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<ノベル>
真円を描く赤い月が、暗緑色の生垣と距離を置いて佇む民家の間に引っ掛かっている。
昼もよるもなく賑わう中心街からわずかでも外れてしまえば、辺りは、深い眠りに落ちてしまったかのような静寂に満たされる。
そんな夜の世界を歩く、生きた少女人形。
マリエ・ブレンステッドがまとうのは、たっぷりのフリルとレースとリボンで飾られた目の覚めるような紅いゴシックドレスだ。
そして、彼女の手の中では、くるくるとフリルで縁取られた鮮赤の傘がまわる。
銀幕市は〈夢の街〉なのだと誰かが言った。
夢の魔法がかけられ、夢を見続けるこの街に、ある日突然大好きな祖父とともにマリエは現れた。
マリエにとっての日常は、祖父と過ごす日々のことだ。
そしてマリエの日常は、この街でほんの少し変化した。
見慣れたものと見慣れないもの、見知らぬ者と見知った者の間を、少女人形はたのしげに歩くのだ。
時には祖父と、たまにひとりで。
少女人形の足取りは軽い。
まるで踊るようにふわふわと夜の散歩を楽しむそんな彼女の鼻先を、ふっと、不吉な匂いが掠めた。
思わず足を止め、首を傾げる。
マリエにとって、それはけして馴染みのないモノではなかった。
それは、そう、それは、濃厚な血液のニオイ。
くるりとさしていた紅い傘をまわして、そろり、好奇心を満たすために路地裏を覗きこむ。
そして、マリエは後悔する。
こくりと、息を飲んだせいでノドが鳴った。
そこにあるのは芸術作品。
そこにあるのは紛れもない鮮赤のオブジェ。
透明な糸に絡まり、縛られ、人形のようにグッタリと壁にもたれかかった体は、鮮やかな血にまみれている。
ソレを眺めるひとつの影。
あるはずのない心臓がとくりと跳ねる。
ソコニアルノハ
ミテハイケナイモノ
かざしていた傘の柄を両手でしっかり握りこみ、マリエはただひたすら言葉を失い、立ち尽くす。
紅い作品。
真っ赤な作品。
幼い少女を素体としてソレを作り上げたのは、カミソリよりなお鋭利なチカラを持つ〈あの糸〉なのだ。
マリエは知っている、ソレが誰のモノであるのか。
マリエは気づいている、それがあのヒト以外に作り出せる物ではないことに。
「……どう、して……」
どうして、と繰り返す。
「うそ……ちがう、ちがうもの……」
違う、違う、違う、あの人はあの影はあれは、アレは断じて――
ふいに。
本当に不意に、鮮赤の人形を作り出した男がこちらを振り返る。
雲の合間から、一瞬注がれる月光。
影から浮かび上がってくるだろうその〈顔〉を確認するより先に、マリエは踵を返し、逃げるように夜の町を自身の住まう屋敷に向けて走りだしていた。
違う、違う、違う。
違う違う違う、アレは何かの間違い、なにかの見間違い、そんなはずないのだ、そんなはずない、あんなことをしたのが、
「おじいさまのはず、ない」
声に出して、否定する。
マリエは走る。
切れるはずのない息を切らし、痛くなるはずのない胸を痛めながら、恐ろしい予感を振り切るために郊外に佇む自身の家へと走り続けた。
傘の柄を握りしめ、目をきつく閉じて、膨れ上がっていく不安と疑惑を胸の内に押し込むのに必死だった。
違う、違う、違う。
違う違う違う違う違う違う、祖父ではない、断じて祖父では、ありえない。
違う。
ほら、家が見えてきた。
この街で住もうと決めた看板の出ていない〈アンティークショップ〉、そこがマリエと祖父の新しい家だ。
窓からは明かりが洩れている。
扉。
その扉の向こうで待っていてくれるもの。
マリエは走る。
ひたすらに走り、そして――
「おじいさま!」
扉を開き、真っ先に視界に飛び込んできた、予想したとおり姿を認めることのできた相手へと、大切なはずの傘すら投げ出して駆けより抱きつく。
「おじいさま」
怯える心を消し去るように、マリエは祖父の胸に自分の顔を埋めた。
「おじいさま……」
「おや、めずらしい。どうかしましたか、マリエ?」
自分の頭をなでる、ほつれた髪をそっと梳くようなやさしい手つきに、流れるはずのない涙があふれそうになる。
「……なにも、なにもなかったの」
怖いものを見たと、告げることすらできなかった。
言ってしまったら、言葉にしてしまったら、それが現実になるかもしれないという不安があまりにも大きすぎて。
だから、マリエは小さくかぶりを振る。
「おじいさま、マリエはおじいさまのこと、すき……」
しっかりと抱きしめた祖父からは、〈血〉のニオイはしなかった。
あのむせ返るような鮮赤のニオイはひとかけもまとっていなかった。
マリエは安堵する。
たったソレだけのことだが、とても大切なことだと自分に言い聞かせながら。
マリエは考えないようにする。
たったソレだけのことでは、とても無実の証明にはならないということを。
そうして目を背けたはずの〈現実〉は、ひっそりとマリエに寄り添いながら、再び動き出す時を待つ。
*
銀幕市は悪夢が踊る街なのだと誰かが言った。
思いがけない悲劇を生み出す、非常識と不条理で彩られた悪夢をばら撒く場所でもあるのだと教えてくれた。
紅い死。
真っ赤な死が、この街に増えている。
ヒトが死ぬ。
けれどソレはもう、この街では珍しくないのかもしれない。
ヒトが死ぬ、ヒトが殺される、とても信じられないような状況で。
けれどソレはもう、この街では日常の一部と化しているのかもしれない。
*
日の光は穏やかにやわらかく世界を照らし出す。
月が見せる危うげな幻想を消し去るように。
マリエは窓ガラスの向こう側でキラキラと輝く緑をときおり眺めながら、祖父を手伝い、午後のお茶会の準備をすすめていた。
アンティークの円卓に白いレースのクロスを掛け、磨き上げられた銀食器をならべ、ボーンチャイナのティーポットにティーコゼーをかぶせる。
マドレーヌやクッキーの甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「ねえ、おじいさま、どうしてカップをみっつにするの? それに、ケーキのおさらはからっぽよ?」
不思議な気持ちで、マリエは祖父を見上げた。
祖父が戸棚から取り出し並べたアンティークのティーカップとソーサーは3客用意され、大きな銀の皿には紙ナプキンだけが敷かれている。
「ああ、いいのですよ、それでいいのです」
「そうなの?」
それがどういう意味なのか、マリエにはよく分からなかった。
けれど、答えはすぐに明かされる。
滅多に他者が開く事のない店の扉がゆっくりと開かれた。
そして。
「ああ、今日はやっていたねぇ。よかったよかった、ほんとによかった」
にこにことした笑顔とのんびりとした口調の英国スタイルの老紳士の来訪。彼のその手には、意匠を凝らしたステッキと、そして化粧箱が収まっていた。
「ようこそいらっしゃいました」
「おや、お茶会の時間にすまないね」
「いえいえ、とんでもございません。お待ちもうしあげておりましたから」
そうしてエズヴァードは彼に椅子を勧める。
マリエは彼から受け取ったケーキを淑女らしい礼儀正しさと優雅さで皿に載せ、切り分ける作業を祖父に任せると、自分は紅茶をカップに注いだ。
ごく稀に店にやってくるアンティークドール好きのその客は、手土産にマリエのドレスにあつらえたかのような真っ赤なベリータルトと真っ赤な噂話を持ってきたのだ。
古い柱時計が、午後3時を知らせる。
茶会の始まりだ。
「聞いているかい、エズヴァードさん。例の事件がまた起きたんだってねぇ」
常連と呼んで差し支えないだろうその紳士は、どこか愉しげに目を細めて、エズヴァードを見やる。
「なんでも芸術家、と呼ばれているんだって? 女の子ばかりを狙った陰惨なその『作品』は、蜘蛛の糸に絡めとられた真っ赤な鳥を連想させるというねぇ」
「ええ、そのようでございますね……」
トクン、と、跳ねるはずのないマリエの心臓が跳ねた。
カチャン、と、マリエのカップが音を立てる。震える指先が、カップとソーサーにいらぬ衝撃を与えてしまったらしい。
「マリエ」
「ごめんなさい」
しおらしく謝りながら、マリエは俯く。
赤い死。真っ赤な死。銀幕市を舞台にして作り上げられる『芸術家』の作品。
あの日、あの夜、あの瞬間に見てしまったモノが、マリエの中でフラッシュバックを起こす。
思わず一度きつく目を閉じて、それから思いきったように紳士へ向けて首を傾げてみせた。
「……そのじけん、はんにんはまだつかまっていないの?」
「ああ、そうだよ。対策課から近々依頼が出されるという噂は聞いたんだけどねぇ」
「もしつかまったら、やっつけられてしまうの?」
「多分ね。でも、それまでは十分気をつけないとダメだよ、マリエちゃん。月の晩は特にね」
にっこりと笑った客は、その表情のまま、エズヴァードへ顔を向ける。
「気をつけてやんなきゃなぁ、エズヴァードさん。マリエちゃんは女の子で、しかも標的となるのは今のところ、ムービースターとムービーファンだけらしいからねぇ」
「ええ、そういたしましょう」
目を細める祖父。
紳士と祖父の間でかわされる視線と言葉。
マリエはそっとふたりから視線を外す。
蔓草のレリーフを施されたガラス棚に並ぶ人形たちが、黙ってこちらを見ていた。
静かに静かに、はめ込まれたガラスの瞳に物言いたげな影と光を宿しながら、ただじっとそこに座っている。
「……アレは、ちがうもの」
マリエの呟きなど届いていないのだろう、紳士はエズヴァードとマリエに語り続ける。
あの光景は悪魔の描く悪夢だと、客はそう評してもいた。
殺人者は、場所を選ぶ。
観るモノの視線と視点を意識する。
キャンパスに描かれる美しい赤。
禍々しく、おぞましく、けれどどうしようもなく惹かれる美しい赤の色彩。
鋭い糸に捕らわれた獲物は、バラバラに分解され、そしてオブジェとして再構築される。
マリエは思いだす。
ソレができるものを、マリエは知っている。
知っているけれど、ソレは違うのだ。
それは間違った答えなのだ。
客が店を出ていくのを待って、マリエは傍らに座る祖父の袖をそっと掴んで、その顔を見上げた。
「ねえ、おじいさま?」
胸に広がる不安の影を、追い払う術をマリエは知らない。
「ねえ、おじいさま……どうしてはんにんは、あんなふうにころすの?」
だから、祖父の腕に身を預けて、問いを口にする。
相手を試しているわけではない。その答えから嘘や偽りを読み取ろうというのではなく、ただ純然たる興味なのだと、そう自分の想いを信じ込みながら祖父に言葉を向ける。
「おかしなものに興味を持つことは、あまり感心できないのですがね?」
やんわりとたしなめる、その口調にはわずかな揺らぎも存在していない。
むしろそこに懐かしささえ覚えるのだ。
かつてある少年を助けるため、マリエが選んだ行動、それについて苦言を呈した時の祖父にいまの台詞が重なる。
「だって、きになるんだもの……」
だから、問いを重ねる。
知りたいのだと、子供のわがままを口にする。
そうすれば優しい祖父は、ほんのわずか困ったような顔をして、それでも言葉を返してくれるのだ。
「作品を作っているに過ぎないのだと思うのですがね? ただ、そう、満足のいくものを求めて」
「まんぞくのいくさくひん……さくひん……なの?」
マリエはいくどとなく思い出す。
あの日、あの夜、赤い月が見下ろす闇の向こう側で目撃したモノを。
「ねえ、おじいさま……、おじいさまは……」
そこで言葉を詰まらせる。
そこから先を続けることが怖くて恐ろしくてしかたなかったのだ。
信じているのに、聞くことができない。
「マリエ」
「なぁに」
「貴女は自分がこれから何をしようとしているのか、すでに充分に理解しているのでしょう?」
「……うん……」
マリエは決める。
髪を、頬を、優しくなでる祖父の手の冷たいぬくもりを信じ、与えられてきたすべての時間と思い出にすがるように。
「マリエは、じぶんがなにをするか、わかってるの」
「そうですか……ではきっと、止めても無駄なのでしょうね?」
チクリと、痛まないはずの胸が痛む。
「……マリエを、ゆるしてくれる?」
おそるおそる顔を上げると、祖父はただ無言で微笑んでいた。
マリエの嵌め込まれた紅い瞳が、祖父の深い緑の瞳を捕える。
そこに映る自分の姿に、なぜかひどく不安を掻き立てられながら、それでもマリエは自分の決めたことを取りやめる気にはならなかった。
そして、『夜』は訪れる。
カタン。
夜の帳の覆われた静寂の中、遠くかすかに響く音。
それでマリエは目を醒ました。
ソレは祖父の部屋から聞こえてきたようにも思え、同時に、たった今自分が眠りの中で立ててしまった物音のようにも思えた。
真相は、分からない。
けれど、次にとるべき行動は決まったいた。
マリエはそっとやわらかであたたかな自分のベッドから抜け出し、着せられていた寝巻きを脱いで、自分のためにあつらえられた真紅のドレスをまとった。
見上げた空の色は限りなく黒に近い暗紫色だ。
そこに浮かぶのは見事な真円の月だ。
禍々しいほどに美しい月の晩にだけ、シリアルキラーは地上に降り立ち、鮮赤の死をばら撒いていくのだという。
赤い死――何者かの手により、夜の闇の内に描き出され、白日に暴かれれば陰惨としか映らない『死』は、ただ現実としてあふれていく。
耳を塞ごうと、目を逸らそうと、自分の中に膨れ上がる疑惑を消せないのは同じ。
ならば、向き合うしかないのだ。
向き合うことで、何かが狂ってしまった日常が、正しいカタチへと再び戻るのだと信じた。
銀幕市という舞台で花開く醜悪な悪夢の中を、マリエはたったひとりで歩くことを決めたのだ。
もしも祖父でないのなら、それはとても素敵なこと。
もしも祖父であったなら、それは理由を問うべきこと。
マリエはもう一度空を見上げた。
既視感を覚える真円を描いた赤い月が、マリエを見下ろしている。
その視界の端で、ふと何かが引っ掛かった。
静寂と闇とわずかな光で構築された植物と無機物が並ぶ世界で、マリエは幻のようにおぼろげな色彩に目を止めた。
耳を澄ませば、遠くで音がする。
どこか驚きに満ちた声が、やがて乱れ、狂い、潰えていくのが聞こえる。
マリエはそっと、声を辿る。
導かれるように、背の高い草花たちを白い手でそっと払いながら、奥へ奥へ、その奥へ、月の光の中で薄ぼんやりと佇む小さな白い廃墟を目指す。
鼻先を、不吉な匂いがかすめていった。
ないはずの心臓が、またトクトクと逸る。
足元にまとわりつく影が、何故か自分が進むことを歓迎していないかのように思える。
今すぐ駆けだしたいような衝動に駆られながら、それでも必死に自制して、石畳の先に開かれた扉に手を掛けた。
ギシリ。
軋み歪んだ音を立てる廃屋の扉をさらに押し開き、マリエは全身に緊張をまとわせて、砕けたガラスが敷き詰められた床をそろりと歩く。
けして広くはない白い匣。
けれど、けして狭くもない白い部屋。
その壁をゆるゆると伝い、崩れ掛けたもうひとつの扉へと、その隙間からかすかに洩れる光の元へと辿り着く。
ニオイは更に強さを増した。
物音は、聞こえない。
けれど、なにか、ささやくような、誰かの声は聞こえてくる。
マリエは足を止め、一瞬ためらった。
扉を完全に開け放つことに、そこで待ち受けているものを目にすることに、自分がこれからなそうとすることすべてに。
だが、ドアノブに手を掛けた。
震える手でそっと。
そして。
マリエはそのまま、語るべき、掛けるべき一切の言葉を失い、目を見開いて、固まった。
視界を染める、視界を埋める、ソレはどうしようもなく赤い光景。
酷薄な輝きを放つ〈糸〉によって、ワンピースをまとっていた『少女』は『ヒト』としての在り方をやめて、ひとつのオブジェと成り果てていた。
むき出しのコンクリートの床に散らばる瓦礫もまた、その作品を引き立てる舞台演出のひとつなのだろう。
天井、壁、床を問わず張り巡らされた糸。
そこに絡めとられた死者の肉体。
濃厚な赤が描き出すのは、羽ばたく鳥を連想させた。
網膜に焼きつく、圧倒的芸術。
だがなによりもマリエを驚かせたのは、その『作品』をたった今作り終えたばかりの人物そのものだった。
「来てしまいましたね、マリエ」
闇は彼を隠さない。
闇は彼をむしろ引き立たせる。
この世ならざる色をまとった老紳士は、そっと静かにこちらを振り返った。
「どうして貴女はこの扉を開け、見ることを選んでしまったのでしょう?」
「……おじい、さま……」
哀しそうに、嬉しそうに、祖父は微笑む。
「おじいさま、これはなにかのまちがい?」
「貴女は賭けに負けたのですよ、マリエ。いえ、負けたのはむしろ、わたくしの方かもしれませんがね……」
一歩、更にもう一歩、作品を離れてマリエのもとへ近づく祖父の表情が、愉悦とも取れる笑みに変わる。
「マリエ」
手が伸ばされた。
「貴女はこの罪の所業に『何故』と問うた」
その手がそっと、マリエの頬をなでる。
「わたくしは、満足のいく作品を残したいのだろうと答えた」
マリエの瞳は揺れる。体は動かない。動かすことを忘れていた。ただひたすらに、祖父を見つめることしか出来ずに立ち尽くす。
「けれど、美しい作品を作りだそうという、そこに込められた本当の理由など、一体誰に分かるというのでしょうね?」
祖父の肩越しに、『作品』が見える。
作品となったモノが、自分にひどく似ていることにマリエは気づかないふりをした。
そうして再び、祖父に視線を戻す。
「マリエ」
愛しいモノの名を呼ぶように、ひどく穏やかな声が耳に届く。
「どうして貴女は、ムービースターなどと呼ばれる存在になってしまったのでしょう」
祖父から与えられるすべてを、マリエは享受すると決めている。
「どうして貴女は、わたくしの作り上げた人形でありながら、わたくしの理から外れた存在になってしまったのでしょうね」
だから、マリエは動かなかった。
「こんなにも、愛おしいのに……貴女は神の子のモノに堕ちた……忌むべき存在に、成り果ててしまった……」
髪を梳いてくれた、いくつものドレスを着せてくれた、そんなやさしい祖父の手が自分の首をそっと包みこむ。
「それでも、そう……、もし貴女が何も気付かずにいたら……」
気付かずにいたら、もしかしたら。
だがその仮定の言葉は途切れ、続かない。
「マリエ、ここに来たのなら、覚悟はできているのでしょう?」
代わりに祖父はやんわりと問いかける、そこに含まれた意味すらもマリエは静かに受け止めた。
「おじい、さま……あのね……」
ゆっくりと目を閉じながら、そっとマリエは告げる。
「マリエは、おじいさまにころされるなら……かまわないの……」
人形の首をへし折っても、本来想定されるべき『死』は訪れない。死ぬはずがない。
入れ物が砕けたところで、ただ器に宿っただけの魂が戸惑うようにそこに在り続けるだけだ。
本来なら。
そう、本来なら。
けれど。
いまマリエの首を優しく包むのは、マリエをいまの『マリエ』にしてくれた存在だ。
愛する祖父、大切な、大好きな、自分だけの祖父の望みが自分の死ならば、どうして差し出さずにいられるだろう。
「マリエ、貴女は本当に、いい子ですね……出会ったあの頃から、ずっと、ずっと……」
ぱきん。
紅い死が至る所にばら撒かれている。
おぞましき穢れを美しい色彩でもって覆い隠すように、出るはずのない血が、マリエの中からあふれた。
鮮赤に濡れて月の光にきらめく、不可視から可視へと変わった糸。
少女はまるで標本の蝶のように、赤いドレスを羽根のように広げて空に掲げられ、飾られる。
ガラスケースに収められた人形たちと同じように、虚ろな鮮紅色の瞳にはなにも映らない。
なにも、なにひとつ、うつらない。
そして。
そう、そして。
乾いた音を立てて、フィルムがひとつ、地に落ちて、砕かれた――
*
*
*
「おじいさまはこんなことしないわ」
優しく体を受け止める安楽椅子にもたれたまま、マリエは不機嫌な声をもらす。
「いやなほん」
ぷっくりとしたかわいらしい唇をわずかにとがらせて、パタリと、膝に乗せていた本を華奢な作り物の指で閉じる。
枕元に置かれていた一冊の本。
ベルベットの手ざわりは思いの他心地良く、金の飾り文字は、【Artistic Red】と綴られていた。
心惹かれなかったと言えば嘘になる。
好奇心を刺激されなかったと言えば、嘘になる。
けして厚くはないその本を手にした瞬間から、マリエは読み終えたこの瞬間までを、ただひたすら読書に費やした。
お茶の時間も、散歩の時間も、何もかもあと回しにして没頭した。
だからこそ、この展開にも、ラストシーンにも、一言二言こぼしたくなってしまうのだ。
「どっかにすてちゃおうかな」
声に出して、呟いてみる。
もう一度自分はこの本のページを繰るだろうか。
不安が、胸のうちに頭をもたげる。
祖父はこんなことはしない。
けれど。
けれどそれでも、ふ……っ、と胸の内に過ぎるのは、この銀幕市に広がり根付く『ムービーキラー化』という現象だ。
おそるべき【絶望】に侵された者たちが辿る末路を、マリエはすでに十分過ぎるほど知っていた。
その流れが、その糸が、祖父を狂わせないとどうして言えるだろう。
どうして、大丈夫だと言い切れるだろう。
だが、マリエはその思いを払うようにかぶりを振った。
「……だいじょうぶだもの……だいじょうぶ」
その声に重なるように、再び自分を呼ぶ声がした。
「マリエ」
祖父の声がする。
大好きな祖父が、扉の向こうから自分を呼んでくれている。
遠くで古時計が3時を告げる鐘を鳴らしているのも聞こえてきた。
日常は日常のままだ。
「マリエ?」
返事のないことにいくぶん心配そうな、なにかを気遣うような声を聞きながら、マリエは今度こそ、この本とこの物語とこの想いを手放すことを決める。
「はぁい、おじいさま、いまいくわ」
自分を呼ぶ、優しく穏やかな声に促がされるままに、少女人形は自分を抱き止める安楽椅子から降り立つと、不吉な本をそこに置き去りにした。
だいじょうぶ。
これはただの物語。
これはただの、誰かが綴ったあり得るはずのない物語。
だから、だいじょうぶ。
赤い本は窓から差し込む光の中でただひたすらに沈黙し、そして、何も語らない。
And that's all……?
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クリエイターコメント | この度はプラノベ企画【未明の夢】にオファー頂き、誠に有難うございます。 少女人形と老紳士の物語、いかがでしたでしょうか? 細かなところをお任せいただいたため、動機と日常のシーンに捏造を織り込ませて頂きました。 北欧系のゴシックテイストが印象的なPCさまのもつ独特の雰囲気、イメージ、そして『作品』としての死を描写できているとよいのですが。
それではまた、夢の魔法に踊る銀幕市のいずこかでお会いすることができますように。 |
公開日時 | 2008-07-22(火) 00:00 |
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