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<ノベル>
闇の中を駆けた。
援護の人々が傷ついても、倒れても。突き進んだ。
手当ては他の誰かがやってくれる。だから彼らは探索のために突き進む。
『穴』を走りながら、那智はふと思った。
ここは産道に似ている。圧迫される、長居を許さない暗い道。好むと好まざるとに関わらず、抜けなければ未来はない。儀礼的な通過地点。
――ならば次の瞬間、彼らは『産まれた』のだろう。
闇を過ぎて、ネガティヴゾーンに到着した。
混ぜすぎた絵の具を、薄い紙にたっぷりの水で塗り重ねたような空と海がどこまでも広がっている。
栗栖那智、刀冴、ミケランジェロ、シュウ・アルガ、、ウィレム・ギュンターの五人は周囲に気を配った。
空と海を区別する水平線が歪んで映り、眩暈がする。
背後の横穴は沈黙したまま、ディスペアーは見あたらない。彼らはわずかに肩の力を抜いた。
「胸糞悪ィ」
黒いツナギに仕込みモップ、掃除屋のミケランジェロは吐き捨てた。
「まったくだ」
同意したのは刀冴だ。愛剣『明緋星』は大切な根付けと共に置いてきた。不安がないと言えば嘘になるが、無視できる程度だ。
刀冴を見て、ミケランジェロは微妙な表情になった。
天敵と意気投合しても嬉しくない。もっとも天敵と認定しているのは本人だけであって、刀冴含め周囲は友人関係だと確信している。
シュウは感触を確かめるように、樫の棒を握りなおした。せっかく直した杖を失うつもりはなく、しかし丸腰で探索に臨むほど愚かでもなく、代役を立てた。
スーツの裾を直して、ウィレムは突入時から気になっていたことを確認した。
「那智さんはムービーファンですよね?」
「そうだ」
彼は肯定する。裏付けるようかのように、背中のリュックサックからバッキーの手がはみ出ていた。
それでしたら、とウィレムは続ける。
「ファンの方はネガティヴの脅威など関係なく活動できるはずですね。それなのに何故、ゴールデングローブを装着しているのかお聞きしても構わないでしょうか?」
那智は右腕に、東博士のレプリカモデルを装備している。ファンの着用が禁じられているわけではないが、はっきり言って不要だ。
刀冴は朗らかに笑って、己のゴールデングローブをかざした。
「お揃いだな。なかなか奇抜で面白ぇ形じゃねぇか」
「面白いけどな……」
シュウは、あえて選ぶ奴の気が知れねえ、という後半を飲み込んだ。自分にはわからない魅力があるのだろう。きっと。
那智は早口気味に言った。
「知的好奇心を充足させるため」
簡素すぎる返答には、追求を封じる力がある。ウィレムはそれ以上を聞かなかった。話題を転じる。
「何をすべきかという具体案はありませんが、立っているのも時間の無駄遣いですから移動ながら考えませんか?」
賛成の声がばらばらと重なり、男達は行動を始める。
海面や空中に生理的嫌悪をもよおすオブジェがあるぐらいで、情報と呼べるほどのものはない。海底の銀幕市を見るたび、はるかな高みから日々の暮らしを足蹴にしている気分に陥る。
刀冴は、ミケランジェロが自分から距離を置こうとしているのに気づいた。
「なあ、タマ」
「タマじゃねェ」
彼は脊髄反射で否定する。ミケランジェロだからミケ――から猫つながりで進化した愛称は、もはや公然のものになっているようだ。
「なるほど、タマな」
腹黒さが輝く笑顔で、シュウが追い討ちをかける。
「待て、タマじゃねえっつってんだろ!」
必死の否定も虚しく、愛称の輪は広がる。熱い性格ではないが、この話題に関しては例外だ。
「タマさん」
「そこの白髪も待ちやがれ!」
便乗しかけたウィレムは、自分を指す単語に反応した。穏和な目をすっと細める。
「そう呼ばれるのは非常に不愉快ですので、二度と使わないでください」
「それは俺の台詞だ」
ミケランジェロはげんなりと呟いた。嫌だと主張して、止めてもらえるものならば――
「かりかりすんなよ、タマ」
「だーかーらーァァァ!」
刀冴の天然にミケランジェロがキレかけた時。
「じゃあ、パリダでいいだろう。T.Pallidum」
さらりと那智がとどめを刺した。
ウィレムが一転して、憐れみの眼差しを向ける。
「梅毒スピロヘータさんですか。了解しました。以後、パリダさんとお呼びします。タマさんと呼ばれるのはお嫌いだそうですので」
シュウが噴き出す。そして至極残念そうに首を振った。
「もうタマって呼べねえな。まあ、無理強いするわけにもいかねえしな。今度からはパリダって呼ばせてもらうぜ」
吐血しそうな勢いで、ミケランジェロは主張した。
「パリダも願い下げだ……!」
「とてもお似合いですよ、パリダさん」
ウィレムもしれっと報復に走る。
刀冴だけが、新しい愛称に不満を覚えていた。もっとも。
「タマの方が可愛いだろ。パリダも奇抜な名前だがな」
どう転んでも、ミケランジェロには迷惑でしかないのだが。
公衆衛生学を専門とする准教授――那智は思案する。
「ではT.mentagrophytes……V.cholerae……B.natto」
「ろくでもねェことを考えんな」
水虫、コレラ、納豆。羅列される学名の意味はわからないながら、ミケランジェロは一応止めた。異様なまでに疲労している。探索開始から間もないのに、精神的ダメージで身が保たない。
「パリダもそうだけどよ、元・タマのどこが菌に見えるんだ?」
「私には理解が及びませんが、お尋ねすれば論理的に関連性を証明してくれるのではないでしょうか」
シュウとウィレムが、ボケているのか確信犯なのかわからない会話をしている。
「……名前で呼んでくれ」
「落ち込むなって。俺はタマって呼ぶから、安心しろよ」
刀冴に背中を叩かれ、ミケランジェロは項垂れた。
泥沼でもがいているのは気のせいだと思いたい。
十分、あるいは二十分、あるいは数秒。時間の感覚もねじれている空間を、歩く。
無意識の中に、『代表』という気負いがあった。援助を無駄にしないため、皆の将来のため、有益な成果を持ち帰らなければならない――そんな義務を妄想する。徐々に焦りが生まれて膨れる。
「なぁ、なんでアレ、沈んじまってるんだろうな……」
シュウは足元の銀幕市に目を落とし、誰にともなく呟いた。たまたま聞き拾ったミケランジェロが答える。
「知らねェ。そのうちわかるだろ」
「わからなかったら?」
「大した意味がねェ、ってことだろ」
投げやりな返事に苦笑が浮かぶ。けれど、ある種の真理だろう。
「人がいる」
先頭を行く刀冴が、低く警告を発した。
海面から生えたオブジェの影に、誰かがうずくまっている。他の探索チームの者か。あるいは。
那智が歩み出て、声をかける。
「誰だ。何をしてい――」
「危ない!」
ウィレムは彼を突き飛ばし、ランスを振るった。飛来した釘を打ち落とすと、手首が痺れる。
立ち上がった人影は、何かを呟きながらネイルガンを構えていた。
「正気じゃねえな……」
シュウは重心を落として、戦闘態勢に入る。ミケランジェロも隣でモップを構えた。
那智は安全な距離まで後退する。戦闘向きの人材が四人もいて、相手は一人。己の出る幕はない。
「あんた、イェーオリか? ミハエルと仲が良かった……」
もしや、と刀冴が問いかけると、彼は悲鳴を上げて釘を放った。
出発直前に、対策課から連絡があった。行方不明のスターがいて、彼は爆弾魔の友達だったという内容だ。
ミハエル・スミス――ネガティヴに感染して、黒いボロボロのフィルムになったキラー。去年の今頃、刀冴は彼の死を見守った。単純ではない感情を抱けど、死者に何をぶつけることもできない。彼の知己だというなら、懐かしい思い出話をしたかった。
だが、と刀冴は物悲しくなる。ゴールデングローブを装備せず、ネガティヴゾーンにいて、錯乱した様子だ。イェーオリはもう、堕ちている。ならばせめて、安らかな眠りを与えてやるのが慈悲だろう。
「スターなんていなくなれ!」
「落ち着いてください。まずは冷静になって話し合いましょう」
釘を乱射するイェーオリに向かって、ウィレムはランスをふるいながら対話を試みる。
シュウは両手で魔法陣を描いたが、何も起こらないとわかって舌打ちした。
「殺したいなら、殺せばいいじゃねェか。相手だって居る。早くやってみせろよ」
挑発するように吐き捨てて、ミケランジェロは前へ出た。紫の瞳が、殺意で翳る。
むき出しの敵意に、イェーオリはすくんだ。
一歩。
もう一歩。
さらに近寄り。
イェーオリに腕を伸ばして。
「ひ、あ、あああああああああああ!」
ドツッ、と肉を貫く音がした。
銃口を掴んだ手から、釘が生えている。けれどミケランジェロは指先が白くなるほどネイルガンを握りしめていた。
「殺したいわけじゃない殺されたくないんだそうだだから逃げるんだ」
「目を逸らすな」
詭弁を連ねるイェーオリに、ミケランジェロは命じた。
「銀幕市に実体化した。それが現実だ。逃げようが現実は変わっちゃくれねェんだよ」
痛みが続く、そんな『当たり前』のことに違和感がある。『いつも』だったら再生して盛り上がる肉に釘が押し出され、元通りになるはず、なのに。
……苛々する。
ウィレムは厳しい口調で言った。
「今は、という但し書きをつけてさしあげましょうか。映画の中に還ることはできません。銀幕市の外へ出ることはできません。イェーオリさんが認めようが認めまいが、それが現実です。現実を変えようと戦いもせず、逃げただけで何が起こりますか」
ぬくぬくと居心地のいい場所に隠れている愚か者の腕を掴み、引きずり出す。爪が皮膚を傷つけても、場合によっては腕を千切っても構わない。逃げれば助かる、という幻想を砕いてやれるものなら。
「現実を受け入れられないのなら死ねば良い。でもね、生きたいと望むのなら血反吐を吐いてでも生きなさい。逃げることは悪いことではないですが、時には向かい合う事も必要です。今がまさにその時なのでしょうね」
「逃げるんだ。こんなところからいなくなってやる。別の世界に行くんだ」
だだっ子のようにイェーオリは繰り返す。シュウは感情の読めない声で呟いた。
「『別の世界』に逃げたい、ね……」
彼は子供の頃、映画の舞台となる世界へと迷い込んだ。何気ない日常を、異邦人だという自覚と共に過ごしてきた。魔術を学んだのも帰るためだ。
銀幕市に実体化した時、帰ったのだと錯覚した。けれど違って――それでも、今はここがシュウの故郷だ。
境遇が似ているようでまったく違う相手に、冷めた目を向ける。
武器をミケランジェロに封じられ、震えている愚者。憐れみより腹が立つ。
刀冴は手を差し伸べた。
「……もう、悪夢なんか見なくていい。せめて、静かに、眠れ」
「ああああああ、ああ!」
背格好も顔立ちも全然似ていなかったけれど、純粋な優しさと分厚い手のひらが、ミハエルを思い出させた。
善良なふりをした人殺し。
イェーオリはネイルガンを手放し、ナイフを取りだした。
残念に思いながら、刀冴は彼に肉薄する。能力を封じられても、それなりの戦い方がある――けれど。
後方からの銃弾が先に、イェーオリに当たった。重なる破裂音に体が踊り、倒れる。
「邪魔をするようで申し訳ありませんが、キラー退治に割いている余裕はあまりありませんので」
S&Wを手にしたウィレムは、集まる視線を受け止めた。
シュウはイェーオリに駆け寄り、武器を取り上げて観察した。臓器を傷つけたらしく、むせるように血を吐いている。
助かりそうも、ない。
ミケランジェロは目を伏せ、右手に左手を添えた。ネイルガンを握りしめて硬直した指を、一本一本剥がしていく。釘頭がめり込んでいたから、抜くことに集中した。死にゆく者を見送る役目は、担い手がいる。
「眠れ」
せめてもの慈悲に、と懐剣を抜いた刀冴を、那智が邪魔した。
「イェーオリ、おまえの知っているネガティヴゾーンの情報を話せ」
「あんた!」
噛みつかんばかりの勢いで刀冴が吠える。シュウは眉根を寄せた。
「あんまり、苦しませてやるなよ」
「……私達の目的は?」
那智に問われて、シュウは黙った。頑丈さで選んだ無骨な腕輪型のゴールデングローブが、手枷のように感じる。
探索に来たのだ。この世界を知るために。その手がかりは目の前で、嫌な呼吸を繰り返している。
ウィレムは銃を構えたまま、イェーオリに尋ねた。
「変わったものを見ませんでしたか? 海の底の銀幕市に、 ディスペアーの弱点は?」
「ディ……?」
弱い反応があった。ウィレムは質問を改める。
「この世界にいる生物について、教えてください」
「魚みたいなヤツと……虫みたいなヤツがいて……戦って、た……」
シュウは次第に細くなる声を聞いていた。あふれた血は海中へと没し、煙のように拡散していく。
それから二言三言、呪詛を吐けば、喋る力もなくなったようだった。
「イェーオリ、逃げるのも現状を変える有効な手段ではある。ただし、逃避により訪れる結果の前に、『失う』という過程がつきまとう。安住の地を求めるなら、貪欲に動く――べきだった」
那智は遅すぎる上に無駄だと承知しつつ、アドバイスした。もし逃げられないのであれば、彼は戦っただろうか。過去の己のように。
刀冴は懐剣を手に、寂しげな笑みを浮かべた。
「ゆっくり話したかったな」
命を――迷える存在を、絶つ。
懐剣を抜くと、そこからぬたりとディスペアーが這い出た。ずるりるる、と、体より巨大な絶望が這い出る。円盤のような目。顎の突出した、笑っているような顔の魚。
イェーオリは黒いボロボロのフィルムになって、崩れ去った。それを最後まで見守ったのは刀冴だけだった。
「キラーってのは、ディスペアーに寄生されてんのか、よっ!」
シュウは、襲ってくるディスペアーに樫の棒を振るう。が、噛まれた。退こうにも、微動だにしない。
あっけなく棒は噛み砕かれた。次にその歯列はシュウを狙う。
――ちゃんと帰ってくるのよ。
笑って見送ってくれた、下宿の経営者の声が聞こえた。
「……帰るからな!」
シュウは不遜な笑みを浮かべる。棒の残りを口の中に突っ込んだ。手を抜くのがわずかに遅くて、皮膚と少々の肉をこそげ取られる。
動転したようにのたうつディスペアーに、ウィレムの援護射撃が降り注ぐ。
釘と格闘していたミケランジェロは、面倒になって本体部分を握った。そして、引き抜く。
「……っ」
手のひらから一瞬、向こう側が見えた。あふれる血が目隠しになって、すぐ見えなくなった。
ディスペアーとの戦いに加わりたくても、右手が言う事を聞かない。モップさえ掴めない。ままならない手と向かい合っていると、腕輪型のゴールデングローブが目障りだった。
これを外せば治癒力が戻り、一瞬にして痛みも傷も消え失せて戦える。そんな愚かしい誘惑が脳裏をかすめる。
刀冴はえらの下を刺した。
痙攣したディスペアーは、攻撃対象を視界をかすめた相手に変える。
「那智さん!」
引き金に指をかけながら、ウィレムは撃てずに叫んだ。彼の位置からだと、敵と味方が重なっている。
那智の近くには、イェーオリのネイルガンが落ちていた。迷う余裕などない。すくんでいた体は、意識しない動きをする。
拾って撃つ。釘はディスペアーの額を貫いた。
中途で壁にぶつかったかのように、絶望の化け物は空から落ちた。海面にぶつかることなく、さらに落ちる。沈む。水底の銀幕市へと、もやに還りながら。
彼らは足の下を、無言で見つめた。
銀幕市が眠っている。
「……畜生、痛ェ!」
ミケランジェロは叫んで、戦えなかった悔しさを現した。
その後も、探索は続く。ぎすぎすした空気など、負傷したミケランジェロと嬉々として手当てをしたがる那智との攻防の前に吹き飛んだ。
「なあ、那智」
「なんだ?」
「あんたさ、うちに来ねぇか? 等身大の漢パンを焼いてやるよ」
「遠慮する」
那智はコンマ数秒で断った。ジャーナルによれば、パン製、という以外は自分のクローンのようなものだ。そんなものを食べたり食べられたり千切られたりするのは嫌だ。もっとも、他人がモデルなら平気でむさぼり食うつもりだが。
「遠慮すんなって。見た目も味も凄いんだぜ」
「確かに凄ェな。作ってもらえよ」
すでに被害にあっているミケランジェロは、同情しつつ復讐に走る。
「五臓六腑、すべて再現されるぜ?」
以前、強引に採血されたお返しとばかり、シュウも流れに乗る。
五臓六腑再現、の魅力は抗いがたいものの、那智はぐっと我慢した。
「遠慮……いや、断固拒否する」
「そんなに嫌か? ……あんたも、作られたら嫌か?」
振られたウィレムは、一瞬固まった。そして返事は。
「ミニサイズで構いませんので、チェスターの漢パンを作っていただけるのでしたらいいですよ」
「承知するのか!?」
「じゃ、決まりな。那智とウィレムは等身大、チェスターをミニサイズで、っと。腕が鳴るぜ」
刀冴の背後で、ミケランジェロは合掌した。宗派の違いより同情の念が勝った。
結局、イェーオリからの小さな情報以外、あまり収穫はなかった。
無理をしない程度で探索を打ち切り、帰る。
生きているから、待っている人がいるから、帰りたいから、なんとなく。
理由は様々なれど、彼らは銀幕市へ帰る。
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クリエイターコメント | お待たせしました。
キラーとはいえ殺人を前提としたシナリオ、殺伐とするかと思えば意外な和みプレイングをありがとうございました。
逃げるという選択肢が、有益な時もあれど。 向かい合う、戦うという選択肢は必要なもの。 |
公開日時 | 2008-06-28(土) 22:00 |
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