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<ノベル>
■10 December,20:30 in Ginmaku-city■
栗栖那智という人物はそもそも感情の起伏がはっきりしているほうではない。だから、今秋に封切られたばかりのその映画に苛立ちを覚えたことは彼にしては非常に珍しく、これまでに殆どなかったことであった。
オムニバス形式の作品だった。その最後のエピソードのヒロインとして登場した双子の姉妹に、那智は紛れもなく不快感を抱いたのだ。
日頃滅多に抱くことのない感情に薄い自嘲の笑みが漏れる。
(特にあの理緒とやら……本当に妹のことが大事なのか。本当に大事なのは結局自分自身ではないのか)
もっとも、それは妹の未緒とて同じだ。あの姉妹は互いのことが大事だ大事だと言いながら互いのことを判っていないのではないか。だからあんな事態になった――。冷静かつ客観的に状況を観察・分析して弾き出した見解がそれだった。
今朝目覚めると枕元に見覚えのないメッセージカードが置いてあった。月の色をしたウサギのイラストが添えられたそれを確認した那智は不審や猜疑といった心情を抱くこともなく嬉々として準備を始めた。人の夢の中に入れる機会など滅多にあるものではない。奇妙なウサギからの奇妙な招待状は医科大学で研究に没頭する助教授の知的好奇心を存分に刺激したのであった。
指定された時間は22時。それまでいくばくかの下調べができればと珍しく大学を定時で退出し、件の映画を観にやって来た。そして今、エンドロールなどには目もくれずに独り立ち上がり、暗い映画館を後にする。
(だが、姉も姉なら妹も妹だ)
未緒のあの態度は滑稽であり、冷笑を向けるべき性質のものでしかない。だから理緒だけではなく未緒にも腹が立った。それだけのことだ。
■10 December,22:00 in Unknown labyrinth■
どうやら広大なドーム状の空間であるらしい。みっちりと天井まで達した背高のっぽの本棚が落とす影は濃く、暗い。スポットライトに似た照明が頭上にいくつも灯っているため視界は充分に確保できるが、巨人のような本棚に挟まれた狭い通路に立っていると息苦しいほどの閉塞感に捉われる。
夢の中に現れるハザードという特殊な領域の中で活動は制限されないのだろうかという懸念は杞憂であったらしい。頬をつねり、軽く手足を動かしてみて、この場所でも現実と変わらずに動けることを知る。服装も平素と変わらない。右手に携えた日本刀の感触と、常に携帯しているショルダー型の三角形のデイバックがきちんと背にあることを確認して、取島カラスは安堵の吐息を漏らした。
(いや……安心してる場合じゃない、か)
だが、穏やかな面(おもて)はすぐに引き締まる。
あのメッセージカードによれば招待状を受け取ったのは五人。うち何人が実際にこの場にやって来るのかは分からないが、視界に映る範囲では人影らしきものはまるで見当たらない。各人がばらばらに放り込まれてしまったのだろうか、ハザード内に入ればすぐに他のメンバーと合流できるという都合の良い展開にはならないようだ。
それよりも――まず気がかりなのは理緒である。
あの夢と映画の情報から推測する限り、彼女は格闘や戦闘などとは無縁なごく普通の女子高校生だ。ぬいぐるみやお人形程度ならともかく、硬質で鋭利なもの――例えば刃物のような――が襲い掛かって来たら命に関わるかも知れない。
まずは理緒を見つけ、彼女を守りながら未緒の元へと進まねばなるまい。それと並行して他の者と合流出来れば尚良い。
この場所にやってくる前にいくらかの下調べを行ったカラスは、その途上で姉妹によく似た少女が公園で倒れていたという噂を聞きつけ、彼女たちが本当に理緒と未緒なのか確認するために市内の病院へと赴いた。病院側は個人情報保護の観点から患者の身元を明かすことに難色を示したが、ムービーハザード関連の調査の一環であるというカラスの懸命な申し立てを聞き入れ、彼女たちが所持していた生徒手帳から二人が件の映画の双子であることが判明したと明かしてくれた。
渋々ではあったが病院スタッフは病室への立ち入りも許可してくれた。病室でこんこんと眠り続ける二人の姿が今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
とにかく、このままここで突っ立っていても始まらない。タイムリミットは24時、12月10日という日が終わるまで。カラスは軽く顎を引き、本棚で縁取られた通路を進み始めた。
「いいんじゃない。行って来たら?」
今日の昼間のこと。フェイファーが示したメッセージカードを見た家主は世間話にでも応じるかのようにそう言ったのだった。もっともフェイファーとて、家主に反対されたところで招待を蹴るつもりはなかったのだが。
少女の境遇、彼女が現在置かれている状況。それに、手助けを惜しまないと思わせるまでの懸命さ、必死さ。天の使いはそれらを心から愛おしく思う。パスワードも鎖もきっと解けると信じているし、そのためには全力でのサポートを惜しまないつもりだ。
メッセージカードは本当に『いつの間にか』としか喩えようがない唐突さでフェイファーの手の中におさまっていた。元より人間ではないフェイファーは、カードを手に意識を傾けることでこの迷宮にやって来たのだが……。
意外なことに、真っ先に耳に届いたのは少年の悲鳴であったのだ。
(なんだ。あの双子は女じゃなかったのか?)
癖のかかった色っぽい髪を揺らし、声のした方向を探る。頭上を仰ぐと眩いスポットライトが目を射た。聳え立つ本棚のてっぺんは天井を塞いでおり、背中の翼でひとっ飛びというわけにはいかないらしい。断続的に響く悲鳴の合間にばたばたという足音が挟まる。壁や本棚に乱反射しているせいだろう、悲鳴の主のものとおぼしき足音もひどく曖昧に重なって聞こえてきた。
だが、耳を澄ませて意識を傾けたその時。
気配も前触れもなく目の前に現れた『彼』が、フェイファーの胸板にどんと音を立ててぶつかっていた。
「あ、たたた」
赤くなった鼻面を押さえてたたらを踏むのは愚民と書いて愚民と読む種族、つまり人間の少年だ。少年は外した眼鏡を慌てて装着しながら黒い目をぱちぱちとさせ――
「う……っ、わっ」
明らかに怯えの色を見せて後ずさったのだった。
「何だ、後ろに何か居るのか?」
素早く背後を振り返るも、そこには本棚の影が濃く凝る狭い通路があるだけだ。
「ご、ごごめんなさい! けど駄目なんだどうしても駄目なんだ、こういう体質で――」
少年は必死に顔を背け、何かを拒むように体の前で両腕を振り続ける。天使の自分には見えない何かがこの少年には見えているのだろうかと訝ったフェイファーであったが、すぐにぴんと来た。
「あのなー? 俺はおまえら愚民には悪さはしねえぞ?」
「ぐ、ぐみ……?」
「それよか」
長身のフェイファーは斜めに首をかしげ、腰に手を当てて少年にじいと顔を近付ける。少年が後ずさってもお構いなしだ。
「おまえもあのウサギの招待状を見てここに来たのか?」
少年はずり落ちそうになる眼鏡を何とか持ち上げながらかくかくと首を上下させた。しきりに怯えている少年にフェイファーは「ふーん?」と語尾を持ち上げ、珍しいものでも見るようにまじまじと彼を観察する。
特異な要素のない、『ごく普通の』少年に見える。標準的な身長に細身の体躯、黒い髪に黒い眼、眼鏡。今時の若者にありがちな派手な服装や髪形とも縁のない、どちらかといえば地味で平凡な学生といった風情だ。
「じゃ、せっかくだし一緒に行こうぜー? 俺はフェイファーってんだ、よろしくな」
気さくに握手を求めるが、少年は「津田俊介です」と名乗ったきり決してこちらに近付こうとしない。
フェイファーは気を悪くしたふうもなく、愉快そうに「くくく」と喉を鳴らした。
「おまえら、ほんっとおもしれえのなー?」
津田俊介というこの少年がムービースターであることや超能力者であること、人外の存在に対して過敏に反応してしまう体質であることをフェイファーが知るのはもう少し後である。
ごうと音を立てて風が渦巻いた。それは本当に風であるように見えたのだ。
本棚に挟まれた通路を青い疾風が走り抜ける。否、正確には風ではなかった。尖った耳と左半身に施した美麗な刺青が印象的な長身痩躯の男だ。白金色に染まった瞳孔の中で揺れるかぎろいは清廉な銀の色。美しくなびく黒髪の残像を置き去りにし、刀冴という名の武人は目視できぬほどの速度で走り続ける。
天井や本棚に跳ね返る複数の足音、話し声、息遣い。普通の人間ならば耳に捉えることすら難しいそれらの物音が迷路の構造を忠実に、隅から隅まで教えてくれる。月色ウサギの正体を受けてやって来たのが刀冴の他に四人であるらしいことも分かった。うち三人は既知のフェイファー、取島カラス、栗栖那智のようだ。あとの一人は津田俊介だが、刀冴はまだ彼のことを知らない。
カラスとフェイファーは自分の身くらい自分で守れるだろう。俊介とは面識がないが、彼が特別な能力を持っているらしいことは気配から分かる。危ないのは理緒と那智だ。理緒はごく普通の女子高生だし、那智もバッキー以外の力を持たぬ普通の人間である。
不思議なウサギからの招待状を受け取った刀冴は一も二もなくこの場に赴くことを決めた。姉妹を助けたいという思いはもちろんある。しかしそれ以上に未緒に言いたいことがあったのだ。だからこの場所に入るなり覚醒領域を全開にして探索を始めた。一刻も早く未緒の元に赴くために。そして、戦闘力というものを全く持ち合わせていない理緒を無事に未緒の元まで連れて行くために。
覚醒領域を展開した後の反動は心身共に大きい。加えて、故郷での刀冴は自分が人間であると頑なに信じていた部分があったため、この力を積極的には使いたがらなかった。覚醒領域は天人独特の個体フィールドと呼ぶべき性質のものであるからだ。覚醒領域こそが刀冴を天人たらしめる証であるからだ。
だが、誰かを守るために必要とあらば厭うことも躊躇うこともせぬ。刀冴とはそういう男だ。
(コイツは使わずに済めばいいんだがな)
腰に佩いた深紅の愛剣を撫で、軽く唇を引き結ぶ。
六歳の時に家族を失った刀冴は離れ難く結ばれたあの姉妹を羨ましく思う。亡くした家族への愛情と二度と手に入らないであろうものへの憧憬はいつも刀冴の中にあり、それは銀幕市に来た今でも決して変わりはしないからだ。
常人には目視できないほどの速度を保ち、青き颯(はやて)は迷宮の中を駆け抜けていく。
■10 December,22:14 in Unknown labyrinth■
進んでいるのか、戻っているのか。それとも同じ所をぐるぐる回っているだけであるのか……。それすらももはや分からない。
のっぺりとした本棚はまるで全く同じ風貌をした団地か何かのよう。道順の目印になるようなものなどもちろんなく、茫洋とした図書館に吐き気さえ覚えて立ち止まる。
ああ、ほら、危ないよ? 立ち止まると危ないよ?
頭の中で狂ったウサギの声が聞こえたような気がしてはっと顔を上げる。視線の先には、本棚からずり落ちてむくむくとうごめく本。
隠れて震えることすら許されないんだよ? だって立ち止まれば襲って来るからね? さあ進んで進んで、残り一時間四十五分三十一秒!
幻聴であるのかどうかも分からない。突如として非常識な場所に放り込まれて追い立てられるように逃げ続ける理緒は正常な判断力を失いかけていた。ただその声を振り切りたくて、よろよろと迷宮を彷徨い続ける……。
■10 December,22:25 in Unknown labyrinth■
(ほう……これは興味深いな。見た目も手触りも現実と変わらないとは)
本棚にいちいち手を当てては中におさめられた本を手に取り、那智は深々と肯く。いつもの白衣の下はいつものワイシャツとネクタイだ。未知の領域を探索するなら体に馴染んだ服装のほうが良かろうと仕事用の服装で就寝したおかげなのかどうかは定かではない。
あのリントとかいうふざけたウサギによれば、この書架におさめられた本には未緒がブログに書いた記事が記されているという。大きさは国語辞典ほどもあるが、厚さはせいぜい文庫本程度だ。背表紙はどれも同じ色柄で、記事のタイトルなのであろう表題が印字されている。何かの手がかりになればと思って適当な一冊を選び出した那智だったが、すぐにひょいと眉を持ち上げた。
本がもぞりと動いたのだ。触れてもいないのに次々とページがめくられる。中から立体的な形を伴って飛び出した文字がくるくると螺旋を描き、目の前の空間に次々と整列していく。
ぼんやりとした光を纏って並ぶ文字を追いながら、眼鏡の奥の双眸に冷めた光が満ちた。
部活がどうの、いけ好かない教師がどうの、試験勉強がどうの、クラスのかっこいい男子がどうの……。どうでもいいと言っては些か語弊があろうが、思春期の少年少女特有の、書き留める必要性などまるで感じられない自己中心的で自己満足な話題ばかりがつらつらと記されている。
平凡な女子高生の平凡な日常が詰まった文字列を無表情に一瞥し、次の本へと手を伸ばす。機械的に文字を追う紫の目が『ルカちゃん40周年☆』というタイトルが付されたページでふと止まった。紙の上から飛び出した文字が那智の目の前で跳ねながら並んで行く。
日本人ならば誰でも知っているであろう『ルカちゃん人形』という着せ替え人形の話題だった。販売開始40年目を記念して催されたスペシャルイベントの様子や、未緒と理緒が小さい頃に可愛がっていたというルカちゃんの画像。どこのブログでも見かけるようなどうということのない記事である。
『姉もルカちゃんを覚えているのかな?』
最後に現れたそんな一文に冷えた視線を送り、那智はくるりと背後を振り返った。
文字と一緒に飛び出したルカちゃん人形の画像が一気に膨張して立体を持ち、那智を見下ろすほどの身の丈になって目の前に降り立っていたのだ。
淡いピンクのプリンセスドレスに身を包んだ人形はウェーブのかかった金髪を揺らし、かくりと首を傾けた。青い塗料で描かれた無機質な瞳がぼうやりと那智を捉える。年季が入っているせいだろうか、顔の肌色はくすみ、所々黒ずんでいた。
那智が軽く眼を眇めるのと、可憐な人形がぶうんと腕を振るのとはほぼ同時だった。
図体はでかくとも所詮はただのお人形だ。子供でもよけられそうな緩慢な攻撃をあっさりかわし、ドレスに包まれた背中を見送る。前のめりに上体を傾けた人形はかつりと音を立てて踏みとどまり、ぐるうりと顔を振り向けた。平面的な眉と目と口はぴくりとも動くことはなく、作り物の微笑を保ち続けている。
意志や知能というものの存在を感じさせない人形であるが、どうやらこちらを追って来る程度の頭はあるらしい。ふらりふらりと繰り出される腕を難なくかわしながら那智は素早く前後に目を走らせ、人形に背を向けて駆け出した。
のろまな人形は予想通り那智を追いかけてくる。しかし脚に関節を持たぬ着せ替え人形では大した速度は出ないようだ。糸に吊られたマリオネットのようにかくかくとよろめくプリンセスドールはまるでゾンビか何かのよう。そんな彼女の姿に何の感情を抱くこともなく、那智は通路の左手に現れた角を勢い良く曲がった。
がしゃん、という空虚な衝撃音が背中を打った。
読み通りだ。急にコーナーを曲がった那智を追い切れず、鈍重な人形は本棚の角に激突して崩れ落ちている。腕も足も奇妙な方向に折れ曲がり、ただ首だけがごとごとと痙攣しながら虚ろに視線を彷徨わせている。
楽にしてやろうという慈悲などではない。何の感慨も躊躇も抱かず、那智は人形の頭を踏みつけた。
根元からへし折れて落ちる首に引きつれたような少女の悲鳴が重なる。
着せ替え人形の首を足蹴にしたまま振り返ると、そこには夢の中で見た少女が蒼白な顔で立っていた。
誰何はしなかった。彼女が理緒であることは那智でなくとも容易に推察できたからだ。セーターにジーンズという部屋着姿の彼女は所々に傷を負っているようだ。肩や膝が裂け、乾いた血がこびりついた肌が覗いている。
「ルカ、ちゃん」
理緒の目は那智ではなく那智の足の下の人形の首に向けられている。黒い瞳にはいっぱいに涙が溜まり、血の気を失った唇はがたがたと震えていた。
「思い出は大切にしまうものじゃあ無い」
那智が足をどかすと人形の首はごとりと音を立てて転がった。薄汚れたルカちゃんの顔には相変わらず平面的な微笑が張り付いている。ごろんと転がった思い出の人形の首に理緒は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「何が嫌なんだ」
理緒に歩み寄ろうとはせず、那智はその場に立ったまま問うた。責めるでもなく、なじるでもなく、ただ淡々と。だが、理緒が初対面の那智に対して畏怖を抱くには充分過ぎるほど冷えた声音であった。独りきりで彷徨うしかなかった理緒が那智という同行者と邂逅したのは幸運であったのか、不運であったのか。
「形が崩れても想い出は残るだろう。お前が恐れているのは過去の幻想が崩れていく様を目の当たりにすることではないのか?」
それは質問ではなく確認、あるいは糾弾であり、断罪であった。
見開かれた理緒の目が痙攣するようにわななき、ついに涙が溢れ出す。しかし那智の双眸は相変わらず冷めた色に覆われていた。少女の涙などにほだされる理由や動機など那智の中には一片たりとも存在しない。
「あの、どうして、ここに……」
「リントとかいうやかましいウサギからメッセージカードを受け取った」
必要最低限の単語のみをもって答えを返した那智の足許に影が落ち、ふと顔を上げる。
いつの間にどこからどうやって現れたのだろう、月色のウサギのコスチュームに身を包んだ少年が頭上に浮かび、さも面白いものでも見物するかのように二人を見下ろしていたのだ。
「初めまして栗栖那智クン、ようこそpure rabbitへ! ボクはリント! 淋しい兎と書いてリントさ、よろしくね! どうして淋しいかって? ウサギはボクと同じで淋しがり屋だからさ! 何せ彼らは淋し過ぎると死んでしまうからね!」
わざと大袈裟に手を広げてみせ、ウサギは紳士のように優雅に一礼する。「キミの他に四人の人が来てくれたよ! 全員がボクの招待を受けてくれるとは思わなかった、嬉しいことだね!」
「ウサギは本来単体で行動する生き物だから孤独が死因になることはないのだが」
那智の冷静かつ的確な指摘にリントは「うん?」と首を傾げる。
その後で笑みを崩さぬままニィと唇を吊り上げ、くすくすくすとわざとらしく含み笑いをしてみせた。
「うんうんそうだね、学問的にはその通りだ! だけどね、孤独は時として生き物を殺すんだよ! 体じゃなくて心を殺すのさ! 特に人間は淋しさに対する耐性が低い場合があるからね! ねえそうだろう、そうだよね理緒クン!」
「ごたくはいい。おまえと話している暇などない」
顔をこわばらせた理緒は無視して那智は眼鏡のブリッジを鼻の上に押し込んだ。「用件だけ言う。この迷路の案内をしろ。おまえなら中央までの道筋も知っている筈だ」
「うん? 案内?」
「拒むなら生きたまま解剖するぞ。おまえのような存在は学問的に非常に興味深い」
あくまで脅し文句だが、半分は那智の本心だったかも知れない。リントを値踏みするように見上げる冷めた双眸の中にも研究者としての興味と好奇心が見え隠れしているようだ。
「那智クンはお医者さんなのかな? 怖い怖い、ああ怖い!」
口先だけでうそぶいてみせ、リントはわざとらしくぶるっと身を震わせる。「だけど、ボクを解剖したいならまずはボクを捕まえてもらわなきゃね!」
くるんととんぼを切ったかと思うと、月色のウサギの姿はぽふんと弾けて消えていた。
「ボクは傍観者さ! 邪魔はしないけど協力もできないよ! だから自分たちの力でゴールまでたどりついてよねー?」
あはははははははははははははははははははははは!
姿が消えて尚降り注ぐけたたましい声に不快そうに眉を寄せ、那智は理緒に向き直る。
「仕方ない。おまえが案内しろ」
「え……」
「未緒とやらは恐らく一番深遠に……一番大切な思い出の中にいる筈だ。パスワードの事も鑑みておまえなら道順が判る筈」
「パスワードが分かったんですか?」
縋るように向けられる濡れた瞳に那智はまた苛立ちを覚えた。
「自分の頭を使ったらどうだ」
しかし感情を顔には出さず、無機質な一瞥をくれて背を向ける。「赤の他人の私達ですらパスワードが解けたんだ。妹のことが大切だと抜かすのならばおまえも少しは考えろ」
「そんな……そんな言い方――」
「口先だけなら幾らでも大事だと言えるさ」
目に涙を溜めた少女の反駁はささやかな抵抗にすらならず、那智によって一片の容赦もなく切り捨てられてしまう。探索を続けていれば他のメンバーもそのうち合流するだろう。この手のタイプの人間には皆が優しく接するはずだ、自分一人が冷たく接したところで構いはしない。だから那智は遠慮せずに自己の見解を述べる。
「だがな、本当にお互いが大事ならこんな事にはならなかった筈だ。違うか?」
背中を向けたまま、責めるでも詰るでもなくただ淡々と並べられる言葉は的確だったが、それだけに厳しく、痛みをもって理緒に突き刺さった。
「おまえたちに絆があるようには思えない。あるのは血の繋がりだけだ。ただ互いに依存して、互いを支配しようとしていたようにしか見えん」
家族の愛情というものを全く感じずに育った那智には血の繋がりがあるから大事だという感覚自体が全く判らない。物心がついた頃からずっと独りで暮らしていたし、たまに訪れる父親からは暴力と罵りを向けられるだけだった。
「ひとつ疑問がある。血縁者だからという理由だけでなぜ無条件に大事だといえる?」
「……家族、ですから」
理緒はセーターの裾を掴み、唇を噛んで目を伏せた。「家族は、大事です」
「それが分からないと言っている。どうやったらそういう理屈になるんだ?」
大切に思う家族が居るのが羨ましいという感覚は那智には無いし、血の繋がりなど信じてもいない。全く想像のつかない世界であるし――もしかすると、心のどこか、自分でも認識できないほど深い心の奥底で拒絶しているのかも知れない。
「家族のことを大事だと思ったらいけないんですか? なんでって言われても分からないけど……理由なんか分からないけど、とにかく大事なんです。大切な妹なんです」
那智の双眸がすいと細められる。
「それほどまでに大切なら一から十まで相手に説明する気が無かったのは何故だ。二人で望んだ夢なのに相手が理解してくれなくても良かったのか?」
え、と理緒はようやく目を上げた。
「おまえがなぜ建築士を目指しているのか察しはついている。夢を叶えるために頑張るのは素晴らしいことだろう、だが相手に理解してもらえなければ本末転倒だ。確かにあの妹は些か幼いようだが……おまえが本当に未緒を大事に思っているのなら、彼女の幼稚な性格も知っていて然るべきだと思うがな。あの妹は言葉を噛み砕いて最初から最後まで説明してやらなければ理解などできんだろう。姉のくせにそんなことも分からなかったのか」
「それは――」
理緒もただ言われるままになるほどおとなしい性格ではないらしい。不快と反駁の色を露わにして口を開きかける。しかし血の気を失った唇はむずりと苦しげに歪んだだけですぐに閉じてしまった。
「それは、何だ?」
「……いえ」
淡々と続きを促す那智からふいと目を逸らした理緒だったが、涙の乾かぬその瞳が軋むようにしてこわばった。
彼女の視線を追った那智の眉がびりっと音を立てて中央に寄る。
成人がすれ違える程度の幅の通路の奥、煌々と照らされた影がわだかまるその場所で、冷たい何かがぎらりと光を放った。
むずむずと身じろぎした本が本棚からどさりと抜け落ちるのを見とめて那智は軽く舌打ちした。ぼんやりと光を放つ文字がくるくると螺旋を描き、宙に舞い上がりながらお行儀よく整列していく。
『部屋の大掃除をしてたら出て来た。十歳の時に学校で買わされた彫刻刀ー。図工の版画で使ったんだっけかな? 姉とお揃いにしたくて姉の家に電話したっけなぁ』
文字を読み終えるより早く、巨大な彫刻刀が三本、無機質な風切音を立てて飛来していた。
那智は咄嗟にその場に伏せて第一撃を避けた。動揺してしりもちをついた理緒も怪我の功名といった形でかろうじて刃をかわす。彫刻刀といっても小学生が図工で使うためにあつらえられた品だ、パステルカラーのラバーグリップの先にちょこんと刃が備え付けられた程度であるが、成人男性ほどの大きさにまで巨大化しているとなれば充分に脅威だ。
虚空を切り裂いた三本の刃物は緩慢な動きで向きを変え、再び二人に襲いかからんと牙をむく。それが三角刀、平刀、丸刀であることを冷静に見とめながら那智の頭脳は急速に回転を始める。
(ランランに食べさせるか? いや――)
夢の神の使いがこの刃物を三本とも食べてくれるとは限らない。その上、一度満腹になってしまえばその後24時間は食事をすることができなくなるのがバッキーという生き物だ。
ならばかわすか。先程の着せ替え人形と同じように、かわしても追撃してくるのではないのか?
那智が黙考していたのはほんの一瞬であったが――その瞬きほどの間に、もう一つの気配が二人に迫っていた。
それはまるで稲妻であった。青い迅雷であった。那智の視界の端を鮮やかな青と燃えるような赤の残像がわずかに掠めていく。
刺青がのぞく背で長い黒髪が揺れている。ちらと覗いた白金色の瞳孔の奥に瞬く銀色の光。腰に佩いた深紅の大剣を抜くこともなく立ち塞がるは――青狼将軍!
「――――――」
彼の名を呼ぶ那智の声は強靭な肉体に刃が食い込む衝撃音に掻き消される。
いらえの代わりであるかのように、屈強な背中から噴き出した血が那智の眼鏡と白衣を染めた。
■10 December,22:42 in Unknown labyrinth■
『こちらフェイファー、こちらフェイファー。あー、聞こえるかおまえら?』
冗談めかした口調で状況を報告する天使の声が俊介の脳に直接流れ込んでくる。
『応答せよ、応答せよ。俺んとこはまだ大丈夫だぜ』
『こっちは行き止まりだ、フェイファー』
途中で合流した取島カラスの声が苦笑交じりにフェイファーに応じた。『津田君、そっちはどうだい?』
『こっちも行き止まりみたいです。フェイファーさん、取島さん、そのままそこに居てください。今からそっちに向かいます』
答えるが早いか俊介の姿はその場から掻き消え、瞬間移動の能力を使って瞬きのうちにカラスの元へと到達する。まさに“降って湧いた”という唐突さで目の前に現れた俊介にカラスは驚いたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「それが瞬間移動? 目の前で見るとすごいね、やっぱり」
「いえ、そんな」
俊介は素直に照れて頭を掻いた。物静かで優しそうなカラスは話しやすい相手である。カラスの腕を掴んで再び瞬間移動の能力を行使し、フェイファーの元へ。前触れなく目の前に現れた二人にフェイファーは「へえ」と軽く口笛を吹いた。
「そこそこやるじゃねえか、愚民。超能力ってのも伊達じゃなさそうだな」
からかうように言って見下ろすフェイファーから三歩下がった位置をキープし、俊介は引きつり笑いを浮かべた。まるで繁華街をたむろする若者のようなこの男は『天使』=『優しい笑顔』というイメージをものの見事に打ち砕いてくれる。
この迷宮に入り込んだ俊介はうっかり本棚の本を手にとって開いてしまい、中から飛び出したひよこのマスコット人形――これも幼い頃の姉妹が大事にしていた品であるらしい――に襲われる羽目になった。ただのマスコットが巨大化しただけなのだから攻撃力らしい攻撃力は持ち合わせていないだろうが、人外のものを本能的に拒絶してしまう俊介にとってはそれだけでもちょっとした脅威であった。
念動力を用いればたやすく倒せただろう。しかしこれはあの双子の思い出のかけらだ。倒すか倒すまいか迷った挙句に瞬間移動でその場を逃れたのだが、逃れた先がたまたまフェイファーの目の前だったのは運が悪かったといしか言いようがない。人外のものが傍に来ると頭ではなく体が勝手に反応してしまうのだ。己の意志ではどうにもできないこの条件反射は今も尚俊介を悩ませ続けている。もっとも、清廉な歌声を持つあの人魚の前でだけはどうにかそれを抑えられるようになりつつあるが。
フェイファーと一緒に――とはいえなるべく近付かないようにはしていたが――迷路を進んだ俊介はほどなくしてカラスと合流し、探索を続けていた。
俊介が提案した探索方法は地道だったが、確実なものであった。まずフェイファーに頼み、魔法でメンバー全員がいつでも連絡を取り合えるようにしてもらった。これでトランシーバーや無線機がなくとも逐一状況報告を行える。分かれ道に来たらムービースターがひとっ走りして行き止まりを確認。スターが袋小路に着いたら俊介に連絡をさせて瞬間移動で回収し、俊介自身は元の場所まで瞬間移動で戻り探索を続行する。もし障害物があれば念動力で持ち上げて隙間を通って行くつもりだったが、今のところはその心配までは必要なさそうだ。
俊介とフェイファーが行き止まりを確認してルートを決定する間、ムービーファンであるカラスには分かれ道で待っていてもらったほうが良いと思ったが、カラスはそれを断った。
「心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫。自分の身くらい自分で守れるから」
そう言ってカラスが示したのは日本刀とサバイバルナイフだった。穏やかな彼の雰囲気からは想像もできぬ物騒な得物に俊介は思わず目をぱちくりさせたものだ。
「しかし、意外に静かだな」
ジーンズのポケットに手を突っ込んで先頭を進みながらフェイファーは視線をめぐらせる。近所を散歩するかのような足取りだが、翼をしまった背中には適度な緊張が滲んでいた。
「確かに」
とカラスが応じる。「迷路には違いないけど、ただ大きな本棚と本が並んでるだけって感じだなあ」
「ああ。もっとじゃんじゃん敵が襲ってくるかと思ったんだが」
「敵なんかじゃない」
最後尾を歩く俊介が半ば独り言のようにぼそりと呟く。だがフェイファーには聞こえたらしく、「ふん?」と語尾を持ち上げて顔を半分だけ振り向けた。
「あ、いや、その。敵なんかじゃなくて……あれは、あの姉妹の大事な思い出だから」
「わーってるって。言葉のアヤってヤツだよ」
フェイファーも他意はなかったようだ。半ば口ごもりながらもきっぱりと言い切った俊介にニィと笑い、ひらひらと手を振って応じる。
「そうだね。壊さずに済むならそのほうがいいんだろうけど」
でも、とカラスは日本刀の柄を軽く握り締める。「理緒君を守るために……未緒君の所へ辿り着くために必要なら、躊躇っちゃいけないんだ」
それには俊介も小さく肯き、唇を引き結ぶ。
「お」
フェイファーが不意に足を止めた。「噂をすれば何とやら、ってか?」
軽口を装った声音の中に緊張感を読み取り、俊介とカラスは反射的に身構えた。
スポットライトを受けた本棚が通路に落とす濃い影の中、ふたつの赤い光が瞬いている。ぱちぱちと不規則に明滅を繰り返すそれは、照明というよりも――まるで。
「生き物か?」
カラスの声は赤い目をした巨大なハムスターの足音に掻き消されていた。
(――飛行<アクセル>!)
念動力で自分の体を動かし、俊介は頭上へと飛び上がる。フェイファーはカラスの腕を掴んで翼を広げ、二メートル近くにまで肥大したジャンガリアンハムスターの突進をかわした。
『うちで飼ってるハムスターのチェリー。むかし姉と一緒に飼ってたハムスターとおんなじ色だから名前もおんなじにしちゃった』
見れば、通路を塞ぐような巨大ハムスターの背後にはそんな立体文字が浮かび上がっている。
俊介の顔がかすかに歪んだ。このハムスターの写真を理緒も見たのだろう。ブログにアップロードされたハムスターの写真を見た姉は離れて暮らす妹の生活に思いを馳せたのだろう。
「生き物か……さすがにちょっとやりにくいな」
眼下できょろきょろとするハムスターを見下ろし、カラスは華奢なフレームの眼鏡を指で押し上げる。ふわふわの体でみっちりと通路を塞いだ巨大なげっ歯類はつぶらな瞳を動かしながら三人の姿を探しているようだ。愛らしいはずのその瞳の色もこうして見るとやけに暴力的に――どこか物悲しげにさえ見えるのはどういうわけだろう。
「任せろ」
「あ、ちょ、ちょっと」
口の中で短く呪文を紡ぎかけたフェイファーに俊介が待ったをかける。「……倒すんですか? 殺すんですか、ハムスターを?」
きょとんとしたフェイファーが金色の双眸をぱちくりさせたその時。
「さあ、どうするんだい! あのハムスターを何とかしないと先には進めないよ! 何せ通路を塞ぐ大きさだ、脇をすり抜けることもできないからね!」
パチン!
気取って打ち鳴らされた指とともに虹色の紙吹雪がきらきらと降り注ぐ。はっとして顔を上げると、いつどうやってどこから現れたのであろうか、宙に浮かぶ三人よりも更に高い場所で月色のウサギのコスチュームに身を包んだ少年がくすくすと笑っていた。
「ようこそpure rabbitへ! キミたち三人の他に二人の人が来てくれたよ、特別に見せてあげよう!」
再び鳴らされた指に応じるように三人の眼前に立体映像が展開される。
青い衣裳と刺青に彩られた血まみれの武人、彼の血を浴びたとおぼしき眼鏡の男。二人を交互に見比べながら青ざめている少女は理緒だろうか。
憔悴しきった目に涙を溜めてがたがたと震える理緒の姿に俊介は顔をこわばらせる。
「んー、刀冴クンは栗栖クンと理緒クンの盾になったようだねえ? そりゃあ栗栖クンも理緒クンも普通のヒトだからねえ、強い強い刀冴クンが盾になるしかなかったのかも知れないねえ?」
顎に手を当ててわざとらしい思案顔を作りながら、それでもリントの唇は残虐な笑みを浮かべている。
「だけどー、最後までもつかなぁ? これからもどんどん理緒クンたちの思い出が襲い掛かってくるかも知れないのにねえ? 刀冴クンが倒れたら一巻の終わり、理緒クンもゲームオーバーだ!」
「いい加減にしろ!」
顔を紅潮させた俊介は苛立ちを甲高く爆発させた。
「何がゲームオーバーだ、ふざけんな! これはゲームなんかじゃないんだ! 人のつらさをゲーム呼ばわりされてたまるか!」
「落ち着いて津田君。言いたいことがあるのは分かるけど、ここで言い争っても時間の無駄なんじゃないかな」
穏やかながらも凛としたカラスの声で俊介ははっと我に返った。フェイファーは目をぱちくりさせながら俊介を見守っている。俊介は口の中でもごもごと謝って視線を伏せた。
「うんうん、そうだね、その通りだ! 時間制限もあるしね! ボクとケンカをしてる暇があったら先に進んだほうがいいと思うよー? 健闘を祈る、なーんちゃってね!」
くるん、ぽふん!
軽快にとんぼを切ったリントの姿は紙風船が弾けるような音を残して掻き消えていた。
「何しに来たんだ、アイツ」
けたたましく響く笑い声に首をかしげ、フェイファーが半ば呆れ顔で呟く。俊介はきつく唇を噛み、まばゆいスポットライトに軽く眼を眇めながらリントが消えた虚空を睨み上げた。
(そんなことしたって何も解決しない。分かってる、分かってるけど――)
昨晩あの夢を見た時から決めていた。そして今、けたたましく笑うウサギの姿を目の当たりにして、その決意はますます固くなっている。
(あのウサギ。最後に一発ぶん殴ってやる)
『旦那! 旦那!』
固い意志に呼応するように腰でカタカタと鳴り始めた剣に、俊介は「ゲッ」と顔をこわばらせた。
『腹が立つなら殴るより斬っちまいましょうや! こういう時こそあっしがお役に――むぐっ』
「あ、あはは。何だろう、変な声が聞こえた気がするけど」
黒い刀身を持つ刃渡り20センチほどの魔剣ニア・デスを無理矢理手で押さえつけ、俊介は怪訝そうにしているカラスとフェイファーに愛想笑いを向けた。それでも天使たるフェイファーは何か事情を察したらしく、面白いものでも眺めるような視線を俊介に向けた。
「とにかく、早いとこ先に進もうぜー? あのハムスターを何とかすりゃあいいんだろ?」
口の中でめまぐるしく紡がれる言語らしきもの。一瞬の詠唱ののち、四枚翼の天使はパチンと指を鳴らす。それが魔法発動の合図だと気付いた俊介が制止の声を上げかけるが、遅い。
眼下のハムスターがキキッと声を上げ、身をよじった。それは断末魔の痙攣のように見えなくもなかったが――
次の瞬間、巨大なハムスターの体は空気が抜けた風船のようにしゅるしゅると縮小していった。
「倒すだなんて最初から一言も言ってねえだろ?」
通路に降り立ち、本来のサイズを取り戻したハムスターを掌にすくい上げたフェイファーは人なつっこく笑ってみせた。
深々と吸い込んだ息を止め、胸と腹に力を込めて受け止めたが、刃物は刃物だ。さすがに無傷というわけにはいかなかった。特に最も鋭利な三角刀は肩を貫き、朱にまみれた切っ先が背中側にまではみ出している。それでも刀冴は痛みと衝撃に怖じることなく両足を踏ん張り、一歩たりとも後退しなかった。自分の体や痛みに対する気遣いなどずいぶん昔に捨ててしまっている。
軽く歯を食いしばってパステルカラーの柄を握り締め、三本の彫刻刀をゆっくりと引き抜く。血と肉と刃がこすり合わされるずぶずぶという音に理緒が喉の奥で小さく悲鳴を上げたようだ。しなやかな筋肉に挟まって尚ぴくぴくと痙攣していた刃は床に落ちるとじきに動かなくなった。彫刻刀が床に当たる乾いた金属音が周囲を塞ぐ本棚に乱反射し、やけに長く尾を引いて、消えていく。
「無事か?」
白金色の瞳孔で振り返り、しりもちをついたままがたがたと震える理緒を立たせてやろうとして、やめた。
「……と、悪ィな。この手じゃ逆効果か」
血に濡れた手を差し出したところで余計に理緒を怖がらせるだけだろう。武人である刀冴とは違い、彼女は流血沙汰などとは縁のない世界で、それを当たり前のこととして生きてきたのだ。
持て余した手で首筋を掻きながら苦笑いする刀冴の様子にようやく気を緩めたのだろう、理緒は小さくかぶりを振って何とか自分の力で起き上がった。
「あ、あの、ありが――」
「礼は後だ、早く行こうぜ。話も進みながらでいい。……あんたも大丈夫だな?」
血糊が点々と飛んだ眼鏡を白衣の裾で拭いている那智に顔を向ける。白衣の上に刀冴の血を散らした那智は「ああ」とだけ答えて眼鏡をかけ直した。
「なぜ武器を使わない?」
そして逆に刀冴に問う。その眼は刀冴の腰に差された成人女性の身の丈ほどもある愛剣・【明緋星】に注がれていた。確かにこの通路は大剣をふるうには狭すぎるが、刀冴程の使い手ならばいくらでもやりようはあったはずだ。更に言えば、覚醒領域展開中の刀冴は魔法を使うこともできるというのに。
「攻撃なんかできるわけねえだろ? この姉妹の大事な思い出なんだぜ」
当然だとばかりに断じた刀冴の脇で理緒は言葉を詰まらせる。血にまみれた己の体を一片も顧みることなくもたらされた言葉があまりに大らかすぎて、返事をする術を見失ってしまったのだ。
「思い出は心の中に残るものだ。形が壊れようが壊れまいが変わりはしない」
抑揚のない那智の物言いに刀冴はひょいと眉を跳ね上げた。
覚醒領域を展開して探索を続けていた刀冴の耳には那智と理緒の会話も漏れずに届いている。
那智が家族や家庭というものに関してどんな事情を抱えているのか刀冴は知らない。だが、刀冴が家族に対して抱く思いは決して揺らがないし、それゆえにこの姉妹に対して他人事とは思えぬ感情を覚えていることも変わりはしないのだ。
刀冴の過去を那智が知っているとは思えないが、刀冴の眼差しからいくばくかの思いを読み取ったのだろう。まだ少し血糊のこびりついた眼鏡の向こうで軽く眼を眇め、くるりと背を向けた。
「言いたいことはあるだろうが、今は先を急いだほうがいい。時間制限もあることだしな」
「ああ。ただ、二人とも俺より前に出るな。俺の後ろにいろ」
「……正気か?」
振り返った那智と、戸惑ったような理緒の瞳が刀冴を見つめる。
「また何かが襲い掛かって来たらこの体で全部受け止める、あんた達は俺が守る。だから一歩たりとも俺の前には出るんじゃねえ。いいな?」
有無を言わさぬ真剣で真摯な口調に那智は軽く眉を寄せるが、反駁する気はないようだ。素直に刀冴の後ろにつき、刀冴もまた軽い安堵の色を浮かべて肯く。刀冴も那智も、己とは違う見解を持つ相手に対して不快や不信を抱くほど狭量な人物ではない。
「あんたの妹に直接言いてえことがある」
理緒を背に庇いながら刀冴は低く声をかけた。「傍で聞いてるあんたにとっちゃあちょっと厳しいかも知れねえ。だが、できれば止めないでくれ。――未緒の目を醒ましてえんだ」
六歳で家族を失った刀冴は天人の国へと移り住んだが、そこにいた肉親は『家族』にはなってくれなかった。唯一の肉親である祖母は天人という種族の、それも純血の貴い姫君だった。夫が人間であった彼女は余りにも早く自分を置いて逝った夫を、引いては人間を、今も愛すると同時に――憎んでもいた。
刀冴が天人の国にいる間中、祖母はよそよそしい態度を取り続けた。祖母を恨んだり憎んだりしたことこそないものの、刀冴が家族というものに対する深い愛情と憧憬を抱く動機となるには充分すぎる経緯だった。
「本当は大事に思い合ってんのにすれ違うなんて、悲しすぎるだろうが」
え、と理緒は戸惑いを含んで眼を上げた。
に、と刀冴は屈託のない笑みを落とす。
「大事に思い“合ってる”んだ、そうだろ。でなきゃ妹だってあんなパスワードを設定する筈がねえ」
「そのパスワードが……分からないんです。日付はきっと12月10日。あたしたちの記念日で、誕生日」
だけど、と言葉を切って理緒は苦しげに眉を寄せた。「もうひとつの条件が分かりません。未緒のいちばん大事なものが何なのか、分からない」
分からないというよりは自信がないのかも知れない。少なくとも刀冴の目にはそう映った。
「そっか。なら妹んとこに辿り着くまでにゆっくり考えてみりゃあいい。突然こんな場所に出ちまったんだ、考える余裕がなかったのも無理ねえや」
ちゃんと妹んとこまで連れてってやるから安心しな。
快活に笑う刀冴に理緒はようやく安堵の色を見せたが、那智は沈黙を保ったままだった。
■10 December,23:00 in Unknown labyrinth■
錆びた鉄のにおいがゆるゆると鼻腔に入り込んでくる。それが何であるかフェイファーは瞬時に直感した。
『聞こえるか? 血のにおいがする』
カラスと俊介に状況を報告するフェイファーの声からは先程までの軽薄な雰囲気は消し飛んでいる。
『血……って』
俊介がひゅっと音を立てて息を吸う気配が伝わってきた。次にカラスが応じる。
『誰の血か分かるか、フェイファー』
『少なくとも双子のじゃなさそうだぜ』
『ということは……刀冴君か』
それっきりカラスは重く沈黙した。カラスもフェイファーも刀冴のことは知っている。あの刀冴のことだ、いくら巨大化しているとはいえ玩具や刃物程度で大事に至ることはなかろうが……。襲い掛かってくる品々に対して刀冴が攻撃を加えることは恐らくあるまい。反撃しないというよりは反撃できないのかも知れないとさえ思う。どちらの理由であるにせよ、この先もこのまま攻撃に晒され続ければダメージは確実に蓄積するだろう。
早く合流出来ればいい。そして、早く理緒を未緒の元へ連れて行ってやりたい。
このハザードにやってくる前、カラスは姉妹が収容された病院を訪れ、二人の病室にも入った。カラスの視線の前で二人はこんこんと眠り続けているだけだったが――しっかりと手を繋いだままひとつのベッドで眠っていた双子の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。二人の手はきつく絡み合い、病院スタッフがいくら引き剥がそうとしても決して離れず、やむなく手を繋がせたまま同じベッドに寝かせたのだそうだ。
考え込みながら機械的に足を運んでいたせいか、目の前に無機質な本棚が迫って初めて自分が袋小路に入り込んでいたことに気付く。
『津田君、こちら取島。こっちは行き止まりだ』
『了解。迎えに行きます』
『おい』
俊介との通信にフェイファーの声と荒々しい雑音が割り込む。どうやら足音と、何かが本棚にぶつかった衝撃音らしい。
『こっちだ。三人。襲われてるぞ!』
『津田君、早く来てくれ!』
急かすまでもなかった。瞬間移動で目の前に現れた俊介がカラスを連れて再び超能力を発動し、フェイファーの元へと瞬時に到達する。
同時に、ジャーンという爆発音が耳をつんざき、全身をびりびりと震わせた。
爆発音ではない。巨大なシンバルの音であった。
一見すれば気が抜けるような光景だった。おどけたピエロが身に着けるような三角の帽子をかぶり、歯をむき出しにして一心不乱にシンバルを叩く猿が通路を塞いでいる。どこにでもある昔ながらのおもちゃが天井を衝くほどの大きさになってこちらを見下ろしていた。ぎちぎち、ごとごとと間断なく響く音は彼が紛れもない無機物であることを告げている。
古ぼけたおもちゃだ。片眼は取れかけ、緩慢な体の動きに合わせて頼りなく揺れている。体を覆うふわふわの繊維は所々禿げていて、色褪せていた。既に壊れかけているのかも知れない。シンバルを叩く動作はあまりに性急で、不規則だ。
「く……っそ」
間断なく炸裂するシンバルに両耳を塞ぎ、カラスはどうにか前に進み出る。至近距離で大音声を打ち鳴らされた理緒は足をもつれさせて転倒した。彼女を庇うように両手を広げて立ち塞がるのは刀冴だ。
「刀冴君、無理はするな!」
錆びついてはいるが、巨大なシンバルのエッジは凶器だ。カラス達に気付いた刀冴は親しみのこもった笑みを唇に乗せて振り返るが、襲い掛かる二枚の円盤を避ける気はないらしい。刀冴の瞳孔が常とは違う色に染まっているのを見たカラスとフェイファーは彼が覚醒領域を展開していることを知る。壊れた猿が打ち鳴らすシンバルの外周には既に赤黒い血液がこびりついていた。ねっとりと濡れた光を纏う半固形の物体は刀冴から削げ落ちた肉だろうか。
虚ろに揺れるプラスチックの目玉を見上げていると背筋を薄ら寒いものが駆け抜けていく。
(標的確認、標的捕捉<ターゲット、ロックオン>――)
咄嗟に念動力を発動させるべくイメージを強化しようとした俊介の瞳が揺れる。
理緒が。理緒が見ている。彼女の目の前で姉妹の思い出のかけらを打ち壊すのか――?
舌打ちしたカラスが日本刀を抜き放って走り込む。まだ攻撃はしない。だがシンバルを受け流して刀冴の体から逸らすくらいなら。狂ったように打ち鳴らされる二枚の円盤に頭を挟まれでもすれば刀冴とて無事では済まない。
理緒の悲鳴がフェイファーのショート詠唱に重なる。
パチン!
高らかに打ち鳴らされた指が静寂を呼んだ。
一瞬遅れて、がたん、ごろごろ、とおもちゃが転がる音。俊介は詰めていた息を吐き出し、カラスはわずかに肩を上下させながら足を止めた。
先程のハムスターと同じだ。天使の魔法によって本来の大きさにまで縮小された猿はキーキーと歯をむき出し、シャンシャンとシンバルを叩き続けている。
「なんだ、結構可愛いじゃねえか」
両手に乗るほどの古ぼけた玩具を拾い上げ、フェイファーはスイッチを探す。背中の部分についた小さなスイッチを切ると壊れた猿は素直に動きを止めた。
「ほらよ。持ってけ」
「え……?」
差し出されたおもちゃとフェイファーの顔を交互に見比べ、しりもちをついたままの理緒はきょとんとする。フェイファーは「んー?」と相槌を打ちながら彼女を助け起こしてやった。
「これも大切な思い出なんだろ? 大事に持って帰りな」
闊達な天使の笑顔の前で理緒の瞳が震え、濡れた膜に覆われていく。ぱちぱちと瞬きをするとそれはすぐに涙になって瞳の縁に溜まった。
「泣くな泣くな。泣くのは妹に会ってからにしろ」
フェイファーは殊更に明るく声を上げて笑い、軽く膝を曲げて理緒の頭を撫でてやる。「嬉しい時や幸せな時もたくさん涙は出るからな、それまでちゃんと涙をとっとけ。な?」
理緒は小さく肯き、手の甲でごしごしと目許をこすって顔を上げた。気丈な様子にフェイファーは満足げに微笑む。元気に力強く振舞うことで理緒の不安を少しでも和らげてやりたい。先んじる者として、あたたかく見守り、導き、協力したいと天の使いは願っている。
「ちなみに、ハムスターもちゃんと保護してあるからな?」
「ハムスター? もしかして……チェリーのことですか?」
「ああ。さっきこの子も襲い掛かってきたんだけど……」
カラスは三角型のデイバックを肩から外してファスナーを下ろした。宝石でも扱うかのようにもったいぶった手つきで中身を恭しく取り出してみせる。カラスの手の中からひょっこりと顔を覗かせたジャンガリアンハムスターに理緒の表情がほんの少し緩んだ。
「フェイファーが元の大きさに戻してくれたんだ。現実世界に戻る時に一緒に連れて行ければいいんだけど」
「だーいじょうぶだって。この天使サマの魔法がかかってるんだぜー? 夢ん中だろうが現実だろうがノープロブレムさ」
それもそうか、と苦笑したカラスにフェイファーは猿のおもちゃを渡した。ハムスターもおもちゃもいったんカラスのデイパックに格納してもらったほうが手ぶらの理緒としても都合が良かろう。
「リミットが迫っている。話は歩きながらでもできるだろう」
腕時計に目を落とした那智に促され、一行は再び前を向いて迷宮の奥へ奥へと踏み入って行く。
残された猶予は一時間を切っている。
■10 December,23:15 in Unknown labyrinth■
那智と理緒を挟んで前方に刀冴とフェイファー、後方にカラスと俊介がつく。戦闘力の配分と、人外の存在に過剰に反応してしまう俊介の体質とを考慮した布陣だ。道案内を兼ねて先頭に立つのは覚醒領域の解放によって道筋を探ることができる刀冴である。領域展開中は人間の目に留まらぬほどの速さで動ける筈なのだが、己が身を盾にして理緒を守ると決めている刀冴は彼女の傍を離れるつもりはないらしい。
理緒の手におっかなびっくり握られているのは俊介の魔剣・ニアだ。戦闘力を持つ者が万が一理緒の傍から離れてしまった場合の保険として俊介が持たせたものである。
「所で、パスワードはどうだ? 分かったか?」
「……それが、まだ」
「ん、そっか。じゃあゆっくり考えてみることだ。とにかくおまえならきっと分かる筈」
理緒を振り返ったフェイファーは心からの笑みと言葉を向ける。「逆に言うとおまえにしか分からない。そうだろ?」
「日付はすぐ分かるよね。もうひとつの条件も……未緒君にとって何が一番大事なのか考えるまでもなく分かると思うけど、どうかな?」
カラスの穏やかなアドバイスに理緒は眉尻を下げて幾度か目を瞬かせ、軽く唇を結ぶだけだ。
既にパスワードの見当がついているかのようなカラスの口ぶりに俊介は首を傾げる。フェイファーはどうか分からないが、これまでの会話から察するに、刀冴もパスワードの謎が解けているようだ。
俊介とて考えていないわけではない。姉妹の一番大事な日付は二人の誕生日かつ記念日である12月10日。未緒の一番大事なものも見当がついている。だが両者がどうしても結び付かないのだ。
「パスワード、分かりました?」
そこで、白衣と眼鏡を纏ういかにも秀才然とした那智に小声で尋ねてみた。
「なぜ私に訊く?」
しかし顔を半分だけ振り向けた那智の表情と声は少々愛想に欠ける。とっつきにくそうな、まるでクラスの風紀委員のようであるという第一印象はあながち的外れでもなかったらしい。
「い、いやあの、一番頭が良さそうだなーって思ったから……」
「では、おまえはパスワードが分からないのか?」
「二つの条件は何となく分かるんです。日付は誕生日。未緒の一番大事なものは――」
答えをひそりと耳打ちすると、那智は俊介の推測を肯定するかのように浅く首肯した。
「そこまで分かっているなら後は両者を結び付けるだけだろう。簡単な話じゃないか」
「えーっと……なんていうか、それができないから訊いてるわけで……」
「難しく捉え過ぎなのではないか? 単純に簡単に、目で見たまま考えれば自ずと答えは出る」
分かったような分からないような答えに俊介の頭は余計に混乱したが、それ以上は訊かないでおくことにした。
「パスワードもそうだが……あの鎖はどう考える? あの鎖を何とかしなきゃ未緒は助けられねえぜ」
刀冴の問いに理緒の顔が曇る。
「あの鎖や錠は未緒の心じゃねえか? だけどこれもひとつの機会さ。互いを思い合える、もっと心地良い間柄になるためのステップみたいなもんだと捉えればいい」
言葉に迷う理緒に代わってフェイファーが飄々と答えた。「好きな相手を困らせちまうことは誰にでもあると思うぜ? このわだかまりを経験してきちんと向き合う時がきっと今なんだ」
善と悪、最良のことは分かっても、どうしようもなく心が逸れていってしまうことはある。思ったように事が運ばず、好きな相手を困らせてしまうことは誰にでも起こり得ることだ。
「思いの全てを思うまま全部伝え切る事が出来れば鎖は消えてなくなると思う。そのための助力は惜しまねえぜ。……って、俺カッコつけすぎ?」
わざと冗談めかして語尾を持ち上げたフェイファーだったが、心からの言葉はきちんと理緒に届いたらしい。理緒はほんの少し赤みを取り戻した頬でこくんと肯いた。
「互いを思い合う……か」
合流してからは一度も理緒に話しかけなかった那智が初めて彼女に水を向ける。どうやら那智は理緒と必要以上に会話をする気はないらしい。
「本当に互いが大事ならそもそもこんな事態など引き起こさなかった筈だがな」
「那智君」
那智の声に冷えたものを感じ取ったカラスがやんわりと制止に入る。しかし那智は意に介さない。もっとも、仮に声高に非難され、罵られたとしても那智は全く動じなかっただろうが。
「さっきも言ったが、おまえたちにあるのは絆ではなく単なる血縁だ。だから大事だ大事だと言いつつ相手の気持ちが……相手が何を思うか、何を考えるか、どう思うかが判らずにいるんじゃないか?」
「あんた」
探るように眉根を寄せて振り返った刀冴がむずりと唇を動かした。「さっきからずっとその調子だが……まさか、理緒にそれを言いたくてここに来たんじゃねえよな?」
非難したり否定したりする気はないのだろう。だが那智と最も対照的な家族観を持つ刀冴は何も感じずにはいられないのかも知れない。だが厳しい視線にも那智はたじろがなかった。凛と背筋を伸ばし、人ならぬ将軍の双眸を真っ向から見据える。
「この姉妹に腹立たしさを感じていることを隠す気はない。だが――それでも、二人のことは何が何でも守る」
へえ、と前を行くフェイファーが金眼をぱちくりさせた。
「死んでしまえば何もかもが終わりだ。寿命が尽きるまで死ぬ気で生きろ」
理知的な紫の双眸が初めて自ら理緒の眼差しを捉える。理緒は戸惑ったように瞳を揺らすが、辛うじて視線を逸らさずに那智を受け止めた。
「本当に大事なら……一緒に居たいのなら、素直に気持ちを伝えることが大切だと思う。そうでなければすれ違ってばかりで、やがて悲劇が訪れるだけだ」
その実例に近いケースを那智は最近目の当たりにしたばかりだ。出会い系サイトで知り合って交際を始めた一組の男女のエピソードだったのだが、気持ちを言葉にしなければあの二人の間柄はあのまま途切れていたかも知れない。
どんなに強い気持ちを抱いていたとしても素直に言わなければ伝わらない。あの一件で那智はそれを知った。
「そうだよ。建築士を目指す理由とか、大学を受ける時に一緒に東京に行こうとか、ちゃんと妹に伝えた?」
俊介も理緒の背中に声をかける。「言わなくても解ってくれるだろうと思って言わなかったことなんかは?」
「……理由は、言ってない」
唯一同年代である俊介は理緒にとって気さくに話せる相手なのだろう。振り向いた顔はうつむき加減ではあったが、声はそれほどこわばってはいない。
「またあたしを置いて行っちゃうの、って泣きながら言われて……動揺して、言葉が出なくて。十年前のこと思い出して。未緒、十年前と同じ表情してたから――」
震える声はアンプのボリュームを絞るように消え入る。十年前、別々の里親に引き取られることになった時の一件は仕方なかったこととはいえ、理緒の胸の中で小さな負い目として凝っていたのかも知れない。
「言わなくても解ってくれるだろうって思ったのは……あるかも。建築士になるって言えば全部解ってくれると思った、約束をちゃんと覚えててくれると思った。だけど未緒は泣くばっかりで何も言わなかったから……約束のことなんか覚えてないかも知れないって思って」
「うん。どうしてそう思うんだ?」
丁寧に相槌を打ちながら俊介は続きを促す。
「約束を覚えてたら受験を応援してくれると思った。それに、一緒に東京に行きたいって思わないわけじゃなかったよ。だけど未緒の家のことと成績のこと考えたら……」
言い出しづらかったのだと結んで理緒は唇を震わせる。傍らで那智がこぼす冷めた溜息には俊介は気付かないふりをした。
「それって、説明しなくても相手に伝わる筈だって決めつけてるんじゃない? 仲のいい妹だから解ってくれるだろ、みたいな。ああ……そう決めつけてたから、解ってくれなかったのがショックで何も言えなかったってことか」
理緒は答えずに軽く鼻をすすり上げるだけだ。それを肯定とみなして俊介は質問を続ける。
「誕生日の約束をキャンセルされた理由は確認したの?」
理緒は小さくかぶりを振った。
「センター前の最後の追い込みの時期に遊んでる暇なんかないでしょ、ってだけ言われた。それ以上いくら連絡しても答えてくれなくて」
「ふうん」
それは受験生である理緒を気遣っての台詞ではないのだろうか。
俊介は「やれやれ」とわざと芝居がかったしぐさで頭を掻いた。
「言葉が足りないのはお互い様、ってことか」
誤解の積み重ねとコミュニケーション不足が原因ということだろう。相手は自分を理解してくれているという信頼と安堵は無上の喜びだが、その安心感は時として怠慢を生む。積み重ねた信頼の上に胡坐をかいて相互理解を怠れば手間暇かけて築いた関係もやがては瓦解する。小さな石垣のヒビも、いくつも積み重なれば堅固な城塞を崩落させることとてあるのだ。
「せっかくお互い仲いいんだから、仲良くすればいいのになあ」
ざっくばらんな口調に理緒は「え」と目を上げた。急に顔を上げた理緒に俊介はほんの少しどぎまぎしながら言葉を継ぐ。
「妹の所に着いたら、二人でどうしたいか、何をしたいか……周りのことは一切気にしないで、自分の気持ちだけで話すといいかも。他の人も言ってたけど、想いはちゃんと言葉にして伝えないと。だろ?」
思春期の少年らしいはにかみを含んだ笑みに理緒はようやく微笑を見せた。
順々に理緒にかけられる一連の言葉を那智は終始冷めた目と心で傍観している。
那智は言葉を飾るタイプの人間が好きではない。だがそれをこの場で口に出すことはしない。諍いになろうが謗りを受けようが頓着しないが、刻一刻とリミットが差し迫っている今は言い争っている時間すら惜しい。だから沈黙という賢明な選択肢を採る、ただそれだけのことだ。
■10 December,23:20 at Center of labyrinth■
「ちっ・ちっ・ちっ・ちっ・ちっ・ちっ・ちっ・ちっ」
有名な童話のウサギよろしく取り出したのは懐中時計。チクタクと秒を刻む針に合わせて舌を鳴らし、頭を揺らす。規則的に刻まれるリズムと一緒に月色の耳がぴょこぴょことお辞儀する。
「残り三十九分四十秒ー」
ふんふんと鼻歌を歌いながらぱらぱらとめくるのは一冊の本。何冊もの本が本棚におさめられ、あるいは乱雑に床に積まれている。リズミカルにページを繰るウサギの表情は相変わらず笑みを刻んだままだ。
「未ー、緒ー、クン」
斜めにことんと首を傾げれば、傍らには鎖に絡め取られて吊り下げられた少女の姿。武骨な鎖が華奢な体を無遠慮に侵し、ご丁寧に頑なな錠までぶら下げて彼女を閉じこめている。
果たして彼女は閉じこめられているのだろうか。自ら望んで閉じこもったのではないのか。
南京錠によく似た錠には鍵穴らしきものが一切見当たらない。この錠を開けるための鍵は物理的な形を伴った物体ではないということなのだろうか。
「ふふん、ふん」
ぴょこんと立ち上がり、ウサギはくるりとおどけたステップをひとつ。
「未緒クーン、どうしよっか? きっと理緒クンたちが迎えに来ちゃうね?」
ふふふん、ふん。
ぴょいぴょいと跳ぶような歩調で歩み寄り、白い頬に無造作に手を触れる。すべすべとした、しかしひんやりとした感触はまるで蝋細工か何かのようだ。
「このままここにいてもいいんだよ? このpure rabbitにはそういう友達がたくさんいるからね?」
パチン、パチン。
打ち鳴らされる指に応じて、コミュニティサイトに文字通り『取り込まれた』人間たちの顔が虚空に浮かんでは消えていく。
「結構いるらしいよー? ネットにハマるあまり、文字通り『ネットの住人になっちゃう』人たち。ネット中毒ってやつの極端なバージョンかな。だけどそんなに珍しい話じゃないみたい。ここはね、そういう人たちが寄り集まって暮らしてるコミュニティなのさ。心も体もネットに取り込まれちゃった人たちのね」
くすくすくす。
「キミには理緒クンしかいなかった、そうだよね? 理緒クンを失ったキミのよりどころはボクやpure rabbitだけなんだもんね? 理緒クンのことがだーい好きだった分、反動が大きかったんだもんね?」
だからずーっとずーっとここにいればいいじゃん。ね?
柔らかな耳を揺らして無邪気に笑うウサギの前で、未緒は頑なに目を閉じたままだ。
「ん?」
垂れ下った耳の先端がぴくんと持ち上がり、近づいてくる気配と声を捉える。
「……そろそろ迎えが来るみたいだね。時間ギリギリってとこかな?」
ととん、とん。ピエロのようなしぐさでバックステップを踏み、月色のウサギは囚われの少女に優雅に一礼してみせた。
「他の人に何を言われても惑わされちゃ駄目だよ? キミ自身がちゃーんと見極めなきゃ駄目だからね?」
ひょいとトンボを切り、淋しい兎はぽふんと弾けて静寂に消える。
後には冷たい金属の気配がわだかまるだけだった。
■10 December,23:25 in Unknown labyrinth■
どうやら迷宮の最深部へと順調に近付いているらしい。間を置かずに襲い掛かってくる玩具や人形の数々が問うまでもなくそれを教えてくれる。
ガードが固くなっているということなのだろう。ダンジョンの最奥やボスが潜む部屋に近付けば近付くほどモンスターとのエンカウント率が上がったり、強い敵が出現するといったケースはゲームの世界ではよくあることだ。もっとも、先刻俊介が断言した通りこれはゲームなどではないし、襲い掛かってくる品々も敵やモンスターでは有り得ないのだけれども。
フェイファーの指が鳴る。天使の魔法を潜り抜けた思い出の品を受け止めるのは己が身を盾となした刀冴だ。俊介は前衛のサポートを行いつつ理緒と那智を庇い、背後からの襲撃に気を配る。
後方は俊介だけで充分だと判断したカラスは前線へと飛び出した。
「おい!」
サバイバルナイフを抜いたカラスを見とめ、刀冴が怒号を上げる。理緒の目の前で姉妹の思い出のかけらたちに攻撃を加えてほしくないのだろう。しかし刀冴の前に出たカラスはナイフを眼前にかざしただけで、最小限の動きでひたすら防御に徹する。刀冴のトレードマークである青い衣装はじっとりと血を吸い、もはや暗い紫色に染まっているではないか。彼が天人ゆえの並外れた肉体と高い治癒力を持っていても、目の前で流れる血を見過ごすことなどできやしない。
フルコンタクト空手の使い手でもあるカラスはナイフが間に合わなければ拳を固めて顔面をガードし、人形やぬいぐるみの攻撃は突き出した掌底で受け流した。襲い掛かる記憶のかけらたちはカラスの拳や足に当たり、ある者はひしゃげ、ある者は床に落ちていく。二人の思い出が傷ついて行く度に理緒の悲鳴がカラスの背を打つ。彼女の悲痛な叫び声に応じるように刀冴が苦しげに唇を歪める気配が伝わった。俊介が何事か言葉をかけているのが聞こえる。常人の耳には聞き取れぬほどの短い詠唱を繰り返しながら指を打ち鳴らすフェイファーは破壊ではなく無力化に心を砕いていた。軌道を逸らされたり縮小されたりした品々があさっての方向へ飛んで行き、あるいは足許を転がっていく。
「理緒君!」
少しずつ、だが確実に前進しながらカラスは叫ぶ。わざわざ振り返って確かめずとも理緒はきっと聞いていてくれると確信している。
「君は思い出と未緒君、どちらが大事なんだ!」
真正面から突きつけられる問いに少女はひっと息を詰める。カラスは手を休めない。理緒が答えを出すまでは防御だけでしのぐと決めている。体の前にかざした腕に次々と熱が走り、やや遅れてちりちりとした痛みが脊髄を駆け抜けていく。背筋が薄ら寒くなるような風切音とともに飛来し、ぴっと音を立てて頬を切り裂いていく凶器が何であるのか、いちいち確かめている暇はなかった。
刀冴は悲鳴一つ上げない。文字通り体を張って攻撃を受け止める度に息を止め、全身を覆う筋肉に渾身の力を込めている気配がカラスにも伝わってくる。
(標的確認、標的補足<ターゲット、ロックオン>)
フェイファー、刀冴、カラスの背中を順々に見つめ、俊介は意識を集中させる。
(――治癒<キュア>!)
次々と出血が止まり、塞がっていく傷に気付いた前衛三人は怪訝そうに顔を見合わせた。俊介の念動力の効果だといち早く察したカラスとフェイファーが振り返って短く礼を言う。対象の自己治癒力を高めて傷の治りを促すものなので重傷は回復しきれないが、一定の効果はあったようだ。
「おう、恩に着るぜ!」
振り返った青狼将軍も闊達な笑みとともに礼を投げてよこした。大らかな態度に俊介は引きつりながらも微笑を返す。気さくに話せそうな頼りがいのある人物だということくらいは察しているが、彼の身に流れる天人の血にはやはり体が過剰に反応してしまう。もっとも、刀冴はそんな俊介に対して眉を顰めるような男ではないのだろうが。
「……取島さん」
俊介の傍らで理緒が震える唇を食いしばる。ちらと振り向いたカラスが無言で先を促す。
「未緒。未緒です」
そして理緒は顔を上げ、最前線のカラスの耳に届くように――未緒にも届けとばかりに、ありったけの声を振り絞って断言した。
「思い出より未緒のほうが大事!」
「よし」
その答えを待っていた。
カラスが攻撃に転じるべく日本刀を抜き放つのと、通路の奥から細長い物体が飛来するのとはほとんど同時だった。
縫い針だ。2メートル弱ほどの長さを持つ、細くて鋭利な針だ。前方に展開された立体文字を素早く読み取ったカラスは、それが二人で買った裁縫セットの針であることを知る。
通路の幅は狭い。細長い日本刀をふるうには些か難儀しそうだ。
――だが、天井は高い。
大上段に振りかぶったカラスは床を蹴って高々と跳躍した。垂直に振り上げられ、そのまま真っ直ぐに振り下ろされる白刃が長い針を中心から真っ二つに断ち落とす。
「遠慮しなくていいんだな?」
フェイファーの唇を不敵な笑みが彩った。「幾重にも折り重なる黒の雷光よ、連なり烈火の如き災いへと成す――雷撃光臨!」
どこか謡うようですらある滑らかで美しい詠唱。凛と打ち鳴らされる指の音を轟く雷鳴が掻き消す。美貌の天使が呼んだ烈しい閃光は巨大な針をしたたかに打ち据え、あっという間に消し炭のような残骸へと化した。
「形が崩れても思い出は残ると何度も言ったはずだ」
先を急ぐぞと無表情に言い残してずんずんと進む那智に肯き、理緒は小走りに後を追った。
■10 December,23:35 in front of Iron door■
「次の角を曲がった所だ」
刀冴が告げると同時に、本棚で覆われた角を曲がった一行はそこが目的地であることを知った。
通路の行き止まりをものものしい鉄扉が塞いでいる。
天井には煌々とスポットライトが灯っているのに、巨大なその扉は光をまったく反射していない。光という光を吸い込んでしまったかのように沈鬱な色彩に沈んでいる。頑なに沈黙する扉にはスイッチ盤のようなものが取り付けられており、そのすぐ上には扉がロックされていることを示す赤いランプが灯っていた。整然と並ぶアルファベットの文字盤はパソコンのキーボードそのままだ。
どこからか拍手の音が聞こえてくる。
「やあ、おめでとう! よくここまで辿り着いたね!」
ぽんと宙返りして降り立ったのはリントである。「キミたちの活躍はすべて見せてもらったよ! 大したものじゃないか!」
「軽々しくおめでとうなんて言うんじゃねえよ」
人を小馬鹿にしたような物言いとけたたましい声にやや不快感を覚え、刀冴は軽く顎を引いてウサギ少年を見下ろした。
「本当におめでとうと言えるのは未緒を助けてからだ。この状況がめでてえもんか」
この扉を開けさえすれば向こう側に行ける。だが、あちら側とこちら側は――双子の姉妹の間はまだ、あまりにも分厚い扉によって隔てられているのだ。
「うん、うん、その通りだ! じゃあパスワードを入力しないとね! あ、言っておくけどボクをあてにしてもらっちゃ困るからねー? ボクはヒントはあげられないから!」
大袈裟にお手上げのポーズを取ってみせ、月色のウサギはけらけらと笑い続ける。「しつこいようだけどチャンスは一回ポッキリだから慎重にね! 一度でも間違えば扉は永遠に開かないよ!」
「少し黙ってろって! 気が散るだろ!」
「おっと、怖い怖い!」
俊介に一喝されたリントはくすくすと笑い、数歩下がって傍観を決め込んだ。
それを確認し、五人は手短な話し合いに入る。
「パスワードが解ってる奴は?」
フェイファーが問うと、カラス、那智、刀冴の三人が軽く手を挙げた。
「アルファベットで三文字、大文字と小文字も厳密に区別される。二人の一番大事な日と、未緒君の一番大事なもの――」
指を折り、手がかりを丁寧に数え上げながら反芻してカラスは眼鏡を押し上げる。「パスワードはすべて大文字で『RIO』だと思うんだけど、どうだろう?」
「え」
と声を上げたのは理緒であった。那智と刀冴もカラスと同じ結論に行き着いていたようで、ただ黙って肯くだけだ。
「未緒君にとって一番大事なのは理緒君じゃないかな?」
穏やかに首をかしげて問うカラスに、理緒はぱちぱちと目を揺らす。
「一番大事な日は12月10日で、一番大事なのが理緒だっていうのは分かりますけど」
眉を寄せて口を挟むのは俊介だ。「その二つをどう繋げれば『RIO』になるんですか?」
「1210の1と2をぴったりくっつけると大文字のRに見えない? ちょっといびつなRだけど……活字よりも手書きにしてみたほうが分かりやすいかもね。それから、1と0はIとO。だからRIO」
ひゅう、とフェイファーが口笛を吹いた。
「名前ならばRのみが大文字でiとoは小文字……Rioという可能性もあるが、1はローマ数字で表すとI。アルファベットのIと同じだ。RとIが大文字でoのみ小文字では名前の表記としては不自然であるからして、すべて大文字であると思料する」
「ああ。それに数字の1は見たまんま大文字のIだ、頭上に点がついてねえから小文字のiとは思いにくい。てことは全部大文字だろう」
しかつめらしく自説を述べた那智に刀冴が続いた。「で、あんた達はどう思う?」
「その説に賛成です。ってか分からなかったし、パスワード」
「んー。俺は『Anv』かと思ったんだけど」
俊介に続いて答えたフェイファーは軽い苦笑を滲ませながら肩をすくめた。「記念日=Anniversary、その略語でAnvじゃねえかってな。だけどまぁ、Anvじゃ特定の日付を表すことにはならねえし、ましてや一番大事なもんっていう条件にも当てはまらねえから……RIOのほうが説得力あるっぽいわ。なあ?」
同意を求められた理緒はほんの少し嬉しそうに、それでもまだ不安そうに口を開いた。
「確かになるほどなぁって思います。あたしももしかするとそうなんじゃないかって思ってました。でも、だけど……未緒の一番大事なものがあたしだなんて、そんなの――」
「自信を持って、理緒君」
カラスがそっと理緒の背に手を添えた。「大丈夫。君が未緒君を思うのと同じくらい、きっと未緒君も君のことが好きなんだ」
「扉はあんた自身の手で開けな。あんたが自分でパスワードを入力するんだ、そうでなきゃ意味がねえ」
刀冴に促され、カラスに背中を押されて、理緒は扉の前に立った。
分厚い扉の前で小さな肩がかすかに震えている。それでも、安心させるかのように背中に添えられたカラスの手は大きく、温かな安堵を運んでくれる。
「あと十九分二十九秒ー!」
懐中時計を覗き込んだリントがくすくす笑いながら残り時間を告げる。理緒は動かない。胸に手を当て、幾度か深呼吸して――やがて、震える右手をそっと押し当てた。
ピッ……ピッ、ピッ。
キーを打つ電子音がやけに大きく響き、小さな液晶の窓に『RIO』の文字が表示される。
『OK?』
理緒の名前の下で瞬くのは確認メッセージ。一度でもパスワードを間違えれば永遠に未緒とは会えない。リント以外のだれもが無意識のうちに息を詰め、固唾を飲んで見守る。
一瞬怖じたようにびくりと手を震わせたものの、理緒はすぐにEnterキーを押した。
――きんと音を立てて静寂が張り詰める。
しかし五人は確かに見た。小さな理緒の背中越しに、スイッチ盤の上方に取り付けられたランプが赤から緑へと変わるのを。
がこん。ごう……ん。
巨大なロックが外れたかのような音。次いで、分厚い鉄扉が億劫そうに身じろぎする。
そして――頑なだった扉は、一行を招き入れるかのように軋みながら内側へと開いたのだ。
「や……っ」
やった、やった、やった!
快哉を叫びたくなるのを懸命にこらえ、体を折った俊介は幾度も小さくガッツポーズを繰り返す。
「俺達が手を貸せるのはここまでだ」
背に添えていた手をそっと放し、カラスは穏やかな微笑を落した。「ここから先は君の言葉が重要になってくるんじゃないかな?」
「……はい」
「さっきの津田君との話だと……君がどうして建築士になりたいと思ったのか、未緒君にはちゃんと伝えてないんだよね?」
カラスの問いに理緒は小さく肯く。
「じゃあ、それもきちんと伝えたほうがいい。そうじゃなきゃここに来た意味がないと思うよ」
「そうさ。今のわだかまり、お互い相手をどれだけ大事に思ってるか、遠く離れていても忘れていなかったこと……全部素直に妹に伝えな。俺はそのために魔法を大盤振る舞いしたんだぜ?」
わざと冗談めかして笑うフェイファーの後ろで、刀冴は厳しく眼を眇めて扉の向こうの光景を注視している。
スポットライトが灯るこちら側とは対照的に、あちら側にはろくな明かりはないようだ。冷え冷えとした空気と薄闇が音もなく這い出て来るのが分かる。
「あ……でも」
ようやく興奮がおさまったらしい俊介が眼鏡をかけてふと呟いた。「もし俺が未緒なら、この先には理緒くらいしか入って欲しくない……かな」
この扉の向こうはいわば未緒の心の最深部。心の奥に他人が入るのはまずいのではと躊躇う俊介の弁はもっともではあった。
だが、理緒は小さく首を横に振る。
「一緒に来てください。……もし迷惑でなければ、見届けてください」
「言われなくたって俺は行くぜ。最初からそのつもりだ」
刀冴は真っ先に進み出た。どうしても未緒に言いたいことがある。半分はそのためにここに来たようなものだ。
「俺も。無事に再会できたら贈りたいものもあるし?」
「私も行こう。どんな結末を迎えるのか、興味がある」
「……じゃあ俺も。あ、そうだ、家族に会うのにナイフはいらないよね」
フェイファーと那智に続いて俊介も肯き、理緒に渡していた魔剣ニアの返却を求める。無意識に緊張していたのだろう、剣を握り締めていた理緒の手は白く硬く、こわばっていた。俊介がニアを回収すると小さな手にほんの少しふっくらとした赤みが戻った。
「オーケー! それでは、六名様ごあーんなーい!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて先頭に立ったリントがギャルソンのように腕を折り畳んで優雅に一礼し、一行を中へと促した。
■10 December,23:45 at Center of labyrinth■
そこには夢で見たままの光景が広がっていた。
どうしてこの場所はこんなにも暗く、寒いのだろう。それにこの閉塞感といったら……。決して狭い空間ではない。それどころか二十畳ほどはあろうかという広い部屋なのに、無機質な壁と本棚と天井、乱雑に積み上げられて所々崩れた本の山がひどく寒々しさをもって迫るのだ。
そして、武骨な鎖に雁字搦めにされて天井から吊り下げられた物言わぬ未緒の姿。
「み――」
もはや言葉にならない。片割れである妹に駆け寄ろうとした姉の足はもつれ、転倒した。それでも理緒はすぐに起き上がり、真っ直ぐに未緒へと駆け寄る。
「未緒、未緒、未緒! ねえ、未緒――」
ああ、理緒の身長ではぶら下げられた未緒の足にしか届かぬ。爪先に縋りついてがちゃがちゃと鎖を揺らしても未緒が目を覚ます兆しはおろか、鎖がほどける気配もない。
普通の鎖ではないことを遠目に見てとったフェイファーだったが、試しに呪文を紡いで指を鳴らしてみる。しかし、というよりはやはり、というべきだろう、頑なな鎖と錠は天使の魔法すら拒絶して沈黙を保ち続ける。
「さあ、どうする?」
リントは頭の後ろで両手を組んで相変わらずにやにやと状況を見守っている。「刀冴クンのそのおっきな剣で斬ってみる? きっと無駄だと思うけどねー?」
刀冴は答える代わりにぎろりとリントを睨めつけた。言葉こそ発しなかったものの、その厳しいまでに鋭い視線が彼の心情を物語っている。リントは相変わらず軽薄な笑いを浮かべたままだったが、それ以上言葉を発することはしなかった。
「聞こえてんだろ」
すうと息を吸い、未緒を見上げた刀冴は腹の底から声を出して言葉を紡ぐ。
「見えてんだろ、なあ? 理緒はこんなぼろぼろになって……あんたを助け出したい一心でここまで来たんだぜ?」
普通にしていれば人並の器量であろう理緒の顔はいまや薄汚れ、服もあちこちにかぎ裂きを作って、擦り傷や切り傷が覗いている。守られていたとはいえ流れ弾が理緒の体を掠めることもあったし、彼女は那智と合流するまでは一人で迷路をさまよっていたのだ。
「それだけじゃねえ、理緒はあんた達二人の未来を懸命に模索してる。理緒がどうして建築士を目指すのかちゃんと考えたことあんのかよ? 二人で住む家を建てるために決まってんだろうが!」
未緒は目を閉ざしたままだ。だが、高圧電流にでも触れたかのようにびくりと震える理緒の体が、刀冴の言葉が真実であることを言葉より雄弁に物語っていた。
「理緒は約束を果たそうとしてる。そのために必死なんだ。じゃああんたはどうしたいんだ? どうするんだ、どうするべきなんだ? あんた、理緒に甘えてるんじゃねえのか?」
現状のままでは結局何も変わらないと判っていて、理緒の懸命さに甘えてはいないか。
未来を見詰めた理緒の懸命さが未緒を置き去りにしているのかも知れない、そのせいで未緒に寂しい思いをさせているのかも知れないと理解はできる。だが、人間はみな自分の願いのために生きるのだと刀冴は思う。未緒もまた、自分で自分の願いを形にしなくてはならない。
「目ェ醒ませよ!」
覚えず、刀冴はぎちりと拳を握り締めていた。「自分がどんだけ大事にされてるか、どんだけ必要な存在か、あんたはしっかり目を開いて見るべきだ!」
断罪のように振り下ろされる言葉は荒々しいまでに厳しいが、どうしようもなく真摯で、懸命だ。
刀冴は愛情深い男だが、決して甘くはない。むしろ、情が深いゆえに容赦なく厳しいのが刀冴という人物の本質であるのかも知れない。
無意識のうちに噛み締めた奥歯がぎりりと音を立てる。
(あんた達はちゃんと生きてるじゃねえか。こんなに近くに居られるじゃねえか!)
大事な家族が目の前に居るのに。手を伸ばせばすぐ届くところに……言葉を交わし合い、触れ合える場所に居るのに、どうしてこんなにもすれ違わなければならいない?
二度とまみえられなくなってから悔やむのでは遅い。どんなに強い愛情を抱こうと、引き離されてしまった後ではそれを伝えることすらかなわなくなる。
「言ったろ。思いの全てを思うまま全部伝えろって。そうすれば鎖も錠もなくなる筈だって」
フェイファーがとんと理緒の背中を押した。「おまえらって不便な生きモンだからな? 言葉ってやつをうまく使わないと伝わらないことが結構あるんだぜ?」
「未緒、聞こえてる? 聞こえてるよな? 今すぐ答えてくれなくてもいいから聞いてくれよ」
俊介の視界に映る未緒はどこまでも石膏像のようだ。白くて、滑らかで、綺麗で――頑なで虚ろで、無機質で。
「結局、二人はお互いが一番大事なんだろ?」
だが――その問いに、初めて未緒の瞼が震えたような気がした。少なくとも俊介の目にはそう見えた。
「だったらちゃんと言葉にして言わなきゃ。じゃないと分からないだろ、いくら仲良くたって言わないと分からないことだっていっぱいあるだろ? 感謝の気持ちは言わないで後悔することはあっても、言って後悔はしない筈だから」
はたしてそれは姉妹どちらに向けられた言葉であったのだろうか。
「理緒と一緒に生きたくねえのか? 理緒はあんたと二人で生きるために必死なんだ!」
刀冴の言葉に応じるようにぴくぴくと未緒の瞼が動く。まるで眠りから覚めようとしている者のように。
だが、それだけだ。鎖に巻き付かれた彼女の体は身じろぎすらしないし、鎖や錠が解ける気配もない。
「あと九分五十二秒ー!」
笑いを含んだリントの声だけが空虚に響く。
那智は一行から二、三歩離れた場所で腕を組んだまま静観していた。
件の映画を見て理緒に苛立ちを覚えたことは那智であったが、未緒のこともまた腹立たしく思う。
『自分はこんなに努力しているのにこんなに頑張っているのにどうして判ってくれないの?』
那智の目には未緒がそんな自己アピールをしているようにしか見えなかった。那智は努力という言葉が嫌いだし、努力しろという言葉も同等に嫌いだ。その単語自体も嫌いだし――百歩譲って『頑張れ』という意味合いだとしても、それは他人が言うべきことではなく本人が決めて実行するものであるというのが那智の持論である。
(努力したと自分で抜かす人間に限って大してことはしていないし、自己正当化もいいところだ)
眼鏡の向こうの双眸はあくまで冷えた、どこか白々しくすらある光を纏っている。それでも――職業柄、命というものに対して敬意を抱いているせいなのだろうか――、二人には何が何でも生きてほしいし、死んだらすべてが終わりだと思うことに変わりはないが。
「理緒君。肝心の君の本音はどうなんだい?」
じっと見守っていたカラスがようやく口を開いた。「みんなが言ってること、結構当たってると思う。だけどさっきも言ったよね? ここからは君自身の言葉が重要になってくるんじゃないかな、って」
君の思いを、君自身の言葉できちんと伝えるんだ。
静かに諭すカラスに応じるようにして、理緒はようやく顔を上げた。
「未緒。……ねえ、未緒」
声が震えている。渦巻く思いと涙が小さな胸を塞いで、苦しい。それでも理緒は懸命に言葉を探し、ひとつひとつ想いを形にしていく。
「ごめんね。何も言わなくてごめんね。言わなくても解ってくれるはずだって決めつけてた。未緒のこと何も分かってないってさっき言われたの、その通りだった。……約束、したよね。大きくなったら素敵なおうちを建てて一緒に暮らそうって」
涙が出そうだ。だけど泣いては駄目だ。嬉し泣きのために涙を温存しておけとフェイファーに言われたのだから。
「だからあたし、建築士になりたいの。未緒と一緒に暮らす家を自分でデザインしたいから建築士になりたい。だから専門の建築ができる東京の大学に行きたい」
がちゃり、と鎖がかすかにこすれ合ったような気がした。
ほんのわずかに――しかし確かに、未緒が身じろぎしたのだ。
だが、動いたのでは未緒の体ではなく心であったのかも知れない。
「未緒との夢のためだから頑張ろうって思える。未緒のためだから頑張れるって……ううん、違うね」
ちょっぴり眉尻を下げた表情は、切なそうにも、はにかんでいるようにも見えて。
「未緒のためだけじゃない、あたしのためでもあるんだ。あたしは未緒が大好きだから、大好きな未緒と一緒に生きていきたいから……」
泣かないと決めたのに。未緒が戻ってきた時のために涙をとっておこうと決めた筈なのに。
どうして今、視界がこんなに滲んでいるのだろう? どうして頬がこんなにも濡れているのだろう?
「未緒。未緒。未緒の気持ちを、未緒がどうしたいか聞かせて。未緒のことを理解するチャンスをちょうだい。二人で話して、どうしたいか、どうすればいいか考えよう? お願い未緒――」
戻って来て。
その声に応じたのは未緒ではなく、彼女の足許に積まれた本の山だった。
迷路探索中に襲い掛かって来た時と同じようにむずむずと動いた本に一行は反射的に身構える。ごとんと山から落ちら本のページが風に吹かれたかのようにぱらぱらとめくれ、薄く光を放つ立体文字が緩やかな螺旋を描いて紙の上から剥がれていった。
それは、未緒がブログにロックをかけた後に綴られた記事の一端だった。未緒が閉じ込めていた、悲痛なまでの真情の吐露であった。
『姉がまた遠くへ行っちゃうって思ったらパニックになっちゃった。ようやく落ち着いてきた。……姉が建築士になりたいって言ってたのは、もしかして子供の頃の約束のせいだったのかも知れない』
『だけど今更姉には聞けないよ。あんなふうに泣きついて喚き散らしちゃったし……』
『毎年恒例の誕生日の約束、キャンセルしちゃった。年が明けたらすぐセンター試験なんだから頑張ってもらわないと。だけど、可愛くない言い方しちゃったな。こんな自分……イヤ。姉もこんな妹なんか……』
『進学以外にあたしが東京に行く方法はないのかな? 何でもいい、姉と一緒に行きたい』
『もし姉がこのパスワードを当ててくれたら奇跡だよね? ヒントも残してないから無理だろうけど……。だけど、ヒントを出してたら姉は当ててくれたかな?』
「なん……だよ、これ」
俊介は顔をくしゃくしゃに歪め、眼鏡越しに懸命に文字を追う。「こんなこと書くくらいなら、早く戻って来りゃいいのに」
未緒はきっと待っていた。理緒が来るのを待っていた。何も言わずにすべてを拒否して勝手に閉じこもったあげく助けが来ることを期待するなどあまりに幼稚だ。だが――今のこの状況では、そんな幼ささえ理緒にとっては愛おしいだろう。
「時間がない。あと五分を切った」
腕時計の針を読み取った那智が冷静に残り時間を告げる。
(もし未緒が戻ってこねえつもりなら――)
愛剣の鞘を握り締め、刀冴はちらりと理緒の横顔を見下ろす。
このまま時間切れになるようならば……未緒がこのままこの場所に閉じこもることを選ぶならば、最終的な手段として、この手で理緒を楽にしてやろうとも思う。
(苦しまねぇように逝かせてやる。せめて全ての絶望を忘れて、眠れ)
【明緋星】の一閃で最期を与えてやろう、苦痛など感じる暇もなく眠らせてやろう、絶望という淵の底に理緒を取り残すくらいなら。
「未緒君。ブログの記事なんかじゃ駄目だ。ブログにしか吐き出せないことって確かにあるけど、ちゃんと理緒君の顔を見て、理緒君の前で言葉にして言わなきゃ」
「じれってえなあ、さっさと戻って来いよ。こんな日記見せられて閉じこもられても全然説得力ないぜー?」
きっと助かると確信しているのだろう、フェイファーの声はどこまでも快活で、明るい。
「未緒……」
「未緒君、早く」
「目ェ醒ませ未緒!」
「お願い、未緒」
未緒の足に縋りつき、ついに理緒はその場に泣き崩れた。
「戻ってきて。あたし、未緒と一緒に生きていきたいの。未緒、未緒――!」
(――……理緒)
悲痛な姉の言葉に、ほんのわずか、別の声が重なる。
それは理緒によく似た声。だけど理緒とはほんの少し違う、理緒を呼ばわる声。
(理緒。理緒。ごめんね。ごめんね)
ぱた、ぱた、ぱたた。
温かい雫が落ちてきて、理緒の髪を、額を、頬を、次々に濡らしていく。
「未……緒?」
(理緒――)
……ありがとう。
■10 December,23:57 at Center of labyrinth■
ぽろぽろと――まるで乾いた粘土のように降り注ぐのは、もはや鎖と呼べぬほど風化した金属の破片。がちゃん、がこんと盛大な音を立てて錠が外れ、鎖が一気に弾け飛ぶ。それを見越したフェイファーが素早く魔法を紡ぎ、二人を傷つけてしまわぬよう鎖の残骸を粉々に砕いて消滅させた。
縛めから放たれた未緒の体が理緒の腕の中へと落下する。受け止めた理緒はそのまますてんと尻もちをついた。
刀冴は二人を支えて抱き起そうとしたが、やめた。
「確かに、野暮な真似はしないほうがいいかも知れないね」
刀冴の意図を汲んだカラスもくすりと微笑む。
尻もちをついてなお姉はしっかりと妹を抱きかかえていたし、妹の腕も姉の首に回されたまま離れなかったから。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
「ブラボー! 今度こそおめでとう、かな?」
だが、月色ウサギの白々しい言葉と拍手が場の雰囲気をぶち壊した。「離れ離れになった姉妹、すれ違いを乗り越えて感動の再会、ってとこだね!」
那智は呆れ顔を通り越して無表情な視線をリントに投げかける。
対照的なのは俊介だった。にっこり笑った彼は、つかつかとリントに歩み寄ったのだ。
「おっとっと! なになに津田君、ボクに何か用かなー?」
「ああ。初めておまえを見た時から決めてたことがあるんだ」
よくよく見れば、笑顔を作った俊介の瞳は決して笑ってはいない。
そして次の瞬間、鈍い衝撃音が響き渡った。
「……っとと、ととと」
みっともなくたたらを踏んだリントは頭を押さえてべちゃりと尻もちをつく。
「殴ったってしょうがないんだけどさ」
魔剣ニアの柄を思い切りリントの頭に振り下ろした俊介は鼻息も荒くウサギを見下ろす。「ちょっとはスカッとしたよ」
どこか晴れ晴れとした表情の俊介に声を上げて笑ったのはフェイファーだった。
「おまえ、ほんっとおもしれえのなー? これだから愚民を観察するのは飽きねえんだよ」
「うっ……わっ、わわ、ちょっとちょっと!」
気安く肩に手を回して来る天使から逃れようとするあまり、後ろを確認せずに後ずさった俊介は那智にどんとぶつかった。
「すぐに手が出る人間は頭が悪いか、視野が狭いか、状況判断が出来ていないものだ」
相変わらず冷静かつ愛想のないコメントに俊介は唇をへの字に曲げるだけだ。
「んーいけないいけない、津田君ったらいけないね! 今のはちょっと効いた! まだくらくらするよ!」
だが、頭をぐらぐらさせながら起き上がったリントにきっときつい視線を向ける。
「黙ってろ馬鹿ウサギ! 二人のほうがよっぽど痛い思いをしたんだ!」
「ああ、怖い怖い!」
口先でうそぶいてみせ、リントはひょいと肩をすくめて懐中時計を取り出した。「おっと、そろそろ時間切れだねー?」
突然、ぐらぁりと視界が揺れた。床が消えたかのような奇妙な浮遊感がハザードの収束が近いことを告げる。
「名残惜しいけどお別れの時間だ!」
月色のウサギの姿が、冷たい床に積まれた本棚が、急速に遠ざかって行く。
頭上で緩慢な渦を巻き始めた空間の中、刀冴はゆっくりと姉妹に歩み寄り、二人の前にしゃがみ込んで目の高さを合わせた。
刀冴に気付くと理緒はぴょこんと頭を下げた。鎖から解放されたといはいえ、未緒はまだ意識を取り戻したわけではないらしい。しかしすぐに目を覚ますだろう。姉の腕の中で、こんなにも安らかな顔をしているのだから。
「悪ィ。肝心なことを言い忘れてた」
「え?」
「間に合って良かった。大事な日をちょっとでも二人で過ごせて良かった」
青い武人が惜しみなく向ける笑顔は心からの祝福。「誕生日おめでとう。記念日、おめでとう」
きつく結んだ理緒の唇がまた歪み、新たな涙が頬を伝っていく。
「俺からも贈り物、と言いてえとこだが……この分じゃ間に合わねえな。目を覚ました後に届けてやるから楽しみにしてな」
どこか色っぽくすらある緩い癖毛を揺らし、美貌の天使は悪戯っぽくウインクを落とした。
「それでは、またのお越しをお待ちしているよ! 何せボクは淋しがり屋のウサギだからね! あんまり淋しいと生きていけないんだ!」
高らかに別れを宣言したリントが腕と腰を折って優雅な所作で一礼する。ぐわんぐわんと響く声の中、彼がもったいぶって鳴らした指の音を聞いた者はいただろうか。
とにもかくにも――この迷宮に降り立った時と同じように、全員の意識が唐突に途切れ、浮上した。まるで目覚まし時計に叩き起こされて、深い眠りから急速に、一気に覚醒するかのように。
■11 December,00:30 in Ginmaku‐city■
うっすらと目を開くと、見知らぬ場所で、見知らぬベッドに未緒と一緒に寝かされていた。銀幕市という場所にムービースターとして実体化したことを理緒はまだ知らない。だが隣には未緒がいる。今はそれでいい。最愛の妹はまだ眠っているようだが、握る手は温かく、ぎゅっと力を込めれば軽く握り返してくれる。
長い長い夢を見ていた気がする。つらくて、悲しくて、怖くて、だけどとても温かい夢……。
(誕生日……終わっちゃったんだ)
サイドボードに置かれたデジタルクロックが示す時刻を見るとほんの少し溜息がこぼれそうになる。
その時だった。
理緒が目を覚ますのを待っていたかのように、ふわり――と何かが降り注いだ。
(え?)
室内であるのに。屋内であるのに、雪が降っている。
(雪じゃ……ない?)
それは雪のように清らかで優しかったが、雪ではない。喩えるならば天使の羽。天使の翼から気まぐれに抜け落ちたかのような柔らかな羽毛が、雪のように降り注ぎ、二人を包み込もうとしているのだった。
「あ」
ふわふわと。ひらひらと。
次々と降り積もる羽は柔らかく空気を含み――手を繋いだままの二人を、ふんわりと宙に運んでいたのだ。
顔を上げた理緒は慌てて目をこする。
夢の中で不可思議な魔法を使い、常に明るい笑みを向けてくれていた天使の姿が見えたような気がした。長い黒髪の美しい天使が、その腕の中に二人を抱き上げてくれたような錯覚にさえ捉われたのだ。
パチンと指が鳴る音が遠くで聞こえたのは空耳だったのだろうか?
さあと雲が晴れるように病室の天井と壁が遠のき、代わりに澄んだ星空が展開される。冬であるのに不思議と寒さは感じない。
「未緒。――未緒、起きて! 見て!」
慌てて揺り起こすと、寝ぼけ眼を開いた妹は姉の姿を見てぽかんと口を開けた。
「未緒もおんなじ格好してるよ?」
照れ臭そうに笑う理緒も、驚いたように自分の体を見下ろす未緒も、まるで天使のような白い衣に身を包み、背中から白い翼を生やして星空の下を飛んでいた。
どこからか歌が聞こえてくる。耳ではなく感覚そのものを心地良く揺らすこの旋律は歌であるのだろうか。紡がれるコトノハは言語ではないのに、ひどく満ち足りた感覚を運んでくれる。不可思議な調べに合わせてきらきらと踊る星屑のようなものさえ二人の目にははっきりと見えていた。
天より降り注ぐウタは二人を優しく包み込むかのようで。天の使いが二人の再会を祝ってくれているかのようで……。
「理緒、これ……」
「フェイファーさんの“贈り物”かも。楽しみにしてろって言ってたじゃん」
「うん、うん。きっとそうだ」
二度とはぐれぬようにしっかりと手を繋ぎ、双子の天使は星の中でしばしの空中散歩を楽しむ。
「理緒。来てくれてありがとう。ごめんね」
「未緒。ごめんね。戻って来てくれてありがとう」
白い頬を転がり落ちる涙は、どんなに大きな一等星よりもきらきらと輝いていた。
その時間に外を覗いた夜更かしな入院患者がいたならば、高い木のてっぺんで四枚の翼を広げた天使の姿を見ただろう。
姉妹が眠る病室のすぐ外に位置するその場所に佇む天使は静かに詞(ことば)を紡いでいく。透き通った、力強い声は体全体から放たれるエネルギー。人知とはかけ離れた天界の言葉で織りなされる謳は、双子に贈る祝福の奇跡。
(誕生日は終わっちまったけど。記念日にちゃんと再会できたんだ、最高に幸せじゃねえか。なあ?)
願わくば、この先は尚幸いに満ちた間柄でいられるように。今回のわだかまりを嘆くより、糧にして前を向けるように。
祈りを込めた歌声はとびきり優しく、夜を抱くように降り注いだ。
■11 December,06:30-10:00 in Ginmaku-city■
現実離れした夜が明け、それぞれはそれぞれの生活へと戻って行った。あのハザードの効果か、それとも俊介の治癒(キュア)のおかげなのか、各人が負った傷は目が覚めると跡形もなく消えていた。
白衣にワイシャツ姿で起床した那智は、服装に汚れがないことを確かめるとそのまま大学へ出勤した。姉妹が助かって良かったという思いが頭の隅をちらりと掠めはしたが、特段の感慨は湧かなかった。
念動力を多用したせいで疲れたのだろうか、うっかり寝坊してしまった俊介は身支度もそこそこに自宅を飛び出した。あの二人もこんな日常に戻れるといいな、と息を切らしながら学校へと駆けて行く。
フェイファーはいつものように居候先のリビングのソファーに寝そべり、家主に向かって自分の活躍譚を脚色を加えつつ得意げに語った。黒髪碧眼のあの少女にも今度会ったら聞かせてやるつもりだ。
刀冴だけは疲労を色濃く体に留めることになった。覚醒領域の反動が顕れたらしい。おかげでいつもの刻限に起き出すこともできず、様子を見に来た心配性で過保護な守役に一連の経緯を丁寧に説明してやらなければいけない羽目に陥った。そしてもちろん、反動を顧みずに覚醒領域を解放しっぱなしにしたことや一切反撃せずにただ攻撃を受け続けたことに関して朝からみっちり小言を戴く羽目にもなった。
「全く……困ったものです」
「それよか腹減った。朝飯――」
「聞いておいでか、若!」
「……んなでけぇ声出さなくたって聞こえてるっての」
正座で小言を述べる守役をひらひらと手でかわして溜息をつく。もっとも守役とて、今に始まったことではない刀冴の無鉄砲さに半ば苦笑を浮かべてはいたが。
そして信じられないことに、自室で目を覚ましたカラスがデイバックを確認すると、ジャンガリアンハムスターのチェリーがぴょこんと顔を出したのだった。慌てて更に中を探ると、シンバルを打つ猿のおもちゃまでもが転がり出て来た。ハザードの効果というよりはフェイファーの魔法のおかげだろう。あの悪戯な天使が考えそうなことだ。
どちらにしろこれらはあの二人の大事な思い出だ。持主の所に返してやるのが一番いい。陽が高くなるのを待ってから外出したカラスは、猿のおもちゃと、近場のホームセンターで買い求めたプラスチックの小さな飼育ケースにハムスターを入れて姉妹の病室を訪れた。
「ちょっとだけ我慢してね」
狭い空間で居心地が悪そうにもぞもぞしているハムスターに思わず苦笑を漏らす。このケースはハムスターを二人の所まで連れて行くための間に合わせだ。本来の飼い主はすぐに快適な住まいを準備してくれるだろう。
二人はまだ眠っていた。だが、わずかに微笑んだような寝顔と頬に差した赤みが心配する必要はないと教えてくれる。
理緒も未緒も銀幕市に実体化したことを知らずにいるのだろう。だが、二人一緒ならきっと大丈夫だとカラスは確信している。それに銀幕市でなら誰に気兼ねすることもなく二人で暮らせるではないか。
相変わらずしっかりと手を繋いだままの二人にそっと微笑を落とし、小さな猿とハムスターをサイドボードに置いて病室を後にした。
静かだ。平穏と安堵に満ちた静けさだ。病室の清潔なカーテンを通し、姉妹の寝顔の上に穏やかな陽光が微笑みかけている。
だから、中空からひらりと舞い落ちたメッセージカードに二人が気付くのはきっともう少し後のことだろう。
『ざーんねん! 今回は戻ることを選んだんだね!
だけど大丈夫! pure rabbitと仲間たちはいつでもネットの中にいるよ?
淋しくなったらいつでもおいで! 淋しい兎が歓迎するよ♪
そして今度こそみんなと一緒に暮らそうねー☆』
(了)
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クリエイターコメント | ご参加・ご拝読、ありがとうございました。 いつもとは違った色味の物語になりましたが、楽しんでいただけましたでしょうか。
判定に関していくつか呟きを。 大雑把に言えば、必要な要素は「戦闘力のない理緒を何とかする」「パスワードを解く」「姉妹のすれ違いを埋める」でした。 判定結果はご覧の通りです。パスワードも大正解でした。 強いて付け加えるなら、第三の条件に関しては「理緒の口から伝えさせる」というサブ要素がありました。
多少とはいえ戦闘があることが前提のシナリオは色々な意味で冒険だったのですが……悩んだ挙句、雰囲気と勢い重視で書かせていただきました。 「ウサギは淋しいと死ぬ」は高校時代に国語の教科書で読んだとある文学作品からの出典なのですが、うろ覚えなので詳しいことは分かりません。
色々と思うところはあるかも知れませんが、シナリオとしてはグッドエンド&ゲームクリアです。 グッドエンドのために必要な要素を余すところなく埋めてくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございました。 またどこかでお会いできることを祈りつつ…。 |
公開日時 | 2008-12-10(水) 00:00 |
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