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<ノベル>
カフェ・スキャンダルを訪れるのが習慣になったのは昨年の梅雨の頃からだったと思う。といっても、現金の使い方を知らないリゲイル・ジブリールだから、お茶やスイーツを楽しむために訪れていたわけではなかった。
(あれ?)
梨奈がカフェに戻ってくる前のことである。その日もいつも通りカフェのドアをくぐったリゲイルは、店内の空気が違うことを誰に説明されるまでもなく感じ取った。
毎回、リザの休憩時間に合わせて顔を出すようにしている。だからフロアにリザの姿がないのは当然だ。しかし――客の入りはそこそこなのに、何か大事なものが欠落してしまったかのような奇妙な違和感に包まれている。看板娘の梨奈の姿も見当たらない。
「いらっしゃいませ。――あ」
出迎えた女性店員はリゲイルに気付くとかすかに表情を曇らせた。リゲイルがいつも何のためにこのカフェを訪れているのか、店員たちも知っているのだろう。
「あの、すみません。リザさんは……」
「……病院に運ばれました」
「えっ?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。事態が把握できない。病院とは何のことだ。
「さっき急に倒れて。今、梨奈さんも付き添いに……」
「倒れた? 倒れたって、どうして? どうしてそんな――」
「よく分からないんです。倒れる直前まで普通に働いてたのに」
申し訳ありません、と小さく詫びる女性店員の前でリゲイルはようやく我に返った。動揺するあまり性急に質問を重ねてしまったが、店員は本当に何も知らないのだろう。リザの容態を案じているのはきっとこの店員も同じなのだ。
「ごめんなさい。わたし、びっくりして……つい……」
声が震える。言葉が続かない。肥大した心臓の鼓動を喉元に感じる。
こくりと唾を飲み下してリザの搬送先を尋ねるリゲイルの姿を、店の奥から無言で見つめる金色の視線があった。
(あの子、彼女の友達かしら。ジャーナルでよく見かける顔だけど)
茶色の髪をアップにしたその女は眼鏡の奥の目を軽く眇める。タイトなミニスカートから伸びる脚をテーブルの下で組み換えるしぐさは艶めかしいが、テーブルの上に置いたノートパソコンのモニターを追う目線には甘さも隙もない。
(――急がなくちゃ、ね)
艶やかなマニキュアに彩られた指でエンターキーを押すと、銀幕市に住まうムービースター全員のデータが瞬時に表示された。
「フニャア。ゴロゴロ」
「クーン」
「ギャギャ、カァ」
集まっているのは猫である。犬である。カラスである。
動物たちに囲まれて、巨漢と呼んで差し支えないほどの体躯を持つ男が何事かをぼそぼそと呟いている。不思議な男だ。この寒いのに上半身は裸。不可思議な文様が入った蜂蜜色の肌、まるでエクステのように襟元に装着された色鮮やかな鳥の羽。しかし、彼を決定的に特徴づけるのは背中から生える薄い紅茶色の翼だろう。
「じゃ、よろしく。報酬は弾むよ」
翼を生やした男が呟くと、集まった動物たちは夕暮れの街へと一斉に散って行く。
(二度あることは三度ある。そうだろう?)
琥珀色の瞳をすいと細めて彼らを見送り、イェルク・イグナティという名の翼人はリザが運ばれた病院へと向かった。
たまたま対策課を訪れていたイェルクは梨奈とカエル男爵の話を耳にし、梨奈が戻った後、これまでの経緯を植村から詳しく聞いた。イェルクには二人の妻がいるが、彼女たちは未だ実体化していない。似た境遇にあるリザの純愛を成就させようと決意したのは自然なことだった。
対策課でリザの搬送先を聞き、病院を訪れると、三階の病室には先客がいた。
リザの想い人と同じ姿形を持つ俳優であり、今回の原因を作った人物――早川巧である。
個室の病室にはベッドとサイドボード、小さな洗面台、見舞い客用の椅子が備えられている。早川の隣に座っていたスーツ姿の女性がイェルクに気付いて立ち上がった。
「へぇ」
イェルクは軽く口笛を吹いた。
胸の空いたタイトなスーツに丈の短いスカート。挑発的な体のラインがこれでもかというほど強調されている。眼鏡と黒のチョーカーは一見知的な雰囲気を醸し出しているが、きちんとアップにしながらも緩く垂らされた前髪は厭味にならない程度の色香を醸し出していて、好ましい。
「貴女も彼女の話を聞いて?」
お色気秘書とでも喩えたくなる格好をした女は夜乃日黄泉と名乗り、右手を差し出した。
「イェルク・イグナティ。対策課で話を聞いてね。市役所に居たのはたまたまだけど、自分の幸運に感謝したいよ。こんな美人と巡り会えるなんて」
「あら、お上手ね」
「あいにく、馬鹿正直なタチでな。本当のことしか言えないんだ」
爪の先まで綺麗に整えられた手を握って引き寄せ、軽くハグして頬にキスを落とす。随分艶っぽい挨拶だが、イェルクにとっては会釈や握手と同じ意味合いにすぎない。日黄泉もそれをきちんと理解しているのだろう、愉快そうにくすくすと笑うだけだ。
「機会があれば今度一緒に酒でも……と言いたいところだけど、お誘いは後からにしたほうが良さそうだ」
やや名残惜しそうに日黄泉から離れたイェルクであったが、早川に向けた瞳は決して笑ってはいない。
「あんた、早川とかいったか。彼女に何を言った?」
穏やかな問いかけだが、声音は日黄泉に対するものとはがらりと変わっていた。
「“あなたがいくら待ち続けていても、稲葉が現れる保証はありませんがね”」
口を開きかけた早川の代わりに答えたのは日黄泉だ。ひょいと眉を持ち上げたイェルクに眼鏡を外した日黄泉が軽く流し目を送る。
「たまたま彼女が倒れた現場に居合わせたのよ。日頃からあのカフェにはよく立ち寄っているから」
「そうでしたか。道理で見覚えのある顔だと思いました」
悪びれるでも臆するでもなく、早川はあくまで淡々と言葉を返す。一方日黄泉も、早川の行動に憤るでもなく非難をぶつけるでもなく、当たり障りのない微笑で応じた。
「ありがとう。私も、お店で貴方と彼女が言葉を交わしているところを何度か目にしたことがあるわ。――だからこそ不思議なの」
魅惑的な瞳がすっと細められ、探るように早川を見つめる。「どうして彼女を殺そうとたのかしら?」
イェルクも低く顎を引くようにして肯き、同じ問いを無言で早川に向けた。
イェルクよりも一足先にこの病室にやってきた日黄泉は事の次第を細かく早川に尋ねた。自分が出演した映画から“ムービースター”として実体化したリザと対面して以来、この街に滞在していること。市内で起こる出来事に興味を持ってジャーナルを隅から隅まで読みつくしたこと。その過程で『忘却の森の茨』なるものの存在を知り、リザにも茨が寄生しているのではないかと考えたこと。ならばいっそ茨を芽吹かせてリザを眠らせてやろうとしたこと……。
(たちが悪いわね)
日黄泉が真っ先に抱いた感想がそれだった。リザを眠らせて楽にしてやろうなどという思いは早川の自己満足でしかない。その上、彼の行動はいわば確信犯とでも呼ぶべきもので、悪質と言うほかない。
純粋で切実な想いを抱き続けているからこそ茨が芽生えたのだ。それを知っているだけに早川に対しては強い怒りを覚える。しかしその感情を一気にぶつけることはしない。稲葉を演じた俳優というからには今回の行動にも何か理由がある筈だ。今は聞き役に回り、早川の本音と真意を少しでも探ることが先決であろう。
早川は首の後ろを掻いてから口を開いた。
「ゴールの見えないマラソンを想像したことがありますか」
「マラソン?」
「そもそも、ゴールなど存在するんでしょうか」
日黄泉の問いなど聞こえなかったかのように早川はリザの寝顔に視線を落とし、次いで窓の外に目を投げた。
「42.195km。長いですよね。だけどどれだけ長かろうとゴールは約束されている、42.195km走り抜いた後にはちゃんとゴールが待っている。だけどゴールがどこにあるか分からないとしたら? いえ……ゴールがあるかどうかも分からないのに延々と走り続けなければいけないとしたらどうでしょうか」
「些か抽象的なお話だけど、言いたいことは何となく分かったわ。要は稲葉先生が実体化するかどうかも分からない状態で待ち続けるのはあまりにも辛すぎるってことね。だから解放してあげようってことでしょう?」
想い人が何月何日の何時に現れると知っていればその時間まで待つことが可能だろう。時には心が折れそうになることもあるかも知れないが、苦しみの先に必ず再会が待っているのだと分かっていれば希望を捨てずに待ち続けることもできる。
しかしリザは違う。稲葉が現れる保証などどこにもない。それ以前に、稲葉がこの世界に存在しているかどうかも定かではないのだ。
日黄泉はラウンドカットにした爪を口許に当て、艶やかな唇を笑みの形に持ち上げた。
「忌憚のない感想を述べてもいいかしら」
「どうぞ」
「腹が立つわ。とっても」
脇で聞いていたイェルクは目をぱちくりさせた。とびきり魅力的な微笑からそんな言葉が放たれるとは思わなかったからだ。
「自分のしたこと、お分かりよね? 貴方は彼女を死なせようとしただけじゃない、彼女の想いを踏みにじったのよ。あまつさえそれを死に利用した――よりにもよって、彼女が愛する男と同じ顔、同じ声を使って。それに貴方、何度かあのお店で彼女と話してたわよね」
「他愛のない世間話ですよ。その日のお天気のこととか、銀幕市で起こった出来事の話とか」
「知ってるわ、私も何度か貴方と彼女が話しているところを見ているから。だけど、想い人と同じ姿をした男から発せられる言葉に彼女がまったく動揺せずにいられたと思ってる?」
ムービースターとスターを演じた俳優は同じ姿をしたまったく別の存在だ。自身が演じた稲葉という存在と彼を愛するリザに特別な思い入れがあることは分かるが、だからといって何をしてもいいというわけではない。
(もしかして、彼女のことが好きなのかしら)
そんな思いがふと日黄泉の脳裏をよぎる。リザを好いているからこそ、稲葉がこの世界に居ない苦しみから救ってやろうとでもしたのだろうか?
「貴方がどう考えているか知らないけど、彼女の想いを創られた感情だなんて思わないでほしいわ。私たちは確かにここに存在するし、想いも本物。フィクションなんかじゃないのよ」
「それは素晴らしい模範回答ですね。しかし指摘としては的外れです。あなたたちムービースターがまがいものだなどと僕が一度でも申し上げましたか?」
早川の瞳がどこか自嘲気味に細められた。「彼女の存在も彼女の想いも本物でしょう。だけど稲葉は? 稲葉はフィクションです。虚構のままなんです、実体化しない限りは。スクリーンの向こうは彼岸よりも遠い。彼女は本物、稲葉はフィクション。この矛盾をどう解決すれば良いのでしょう。フィクションなどではないと言い張ったところで彼がこちら側に存在しないことには変わりないというのに」
「だから貴方が解放してあげようってこと? 彼女を映画の中に帰してあげようと? 彼女がそれを望んでいるかどうかも分からないのに?」
「茨が芽吹いたことが何よりの証拠じゃありませんか? 恋愛に苦しむ者の胸に宿るのが『忘却の森の茨』だと聞きましたが」
「苦しむのは当たり前よ。好きな人と引き離されてしまったんだもの、誰だってつらいに決まってるわ」
日黄泉は軽く肩を揺すってかぶりを振ってみせた。「だけど、彼女が自分の境遇をどう思っているかは彼女にしか分からないことじゃない? 貴方が決めることではないし、決めていいことでもない筈よ」
どうやら主張は平行線らしい。それでも日黄泉は粘り強く言葉を重ねる。早川に対して怒りを覚えることは事実だが、決して自分の意見を押し付けようとはしないのが日黄泉の基本的なスタンスだ。あくまで早川が理解しやすいように誤りを指摘し、彼の同意を得られるように心を砕くつもりだ。
何事か言わんと口を開きかけた早川だったが、言葉が紡がれる前にその唇は閉ざされていた。
まろぶように病室に駆け込んできたのはリゲイル・ジブリールだった。
イェルクがハグとキスで挨拶をする暇もなかった。恐らく日黄泉の姿も目に入ってはいなかっただろう。エレベーターを待つのももどかしく三階まで階段を駆け上げってきたのだろうか、息を切らし、頬を真っ赤に染めたリゲイルは掴みかからんばかりの勢いで真っ直ぐに早川の元へと駆け寄る。
「どうして……どうして、あんな、酷い……こと、言ったの!」
息が乱れているせいなのか、それとも感情がたかぶっているせいなのか、早川にぶつけられたリゲイルの言葉は不自然に途切れていた。
リオネの提案でリザと早川が対面して以来、リゲイルはリザに会うために度々カフェを訪れていた。予めリザの休憩時間を聞いて、邪魔にならないようにと配慮もして。稲葉の代わりになどなれないが、友達が出来て少しでもリザの気が楽になればいいと思っていた。そうやってカフェに通ううちにいつしかリゲイル自身がリザと会うのを楽しみにするようになっていた。
リゲイルだけではない。鴉を連れた可憐な死神も、強面の浪人も、鍵屋の女店主も――そして、リゲイルにとって家族同然の存在である忍の少年も。今までリザに関わった皆がリゲイルと同じ思いを抱いている筈なのだ。
「もしリザさんが望んだことなら寂しいけれど我慢します。だけど、でも……稲葉さんと絶対に会えないなんて決まったわけじゃないのに。待つことくらいしてもいいじゃない! みんながリザさんを心配して仲良くしていたのよ、それなのにあなたはわたしたちからリザさんを取り上げた! そんなの――」
「取り上げた、とはどういう意味でしょう? 彼女はあなた方の所有物ではありませんよ」
以前と同じように、二十近く年下のリゲイルに早川は丁寧語で応じた。しかし頭一つ小さなリゲイルを見下ろす瞳には無表情な光が満ちている。
「考えてもみてください。彼女は無理矢理実体化させられて稲葉と引き離された。そんな状態で彼女が幸せに暮らしていると思いますか? 前向きな思いだけではどうにもできないこともあるんですよ。あなたたちの支えによって暮らしてきたのだとしても、彼女が本当に求めているのは稲葉でしょう」
“あなたたちでは彼女は救えない”。言外にそう宣告された気がしてリゲイルは唇を噛み締める。
「だけど……だからって! そんなの勝手すぎる、あなたは間違ってる!」
怒りという感情にはほとんど縁のないリゲイルが、今確かに憤っている。最も大切な人たちの一人である“彼”が気にかけていたという点を抜きにしても、リゲイル自身がリザを気にかけ、リザとの時間を楽しみにするようになっていた。もしリザが己の境遇に苦しんでいたとしても……リゲイルにとって、リザは大切な友人の一人なのだ。
リゲイルの目の前で、白いベッドに横たわったリザはこんこんと眠り続けている。栗色の柔らかな巻き毛も白く透き通るような頬もいつものリザと同じだ。だが、かすかに眉根を寄せた寝顔は安らかに眠っているようには見えない。だからこそ悲しい。早川が許せない。もしリゲイルが体格の良い男であったなら早川に掴みかかるくらいのことはしていただろう。
「成程。加害者である僕には弁解の機会すら与えられないというわけですね。もっとも、リザさんと親しくしていたあなたなら自分の怒りばかりを一方的にぶつけたくなるのも無理はありませんが」
首の後ろを掻きながら皮肉げに口許を歪めた早川はあくまで淡々と言葉を継ぐ。リゲイルは押し黙った。どんな理由があろうと早川のしたことが正しいとは思わない。だが、間違いと断じるのは彼の言い訳を聞いてやってからでも遅くはなかったかも知れない。
「どんな物事にも良い面と悪い面があると言いますが……ムービースターが関わった事件を間近で見る機会が何度かありました。不幸なことばかりではない。だけど幸せなことばかりでもないというのが正直な感想です。映画の中では別れるしかなかった恋人たちが再会できたこともありました。もっともその二人だって映画の中に強制送還されれば筋書き通り別れるしかないわけですが。一方、想い人がこの世界に存在しないのだと知って自棄になり、歪んだ結末を選んだ青年士官もいました。映画を作る側の人間としては複雑な思いでしたよ。僕たちが生み出した夢が人を歪め、ひとつの街を狂わせているような気がして」
早川巧という俳優は数多くの映画にも出演している。出会い系サイトで知り合った男女の関係を描いた映画に主人公の同僚役として出演していたのは早川だったし、狂い咲きの桜の下で歪んだ結末を選んだ青年士官も早川が演じた役だったのだが、それを知っている者が果たしてこの場にいただろうか。
「この街で新たな幸いを築いた人も多い一方で、映画の中に帰りたいと切望している人や、実体化によって己のありようを歪められた人もいる。例えばあなたの大切な人たちのように――」
なぜかは分からない。すいと細められた早川の瞳に、リゲイルは嫌な予感にも似た寒気を覚えた。
「ねえリゲイルさん。あなたが失った人たちはどうだったのですか?」
リゲイルは華奢な喉に言葉を詰まらせた。
確かに悲しい結末を迎えた。だが、一緒に笑い合っていた時期もあったのだ。魔法がかからなければ得られなかったものをたくさんもらえたし、彼らともそんな時間を共有することができたと信じている。
しかし……それでも、彼らはムービーキラーに堕ちた。
――可愛い? 俺が?
地平線まで続いているかのようなひまわり畑の中で一緒に写真を撮った後、ほんの少し照れくさそうにしていた少年の顔。
――小姐。ありが、とう。これからも、大哥と……仲良く…… な。
『穴』に持ち込んだICレコーダーから聞こえてきた、途切れ途切れの乱れた音声。
「……それは」
知らず、声が震える。心ない一撃に立ちすくむほど弱いリゲイルではない。しかし、即座に理路整然と言い返せるほどの余裕はなかった。
「それでも――」
こくりと唾を飲み下して目を上げる。声の震えを懸命に抑えようとしていたが、瑠璃色の瞳は決して揺らいではいなかった。
「……二人は笑ってました。元居た場所では見せなかったような顔をわたしたちに見せてくれたもの」
最期に遺された黒いフィルムの切れ端。そこに焼き付けられた笑顔と安らぎは紛れもなく本物だった。否、“本物だった”のではなく“本物だ”。リゲイルの恋人だってそうだ。彼は夢の神に決して感謝などしていないが、リゲイルと出会えたことだけは幸せに感じていると言ってくれた。リゲイルに分かっているのはそれだけだし、それさえ分かっていれば充分だろう。
なかったことになんてできない。リオネの魔法がなければ良かったなんて、言えない。どんな物事にも悪い面と良い面があるのだから。
ああ、それなのに。どうして言葉が出てこないのだろう。胸に満ちるこの感情を的確に紡ぐ言葉が見当たらないのはどうしてなのだろう?
「――お嬢さん、その辺にしときな」
リゲイルの華奢な肩に後ろからそっと手を添えたのはイェルクだ。そこで初めてイェルクに気付いたリゲイルは「あっ」と声を上げる。それから日黄泉にも気付いて視線を惑わせた。ようやく我に返ったというところだろうか。
「可愛らしい蕾は可憐に咲くためにあるものさ。将来楽しみな美少女がしかめっ面をしていては台無しだ。怒った顔や悲しい顔よりも満開の笑顔を見せてほしいな」
「え? あ、初めまして――」
気持ちをほぐそうとしてくれているのだろう。イェルクの声はあくまで明るい。そのまま軽く抱き寄せられ、いやらしさのない口づけを頬に落とされて幾度か目を瞬かせる。
「お嬢さんの思いの丈は痛いほど受け止めた。女の子のひたむきさは国や時代を問わず美しいものだよ。だけどコイツにきちんと伝わってるかどうかは怪しい。だからちょっと下がっててくれるかい?」
リゲイルを日黄泉に預け、イェルクは早川の前に進み出た。
次の瞬間。
鈍い打撃音が響いて、日黄泉は「あら」と笑い、リゲイルは小さく息を呑み、早川の体が派手に吹っ飛んで壁に激突した。
「言って駄目なら体に叩き込むしかない時もあるってことさ。そんな武骨な役回りは俺たち野郎のほうがふさわしい。ああ、差別だなんて言わないでくれるかな。女性の美しい手をこんなことで汚させたくないだけなんだ」
呆気に取られているリゲイルに向かってイェルクが軽くウインクしてみせた。ボディにイェルクの拳を打ち込まれた早川は尻もちをついて咳込んだままだ。整った顔が苦悶に歪んでいる。もっとも、手加減はしているのだろう。翼人であるイェルクが本気を出したらこんなものでは済まない。
「あんたもあんたなりに考えたんだろう。それに免じて顔だけは勘弁してやる、あんたら“ハイユウ”とやらは人前に出る商売だと聞いたんでな」
軽く舌を鳴らし、イェルクは拳を握り締めたまま早川を見下ろした。
「あんたが悪い奴じゃないってことは分かる。だがやり方が最悪だ、もっと勉強しろ。リザにはリザの感じた生き方がある。それを他人が不幸と決め付けるな」
「彼女は苦しんでいたと思いますよ。だから茨が芽吹いた。違いますか?」
「じゃあ茨が一気に開花しなかったのはどうしてだと思う。あんたに稲葉の声で言われて尚リザは踏みとどまった。稲葉と会えない辛さを嘆くだけの状態から成長してるってことじゃないのかい?」
リゲイルははっと息を呑んだ。茨が芽吹いて倒れたと聞かされてつい動揺してしまっていた。しかし、本当ならば茨が一気にリザの胸を突き破っていてもおかしくない状況なのだ。
「ね。希望はあるってことよ」
日黄泉ににこりと笑いかけられてリゲイルはようやく肯いた。
「それじゃそろそろ次の段階に進もうかしら。まずはこれを」
大きく開いた胸元がさらに開かれ、美しい爪が深い谷間に吸い込まれる。白く芳しい双丘から取り出されたのは文字や画像がびっちりとプリントされた紙だ。あまりに刺激的なしぐさにリゲイルは呆気に取られ、イェルクはまた口笛を鳴らした。
「これ、稲葉先生に似た特徴を持つムービースターのデータ。銀幕市内に住む全スターのデータをサーチして抽出したものだから信頼は置けるわ。といっても時間は五分しかかけていないけれど」
「すごい! そんなこと、いつの間にどうやって調べたんですか?」
「企業秘密」
白い紙に悪戯っぽく口づけてみせ、日黄泉は軽くウインクを落とした。「そうね、あえて言うなら機密ノートパソコンを使って……とでも説明しておこうかしら?」
「はは、成程。いい女はいつだってミステリアスなものだからね。それで? そのデータをひとつひとつ洗って行こうっていうんだな?」
「そういうこと。協力してくれる?」
「手は打ってある。ここに来る途中、稲葉を探してもらうように動物たちに頼んできた。その情報も新たに伝えておくよ」
【獣言葉】を操るイェルクは動物たちと話をすることができる。人探しを頼むくらいのことはたやすい。早速日黄泉がくれたデータを手に窓を開けてさえずるように喉を鳴らすと、カラスが何羽か飛んで来てイェルクの肩に止まった。
リゲイルも日黄泉からデータを借り受けた。リゲイル自身はリザの傍に残るが、稲葉を見つけ出して会わせてあげたいと思っていることには変わりない。ほうぼうに持っている伝手を駆使して捜索に協力するつもりだ。リゲイルはリザと早川が初めて対面した一件以来ずっと人を使って稲葉を探し続けている。住民登録をしていないだけで、実は稲葉は実体化しているのかも知れないという考えが頭の隅に引っかかり続けているのだ。
「OK、それじゃ捜索開始といきましょう。楽しみに待っていなさい?」
右手で拳銃の形を作って早川の胸を撃ち抜く真似をしてみせ、日黄泉は颯爽と踵を返した。
「そうだ、お嬢さん。俺からもお願いがひとつ」
カラスとぼそぼそと言葉を交わしていたイェルクがリゲイルを振り返る。「動物たちにもちゃんと報酬を払わないといけないからさ。スポンサーになってもらえないかな?」
大らかな笑顔に少しだけ気持ちがほぐれた気がして、リゲイルはようやく微笑んで肯いた。
窓の外は黄昏から宵闇へ。2月13日の夜が訪れようとしている。
アップにされた髪がほどかれ、夜空の下で軽やかに舞う。軽く頭を振って髪を直し、日黄泉はスーツの胸元に手をかけて躊躇いなく服を脱ぎ捨てた。
はぎ取られたスーツとミニスカートの下から現れたのは豊満な裸体――ではなく、ぴったりと体に吸いつくような黒のライダースーツだ。丈の短いスカートの下にどうやって着込んでいたのだという疑問を差し挟むのは野暮であろう。有能なエージェントとはこういうものである。
(できるだけ短時間で見つけ出さなきゃね)
病院の駐車場に止めておいたバイクにまたがり、エンジンをかける。主を乗せたバイクは嬉しそうに身を震わせ、ご機嫌な唸りを上げた。
眠り続けるリザの心の棘を取り除いてあげたい、優しく手を取り助けてあげたい。本当は早川の頬を張ってやりたかったが、イェルクに先を越された。イェルクは女の手を暴力で汚したくないと言ったが、早川が態度を改めないようなら平手打ちのひとつくらい喰らわせてやるつもりだ。
「さあ頼むわよ、good boy」
軽くボディを叩いてアクセルを入れると、バイクは高らかなエンジン音を上げて闇の中に飛び出した。
頭を冷やして来ると言い置いて早川が病室を出た後、イェルクは病院側に頼み込んでリザの病室に泊まり込む許可を得た。もちろんリゲイルも一緒に残るつもりだ。リザのことを心配して仕事が終わった後にやって来た常木梨奈も加えて、眠り続けるリザの顔を三人の人間が見守ることとなった。
「これ、お店の厨房の隅にあったんです」
イェルクから挨拶という名のハグとキスを受けて目を白黒させた梨奈は、トートバッグの中からひとつの包みを取り出した。
「多分、リザさんが使うつもりで用意したんだと思います。厨房スタッフが休憩時間にチョコ作りをしているリザさんを見ているから……」
両手に乗るほどの大きさのそれは真っ赤なラッピングフィルムとピンクのリボン。そして、封をされた同系色のメッセージカード。
「……早川さんに見せたかったな」
度々カフェを訪れていたリゲイルは、年が明けた頃からリザがチョコレート作りの練習を繰り返していたことを知っている。どうやらリザはあまり器用ではないらしく、手や頬にチョコレートをつけた彼女が「ああ、また失敗」とぼやいている姿を見かける度に微笑んだものだった。
リザがどんな気持ちでチョコを作りの練習をしていたのか、できることならこのメッセージカードを開いて早川の眼前に突きつけてやりたい。だがそれはしない。できない。してはいけない。このメッセージを見ても良いのは稲葉だけだ。
「手作りチョコか、羨ましいな。さぞ色男なんだろうねえ、稲葉ってのは」
「きっといい人なんだと思います。ううん……いい人に決まってる、リザさんが好きになるくらいだから」
それに、とリゲイルは目を伏せた。「稲葉さんは早川さんによく似た人だそうです。姿だけじゃなくて、穏やかな性格や物静かなところも。それなのに……」
実際、過去に対面した時は早川も稲葉と同じタイプの人間に見えた。だが今はどうだ。シニカルと言えば聞こえは良いが、斜に構えた皮肉屋にしか見えない。何が早川をそうさせたのだろう。
「一年間、か。お嬢さんのお店でアルバイトを始めたのはいつ頃だい?」
リザの寝顔を見つめながらイェルクは梨奈に質問を向けた。
「去年の二月の終わりでした。タイミング的に、実体化した少し後だと思います。リザさん、映画では“世間ずれせずに大事に育てられた箱入り娘”っていう役回りでしたから、仕事に慣れるまではだいぶ大変だったみたいですけど」
悲しそうにしていることもあった。つらそうな顔をしていることも何度もあった。それでも前向きに生きようと、稲葉の名と手蹟で書かれた手紙を読み返しながら懸命にこの街で過ごしてきたのだと、梨奈はぽつりぽつりとリザの一年を語る。
「あの手紙には“映画の設定に捉われず、この街で一人の女性としての想いを見つけてみてください”と書かれていたそうだけど……稲葉への気持ちは変わらないんだろうな」
「はい。手紙には“この街でいろんなことを経験していろんな人と触れ合って、それでも僕を想い続けてくれたら、その時はきっとチョコを受け取りに行きます”って……一年後のバレンタインまで待ってたら何かいいことがあるかも、って時々冗談めかして言ってました。それまでにチョコ作りも上達しなきゃ、って」
「へえ。俺も欲しいなあ、手作りチョコ。女の子の手作りって最強アイテムだし?」
何気なくリザへ視線を投げたイェルクだったが、その笑顔が途中でこわばる。
どれだけ明るく振る舞おうと、眠り続けるリザに届くかどうかは分からない。
(せめて言葉が届く状態になれば、ね)
立ち上がってリザの額に触れたイェルクの手が、淡く光を放つ。
稲葉に似た特徴を持つ者のみをピックアップしたといっても、その数は決して少なくはない。稲葉の外見的特徴は早川と全く同じ。早川が演じたのだから当たり前だ。ただ、早川は喫煙者で稲葉は非喫煙者、早川は甘い物が苦手で稲葉は甘党という差異はある。事実、病室にいた早川からかすかに煙草のにおいがしていたことと、ベッドのサイドボードの上にブラックコーヒーの空き缶が置かれていたことに日黄泉はきちんと気付いていた。
時刻は深更に近い。灯を落とし始めた街をバイクで走り抜ける。現時点では調査は空振りだ。しかし対象すべてをこの目で確かめるまで希望は捨てるべきではない。イェルクが呼び寄せてくれた動物たちや、リゲイルの指示で協力してくれている者たちの姿も途中で何度も見かけた。
(次は……あそこね)
対象の一人、三十代男性のムービースターが24時間営業のコーヒースタンドに入って行くのを確認し、駐車場にバイクを滑り込ませる。客の入りは少ない。ちょうど目当ての人物がレジに立って注文している姿を見つけ、さりげなくその後ろについて順番を待った。
「キャラメルラテを……あ、ラージサイズでお願いします。それから、シュガードーナツをひとつ」
日黄泉の前に立った男はどうやら甘党らしい。声も後ろ姿も稲葉に似ている。
「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」
空いていた隣のレジに店員が入り、日黄泉に声をかける。期待でわずかに高鳴る胸を手で押さえ、隣のレジに歩み寄った日黄泉はさりげなく目的の男の横顔を確認した。
――違う。稲葉ではない。
「……アメリカンをひとつ。ブラックでね。テイクアウトでお願い」
手早くオーダーを済ませて外に出ると冷たい風が吹きつけた。
コーヒーで手と体を温めながら思わず爪を噛む。
(まだまだ。これからよ)
眠気覚ましにちょうど良いとばかりにコーヒーを飲み干し、再びバイクにキーを差し込んだ。
ひどく不安定な感覚だ。どちらが天でどちらが地なのかも判然としない。夜とも昼とも取れぬ曖昧な薄闇の中をリザは一人彷徨う。
胸が痛い。先が見えない。目の前に伸ばした手さえも、濃密なスープのような靄にまとわりつかれて視界から消える。
息が苦しい。胸が、全身が、締め上げられるかのようだ。暴力的な茨が体に巻き付き、びっしりと生える獰猛な棘が容赦なく肌に食い込んでいく。
(苦しい)
もがいても棘が食い込むだけ。抜け出したいのに、がんじがらめに絡みつく茨は決してリザを離してはくれない。
その時だ。
分厚い雲間から差し込む一筋の陽光のように、頭上から柔らかな色の光が降り注ぐ。
ほんの少し、周囲に満ちる靄が晴れた気がした。
――会えない時間を利用してもっといい女になればいい。会えない時間が愛を育てるって言うだろ?
光と一緒に注ぐのは聞いたことのない男の声だ。太陽を透かし見るように目を眇めると、ほんの刹那、靄の向こうに翼を生やした男の姿が見えた気がした。
――もっと素敵な女性になって稲葉さんにチョコを渡すって、漆くんと約束したじゃないですか。
(……リゲイルさん)
男の隣に見えるのは赤毛の少女。その隣には同じカフェで働く梨奈の姿。
――稲葉に嫌われたわけじゃないんだから、絶望する必要ないじゃないか。会わない時間も楽しめる女になりな。肥料ばっかり与えてたんじゃ花は駄目になる。美しく咲くためには多少の試練も必要ってことさ。
――リザさん。リザさん。戻って来て。お願い……。
手を伸ばせば届きそうだ。濃密な葛湯のような水面の向こうで、三人の顔が揺らめいている。
しかし、そこには想い人の姿はない。
それでも懸命に手を伸ばす。届かない。水面はまだ遠く、分厚い。
ああ、待っている人がいる。自分を待ってくれている人がいる。
それでも稲葉はいない。だけど待ってくれている人がいる。だけど……体は、こんなにも重い。
夢と現の狭間で、茨に絡め取られたリザは懸命にもがき続ける。
イェルクとリゲイル、それからイェルクに協力を要請されて病室に残った梨奈の三人がじっとリザを見守っている。
イェルクが用いた呪術にはリザの精神を安定させる効果がある。それによって茨を弱体化させ、言葉を伝え易くしようという試みだった。
しかし、ベッドに横たわるリザは無言のままだ。
(心からの笑顔を見てみたいもんだ)
イェルクの目にはリザも将来有望な美女候補と映っている。恋する女は尚美しい。だが、一番綺麗なのは心からの笑顔に決まっている。
「リザさん……リザさん」
リゲイルはリザの手を握り締め、声をかけ続ける。意識不明の重体に陥った患者の枕元で呼びかけることが決して無意味ではないように、きっと言葉が届くと、きっと目を覚ましてくれると信じながら。
華奢な両手でリザの手を握り締めたリゲイルの肩が小刻みに震えている。リゲイルとは初対面のイェルクだが、、ジャーナルでよく見かける彼女のことは少しは知っている。彼女の恋人がムービースターであるということも。
違う点はあれど、リゲイルもリザと似通った境遇だといえるだろう。気にならないといえば嘘になる。だが、今はリザのことが先決だ。
「分かってるだろう? あんたのことを思ってる人がこれだけいるんだ」
ベッドに手をつき、白い頬にかかった前髪をそっと手でよけてやりながらリザに声をかける。
「俺たちだけじゃない。以前あんたがもらったファンレター。あんたを応援してる人がたくさんいるじゃないか。未来なんか誰にも分かりゃしないんだ、スターだろうがファンだろうがエキストラだろうがみんな同じだ。分からないんだからいいほうに考えたモン勝ちだろ?」
リザがこの街で積み重ねてきたものは決して軽くはないはずだと、イェルクは丁寧に言葉を紡ぐ。一年かけて辿ってきた道筋を再認識させることによって、少しでも不安を中和できれば良いと信じて。
「俺も欲しいなあ、バレンタインチョコ。稲葉の練習台としてさ。味見役がいたほうがいいだろ?」
「わたしにも味見させてください。失敗しちゃった分がたくさん出ると困ると思うんです。一緒にお茶飲みながら食べましょう? またおしゃべりしながら……何気ない話をして、いつもみたいに……笑って……」
リゲイルの声は震え、そこで途切れた。泣いてはいない。リゲイルは滅多に泣かない少女だ。だが、すらすらと言葉を紡げるような状態でもなかった。その代わりであるかのように、リザの手を握る手にぎゅっと力を込める。
リザは相変わらず答えない。
それでも――ほんの少し瞼が震え、透き通った雫が溢れて、目尻から耳へと伝い落ちて行く。
こつこつとガラスを叩く音に気付き、イェルクは窓を開けた。数羽のカラスが羽ばたきながらイェルクの肩に止まる。ぼそぼそと嘴を動かすカラスからの報告を受けたイェルクの顔がわずかに曇った。
「あ」
来訪者に気付いたリゲイルが立ち上がる。日黄泉だ。リゲイルの視線を受けた日黄泉は、答える代わりに無言で首を横に振ってみせた。
「そう……ですか」
リゲイルは肩を落として再び椅子に座った。人を使って捜索に当たらせているリゲイルもまた、稲葉が見つかったという情報を受け取ってはいない。
既に日付は2月14日。時計の針は午前二時に近い。それでも誰一人として眠ろうとせず、リザの枕元を離れようともしなかった。
ルームミラーに映るのは稲葉雅宏の顔に違いない。病院の駐車場に止めた車の中で、早川は一人黙考に沈む。
早川巧は稲葉雅宏。稲葉雅宏は早川巧。早川巧は、他にも様々な名前の役を演じてきた。
人々に夢を与える仕事だとよく言われる。ブラウン管やスクリーンの中の出来事はフィクションであり、虚構だ。虚構と分かっているから楽しめるし、夢なのだ。
夢は人に糧を与えるものと信じてきた。だが、スクリーンの中から抜け出した夢は、時には幸いを、時には災厄を、そして時には夢自身に歪みをもたらす。
(……分かってる。不幸ばかりじゃないことくらい)
だが、決して幸せばかりが満ちているわけでもない。たとえプラスの部分に焦点を当ててポジティブに考えたところで、現実に存在するマイナスの部分が消えてなくなるわけでもなければ、変わるわけでもない。
ならば夢の作り手はどうすれば良い。自分たちの作った夢が人々に混乱を与えているのなら、夢の担い手の一角たる俳優はどうあれば良い?
『ファースト・バレンタイン』は早川にとっても思い入れの深い作品だ。早川巧の人物像によく似た稲葉雅宏という役を演じたせいもあるかも知れない。だから……リザがどれほど稲葉を愛しているか、稲葉としてリザの傍にいた早川が一番よく知っている。
知っているからこそつらい。スクリーンというくびきから引きずり出されたリザは実体という形を得た。しかし愛する稲葉は未だ虚構のまま。実体化していない以上、それは厳然たる事実なのだ。前向きで真摯な“だけ”のポジティブ至上主義では決して覆すことなどできないほどの。たくさんの人からもらった温かい励ましを抱いて前向きに頑張っていたリザが倒れたことが何よりの証拠ではないか。
希望だけでは現実を変えることなど出来やしない。綺麗事めいた優等生的な前向き論が都合よく通用するのはフィクションの中だけだ。
リザと稲葉の間に横たわる決定的な差異とひずみにどう折り合いをつければいいのだろう。イェルクも日黄泉もリゲイルもこの点を指摘することすらしなかった。想いは本物だと日黄泉は言ったし、かつてリザのために奔走した死神も似たようなことを言っていた。想いがどうあろうと稲葉が“こちら側”に存在しないことには変わりはないというのに。
それに、想いが本物で純粋で強いからこそ苦しみも増す。日黄泉やあの死神の女性のように揺るぎない想いと信念を貫ける人間ばかりではない。
(いっそ僕が稲葉になり代わることが出来ればいいのに)
首の後ろを掻きながら、早川はわずかに自嘲を滲ませた。
天球の底が白み始めた。青白い月は西の空に脆弱な陰影を残すのみ。東の果てから、2月14日の朝が来る。
日黄泉が抽出したスターたちに全て接触したが、その中に稲葉はいなかった。しかしリザの命は諦めない。茨が彼女の胸を突き破る前にどうにか目を覚ましてほしい。
いつしか日黄泉もリザの手を握り、祈りを捧げるように目を閉じていた。
(どんな恋愛にだって痛みや苦しみは付きまとうものよ)
リザばかりが特別なのではない。誰だって泣きながら恋をしているし、涙が女を強く美しくするものだ。しかしそれでも、切実過ぎるまでの想いが痛いほど伝わってくる。同じ女として強く共感するからこそ早川に対しては怒りを禁じ得ない。
(そういえば彼、どこに行ったのかしら)
日黄泉が出かけた少し後で、早川は頭を冷やしてくるといって病室を出たそうだ。それ以来顔を見せていないらしい。まさかこの状況で一人だけ帰宅したとでもいうのだろうか。もしそうだとしたら救いようのない男だ。
「リザさん……もう朝ですよ。起きてください」
誰もが一睡もしていない。目の下に疲労と憔悴を滲ませつつも、自分の体になど構っていられないとでもいわんばかりにリゲイルはリザに声をかけ続ける。
「今日はバレンタインですよ。チョコ、作らなきゃ。稲葉さんに渡すチョコ……」
2月14日はリゲイルの誕生日でもある。しかし今のリゲイルは自分の誕生日のことを忘れていたかも知れない。またリザの笑顔を見たい一心で、目を覚ますと信じてここに留まり続けていた。
イェルクが呼び集めた動物たちが捜索を続けているが、朗報は舞い込まない。作り物のように白いリザの寝顔を見つめながらイェルクは腕を組んで押し黙る。
(綺麗なお姫様を眠りから覚ますのは王子様のキスと相場が決まってるもんだが……さて)
王子が現れてくれれば良い。だが、現れなければどうなるのだろう?
そこまで考えて、イェルクは軽く苦笑してかぶりを振った。先のことは誰にも分からないのだから良い方向に考えた者の勝ち。リザにそう言ったのは自分ではないか。
(王子様ってのはおいしい場面をかっさらうものだしな。これくらいの焦らしは――)
こつこつ、と窓を叩く音に全員が顔を上げる。窓の外でばさばさと羽ばたいているのは一羽のカラスだ。
まるで勝利でも告げるかのように高らかに鳴くカラスと、窓の下に集まった犬、猫、ネズミ。ニャアニャアワンワンチュウチュウと口々に快哉を叫ぶ彼らに、窓を開けたイェルクの顔がぱっと輝いた。
イェルクの言葉を待つでもなくリゲイルは病室を飛び出し、エレベーターのボタンを押した。エレベーターを待つのももどかしい。いっそ階段を駆け下りようか。ああ、でも、もし“彼”がエレベーターで上がって来たら入れ違いになってしまう……。
階数表示のランプが1階、2階と順に点灯し、そしてこの3階へ。
エレベーターの扉が開くと、早川と同じ顔をした人物はリゲイルの姿を見て目をぱちくりさせた。
「あの……リザさんの病室をご存じありませんか? 3階だと受付で聞いたのですが……」
穏やかな声も柔らかな物腰も早川であり、稲葉だ。両者を見分けるのは容易ではない。
しかし着衣が異なる。目の前の人物は映画の中で稲葉が身に着けていた服と同じものを纏っている。しかしそれをもって稲葉と断じることはできないだろう。
リゲイルの瞳がかすかに揺れた。
「……違う」
声はかすれ、震えている。「違う。あなたは、稲葉さんじゃない」
煙草のにおいがする。非喫煙者は煙草のにおいに対して喫煙者より遥かに敏感だ。未成年であるリゲイルの鼻は、目の前の男がかすかに煙草のにおいを纏っていることを確かに嗅ぎ取っていた。
「駄目。会わないで」
不思議そうな顔をして脇を通り抜けようとする男の前にリゲイルは両手を広げて立ちはだかった。
「早川さんなんでしょう? 行かないでください。これ以上リザさんを苦しめないで!」
きっと男を睨みつけたリゲイルの声は早朝の病棟に大きく反響し、長く尾を引いて消えていく。
「早川……ああ、僕を“演じた”俳優の名前でしたね」
目の前の男は早川と全く同じ口調で喋り、全く同じ表情で苦笑を浮かべた。「彼は確かスモーカーでしたね。もしかして、僕から煙草のにおいがしますか? 先程立ち寄ったバーガーショップでマナーを知らない喫煙客がいまして……そのせいかも知れません」
「……証拠はあるんですか?」
「そうよ。貴方が稲葉先生だという証拠を見せなさい。でなければ彼女とは会わせられないわ」
リゲイルを追って病室から出てきた日黄泉が凛と言い放つ。早川と同じ顔をした男は困ったように眉を寄せ、顎に手を当てて思案顔を作った。
「そうですね。身分証明になりそうなのはこれくらいしか」
内ポケットから取り出されたのは一枚の名刺だ。稲葉雅宏という名前の脇に、助教授という肩書と彼が勤める大学・学部が記されている。
「名刺くらい誰にでも作れるわ。免許証か保険証は? 銀幕市に来た後に手に入れた身分証があればもっといいけれど」
「運転免許は元々持っていないんです。保険証は……ああ、忘れて来てしまったみたいですね。あいにく、こちらに来てから取得したものもありません」
財布を開いて探ってみせる手つきも二人に詫びるしぐさもごくごく自然で、演技をしているようには見えない。しかし演技に見せぬように演技をするのが俳優というものだ。
「この病院の駐車場でコイツを見つけたって動物たちは言ってる」
遅れて病室から出てきたイェルクが女性陣二人の肩を抱いて囁いた。「しかし……いくらなんでも都合が良すぎるって気はするね。それに早川の姿も見えないし、怪しいもんだ。お嬢さんはどう思う?」
質問を向けられたリゲイルは大粒の瞳をかすかに揺らした。稲葉の可能性がある人物と接触したことがあるのはこの中ではリゲイルだけだ。しかしあの時のあの人物が稲葉だという確証があるわけではない。
もしこの男が稲葉だとしたら、日黄泉のサーチにもリゲイルの捜査網にも引っかからなかったのに、なぜ動物たちだけが、それも今頃になって病院の敷地内で発見できたのだろう?
形の良い唇を指でなぞり、日黄泉はかすかに眉根を寄せる。
(食べ物の好みを訊いてみるか、いっそコンビニスイーツでも買って来て食べさせてみるか……いえ、駄目ね)
早川なら稲葉の“設定”をよく知っているだろう。それに、甘い物を好まない早川は甘党の稲葉を立派に演じてみせた。甘い物をおいしそうに頬張ることなど朝飯前の筈だ。
「……見分けられるとしたら……」
――稲葉と早川を見分けることができるのはリザだけだろう。
「会わせてください。この通りです」
早川と同じ顔をした男は腰を直角に折り曲げて三人に頭を下げた。
稲葉ではないかも知れない。もし早川であれば茨がリザの胸を突き破ってしまうかも知れない。
しかし稲葉ではないと決まったわけでもない。もし稲葉であればリザの目を覚ますことができるかも知れない。三人はそちらの可能性に賭けた。万が一茨が成長すればイェルクと日黄泉で防戦して対策課に通報し、リザが衰弱する前に迅速に事態の収拾を図る。リゲイルのバッキーも力になるだろう。
横たわるリザの手を握るでもなく、言葉をかけるでもなく、稲葉の顔をした男は無言で佇んでいる。ベッドの脇の椅子に座ろうともしない。ただぼんやりと、リザの姿を見下ろしている。
「……すみません。昔から鈍いんです」
やがて紡がれたのは、一年前にリザの元にもたらされた手紙の文面と同じ台詞だった。
「駄目な先生ですよね。貴女が僕にそんな思いをいだいていたなんて、ちっとも気付きませんでした」
だけど、と一呼吸置いてから継がれたのは手紙とは違う言葉。
「映画の中では貴女の気持ちに気付かずに貴女を苦しめた。この街に来た後は貴女に会うべきかどうか迷い続けて……映画の設定に捉われないほうが貴女にとっては幸せなんじゃないかと悩み続けて、結局また貴女を苦しめた」
首の後ろを掻きながらぽつぽつと話す稲葉を日黄泉の視線が油断なく見つめている。首の後ろを掻くのは早川の癖だ。病室にいる間も何度かそのしぐさを見せていた。しかし演技の最中にふと出てしまった癖がそのまま稲葉のしぐさとして定着してしまっただけという可能性もなくはない。
「僕は……貴女とは年齢も立場も違う。貴女のような女性なら若くて将来のある素敵な男性とお付き合いできると何度も思いました。それでも貴女の気持ちは嬉しかった。だから――もし」
体の前で重ねた手を幾度か組み替えて、男は顔を上げた。
「こんな僕でいいのなら……あの手紙の約束通り、チョコを受け取ります。いえ、受け取らせてください」
リザは動かない。
やはり稲葉ではないのか。
次の瞬間、男を押しのけるようにしてベッドに駆け寄ったのはリゲイルだ。椅子に腰かけることも忘れ、リザの手を取って床に座り込む。ミニスカートからむき出しになった大腿にじかに当たるリノリウムは冷たいが、知ったことではない。
「リザさん。この人が稲葉さんなのか早川さんなのか、ちゃんと起きて確かめてください。早川さんかも知れない。だけど稲葉さんかも知れないんです。分かるのはリザさんだけです、そうでしょう?」
「そうよ。貴女自身の目で確かめて。もしあの俳優だったら私が鉄拳制裁でもお見舞いしてやるわ」
まんざら冗談とも思えない口調で物騒な台詞を口にするのは日黄泉だ。
「その話、俺も乗った。制裁を下した後は気晴らしにデートでもしよう。この翼でどこへでも連れて行ってあげるよ、お嬢さん」
枕の上に広がった栗色の巻き毛をイェルクがそっとすくい上げ、指先に絡みつかせる。「そろそろ目を覚ましてくれないかな。花は咲くためにあるんだ。蕾のまま枯れてしまったら元も子もないだろう?」
「ああ……良かった」
「どういう意味?」
ぽつりと落とされた男の言葉を鋭く聞き咎めたのは日黄泉だ。
「実体化したリザさんは苦しみ続けているのだとばかり思っていました。だけどそれだけじゃなかった。くじけそうになることはあっても、皆さんがいたから踏ん張ることができたんですね」
「今更な言い草ね。女は強いのよ、男なんかよりよっぽどね」
日黄泉が勝ち気な笑みを唇に含ませた時だった。
誰の、どの台詞が決定打になったかは分からない。
しかし――眠り続ける白い蕾に、ほんのわずか、血の気が戻ったような気がした。
「……え……」
リゲイルはぱちぱちと目を瞬かせた。手の中で、リザの手がほんの少し動いたような気がした。
慌てて手を握り直すと、弱々しいが、確かに握り返してくる感触がある。
「リザさ――」
さあっと音を立てて朝焼けが差し込んだ。どんな意地の悪い雲をも貫き通す太陽が、優しく静かに病室を染め上げる。
そして、今。
茜色でも夕焼け色でもない、朝焼け色としか喩えようがない光の中で、長い睫毛に縁取られた瞳がゆっくりと開かれていく。
「リゲイ、ルさ……」
「――リザさん!」
小さな唇から紡がれる言葉を待つのももどかしく、リゲイルはリザの首に抱きついた。
「ハイ、初めまして。ようやく目を覚ましてくれたわね」
「俺とも初めましてだな、将来が楽しみなお嬢さん。とりあえず今はイェルク・イグナティっていう名前を覚えてもらえるかい?」
「え、あ、あの……」
リゲイルに抱きつかれ、日黄泉にウインクされ、髪の毛にイェルクのキスを落とされて、ベッドに横たわったままのリザは目を白黒させるしかない。
やがてその視線が稲葉と同じ顔をした男の顔の上で止まる。
大きな瞳が更に大きく見開かれ、あっという間に涙が満ちて――釉薬のような唇から、涙と一緒に短く言葉がこぼれ落ちた。
たった一言、先生、と。
イェルクは目をぱちくりさせた。
「あ、変な意味じゃありませんから大丈夫です」
お礼です、と付け加えてリザは小さな包みを差し出した。中身はもちろんチョコレートだ。
「変な意味ってのはどういう意味だい? 俺にしたらその“変な意味”のほうが嬉しいかも知れないよ?」
「よしなさいよ、純真な女の子相手に」
「っと、わわ! そこはやめてくれない……か」
隣に座った日黄泉に翼の付け根をくすぐられ、イェルクは身をよじらせて笑いをこらえる。
「あの、夜乃さんとリゲイルさんも受け取ってくれませんか? 女の人にっていうのは変かも知れませんけど……今は友チョコっていうのもあるみたいですし」
「変なんかじゃないです、嬉しい。ありがとうございます」
「私も。ありがとう」
「良かった」
リザは安堵したように微笑み、その顔を見たリゲイルと日黄泉も同じように微笑した。
2月14日の午後である。連絡を受けて病院にやってきたカエル男爵によって茨の成長が止まったことが確認された後、リザはすぐに退院した。自宅に戻ってチョコレート作りにいそしむためだ。元々下ごしらえは13日の時点で完了していたらしく、残りの工程にそれほど時間はかからなかったという。その後で近くの喫茶店で三人と待ち合わせ、お礼の気持ちも含めたチョコを三人に渡したのだった。
「あ、失敗作でも練習台でもありませんからね。皆さんのために、先生の分とは別に作った物です」
「はは、分かってるよお嬢さん」
眠り続けるリザにかけた言葉の数々はやはりきちんと届いていたようだ。
「本当に……ありがとうございました」
深々と頭を下げるリザに三人とも笑みを返し、首を横に振る。
リザが目を覚ました後、日黄泉は早川を探しに病室を出た。早川を病室に連れ戻してリザに謝ってもらい、リザの前で事の理由を白状させるつもりだった。しかしどういうわけか早川は見つからなかった。いったん捜索を諦めて病室に戻った時には稲葉と同じ顔をした男の姿も消えていた。日黄泉が外に出たすぐ後で、用事があるからと言って病室を後にしたそうだ。リザが実体化して最初に訪れた公園で待っていると言い残して。
喫茶店を後にして、手作りのチョコレートを手に公園へと向かうリザと別れ、三人は帰途に着く。
「どう思う、お嬢さん方」
「何のこと?」
「本当に稲葉だと思うかい?」
「……リザさんが“先生”って言ったんだから、きっと稲葉さんなんだと思います」
一拍置いてから答えたリゲイルにイェルクと日黄泉も肯くしかない。
「それにしても、おかしいわね。どうして私のサーチに引っかからなかったのかしら。あの俳優の行方も知れないし……」
「まあいいじゃないか、終わり良ければ何とやらさ。それと、悩んでいる顔も美しいが、女性を最も輝かせるのは笑顔だよ」
「相変わらずお上手ね」
「言っただろう? 馬鹿正直なタチなんだ」
「それより」
イェルクと日黄泉の軽妙なやり取りを遮り、リゲイルは後ろ髪を引かれる様子で何度も何度も背後を振り返っている。
「リザさん……チョコ、ちゃんと渡せるといいんですけど」
「……大丈夫。渡せるさ」
リゲイルの肩を抱き、イェルクは赤い髪の毛に軽く口づけた。「ここは映画の中とは違うんだから。そうだろう」
「……そう、ですね」
リゲイルは大柄なイェルクを見上げてようやく微笑んだ。満開のひまわりのような微笑に相好を崩した後でイェルクはわざとらしく咳払いする。
「あー、所で、お嬢さん」
「はい?」
「あのー、あれだ。ジャーナルでちらっと見かけたんだけど、お嬢さんの恋人って……」
「はい。スターです」
リゲイルは微笑みを崩さぬまま答えた。「大丈夫。全部分かってます」
瑠璃色の瞳は晴れた空のように澄み渡っている。そっか、とイェルクは肩をすくめて笑った。気遣いは無用だったようだ。日黄泉の台詞ではないが、やはり女は強いらしい。
「あ、車が……良かったら一緒にどうですか?」
迎えのリムジンが歩道の前に横付けにされ、リゲイルは二人を振り返る。
「ありがたいが、このあとちょっと用事が入る予定なんでね。気をつけて帰りなよ、お嬢さん」
「私も予定があるの。ごめんなさいね、せっかくの親切なのに」
「そうですか……じゃあ、また」
リゲイルは手を振って車に乗り込んだ。今日はリゲイルの誕生日でもある。恋人と一緒に過ごす予定があるのかも知れない。
「さて、と」
腰に手を当ててリムジンを見送ったイェルクは傍らの日黄泉ににっこりと微笑みかけた。「行こうか」
「どこへ?」
「予定があるんだろう? 俺と同じで」
「そうよ」
「じゃあ、一緒に行こう」
「どうして?」
日黄泉の微笑は相変わらず魅惑的だが、どうも会話が噛み合っていない。
「機会があったら一緒に酒でもどうだい、って昨日言っただろう?」
「ええ」
「ちょうど今日はバレンタインだ。ってわけでお誘いしてるんだが……」
「あら、私は予定があると言ったはずよ」
「それは俺の誘いを受けてくれるっていう意味だと思ったんだが、違うのかい?」
「残念ながら、外れ。毎年バレンタインだけは絶対に外せないの。大切な人との大切な時間があるから」
日黄泉の雇い主であり日黄泉のすべてであるマスターとの“儀式”。それが行われるのがバレンタインデーなのだ。
「というわけで、ごめんなさい。またの機会にね」
艶やかな唇に押し当てた人差し指をちょんとイェルクの唇に乗せ、ぱちんとウインクをして日黄泉は踵を返した。
「……あーあ。フラれちまったか」
軽やかに翻る茶色の髪と均整の取れた後姿を見送りながらぼやくイェルクの足許に、野良猫が同情するように頭をすりつけた。
ソファと見まごうほどのリアシートに華奢な体をうずめ、リゲイルはウインドウに頭をもたせかけた。走行による振動は上等なサスペンションに吸収され、ほとんど届かない。目まぐるしく後ろに流れていく人や景色を見るともなしに眺める。今頃リザは公園に着いたのだろうか。
できることなら稲葉にチョコを渡す場面を物陰から見届けたかった。しかしあのリザのことだ、見届けたいなどと言ったら恥ずかしがるに決まっている。
それに、あれは本当に稲葉だったのだろうか。
目を覚ました時、リザは確かに「先生」と言った。だが夢の神子が提案したあの一件で、動揺したリザはロケに臨む早川のことを「先生」と呼んで駆け寄ろうとした。
……いや。やめよう。リザ自身が自分で決めて公園に赴いたのだ。それで良い。
細くウインドウを開けると、きんと冷えた風がするりと流れ込んできて頬を撫でる。
――おおきにな、お嬢。
風と一緒に、よく耳に馴染んだ声が届いた気がした。視界の端を掠めた赤は自分の髪の毛の色だったのだろうか。
(ねえ。忍者ならリザさんに気付かれないように傍まで行けるでしょ? 一年かかっちゃったけど……結末は漆くんが見届けて)
澄みわたった空と風に目を細め、リゲイルは祈るように彼の名前を口に含んだ。
『いつも分かりやすい講義をありがとうございます』
何度も修正液を使って一枚目のメッセージカードは駄目にしてしまった。そして、二枚目のカードにたった一言書きつけた言葉がそれだった。一番大切なことは自分の口で直接言うつもりだ。
手作りのチョコレートにメッセージカードを添えて、リザは公園のベンチに腰かけている。この街に実体化した時と同じように――映画のエンディングと同じように。
何の変哲もないベージュのコート、枯葉色のフレアスカートにブラックのブーツ。膝の上には真っ赤な包装紙にピンク色のリボンがあしらわれた小箱。細密に作られた愛らしい人形のような横顔には、待ち人への想いと不安が入り混じった色が薄く差している。
それでも、手作りのバレンタインチョコを胸に、彼女は一人待ち続ける。この場所に来ると約束した想い人を。
死神の女性に着流し姿の浪人、赤毛の少女、鍵屋の女主人、陽気な翼人、色気と茶目っ気たっぷりのエージェント――そして、自分の幸せを祈り続けてくれていた忍の少年。皆から受け取った両手いっぱいの思いを、稲葉への想いと同等に抱き締めながら。
(了)
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クリエイターコメント | お待たせいたしました。 毎度ぎりぎりの提出で失礼いたします。お馴染みのお客様もはじめましてのお客様もご参加ありがとうございます、宮本ぽちです。
判定の種明かしをば。 リザへの対応と早川への対応にそれぞれNGルートを設け、“参加者様全員”がNGルートを選択した場合のみ依頼失敗という方法をとりました。 リザへのNGは「ネガティブな言葉だけをかけること」(九割がネガティブでも残り一割がポジティブならOKでした)。 早川へのNGは「早川の真意を尋ねることなく、彼の行動を一方的に間違いだと決めつけること」でした。 後者については、早川の言葉を聞くor考慮するという“明確な”意思がプレイングに記されているか、または早川に理由を尋ねた“後”ならば、彼を非難しようが殴ろうがOKという判定でした。
判定とは関係のない部分ですが、早川に対する考察やアプローチにはもっと違う方法があったかも知れません。 早川がこの街で何を見、何を思って来たかという点も、早川が本当に問題にしていたのは何かという指摘も、スターでもファンでもない彼を説得できるだけの要素もプレイングには見当たりませんでした(そのため、早川に対する行動が成功しなかった方もおられます)。 とはいえ、リザが目覚めたということは、最終的には皆さんの行動やお言葉が正しかったということです。 早川が色々嫌なことを言っておりますが、どうかご寛恕くださいませ…。
一年間引っ張ってきた連作(?)ですが、映画と同じエンディングという皮肉な幕切れを迎えることになりました。 果たしてこれはハッピーエンドなのでしょうか、そしてリザはチョコを渡せたのでしょうか。映画『ファースト・バレンタイン』と同じく、解釈は観客の皆様に委ねられます。 リザの物語はこれにて完結です。これまでご参加くださった皆様、ご覧くださった皆様、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-02-14(土) 00:00 |
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