いるだけだ。その覚悟は最後の瞬間まで変わらないだろう。
悔いはない。嘆きもない。それでも――ほんの少し、恐れはあるのかも知れない。
「お別れ会なんかじゃないよ」
子供たちはしきりにそう言い続け、マイクもまた静かに肯くのだった。
だが、比較的年長の子供たちはともかく、保育所に通う年齢の幼児などは感情の抑えがきかないようであった。小さな子供たちの中にはマイクの服の裾を握ったまま離そうとしない者もいた。
「どうかしたのですか?」
マイクは片膝をついてそんな子供の頭を撫でてやった。年長の者たちに諭されたのだろう、幼い女児は眉をハの字に下げながらも涙だけは気丈にこらえている。
マイクは穏やかに微笑んだ。
「大きくなりましたね」
そっと抱き締める。しっかりと、しかし小さな体を壊してしまわないように優しく。腕の中で華奢な肩がかすかに震えるのが分かったが、気付かないふりをして静かに頭を撫でてやった。
大きな手の下のあまりに頭は小さい。腕の中の体は抱き潰してしまえそうなほど細い。それでも子供たちは確実に成長している。
成長を見届けられないことをほんの少し残念に思う。
「えいっ!」
その時、どん、と背中にぶつかってくる者があった。
「先生、しょーぶだ!」
特撮ヒーローの真似でもしているのだろうか、五歳の男児が腰に手を当ててポーズを決めながらマイクに宣戦布告した。
「不意打ちはいけませんよ。勝負は正々堂々と挑まなければ――それ!」
片腕で勢い良く抱え上げると、男児はくすぐったそうな悲鳴を上げた。
「はなせ、はなせー!」
「ははははは。自力で逃れてみるが良い」
マイクはわざと悪役の口調を真似てみせた。低く落ち着いた声は渋い悪役にうってつけかも知れない。男児は悔しそうに小さな手足をばたつかせているが、まんざらでもなさそうに笑っている。
「ちくしょー……ぷにょ!」
「は? ――あ」
突如飛来した餅状の物体に顔面を塞がれ、マイクは目を白黒させた。
正月の餅つきイベントで連れ帰って以来、子供たちの良き遊び相手になっている餅生物・『ぷにょ』である。
「ひ、卑怯ですよ、飛び道具なんて」
よろめくふりをして男児を安全に床に下ろしてやる。勝ち誇った男児が「へへっ」と胸を張ったところで玄関のチャイムが来客を告げた。
「今日も賑やかねえ」
「マイクさん、こんにち――ど、どうしたんですか、その顔」
顔を見せたのは日頃から保育所を手伝いに来てくれる相沢母娘だ。
「ああ、ちょっと遊んでいただけです。何でもありません」
マイクはぷにょをようやく引きはがし、餅の破片が付いた顔で微笑んだ。
穏やかに時間が流れる。
今夜の集いのために相沢母娘が御馳走を作ってくれるという。マイクも手伝いを志願し、マイクを追って来た子供たちも加わって、さほど広くもない台所はあっという間にいっぱいになってしまった。
といっても、手先が少々不器用なマイクに手伝えることは限られている。むしろ小学校低学年の子供たちのほうがするすると野菜の皮を剥いてみせるのだった。
「上手ねえ」
娘の相沢清香の賞賛を受け、包丁を手にしていた少年ははにかんだように笑った。
「先生より自信あるよ」
「あら、ダメよそんなふうに言っちゃ」
「本当のことだもん。ね、先生ー」
屈託のない笑顔で同意を求められてはマイクも苦笑するしかない。
「マイク先生だってね、だいぶ上達したんだから」
「おれのほうが上手だよー」
「ああ、ほら、包丁持ってる時はよそ見しないの」
子供の世話を焼く清香の姿を見ていると自然に心が和む。裁縫を得意とする彼女は子供たちにボタンの付け方や雑巾の縫い方、ミシンの使い方などを丁寧に教えてやっていた。大学の社会福祉学科に通っているからという理由もあるのかも知れないが、マイクの目には彼女が心から子供たちと接しているように見えていた。
母親の愛子も同じだ。主婦ならではの料理の腕をふるうかたわら、包丁の使い方や基本的な料理の知識を分かりやすく伝授してくれている。愛子のおかげで料理に興味を持ち始めた子供たちも多い。
「先生ー、見て見て」
得意そうな少女の声に振り返れば、ややいびつながらも綺麗に皮の剥かれたジャガイモがある。
「おや、上手になりましたね」
マイクは本心からの賛辞を口にした。料理にしろ裁縫にしろ、子供たちの物覚えの早さには目をみはるものがある。
「芽の取り方とか、教えてもらったの」
「昔、西洋の国ではジャガイモの皮を綺麗に剥ける女性を妻に選ぶ風習があったそうです。料理の腕をはかる指標だったのでしょうね。君もきっといいお嫁さんになりますよ」
「やだぁ。相手を探すのが先だよ」
ませた言い草とともに頬を赤らめる少女にマイクは優しく目を細めた。
保育所の日々はこうやって流れて行くのだろう。相沢母娘をはじめとした善意の人々に助けられながら。確実に成長する子供たちと一緒に。
この先も、きっと。ずっと、こんな毎日が続いて行く。
「お邪魔しまーす!」
「マイク先生、いるー?」
「あらあら、ますます賑やかね。たくさんお料理作らなくっちゃ」
新たな来客に愛子はころころと笑い、マイクも微笑みながら肯き返した。
時間は流れる。穏やかに、泣きたいほど優しく。
夜の帳が下りても保育所の灯は消えない。
教会兼保育所の権利を譲渡した市外の牧師の青年、彼の上司にあたる老牧師。今までに出会った子供たちやその親、若者たち、そしてもちろん相沢母娘も。
皆が顔を揃えた。この保育所で、この街で関わった皆が駆け付けてくれた。
「お忙しい中ありがとうございます、皆さん」
マイクが代表して謝辞を述べると、あちこちから苦笑にも似た笑い声が上がった。
「マイク先生のためってわけじゃないんだよ」
「私たちが先生に会いたくて勝手に来ただけなんだから」
「そうそう。それより早く乾杯の音頭を取ってくださいな。お腹ぺこぺこ」
相沢愛子の言葉にまた穏やかな笑いが起こった。
「カンパイノオンド……とは?」
「こちらをお持ちください」
日本の宴会に馴染みの薄いマイクにジュースのグラスを持たせ、青年牧師が簡単に説明を行う。
「つまり、“カンパイ”と言えば良いのですか?」
「そうです。こんな感じで、軽くグラスを掲げるようにして」
「それなら私でなくてもできるのでは……」
「宴会の主役が音頭を取るのがならわしなので」
「では皆でしましょう」
マイクは微笑んでグラスを掲げ、集まった一同を見渡した。
「皆が主役です。皆が楽しむための時間なのですから。さあ皆さん、グラスをお持ちください」
粋な提案に応じてめいめいが微笑みながらグラスを手に取る。
「よろしいですか? では一斉に……」
「――乾杯!」
合唱のような一言の後、グラスが触れ合う涼しげな音があちこちで弾けた。
皆で作った御馳走を皆で分け合う。年長の者は年少の者のために料理を取り分け、大人たちは飲み物を注いで回る。唐揚げばかりに箸を伸ばす子供が野菜も食べるようにとたしなめられて肩をすくめる一幕もあった。自分の嫌いな食べ物をこっそり隣の子供の皿に移して知らんぷりをする子供もいた。ノンアルコールビールを片手にやけに陽気に笑う大人がいた。
相沢母娘と青年牧師はさりげなく席を回って細々とした気遣いを見せていた。飲み物の瓶を補充したり、汚れた皿を取り換えたり、小さな子供にかかりきりの若い母親のためにそっと料理の小皿を差し出したり。マイクも彼ら彼女らに倣おうとしたが、その度に皆から呼び止められて会話を楽しむことになった。そうしているうちに小さな子供たちが背中におぶさって来たり膝の中に入って来たりして、結局何の手伝いもできなくなってしまうのだった。
だから、これはお別れ会などではない。
だって、皆がこんなに笑っているではないか。
ぷにょを肩に乗せ、子供たちにじゃれつかれながら、マイクはただただ静謐に微笑む。
相沢母娘がいる。青年牧師がいる。彼を見守る老牧師がいる。子供たちがいる、子供たちの親もいる。
保育所を切り盛りする青年牧師と清香の姿が、朗らかに笑いながら食事を作る愛子の姿が、彼ら彼女らに囲まれて健やかに育っていく子供たちの姿が、確かにマイクには見えていた。
みんなみんな、ここにいる。
――恐れることは、ない。
「さ、先生も召し上がって」
「こら、そんなにくっついたら先生が動けないでしょ!」
「いいんですよ」
膝の上からどこうとしない幼子を抱き上げ、マイクは静かに立ち上がった。
お別れ会などではない。だから、笑顔と感謝だけを贈りたい。
敬虔な牧師の姿そのままに胸の前で十字架を切り、凛と背筋を伸ばしてから口を開いた。
「私は幸福です。様々な人に出会い、様々な縁を残すことができたのですから」
はしゃいでいた面々が静まり返った。
首にぎゅっと縋りついて体を震わせる幼子の背中を慈しむように撫で、マイクは皆を見渡した。
「お別れ会などではありません。姿が見えなくなっても……私は皆さんの中に続いて行くのだと。そう確信しています」
微笑みながら肯く者がいた。泣き笑いの表情を作る者がいた。ぐずりそうになる我が子を懸命にあやす親がいた。
子供はとうに寝る時間だというのに、夜更かしを咎める者は誰一人いなかった。最後までともに過ごすのだと、示し合わせたわけでもないのに皆がそう決めていた。
「皆さん」
いつものように温和な笑みを浮かべ、実直な牧師は最後まで微笑んでいる。最後まで皆のことを想いながら。
「ありがとう。どうかこれからも幸せに。――――――」
六月十三日の何時何分に魔法が解けるかなど誰も知らない。皆が一斉にフィルムに還るのか、ばらばらのタイミングなのかすらも分からない。
だから、マイクがその瞬間に、皆に見守られながら“その時”を迎えたのは神の意志であったのだろうか。
――god bless you.
神の加護をあなたに。
聖書を抱いて祭壇に立つ牧師そのものの風情でそう告げた瞬間、マイクの視界はエンドマークを映し出すスクリーンのように暗転したのだった。
夜は静かに更けていく。
日付は既に変わった。小さな子供たちには辛い時間だ。けれど彼ら彼女らは目をこすりながら懸命に起きている。
「先生」
「マイクさん」
皆に見守られながらマイクはフィルムに還った。ムービースターの力で作り出されたぷにょも消えた。
「先生……」
「先生。見ててね」
「ありがとう。先生。先生――」
集いは続く。穏やかに、泣きたいほど優しく。
お別れ会などでは、ない。
(了)
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クリエイターコメント | ゲリラ枠を捕まえてくださりありがとうございました。 【選択を前に】企画の時以来ですね…!
最後の言葉は『最後の日々』シナリオから引用させていただきました。牧師さんらしく、なおかつ皆への思いと感謝に溢れたマイク様らしい台詞かと。 最後の瞬間を託していただき、ありがとうございました。 十三日の夜は優しく、幸福な時間だったのだと思います。
所で「ジャガイモの皮むきが上手な女性をお嫁さんに選ぶ」は実際にあった風習だとか。 尚、相沢さんの娘さんのお名前ですが、オファー文を優先して「清香」とさせていただきました。 |
公開日時 | 2009-07-13(月) 18:30 |
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