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<ノベル>
私は旅に出ようと思うの。ここではない、どこかへ。
――あなたも、でしょ? だから、これは最後の演技。
*
普通の民家の窓から、家の中へ入り込んだはずなのに。足元でじゃり、という音がした。その異質な反応に、スルト・レイゼンは下を向く。そこには、前にも見た、砂にまみれところどころ破壊されたコンクリートがあった。
彼が入ってきた窓から、靴音がした。じゃり、という音が響く。
「――へえ、本当にあの『セカイ』なんだな」
「ああ。あの時と、同じ気配だ」
後ろから掛けられた言葉に、スルトは振り向いて答えた。スルトと同じように地を見て、そして空を眺めているのは、シャノン・ヴォルムスだ。そより、と乾いた風にその髪がひと房、攫われていく。
スルトは辺りをもう一度見回して、そして頷いた。
「やはりそうだ。前と同じだが、今のこのセカイは、敵意に、そして悪意に満ちているな」
「そうだな。気を引き締めていかねば、か」
シャノンも、全身にその気配を感じているようで、スルトの言葉に同意する。二人は、どちらともなく、歩き出した。
「それにしても、どうしてこんな事になったのだろうか」
「もう少し詳しく調べてみないと、分からんな。――ただひとつ言えるのは、以前した事がどうやら無駄になってしまったらしい、という事だろうな」
「ああ。とにかく、まだあの二人にも会えていない。何とかして会わなくては」
「そうだな」
二人の後ろでは、先程まではその形を見せていた、最初に入ってきた窓がいつの間にか、周りの風景に溶け込まれて消えていた。
そこはもう、何回か訪れた事のある場所。
「ここは相変わらずだな。だという事はやはり、前に見たあのパソコン群が何かを起こしてるんだろうか……」
辺りを見回しながら、シャノンはぽつりと呟いた。スルトも多分そうだろうな、と頷く。
「だけど。あの二人が率先してこんな事をするとは、考えにくいな」
「それは思うな。――となると――」
シャノンもスルトの意見に頷きながら、ここで出会った、ある人物を思い出していた。それは真っ赤なワンピースを着た、あの――。
びし、と足元で小石が割れるかのような音。
今までの気配に敏感に構えていた二人は、即座にその場から飛び退いた。
「……出たかっ!」
突如彼らの周りで膨れ上がった殺気に、二人は全方位に視線を奔らせた。
今まではほとんど周りには人影も、建物すらもなかったのに、いつの間にか、彼らの周りには数十人の人垣が出来ていた。皆が手にそれぞれの武器を持ち、明らかに敵意の視線で、二人を見つめている。
「ち。囲まれたか」
シャノンは小さく舌打ちすると、素早く両手に銃を構える。攻撃の姿勢を取った彼に、スルトがす、と制止させるように腕を出してきた。
「俺が囮になる。だから、あんたは先に進んでくれ」
スルトが見せている確固たるその表情に、何かを言いかけようとしていたシャノンは、それを止め、ひとつ頷いた。
「分かった」
その言葉と共に、乾いた音がシャノンの前方にひとつ、鳴り響いた。ほんの僅か遅れ、普通の銃ならあり得ない爆音が響く。二人を囲んでいる人垣の一部から、赤い火柱が噴き上がった。
シャノンはそれを確認するかしないかの内に、そこの空いた人影に向けて、突っ込んでいく。
スルトは同時に、両手の呪布を外した。そこから、完治させていない傷跡が現れる。
そこから出る赤い霧が、彼の周りを覆っていく。
「――さて、と」
その呟きと同時に、ざああ、と赤い霧が意志を持って蠢いた。その霧の晴れ間から、スルトの視界には、とある人物が映っていた。
その人垣の中でも最も強烈な存在感を放っている、ミズホ。
*
あなた、そんなところで何をしているの?
何って、見れば分かるだろ? ――客引きだよ。こんな顔だからな、この仕事が一番儲かる。俺は高いぜ。ま、女性には安くしとくよ。
――名前は?
は? ああ。そういやこの前お得意様がミズホとか何とか呼んでた気がするな。名前なんてねえからな、俺には。
*
違う民家の中では、別の二人の青年が、家の中の空を見上げていた。それを初めて見る驚きを表しているのは、梛織。その傍らで、ああ、やっぱりこうなのか、と言った表情を滲ませているのは、ルースフィアン・スノウィスだった。彼らの背後にあった、窓は空間に溶けるかのように消えていく。
「――巻き込まれて初めて見たけど、こうやって見るとホントに驚きだらけだな」
「ええ。そうですね」
じゃり。梛織は数歩歩き回ってそのセカイの感触を確かめていたようだが、ふと足を止めると、くるりと振り返った。
「なあ、ルースフィアンはさ、どんな作戦を考えているんだ?」
梛織の問いに、ルースフィアンはしばし宙に視線を彷徨わせ、自分の中にある思考をどう話そうか考えている様子だった。そして、しばらくの後、口を開く。
「作戦、と言う訳ではありませんが、――ここにいる方達を銀幕市に導くことが出来れば、と思ってます」
「――そっか」
梛織は薄く微笑むと、ほんの僅か俯いた。その表情をルースフィアンは見逃さなかったようである。
「――お困りなのでしょうか?」
「困っているというか、いきなり放り込まれたからな。戸惑っている、かな。――でも」
「でも?」
「俺にも、ここに初めて来た俺だからこそ出来ることもあるんじゃないか、って考えてる」
芯のあるその言葉に、ルースフィアンはただ一言、そうですか。と呟くだけだった。薄く笑みを浮かべる。
「なあ、――このセカイは一体何なんだ?」
「僕にも、このセカイに住んでいる者達でさえ、このセカイがどうして存在しているのかは分からないみたいです。――ただ分かることは、このセカイが、コンピューター群によって、存在できている、という事、ぐらいですかね」
「コンピューター群?」
梛織がその不思議な、まるでこのセカイには似つかわしくない言葉を鸚鵡返しにした。その時、一瞬だけぐにゃり、と周りの風景が歪んだような気がした。
「ええ」
ルースフィアンはひとつ頷いて、周りをざっと見回した。そこには、誰もいなかった筈の空間だった。はずだ。
今は、何十という人間達が、殺気を膨らませて、彼らを取り囲んでいる。
「え?」
驚きながらも身構える梛織に、ルースフィアンは落ち着き払って、呟いた。
「このように、偶然が起きるセカイなのです」
*
ミズホ? そう。あなたは本当の名前を知ってる?
本当の名前? 言ってる意味が分かんねえ。
*
また違う民家の中では、ひとりの青年がため息をひとつ吐いて、どっこらしょ、と座っているコンクリートの欠片から立ち上がった。
赤い瞳が面倒そうな光を帯びて空を見上げる。麗火の眼前に広がるのは、濁った色の空。これが、彼女が言っていた不安定なセカイってやつか。ぼんやりとそう考えた彼の周りに、渦を成して風が舞った。
彼は前にここに来たことのある友人から、このセカイの不安定さと不思議さについて色々と説明されていた。むしろ彼女に、ここへ送り込まれた、と言った方が正しいだろう。
彼女は、確かこのセカイでは偶然が必然に起こる、といったような事を話していた気がする。その事を思い出しながら、渦を成して集まってきた風を、じっと見つめた。
「大海に地底に住まうものよ、ここにひとつの風を起こし給え」
ぼそりと呟くと、集まってきた風が、瞬間的に外に広がっていく。現代にして、風速何十メートルにも換算されるその風は、刃のように、周囲に申し訳なさそうに建つ建物を破壊していった。
「……走り回るのもタリィし、向こうから来てもらうことにするか」
麗火がぼそりと呟いた時、今度は彼の周囲に幾つも小さな焔が湧き出てきていた。そして彼の周りで踊りまわる。ぐるりと回ってその焔を全て目に捉えると、口の中で詠唱を唱えた。
「赤き精、青き精、風の精、その力を解き放ちここに具現せよ」
ぽ、と小さな音があちこちで上がる。そして、周りを漂う酸素の力を借りて、その焔の威力が一瞬にして巨大化していった。
そして、その焔が周りに段々と広がろうとして。
ぴしり。
ほんの僅かの異音を麗火の耳は捕らえていた。周りの風景は何も変わっていない。ただその中を焔が舐めるかのように、過ぎてゆくだけだ。
「……なんだ?」
麗火は小首を傾げながら、そう呟いた。そして近くにあった先程腰掛けていたコンクリートの塊に腰を下ろそうとして。
す、と腰が座る時の角度になっても冷たいコンクリートの感触に至らない事に、違和感を覚えた。一度立ち上がってから、そのコンクリートに手を触れようとしてみる。
コンクリートの中に、すっと。手がすり抜けていく。
「え……?」
驚きの表情を浮かべる麗火の背後で。
ひらりと、赤いワンピースが舞って、消える。
この光景を見るのは、久々だった。色の無いそのセカイに、曼珠沙華柄の真紅の着物がやけに映えている。
鬼灯柘榴は、民家の中に唐突に滲み出てきたその光景をじっと眺めながら、無表情のまま、一歩を踏み出していた。じゃり、と砂が舞い上がる。
柘榴は無表情のままだったが、その面には、どこか不快さが滲み出ているような気配がある。
「……宮毘羅」
柘榴がぼそりと呟くと、彼女の影からす、と小さな十二支の子に擬態した使鬼が姿を現した。
「このセカイの中心はどこですか……?」
その問いに、宮毘羅は小さく首を振って、彼女の問いに答える。それを見、柘榴はひとつ頷くと、宮毘羅は静かに影の中へと消えていった。
柘榴は次に真達羅と小さく呟く。影からすっと現れた使鬼にそっと乗ると、真達羅は空まで駆け上がり、その腹の色をこのくすんだ空の色に合わせていった。
「行きましょう」
その言葉と同時に、真達羅は音も無くセカイの空への飛行を始めた。
*
名前よ。あなたの名前。こう書くのよ。
瑞――穂? 何だか難しい字面だな。
*
四方から飛んできた銃弾が、唐突に出現した氷の壁によって、威力が半減されていく。威力が落ちてへろへろな動きを見せるその銃弾を梛織とルースフィアンは難なく避けていた。
間髪を入れず、ルースフィアンは指をつい、と振って、周囲に氷柱を出現させる。その間に梛織は銃を構える人間達に突進し、腕の部分を狙って蹴りを入れていた。周囲に轟音が響き、持ち主を失くした銃が宙を舞って行く。その彼を狙って撃たれた銃弾に、ぴしりと氷の槍が出現し、銃弾が中からもろとも破壊されていった。
ルースフィアンは最初に立っていた位置から、あまり動く事無く、静かに戦況を眺めて的確な魔法を出現させていた。ルースフィアンが手にしている青い杖と、彼があまり動かないことから、足が不自由だと踏んだらしい人々が、幾人か彼に迫ってこようとしていた。その中には、大人だけでなく、子供も混じっている。ルースフィアンと同じくらいの歳。
その事に、ルースフィアンは僅かに眉をひそめた。その間にも、彼らは距離を縮め、ルースフィアンに直接掴みかかろうとしている。
「!」
彼の襟に、袖に手が届きそうな瞬間、彼の青い瞳が強い輝きを覚えた。
「ぎゃっ!」
地面から地響きと共に、濃い青い色の氷柱が立ち昇った。それはルースフィアンの四方を囲むように立ち昇り、今まさにルースフィアンに掴みかかろうとしている人々と周囲へと弾き飛ばす。
彼は宙に舞う人々を眺めながら、再びつい、と指を振ってその氷柱を消していった。
ぼたぼたっ。
何も無くなった中空から、濃い赤い液体が雨の降り始めのように地に落ちていく。それは中央にいる、彼の髪にも降りかかっていた。
彼はそうでありながらも、静かに笑いを浮かべた。
「僕は誰しも平等に接しているつもりですので」
梛織は左足で中段の位置にあった、相手の右腕を蹴り飛ばしてその手にしていた銃を中空に飛ばした。そのまま背後から彼の肩に掴みかかってきた連中に思い切り肘を入れる。反動で体が回転していくと同時に、左の膝にぐっと力を込め、そのまま相手の腹へと叩き込んだ。
「ぐうっ……」
低い呻き声と共に、その相手が、地に倒れていく。
背の高い男だったので、一気に梛織の視界が開けていくような錯覚を覚えた。
向こうに、冷静に中くらいの大きさのサブマシンガンを構えた男の姿が映る。
妙に、目が爛々と輝いているような――。
梛織がそう考えた時、彼の目に激痛が奔っていった。
「……――?」
ぼたり。ぶしゅ――。
目から何かが溢れるような感触と同時に、脳内に誰かの気合のような、そんなものが急速に流れ込んでくるのを感じる。
このままではいけない。そう彼の本能が囁きかけた。彼はどうしてかは分からないが、視界が滲みつつあるその目に、猛烈な勢いを込めていた。
ぶしゅり。さらに目から何かの液体が溢れ出る。だがそうして目に力を込めた瞬間、ついさっきまで感じていた、脳内に何かが流れ込むような感触は消え去っていた。
「……はあ……」
はあ。
何故か息切れを起こし、目の部分をぐいと拭って再び相手と身構える。
その時、ぬるりとした汗や、涙とはまた違うような感触を掌に感じて、ちらりと掌に視線を落とし。
――彼は驚愕の表情を浮かべた。
掌は、何故か赤い血にまみれていたからだ。
「――え?」
梛織は一瞬、自分はうっかり誰かを殺すような事をしてしまったのか、と思ったが、まさかそんな事をするはずはない、とすぐに思い直す。
そうだ。あの時に自分は覚悟を確信に変えたのだから、まさかそんな事をするはずはない。
では? そう思った梛織の前に、銃が閃いて、突きつけられた。
その二方向から突きつけられた銃。その内のひとつは、丁度銃身が角度のせいもあるのだろう、鏡のように反射して、梛織の顔を映していた。
彼の両目からは、血の涙が流れていた。
*
相変わらず男性の癖に、女性のような顔立ちのミズホ。そんな彼の面からはこのような戦闘突入時においても、どこか艶めいた雰囲気を漂わせている。スルトは一瞬だけ、たじろぎそうになったが、気合を入れなければ、と気持ちを入れ直して対峙していた。
「……まさかとは思うが……今度はあんた、なのか?」
スルトの問いに、ミズホはふ、と微笑を漏らしていた。
「正確には俺じゃないが。まあ、こうしている以上、似たようなものだろう」
「……どうしてか、理由を聞いてもいいか?」
「……簡単さ」
ミズホがぽつり、と呟くと同時に、スルトの近くにいた人々がスルト目掛けて銃弾を放ちながら突っ込んできた。
スルトはそれをするりと避けながら、彼らが持つ呪いを引きずりだそうとしていた。
ずるり、という音がどこからか聞こえ、それと同時に中にふわふわと靄のような、霧のようなものが浮かび上がる。
それに向かって右手を挙げると、すう、と一瞬にしてその中にその靄が吸い込まれていった。
スルトは呪い子だ。だから彼らに宿る呪いをあぶりだし、自らの力にする事が出来る。彼はその自らの身体に取り込んだ呪いの一部を具現化させる。
右手に靄が凝り固まり、そしてそれは段々と細長い、剣の形へと成して。
質感が現れたそれをぎゅ、と握り、そして一閃した。
「ぎゃっ!」
「――ぐわっ!」
その呪いの剣の一閃を浴びた、スルトの一番近くにいた人々が、それぞれ呻きや悲鳴を上げて、やや後退する。その隙をついて、スルトは違う方向へと走り出していた。
ひとりでは、彼の周りを幾重にも取り囲んでいる大勢の人々を相手にするのは難しいと踏んでの上での行動だ。
案の上、人々は皆走る速さはバラバラだ。だから速いものから順に彼に追いついていく。一番速くスルトに追いついたのは、彼らの中でも見るからに足の速そうな男達だった。
彼らはそれぞれに銃口を向けるが、走りながらの為、なかなか照準が定まらない。スルトはくるりと振り返ると、彼等目掛け、身体の血の中に留めていた呪いを一気に放出する。
それは、なかなか普通の人の目には分かりにくいものであるが、スルトには、靄のようなものが、一斉に人々の耳や目、鼻や口の中から体内へと入り込んでいくのが見えていた。
最初はなかなか分からないが、数秒すると体内を駆け巡る呪いの力で彼らの動きが遅くなり、そしてその呪いの効力で、彼らは地へとその身体を落としていっていた。
「……なんだ、身体が動かない……」
「くそっ……!」
地面にその身体をばたばたと、もがかせて何とか立ち上がろうとしている人々を見ながら、スルトは複雑な心持ちで逃げ回っていた。
彼らの呪いを受け取る時に、その負の感情を垣間見ていたからである。
彼等の絶望は、このセカイで暮らしていくことでは無い。この、捨てられた、と囁かれるセカイでの生活を決して嘆いている訳では無かったから。
その感情は、ここに生まれ、ここでしか生きていく事の出来ない彼等の、このセカイが消え行くことへの、絶望だった。
いつの間にかミズホが銃を手に、スルトに追いつこうとしていた。二人は並んで走りながら、お互いの間を探り合っていく。
「……お前だって、失いたくないものがあるから、俺達と戦ってるんだろう?」
「……そうだ」
ミズホが瞬間に銃の照準を合わせ、引き金を引いた。轟音が響き、スルトに巻かれている包帯の一部を焦がして過ぎてゆく。
「簡単だよ。――俺がこのセカイを捨てる訳には、いかないからさ。――あいつの、為にも」
*
「まいったな。『偶然』が起きたみたいだが、どうもめんどっちい方向に起きちまったみたいだな」
麗火はひとつ腕組みをし、うーんと唸ると、ようやくてくてくと歩き出していた。途中で錆付いたプレハブ小屋を通ったりしたのだが、見事に避けなくてもぶつかる事無く、通り抜けられてしまっていた。
どうやら、破壊する事はあまり良くない方法であったらしい。素晴らしい方法だと思ったんだけどな、とひとり勝手に呟く。
ふわ、と彼の周りに漂う風が、動きを見せた気が、した。
――びし、り。
音速の勢いで、彼は動いていた。くるりと後ろを振り返ると同時に、風の刃を高速で放つ。それは丁度彼の反対側からやって来た、同じ風の刃と激しい火花を立ててぶつかりあった。
やがてその風の刃がお互いの威力を相殺しあい、大気に溶けて無くなると再び元のような静寂がその場には訪れていた。
だが、ただ一点にのみ、殺気が膨れ上がるようにして存在している以外では。
「――へえ、これが、偶然、か?」
麗火がにや、と不敵に笑みを浮かべる先で、ひとりの男性と思わしき人物が、こちらに向かって歩み寄ってきていた。小さなマントが付いたフードを目深に被っているので、辛うじて男だ、と分かる程度である。
男はむき身のまま、長い剣を手にしてつかつかと歩み寄ってきていた。麗火は何もする事無く、ただ佇んでそれを待っている。
男は、とある一線でぴたり、と壁でもその前にあるかのように立ち止まった。
二人とも、何も言わず、動くことも無く。
――ただその場に糸が張り詰めるかのような、そんな空気が流れているのみだけ。
そんな空気がしばらくの間流れた後。二人は、同時に動いていた。
「聖なる風よ。この周りに集まりて我の刃となれ」
麗火が瞬間にぶつぶつと詠唱を唱えている時、男は緩やかに剣を振りかざし、そして素早く振りぬいていた。
麗火の回に渦を巻くように風が集まり、先程出したかのような刃となって相手に襲い掛かる。男はそれを同じ風で、またもや相殺しようとしていた。
ぎゅるるると勢いをつけて風が巻き、大気が二人の周りで渦を巻いて舞う。麗火の赤い髪が派手に弄ばれる中、男のフードもふわりと風に舞って、頭の後ろへと追いやられていた。
そこから現れたのは、前髪を後ろに撫で付けたオールバックの、金髪に碧眼の人物の顔だった。青年をもうすぐで卒業するかのような歳に見える。
その男は、再びフードを被ることはせず、一歩足を前に踏み出していた。
「!」
麗火は驚いて後退する。一歩踏み出した次の瞬間、男が麗火のほんの数十センチの所まで迫ってきていたからだ。風の魔法を使ったのだろう。
その手に持っている長剣が綺麗に弧を描いて一閃しようとする時、彼の身を常に守ろうとしている焔と風のうち、焔が反応し、麗火の前に焔を放射状に吐き出していった。
男はそれに少なからず驚いた模様で、ざっと先程の魔法を使ってか、後退する。
「……」
二人の間に、互いを探るかのような間が再び出来た。
その時だった。彼等の横からたたたた……という足音と共に、金の長髪を風になびかせて走る青年が現れていた。シャノンだ。
その両手には銃を手にしていたが、シャノンが彼等と目を合わせる事はない。
「向こうからは……見えていない?」
麗火が疑問を呟く。その間にもシャノンは彼の所に全速力で迫ってきていた。その表情には焦りは見られないが、緊迫した、真剣な感情が滲み出ている。
そして。
シャノンはす、と麗火の横をすり抜けて、走り去っていく。
「――つまりこういう事か。俺はお前を倒して何とかしてこの空間をぶち破らねえと、元の立ち位置にさえ戻ることが出来ねえって事か」
その言葉と同時に、彼の前にぶわ、と今日の中で一番に巨大な焔が出現した。その焔は中心が黒く赤く、何かの爆発力を秘めているような、そんなものを思わされる。
「焔の精。古代からなる時のさらに。その力を存分に発動せよ。暴れ、舞え!」
それはまるで新星が爆発を起こして誕生するかのように。
焔は中心からエネルギーを凄まじい威力で放出していった。
*
どこかで、どおおん、と何かが爆発するかのような轟音が響いた。その音の衝撃で、中空を飛んでいる真達羅がぐらりと揺れてバランスを乱した。だが勿論すぐに持ち直し、五つに並んだ目を幾分すまなそうに柘榴に向けながら、飛行を続けている。
「私は大丈夫です……それよりも……」
これは気付かれていますね。そう呟きながら柘榴は地を眺めていた。彼女達は丁度、家々が集まっている小さな集落の上を飛行していた。
どうやら先程の衝撃で真達羅がぐらついたせいか、どうも下に住む住人達に気付かれたらしい。彼らはあれやこれや、と柘榴達に向けて、指を差しているからだ。
今は攻撃して来ないものの、いつ攻撃してくるとも限らない。
そう思った柘榴は小さな声で波夷羅の姿を呼んでいた。
影からすっと現れた波夷羅は、柘榴の思惑通りに彼女らの姿を幻覚に紛れ込ませた。あちらこちらに、惑いの幻覚が浮かび上がる。
地上の人々があちらこちらに現れる幻覚に驚きの表情を見せている間、すいと彼女達は先へと進んでいっていた。
*
「……なんで攻撃も受けていないのに……?」
梛織は疑問をぼそりと口にしていた。その間にも身体は周りの動きに対応して動いていた。右後ろに身体を捻って銃弾を避け、右での蹴りを繰り出し、反対側にいる人物の銃を蹴り上げて彼の攻撃手段を封じていく。
彼は先程の疑問に答えてくれる人物などいないと思っていたが、意外にもその人物はいた。
「……これがこういう『セカイ』だからだよ」
「……?」
彼は視線を正面に戻す。そこには、今まで彼と視線を交わし、不思議な感触を梛織の脳内に流し込んでいた人物がいた。
「目にその人の『力』が現れるセカイなんだそうですよ、ここは」
後ろからルースフィアンが近づいてきてそう付け加えていた。ルースフィアンはそう言いながらも、つい、と指を振って氷柱を梛織の背後に立て、梛織に掴みかかろうとしていた人物に打ち倒していく。
「……あなたには以前お会いしたことがありますね」
「……そういえば、そうだな」
その青年――カイはふと笑って、自分の瞳から溢れ出していた血を拭っていた。
「……どうして、なのでしょうか……?」
「……こうして、銀幕市に侵食してきていることか……?」
ルースフィアンは、カイの言葉に頷いた。
「ええ。……このセカイを守る気持ちも分かります。でも僕には以前銀幕市を守ろうとしてくれていたあなたを知っていますから、いささか矛盾を感じているんです」
「……そうだろうな……」
カイは、ルースフィアンの言葉にふと微笑した。静かに手にしている銃を下に下ろす。
「……俺は、ミズホの強さに心底惚れているからさ……。だからあいつの思う通りに動くことが、俺の生きがいみたいなものなんだ……」
「この世界が、強いものが全てを支配する『セカイ』であるから、ですか?」
「それだけじゃないさ……」
ルースフィアンの問いに、彼はまた微笑して首を横に振った。
「このセカイが、強さが全てを支配する、と言われる本当の理由は、なんとか生きている状態にある時に、強い者にすがろうとする精神からさ……。俺はそれだけじゃない。――俺はあの時の、ミズホを知っているから」
「――だから、こうしてミズホさんの目論見に加担していると」
「ああ。だから、こうしてお前達と戦っている」
カイはそう言うと同時に、持っているサブマシンガンの銃口を二人に向けた。瞬時に梛織とルースフィアンは目配せをし合い、梛織がひと足前に出る。
いくつもの銃弾が轟音と共に撒き散らされていく。ルースフィアンは予め指を振ってそれらを次々に氷漬けにし、破壊していった。
梛織はその中をひたすら突き走り、カイの目前に迫っていた。カイは銃弾を放つ事を止め、銃身を握り、横に振りぬく。梛織はひたすら身を低くしてそれを避けた。
横に振りぬいたまま、カイは銃を地面へと振り下ろした。
ガッと音がして地面に銃身がめり込む。同時にその場に氷柱が一気に噴出し、銃に突き刺さり、銃を破壊していった。
梛織はその一瞬の隙をついて、右足で回し蹴りを繰り出していた。
「……悪いな。でも、俺には全てを見過ごす事は、出来ないから」
――だから、先に進ませてもらう。そう呟くのを聞いてか聞かずか、カイは意識を失って地面へと倒れこんで行った。
「で、このセカイを止めるには、どうすれば良いんだ?」
梛織はようやく一息ついて、それからルースフィアンを振り返った。ルースフィアンは梛織の顔を見て、ひとつ頷く。
「そのまま進めば、きっと大丈夫な筈です。このセカイは、先程も申し上げた通りに、コンピューター群がこのセカイを存続させています。ですから、それに対して何らかの手段を講じなければならないでしょう」
「……分かった。突っ走れば良いんだな」
梛織はしばらく考え込んでいたが、自分はあまり小難しい事を考えない方が良い、とひとつ頷く。
「で、ルースフィアンはどうするんだ?」
その問いに、彼は薄らと笑みを浮かべていた。
「このセカイをどうするかは、皆さんにお任せします。僕は、別の事をさせて頂きます」
ルースフィアンは一礼すると、その埃が舞う道の中を歩いていった。梛織もそれを見届けると、別の方向へと走り出していく。
*
シャノンはかつての記憶を手繰りながら、全力で走っていた。そんな時、彼の目の前に、偶然だかは分からないが、唐突にひとつの小屋が現れた。
それがシャノンが目指していた、コンピューター群の部屋へと繋がる地下鉄駅の入り口ではなかった事に、少しだけ落胆する。それは、ただのひとつの小屋であったから。
彼は初めはそれを一瞥して、再び記憶をもとに、スパコン群が立ち並ぶ部屋へと走ろうと思っていたが、ふと彼の目は格子がはまった小さな窓で留まった。
そこに、丁度ばん、といった調子で小さな腕が叩きつけられていたからだ。
「……?」
眉をひそめて窓の中を覗き込む。そして、そこにいる人物に目を見開いていた。
「……お前は、ムラク……!」
彼は、丁度外を通ったシャノンの足音を聞きつけてか、気付かれるように窓を叩いていたらしい。その必死な顔の表情を見て、シャノンはすぐさま小屋の入り口側へと回っていった。
錆付いている扉を蹴り飛ばして中へと入る。
その部屋は、あまり人が住んでいるような場所ではないようだった。あちこちには埃が舞っていたからだ。ただ、テーブルの上には、幾つかのノートパソコンが置かれ、ケーブルが渦を成して床に散らばっていた。
床に一歩足を踏み出すと、ひとつ埃が舞う。
「ムラクのいた辺りは……」
ぼそりと呟いてその小屋の壁を見回していくと、寂れた壁にはめ込まれた扉で、その小屋には似つかわしくないものを見つけた。
この寂れた小屋の中、そこだけ頑丈な鉄製の扉がその壁にはがっちりとはめ込まれていたからだ。その扉には、外から、見るからに頑丈な南京錠が下ろされている。
「これか……」
その頑丈な南京錠を見ていると、入り口からだん、と大きな音を立てて荒々しくその小屋へと入り込んできた男がいた。麗火だ。
彼はしばし息を弾ませながら、赤の双眸で部屋の中を見回していたが、シャノンに気がつくとすぐに彼のところまで近寄ってきた。
「ここに、ムラクってやつが閉じ込められているみたいだ」
「ムラク……そいつは、さっきまでの奴らみたいに、攻撃しては来ないのか?」
麗火はムラクと言う名が、友人が話していた少年の名と一致することを思い出し、シャノンにそう問いかけた。シャノンは分からん、と首を横に振った。
「だが、これは明らかに異常な状況だ。ひとまず、ここを開けてから、敵か味方かを見分けても良いだろう」
「……それも、そうだな」
麗火は頷く。シャノンは頷き返すと、銃を手にし、南京錠目掛けて何発も撃ち抜いて行った。
銃弾をいくつも浴びてボロボロになったそれに、麗火の焔が追い討ちをかける。南京錠は、ダブルで攻撃を受けてボロボロになり、床にバラバラと鉄くずとなって落ちていった。
シャノンはそのままその扉に蹴りを入れると、扉は錆付いた音を立てながら反対側へと開いていった。麗火もその後から、その部屋へと飛び込んでいった。
「……ハア……ハア、助かったよ。いやー、誰か通んないかなと思って叫び続けていたら、喉が枯れちゃってさ」
ムラクは相変わらず屈託の無い笑みを浮かべながら、まるで地面が干上がったかのような声を出した。その声を聞いて、何かあれば攻撃しようと態勢を整えていたシャノンは、静かに銃に掛けていた手を離し、そして起き上がろうとするムラクに手を貸してやった。
「あんたが、このセカイを統べる『強さを持つ』人のひとりか。どうしてこんな事になってるのか、お前には分かるか?」
「……やられたよ。ミズホ、いやクレナイの姉ちゃんは、きっと全部計算済みだったんだよ」
ムラクは相変わらず掠れた声で、そう呟いた。
*
柘榴は、前に見た木も生えていない、荒地のような広場と、その近くにある地下鉄の駅を見つけ、静かに真達羅を降下させていった。
降下していきながらも辺りを注意深く伺うが、人の気配は全くと言っていいほど、見受けられない。
「……?」
柘榴が真達羅の背中からそっと滑り降りると、真達羅は影の中へ滑るように消えていく。柘榴は、この人気のなさは、何かの罠が仕掛けられているのではないかと、辺りに気を配りつつ、かつての駅への階段に足を掛けていった。
――カツ、カツ、カツ。
地下への階段をゆっくりと、だが確実に降り、巨大な扉の前に立つ。
扉はするりと横に開いていった。まるで彼女を待ち構えていたかのように。
そして中へと足を踏み入れると、そこには無人のまま、幾つかの画面に数列が並び、奥に並ぶ大きな長方形の箱からは、排熱のファンが唸りを上げている音が響くのみであった。
「……あなたはどうして、こんな茶番を?」
柘榴は、前に聳え立つ箱から目を逸らさずに言った。
彼女の背後では、扉が閉まっていく中、ひとりの赤いワンピースを着た女性が、コツ、コツと足音を立てて歩いてきているところだった。
「……茶番ね。そうね。演技だから、茶番よね」
その女性――クレナイは、そう言って静かに微笑んだ。
*
――旅に出る? どうしたんだ、一体。
このセカイは「実在」しているものになったの。だから――。
*
初め、静かに自分達の所へと歩いてきたルースフィアンを住民達は警告の眼差しで迎えた。幾人かは、彼に銃を向ける人もいる。
ルースフィアンは、その様子に一向に構う事無く、辺りの風景を見渡していた。
あちこちに穴が開き、それをつぎはぎの修理で何とか塞いでいる壁。舗装が半分以上、剥がれた道路。
それらは、どこか、かつて彼が封印した記憶の中の世界に似た雰囲気を放っていた。それを思い、ようやく彼は住民達に目を戻す。
「……あんた、一体何しにここへ来たんだい? ここはあんたの来るような場所じゃないだろ?」
住民のひとりが、ルースフィアンを追い返すような仕草をしてみせた。だが、ルースフィアンはそれにも構う様子は無い。
彼には、やらねばならない事があるから。
「――皆さんは、もうこのセカイが消えてしまうかもしれない、という事をご存知ですか?」
彼の問いに、しばらくの間、周囲はざわざわと何事かを話す声で騒がしくなった。だがやがてそれは静けさを戻し、彼等のなかで、最も年齢が高そうな女性が、ひとつ頷く。
「……そりゃあね。余所者であるあんた達でさえ分かってるような事を私達が分からない筈は無いだろ?」
「でしたら。……今、このセカイと僕の住んでいる銀幕市は、丁度幸か不幸か、繋がっています。あなた達は、こちらに移住をしようとは思いませんか?」
「……」
ルースフィアンの言葉に、その場は静寂に満ちていた。誰一人喋らず、その女性とルースフィアンのやり取りを見守っているようである。
正直なところ、ルースフィアンはもっと罵声を浴びるかもしれないとも思ってはいたが、静かになる事は予想外の反応だった。思わず目を瞬かせる。
「勿論、それを考えたことも、あるよ。……でもねえ……」
何かを躊躇うような言動。そのどこか思いとどまるような彼等の表情に、ルースフィアンは、ひとつ笑みを浮かべる。
「――……他のセカイへ踏み出すことは、怖いことかもしれません。このセカイで当たり前だった事が、当たり前ではなくなりますからね」
でも――。
「悪くないと思いますよ。何事も自分の、心次第ですから」
そう、きっぱりと言い切った。そこにはかつて、悩み、それでも歩み続けて今に至った、彼の想いがあったからかも、しれない。
*
ミズホとスルトが並んで走っているうちに、周りの人々はミズホに任せたからか、いつの間にかいなくなっていて。
その場にいるのは、ミズホとスルトの二人のみ、になっていた。
「このセカイを失う訳にはいかない――だから、銀幕市に侵食してくるのか?」
「――」
「なあ、――それじゃあまた、それは今までのあんた達のセカイの『歴史』の、繰り返しになっちまうんじゃ、ないのか?」
スルトの呼び掛けに、ミズホは沈黙のまま、代わりに間を詰め、もう一方の手に持っていた、小さな銃の銃口をスルトに合わせた。それを目にしたスルトの右腕から、鮮血が溢れ、鋭い霧の姿となってミズホに襲いかかろうとする。
ぱあ――ん――。
静寂に、たったひとつ、轟音が飛び交った。ミズホが放った銃弾はスルトの右腕をすり抜け、スルトが仕掛けた鋭い鮮血の霧は、ミズホの頬の脇をかすってゆく。
二人とも、お互いの次の手を読みながら、その場に留まっていた。しばし、そのまま時が過ぎる。
一番初めに静寂を破ったのは、ミズホだった。
――ふ、とミズホが頬を緩めて微笑したのだ。
それはどこか晴れやかな笑みで。疑問を感じたスルトは眉をひそめる。
「――?」
「そろそろ、演技もおしまい、かな」
*
「演技? 何の為に、こんな茶番を演じているのですか?」
柘榴は淡々と問いながらも言葉の端々に怒りを滲ませていた。彼女にとって、「セカイ」の領域を侵す、という事は絶対の罪であり、そして何よりも――。彼女はそこまで考えて、小さく唇を噛む。
「――かつて、あなたと同じ名前の方が、今のあなたと同じように不可侵の領域を――交わらせてしまいました。そのせいで、前世の『私』は、血筋を絶やし、負の力を負わねばならないという『業』を負いました」
瞳を閉じれば、その光景がゆっくりとたゆたう。それはいくつもの、哀しい記憶。
「だから、私は『あなた』が、かつての『私』と同じことを犯しているのは、――哀しいです」
言葉に挙げたのは、ひとつの感情。だが、柘榴の胸の内では、様々な感情が幾重にも折り重なっていた。
それは、言葉には到底言い尽くせぬ、幾つもの憤りと、哀しみ。クレナイはその言葉の端に滲む感情を幾ばくか感じ取ったようで、静かに目を伏せる。
「――そうね。ごめんなさい――。でも、私は自分の思う通りに行動する事が出来ない身体だから。だから、どうしてもこのような回りくどい方法を取るしかなかった」
*
麗火とシャノンは、ムラクに先導されながら、コンピュータが配列されている駅へと向かっていった。そのまま、ムラクの話を聞いている。
「計算済みとは、どういうことだ――?」
「俺が、過去のあのセカイに憧れて、スパコンを使って銀幕市を侵食させていくことも、全部、全部あの二人は計算済みだったんだ」
シャノンの問いに、ムラクは唇を噛むようにして答えた。だって、あの二人は俺と違って頭脳派だから。だから、そんな事ぐらい、考えるのは当たり前だったんだ、と彼は続ける。
「それが、どうしてこんな事になるんだ?」
*
梛織は息が続く限りの全速力で走り続けていた。
そんな中、その彼の前の空間が、唐突にぐにゃり、と歪んでひとりの人物が投げ出される。
「え……?」
彼は驚きのあまり、その足を止めていた。
そこにいたのは、先程確かに彼が対峙していた筈の青年、カイであったからだ。
「どうして――?」
驚く彼を余所に、カイは既に慣れているかのようにまたかよ、と呟いてゆっくりと立ち上がる。
「まあ、うん。偶然だな、ははは」
決まり悪そうに頭をかく彼に、梛織はいきり立った。
「何かよく分かんねえけど、また俺を止める気なら、いつでも受けて立つぞ」
「いや――、止める気はないが」
カイは首を横に振って、そして深刻そうな表情を見せて、梛織を見返した。
「多分もうすぐ、このセカイは消えるぞ。だから、関係のないお前は、もうここから脱出した方が良いだろう。下手をすると、次元の狭間に巻き込まれて脱出することさえ難しくなる」
「――どうしてそんな事、言うんだ!」
梛織は彼の言葉に、カッと頭に来た様子で、逃げろと諭すカイの襟元を掴んで叫んでいた。
予想外の反応だったのだろう、驚いたように瞬きを繰り返すカイの目前で、彼は尚も叫んでいた。
「あんたはこのセカイを救いたいから! だから身体張ってまで俺と戦ったんだろ! あんたが諦めたら――俺は何の為に走れば良いんだよ!」
「――そうだよな――」
「あんたもセカイを壊したくないんだったら、あんたのリーダーを消したくないのなら、俺を手伝え!」
些か無謀なその発言に、今まで深刻そうな表情を見せていたカイは、頬を緩め、ぷっと吹き出していた。
「何がおかしいんだよ!」
「いや――、何でもない。で? 何を手伝えば良いんだ?」
「このセカイを存在させている、コンピューター群とやらに案内しろ!」
梛織はずび、と指をカイに突きつけた。
*
むかし、むかしのお話。
このセカイはね、人の力を最大限に生かす空間の為の実験空間、なの。銃やナイフを使わなくても、人を殺すための技術を学ばなくても、ひとつ睨むだけで人を殺すことが出来たら、随分とお金が掛からなくてすむでしょ?
だから、別の次元に空間を作って、実験をすることにした、と。
そう。そして、その空間を監視する役目を請け負ったのが、私。脳内に特殊な装置を組み込み、それによってスパコンと同調することによって、次元を操れるようになった。
で? どうして、こうなったんだ?
詳しいことは沢山調査した、今でも分からないわ。次元を維持するプログラムが暴走して、このセカイを次元の狭間へと切り離してしまったの。
それで、現実と幻の間を漂うようになったという事か。
そうね。それに私はスパコンと同調しなければならなかったから、私の行動は、意志とは無縁に動いていくの。
――それで、クレナイは、ある一定の戦争状況になると、自動的にその戦争を止める役目になっていたのか。
そうよ。私を殺さないように、どうしてか原理は解明してないんだけど「時間の動きが果てしなく遅い」次元にその身体を閉じ込めさせたり、ね。
*
クレナイは静かに歩き、長方形の箱の前にまわった。
「今だって、こうしてあなたの動きを留める為に、口はちょっとずつ開発したプログラムをいじって自由に出来ているけど、他は無理」
何日も、何年も、何十年も、何百年も。
ただ、土地が荒れていくことを眺めるのみで。
「だから、あなたは今回のように領域を侵すことを留められない、という事ですね」
「ええ」
柘榴の言葉に、クレナイは静かに頷く。
「ただ、ごくたまに、プログラムの動きが遅くなって、私の身体がほんのひと時だけ、自由になったの。――そんな時に、私はミズホに出会った」
あんたの名前は?
クレナイ。――紅って書くの。
「そして、あなたはこうして、私と同じように実体化したのですね」
柘榴はそっと目の前で演技を続ける、かつての彼女と同じ名前の女性を、見つめ続けた。
*
「ミズホは、実体化する少し前から、俺にスパコンの使い方をやたら詳しく教えてくれた。そして実体化して、俺は銀幕市とここをスパコンの力で行き交いながら、自分の考えていた計画を実行に移したんだ」
「それが、前に二度、銀幕市にこのセカイが侵食した、ということなんだな」
シャノンの言葉に、ムラクはひとつ頷く。
――銀幕市は光に溢れているから。だからこのセカイにも、かつての光を取り戻せるんじゃないかって、思って。
「それで、それは失敗に終わったと」
「へへ。ちょっとね、やり方が不味かったよね。でも、兄ちゃん達のお陰で、この現在のセカイの中でも光は見つけられるんじゃないかって考えられるようになったんだ」
でもね。
「ミズホ兄ちゃん達が考える光は、少し違った意味だったのかも、しれない」
人間って、扉はひとつしかくぐれないから、さ。
*
「そう。実体化してから、確実にスパコンはその寿命を近づけていた。通常以上に働かなければ、ならなかったから」
そして、最後のプログラムを発動して。
柘榴はしばらく沈黙していたが、ぽつりと、呟いた。
「私は、人の命に同情する、という事はありませんよ?」
「――ええ」
その空間に、しばらくの間、コンピューターが動く音以外の音は一切無く、静寂に満ちていた。
「――……ひとつお聞きします。この行動は、あなたの意志なのですか? それとも、コンピュータ達の『本能』なのですか?」
柘榴の冷淡だが、どこか哀しみの篭った言葉に。クレナイは、微笑を見せた。それはどこか哀しみを湛えた、笑み。
「両方、かしら――」
そう答えた時、画面のひとつがピー、と高い機械音を立てて、その画面がブラックアウトする。あら、また誤作動だわ、とクレナイは呟いていた。
「――私は、いきます」
クレナイは、様々な覚悟を込めたかのような表情を見せ、一礼し、柘榴の横をすり抜けていった。振り返らない柘榴。彼女の背後で、巨大な扉はすう、と閉じてゆく。
人の命は平等に軽いもの。
静寂。
「――珊底羅」
静寂。
――――轟音。
薄暗く照明の落とされたその部屋で、曼珠沙華が艶やかに浮かび上がった。
*
何故だか人気のない繁華街の中を通り抜け、広場に達した彼等の視界に、地下鉄の駅が浮かび上がった。シャノンと麗火達がそれを目指して駆けていると、横から梛織達が躍り出、合流してきた。
「この銀幕市に侵食を始めているプログラムは何とかなるのか?」
「詳しく見てみないと、よくは分からないけど……」
ムラクはそう言って首を左右に振った。でも、必ず何とかする方法があるはずだから。そう呟いて、地下鉄の駅への階段を転がり落ちるかのように、駆け下りていく。
そして巨大な扉を押し開くようにして、中へ入って。
そこに広がる光景に、足が止まっていた。
いくつも並んでいるモニター群、全てのものがブラックアウトしていた、その奥のコンピューター群はどれも、黒く焦げていた。
部屋内に充満する、焦げ付いた匂い。
「……誰かが電力を使って、物理的に破壊したのか?」
麗火は、床にとぐろを巻いてのびる配線をひょいひょいと乗り越えながら、コンピューターの大きな箱を見て回っていた。こうすると、本当にただの箱だ。
彼は、銀幕市に害を成すものならば破壊することも手段のひとつとして考えていたので、このような最後にならざるを得なかったか、と冷徹な面で、そう考える。
シャノンも、また銀幕市に守るものがある。だからこそ彼も、破壊されたコンピュータ達をどこか冷静に見つめていた。
だが、梛織はこのセカイを消さずに何とかならないか、と強く考えていたから、複雑な気持ちを滲ませた表情を見せている。
皆が様々にその様子を見て回っている中、ムラクがまだ電気のつくノートパソコンを見つけ、それに近づこうとした。
「あ! このノーパソは生きてる! 何とかすれば……ぐ」
その時、す、と横から入ったカイが、その腹に拳を打ち込んで、気絶させていた。
「……ちょ、え……!」
その行動に驚きの表情を浮かべた梛織に、ひょい、とムラクの身を預ける。そして、ノートパソコンを拾い、シャノンの渡した。
「……こいつが『現実の世界』で、生きてくれる事が、俺達にとっての光だ。……銀幕市に連れて行ってくれ」
カイは頼む、とひとつ呟いた。
「カイ、だっけ? あんたはどうするんだ?」
麗火の問いに、カイはひとつ笑いを浮かべた。
*
あきらかに、スルトを囲んでいる周りの空間がおかしくなっていた。あちこちが歪み、ねじれたかと思うと、急激に空が近くなったかのように感じる。時折、銀幕市の景色と思しきものも見える。
「何だ……?」
「この空間が、維持出来なくなろうとしているのさ」
「演技」を終えて晴々とした表情のミズホは、スルトを銀幕市の景色と思しきものが透けて見える空間へと誘った。そしてただ一言、願うように告げる。
「……俺達の『光』を頼む」
「何も、ムラクひとりが『光』になる事はないだろ」
……あんたも、来いよ、こっちへ。
スルトは、ミズホへと腕を伸ばした。
だがミズホは、首を横に振り、その手を拒んで。
「……クレナイには、あんたはまだ若いんだから、銀幕市で面白おかしく、短いかもしれない余生を過ごしなさいって言われたけどな」
最後に、クレナイを裏切ってしまうな。彼はそう言って笑った。
*
ルースフィアンの周りも、明らかに空が縮んで来ているかのような、そんな現象が伺えた。その女性はそれを目前にしても焦る事無く、そうかもしれないね、あんたの言う事も最もだよ、と言う。
地面に、綺麗なアスファルトが見え始めていた。
「でも私達はね、このセカイと一緒に実体化したから。やっぱりこのセカイを置いてはいけないよ」
「――それで、あなた達は幸せになれるのですか――?」
「ああ。だって――私達はこのセカイこそが、自らの生きていく、場所だからさ」
その女性はそう言って、笑った。
ルースフィアンを取り囲む周りの風景が、透け始める。
*
来る時と同じように、真達羅に乗って行動していた柘榴は、ぽつんと荒地の平原に、ひとり先程目にした女性が佇んでいるのに気がつくと、静かに降下していった。
「……怒ってる?」
「勿論です」
そう答えた柘榴に、紅は良かった、と安堵のため息を漏らしていた。
「――許されたら、どうしようかと思った」
そう言い、もうどこにも悔いのない、晴れやかな表情で笑った。
*
「俺は」
「俺は」
「私達は」
「私は」
――――旅に、出ます。
*
彼らの周りは、一瞬だけ眩い光に包まれていた。その眩さに目を閉じ、再び開いた時、そこは銀幕市内の路地の一角で。
そのセカイは、まるで無かったかのように、欠片さえもなかった。
ただ、梛織が抱えた、ひとりの少年と、ひとつのノートパソコンを残して。
*
スルトが目を開くと、そこは銀幕広場の前の、大通りだった。もう、あの音の少ない、どこか寂れた空間はどこにもない。
スルトはそっと包帯を巻き直すと、しばらく人の流れに逆らって、ただ空を見上げていた。
*
ルースフィアンは、確かに彼らが最後、晴れやかに笑っていたのを見た。眩い光に耐えかねて、目をつむり、また開くと、そこは、家々が立ち並ぶ一角で。
「――……」
彼は、そっと掌を開き、そして静かに掌を握る。
そこに、彼等の光があるような気がして。
*
柘榴が着物の裾で顔を覆って、それをそっと外した時、そこは彼女の店兼住居の前だった。
カツン――。
彼女の前に、乾いた音を立て、ひとつのフィルムが落ちる。柘榴は身を屈めてそれをそっと拾った。
それはクレナイのフィルムなのか、それとも「セカイ」のフィルムなのか。
それでも、柘榴には、そのフィルムがどうしても、最後に笑顔を見せた、クレナイのフィルムには見えないのであった。
――どうか、 。
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クリエイターコメント | 大変お待たせして申し訳ありません。ノベルをお届けさせて頂きます。
今回は、皆様のプレイングと、セカイの成り立ち等色々と考え、このような最後とさせて頂きました。全てのプレイングを採用出来なく、すみません……。 セカイの不思議な現象等についても、全てを語る訳には行きませんでしたので幾つか割愛させて頂きましたが、それよりも何よりも、皆様のそれぞれ、このセカイの中での己の立ち位置や、想いが少しでも浮き出ていると嬉しいです。戦闘も、スピード感が出ていると良いなあと思いつつ。
それでは、ご参加、本当にありがとうございました。 また、いつか銀幕市のどこかで、お会い出来ましたらば嬉しく思います。 |
公開日時 | 2008-06-10(火) 19:20 |
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