★ 【神ナル音ゾ、響キヲリ。】sprinter ★
<オープニング>

「……ここも、人がいなくなってしまったな」
 美しい緑に彩られたカフェの前に佇み、神音は小さくつぶやいた。
 つい先日まで美しい神聖生物たちによって切り盛りされ、様々な騒動や一部殿方に優しくないトラウマを提供していた、スイーツが美味と評判のカフェは、いまや主を失って、ひっそりと静まり返っている。
「不思議な、ものだ……たかだか一年、滞在しただけで」
 神音が銀幕市にやって来たのは、昨年五月の中ごろだった。
 人探しのためにここへ来て、この街の人々と魔法に触れ、銀幕市に興味を持ってしばらく滞在することに決めた。
 マネージャーの青年が、この世の覇権を狙う旧い神の依り代にされ、大きな事件も起きて、よそでは到底味わえないような経験をしたが、その他にも、この一年で、様々な得難いものを得た。
 総じて言うならば、神音は、この街での一年間に、感謝していた。
「……こんなにも、別れ難く思うのだから」
 カフェを見つめ、ぽつりとこぼす。
 不思議なブロンズ光沢のある双眸には、悼みにも哀惜にも似た色彩がたゆたっている。
「しかし……私も、もう、行かなくては」
 魔法が終わり、ムービースターやバッキーたちが去り、ムービーハザードも消えた。銀幕市には『普通』の日常が戻って来て、残された人々の気持ちなどお構いなしに、日々は慌しく流れていく。
 神音もまた、戻らなくてはならない。
 歌を捧げ、音楽で彩る、巡礼の日々に。
 それが、神音の存在の意味であり、根幹なのだから。
「だが」
 離れ難く、別れ難く思う気持ちもまた、真実だ。
 この街は、それだけのものを、神音にも、与えていた。
「……ならば、せめて」
 何かひとつでも、残して行こうと思うのだ。
 自分が確かにこの街を愛していたというあかしを。
 それと同時に、この街の人々が、今でも、魔法によって彩られた三年間を愛しているのだというあかしを、かたちにして残してみたいと思うのだ。
「歌を、創ろう。思いの丈を詰め込んだ、歌を」
 そして、その歌を、うたい続けたい。
 その歌をうたうことで、伝え続けたい。
 この街に確かにあった、奇跡を。
「……協力してくれる人は、いるかな」
 なじみの顔を幾つか、思い浮かべながら、かすかに笑う。
 否……本当は、別に、協力が得られなくてもいいのだ。
 ただ、たくさんのものを共有した人たちと、もう一度、懐かしい場所を巡り、懐かしい人の話をして、痛みと愛おしさを分け合いたい、たくさんの言葉を交わしたい、それらを分け合うことで、新しい道に踏み出して行きたいという小さな願いが、神音の中にあるだけなのだ。
 残された人々が、それぞれに自分と向き合い、記憶や感情と折り合いをつけて、『あの人』のいない世界で、歩き始め走り出そうとしているように。
「そうだ……それに」
 手にした、分厚いノートを見下ろして、つぶやく。
「このノートを受け継いでくれる人とやらも、探してやらなくては」
 流麗で几帳面な文字でびっしりと埋められたそれは、森の女王とその眷属である森の娘たち、それからお人好しの妖幻大王が残して行った、彼女らがこの世界に存在したあかしのようなものだった。
「スイーツの作り方に、定番ランチのメニュー、お茶の淹れ方に、衣装や小物、アクセサリの作り方、メイクの方法、それにインテリアやエクステリアの整え方……なるほど、これだけあれば、カフェ『楽園』を再開するのも、夢ではないかもしれないな」
 それもまた、悪くない話だろうと思うのだ。
 過去に縋り続けるのではなく、単純に、愛したものを自分たちの手で護り続けるという意味で。
「ふむ……では」
 小さくこぼし、神音は歩き出した。
 目指すのは、銀幕市役所だ。
 対策課はもうないが、まだ、呼びかける機能くらいは残っているだろうし、色々なものを懐かしんで、あそこを訪れる人も、いるだろうから。

種別名シナリオ 管理番号1070
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さん今晩は。
正真正銘、最後のシナリオのお誘いに上がりました。

こちらは、夢の魔法が消えたあとの、少し静かな銀幕市で、懐かしい場所を訪ね、大切な人の面影を偲びながら、これから先ご自身が進むべき道について模索していただこう、というシナリオです。

同時に、音楽や芸術に縁の深いPCさんには銀幕市での日々を綴った歌創りを手伝っていただいたり、カフェ『楽園』に縁の深い、もしくは調理や製菓などがお好きなPCさんには『楽園』のレシピなどを受け継いでいただいたり、あわよくば新生カフェ『楽園』の経営者になっていただいたり出来たらとも思いますが、こちらは『ついで』で結構です。

ご参加に当たっては、
1.訪れたい場所(複数も可です)
2.思い出す人、出来事(あまり具体的には描写できない場合もあります)
3.捧げたい言葉、気持ち
4.これからの自分について、どう生きるか、何をするか
5.どんな歌を創るか(歌詞の持ち込み大歓迎)
6.カフェ『楽園』のレシピをどうするか
7.その他、取りたい行動があれば
などを、プレイングにお書きください(すべてでなくて構いません)。

今回も、PCさんの気持ち、思い、願いを丁寧に拾っていくつもりですが、プレイングによっては登場率に差が出る可能性もあります。ご理解ご納得の上でご参加くださいますようお願い致します。

それでは、銀幕市最後のシナリオにて、皆さんとお会いできるのを楽しみにしておりますので、どうぞ奮ってご参加くださいませ。

参加者
吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
薄野 鎮(ccan6559) ムービーファン 男 21歳 大学生
月下部 理晨(cxwx5115) ムービーファン 男 37歳 俳優兼傭兵
三月 薺(cuhu9939) ムービーファン 女 18歳 専門学校生
片山 瑠意(cfzb9537) ムービーファン 男 26歳 歌手/俳優
真船 恭一(ccvr4312) ムービーファン 男 42歳 小学校教師
悠里(cxcu5129) エキストラ 女 20歳 家出娘
<ノベル>

 1.「お父さんは、ずっとふー坊のお父さんだよ」

 午前十時。
 真船恭一(まふね・きょういち)は銀幕市が一望出来る高台の公園にいた。
 手すりの向こう側には、青い青い空と、いのちの営みをはらんだ無数の家が連なる、慣れ親しんだ銀幕市の街並が広がっている。
 自動車が走っていくのが見える。
 犬の散歩をしている人がいる。
 一生懸命自転車をこいでいる少年は、どこへ行く途中なのだろうか。
 一斉に飛び立った鳩の群れが、空を旋回してどこかへと羽ばたいていく。
 ――静かだ。
「何だか……あっという間だったな」
 初夏の爽やかな風が頬をそっと撫でて行く。
 あおい匂いのする、瑞々しい風に目を細め、恭一は手にした花束をベンチの傍らにそっと置いた。
「……」
 そして、目を閉じ、黙祷する。
 夢は楽しいばかりではなかった。
 多分に重苦しさを含んでいた。
 そこには、いのちの重みもあった。
 それらがなすすべもなく喪われていったことを、自分たちは忘れてはいけないのだと思う。
 それゆえの黙祷だった。
「今頃皆、どうしているのかな」
 街並の向こうにわずかに見える海へ目をやって、ぽつりと呟く。
 あそこに浮かんでいた海賊船も、今はもうない。
 最後の戦いで、要の、誰よりも大きな存在である男を喪った団員たちの悲嘆を思い、その痛みも今はもう癒されているのだろうか、彼らは再会できたのだろうか、などと様々なことを思った。
 自然と、手首に巻いた小さなマフラーに視線が向く。
「メンデレーエフ……ふー坊」
 それは、我が子が残したものだった。
 実子ではなかったが、それと判っていても身代わりでもなく、妻ともども愛した小さな子どもだった。
 出会ったのは学校から帰ろうとした時。
 いつの間にか、車の助手席に座っていた。
 飼い主はと尋ねると、顔を真船の胸に摺り寄せた。
 迷子かと思い、引き返して職員室や教室を尋ねて回ったが飼い主はおらず、対策課と警察どちらに行くべきか散々に迷っていたら、小さな前脚で胸を叩かれ、やっと気づいた。
 自分のもとに来てくれたのだと判って、驚いた。

「Viens, mon poussin Viens valser avec papa……」

 シャンソンが口をついて出る。
 同じようにお気に入りのシャンソンを口ずさみながら、いつものように夕食の支度をする自分と、大人しく自分の作業を見守っているバッキーの姿が脳裏に浮かび、恭一は微笑む。
 ともに過ごした日々が、愛しく、懐かしく思い起こされる。

「Maman aussi aimait cet air-la Lorsque nous valsions tous les deux autrefois ……」

 あの子が来るまでは、スターや魔法に感謝し、憧れ、協力したいと思っていたが自信がなく、また著名な女優である妻に迷惑をかけてはいけないという思いもあって、街中に溢れる奇跡や事件をただ観ているだけだった。
 しかし、あの子がすべてをくれた。
 あの子と、妻が、彼の背中を押してくれた。
 だから、今の恭一がいる。
「ああ……そういえば、ふー坊はシャンソンが好きだったね」
 父と子の幸せな一時を謳ったシャンソンを口ずさみながら、小さなバッキーがその歌にあわせて踊るように揺れていたことを思い出す。過ごした日々を、今はもう空へ還ったあの子もまた、幸せに思ってくれればと願う。
「もう……触れられないけれど……」
 抱きしめられないのは辛い。
 傍にいないことは寂しい。
 けれど、
「何もかもが消えたわけじゃない」
 のこされたものがたくさんある。
 たくさんの写真、思い出の品、そして何よりも、記憶の中の数多の幸い。
 そっと触れたときの感覚。
 肩に乗っかったときのわずかな重み。
 彼にははっきり聞こえていた小さな鳴き声、愛らしい仕草。
 恭一を気遣うような、つぶらな瞳。
 それらのすべてが、確かにあったことを恭一は知っている。
 やがて儚く消えていく夢ではない。
 間違えようのない真実が、そこにはある。
「ありがとう……本当に。何もかも」
 空を見上げ、静かに微笑む。
「――……お父さんは、ずっとふー坊のお父さんだよ」
 己の中に残った真実のすべてに、恭一は感謝する。
 そしてその感謝は、夢に包まれた銀幕市での時間と、銀幕市にかかった魔法そのものへと向かうのだ。
「幸せなことだけではなかったけれど……魔法のお陰で、少し、僕は変われた」
 自分はこの時間で一体何が出来たのだろうかと考えると、自分の不甲斐なさに落ち込みもするし、正直やり忘れたことも色々あるし、残念だと感じる部分も少なくはないが、それでも、自分はこういう自分でしかいられないと、恭一は肩をすくめる。
 そう、それでも少し変われた自分を、ほんの少し、誇らしく思うから。
 『物語』を経て、人格が180度変わる映画のようには、多分、いかない。
 けれど、恭一は、間違いなく変わった。
 精神的に――他者から見ればホンの少しかもしれないが――強くなれたと思う。
 それは、『生きる』ことを真剣に考える機会を何度ももらったからだ。
 生きる幸い、愛する歓び、そのために凜と立ち戦うことの貴さを、何度も教えてもらったからだ。
 それはきっと、恭一の『これから』に生き続けるだろう。
 恭一を生かし続けるだろう。
「ああ……しまった。ブランドBIOの全身オートクチュールチケットも、使うのを忘れていたんだっけ……」
 臨海学校、女神たちのお茶会、歓声、花火の音、笑い声、いい匂い。
 そんなものが、親友であり兄弟でもあった男の笑顔とともに蘇り、しまったと言いながらも恭一は笑っていた。
 あの男は、そんな恭一を見たら、呆れてまた笑うのだろう。
 それを見て、恭一はきっと、肩をすくめるのだろう。
 別れは寂しい。
 もう会えないことが哀しい。
 けれど、のこされたものがたくさんあることを、恭一は知っている。
 だから、嘆くよりも、感謝する。
「真船先生!」
 と、そこへ、ぶおん、という排気音がして、
「……片山君」
 見遣れば、公園の入り口で、片山瑠意(かたやま・るい)がバイクに跨ってこちらに手を振っていた。
「お出かけかい?」
 微笑んで歩み寄り、恭一が問うと、瑠意はちょっと笑って頷いた。
「さっきまで十……じゃなくて友達の家に行ってたんですけどね」
「ああ……それは、杵間山の?」
「あ、はい。今は、別の友人が管理してるんですけど、そこに大事な人たちのプレミアフィルムを保管しているので、その手入れに」
「なるほど。それで、今は?」」
「『楽園』に行こうと思って。友達にも誘われてますし」
「ああ」
「多分、他にも来てる人がいると思うんですよね。先生も一緒にどうです? ヘルメットもありますし、後ろ、乗せますよ?」
 瑠意に言われて、恭一はちょっと考え、ややあって頷いた。
「じゃあ……お願いしようかな」
 もう、魔法はない。
 バッキーやムービースターたちはいない。
 けれど、思い出を語り合うことの出来る仲間がいる。
 同じ、愛しい思いを抱く人たちがいる。
 その人たちと、今の気持ちを共有するのは悪くない、と笑い、恭一は瑠意の差し出す手を取り、大型バイクの後ろに腰を落ち着けた。
「じゃ、行きますよ。しっかり掴まっててくださいね」
 バイクが奔り出す。
 頬を叩く、初夏の清冽な風が心地よい。
 陽光に輝く街並を見つめ、恭一は、目を細めた。



 2.「だから……別れの痛みにすら、感謝する」

 月下部理晨(かすかべ・りしん)は、杵間山中腹に座す古民家にいた。
「……ふう」
 板張りの廊下を磨く手を止めて、額の汗を拭う。
 大きな家なので、一通り掃除をするだけで結構な重労働だ。
 とはいえ、在りし日の住人たちが、毎日丁寧に掃除をしていたので、ほとんど汚れてはいないのだが。
「でも、ま、気分的にな」
 つぶやき、雑巾をバケツの中へ放り込む。
 プレミアフィルムの手入れは瑠意がやってくれたみてぇだし、次は庭の手入れをしよう、と立ち上がると、広い庭先で、あちこちの匂いを嗅ぎ回る小さな柴犬の姿が目に入った。
 雪に埋もれて死に掛けていたといういたいけな仔犬から、少しずつたくましさを身につけ、徐々に成犬に近づきつつあるこの柴犬は、理晨の『弟』であるムービースターの青年がまさに目にいれても痛くないほど可愛がっていた愛犬で、彼が去る際に、理晨に託された。
 この恵森のこともあり、また、懇意にしている監督が、銀幕市での話を聴いて、『ムーンシェイド』続編を撮ると言ってくれたのもあって、理晨はしばらく銀幕市に滞在することにしたのだ。
 『家族』の何人かは残ってくれるようだし、古民家も、手続きをして正式に譲り受けることになっている。
 精霊に愛された天人ではない理晨は、さすがに電気もガスも水道もない場所で生活するのは難しく、その辺りの工事はしてもらわねばと思うが、他はなるべく変えないように、ここにいた人々が生きていた証を残しながらやっていきたいと思う。
「まぁ……ジークのやつがどこまで我慢できるか見ものだよな」
 左手薬指に輝く指輪を見やって少し笑い、まだ仔犬の愛らしさを残した柴わんこ、恵森(メモリ)が、フンフンと鼻を鳴らしながらあちこちの匂いを嗅いでいるのへ声をかける。
「どうした、恵森。何か匂いがするのか?」
 雑草を毟りながら理晨が問うと、恵森は可愛らしく小首を傾げ、ととと、っと彼の元へ走り寄った。そして、ぱたぱたと尻尾を振りながら、つぶらで愛らしい瞳で、理晨を見上げる。
 キャラが崩壊するほどの動物好きだった『弟』ほどでなくとも、生き物や動物が好きな理晨には、思わず目じりが下がる仕草だが、それと同時に、彼は、恵森が不思議そうにしていることにも気づいていた。

(あんね、あんね、においするのにごしゅじんもとーごもきらもじゅーろもいないの。なんで? なんで?)

 何となく、恵森の言いたいことが判って、理晨は唇を微苦笑のかたちにした。
 胸の奥が、やわらかい痛みに満たされる。
「もういねぇんだよ、恵森」
 ほんの少し前まで、ここには気のいいムービースターたちが集っていた。
「皆、もういねぇんだ……うちに、帰ったんだよ」
 そこには、理晨と痛みを共有する『弟』もいて、この街で癒され、この街で救われた彼が、陽だまりに包まれたような笑みを浮かべるのを、理晨は、それだけで安堵して見つめていたものだった。
 しかし、もう、彼らはいない。
 魔法は消え、彼らは『還』った。
 最後の日の、別れの笑顔は、今でも理晨の網膜に焼き付いている。
 最後まで幸せそうだった『弟』の笑顔、彼に笑顔をくれたたくさんのムービースターたちの笑顔。やるべきことはやった、と、晴れやかに笑った古民家の主の顔を思い出す。
 ――『弟』が三年間暮らしたマンションの一室は、オーナーの意向もあって、そのままに残されている。
 理晨は時折そこにも顔を出して、彼が確かにここで生きていたこと、確かに幸せだったことを再確認し、マンションの管理人やオーナーたちと、懐かしい思いを共有している。
 人間は、そうやって、思い出とともに生きていくのだろう、と思う。
「きゅうん?」
 しかし、彼らがもういないことを、『今』しかない動物たちに理解させることは難しい。
 不思議そうな恵森の頭を撫でてやり、理晨は微笑んだ。
「また会える気は……何でか、するんだけどな」
 庭の草むしりを終え、次に、庭の片隅、雨のかからない位置に設置された恵森の寝床へと足を運ぶ。そろそろ抜け毛の季節なので、汚れているようならば掃除してやろうと思ったのだ。
「……あれ?」
 と、その寝床の中に、封筒が置かれていた。
 恵森の気に入りのタオルの下になっていて、今まで気づかなかったのだ。
 首をかしげ、それを取り出す。
 表を確かめると、あまり綺麗ではないが一生懸命丁寧に書かれたと思しき字で、『理晨へ』とあった。
 『弟』の字だった。
「!」
 思わず息が詰まり、指先が震える。
 彼がこんなものを残していたなんて知らなかった。
 震える手で封を開け、もどかしく手紙を引き出す。
 現れた文字を、貪るように読む。

============================
 理晨へ。
 俺のこと、大事にしてくれてありがとう。
 一緒にいてくれてありがとう。
 本当に幸せだった。楽しかった。
 理晨がいてくれて嬉しかった。
 大好きだ、忘れない。
 俺はもう帰るけど、ずっと理晨の傍にいるから。
 だから、哀しまないでくれ。
 大好きだ、ありがとう。
============================

 短い、どこかたどたどしい、シンプルな手紙だった。
 けれど、万感の思いが込められた言葉の数々だった。
 胸が、熱い思いでいっぱいになる。
「う……」
 目の奥がツンと痛くなる。
 堪えよう、と思う暇もなかった。
 手紙を握り締め、その場に座り込むと、透き通った灰色にも見える銀眼から、ほろり、と涙が零れ落ちた。それはせき止めるものを失ったかのように、堰を切ったかのように次々と零れ落ち、理晨の頬を濡らした。
 いい年をして情けない、と思う余裕はなかったし、愛するものを思って泣くことは誰にでも赦された行為だとも思う。
「う、ぁあ……」
 別れの時にも、彼が――彼らが消えてからも、泣かなかった。
 泣けなかった、の、かもしれない。
 哀しい思いをしたのは自分だけではないのだから泣いてはいけない、と思っていたのかもしれない。
 けれど、この手紙が、胸の奥で固まっていた涙の塊を溶かした。
「理月、ルーク……」
 痛みを共有する半身と、ムービーファンとムービースターという垣根など何の関係もないのだと確信した親友の顔を、最後の言葉を――そして、彼らが愛したすべてを思い起こし、名を呼び、涙をこぼす。
「会いたい……もう一度、おまえたちに、会いたい」
 巡りあえたことが嬉しい。
 判り合えたことが愛しい。
 だから、別れが哀しい。寂しい。
 彼らがもういないことが、どうしようもなく苦しい。
「きゅうん」
 理晨が哀しんでいることが判ったのか、気遣うような声で鼻を鳴らし、膝の上に飛び乗った恵森が、彼の顔を一生懸命に舐める。――慰めようとしてくれているのだろうか。
 理晨は微笑み――無論、まだ涙は流れたままだったが――、手紙と一緒に恵森を抱き締めた。
「だけど……ありがとう」
 感謝の言葉は、自然とこぼれ出た。
「ありがとう」
 『弟』に。
 『弟』を愛し、癒してくれた人たちに。
 親友に。
 親友が見せてくれた友愛のすべてに。
 ――銀幕市に。
「それと……リオネ、あんたも……ありがとう」
 リオネの泣き声を聴いた気がする。
 ごめんなさいという言葉を聴いた気がする。
 それは、神々にとっては、大きな罪だったのかもしれない。
 ましてや、この街での時間を経て大きく成長した彼女にとっては、自分を許せないほどの罪だったのかもしれない。
 確かに、今、理晨は別れの辛さに涙している。
 胸の奥が切り裂かれるように、押し潰されるように痛むのも事実だ。
 けれど、
「違うんだ……誰かを想って流す涙が、悪いものであるはずがねぇんだ」
 この気持ちをくれたのも、リオネだ。
 あの時間をくれたのがリオネであるように、彼女の魔法のお陰で、自分もまた救われた。いっしょにいられて、幸せだった。
「ありがとう。だから……別れの痛みにすら、感謝する」
 その思いに、偽りはなかった。
 だからこそ、前へ進んでいこうと思えるのだ。
 これまでの日々が愛しいからこそ、そのすべてを自分の中に生かし続けたいと思うのだ。



 3.「皆と出逢わなければ、今の私も、なかったの」

 三月薺(みつき・なずな)は、もはや取り壊されるのを待つばかりとなった古い洋館を見上げていた。
「……そんなに時間が経ったわけでもないのに、十年も昔のことだったみたい」
 ネコミミフードの闇魔導師と、初めて喧嘩をしたのは、いつのことだったか。
 誘拐され心を結晶化され、生きた人形になりかけたところを助けてもらった。初めて意見をぶつけ合い、助言を受けたあの日は、即ち、彼が、薺を初めて名前で呼んでくれた日でもあった。
 あの日から、ふたりの距離はぐんと近くなり、互いを特別だと――それは何も、色恋という意味ではなくて――思うようになった。近いようで遠く、遠いようで近い、ふたりだけの距離感を、くすぐったく、楽しく、頼もしく感じていた日々だった。
「ごはん、美味しいって言ってくれたよね」
 炊き立ての、つやつやのごはん。
 彩りよく焼かれた鶏もも肉の照り焼き。綺麗に焼くコツは、タレに蜂蜜を混ぜることだ。
 舞茸と大根、ねぎの味噌汁。舞茸は水洗いせずに!
 ほうれん草のおひたし。根っこの赤い部分を細かく切ってまぶすと甘味が増す。
 里芋の煮付け、なすのしぎ焼き、キュウリの酢の物。
 豚バラ肉と紫蘇の佃煮、万願寺唐辛子と雑魚の甘辛煮。
 ごはんお代わり! という、彼の声が今でも脳裏に残っている。
 薺の作る食事を、毎日、本当に美味しそうに、幸せそうに食べてくれた。
 それを観ている薺も、毎日幸せだった。
 鍋を皆でつついた日もあった。
 賑やかで楽しい、美味しい時間だった。
 今はもう、魔法は消えてしまったけれど、思い出は消えない。
 それらの思い出が、薺に、一歩踏み出す勇気を与えてくれるのだ。
 人付き合いが苦手で、自分を出すことが怖くて、自分の殻に閉じこもっていた、三年前の彼女には、考えられないような変化だった。
「……ありがとう」
 魔法がかかったお陰で、皆に出逢えた。
 哀しい思い、苦しい思いもしたけれど、たくさんの犠牲が出たことを知っているけれど、――きっと今も、大切な人を喪って辛い思いをしている人はいるのだろうと思うけれど、この三年間には感謝の言葉しか出て来ない。
「バロア君、タスクさん、レモンちゃん、ばっくん……みんな」
 彼らの笑顔、彼らの真摯な思いに支えられてここまで来た。
 銀幕市の人々は、薺に優しかった。
 薺に、こころからの笑顔をくれた。
 だから薺も、心からの笑顔を返すことが出来るようになった。
 人々の輪に入ることの歓びを、楽しさを知った。
 思いを伝え、感謝を口にする大切さを知った。
「ありがとう……本当に」
 未来へ進む強さを、銀幕市が与えてくれた。
「皆と出逢わなければ、今の私も、なかったの」
 それは、今後、ずっと彼女を活かすだろう。
 彼女の中で、彼女の力となり続けるだろう。
「私、頑張るから」
 闇魔導師を筆頭に、薺に心を砕いてくれた人々から、彼女はたくさんの大切なことを教わった。それは何も、言葉で紡がれたものばかりではなかったが、そのすべてが、今の薺を彩り、彼女の道を照らしてくれている。
 それを糧に、前へ進もうと思う。
「だから……見ていてね」
 差し当たっての薺の夢は、素晴らしい音楽を創ることだ。
 いつか、映画に採用してもらえるような、心に響き、心に残る音楽を、世界に向けて送り出したい。
「やっぱり、前進あるのみ……だよねぇ」
 薺にとって自分の心を映し出すものが音楽であるのなら、美しい音楽には、薺の人生や思いが織り込まれるということなのだ。音楽の中に、薺が存在するということなのだ。
「だったら、このまま行かなきゃ」
 多くの人に、気持ちを届けたい。
 生きることは素晴らしいと、出逢うことは素晴らしいと、世界には喜びが満ちているのだと。
 そんな、哀しみに沈む人々の心にも届き、彼らに一条の光をもたらすような、力強く温かい、やさしく美しい、今の薺がそうあればいいと思う歌や音楽を、ひとりで、一から十まで創れるようになりたい。
 否、それを創れるようになることが、銀幕市での三年間に報いる、彼女なりの生き方なのだろうと、薺は思うのだ。
「バロア君……私、頑張るね」
 まぁ、見守っててやるから頑張ってみれば? という、ツンデレ気味の闇魔導師の声が聞こえた気がして、薺はかすかに笑い、頷いた。
 同時に、故郷へ帰った彼が――多くの銀幕市民がそうであるように、薺もそれを信じている――、薺のことを覚えていて、幸せだったことを覚えていてくれるように、と、祈る。
 と、そこへ、携帯電話が鳴った。
 着信音は、映画『あなたのもとへ』の主題歌だ。
「はいもしもし……あっ、片山さん。どうしたんですか?」
 電話の主は、歌手であり俳優であり、薺にとってはお兄ちゃん感覚の友人でもある青年で、彼は、見知った人々が元『楽園』に集まろうとしていることを教えてくれた。
「はい、……はい、あ、そうなんだ……判りました、じゃあ行きます」
 そして、彼女にも、こちらへ来ないかと誘ってくれている。
 勿論、答えはイエスだ。
 ぱたん、と携帯電話を閉じて、洋館を見上げ、薺はにっこり笑った。
「……これからだよね。全部、これから」
 空に帰ったバッキーに話しかけるように、真っ青な天に向かって言い、大きく伸びをする。
「ん、いいお天気」
 初夏の空気が胸の奥を爽やかにする。
 薺は軽やかな足取りで歩き出した。



 4.「この出会いがなければ、こんなにも想いが溢れることは、なかった」

 薄野鎮(すすきの・まもる)は、何となく落ち着かない気持ちであちこちをぶらぶらしていた。
 否、落ち着かないというより、手持ち無沙汰なのだ。
 つい先日まで、広い薄野邸にはたくさんの居候やお客さんがいて、彼の周囲はいつものように賑やかだった。
 それが、今はシンと静まり返っている。
 それは、魔法がかかる前の鎮に取っては普通のことで、これまで寂しいとも思ってはいなかったのに、今は、こんなに静かなのは物足りない、と鎮は感じているのだった。
「八雲さんをからかうの、楽しかったなぁ」
 居候たちのことを思い出しながら、街中を歩く。
 少しずつ『普通の』日常を取り戻している銀幕市だが、やはり、静かだ。
「仙蔵さん、最後にご主人が出来てよかった」
 綺羅星学園、銀幕広場、パニックシネマ。
 銀幕ジャーナル、カフェスキャンダル、商店街、タクシー乗り場。
 平和記念公園や、銀幕市立中央病院にも顔を出した。
 それはほとんど無意識の行動だったが、今までのにぎやかさが懐かしくて、つい、人が多く集まる場所へ足が向くのかもしれなかった。
 鎮と同じようなことを思い、集まった人たちもいるのだろう、それらの場所で言葉を交わす人々は、どこか途方に暮れているようでもあり、夢に微睡んでいた日々を懐かしむようでもあった。
「皆、今頃何をしてるのかなぁ」
 スターたちが消えたのか、帰ったのかは、鎮には判らない。
 誰にも判らないことだろうと思う。
 けれど、友人の何人かは、スターたちが故郷に帰り、銀幕市で暮らしていたのだと故郷の友人たちに懐かしげに話す夢を見たというから、もしかしたら、スターの皆も、今頃銀幕市での日々を思い出しているのかもしれない。
 そうであればいい、とも思うのだ。
 別れには納得しているけれど、今までに培ってきた感情のすべてが、別の世界でも続いていくことは、とても幸せで嬉しいことだろうとも思うから。
「……ん、しまった」
 居候たちのこと、彼らと過ごした賑やかな日々を思い出しながら歩いていて、ふと気づくと、いつの間にか市役所の前にいた。どうやら、これまでの癖で、対策課に行こうとしていたようだ。
「そうだった、もうないんだよね」
 旧対策課職員たちはまだ事後処理に追われているようだが、以前のように、事件の解決を依頼してくることはもうないだろう。もちろん、人間の心がひとつではなく、思惑があちこちに転がる限り、否応なく事件は起きるだろうが、それは、警察や法治機関が何とかすることだ。
 一般人である鎮が、刃物や銃火器、ファングッズを握り締めて、真っ向から戦いを挑むことは、多分もうない。
「……なんだろ」
 手持ち無沙汰に自動販売機で缶コーヒーを買い、ぶらぶらと歩く。
「変な気分だ……嫌な感じじゃないんだけど」
 激しい感情は、鎮からは遠い。
 哀しいし寂しいけれど、泣いたり喚いたり苦しんだりすることもない。
 去った人々への思いの馳せ方は、きっと人それぞれだろうと思うし、実を言うと、鎮の心は、静かに凪いでいるのだった。
 そわそわと落ち着かない気持ちがあるのも事実だが、この結末には満足しているし、納得もしている。そして、銀幕市に魔法がかかったことに、そこで過ごした三年間に、感謝もしている。
 これまでに出会い笑いあった、今はもういない人々に、心から感謝しているのと同じように。
「……ありがとう」
 缶コーヒーに口をつけながら、小さくつぶやいた。
「この出会いがなかったら、こんなにも想いが溢れることは、なかった」
 魔法がなければ、今の自分はいない。
 痛み、悼み、苦しみ、哀しみ、理不尽なものへの憤り。
 そんなものに胸を掻き回され、らしくなく身悶えした日もあった。
 しかし、それらは、確実に鎮の糧となり、彼を成長させたし、悩む鎮に向けられた、幾つもの真摯な言葉は、今でも彼の記憶の中で輝いている。
 だから、総じて言えば、そこにあるのは感謝の気持ちでしかないのだった。
「ありがとう……たくさんの出会いを。ありがとう、たくさんの別れを」
 『ありがとう』の方向は定めずに、礼を言う。
 言うべき相手、言うべきものは、たくさんあるから。
「楽しかった。僕は、幸せだったよ」
 微笑み、空を見上げる。
「……おや、きみは」
 そこへ声をかけてきたのは、神音という名の歌い手だった。
 鎮も、依頼を通じて会ったことがある。
「あ、こんにちは」
 本来なら世界中でコンサートを行っているはずの神音が、どうしてまだここに留まっているのか、と思い、話を訊くと、カフェ『楽園』に残された諸々をどうするか相談したくて、関係の深い人々を探していたのだという。
「『楽園』ですか……そういえば、あの人たちも、もういないんですよね」
「ああ。だが、残されたものも、たくさんある。私はそれを、出来る限り活かしてやりたいんだ。それが終わってから、ここを発とうと思う」
「なるほど」
 魔法が終わったあとも、別れの時間が迫る人々はいる。
 神音もまた、そのひとりだった。
 しかし、旅立つ前に区切りをつけて行きたいという気持ちはよく判ったので、手持ち無沙汰なこともあり、鎮はその手伝いをすることにした。
「僕に出来ることがあれば、なんでもしますよ」
「そうか……それはありがたい」
「あそこは、僕にとっても思い出深い場所ですしね。出来れば、残して、続けて行きたいですから」
 歩くトラウマ製造機と称された女王陛下と、外見は儚げな美少女だが中身は老獪で腹黒という森の娘たちと繰り広げた、血涙と絶叫が乱れ飛ぶ大騒ぎを思い出し、くすりと笑って鎮は言った。
 巻き込まれた人々には少々気の毒だが、その記憶が鎮の宝物のひとつであることは、間違いようにない事実だ。



 5.「楽しかった……幸せだった。全身全霊で、愛した」

 片山瑠意は、バイクの後ろに真船恭一を乗せて、銀幕市内を疾走していた。
 身体を突き抜けていく初夏の風が心地よい。
 しっかりと前を向き、ハンドルを握りながらも、瑠意の思考は、どこか遠くで、今はもういない人たちを呼んでいる。
(刀冴さん、理月、太助、ブラックウッドさん、リチャP、梛織、バロア、銀二さん……)
 この三年間で関わってきた人たちの笑顔が脳裏を過ぎっていく。
 古民家での、賑やかな日々が思い起こされ、唇がゆるりと微苦笑を刻んだ。
 他にも、数え上げたらきりがない。
 魔法がかかった日から始まって、キノコ事件や忘年会、雪祭り、お花見、ピラミッド探索。海での大騒ぎ、温泉ツアー、トライアスロン、お茶会、カレークエスト、秋祭り。運動会や味覚ツアー、文化祭やクリスマス会、チョコレートクルーズ。
 馬鹿馬鹿しくも楽しかったイベントの数々。
 そこで出会い、親しく言葉を交わしたたくさんの人たち。
 思い起こせば、記憶が止め処なくあふれ出していく。
 そうして、思いは、結局、たったひとりの元へ辿り着く。
(…………十狼さん)
 穏やかに細められた銀眼が、自分を見るのが好きだった。
 武骨なのに美しい手で淹れてくれるお茶を、彼の傍で飲むのが好きだった。
 隣に座っているだけで、胸の奥がやわらかく甘くなる、あの感覚が好きだった。
(逢いたい……貴方に、逢いたいです、今すぐに)
 どう足掻いても一番になれないことが苦しくて、そのために彼の大切な人を傷つけそうになったこともあったけれど、自分にとっては彼の『一番』すら大切なのだと気づけたし、そんな自分をも受け入れてくれた彼が好きだった。
 彼と、彼の主人が与えてくれた大らかで広い友愛が、瑠意を自由にしてくれた。
 ひっくるめれば、瑠意は、彼のすべてを愛していた。
(ありがとう……)
 銀幕市に魔法がかかるまで、どこか自分を押し込めて生きていた。
 養子である自分、養子でありながら養父母の実娘を――妹を護れなかった自分は、我がままを言ってはいけないのだと思っていた。妹が死んでからも、瑠意を責めず、ただ彼の無事を喜んでくれた養父母のために、瑠意は『いい子』でいなくてはいけなかった。
 その頑なな心を、この街が溶かした。
(俺を愛してくれて。俺に、愛させてくれて)
 ――銀幕市の魔法は、楽しいことばかりを運んだわけではなかった。
 絶望の網に囚われて、雁字搦めにされ、地の果てまで落ち込んだこともあった。それぞれに信念を持った人々と、それぞれにこの街を愛するがゆえに諍いになったこともあった。
(あなたに逢えて、幸せでした)
 ――それでも、幸せだった。
 別れと喪失の痛みが、今も瑠意の胸を刺している。
 けれど、その痛みすら、瑠意は愛している。
「ありがとう」
 ぽろり、と言葉がこぼれる。
 瑠意の腰にしがみつく恭一が、静かに笑ったのが判る。
 恭一にその言葉が聞こえたこと、恭一もまた同じように感じていることを理解して、瑠意もまた笑った。
「楽しかった……幸せだった。全身全霊で、愛した」
 あの人を、友人たちを、あの日々を。
 去ってしまった人々の思いが、今も瑠意を温めている。
 夢にたゆたう銀幕市での日々が、瑠意の心を解き放ってくれた。
 自分を押し殺し、息をひそめて生きる必要はないのだと、養父母も、実の両親も、今は亡き妹もそんなことを望んではいないのだと、ただただ瑠意に幸いであれと祈ってくれているのだと、――瑠意は、伸びやかに健やかに生きていいのだと、実感として理解することが出来た。
(……また、明日)
 ようやく、自分らしく生きることのなんたるかに、瑠意は気づくことが出来た。
 それを気づかせてくれたのは、やはり、銀幕市での日々と、そこに住まう人々だった。
「……片山君、君はこれからどうするつもりなんだい?」
 元『楽園』まであと少し、という辺りで、恭一が静かにそう尋ねた。
 瑠意は微笑み、歌いたいです、と返す。
「この街で、前向きに生きる気持ちや、大切な人がいる幸せ、愛する貴さを、本当の意味で理解出来ました。だから、今までと同じように……今まで以上に、歌い続けたいです」
 歌は瑠意の根本だ。
 思えば、彼は、昔から、ふと気づけば歌を口ずさんでいるような子どもだった。歌うことで楽しい気分になれたから、この楽しい気分を誰かにも分けてあげたいと思っていた。だから、歌手を志した。
 歌には力がある。
 その力を、瑠意は信じている。
「そうか……とても素晴らしいことだね、それは」
「ええ」
 やるべきことがたくさんある。
 夢も、未来も、瑠意の前に山積みにされている。
 そして、瑠意を愛した人々が、自分に、精一杯生きろと願っているのが判るから、瑠意は嘆かない。
 真っ直ぐに前を向いて、これからも歩いていく。
 幸せな未来を築くために、自分に出来るすべてを尽くす。
 結局は、それだけのことだと思っている。



 6.「俺は俺らしく……これまでも、これからも」

 吾妻宗主(あがつま・そうしゅ)は『楽園』の店内にいた。
 鍵を預かったという神音が、店を開けて行ってくれたので、他に誰か来るまで留守番を申し出たのだ。
 森の女王レーギーナと森の娘たち、そしてお人好しの妖幻大王が残したレシピたちを、一ページ一ページ、慈しむような手つきでめくりながら、穏やかな眼差しでそれを見ていた。
「へえ……これって、こういう風に作ってたんだね。興味深いなぁ」
「えっ、どれどれ、どういうの?」
 宗主の手元を傍らから覗き込むのは妹のような感覚の友人、悠里(ゆうり)だった。
「わ、美味しそう」
「うん、美味しかったよ。なるほど……こうすれば再現出来るんだね」
 神音からは、『楽園』をどうするか、銀幕市の人々が決めるべきだろうと聴いている。
 宗主自身、せっかくこれだけのものが残っているのだから、このままにするのは惜しいと思うし、たくさんの思い出の残るこの場所を、どんなかたちでも続けていければ、気持ちの整理をつけるための力になれるのではないかと思うのだ。
「俺は、料理なら作れるし……」
「あたし、衣装とかメイク関係なら多少判るよ。っていうか、演劇とかそういう系の道に進みたいと思ってるし、是非勉強させてもらいたいんだー。それと一緒にここに貢献できたら、もう言うことなしじゃない?」
「なるほど……いいね、それ」
 彼は神代の力を持つ超常の存在ではないので、ひとりですべてを成し遂げることは不可能だ。
 しかし、
「こんにちはー、食材買って来ましたよー」
「おーい、材料持って来たぜー」
 ひとつひとつの力は小さくとも、人間とは、協力することが出来る生き物なのだ。そして宗主はそのために集まってくれる友人たちがいることを知っているし、彼らに助力を乞うという労力を惜しみはしない。
 入り口からかけられたのんびりした声に笑い、宗主は椅子から立ち上がる。
「ありがとう、薄野さん月下部さん」
「いえ、僕にとってもここは大切な場所ですから。理晨さんもそうですよね」
「ああ。出来ることがあるなら、手を貸してぇよな」
 ふたりとは、絶望が空けた『穴』の探索を行った際からの関係だ。
 成り行きで携帯電話の番号を交換したりメールアドレスを教えたりしたものの、友人と呼び合うほど深い付き合いがあったわけではなかったが、銀幕市とのかかわりが深く、『楽園』とも縁がある人物を協力者に、と探した結果、白羽の矢が立ったというわけだ。
 といっても、鎮などは、宗主が呼び出すよりも早く、神音と出会って、自主的に手伝いを申し出てくれたらしいのだが。
 それでも、あの魔法の日々を同じ街で過ごした人たちが集うと、緩やかな共感と安堵を覚えるのも確かだ。
「とりあえず、僕は軽食用の材料を買ってきました。宗主さんが作るんですよね?」
「あ、うん。料理は得意だし、好きだからね」
「んじゃ俺、このレシピ通りにスイーツ作ってみるかな。……やっぱチョコレート系だろ」
「月下部さんも料理好きなんだっけ」
「ん? ああ、基本自炊だしな。ホワイトドラゴンの宿泊所に行ったら作ってもらうけど。……いや、同居人がさ、舌の肥えた奴で、ちゃんとしたの作らねぇとうるせぇんだわ。まぁ、製菓の方は趣味だけどな。甘いものって、食うと幸せな気分になれるだろ」
 のんびりと笑う理晨を、悠里が、あこがれの含まれた、きらきらした目で見つめている。どうやらファンらしい。
「んじゃ……いつ頃再開させるよ?」
「そうだね……まずは練習して、満足行くものが出来るようになってから、だし……しばらくはかかりそうだなぁ」
「現実的なことを言うと、手続きとか届出とか要りますよね。正式にお店として運営するとしたら、免許も要るかな」
「だよねぇ」
「調理師免許か……この際だし、取ってみるかな」
「あれ、月下部さん、向こうには戻らないんだ? 何か、海外に本拠地があるって聞いたけど」
「ああ、監督がこっちで『ムーンシェイド』の続編撮りてぇって言ってくれたからさ。あと、恵森のこともあるし」
「なるほど、じゃあちょうどいいかもしれないね」
「だろ」
 言いつつ、材料を厨房へ運び込む。
 内部の器材は、どれもが、在りし日のままに、ぴかぴかに磨き上げられた状態で保たれている。
「よし、じゃあちょっとやってみようか。あとで味見してね」
「おう、俺のもな」
「あ、それじゃ僕、他に何が残ってるのかリストアップしてきますね」
「あっ、あたしも行く! ここの衣装素敵だから、勉強したいし!」
 鎮と悠里が更衣室を兼ねたスタッフルームへ消えていく背中を見送り、宗主は、理晨と並んで調理を開始した。
「じゃあ……じゃがいものドフィノワーズ楽園アレンジと、マッシュルームのボルドレーズ楽園版と、あとは仔牛肉のブランケットにしようかな。あ、でもこっちのキッシュロレーヌ楽園風も捨て難い……まぁいいや、全部作ってみよう」
 妖幻大王が残したレシピと首っ引きで、しかし慣れもあって手際よく、肉や魚介や野菜を切り、味付けをし、火を通していく。
 レシピは数え切れないほどあるが、今日はフレンチ風に挑戦である。
「お、いい匂い。美味そうだな」
「あはは、ありがとう。すぐに『その通りの味』を再現することは難しいかもしれないけどね。――そっちはどう?」
「ん、とりあえず定番のチョコレートとオレンジのタルトにしてみた。まぁ、簡単ってことはねぇけど、絶対無理! ってほどでもねぇな。愛情を込めて丁寧に作れ、ってとこじゃねぇの?」
「ああ、至言だね」
 と、ふたりが笑みを交わしていると、
「すみません、遅くなりましたー」
「こんにちは、お邪魔します」
「あっ、いい匂い! 私、お腹が空いて来ちゃった……」
 聞き覚えのある声がして、たくさんの食材や物品が詰まったスーパーの買い物袋を提げた人々が中に踏み込んでくる。
 片山瑠意に真船恭一、三月薺だ。
 その背後からは、神音が顔を覗かせた。
 親しい友人である瑠意や薺はともかく、恭一とはそれほど深いかかわりがあるわけではなかったが、お互い、銀幕ジャーナルという読み物を通じて、『活躍』は知っている。
「よろしくお願いします、真船さん」
「こちらこそよろしく、吾妻君」
 そのため、特に詳しい説明や紹介がなくとも、銀幕市の魔法という軸をもとに、微笑ましい共感を持って、ふたりは挨拶を交わした。
 それだけで、もう何年も付き合っている友人のような気がしてくるから、不思議だ。
 彼らが仕入れて来てくれた食材を冷蔵庫などに仕舞い込み、宗主は今作っている料理の仕上げに取り掛かる。
「わー美味しそう! 『楽園』、再開させるんですよね? 私もお手伝いしていいですか?」
「うん、もちろん大歓迎だよ」
「ありがとうございます! 私、スイーツや定番ランチの作り方、是非覚えたいんです。愛されていたメニューですし、私自身、これからも真心を込めて美味しいものを作りたいと思っているので」
「俺はドリンク系のレシピを覚えたいんだよねー。俺、何十年かあとに俳優引退したら、小さなカフェを開きたいんだ。そんな野望を持ってるもんだから、興味津々でさ」
「おや……それは素敵だね。そのときには是非、妻と一緒に行かせてもらうよ」
 それぞれに夢を語る人々に笑みを向け、宗主は出来上がったそれらを皿に盛り付けた。
 時刻は午後一時、ランチにはちょうどいい。
「悠里ちゃん薄野君、出来たよ」
 スタッフルームに向かって声をかけると、
「はーい」
「あ、今行きますー」
 悠里と鎮が、腕いっぱいに色とりどりの衣装を抱えて出てきた。
 見覚えのある華やかなゴシック&ロリータのワンピースに、
「ぶっ」
 思わず派手な呼気を噴き出したのは、瑠意だった。
 宗主の隣でスイーツ作りに精を出していた理晨も、明後日の方向を見て沈黙している。
「薄野さん悠里ちゃん、そ、それ……」
「ええ、たくさん残されていたので、これを利用しない手はないだろうな、って。皆さん、お好きでしたしね」
「そうそう。やっぱ、銀幕市の風物詩のひとつだったわけだし、あたしも楽しいし。……瑠意さんも着る? 手伝いますよ?」
「いやいやいや、心の底から遠慮させていただくからっ!」
 ぶんぶんと首を横に振る瑠意。
 深く頷く理晨。
 それらに笑って、宗主は皆を促した。
「俺は別に、それで手伝うのも悪くないって思うけど……まぁ、とりあえず、冷めないうちに食べてみてよ。パンもあるし、お茶もあるよ」
 その言葉に、一同が席につき――別のテーブルに置かれた衣装を戦々恐々と眺めるものがいたことも事実だが――、少し遅いランチとなる。
「あ、美味しい。マッシュルームの風味が生きてますね、これ」
「薺ちゃん、こっちのキッシュっていうのも美味しいよ。あたしこれ好きだなぁ」
「んー、じゃがいもが美味い。そういや新じゃがの季節だよね。あ、そうだ、理晨さん、古民家の畑ってどうなってんの?」
「もちろん手入れしてるぜ。まぁ、手が足りねぇもんだから、さすがに規模は縮小せざるを得なかったけどな。じゃがいもももう少ししたら収穫するつもりだ。……ありがてぇ置き土産だよな」
「……だよね」
「あ、この仔牛肉……やわらかいし、風味があって美味しいね。本場で食べたものに勝るとも劣らない……なんて言うのは、ちょっと気障すぎかな」
「あ、本当ですか? ありがとうございます、真船さん。いやいや、充分嬉しいですよ」
 宗主は、賑やかに、楽しげに食べる人々を見遣り、時々お茶やパンのお代わりを差し出してやりながら、在りし日の『楽園』に、そして今はもういないスターたちに思いを馳せていた。
 気持ちの整理という意味では、多分、宗主もまだつけきれてはいないと思う。
 それくらい、魔法の日々は、彼の中でも大きい。
 ハザードやスターが消えたことを完全に受け入れ、完全に納得するまでは、もう少し時間がかかるだろうと。
「んー、美味しいー! 宗主さん、ホントすごい!」
 にこにこ笑顔の悠里が絶賛する顔、食べる様子を見ながら、宗主は、自分の作ったものを美味しそうに食べていた同居人の天使を思い出していた。
 ボロボロに傷ついた彼を拾い、居候として置いた。
(もう一度会いたいって、君たちが恋しいって……思うのは、当然のことだよね)
 ワイルドでセクシーな天使はあっという間に馴染み、銀幕市での生活を愛して、たくさんの友人を……愛するものたちをつくった。
 宗主は、それらを如実に見てきた。
 そして、俺様だけれど自分の仕事に誇りを持っていた彼と、彼の妻となった少女のことを思い、今でもきっと互いに互いを想いあっているであろうふたりが、離れていても幸せであるようにと祈るのだ。
「……どしたの、宗主さん?」
 そんな感慨が顔に出たのだろうか。
 悠里が、不思議そうに宗主を見ている。
 気づけば、他の人々も、宗主を見ていた。
「うん……なんだろうね、感慨深いなって」
 キッチンから、柑橘とチョコレートのいい匂いが漂ってくる。
 理晨のタルトが、もうじき焼きあがるのだろう。
「色んなことがあって、色んな人と別れて。でも、日々は続いていくし、進むべき道があることに変わりはないんだ」
「……うん。あたしも、そう思う。こうなったからこそ、やらなきゃいけないこともあるって」
「そうだね。俺は俺らしく……これまでも、これからも。結局は、そういうことなんだろうね」
 自分らしくあり続けることは、自分は生きているのだと叫び続けることに似ている。
 実存の意味など、自分以外にその有無を……正否を図ることなど出来ない。
 だからこそ、宗主は宗主らしく、自分の道を進むしかない。
 ――彼には夢がある。
 魔法になど頼らずとも、いつかは実現されるであろう、否、必ず実現するのだと誓った夢だ。
 困難な道に真っ向から立ち向かい、突き進み続け、実現していく自分でありたい。そうあるべきだと強く思うし、そのつもりでいる。
 その夢が、今の宗主を衝き動かし、生かしている。



 7.「ありがとう。伝えたいのは、ただそれだけなんだ」

 デザートの、オレンジとチョコレートのタルトも絶品だった。
 オレンジの爽やかな香りと、チョコレートの高貴な風味が融け合い、しっとりとしたフィリングは甘くほろ苦く、生地はさくさくほろりと口の中でほどけていく。
 甘い物が好きな面々が、理晨を褒め称えるのを――そして理晨が、三十路後半とは思えない無邪気な笑顔で照れるのを――見ながら、悠里は無心にタルトを咀嚼し、味わった。
 瑠意が試しにと淹れてくれた紅茶もまた絶品で、悠里はひどく満たされた。
「あ、そういえば」
 デザートタイムが終わり、まったりとした空気が流れる中、ティーカップを手にした瑠意が、静かにカップを傾けている神音を見遣った。
「記念の歌って、もう出来たんですか?」
 神音がこの街のためにうたいたいと願ったという歌。
 神音がこの街を好きだったというあかし、そしてこの街の人々が銀幕市を愛したあかしをこめたいと願ったという歌のことだ。
「いや……少しずつ、かたちにはしているが。これが、なかなか。万感の思いと言うのは、どうにも、言葉にしにくいものなんだな」
「ああ、……うん。そういうものですよね」
 瑠意が一体誰を思ってそれを言ったのか、悠里には判らなかったが、彼が、とても大切な人のことを、そのとき考えたのだということは、なんとなく伝わった。それくらい、彼が、愛しげな、切なげな目を、していたからだ。
「……そうだ、何か好きなフレーズを教えてくれないか」
「え?」
「韻の問題もあるから、そのまますべてを使うことは出来ないかもしれないが……ここで、こうして一緒にいるのも縁だ。きみたちの思いをかたちにした言葉を、歌の中に織り込みたい」
 と、神音が言い、どこからかメモ帳を出してきて、紙を一枚ずつ、七人の前に置いた。メモ帳を出したのは、口に出して言うのが恥ずかしいなら、という意味であるらしい。
「なるほど、それも素敵ですよね。皆の言葉で出来てる歌、なんて。よし、ちょっと考えてみよう。あ、ペンは二本しかないから、書きあがったら隣に回してね」
 ペンを受け取った瑠意と宗主が、真面目な顔でメモ帳と見つめあう。
 鎮と恭一は困ったように頭を掻いていて、理晨はメモ帳を手に天井を見上げ、うーんと唸っているし、薺は微笑みながらメモ帳を見下ろしている。
「えー……あたし、どうしようかなぁ……」
 理晨の濃い褐色の横顔、鋭角的に整っているのに、ひどくやわらかい印象をも与えるそれを、ぼーっと見つめながら悠里は呟く。
「あんまり難しく考えなくていいと思うぜ? 悠里の気持ちを素直に出せばいいと思うんだ」
 透き通った灰色にも、銀色にも見える不思議な目で見つめ、理晨がそんな風に言ってくれて、心臓が引っ繰り返りそうになったのは内緒だ。彼の左手の薬指に輝く、不思議な風合いの指輪を見つけて呼吸が止まりそうになったのも秘密だ。
 演劇の道を志す悠里にとって、俳優として海外でも成功している理晨は、実は憧れの存在なのだ。
「ありがとう理晨さん……あの、あとでサインください」
「悠里ちゃんいきなり欲望の赴くままに突っ走ったね」
「え、だって宗主さん、理晨さんって憧れの役者さんのひとりだし……こんな機会滅多にないじゃない。……あ、でもオフ中は受けないって言ってたっけ。あの、無理だったらいいです、ハイ」
「はは、そりゃありがとな。オフ中は受けねぇってのは本当だけど、もうじき復帰する予定だし、いつでも書くぜ、そのくらいなら」
「えっ、そうなんですか! そういえばさっきも、『ムーンシェイド』の続編を作るって……うわあ、楽しみ……!」
 だとすれば、スクリーンでRishin Kasukabeの姿を見る日もそう遠くないということだ。それが嬉しくて、悠里は無邪気に笑った。
「よし、出来た」
 その間に、瑠意と宗主、薺と理晨は何ごとかを紙片に書きつけ、神音に手渡していた。少し遅れて、ちょっと照れながら恭一がメモ帳を渡し、鎮は難しいものだね、などと笑いながら紙片を神音の前に置いた。
「あ、ちょ、ちょっと待って……!」
 悠里も、大慌てで頭の中に浮かんだ言葉を書き、神音に手渡す。
 神音はそれらを、静かな微笑とともに受け取った。
「ありがとう、感謝する。……ふむ、では、少し考えてみようかな。ああ、私のことは気にしないでくれ」
 と、メモ帳を見比べながら、神音が沈思黙考に入ったのを見て、他の面子はティータイムを続行する。
「そういえば、『楽園』の再開の話だけど」
 お茶のお代わりを淹れながら、瑠意が口火を切る。
「手伝おうって言ってくれる人は、少なくないと思うんだ。そういう人たちに声をかけて、皆でやっていけないかな?」
 すると、恭一が頷いた。
「ああ、それは僕も思うよ。あと、レシピをね、色々な人たちが見られるようにして、たくさんの人たちが作れるようにして、少しずつ受け継いで残して行くのはどうかと思うんだ」
「なるほど」
「それと……これは提案なんだけど」
「なんですか、真船先生」
「店舗としてやっていくとなると、資格や手続きの関係で色々と大変になってくるし、運営する人間がつまずくとそれで全部倒れてしまいかねない」
「ああ、それは確かに。それで?」
 宗主の問いに、恭一は手首に巻いた黄色い布に触れ、何かを懐かしむ目をして微笑んだ。
「だからね、ここを誰でも利用できるサロンのように開放して、といっても毎日は難しいだろうから、例えば毎週土曜日とか、隔週の日曜日とかに集まる、という流れを作って、有志たちで食事やお茶やお菓子をお出しする、というのはどうだろう? 月下部くんが調理師の資格を取ってくれるならもっとやりやすくなるだろうね」
「お、マジで? んじゃちょっと頑張ってみるか」
「うん、期待しているよ。……それでね、来てくれた人たちに、飲食費というよりは、『楽園』の管理と維持、次回のお茶会の運営費用ということで募金をお願いする……とかね。もちろん、基本的な管理や清掃は、無理のない範囲で有志が行う、というのでどうだい?」
「あ、なるほど、地域の夏祭りみたいな感じですか?」
「うん、僕のイメージとしてはそんな感じだね、悠里くん」
 恭一の言葉に、宗主と理晨、瑠意が顔を見合わせる。
「資金面でのお手伝いなら僕も出来ますよ」
「それなら俺も。偉そうなことを言えば、お金には困ってないから、それを銀幕市のために使うのは悪くないと思うんだ」
「ふむ……なら、僕もお手伝いしようか。ちょっとくらい身体を張る覚悟をしておかなくちゃね」
「力仕事なら何でも手伝うけど……金銭面はあんまり期待しねぇでほしいな、俺は」
「あー理晨さんのとこはしょうがないよ。ホワイトドラゴンの運営も大変なんだろ? 俺は……まぁ、自分に出来る範囲で出資するくらいならなんとか出来る、かなぁ……?」
「まぁ、俳優稼業の方で頑張って稼ぐしかねぇよな。あ、でもジークに出させるってのはアリだな。普段迷惑ばっかりかけられてるんだし、仮にも伴侶ってんならそんくらいしてくれても罰は当たらねぇだろ」
「っていうより、なんか彼、理晨さんに言われたらものすごい出資してくれそうな気がする……」
「じゃあ私、ここのお掃除とお茶会のお手伝いをさせてもらいたいです! 学生だし、お金はあんまりないですけど……この街が大好きだっていう気持ちはたくさんありますし、『楽園』を残して行くお手伝いもしたいですから」
「うん、掃除とか、お茶会の企画とか広報とか、色々やっていかなきゃね。俺はせっかくだからポスターでも描かせてもらおうかな」
「お、宗主さんが描くんだ? 楽しみだな、それも」
 と、瑠意が笑う。
 宗主はあははと笑って、期待しといて、と言った。
 それから、一同をぐるりと見渡す。
「じゃあ……とりあえずさ。一ヵ月後には最初のお茶会が開けるように頑張ってみようか」
「了解。俺、撮影が始まるまではしばらく暇だし、その間に出来ることはやるわ。あ、でも多分届け出とか要るだろうし、誰か代表者になってもらわなきゃな。……ってことで真船さんよろしく」
「僕かい!?」
「ほら、ここで一番の年長者だし」
「ああ……なるほど、そういうことか。名前が必要なら使ってもらって構わないよ。いや、ここだけの話、いっそ教師を辞めてここを継ごうかと思っていたんだ、実は。継ごうと思っただけで他は何も考えていなかったんだけどね」
「おお、そりゃすげぇ心意気だな。でも、真船さんが先生を辞めたら寂しがる子どもがいるだろ。だからまぁ、そっちも頑張りながら、って欲張っちまえばいいんじゃねぇ?」
「はは、そうだね、本当にその通りだ」
「なるほどなるほど……じゃあ、漢女メイドさんも復活でいいですか? いいですよね?」
 諸々の決定事項をメモしていた鎮がさらっとそんなことを言った――しかも質問というより確認だ――ので、瑠意と理晨と恭一は一瞬固まった。
「あー……まぁ、賑わいのためになるならいいかなぁ……」
「だよなー」
 しかし、瑠意と理晨が何となく絆されて納得してしまい、
「えっ……そ、それは僕も、なんだろうか……!?」
「え、だって身体張るんだろ?」
「いや、そ、それは、そう……だ……ね、うん」
 さも当然のような口調で理晨に言われ、例の衣装にチラリと目をやったあと、何か大切なものを天秤にかける悲壮な表情をする恭一。
「真船先生のそんな表情にちょっとときめいた自分が好きだ。……うん、恭子先生が一緒にやってくれるなら、俺もちょっとだけ瑠衣香さんやってもいいよ。まぁ、なんやかや言って、懐かしいなぁって思うんだろうし」
「き、恭子先生って……」
「じゃあ俺も頑張って理佳さんになるかな。……あー真船さん、涙ぐまなくていいから。怖くない怖くない。慣れたら大丈夫だって」
「うう、し、しかしだね……」
「僕は鎮香さんになるのは悪くないと思ってますから、普通に一ヵ月後が楽しみですけどね。……というか、他にも生け贄……もとい、協力者って募れそうですよね」
「俺も宗良さんになるのは嫌じゃないなぁ。だって楽しかったもの。……あ、俺、もう一回香子と一緒にお給仕したいな」
「よし、じゃあ他にも色々道連れ……もとい巻き添え……でもなくて協力者を募ろうか。普通の協力者ももちろん熱烈歓迎、ってことで。香子さんはアレだな、俺も是非巻き込みたいな」
「てか、あたしもあの綺麗な服着たいー! メイドさんにもなってみたいし、ゴスロリも着てみたいなー。……いや、多分着たあとはめっちゃくちゃ恥ずかしいと思うんだけどね」
「ウェイトレスさんかぁ……私もなれるかな? 裏方でお料理を創りたいんだけど、でも、確かにお給仕も楽しそうだし……」
「薺ちゃんなら絶対可愛いウェイトレスさんになれるって! あたしと一緒にメイドさんやろうよー」
「本当? じゃあ……やってみようかなぁ……」
 悠里の言葉に、薺がちょっぴり恥ずかしそうに、しかし楽しそうに笑った、そのときだった。
「……ふむ、こんなものかな」
 静かで印象的な声が、ほつりと紡がれる。
「あ、出来たんですか、神音さん」
 瑠意の問いに、メモ帳を小さな文字でびっしりと埋めて神音が頷く。
「はいはい、あたし聴きたいです!」
 悠里は大きなリアクションで手を挙げ、自己主張した。
 他のメンバーが頷くと、神音はそうか、と言って小さく息を吸った。

 Ir-alia Falzena um Mr-Emoria……
(きみが笑う……)

 ゆるり、とメロディがこぼれ出た。
「あ、この言葉」
「えーと……神音の造語だっけ?」
「そうそう。『ジーナ』って呼ばれてるんだ、確か」
 伴奏もなし、コーラスもなしのはずなのに、独特の声とうたい方を有する神音の歌声は、殷々と、幾重にも重なって豊かなハーモニーを形成していく。
 メモには、ジーナと呼ばれる造語と、その下に日本語訳が書かれていて、悠里は意味を追いながら、耳を澄ました。

 Ir-alie Diona-Dione Lavoe Fazena um Mr-Emoria.
(記憶の底で、愛しいいのちが笑う)
 Mi Yuno,Ir-alie Lavine Hora um Bia Vona.
(その輝きを、わたしは覚えている)

 Zora,Zivora
(そう、だから)
 Mi di Axue,Mi di Niona,um Mr-Wolea.
(忘れない、嘆かない)
 Ti Diona-Dione Emoria,Qu,Mi cu Glora i Ir-alie.
(君と言葉を交わせなくなった今も、それは愛しい思い出なのだから)
 Ir-alie Fore Mr-Wolea,E Wi Zene sie Vare Eche More.
(どんなに遠く離れても、心はいつも傍に)

 Vira Audipature!
(やさしさよ、あふれて在れ!)
 Um Sora,um Asea,um Fiorme.
(空に、大地に、夢に)
 Ciqe,Vira Xoche wun Herne Bia Vona,Bia Dirfa,wun Volla,
(そして届け、響け、世界に、神に、すべてに)
 ――Wun Ir-alie.
(そして、きみに)

 Mi Kyria Seiliente ye Ir-alia.
(ただ、きみの幸いを祈る)
 Mi Kyria um Ditoa.
(ただ、この場所で)
 Mr-Tera,Mr-Saine,Mr-Wolea,
(別れの涙、別れの痛み、)
 Ti Rindelie hu Ir-alene.
(そのすべてが、おくりものなのだから)

 日本語訳、つまり皆が寄せた言葉は、シンプルで朴訥なものばかりだった。
 美しい、どこか物悲しいメロディに、伸びやかな架空言語はしっくりと馴染み、静かなカフェの中を、音楽でいっぱいにした。
「……綺麗」
 言って、薺が鞄からハーモニカを取り出した。
 瑠意と顔を見合わせ、微笑みあってから、口をつける。
 瑠意もまた、小さく息を吸った。
 神音がかすかに笑い、同じメロディを繰り返す。
 薺のハーモニカと、瑠意のハスキーヴォイスとが、ハーモニーに色鮮やかな彩りを加え、ますます、店内を音楽で染め上げる。
 理晨も、恭一も、鎮も、穏やかな微笑を唇に浮かべながら、その共演に聞き入っている。
(ああ……)
 悠里もまた、それを、溜め息とともに聞いていた。
 銀幕市での時間が、懐かしく、愛しく、くるくると脳裏を廻る。
 現実を認めたくなくて、実家から逃げてきた。
 苗字はそのときに捨ててきた。
 銀幕市は、そんな悠里にも優しく、温かかった。
 この街で、彼女は、『役立たず』でも『邪魔』でもなく、『どんくさく』もない自分を見出すことが出来た。実の母親から言われ続けたその言葉を払拭しきれたわけではないが、少なくとも、自分には自分にしか出来ないことがあるのだと、自分にも出来たことがあるのだと、実践にて『判る』ことが出来た。
(ありがとう)
 魔法のかかった夢の街が、悠里に、ほんの少し現実と向き合う強さを与えてくれた。
 辛いことも苦しいこともあったけれど、結局、感謝ばかりが悠里の中を満たしている。
(ありがとう……ルウくん、シャノンさん、漆くん、シュウくん、ビイちゃん)
 彼ら、彼女らが寄せてくれた信頼、友愛。
 それはなにも、ムービースターばかりではなかったが、この街から去って行った人々が、悠里の心に大きなものを残したことは確かだ。
(ありがとう、本当に)
 この街で出会った人々は、悠里を悠里として認めてくれた。
 失敗もしたし、間違いも犯した。
 けれど、『現実』――実家での自分とは違って、この街での悠里は逃げなかった。自分を大事にすることの大切さを学びながら、人と、事件と、時には自分の手にあまるような怪物と、真っ向から向き合ってぶつかってきた。
 その強さをくれたのは、どんな自分でも自分だという気づきを与えてくれた、この街の人々だった。そして、この街の人々との、絆だった。
「ありがとう。伝えたいのは、ただそれだけなんだ」
 別れは、まだ寂しい。
 もう会えないと思い、もう夢は醒めてしまったのだと思うと、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
「だけど……もう、歩き始めなきゃ。もう、走り出さなきゃ」
 現実という大地を蹴りつけて、スタートダッシュをきる。
 その時間は、もう、始まっている。
 ここに集った人々をはじめとして、銀幕市を愛し、銀幕市とともに生きる人々が、それぞれに、自分の行くべき道を模索し、またすでに見い出して、寂しがりながら、痛みを抱えながらも、ゆっくりと立ち上がり、進み始めているように。
「……悠里ちゃん」
 気づくと、隣に宗主がいた。
 美しい音楽が思考いっぱいに広がる中、緩やかな共感がふたりを、この場所に集う人々を満たしている。
「どうしたの、宗主さん」
「ん……これからどうするのかな、って」
「……ああ」
 宗主が自分を案じてくれていることを知っている。
 だから悠里は、素直にそれを口にすることが出来た。
「これからどうするべきなのか、って判ってるんだ。でも、判ってるけど、したくない。それで……どうしたらいいんだろ、って迷ってる」
「そっか」
「だけどね」
「うん」
「ここで過ごした時間が楽しかったから、それ、嘘にしたくない。これからも、この街はあたしの現実であってほしい」
「ああ……そうだね」
「だから、あたし、一度家に帰るよ。逃げてきた現実と、真っ向から向き合ってみる。いちばん大事な、最初の部分に、きっちりけじめつけて、それでもう一度、銀幕市に戻ってきたいんだ。……出直す、っていうのかな」
「そっか……いつ?」
「ん……とりあえず、ここの一回目のお茶会を見届けたら、くらいかな。いつ戻って来られるかは正直判んないけど、必ず戻ってくるから。そのときは、また、遊びに行っていい?」
「もちろん。悠里ちゃんなら、大歓迎だよ」
 宗主がにっこりと微笑む。
 その美しい笑顔にちょっと見惚れて、悠里は照れ隠しに笑ってみせた。
「皆、待ってるから」
 宗主の言葉に、頷く。
「だから……苦しくても、諦めないで。がむしゃらに頑張れなんて言わないけど、――負けないでね」
「うん」
 気づけば音楽は収束していた。
 旋律の余韻が、心地よく身体を、思考を満たしている。
「……もう少しアレンジは必要だろうが、こんなものかな。皆、佳い言葉を、思いを、ありがとう。ここのことも決まったようだし、私も、これで区切りをつけて旅立つことが出来そうだ」
 神音が微笑む。
「そっか、寂しくなるなぁ……って、『ムーンシェイド』撮影の時には戻ってきてくれよな、主題歌はやっぱあんたじゃなきゃ締まらねぇ」
「ってか、またいつでも銀幕市に遊びに来てくださいね……っていうか、絶対に戻ってきてくださいね。せっかくだから、ここで神音さんと一緒にミニライブとかやりたいし」
「欲張りだな、瑠意」
「えー? でも、理晨さんも戻ってきてほしいだろ?」
「そりゃ、まぁ」
 一仕事終えた神音のために瑠意がお茶を淹れ直し――と言っても全員分淹れ直してくれたが――、理晨が他に焼いていたというシンプルなビスケットと、いまや住まいとなった古民家の畑で採れたというさくらんぼのジャムを出してきてくれる。
 お茶の華やかな香り、ビスケットの素朴な匂いが室内にあふれる。
「わ、いい匂い」
 薺がカップを持ち上げて目を細めた。
「ね、いい匂いだよね。なんか、幸せな気分になっちゃう」
「うん……幸せ」
 薺と顔を見合わせて、悠里はくすくすと笑った。
 テーブルの向かい側では、男性陣が、第一回定例お茶会での美★チェンジ被害者を増やすべく、名簿の作成を始めている。
 恭一は微妙顔だが、そのうち慣れるだろう。きっと。

 何にせよ、人々の表情は活き活きしている。
 進むべき道が、彼らにもあるのだろう。
 だからこその、充足なのだろう。
「……頑張らなきゃ、ね」
 悠里も、負けてはいられない。
 時間は川の流れよりも速く行き過ぎ、二度とは戻らない。だから、立ち止まっては、いられないのだ。
 ――街は夢から醒めた。
 魔法は消えた。
 けれど、思い出は残っている。
 去ってしまった人々との絆は、決して消えないだろう。
 誰もが、それを理解し、胸の奥で温めているのだろう。
 誰にもやるべきことがある。
 誰もが、その道を模索している。
 悠里もまた現実と向き合い、この街のお陰で変われた自分を大切に、自分の夢、自分の未来のために歩いていこうと思う。
 そうすることが、銀幕市と、銀幕市に生きていた人々、悠里に心を預けてくれた人たちへ報いる、最大の方法だと思うから。
「さあ……走り出そう」

 ――そうして、日々は、これからも続いていく。

クリエイターコメントありがとうございました。
正真正銘最終シナリオをお届けいたします。

夢の先で待つ、それぞれの進む道。

そんなものと向き合い、過去を慈しみ、去った人々との絆をいとおしみながらも、皆さんが現実を蹴って走り出して行かれる様を描かせていただきました。

たくさんの言葉、たくさんの心を預けてくださったことに感謝いたします。

本当にどうもありがとうございました。

それではまた、きっと、どこかで。
公開日時2009-07-17(金) 20:10
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