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<ノベル>
■壱■
「……ちょっと待て」
最後に嘉平に呼び止められたのは栗栖那智であった。即座に異議を差し挟んだのも那智だけであった。
町に足を踏み入れた途端、那智の服装は小袖に羽織、袴といういでたちに変わってしまった。みすぼらしいわけではないにしろ、お世辞にも上等とは言えぬ代物である。さしずめ“うだつの上がらない医者”といったところだろうか。
「私の相手が用心棒とはどういうことだ。どう考えても私が一番弱いだろう」
那智は客観的で、現実的な男だった。自分を過小評価する気も過大評価する気もない。
嘉平の話によれば、白亜が貸金商を、シキ・トーダが遊廓元締を、吾妻宗主が相場師を相手取るという。白亜とシキはジャーナルでも見かけるムービースターだし、ムービーファンである宗主も荒事に長けていた筈だ。
「用心棒というからには腕が立つのではないのか?」
「そりゃ、弱え用心棒を雇う奴はいねえだろう。不安かい」
「少しは」
「ほう」
嘉平は愉快そうに笑った。「医者の割には素直じゃねえか。気に入った」
「おまえに気に入られてもしょうがないし、気に入られたいとも思わん」
誰にでも得手不得手、向き不向きはある。己の専門外のことに関して劣っていても恥とは感じないというだけの話だ。
「手助けを頼んでるのはこっちだからな、補佐はいくらでもさせてもらうぜ。俺の『ろけーしょんえりあ』のことも知ってるだろ?」
「……いや」
わずかに思案した後で那智は小さくかぶりを振った。「私は私のやり方でやらせてもらおう。ひとつ考えていることがある」
その瞬間、怜悧なおもての上で閃いた不敵な笑みに嘉平は気付いただろうか。
「日暮れ時に町外れの寺で落ち合うのだったな。それまでは自由行動で構わないということか」
「ああ、好きに過ごしてくれ」
「ならば早速下準備に取り掛かろう。――その前に」
立ち去りかけた嘉平を呼び止めるようにすいと視線を向ける。半身で振り返った嘉平は何か用かと目だけで問うた。
「なぜ執拗に殺しにこだわる?」
「殺さずに済む方法はねえのか、ってことかい?」
皮肉っぽく唇の端を吊り上げてみせる任侠の前で那智は軽く眼を眇めた。
「仕置きは必要悪だろう。殺しについても割り切ってはいる。だが、罪を暴いて白州に引き出すという方法もあるのではないか?」
「さっきも言ったろ、高利貸しの野郎はお上の親類縁者だ。役人なんざあてにできねえ。それに、やってることは悪どいが、貸した金を取り立てたり借金返済のための金策を勧めたりすること自体は法度にゃ触れねえだろうよ」
「成程。では質問を変えよう。おまえの話を聞いていると……悪を糺すことより殺しに固執しているように思える、少なくとも今回に限っては。その辺りはどうなのだ?」
嘉平はひょいと眉を持ち上げ、次に軽く肩を揺すってみせた。
「――馬鹿は死ななきゃ治らねえっていうだろ?」
自嘲気味に落とされた答えに那智はわずかに眉を寄せたが、結局は「一理ある」と応じただけだった。
その白い手の動きを、誰もが息さえ詰めて見守っていた。
しかし視線の中心にある当人は涼しげなおもてを崩さない。いつも通りにひと束ねにされ、上等な羽織の肩の上に流れ出た銀髪さえも動きを止めていた。いつも肩の上で何かしら一人遊びをしているバッキーまでもが黙ってあるじの手元を見つめている。
包み込むように握られた華奢な絵筆だけがさらさらと音を立てる。精緻に、細密に、時に大胆に。熟練した音楽家が鍵盤をつまびくように、しなやかな指先は躊躇いも滞りもなく滑っていく。
「……うん。こんなところ、かな」
吾妻宗主が静かに絵筆を置くと、周囲の半分は感嘆の声を、もう半分は怪訝の声を漏らした。藍染めの生地に見立てた紙に描かれた絵は桜の枯れ枝のみだ。肝心の花が見当たらない。
「枯れ枝は枯れ枝で風情があるものですよ。でも……」
乱れてもいない羽織の前をちょっと直すしぐさをしてみせ、宗主は小皿を手に取った。
「この藍は夜空に見立てられるべきでしょうからね。宵闇にはやはり花が映えるのかも知れません」
小さな平皿には薄紅の塗料が溶かれている。唇に紅を差そうとする女のように小指の先で塗料をすくい上げた。といっても指先についた色はごくごくわずかだ。繊細な指がそっと生地を撫でる度、ひとつ、またひとつと夜桜が花開いていく。
はあ、と感心して溜息をついたのは誰であったのだろう。もっとも、町娘などは夜桜の絵柄よりも宗主の横顔に見惚れているようだったが。
偶然この町を訪れた宗主に与えられた役柄は着物問屋の若旦那であった。かつて薬屋の若旦那として時代劇映画のハザードに足を踏み入れたこともある宗主にはうってつけであろう。着物の絵付けは専門外だが、美大生として興味のある分野ではある。
「下絵はこれで完成です。後はお願いしますね」
「へい、確かに。それと若旦那、ちょいと相談ごとがあるんですがねえ」
小間使いらしき小柄な男が頭を掻きながら宗主の前に進み出た。
「ベニバナなんぞを買い付けようかと思うんですが、いかがなもんでしょうか」
「ああ……ベニバナですか。綺麗な色が出るでしょうね」
ハザードの効果でたまたま若旦那の役柄を与えられただけの宗主は町の外の人間だ。この町で生計を立てている人間の商売に口出しをする気はない。
しかし男は「いや、それが」と何やら歯切れが悪い様子。何かあるのだ。そう直感した宗主は穏やかな表情を保ったまま続きを促した。
「実は……相場師の旦那さんに声をかけられてるんでさあ」
「……相場師」
「最近、ベニバナが安うござんしょ? 今買い占めちまえば後から高く売れるって言われましてねえ……しかしまあ、そうやって儲けんのはあっしらの仕事じゃねえような気もしますし、どうしたもんか」
「そうですね。所で、その相場師の方のお名前は分かりますか? ベニバナの話、俺も聞いてみたいんですが」
小男の言葉をさらりと受け流してさりげなく本題に切り込む。宗主がこの着物問屋に入り込んだのは、この店(たな)の人間が相場師の藤野と関わりがあるらしいと嘉平に聞いたからであった。
「お兄さん、お茶でもいかが?」
という猫撫で声にシキ・トーダが振り返ると、そこには茶店があった。
「外の町の人でしょう?」
「へえ、分かんの?」
「そりゃ分かるよ」
くすくすとおかしそうに笑う娘は茶店の売り子にしては派手な着物を纏っている。そもそも、傷だらけでいかにも荒くれといった容貌のシキに平気で声をかけてくるあたりからしておかしなものだ。
彼女の後ろに佇む茶屋は二階建てである。店の人間の住まいを兼ねているにしてはきっちり雨戸が立てられているのが解せない。
「寄って行きなよ。お兄さんならまけてやるんだけどねえ……」
茶屋の看板娘とは思えぬ艶っぽい流し目を受けたシキは「ははん」と鼻を鳴らした。
(連れ込み茶屋ってやつか)
だが、この格好では声をかけられるのも無理からぬことだろう。程よく着古した――現代風に言うなら“ダメージ加工を施した”といったところだろう――着流しを無造作に引っかけて町をぶらつくシキの姿は遊び人かゴロツキとでもいった風情だ。
「そりゃ心外だな」
だが、シキは乾いた笑みを浮かべてひょいと肩をすくめてみせた。「俺がそんな貧乏人に見えるってのか?」
「え?」
「相手なら遊郭で探すさ。せっかく銭持ってんだから安モンで妥協したくねぇし?」
「……な」
娘はカッと頬を紅潮させた。キャンキャン吠え立てる彼女を振り返ることなくシキはふらりとその場を立ち去る。うららかな春風に吹かれながら思わず欠伸が漏れた。
「面倒事に巻き込まれる気はなかったんだけどな」
そうぼやきつつも足は嘉平から聞いた遊郭へと向かっている。
異国情緒を楽しもうとぶらぶらしていたところを嘉平に呼び止められたのだった。賭博や異文化を楽しむつもりでいたシキだが、嘉平の話を聞くうちに子分たちがなぜ仕置きに反対したのかと怪訝に思い、協力することを決めた。
「この町に仲間が遊びに来るかも知れないし。俺が一人殺してその身が守れるなら、ま、手を貸してもいいかなと」
殺しに躊躇いはないかと念を押されて飄々と答えるシキに、嘉平はどこか複雑な面持ちで「仲間ねえ」と呟いただけであった。
日暮れまでは間がある。町をぶらついているように見せかけて――実際、半分は物見遊山を兼ねているのだが――町人たちにそれとなく話を聞いているところだ。聞けば聞くほど憂鬱になる噂ばかりである。高利貸しから金を借りた人間が借金のかたに娘を奪われたり怪しげな相場に手を出して身ぐるみはがされたりなどというのはましなほうで、身代限り(現代で言う自己破産のようなもの)や一家心中をするほかないところまで追い詰められた者も少なくないという。
悪人も悪人に苦しむ町人も知ったことではないとまでは言わないが、シキは無辜の民のための勧善懲悪を引き受けたわけではなかった。嘉平に答えた通り、この町に遊びに来た海賊団の仲間が是清の一派に目をつけられるようなことがあってはならないという理由にすぎない。
殺しに抵抗はない。殺しを躊躇えるような環境には生きてこなかったせいもあるだろう。だが、このことを海賊団の仲間たちに明かすつもりはなかった。
「……さて。用心棒としてでも雇ってもらえりゃいいんだが」
そして今、シキの前には赤い格子と華美な門で彩られた遊廓の建物がある。シキの相手は遊廓元締・佐分利平八郎。
■弐■
シキ同様、嘉平の子分たちがなぜ成敗を止めるのかと訝しんだ者は他にもいた。
是清を相手取ることになった白亜である。
「あらあら、可愛いお嬢ちゃんね」
(“成敗”に向かいがてら理由を尋ねてみるか)
「ちょいとお嬢ちゃん、無視かい?」
(話し合いでおさめようというわけではないが……あの男がなぜ見届けようとするのか、理由を知っておかねばなるまい)
それはある種の義務感であった。一人で四人を相手取るのは難しいと嘉平は言ったが、例えば是清一人なら嘉平自身が手を下すこともできる筈だ。にもかかわらず白亜に頼んだのは何か理由があるのだろう。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんったら!」
「は?」
ぐいと肩を掴まれてようやく振り返る。手拭いを威勢良く頭に巻いた恰幅の良い女が「もう」と両手を腰に当てて立っていた。すいと視線を移した先には『花見だんご』ののぼり。
「さっきから呼んでるのに。無視するこたぁないだろ、お嬢ちゃん」
「あ、いや、私は……」
地味な着物を身に纏った白亜はごくごく普通の短髪の少年の姿をしていた。時代劇のエキストラとして登場しそうな平凡な町人といったところだろう。
しかし「お嬢ちゃん」はあんまりだ。この着物も帯もどう見ても女ものではないというのに。ふっくらとした中年の女将は完全に白亜を女と思い込んでいるらしく、「おまけしとくからさ」などと言いながらしきりに団子を勧めてくる。白亜は愛想笑いを浮かべて花見団子を購入した。
団子の味は悪くなかった。緑、薄紅、白、見た目にも美しい団子を頬張りながら急ぐでもなく町を歩く。
「花見、か」
そういえばあちらこちらで桜を目にした。ゆるゆると吹き渡る風がほのかに甘い香りを含んでいるのもそのせいなのかも知れない。
(……そうだな。のんびり花見を楽しめれば良かった)
立ち止まれば、そこにも桜。ちらちらひらひら、柔らかな春風にさえ翻弄されて花びらは散る。
平和なものだ。悪どい高利貸しとその一派に牛耳られているなどという話はデマではないかと思えるほどに。子供たちが駆け回り、大きな荷物を背負った行商人んが行き来し、時に役人とおぼしき侍の姿も混じる。
だがこの光景だけをもって判断することはできまい。何事にも光のあたる面とそうでない部分がある。事実、町を散策する中で小耳に挟んだのはどれも良くない噂ばかりだった。
「てえへんだ、てえへんだ!」
時代劇で聞きそうな台詞を連発しながら泡を食って駆けてくる町人の姿がある。捕まえて何事かと問うまでもなく、前方の土手に人だかりができているのが目に入った。
「また心中かねえ……」
「借金で首が回らなくなってたらしいよ」
「まだ若いってのに……むごいもんだ」
ひそひそ、こそこそ、ざわざわ。
野次馬たちの囁きを聞いた白亜は人だかりの前に行こうともせずにその場を通り過ぎた。死体を見ることに嫌悪や恐怖はないが、興味本位で覗き見るのは死者に対して礼を失する。
「借金苦による自殺か。あまり同情はできんな」
だが、ふと耳に入ってきた無表情なその声にふと足を止めた。
小袖に袴、羽織を着込んだ黒髪の男だった。眼鏡の奥の紫色の瞳が特徴的である。この町の人間ではないとすぐに分かった。
「貴方も銀幕市から?」
そう声をかけると、それほど上等とは言えぬ衣裳に身を纏った男は二、三度眼を瞬かせた。独り言めいた先程の呟きを聞かれているとは思わなかったらしい。だが聞かれたところでどうとも思わないらしく、「ああ」と応じて名を明かした。栗栖那智という彼は白亜と同じく嘉平に呼び止められたのだという。
「確か……白亜、だったな? ジャーナルで幾度か見かけたことがある。……今日は男の姿か」
那智はほんの少しだけ興味深そうに白亜の姿を眺めた。那智がジャーナルで見たのはどんな記事だったのだろうと眩暈を覚えそうになった白亜であったが、そこはあえて触れずにおくことにした。
「それよりも、先程の台詞はどういう?」
「とは?」
「借金苦による自殺者に同情はできない……と」
薄情だなどと詰りたいわけではない。ただ少し気になった。それだけだった。
「確かに連中のやり口は汚いが、それを知っていて金を借りるほうも借りるほうだ」
「あくどい連中に縋らざるを得ないほど困っていたとしても?」
「ああ。騙されて借金を作らされたというのなら些か話は違ってくるが、それでも騙される側に問題があることもある。汚い手口を使う側のほうが圧倒的に悪いことに変わりはないが」
那智の言葉は冷淡というよりも無機質だった。同情は寄せないが声高に非難しているわけでもなく、ただ客観的な見解を述べている。見慣れているために腰が引けることこそないものの、実は那智は借金取りが嫌いなのだった。それには幼少期の環境が多いに関わっているのだが、那智と初めて顔を合わせる白亜は「成程」と相槌を打っただけだ。
「私はその金貸しを相手取ることになった。貴方は誰を?」
「……用心棒だ」
「用心棒? 失礼だが、貴方は……」
外見だけで判断できるとは思わないが、白亜の目には那智がごく普通の人間に映っている。
「見ての通りただのムービーファンだ。荒事にも縁がない。だが方法なら考えている。……まあ、殺してしまうよりは有効に利用したいものだが」
「利用?」
「こちらの話だ。では、失礼する」
那智は袴の裾を翻して立ち去った。
その背を見送った後で白亜は背後の土手を振り返る。黒い羽織を身にまとった男たちが何人か駆け付けたところだった。恐らく奉行所の人間だろう。
借金苦による自殺として片付けられるのだろう。嘉平の言葉通りなら、町人を自殺に追い込んだ金貸しに役人の手が及ぶことはあるまい。
くるくると舞う花びらが頭の上に落ちて来て、まるで髪飾りのように寄り添う。
「宵闇に桜を咲かせて、散らすか……」
すぐに気まぐれな風が吹き、抗う術を持たぬ花弁をいずこかへと連れ去ってしまった。
「帰(けえ)んな。よそ者は信用なんねえ」
「元手ならあるんだけどな」
愉快そうに笑ったシキは「ほらこの通り」と懐の巾着袋を揺すってみせた。中でじゃらじゃらと音を立てる銭をどこでどうやって調達してきたかは企業秘密といったところか。
「銭持ってるかどうかは関係ねえ。よそ者は信用なんねえって言ってんだ」
「よそ者だから信用なんねえってのはどーいうこと? そもそもこういう場所に信用もクソも関係あるわけ?」
からかうようなシキの口調に、賭博場の前で番をしているゴロツキは不快そうに顔をしかめた。
「そもそもさ、町の中の人間なら無条件に信用できるってわけでもねえんじゃねえの? 巷で話題の悪人連中もこの町の人間なわけだし」
「……てめえ、何しにこの町に来やがった?」
「通りすがりの正義の味方、なーんて言ってみりゃ良かったかしら?」
「っざけん――」
「まあまあ、その辺りで」
やんわりとした声が入り込み、拳を振り上げようとしていたゴロツキの動きを止めた。
「よそ者相手にムキになることはないじゃありませんか」
柔らかな銀髪に涼しげな目許をした男だった。ゴロツキの手首を掴んだ手も男にしては随分しなやかだ。この真昼間から賭博場に出入りするような人物には見えない。
「もちろん俺もよそ者なんですけどね。“たかがよそ者”のために時間を割くのももったいないでしょう? ――ね?」
静かな、しかしどこかひんやりとした笑顔。女のような手で太い手首を締め上げられ、ゴロツキの顔が歪む。
腹立ちまぎれに舌打ちして立ち去るゴロツキの背を見送り、シキはひゅうと口笛を鳴らした。
「やるじゃん、若旦那」
「あれ? 自己紹介はまだですけど」
「そのなりは若旦那だろう、どう見ても」
「はは、確かに。着物問屋の若旦那みたいです、俺の役」
銀髪の男は穏やかに微笑み、吾妻宗主と名乗った。シキも簡単に自己紹介をし、宗主から少し離れた場所にある切り株にあさっての方を向いて腰かけた。これで遠目には赤の他人どうしと映るだろう。
「あんたも“成敗”組か?」
「ええ。俺の相手はあそこに」
宗主の目線の先にはネズミか何かを思わせる小男の姿があった。着流しに羽織を着込み、小さな顔と目で辺りをきょろきょろとうかがっている。相場師の藤野吉次だ。
「さっき店(たな)のツテで彼を紹介してもらおうと思ったんですが、ここに来ていると聞いたもので。考えてみれば相場は賭博と似た部分があるのかも知れませんね」
現物によらないで市価の変動を予期し、その高下による差額で利益を得ようとする投機的取引のことを相場と呼ぶ。大雑把にいえば、現代でいう株の売買と同じような意味合いを持つと言っても良いだろう。
「成程な。賭博場ならワケありの連中が集まってるんじゃないかと思って来てみたが……」
「お相手は遊廓元締、でしたっけ?」
「ああ。用心棒か何かとして雇ってもらえねえかと思って行ってみたが、連中、結構ガードが固え。よそ者は信用できねえの一点張りでさ。悪人へのアピールは昔散々やってたし、自信あったんだが」
実体化したばかりでとりあえずの仕事と居場所が欲しいと説明し、映画の中でも同じような下働きをしていたとまで付け加えたのだが、「仕事と居場所が欲しいならこの町じゃなくて“ぎんまくし”とやらで探しゃいいだろう」と言われてしまえば返す言葉はなかった。大手を振って往来を歩ける商売ではないだけに閉鎖性と警戒心は並ではないのだろう。
「成程。それで客として事情の裏を取っていた……といったところですか?」
静かな声音にわずかに苦笑が滲む気配を感じ、シキはぼりぼりと頭を掻いた。
「参ったな。全部お見通しってわけね」
「さっきお会いした時からいい香りがしていますから」
「あくまで下調べと準備の一環だって」
遊んでたわけじゃないんだと肩をすくめて続けた。「結構小ぎれいな店だった。待遇も悪かないらしい。待遇も環境も劣悪な所に売られるよりはよっぽどマシだろうってのが元締の佐分利の言い分らしいが……」
「場所がどこであれやらされていることは同じですしね」
後を引き取るように宗主が呟き、あさっての方角に顔を向けたままのシキも浅く肯いた。
「それと、気になる話がひとつ。金貸しの白川是清ってぇヤツ、元は侍の家の生まれなんだとさ」
「侍の? ……不自然ですね」
「ああ。詳しいことまでは分からなかったが、何か事情があるんだろうな」
「それも遊廓の女性から?」
「ああ。遊女ってのは結構事情通みたいだぜ。男は褥の中じゃ口が軽くなるもんだしな、閨での睦言だからって馬鹿にはできないだろうさ」
「確かに。寝物語ついでについ重大な情報をこぼすこともあるかも知れませんね」
「若旦那もそのクチ?」
愉快そうに目を細めてちらと視線を送ると、宗主は涼しげな風情を崩さぬまま、しかしどこか色香のある微笑をにこりと含んでみせた。
「ご想像にお任せしますよ」
日暮れにはまだ早い。しかしそれほど猶予があるわけでもない。かといって焦ることも苛立つこともないのが那智の那智たるゆえんだ。
那智は普通の人間だ。腕力にも敏捷性にも持久力にも自信はない。仮に夜陰に紛れての奇襲をかけたところで用心棒の鹿野を仕留められるとは思えない。ならば、どうにかして標的と繋ぎをつけておかねばならないだろう。
その鹿野は今、酒屋を訪れた那智の脇で酒を選んでいる。無頼の用心棒の割には仕立ての良い着物を身に着けているようだ。齢は四十過ぎといったところだろうか。決して若くはないが、肩や腕を見ているだけでもその体躯が引き締まっているのがよく分かる。
鹿野は那智の存在など気にも留めずに酒入りの瓢箪を二つ購入し、銭を差し出した。だが、
「真昼間から酒か」
という那智の呟きにぴくりと眉を動かした。
不快感を含んだ鋭い双眸が那智へと向けられる。その剣呑さに酒屋の主人は身をすくませたが、那智は臆することなく指で眼鏡を押し上げた。
「羨ましい話だ。私には酒を購う金銭もない。その着物も安物ではなさそうだし……さすがは貸金商付きの用心棒。報酬も潤沢というわけか」
「何故それを知っている」
「子供でも知っている。皆が金貸しの白川たちのことを噂しているぞ」
「その髪型……貴様、よそ者か」
「ああ。仕事を探しに来た。外の町ではなかなか職が見つからない。時に」
医学者としての那智の目は用心棒ではなく患者としての鹿野を観察していた。
「ずいぶんどす黒い顔をしているな。その色、日焼けではあるまい。肝臓が悪いと見た」
「何?」
「今のところ肝硬変とまではいかぬようだが、このまま酒を飲み続ければ早晩そうなるだろう。その様子だと既に症状が出ていると見るが……倦怠感や微熱などがあるのではないか?」
鹿野は答えない。だが、むっつりと苦虫を噛み潰す表情が那智の見立ての正しさを証明している。
「見ての通り私は貧乏医者だ。しかし腕には覚えがある。どこかで雇ってもらえないものかと思っているのだが……用心棒にそれだけの報酬を振る舞える主人なら、さぞ羽振りが良いのだろうな?」
■参■
夜の帳が下り始めた。
静々と濃くなっていく闇の中にぽっと小さく明かりが灯る。頼りなく揺らめく橙色の炎が朽ちた古寺の本堂とそこに集った五人の顔を順々に浮かび上がらせた。
「決行は今夜で良いのか」
どこにでもいる町人といった風情の、中性的な顔立ちの少年が誰にともなく尋ねる。
「下調べは大体済ませた。俺はいつでもいいぜ」
傷だらけの顔を蝋燭の明かりに浮かび上がらせ、着古した着流し姿の遊び人がからりと答えた。
「こちらも。得物も自前の物を用意してあります」
どこかの問屋の若旦那といった風体の銀髪の男が静かに応じれば、
「問題ない。わずかではあるが、標的との繋ぎもつけた」
うだつの上がらない医者のようななりをしているが、眼鏡の奥の双眸はいやに怜悧な男が淡々と状況を報告する。
「そうかい。済まねえな」
そして、彼らの前で小さく頭を下げるのは枯れ枝の刺青を腕に持つ任侠だ。
「言われた通りのもんは用意したぜ。本当にこれだけでいいのかい?」
任侠の嘉平に得物を希望したのは白亜と那智だけだった。進み出た嘉平が白亜に満開の桜模様の小袖を、那智に鍼灸用の針と酒入りの瓢箪を渡す。
「嬢ちゃん。白亜とかいったか」
「……私は“嬢ちゃん”ではない」
「おっと、済まねえな。めんこい(可愛い)顔してるもんだからよ」
愉快そうに「くくっ」と喉を鳴らす嘉平の前で少年の姿をした白亜はわずかに眉根を寄せた。わざと間違えてからかっているとしか思えない。
「じゃあ、白亜。おまえさん、あの金貸しに会いに行ったのかい?」
「その必要性は感じなかった。――殺そうとしている相手と殊更に言葉を交わすこともあるまい」
静かに述べる白亜の前で嘉平はかすかに唇の端を曲げる。
「金貸しといえば、ちょっと気になってるんだが。なんで子分が止めたか、ってとこ」
ふらりと挙手したのは遊び人風の格好をしたシキだ。
破れた障子からゆるゆると風が吹き込み、炎と呼ぶにはあまりに頼りない蝋燭の明かりを震わせる。
「子分が居ないからってこれ幸いと殺っちまうんだ?」
シキの口調はいつものように飄々としていたが、片方だけ開いている目は決して笑っていない。
悪党どもと――恐らくは金貸しの是清と過去に何かあったのだろうとシキは直感していた。彼に対するけじめが重いのだろうとも。だが、仲間というものを何より重視するシキはその点をきっちり尋ねておきたかった。
嘉平の表情がわずかに動いたように見えたのは蝋燭の明かりが揺らめいたせいだったのだろうか。
「……ま、そういうこった」
だが、次の瞬間には苦笑にも似た笑いを落として嘉平は肩を揺すった。「“じったいか”した時はたまげたが、なんとも都合のいい話じゃねえか。あいつらに頑固に反対されたらさすがの俺も決心が揺らぐからな」
シキは「ふーん?」と鼻を鳴らしたが、それ以上問いを重ねることはしなかった。シキ自身も海賊団の仲間に黙って殺しをやろうとしている身だ。
「決心ですか。決心というよりは覚悟に見えるんですが……」
若旦那の役を演じる宗主の口から静かに、しかし鋭い指摘が放たれる。ゆったりと閉じられていた緑色の目が音もなく開かれ、ぼんやりと浮かび上がる嘉平の姿をとらえた。
「昼間、気になる情報を耳にしました。正確には俺ではなくシキさんが、ですけど」
「そうそう。遊郭に行った時にちょいと小耳にな。遊女からの情報だから結構あてになると思うぜ」
「昼日中(ひるひなか)から遊興に耽っていたのか」
「下調べだよ、下調べ」
医者の姿をした那智のぼそりとした突っ込みに大袈裟に顔をしかめ、シキは是清が武家の出であるらしいことを説明した。
「では、武家の人間が町人として貸金業を営んでいるということか」
組んだ腕をほどき、那智は真っ先にそれを指摘した。
「しかし得心がいった。金貸しがお上の親類縁者であるというのはそういう意味だったのだな。とはいえ、武士が町人に身を落とすなどというケースは稀ではある」
「“身を落とす”なんて、差別発言じゃないの?」
「身分差別を基本とした秩序が支配していたのがこの時代だ」
からかうようなシキの言葉に正論を返し、那智は人差し指で眼鏡を押し上げた。
明かりは相変わらず蝋燭だけだ。崩れかけた土壁の上に五人分の影が濃く長く伸びている。蝋燭の芯が焦げているのであろう、ジジッというかすかな音が時折静寂の中に混ざり込む。小さな炎はその度に身をよじらせ、五人の影もそれに合わせて緩慢に揺らめくのだった。
遠く、近く吹く風が虚ろな静寂を運ぶ。夜の帳が下りた町からは賑わいが消え失せてしまったのだろうか。
「その辺りはどうなのだ? 武士が理由なく町人の真似ごとなどするまい」
淡々とした那智の問いが嘉平へと向けられる。嘉平は皺の寄った目許をかすかに歪ませたようだった。
「そんなのァ本人にしか分からねえだろう。俺の知ったことじゃねえ」
「成程。確かに私の知ったことでもない。私の相手は用心棒だからな」
「用心棒」
と口を挟んだのは宗主であった。宗主に顔を向けた那智は軽く目礼し、宗主もまた意味深な微笑を唇に乗せる。
「栗栖さんが用心棒を?」
「ミスマッチだと自分でも思うが……やるからには手は打ってある。雇われ先を探す貧乏医者を装って標的に近付いた。金貸しに雇ってもらえないか、と」
「貧乏医者、ですか」
宗主はひそりと苦笑を漏らした。
「いけないか?」
「いいえ。面白い役を考えたものだなあと。だけど、栗栖さんなら名の売れた医者ということにしても良かったんじゃ?」
「その設定はこのなりでは無理がある。それに標的が貸金商ならともかく、用心棒に近付くためには貧乏医者を名乗ったほうが自然だと考えた」
宗主と言葉を交わしながら那智は障子の向こうへと視線を投げた。薄明かりに照らされた障子は所々無残に破れていて、外の様子が見て取れる。破れ目の向こうに覗く墨色の闇の中をちらちらと白っぽいものが舞っているようだ。桜だろう。この寺に入る途中、崩れた門の辺りにみすぼらしい桜がぽつねんと佇んでいたことをよく覚えている。
先頃、宗主の部屋に厄介になった時も夜桜を目にした。雷が鳴っていたあの夜も春だった。風流な事物には縁も興味もない那智であるが、春という季節には不思議と関わりがあるのかも知れない。
「――さて」
場を締めるようにぱんと手を打ち、一同を見回したのは嘉平であった。
「他に話は?」
そして順々に四人の顔を確認する。皆は小さくかぶりを振った。
シキ、宗主、那智が順々に古寺を後にする。最後に残った白亜の傍らで嘉平がふっと蝋燭を吹き消した。
湿った闇が落ちてくる。
「じゃ、約束通り俺も立ち会わせてもらうぜ」
「心得ている」
どちらからともなく互いを促し、二人は外へ出た。
後には静寂と桜だけが残された。寺の門の脇に佇む痩せた桜だけが彼らを見送っていた。
■死■
ふらりと遊郭を出たシキは、古寺での会合を終えて再びふらりと遊郭に戻った。皮肉なものだ。この廓の近辺だけには明かりと賑わいがある。この場所を少し離れれば夜の帳の下で押し黙る町並が続いている。
客は適度に入っているようだ。しかし廓の裏では小間使いたちがやけに慌ただしく行き来している。そういえば、明日は新しい花魁のお披露目のための行列があるのだと遊女が話していた。
座敷に上がり込んだシキは先刻“接客”をしてくれた遊女を再び呼びつけた。童顔の遊女はシキの顔を見ると親しげに笑って酒を勧めた。
「どちらに行ってらしたの?」
「ん。ちょっとな」
「他の廓?」
「まさか。目の前にこんな別嬪がいるってのに」
軽く笑って遊女の手を引き寄せる。彼女は「お上手」と笑ったが、まんざらでもなさそうだ。
「みんなバタバタしてんな。明日の行列の準備か?」
「そう。藤凪(ふじなぎ)姉さん、これでようやく借金が全部返せるってさ。太夫にまで上り詰めないと返せないんだね……」
白く塗った顔にふと影が差す。あどけなさを残すこの遊女がどんな経緯でこの廓に来たのか、シキは尋ねずにおくことにした。
「藤凪、ねえ。別嬪なんだろうな」
「……あら」
幼顔の遊女は演技なのかどうか判然としない拗ね顔を作ってみせた。
シキはニィと笑って彼女の腰に手を回す。
「それよか、これ貸してくんない?」
「は?」
「お守り代わりさ」
質問する暇も抵抗するいとまも与えない。遊女の着物からしゅるりと帯紐を抜き取り、シキは立ち上がった。
「異性の身に着けてるもんを持っておきたいってのは男も女も同じだろ?」
そして悪戯っぽい笑みを落とし、遊女の視線をすり抜けるようにして座敷を後にした。
「藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
しゃらん。
「藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
しゃらん。
朗々と響く男の声。しゃらしゃらと鳴る鈴。遊廓から少し離れた広場で、明日の行列のお供に抜擢された者たちが入念な練習を繰り返している。先導役の禿たちの姿もあった。
「藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
その声を遠くに聞きながら佐分利平八郎は帳簿をつけていた。吹く風が運ぶ声はどこかぼんやりと間延びしているが、それもまた風情があるものだ。開け放した自室の窓の外に目をやれば華やかなぼんぼりの明かりと、着飾って行き交う遊女たちの姿。
(あの女どももここにいりゃ寝食が保障される。貧乏のドン底にいるよりゃ遥かにマシってもんよ)
硯に筆をつけながらほくそ笑む。この遊廓が繁盛しているのも是清のおかげだ。見目の良い娘がいる家を選んで高利で金を貸し付け、借金のかたに娘をいただく。
「借りた金を返さねえっていう道理がどこにあるんだ、ええ?」
娘だけは連れて行かないでくれと泣いて縋る親も、そう凄まれれば泣く泣く従うしかないのだ。
是清が何を考えているのかまでは知らないし、是清に対して格別の仲間意識があるわけでもない。自分が儲かればそれで良い。それに、借金返済のためという名目があれば遊女に与える給金もいくらでもピンハネできる。佐分利が是清とつるんでいる理由などそんなものだ。
そんなことを考えて下卑た笑いを浮かべていた佐分利は、襖の向こうの廊下を風のように横切った気配に気付かなかった。もちろん、その気配が使用人たちを昏倒させて回っていたことにも。
「さて……この辺りにしておくか。おおい、酒」
帳面を閉じて廊下に声をかけるが、いらえはない。
「おおい。誰もいねえのか」
襖を開けて廊下を覗き込むといやにひんやりとした静寂がある。だが、佐分利はその不自然さを認識することができなかった。明日の準備のために皆が出払っているのかと首をかしげたにすぎない。
(仕方ねえ。てめえで取りに行くか)
母屋の外の納屋に酒があった筈である。そういや今夜は満月だったか、と呟きながら外に出た時だった。
「……?」
世界が塗り替えられたかのような違和感にはたと足を止める。
見上げる空に月はない。ごうごう、びょうびょうと轟く風だけがそこにある。何もかもが消えていた。母屋も、廓も、あの喧騒も。
「藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
しかし、暴風の向こうからは男の声が途切れ途切れに届く。奇妙な感覚だ。まるで自分の体の周りだけが見えない壁で囲まれてしまったかのよう。
(花嵐……にしちゃあちいと大仰だな)
さすがに訝しんだが、かといってこの状況を正しく把握できるわけもない。
濃密な闇。猛り狂う風。立っているのすら億劫だ。顔の前に手をかざすが、無秩序な暴風をそれで避けられるはずもない。ごうごうびょうびょう、吹き荒れる風は五感すらも奪う。
ただシキだけが息をしていた。風を読めるシキ・トーダだけがそのロケーションエリアの中で動いていた。
そして――シキが手にした“それ”が、暴風の中を獲物目がけて飛んで行く!
「ぐ、が」
佐分利の呼吸は唐突に奪われた。何が。何が起こった。反射的に首に手をやるが、自分の首に巻きついているそれが女ものの帯紐であることにこの男は気付いただろうか。
嵐のような風が全てを掻き消す。帯紐が食い込む音も、気管が潰れる音も、よろめいた佐分利がその場に倒れる音も、佐分利の背後で紐を締め上げるシキの手の音も。何もかもを飲みこんで、どうどう、びょるびょると風だけが猛り続ける。
シキと風だけが見ていた。末期を迎えんとする悪党を、シキと風だけが無表情に見下ろしていた。
「――藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
やがて風がおさまり、廓の明かりが、ぼんぼりが、朧な満月が、ゆっくりと戻ってくる。
「……ふーん? 風流じゃないの」
どこから迷い込んだのだろうか、佐分利が変じたプレミアフィルムの上にひとひらの桜が舞い降りた。
「あんたに恨みはないが、万が一俺の仲間に手出されちゃ困るわけよ」
無言で転がるフィルムには目もくれない。散歩でもするかのような足取りのまま、闇に溶け込むようにしてその場を後にした。
「藤凪ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
……しゃらん。
壁に耳あり、障子に目あり。藤野吉次の居室を、障子に開けた穴越しに緑色の目が見つめている。
「ひい、ふう、みい……」
だが、その穴は小指の先ほどの大きさだから、障子に背を向けて一心に金を数えている藤野は気付かない。
「……くひひ」
小さな肩を震わせ、藤野は特徴的な笑みを漏らした。小柄な体躯といい、小さな顔や目といい、まるでネズミのような男だ。
(白川の旦那が客を紹介してくれるってんだから楽なもんだ)
相場でうまく立ち回れば額に汗することなく手っ取り早く大金を得られる。まっとうに働いて返せる額ではない借金を背負った町人の前にそんな選択肢をぶら下げればどうなるか。意地の悪い理屈だった。
といって、相場で儲けることは容易ではない。素人が迂闊に手を出して良いものではないのだ。だが借金に溺れそうな民の目には藁よりはるかに魅力的に映るらしい。その上藤野は町人から取引の手間賃を受け取るだけだから、彼等が相場で大損をしても何ら痛い思いをすることはない。
藤野も佐分利と同じだった。白川の考えや思惑など知ったことではないし、興味もない。儲けるために都合の良い相手が白川であったというだけの話だ。
「くひひ」
藤野の忍び笑いは相変わらず特徴的で、底意地が悪い。
障子に映った影がゆらりと立ち上がった。影の手の中、極細の紐状の物が静かに伸ばされ、張り詰める。背が高く細身で、長い髪をなびかせるその立ち姿はまるで陽炎のようだ。
そして今、障子がするりと開かれる。
「――へ?」
藤野がようやく気付いた時には遅かった。
頭上をひらりと飛び越えていく長身痩躯。視界で翻るのは銀の色。
(この髪)
この町では見たことのない色だったからよく覚えている。昼間、ベニバナの相場の話に興味があると言って話しかけてきた着物問屋の若旦那ではなかったか。
なぜその若旦那がここに。そんなことを考えているいとますらない。勝負は一瞬で決していた。
さらりと流れる銀髪の向こう、ワイヤー入りグローブをはめた宗主の手がしなやかに閃く。
「ひ」
藤野は喉の奥から小さく悲鳴を漏らしただけだった。否、絶叫することもできなかった。
体重を全く感じさせない静けさで宗主が着地するや否や、藤野の体がぶらんと吊り上げられる。それはまさに縛り首の刑に処せられる罪人の姿だ。藤野の首に巻きついたワイヤーは天井の梁の上を渡って宗主の手に握られている。
藤野の足がばたばたと宙を掻く。梁越しにきりきりと引き絞られるワイヤーはもがけばもがくほど首に食い込み、小柄な体がゆるゆると回転を始める。
宗主は藤野に背を向け、ワイヤーを肩に背負う格好で畳に片膝をついている。だが霞みゆく意識と視界の中で藤野は確かに見たのだ。
――銀髪越しにちらと向けられた、羅刹のように酷薄な瞳を。
「恐れを知らぬ欲得、足の下に歔欷(きょき)する民を踏みつけ……」
静かに、冷ややかに告げられるそれは断罪であり、死刑宣告だ。
硬質な鋼線を右手でぎちりと引き絞る。肩に負ったそれを通して伝わってくる振動が徐々に小刻みになる。振り返れば陸に揚げられた魚のように痙攣する小男の姿があるだろう。
だが振り返らない。振り返る必要もない。凛と張り詰めたワイヤーを美しい爪でなぞり――琴を弾くように、はじく。
その瞬間、すべての重みが嘘のように掻き消えた。次いで、からあん、とプレミアフィルムが転がる音。
「ラダ。もう出て来ていいよ」
懐に隠れていたバッキーがその声に応じるようにぴょこんと顔を出す。
「夜桜でも見て帰ろうか。花見団子と……お酒もあるといいね」
「ぴゆあ」
ピュアスノーのバッキーは賛意を示すように片手を上げてみせた。愛らしいしぐさを見守る宗主のおもてには平素通りの穏やかな微笑だけが湛えられていた。
はらりと、杯の中に桜の花びらが舞い降りる。清酒の上に花が浮かんでいる様子はたいそう風流であったが、鹿野は桜などまったく気に留めずに一気に杯をあおった。
「良い飲みっぷりで。さ、もう一献」
ともに屋敷の縁側に腰掛けた是清が徳利を差し出すが、鹿野はそれをむっつりと制して手酌で杯を満たした。
「昼間、白川殿に雇ってもらいたいという医者が俺に声をかけて来た」
「ほう?」
「よそ者らしい。“ぎんまくし”とやらでは仕事が見つからぬと言っていたが……」
「信用なりませんな」
是清は静かに、しかしぴしゃりと切り捨てた。「昼間、藤野さんも外の町の人間に声をかけられたそうです。佐分利さんの所にも傷だらけの顔をした男が訪れて雇い入れを求めたとか。その者らとその医者に関わりがあるかどうかは分かりませぬが……関わりを否定できる根拠があるわけでもなし。我らの身辺を嗅ぎ回っているのやも」
鹿野は軽く顎を引くようにして肯いただけだった。主である是清のすることに口を出す気はない。それに、用心深い是清の判断のほうが間違いはないだろう。
「枯れ桜の男はもう諦めたのであろうか」
代わりにそんな独り言を落として杯を干すと、是清の眉がびりっと中央に寄る気配が伝わった。
「鹿野先生。今、何と?」
「いいや。独り言だ」
「……さようにございますか」
人は遠ざけてある。是清は苦々しい表情を隠すように手酌で酒をあおった。鹿野もまた清酒を舐める。
一献。また一献。互いに無言で杯を重ねる。鹿野は用心棒だ。主の望むままに剣をふるうことのみが務めだ。故に、多くを尋ねることはない。
「……ぬ。空になったか」
やがて徳利が空になる頃になると程良く酔いも回っていた。
「酔い覚ましがてらに散歩でもいかがです?」
「良いな。夜桜見物も悪くない」
「桜になど興味はありませぬ」
静かに、しかし冷えたおもてで鹿野を遮って是清は立ち上がる。
「使用人たちに外出を告げて参ります。しばしお待ちを」
さっと踵を返して立ち去る背中を鹿野は黙って見送っただけだった。
その時、庭の植え込みの向こうからふらりと現れた影がある。
「相変わらず酒か。忠告はしたというのに、呆れたものだ」
平坦な口調。聞き覚えのあるその声に鹿野の眉が持ち上がる。
「……何用だ。どうやって入り込んだ」
「そんなに酒が好きなら死ぬほど飲めば良い」
貧乏医者を演じる那智は嘉平に調達させた瓢箪をひょいと掲げてみせた。
「もらい物だ。おまえの主を紹介してもらう手土産代わりにと思ってな」
「主は会わないと言っている」
「ならば、今日のところはおまえにこれを渡しておくとしよう」
何気ない言葉を交わしながらも那智の目は素早くその場を観察していた。徳利。空の杯。予想通りだ。
隣に腰かけて適当な杯を手に取り、瓢箪の酒を注ぐ。といっても酌などに縁のない那智だから、差し出すというよりも突き出すといったほうが良さそうなしぐさで杯を渡しただけだった。
しかし鹿野は受け取らない。先程の是清の言葉が脳裏に引っかかっていたからだ。猜疑の視線を受けた那智は軽く肩をすくめて杯に口をつけてみせた。くいと飲み干し、平然としたまま二杯目を注いで差し出す。
(……ただの酒か)
毒でも仕込まれているのではないかと勘繰ったのだが、考えすぎだったらしい。鹿野は無言で杯を受け取り、干した。と同時に、色の黒いおもてがぎゅっとしかめられる。皺の寄った眉間から汗が滲み出す。焼けつくような熱さが喉を通り、胃の腑へと落ちて行く。
体を折り、く、と息を漏らす鹿野の隣で医者は冷ややかに笑った。
「きくだろう。特別強い酒らしい」
「……くせになりそうだ」
「ほう。ではもう一杯」
鹿野の杯が再び酒で満たされる。だが鹿野は気付いてはいなかった。
一杯目を口に運び、体を折って呻いているそのわずかな間に、傍らの医者が瓢箪の中に白い粉末を注いでいたことに。
だから二杯目を口に運んで初めて異変に気付いた。そして、気付いた時には遅かった。
「き、さ……ま……?」
突然、視界がぐにゃりと歪んだのだ。次いで平衡感覚が失われてしまったかのような吐き気に襲われる。座っていることすらかなわず、ぐらりと上体がかしいだ。
「飲み過ぎだ」
那智は鹿野の体を抱き止めるふりをして彼の首の後ろに手を回した。
「休むといい。……ゆっくりとな」
感情に乏しいおもての上をひんやりとした笑みが覆う。袖の中から取り出したるは――針。
盆の窪を正確無比にぷすりと穿つ。用心棒は「は」と間の抜けた息を漏らし、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「言っただろう? “死ぬほど飲め”と」
鹿野を見下ろす那智は相変わらず無表情だったが、口許には抑えきれぬ好奇心が滲んでいる。
(殺してしまうのはもったいない。せいぜい楽しませてもらおうか)
更に体の数か所に針を打っていく。古来、伝統的な東洋医学では針を用いて人体に麻酔をかけていたという。その知識がこんな形で生かされることになるとは思っていなかった。
物言わぬ鹿野を引きずるように抱え、那智は闇の奥へと姿を消した。あの春の嵐の夜と同じように。
「春宵一刻値千金、ってか」
嘉平はやけに饒舌だった。「気持ちいいねえ。春の夜ってぇのはどうしてこんなに気持ちが浮き立つんだか」
ははは、とわざとらしく笑ってみせる嘉平の隣で白亜は黙っている。白亜は元々口数の多いほうではないが、といって特別会話が嫌いなわけではない。
だが黙っている。傍らで道化のように喋り続ける嘉平にどう言葉をかけて良いのか図りかねている。
「お、桜だ。夜桜見物ってのも粋じゃねえか」
さらさらと水音が聞こえてくる。川の近くらしい。土手沿いには満開の桜の木が等間隔でぽつりぽつりと佇んでいる。朧な満月の下に浮かび上がる桜はぼんぼりのようであった。
川面を渡る風がざわざわと花を鳴らし、散らす。甘い香りが鼻をくすぐる。たなびく薄雲にけぶる満月は大層美しいが、朧月さえも今は桜の引き立て役にすぎぬ。
「桜がお好きか?」
風に翻弄されるように舞う花弁を目で追い、白亜はぽつりと問うた。
「この国に生まれて桜を嫌う奴ぁいねえだろうさ」
「貴方はやけに桜を意識しているように思える。その腕の枯れ枝の刺青も桜だ」
川は滔々と流れ続ける。鏡のように凪いだ水面は土手の桜を映し出している。上下逆さまに映り込んだ桜は結露した窓を通したかのように滲んでいた。時折思い出したようにやってくる風が川面をさざめかせる度、桜の像が震え、乱れる。
「邪推と呼ばれても仕方のない推測だが――」
黒曜石のような瞳が静かに嘉平の横顔をとらえた。「配下の者たちが成敗を止めようとしたのは貴方と貸金商の間に何かあったからなのでは? そして、そこには何らかの形で桜が関わっている……」
ちらちらと。ひらひらと。二人の間を、物言わぬ桜だけが舞い落ちて行く。
やがて嘉平が軽く息を吐いた。密やかに落とされたその溜息は、ともすれば夜風にさらわれてしまいそうなほど小さかった。
「俺ぁこう見えても元は武家の生まれでね。武家っつっても貧乏旗本だが。あいつが……金貸しの是清が武家の生まれだってぇのはさっき聞いただろ?」
「ああ」
「俺の家とあいつの家は昔から付き合いがあったのさ。あいつのことも赤ん坊の頃から知ってた。妙にウマが合ってな。切磋琢磨ってやつだな、世のため人のために役に立とうって言いながら剣の腕を競い合ったもんだ。春には毎年一緒に花見に行った。あいつは夜桜が好きでな。そのうち夜桜見物に行こうぜなんつってる間に仲違いしちまった。一応、満開の桜の下で義兄弟の契りなんかも交わしてよ。ちょうどこの先の一本桜でな」
「義兄弟……」
だから子分は是清を討つことに反対したのかと納得しつつ、一族の長であった兄の顔がちらと白亜の脳裏をよぎった。
「あの頃ァ俺も若かった。浮世のことなんざなーんも分かっちゃいなかった。あいつはもっと若かった、その分現実を知った時の落差と失望ったらな……」
「さもあろう。武家として比較的恵まれた生活を送っていたのであれば尚のこと」
「はは、耳が痛ぇや。それから後はご覧の通りよ。俺はしがないやくざ者に落ちぶれて、あいつは家を出奔して……次に現れた時にゃがめついあきんどになってやがった。“金がなけりゃ何もできない”が口癖のな」
ひょうと風が鳴った。川の水を孕んでいるせいだろうか、やけにひんやりとした風が首筋を撫でて行く。
「皮肉なもんさ。世のため人のためって言い続けてたガキが、今や町人を苦しめる悪どい高利貸しよ」
「だから“成敗”する……と?」
「ああ。……弟の不始末は兄がカタつけてやらにゃなるめぇ」
ぽつりとそう付け加えた嘉平の脇で白亜は黙っている。白亜にも兄がいる。もし自分が不始末をしでかして一族に迷惑をかけることになった時、兄は自分を討つのだろうか。
長という地位にある兄ならば嘉平と同じことを言うのかも知れない。だが、兄は苦しむだろう。悩むだろう。泣きながら刀を振り上げ、振り下ろす寸前まで躊躇うのだろう。
だから嘉平は自ら手を下すのではなく、見届けという方法を選んだのだ。
「あい分かった。この白亜、心して引き受けよう」
やがて落とされた白亜の台詞は、かつての世界に居た時のように古めかしい言い回しであった。
「良いように……とはいくまいが、少し取り図らせていただく。しかと見届けられよ」
「……ああ。恩に着る」
静かに、しかし凛と告げた白亜の隣で嘉平は目を細めた。目尻に刻まれた皺は彼が若くはないことを物語っている。だが、年月を経て張りを失った瞼の下の瞳はかつての精彩を留めているのではないかと白亜には思えた。
ちらちらと。ひらひらと。
桜舞う川辺を二人は静々と進む。
転がった杯。こぼれた酒は乾き切っておらず、鹿野の姿は消えている。使用人に外出を告げて縁側に戻った是清はすぐに異変を察した。
――何が起こったのかは分からぬ。だが、何かが起きている。
(佐分利さんと藤野さんは)
真っ先に頭に浮かんだのはその二人のことだった。利害が一致するという理由だけでつるんでいるだけの相手だが、彼ら二人の安否を確認すれば状況が判明するような気がした。
焦燥に駆られた高利貸しは供もつけずに往来へ飛び出した。
さわさわと。さらさらと。
甘い香りを含んだ風が首筋を撫でて行く。薄曇りの空に滲む満月が道をぼんやりと浮かび上がらせている。だが朧な月明かりが是清を安堵させることはない。人通りの失せた道を小走りに、黙々と辿る。
ひょうと吹く風。ちらと舞う雪。
――雪?
弾かれたように顔を上げた。
ちらちらと。ひらひらと。
闇の中を舞うそれは雪のように白く、しかし雪よりも脆弱な桜。削いだ蝋のように薄い花びらはあるかなしかの風にさえ翻弄され、漂う。
さらさらと流れる水音に、知らず己が胸を掴む。
川。満開の桜。静かに佇むその大樹は、かつての記憶とともに闇の奥から忽然と姿を現れた。
ひんやりとしたものが背中を伝う。いつの間にかここに来ていたというのか。引き寄せられるように足がこの場所に向いたとでもいうのか?
(……馬鹿馬鹿しい。この川は佐分利さんの所へ行く時の通り道だ)
そう、これまでも何度となく通ってきた。この一本桜だけは意識して視界に入れぬようにはしていたが。
闇の中にぼんやりと浮かぶ桜の前を足早に通り過ぎようとする。花の重みでしなる枝の下に入るとふんわりとした香りが頭上から降って来た。誰もが顔を綻ばせてしまような匂いの中で、しかし是清は不快そうに顔を顰める。
桜の下で、かつて嘉平は笑っていた。五分咲きの桜を指して、是清と同じだと言って笑っていた。
(――志では何も変えられはせぬ)
じわりと滲み出した郷愁を押し戻すように奥歯を噛み、さらに足を速める。
向こうから小柄な少年がやってくる。黒髪を短く切り揃え、地味な着物に身を包んだ平凡な少年だ。そんな少年がこんな刻限にこんな場所で何をと思わぬでもないが、今はそれを気にしている時ではない。
桜の幹の前ですれ違う。町人の少年は小さく目礼したようだ。しかし是清はそれに気付かない。
足早に桜の下を抜けようとした時であった。
目の前でばさりと桜が翻り、視界が塞がれた。
心臓が跳ね上がる。頭に何かがかぶせられたのだと辛うじて察した是清であったが、それが満開の桜が描かれた小袖であったことには気付かなかった。
「――鬼に行き会うたが運の尽き……」
耳元に当たる人肌の風。涼やかな、密やかな、しかし表情のない少年の囁き。
「ほら……捕まえた」
それが宣告だったのだろうか。強い力で襟本を掴まれた是清はあっという間に後ろを取られ、そのまま腕で首元を締められていた。
ちらちらと。ひらひらと。
花が舞う。粉雪のように降り注ぐ。ほのかに色づいた花弁が、控え目な香りが、人の心を妖しくざわめかせる。
ならばそれも桜が見せた幻であったのか。必死で身をよじった視界の端、少年の髪の毛が爆ぜるように伸びたのも、その頭から一本の角が生えたのも。
それはまさしく鬼であった。平凡な町人の格好をしていた筈の少年の真の姿であった。
「せめて、言い遺すことがあるならば」
柔術の絞め技の要領でがっちりと是清の首を固めつつ、本来の姿と力を解放した白亜は低く告げた。気道もろとも一気に首の骨を折って殺すつもりだった。だが嘉平の話を聞いて考えが変わった。首の骨だけを折ろうと思う。末期の言葉を遺せるように。
だが是清がそれを知る筈もない。ただただ懸命に抵抗を試みているだけだ。とはいえ、鬼に捕われているというのに恐慌状態に陥らずにいる辺りはさすがは武家の生まれといったところか。
もがく是清の顔から小袖がずれ落ちる。
ちらちらと。ひらひらと。舞う花はまるで雪のよう。どうしてこの花はこんなにも人を惹きつけ、ざわめかせるのだろう。
ならばそれもさざめく心が見せた幻だったのか。桜の後ろからゆっくりと姿を現した嘉平の姿は、是清の願望が見せた虚像なのだろうか?
分からない。意識も視界も霞み始めている。それにこの光景はあまりに非現実的過ぎる。桜の下で鬼に捕われ、その上嘉平まで現れて。こんなことが現実であるわけがないではないか。
だが、幻であっても構いはしない。是清は嘉平に縋りつくように虚ろに、ひたすらに手を伸ばした。
しかしその手を嘉平が取ることはない。分かっていた。分かっていた、けれど。
「――兄……者」
それが最期の言葉となった。
ぶるぶると震える手が落ち、だらんと垂れ下がる。
現実離れした美しさの桜の下、一巻のフィルムが乾いた音を立てて転がった。
嘉平はその場にがくりと膝をついた。
これが。こんな物が是清だというのか。伸ばされた手を握るのは是清が死んでからと思っていたのに、これではそれすらもかなわぬ。
「……是清。馬鹿野郎が」
プレミアフィルムの前に座り込む嘉平の前で白亜は黙っていた。
これが銀幕市の掟だ。ムービースターは死すればフィルムに還る。嘉平がそれを知っていたかどうか、覚悟していたかどうかまでは白亜の与るところではない。
「これじゃ桜も見られねえじゃねえか。やっと一緒に夜桜見物ができると思ったのによう……」
無機質なプレミアフィルムの前で嘉平は滂沱する。壮年の任侠の慟哭を背に聞きながら白亜は踵を返した。
桜さえあれば良い。二人を見届けるのは桜吹雪だけで良い。
(だが……桜よ、願わくば)
今だけは隠してやってほしい。悲痛な涙が誰の目にも触れぬよう、惜しむことなく花びらを散らして二人を隠してやってほしい。
ちらちらと。ひらひらと。
儚さの象徴である花の下を、美しい一角鬼は淡々と歩み去った。
■後■
数日後。銀幕市内をぶらついていたシキは目をぱちくりさせた。
通りに面した理髪店。ガラス越しの店内に座っているのは白亜ではないか。
どうしたというのだ、白亜は。先日顔を合わせた時はごく普通の短髪だったというのに、今は女のロングヘアもかくやという長さである。
(数日であんなに伸びるもんかね?)
訝しんだが、詮索はしないことにした。白亜もムービースターだ。何がしかの能力を使った名残なのかも知れない。
散髪が終わるのをぼんやりと待ち、店から出てきた白亜に声をかける。シキに気付いた白亜は軽く会釈した。
「あの時、あの嘉平って男と一緒に行ったんだろ? 理由、聞いたりした?」
「理由とは?」
「あいつの子分が成敗に反対してた理由さ」
白亜は答えなかったが、整った眉がわずかに曇った。
「ん。言いたくなきゃ別にいいけど」
「……いや。どのみち、ジャーナルに掲載されれば皆が知ることになる」
嘉平と是清はかつて義兄弟の契りを交わした間柄だったのだと白亜は言葉少なに語った。シキはいつも通りに「ふーん」と鼻を鳴らしたが、かつての記憶がほんの少し揺さぶられた。
シキは少年時代を血の繋がらぬ母と兄とともに過ごした。だが血縁は絆ほど重要ではないと今なら思える。今のシキに海賊団という名の家族がいるように。
「義兄弟、ね」
やがて白亜と別れたシキは頭の後ろで両手を組みながら呟いた。
家の中に自分の居場所はないと思い込んで従軍の道を選んだシキだったが、故郷から遠く離れた軍にいる間も家族と手紙のやり取りを続けていた。だが、母の死を知らせる手紙を最後に兄と連絡が取れなくなり、慌てて故郷に帰った時には家族の姿はなくなっていた。
「なあ……」
ぼんやりと仰ぐ空はどこまでも青く長閑で、そよそよと吹く風は暖かく柔らかい。
「本当は弟をどう思ってたんだ?」
独り言のように落とされたその問いは一体誰に向けられたものだったのだろう。
「あ。栗栖さん」
同じ頃、市役所に赴いた宗主は対策課を訪れていた那智と偶然顔を合わせていた。
「この間はどうも。結局、どうやって用心棒を倒したんですか?」
「酒に薬を混ぜて飲ませ、昏倒したところに針を打って動きを止めた。ついでに針で麻酔もかけた」
「栗栖さんらしいですね」
医学の道に進んだこともある宗主はその説明だけで概要を察することができた。しかし、すぐに「あ、だけど」と疑問を呈する。
「麻酔をかけた……ということは、殺したわけではないんですか?」
声のトーンを落として問うと、眼鏡の奥からいつもの無感動な視線が返って来た。
「とどめは刺したさ。だが、その前に人体実験に使わせてもらった」
「……人体実験、ですか」
「ああ。いわばリサイクルだな。――充分に楽しませてもらったよ」
うっそりと笑う那智に怯えたというわけでもあるまいが、宗主の肩の上のラダはぴゅっと銀髪の中に隠れてしまった。
(了)
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クリエイターコメント | お待たせいたしました…。 季節外れとなってしまいましたが、シナリオをお届けいたします。ギリギリでの提出となり、申し訳ありません。
皆さん、プレイングが入念すぎです…(笑)。 「謎解きなんかありません」と明言した通り、実は当方では凝った真相なぞ用意していなかったのですね…。下調べの際に大した情報が出てこなかったのはそのせいなのでした。
諸々捏造しましたが、時代劇風味の情緒をお届けできれば嬉しいです。 ご参加・ご拝読、ありがとうございました。
↓特に捏造が激しかった部分
・白亜様の散策シーンと、お兄様のくだり ・シキ様の下調べの様子と、お兄様のくだり ・吾妻様の行動全般(!) ・栗栖様の成敗方法と決め台詞 |
公開日時 | 2009-05-13(水) 19:20 |
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