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<ノベル>
Soraのセピア色の瞳が1人の少年を捉えた。
綺羅星学園中等部男子生徒の制服を着た、ごくごく無難な容姿をした、いかにも健康そうな少年が病院のなかなか立派な入り口の前でウロウロしている。入ろうとして止め、しかしまた入ろうという行動の繰り返しで、自動ドアが開かないギリギリの場所から受付を覗き込んでいる。
―一歩間違えば通報されても文句は言えない。
そうされなかったのは明らかな中学生であるし、表情が不安げで心配そうだったから、誰に何も言われなかったのだろう。病院の職員や看護婦が何度か声をかけようとしていたが、その少年は声をかけられたら驚いて大きく首を横に振って走り去ってしまう。いつもそうだ。
体が丈夫でないため、殆ど病院に在住しているSoraは、毎日その少年を見かけていた。
首をかしげて眺めているとその不振ぶりが少し面白くなってはいた。Soraには健康な年頃の少年の気持ちなど判らない。知る機会も殆ど無かった。だが少年が胡散臭い人間でないということは判った。胡散臭い行動はしているけども。
「病院に何か用かしら?」
小柄なSoraと然程視線のズレの無い少年は、話しかけられるとは思っていなかったようで、笑えるほどに動揺してSoraから距離をとった。その瞬発力は目を見張るものがある。
少年はSoraを見て、耳まで真っ赤にして後ずさり、引き止める間も無く逃げるように――いや実際に少年は逃げた。
「なんなのよ、全く」
愛らしい容姿とは逆に、なかなかに気性の荒いSoraは柳眉をあげた。
結局、次の日もそのまた次の日も、その少年は来ていたけど。Soraを警戒していたようだし、やっぱり中にも入らなかった。
大衆に埋没しそうなくらい普通の少年のことを記憶していたのは、それがあまりに印象的だったからだ。
けれど逃げられるのも腹立たしかったから、もう話しかけるようなことはしなかったけれど。
浅間縁が銀幕市立中央病院に出入りするのは格別珍しいことではなかった。
彼女の同級生に眠り続ける病に倒れた子がいて、縁はそのお見舞いに度々訪れている。
何かの変化があるわけではない。
友人はただひたすら昏々と眠り続けているだけだ。手を握っても声をかけても何の反応も示さない。心電図の音が無機質に病室に響くだけだ。
それでも縁と別の同級生達は来れる限り見舞いに来ていた。同情していたわけではない。何かが出来ると思っているわけでもない。縁たちはごく普通の健全な高校生で(善良と言うわけではない。決して)、医者ですらどうにも出来ないことがどうにかできるとは思っていない。
けれど、何もしないでいられるほどドライではないのだ。
まるで起きているかのように話しかけ、帰り際に「またね」とかるく告げる。その繰り返しだが、無意味だとは思っていない。
自己満足と言われればそうなのかもしれないが、何もしないよりはいい。反応は無くてもきっと友人に届いている。言葉には出さないが、縁達はそう思っていた。
学校ではないから珍しく騒がないように気を使い、病院から出ようとしたときに縁の視界に見慣れたスーツ姿が入ってきた。それは植村直紀だった。どうりで、後姿でも判別できる筈だ。
植村が病院にいるとは珍しい。不思議に思った縁は同級生たちに適当な言い訳を告げて、植村の後を追った。
病院だからと、今までは気をつけていたが、このときばかりはちょっと小走りで植村を追いかけた。
「植村さん!」
病室に入る直前だった植村を呼び止めると、彼は驚きはしなかったが、大きな声を出した縁を窘めた。
「浅間さん、病院で大声を出したらいけませんよ」
「え? ああ、ごめんごめん。つい」
まったく悪びれた様子を見せず、縁は謝る。
「植村さんこそどうしたの? こんな処にいるなんて珍しいね」
「ああ、実は……」
そこで縁は初めて、友人以外にも眠り続ける病に罹患している人がいることを知った。
植村が言うには、原因が判明している患者としていない患者がいるということだった。縁の友人は後者のようだ。なんだか他人事とは思えず、縁は解決にむけての協力を申し出ると、植村の顔に安堵が浮かぶ。
縁であれば対策課の依頼にも慣れているし、銀幕市に起きた大きな事件を乗り切った経験もある。無理をしすぎることも無い。
では、と植村が軽くノックして返答があった病室の扉を開ける。
そこには真っ白いベッドに横たわる少年と、少しばかり癖のある柔らかそうな黒髪の端正な顔立ちをした青年――信崎誓がいた。
「あっれ、信崎さんじゃん。どうしたの、こんなとこで」
縁と誓はどうやら面識があるらしい。
「おれは対策課で植村さんに会ってね」
落ち着いて優しい声色で誓は縁に声をかける。顔見知りがいるということは何とはなしに安心するものだ。
「そういえばさ、どうすんの? 夢の中に入るんでしょ? 私ぶっちゃけそんなことできないけど」
通学バックの中から、ハーブのバッキー・エンがのっそりと顔を出す。しかし彼は誓と植村を交互に見た後、相棒である縁を見上げ、暫しの沈黙の後、結局のそのそと定位置のバッグの中に戻る。誓はちょっと残念そうだったが顔には出さない。
「それは大丈夫です、ミダスさんからこれを預かってきましたから」
<ニュクスの薔薇>とマッチを植村が取り出す。病室と言うものは基本的に禁煙だから灰皿などは置いていないが、今はどこかから借りてきたと思われるプラスチックの容器に水をたっぷりと湛えさせている。火気を探知して発動するスプリンクラーも一時的に切ってあるようだ。
「……浅間さん、その格好で?」
言われた縁の格好は、いつもの通り、彼女の通う高校の制服のままだが、縁は全く気にしている様子は無く<ニュクスの薔薇>を興味深そうに眺めている。
「では植村さん。お願いします」
「ねえ」
誓が植村に声をかけたとき、三人の背後――つまり病室の入り口から声がかかった。澄んだ鈴の音の様な耳に馴染む声だった。音楽的感性はごく一般的な縁と誓が聞いても、素晴らしい声の持ち主であるということは判る。
Soraだ。
「あたしも行くわ。その子―ちょっと知ってるの」
いかにもか弱い女の子にしか見えないSoraの意外と強い口調に、危ないから、等と言う反論は誰も持っていなかった。持つつもりもなかった。その理由がまかり通るのであれば、縁だって一応か弱い普通の女の子なのである。一応。
眠り続けている少年は、間違いなくSoraが何度も見かけたあの少年だ。人付き合いは苦手だが、些細な切欠だが知っている相手だから解決できる事柄に何もしないでいるというのは、収まりが悪い。
夢に入る者達も眠りに入るから横たわっていたほうが楽なのだが、の空き床も無かったので、代わりにパイプ椅子が用意された。三人はめいめいその椅子に座る。
植村がゆっくりとマッチを擦って<ニュクスの薔薇>に火を点す。
「ちょ、ちょちょちょちょ、ちょい待ったァァァ!」
突然の大声に縁はびっくりして椅子から立ち上がり、誓も視線を声の方へと向ける。Soraだけがこっそりと嘆息して窓の方へと目を逸らす。
病室に闖入してきた男を見て、縁がうっかり小声で「うわ熊じゃん」と呟いた。誓の耳はそれを拾っていたが、反論も肯定も口には出さなかった。内心納得していたのかもしれない。
その男は180cmはかるくあるように思われ、頭もひげももしゃもしゃとしていた。その大柄な体を白衣に包み、袖は肘近くまでまくってある。勿論前のボタンは止めていない。それでいて不潔感は全く感じられない。
Soraとは知り合いであるらしい。
「とりあえず、とりあえずだ! これもってけ!」
まるでSoraの小さく繊細な手が握りつぶされそうな印象を受けるほど、白衣の男はSoraの手をぎゅっと握りしめて何かを渡す。直後には恐らく担当病棟に所属している看護師であろう女性が、「先生、ちょ、患者さん沢山待ってますから! 仕事して下さいお願いですから!」と首根っこを掴んで引きずられて行った。
後には、「気をつけるんだぞSora〜!!」という絶叫だけが響いていた。
「え、ちょ、あのクマ、あんたの知り合い……?」
明らかに恐る恐る、縁がSoraに尋ねる。
「ええ、まあ……」
握らされたものを確認もせずに、Soraは頷く。そのつれない態度に気を悪くした様子も待ったくない縁は連れ去られる熊男(と縁は命名した)を伸び上がって見ている。
「ほら浅間さん、そろそろちゃんと座らないと。床の上で寝ることになってしまうよ?」
誓が苦笑しながら、縁の手を優しく取ってやんわりと席に戻す。
全員が椅子に腰掛け直してほんの間も無く――ゆらゆらと点る火を見つめているうちに、三人の意識はふわりと暗闇に落ちた。
※ ※ ※
目を開ける直前に、おかしな光景が見えた。
周りをくすんだオレンジの壁に囲まれて、一人の少年が蹲って頭を抱えている光景だ。
1人縁だけが、その光景を懐かしんだ。
「あれ。ここどこ?」
最初に声を発したのは浅間縁だった。
見慣れているようで、まったくの見覚えが無い、8畳1間。埃の落ちていないフローリングの床に、綺麗に畳まれていないベッドの上の布団。起き抜け状態のままのようだ。その割りに机の上はちゃんと片付けられている。学校の教科書や市販の参考書、塾のものと思われるテキスト類が立てかけられている。本棚の上段には化学に関する趣味雑誌、中段・下段には年頃の少年らしい少年漫画がズラリと配置されている。影にかけてあるカレンダーは11月を表している。年度は昨年のものだ。部屋を見る限り部屋の主――恐らく高橋雄介であろう――は几帳面だが結構ズボラでもある様だ。
「ここは……彼の部屋、なのかな」
縁が振り返ると、そこには誓が立っていた。机のすぐ側にいて、上に放置してあった教科書の一冊を手に取り、ぱらぱらと捲っている。真っ白の表紙は化学の教科書だということがすぐ判る。
「雄介ったっけ? マジで化学とか好きだったんだねー、凄いもん、この教科書の数」
半ば呆れつつ少しだけ感心しながら、縁は部屋や本棚を眺める。この3人で、それが判るのは縁くらいのものだろうか。
誓はムービースターでそもそも<天使>であるから学校には通っていないだろうし、Soraは自習のみで殆ど学校に投稿した事はない。
「そしてこれは、彼にどんな関係があるのだろうね。正直、こんな数字の羅列はおれは見たことがないけど」
植村から預かった、“3/16 le e 3/15 5/17 g 2/2 6/11 t 5/3”と殴り書きされている紙を誓は眺める。所々に入るアルファベットが、意味を解く取っ掛かりになるのではないか、とは思う。
「化学が得意とか超羨ましいんだけど。私、化学記号とか全然覚えられなくてさー。テスト前なんてもう……ってあれ。これ、どっかで見たような……」
少し背伸びをして誓ととも紙を眺めていた縁だが、何かに気がついたように記憶を掘り起こす。誓が縁の掘削作業の為に、少しでも見やすいよう、折り目を伸ばして紙の高さを彼女の見やすい高さにまで下げる。
そのときSoraは、知り合いの医者、縁に熊と例えられた医者に渡されたものをようやく見た。あの医者はSoraと親しくしている医者で、何やかやとSoraの生活の面倒などを見ている。彼の姪がSoraを演じた女優らしく、どうにも世話を焼いてしまうらしい。乱暴な口調だし大雑把だが、いい人なのに間違いはない。患者からも慕われているようだ。
渡されたものはこちらもまた紙で、同じようにアルファベットと数字の羅列。
「……何よこれ。 ……あ」
その羅列にSoraはわずかに眉をひそめたが、わずかに逡巡したあと、それが何を意味するか、すぐに判ったようだ。
「そっか、元素記号だ! どっかで見たことあると思ってたらそれだ!」
Soraの後ろから縁が大声で言う。背後にいたことに全く気がつかなかったSoraは思わずビクリと肩を揺らす。しかし縁は全く意に介した様子はなく、Soraと肩を組んだりしている。二人は初対面だが、縁にとって、そういうことは特に関係ないらしい。
「なるほどね。どうりで、おれに見覚えが無いはずだ。 じゃ、数字を変換していこうか?」
机の上にあった紙とボールペンを拝借し、椅子とベッドに少女二人を座らせる。縁は椅子を勧められたがそれは誓に譲り、Soraの隣に腰掛けた。その方が周期表と見比べやすいからだろう。ぴったり真横に腰掛けていないのは、人付き合いが得意ではないSoraに気がついたからかもしれない。
「まず、3/16は……」
「あれこれおかしくない?」
縁が首を傾げる。
周期表に当てはめていったのだが、出来上がったものは Sleepi g Beauty となる。
「明らかに一文字足りなくない?」
「n、が足りないのかな」
誓も考え込んでいる。
nを足せば、Sleeping Beauty となり、一つの単語として成り立つ。
「なんか意味あるのかな。nだけだと……」
「欠けたn、か」
「解けたのならいいじゃないかしら。それより、あの男の子は何処に居るか、探さなければいけないわ」
ベッドから立ち上がったSoraがカーテンを開けて窓の外を見やる。
しかしそこに見えた風景は銀幕市の住宅街ではなく、真っ白の何もない空間だった。まるでエッシャーの無限階段のように真っ白で、そして何もない。そこは広いと感じさせるより先に、理由の無い不安を喚起させる。
別に夢の中、ディスペアーがいるであろうということは関係ない。何もない、色すらない空間と言うものはひとの心の奥底に波風を立てるのに十分すぎた。
「おれは」
しゃっとカーテンを引いて空間を遮り、雄介の部屋をまた孤立させる。今は部屋を孤島にした方がいい。誓はそう判断した。
「彼が記憶に囚われているということは、物理的に囚われている場所も、幼い頃の記憶に関係する場所じゃないかと思う。何かそういったものを推測できるものがあればいいんだけど」
窓に寄り添って誓は部屋を見渡す。机の上を見直しても、そこには教科書などしか見当たらない。引き出しはあるが、この状況とはいえ、やはりひとのプライバシー、それも年頃の男の子といえば、誓のように同性でなら照れる程度で済むモノも、縁やSoraのような女の子に見られたら生きていけないと思い込んでしまうほど恥ずかしいものだってあるかもしれない。多分。
誓はその辺りの心情は判らなかったが、彼が皮肉を言ったりするのは上司相手にだけである。干渉されることを好んだりはしない。が、だからといって誰かに対して冷たいわけではない。
「アルバムみたなのあるんじゃない? 探してみよ」
そんな誓の迷いもよそに、縁はベッドの下や本棚の奥を結構大雑把に漁っていく。Soraもまた同様に、引き出しなどを開けていく。
……ちっょとだけ遠い目をしたのは、二人にバレていなかったと信じたい誓であった。
「……そういえばさ、私、気がつくちょい前に変なの見たんだ。夢っぽい感じ。ホラ、目が覚める直前に見る夢みたいな」
アルバムを発掘した様子の縁が顔を上げて呟いた。
「オレンジの高い壁に囲まれて、男子がこう……体育座りしてんの。周りに景色なんて無かったのに、なんか妙に懐かしくて」
「おれも見たよ。でも別に懐かしさとかは無かったかな」
「あたしも別に懐かしくは」
「え。マジで。私だけ?」
「……いや、ちょっと待った」
誓が再びカーテンを開けて外を眺める。真っ白の何もない、平面の空間。立体すらない。ここも、周りに景色なんて無い。少年を見て光景とほぼ同じだろう。
その空間で懐かしさを感じるというのも妙な話だったが、縁だけが懐古するというのには、何かが引っかかる。誓とSoraには無くて、縁にはあるもの。
「学校……?」
確かにSoraにも通った経験はあるが、懐かしさを感じさせるほど通ったわけではない。
「この子、中学生でしょう? だとしたら、小学校か中学校。どちらかしら」
「見てこれ」
あるページを縁が二人に開いて見せる。アルバムだ。
寝ている顔よりもずっと幼い顔立ちをした雄介と思われる少年が、アップで写っている。背景には鉄色の背の高いものが写っていたが、ぼやけていまひとつ確認しづらい。
そしてその後ろに、偶然写ったのであろう、一人の少女が写っていた。
流れるような漆黒の髪に、可愛らしいというより美しい顔立ち。そしてその顔には誰もが見覚えがあった。
「小学校ってことでいいんじゃないかな」
机の上に閉じたアルバムを無造作において、縁は部屋から出ようとドアノブに手をかける。
「浅間さんちょっと待って。いきなりここに着たのだからいきなり開けるのは少しきけ」
誓の制止も聞かず――というか間に合わず、縁はぱかっと気軽にドアを開けた。Soraも「早く」と言いたげに誓を見ていた。
なんだか今日は切ない気持ちになる機会が多い、と誓はこっそり嘆息した。
開け放たれたドアの先には、真っ白い世界が広がっていた。
※※※
3人全員が両足そろえて部屋から出たとき、一瞬で白い世界がオレンジに変色した。
「ここだ……」
オレンジ色に染まる広々とした校庭。沈みかける夕日が照らし出す校舎。僅かな風に揺れる遊具のブランコ。
ごくありきたりな小学校の校庭だ。
その光景が見えた、小学校の校庭だと認識した直後にそれらは消え去り、ただのオレンジの壁になる。
「ちょ、消えちゃったけど! なに、なにこれ!? 雄介はどこにいんのよ!」
―お前達あの儒子の知り合いか
空の上から声が降ってくる。
ベチャリと音がしそうな声だった。いや、声ではなかったのかもしれない、判らない。
Soraが小さくの喉奥で声を鳴らす。縁は露骨に顔をしかめ、誓は何の感情も無い顔でソレを見た。
「言葉が通じるのね。こんにちわ」
些か場違いな雰囲気すら漂う中、Soraは嫌悪に満ちた瞳を隠そうともせずにヘドロみたいな形状をしたディスペアーに問いかける。
「あたしはこれでも人間だけどつもりだけれど、貴方は?何がしたいの?」
―あれは我等の栄養源なのだよ
「食べるっていうこと?」
―お前達が肉を食い 草を食むのと同じだ
ソレが言葉を発するたびに、脳内にビチャビチヤピチャピチャと汚らしい水音が響く。耳の中に聞こえるそれよりも遥かに不快で皮膚を裏側からなぞられているような感触を受ける。
「二人とも、これはおれがなんとかするから、早く」
―ほう
「え、信崎さん1人で大丈夫なの?」
「勿論。さ、早く」
心配そうに縁は誓を見るが、彼はいつもの柔らかい笑みのままで、縁とSoraを送り出そうとする。
―待て貴様等−!
ディスペアーが少女二人を追いかけようと、地面から乗り出して楕円形の体に無数の足を生やし、まさしく猛烈な勢いで追いかけようとしたが、体の中央部分を誓によって思い切り踏みつけられ、グチャリと潰れた様な音を立てる。
「……行かせないって言っただろう?」
ぐっ、と足首を捻る。 ひどく癇に障る音がした。
縁はしばらくSoraの手を引いて、走り回っていた。
何処へ向かって走ればいいのか全く判らなかったが、なるべくアレから遠くまで離れて、雄介を助け出せば、おそらくアレは何とかできるだろう。
戦う術をもたない自分達に出来ること・やるべき事は、早く雄介を見つけだす事だ。あの場に居ては身を護ることくらいで精一杯な二人は逆に足手まといかもしれない。
「ね、ねえ、ちょっと。痛いわ」
「あ。ごめんごめん」
慌てて掴んでいた細い手首を縁は離す。
自分の手首と比較してみたが、細さ自体は殆ど変わりがないのに華奢さが大分違うのは何故だろうか。
「それにしても、校舎の中には入れないのかしら」
「校舎そのものが無いもんね。多分、校舎は関係ないんじゃないかな?」
辺りを見渡すSoraは少し物足りなさそうだ。
「nって」
「うん」
「美原のぞみ、の、nなのかしら」
「ってことは……雄介の記憶に今かけているものはのぞみってこと?」
「ええ。大した意味は無いかもしれないけれど、だからnが欠けていたのではないかしら」
欠けたのぞみ。
病院の一室で昏々と眠り続ける美原のぞみ。
植村から聞いた話によれば、高橋雄介と美原のぞみは同じ小学校に通っていたらしい。歳も同年代だし、知り合いだった可能性も高い。もしかしたら、のぞみと何らかの事件(と言えるほどのことでなくても)があり、今に至っているのだろうか。
彼女は今何を思い眠っているのだろうか。
誓は相変わらずディスペアーを踏みつけている。
成人男性にしてはかなり体重が軽い筈だが、ディスペアーは身動き一つ取れない。
―何故お前はあの儒子を助けようとする
「喋らないでくれるかな。汚水が空気に混ざって吐き気がする」
いつもの誓と全く違う雰囲気だった。
「でもそうだな。教えてやるとすれば――」
端正な顔立ちがぞっと背筋が凍るほどの優美な笑みを浮かべる。
「おれはあんたが嫌いだからさ」
「居た!」
雄介は何処にいるのか。
写真にあった鉄製の背の高いものは校門ではないか、と縁がたどり着いた。
校門だけやけにはっきりと見える。そこはやはりオレンジ色であったが、形から一目でそれと見て取れる。
目の前には南京錠があった。
下には携帯電話のプッシュボタンに告示したものが設置されている。
縁とSoraは顔を見合わせ、首をかしげながらも、ボタンに手を伸ばす。
Sleeping Beauty
アルファベットを一文字ずつ丁寧に打ち込んでいく。打ち込む度にカチリとどこかで音がする。開錠の音だろうか。
「そういえばさ」
「ええ」
「眠り姫ってことは、雄介はのぞみが好きだったのかな」
目線をボタンから逸らさずに縁がSoraに問う。
正直なところ、あまり恋愛と言うものに名前とは逆に縁がない。さっぱりとした性格で、マジメな話になるとどうしても照れが先行してしまう縁としては、人の話には興味津々だが、自分のこととなるとどうにも苦手だ。勿論嫌いなわけではないのだが。
「そう考えるのが妥当でしょうね。本人はそのこと、憶えているか定かではないけれど」
ディスペアーに住み着かれるほど、それが心の重荷になるほど、気に病んでいたいたことだから、ただの友人と捉えるよりは恋愛感情を抱いていたと判断するのが不自然ではないかもしれない。
恋愛感情ではないが、縁にも心の澱はある。いや、無い人間のほうが珍しい。居るとしたら赤ん坊くらいだろう。
憶えてはない。
かつて縁は差し伸べられた手を掴むことができなかった。
先の長くない友人が居た。幼くて把握できていなかった“死”というものの影に無意識に怯えて、友人が寂しさに苛まれていることすら気付けず、伸ばされた手を掴むことができなかった。
結局彼女がどうなったのか、今でも判らない。
例え憶えていなくても、その思いが深層心理にある限り、縁は“後悔しない生き方”を選んでいるのだろう。
「それにしても眠り姫が鍵を解くって、ロマンチックね」
くすりとSoraが笑う。
こういうものを見ると、男のほうが女よりもロマンチックというのに納得できる。
「っし、これで最後……っと」
y のボタンを押す。
ぱきん
澄んだ高い音がして、何もなかった空間に、蹲る少年が見えた。
「……雄介?」
縁が名前を呼ぶと、その少年はゆっくりと顔を上げた。
憔悴しているのだろうか。あまり顔色は良くない。すっかり疲れ切った様子だ。
それでも、少年は――高橋雄介は、ゆっくりと頷いた。
微かに誓の耳に、ぱきんと何かが折れる高い確かに聞こえた。
−鍵は解かれたか
「へぇ。随分と余裕じゃないか」
−おれが消え失せてもあの儒子が戻るとは限らぬ
「……?」
−絶望に囚わレタ者がそウ簡単ニ 蘇ルト 思う ノカ
「そんな事か。下らない」
どろどろと溶け出したディスペアーからようやく誓は足を離す。
「あんたは少し、ヒトというものを甘く見ているよ」
ぐしゃりとわざと大きく力を入れてディスペアーを踏みつけて、誓は縁とSoraを探しに走る。
その黒いモノは何度かもがく音が聞こえだが、それもやがて聞こえなくなった。誓が振り返ると黒ずんだ染みのようになっていたが、間も無くその染みすら残さずに消えていった。
★★★
「私達、雄介を迎えに着たんだ。さ、帰ろう。お母さんも心配してたよ」
一歩縁が近付く。
けれど、雄介は全く動こうとしない。
「もう無理だよ。目を覚ましたって、何も解決なんてしないよ。俺、誰も助けられないし、会えないんだ」
「だって俺、あいつを助けてあげられなかった。それに、俺のことなんてどうせ覚えてないよ」
雄介の言葉は弱かった。けれど強かった。その強さは弱さに内包されたものだ。つまり、意固地。
「あたし達は確かにあなたを助けにきたつもりなのだけれど。あんなモノと人を戦わせておいて平気なの?」
「……え?」
やっと雄介がSoraと目を合わせる。
「さっさと起きなさい、眠ってばかりで何とかなると思っているの? 随分躊躇っている様だけど。確かに貴方のこと覚えていないかもしれないけど、それでも目覚めを待つ誰かが居ることは悪くないわ。 ……恋心があれば尚更」
「べっ、別にそんなんじゃ……っ!!」
ぱきん。
「いやバレてるから。今更隠さなくていいから。ね、別に恥ずかしいことじゃないじゃん」
真っ赤になる雄介の方を力強く縁が叩く。ちょっと笑っているのは照れるという反応を見せたことに安堵したのかもしれない。
「つーかさ、そんな簡単に会えなくなるなんてことないって。雄介が居て、のぞみも居る。それだけで十分じゃない? 悔やんでいるんだったら、次、手を伸ばせばいいよ」
ぱきん。
「届かなくなってからじゃ、遅いよ。まだ間に合う。男は倒れるときも前のめりって言うじゃん!」
「縁起悪くね!?」
「え、そう?」
今度は大きく笑う。なんとなく、周りを明るくさせてくれるような、縁の笑顔はそんな笑顔だと、Soraは思う。現に雄介は憔悴した顔はまだ勿論そのままだが、突っ込みをいれる元気は出てきたのだ。
「おいで」
すっと手が伸ばされる。白くしなやかで、一瞬女性と見紛う程美しい手だった。
「信崎さん」
オレンジ色の空間に、純白の羽が見えたのは――気のせいだっただろうか。
「目を覚まそう。彼女は生きている。君が手を伸ばせば届く場所に居るんだよ。後は、君の勇気だけだ」
「でも」
「それはもう聞き飽きたわ。でも、しか言えないのなら、貴方、本当に全てを無くして誰とも巡り合う事はできなくなるわよ?」
「……それでも怖いよ」
「雄介の怖さは雄介にしか判んないよね。だけど今ここで閉じこもってたら、次からもっと辛いよ。 ……ううん、次、無いよ」
「次……」
「よく思い出してごらん? 君が元々望んでいたもの。君はどうしたかったのか」
「俺は」
立ち上がった雄介は自分の掌を見つめた。
―あの時、泣いている女の子――美原のぞみを見たとき、ただ……
「……美原のこと、1人ぼっちにしたくなかったんだ……」
ぱきぃん。
ぱらぱらと周りが剥離されるように崩れていく。
「目覚めの時……だね」
優しく誓が雄介の頭を撫でる。
「……遅くなってごめんなさい」
まだ弱いがしっかりとしてきた声で、雄介は誓、縁とSoraに深々と頭を下げた。
「目を覚まさせてくれて、助けに来てくれて、ありがとう」
それを聞いて、3人の意識は再び闇に溶けた。
<ニュクスの薔薇>で眠りに落ちたときと同じ感覚だった。
再び目覚めたとき、パイプ椅子だった所為か三者とも随分体の節々を痛めていた。時計を見て時間を確認すると、それほどの時間は経過していなかった。
中年女性が息子の名前を叫ぶ声がした。
痛む体を堪えてベッドに近付くと、高橋雄介が、ゆっくりと瞳を開けて、弱々しくも、確実に笑った。
「やあ」
「あ、信崎、さん!」
あれから1週間程たった日、街中で誓は雄介を見かけて、声をかけた。
「もうすっかり元気なようだね、良かった」
「あの時は本当にありがとうございました! あ、お母さ……じゃないや、うちの母親が、また是非お礼させて下さいって言ってました」
「そんなお構いなく。気を使って頂かなくてもいいんだよ。お礼をして欲しいからやったことじゃないし」
「それじゃ俺達の気が済みませんよ。なんてゆうか、お礼されるの、ボランティアの一種だと思ってもらえれば」
例え方が妙におかしくて、誓は思わず苦笑した。
目線を下にさげると、雄介はお世辞にも高そうな花では無さそうだが、可愛らしく纏められた花束を持っていた。
「これからお見舞いに行くのかな」
「うん。もうちょっと豪華なのにしたかったんだけど、お小遣いじゃコレが限界だった」
照れくさそうに雄介が笑う。
あの時、夢の中に入るまでの雄介であったら、例え花束を買ったとしても、もっと自虐的だったのではないか。
「あのね、俺。みんなに助けてもらって、その後、思い出したことあるんだ」
「何を思い出したんだい?」
尋ねると雄介はとても嬉しそうな顔で、誓に答えた。
「昔さ、別の小学校との、サッカーの対抗戦があったんだ。俺選手に選ばれてさ。張り切ってたんだけど。試合の前の日に、美原が、明日の朝冷えるから気をつけてね、って。そう言ってくれたんだ。あいつ、試合に行かなかったのに。それも日曜日の天気、ちゃんと調べてくれてたんだ。試合に行くやつ等のこと、気にかけてたんだよ」
自慢げ、と言っても差し支えないくらい、雄介は嬉しそうだった。
それはのぞみとの繋がりを思い出したからなのかもしれない。他に理由もあるのかもしれない。
「美原さ。あんまりひとと話さなかったし、いつも1人でいたし、ちょっと暗いなって思ってたけど。でもね、とっても優しい子だったんだよ」
「そうか……。大事なことを思い出せて、良かった」
君もその子の優しさにちゃんと気付ける優しい子だよ、と言外に付け加える。
ヒトは確かにすぐ絶望に飲まれてしまう、脆弱な生き物かもしれない。
だが。
ディスペアーにも言い放ったが、例えヒトは絶望に飲まれてしまっても、必ずそこから這い上がる強さを持っている。這い上がってもまたすぐに折れてしまうものだとしても、何度も立ち上がる不屈さも持ち合わせているものだ。
「そういえば、信崎さんって天使? 着てくれたとき、羽が見えた気がしたんだけど」
興味津々で誓の顔を見上げてくる雄介に、彼は少し考えて――そして答えた。
「おれ達は天使さ。君を見届けに着たんだよ」
誓の柔らかく優美な笑みに雄介は一瞬気を取られたが、“おれ達”の意味に、縁とSoraが入っていることに気がついて、満面の笑みになった。
誓にもう一度礼をいい、縁とSoraにもまた改めて礼を言うんだ、と言って、雄介は市立中央病院へと駆けていった。
「眠り姫は王子様のキスで目覚めるものだけど……どうなるのかな」
雄介にキスを擦る度胸があるようには思えなかったが、彼のその気持ちはきっとのぞみに届くと、誓は信じている。
叶うかどうかはまた別の話だが。
遠くに見える中央病院は、いつもりより少しだけ、明るく見えた。
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クリエイターコメント | はじめまして。遠野忍と申します。 この度は当方のシナリオにご参加頂き、誠にありがとうございました! 今回もギリギリのお届けになってしまって申しわけございません。
頂いた素晴らしいセリフや行動、できる事なら全て使用させて頂きたかったのですが、話の流れ上、どうしても諦めなければならなくて残念です。力量不足ですみません……っ!
誤字・脱字、言葉遣いの違和感等ございましたら、善処させて頂きますので、遠慮なくご連絡下さいませ。 少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
重ね重ね、この度は誠にありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-03-22(日) 11:30 |
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