★ 春眠夢想 ─銀幕市民は、映画羊の夢を見るか─ ★
<オープニング>

 あなたは知っているだろうか。
 星砂海岸の近くにある、民家風の広東料理店『海燕』という店を。

 知る人ぞ知る店である。たまに思い出したように開いている。どうやら営業時間すら決まっていないようで、夕方から夜にかけて開いていることが多い。だが、開いていると言っても、看板が出ているわけでもないので、両開きの扉を押してみて初めてそれが分かる。それほど、分かりにくい店だ。
 それでも扉をそっと開ければ、中華料理店らしい胡麻油の香ばしい匂いが迎えてくれる。そして無愛想な女店主が、いらっしゃいませも言わずにチラリとこちらを見るのだ。
 注文に迷えば、目の前に豚の角煮と紹興酒が、ドンと置かれる。
 これは何? と目で問えば、呑めと無言で睨まれる。
 それでいて二千円しか取られない。排骨麺や豆苗炒めなどを追加しても二千円。何を飲んでもいくら食べても二千円しか取られないのだが、調子に乗ってある一定以上の量を頼んだりしてはいけない。代金がいきなり二万円に跳ね上がるからだ。そこで文句を言うのはもっといけない。そんなことをすれば、もうひとつケタが上がってしまう。すなわち二十万円に。
 ここまで言えばお分かりだろうが、彼女の機嫌を損ねるのは得策ではない。
 彼女はいつも不機嫌そうにしているが、その実、店に客が来てくれるのが嬉しいのだ。客が話してくれる市内の出来事に興味がないようなフリをしているが、実際はとても興味を持っている。
 いつも店にいる彼女の小さな息子の様子も見てみるといい。6才になったばかりなので客の話もある程度は理解してくれる。彼を喜ばせれば、女店主も機嫌が良くなるだろう。
 少々奇妙な店ではあるが、ふらりと気軽に寄って、こんなことがあったんだと、店主に話してみてはいかがだろうか。
 そう、暇つぶしがてらに。ふらりと。


 * * *


 一月末のある日。『海燕』は珍しく朝から開いていた。
 エプロンを身に着けた女店主が外に出てきて、入口の扉の両脇に赤い札を二枚、左右対称にペタリと張った。そこには金色で何かが書かれている。
 右に“大吉大利”、左に“萬事勝意”。さて、どういう意味なのか。
「──何してるのかって? 春節だよ」
 聞かれて女店主はぶっきらぼうに答える。
「旧暦の正月だよ。今日から一週間、旧正月を祝うのさ」
 彼女は店に戻り、せっせと餃子を作りながら答える。息子も一緒になって、彼女たちは一生懸命に、大量の餃子を作っていた。
「春節だからって、別に決まった楽しみ方があるわけじゃない。どんな風に過ごしたっていいんだ。一週間、バカ騒ぎをしても良し。静かに酒でも飲んで過ごすのも良し。ウチの店はずっと開いてるから、好きにするがいいさ」
 彼女は忙しそうに手を動かしながら、そう話した。
 その店主の背後、店の厨房には若い男がいて、大きなセイロを難しい顔で睨んでいる。また学ラン姿の中学生ぐらいの少年もいて、右へ左へと酒や食べ物を運んでいた。
「──ああ、あいつらかい?」
視線に気付いて、彼女が説明してくれた。「臨時の手伝いだよ。ジミーの方は知ってるだろ? 卓球バカだよ。あっちはジェフリー。評判の料理人だったんで、とっ捕まえ……じゃなくて、雇ったんだ。“食聖”なんて呼ばれるようなヤツさ。今日は桃包を作らせてる」
 桃包って言って分かるかい? 彼女は眉をひょいと上げてみせる。
「桃まんのことだよ」
 そこでジミー少年が口を挟んでくる。「中身は餡子で甘いんだ。あいつのつくる桃包、なかなか旨いよ。ボクも三つも食べちゃった」
 こつん、と女店主は少年の頭を軽くこづく。
「つまみ食いするなよ、客が食うモンがなくなるだろ? ああ、悪いね。ゆっくりしていきな。酒はワインやウィスキーもあるし、洋酒も日本酒も何でも一通り揃えてある。ただし、つまみは餃子と桃包だけしかないよ」
 さばさばとした口調で言い、彼女は餃子を作り続ける。
「食べたり話したりするのに飽きたら、外で獅子舞やってるからそれでも見りゃァいい。こないだ砂浜でイチャモンつけてきやがったクソ野郎にやらせてるんだけどね。──あァ? 何で名前知ってるんだい? そうだよ、ザンギーガっていうヤツさ。ちょっと可愛がってやったら、あたしの言うこと何でも聞くッていうんでね。それで獅子舞を覚えさせたんだが、まあまあだね。暇つぶしにはなるよ」
 そんなことを話しながら、ようやく彼女は餃子を作り終えたようだった。大きなトレーの上に整然と並んだ餃子をジミーが奥へと運んでいくのを見送って。女はホッと息をついて、エプロンを外して椅子に腰掛けた。
 息子の方は、客として来店していたマギーに──ミントグリーンのオカマに餃子の皿と紹興酒のグラスを出している。いっぱしの給仕である。マギーはニコニコしながら少年の頭を撫でた。少年も嬉しそうにニカッと笑う。
「ふう、やっと終わったよ」
 その様子を穏やかに見つめてから、彼女は客の方へと視線を移す。手を広げ、目の前に出した酒とつまみを味わうようにと促した。
「何ボケッと座ってんのさ。食うかどうにかしなよ」
 先ほどは静かにしていても良いと言ったくせに。じれったいように、彼女は切り出した。
「何かしたい話があるんなら聞いてやるよ。どうせつまんない話だろうけど、もしあんたの話が面白かったら、そこのカメの紹興酒をくれてやるよ。三十年もののとっておきの酒さ。特別に燗にして出してやるよ、どうだい?」

 結局のところ、女店主は客の話を聞きたがっている様子だが、さて──?

種別名シナリオ 管理番号960
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
クリエイターコメントこんばんわ。冬城カナエです。
今回は企画ものです。
「海燕」の女店主である、カレン・イップが旧正月のパーティを開いていますので、どうぞご自分の思い出を語りにいらしてみて下さい。

通常シナリオに見えますが、当シナリオは、変則的なプライベートノベルのつもりでおります。
完成したノベルでは、参加されたPCさんに語ってもらった「銀幕市での思い出」が並ぶ、ミニノベル集になる予定です。

さて、今回の企画の主旨はズバリ「タイミング逃しちゃったエピソードを語ろう」です。

銀幕で遊んでいると、
「重要なシナリオへの参加を逃した」とか「季節もののノベルを頼みたかったのにタイミングを外してしまった」とか、そういうことがよくあると思うのですね。
ですので今回は、「参加できなかったけど、自分はこうしていた」的なPCさんのミニエピソードを並べられればと思っています。
やりたかったことを既成事実に。後付けで作っちゃおう! という企画です。

そしてエピソードによっては、NPCの登場が必要な場合もあると思い、今回は全てのNPCをフリーにさせてもらっています。
冬城のノベルに登場した全てのNPCはもちろんのこと、他WRのNPCさんもどうぞお呼びください。
公式、他WRさんのNPCも一応、使用許可をいただいている……と思います。他WRさんNPCの場合は、冬城の筆で良ければ……の話なんですけど(笑)、ご要望があればプレイングにお書きください。担当ライターさんに許可を取りつつ、このシナリオで描写させていただきます。

プレイングには、プライベートノベルのオファー感覚で、ご自分が過去にやりたかったエピソードを1つお書きください。今回のシナリオの舞台である「海燕」でのパーティで何をするか、などは省略していただいて構いません。

以上のような趣旨ですので以下に条件等々を示します。

【今回の推奨エピソードの条件】
・銀幕市での出来事であること。(出自映画の内容ではなく)
・そのPCさんの積み上げてきたお話の中で、矛盾が起こらないこと
・PCさん個人、もしくはPCさん個人とNPCで完結するエピソードであること。(当シナリオに参加していないPCさんが登場するエピソードは避けた方が無難です。システム上、お名前を出すぐらいしか出来ませんので)
・既成事実をつくろう、ですが、NPCと恋人だとか特別な関係である、というのはナシで(笑)。(NPCは共有財産みたいなものですから)

※できれば、今回の趣旨に沿っていただいて“今さら語れないけど、語りたい”というネタにしてもらえると嬉しいです。
※レヴィアタン戦など、銀幕市をあげての大きなイベントのときや、過去の冬城のシナリオ。または他のWRさんのシナリオなども推奨ですね。
※後日談やサイドストーリーをイメージしています。

というわけで、ちょっと特殊な企画ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
様子見も兼ねて、すこし人数を少なめにしています。好評でしたら、今後も続行したいと思いますので、お気軽にご参加くださいませ。

参加者
フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
桑島 平(ceea6332) エキストラ 男 46歳 刑事
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
ネティー・バユンデュ(cwuv5531) ムービースター 女 28歳 ラテラン星親善大使
柊木 芳隆(cmzm6012) ムービースター 男 56歳 警察官
<ノベル>

 彼が始めたのは、こんな話だった。
 クリスマスの当日に、自転車を走らせていたら黒塗りの車に併走され、窓が開いたかと思えば、どこかのギャングにいきなり狙撃されたという。慌てて逃げ回っているうちに、市街地を抜けてベイサイドのホテルにまで到達し──それというのも、彼がプレゼントを届けたい相手がそこに宿泊していたからなのだが──とにかく、捲いてしまおうとプールサイドに逃げ込んだら、敵の車がプールにドボン。銃器が使えなくなり、敵は退散。彼は何とか無事にプレゼントを届けることができたという。
「──馬鹿だねェ」
 餃子と紹興酒を出しながら、女店主が漏らした感想はその一言に尽きた。
 小さな広東料理店『海燕』は、カウンター席とテーブルがひとつしかない店なのだが、今日ばかりは満席で、外に出したテーブルにも大勢の客が詰め掛け賑わっていた。時折、誰かが来ては出て行ったり、ひっきりなしに人が行き来している。
 今日は春節。
 店では、旧正月のパーティが開かれているのだ。
「お前が武装してないからギャングに襲われるんだよ」
「そ、そうなの、かな?」
「ああ、そうさ」
 エピソードを披露した当人は、肩を寄せ恐縮しながら言う。汚いツナギ服の彼の名前はトビー。トビー・ザ・サンタは、こんなナリをしているが、正真正銘、本物のサンタクロースだった。
 彼は、パーティ中の『海燕』にやってきて、女店主が提示したルールを聞いた。それならば、と、自分のエピソードを披露しただけなのに、キツい駄目出しを食らっていた。
「いい体格してンだから、ハーレーのバイクにでも乗ッてりゃいいんだよ。あれならショットガンのスロットだって付けられる。サンタクロースなんだろ? それに乗ってりゃ誰もお前を襲ってプレゼントを奪おうなんて思わないさ」
「それは一理あるねぇー」
 彼の近くで紹興酒の杯を傾けていた柊木芳隆が口を挟んだ。スーツ姿の落ち着いた壮年男性である彼は、映画から実体化した警察官──それもキャリア官僚の警視長であり、この店の常連客でもあり、この女店主の父親代わりの存在でもあった。
「でも、銃器を絶えず持ち歩くのもどうかと思うよー? 大型バイクに乗るのはいいとしても、銃器じゃなくて刃物にでもしてみたら?」
「あの、俺が言うのも何なんだけど、あんた警察官じゃなかったっけ」
「今は銀幕セキュリティ社の主任だね」
 トビーの突っ込みにも悪びれずに答えてみせる。手元で自分の陶器のグラスに手酌で紹興酒を注ぎ、粗目をスプーン一杯加えてニッコリ。柊木は彼に笑顔を向けた。
「俺としては、平和で穏便なサンタクロースでいたいんだけど」
「この街が忙しないんだから仕方ないだろ」
「──よっ、何の話してんだ?」
 と、そこへ顔を出したのは、天使のフェイファーだった。彼は外で、獅子舞を見てから中へと足を踏み入れたのだ。スリムな革コートの下はTシャツにジーパン。まるでミュージシャンのような風体の青年である。
 彼は、サッと椅子を引いてテーブル席に腰掛けて周りの面々の顔を見回した。大体が見知った顔である。
「なんだ、お前も来たのかい」
 そんなフェイファーに連れない言葉を投げつける女店主。
「天使ッてのは、この時期ヒマなモンなのかい? この街の住人はヒマなヤツばっかりだねェ」
「ん、まあね。俺ヒマ人」
 ニコッと微笑みを返すフェイファー。彼はこの女店主とも知り合いだったので、今のが彼女なりの挨拶だと理解していた。
「久しぶりだなあ、元気そうじゃん?」
「あいにくね。くたばらずに済んでるよ。……で? 何飲むんだい?」
「みんなと同じの」
 彼女が本当は不機嫌ではないことは、紹興酒のグラスがすぐに置かれたことでも明らかだ。
「今日は、みんなで面白い話を披露しあってるんだよー」
杯を軽く掲げて見せながら、柊木が説明するように言う。「ゆっくりお酒を飲みながら、それぞれが自分の話をするんだ。でも、それだけで終わりじゃないよ? その話を聞いてミシェルが面白いと思ったら、三十年モノの高級な紹興酒を飲ませてくれるんだって」
「ミシェル? ああ、へぇ。そうなんだ」
 フェイファーは、ちらりと女店主を見、酒に口を付ける。独特の香りのする中国の酒である。面白い話をすれば、これよりもっと味わい深く、香りの良い酒を飲ませてくれるというが──?
「話って、何でもいいのかい?」
「この街で起こったことだね。ムービーハザードの後で、あたしたちが実体化した後の話さ」
 ふーん。考え事をするように天井を見上げるフェイファー。この街で、経験したことはどれも思い出深いものだった。
 何を話したらよいか考えていると、餃子の皿が彼の目の前に置かれた。女店主の幼い息子が、それを運んできてくれたのだ。
「そうだなあ……」
 フェイファーは礼を言う代わりに少年に微笑んでみせる。そして湯気を立てている餃子に視線を戻した。香ばしい匂いが彼の鼻腔にも届く。
 そうだ。それを見て、彼はどの話をするか決めた。
「うん、やっぱり面白い話っていえば、アレだね。実体化したばかりの頃のことなんだけどさ──」
 そう前置いて。天使は話を始める。


一杯目 『世界の果て』


 フェイファーがこの街に来て、まず一番驚いたのは道を歩いていて話しかけられたことだった。
「ねえ、今、上から降りてきたよね?」
 いきなり背後から声を掛けられたのだ。
 振り返れば、グレーのピーコートを着た少女がいて、目をキラキラさせて天使を──自分を見上げているのである。驚いた彼は思わず言葉を無くした。見えるはずがないからだ。一般の人間には彼の姿は見えないはずなのに。それがどうして──?
 冬だった。いつものように空を飛んでいたフェイファー。
 彼はいつものように人間界を見下ろし、いつものように何気なく、地上へと降り立ったのだ。
 彼は天使として、いつもと何ら変わらない生活をしているはずだった。しかし、実際には彼は、今までとは全く違う場所に来ていたのだ。

 映画の中から、銀幕市という現実へ──。

「マジ凄いんだけど、マジ凄いんだけど!」
 穴のあくほど少女の顔を見つめているフェイファーに、彼女は同じ言葉を何度も繰り返しながら、キャッキャッとはしゃいで見せる。
「何でお前、俺の姿が見え──」
「わたしマジもんのムービースター見たの、マジ初めてなんだけど」
「??」
「天使でしょ、お兄さん天使のムービースターでしょ?」
 高校生ぐらいだろうか。彼女はフェイファーに近寄り早口でいろいろなことをまくしたてた。「市役所に対策課」「ムービースター」「超カワイソー」「街で見かけたら」「魔法」「本当に」「とにかく」「マジで」「市役所へ」「飛んでみて」……。
 数分後、フェイファーは彼女が学校でもらったというプリントを押し付けられて開放された。目をパチパチやりながら紙面に目を落とすと、そこには大きな字でこう書いてある。──ムービースターの人を見かけたら、市役所の対策課へ行くように教えてあげましょう。
 よく分からなかったが、彼はその対策課なる場所へと出向いたのだった。
 行ってみると、そこ対策課はたくさんの変わった風体の者たちで賑わっていた。窓口を覗くと眼鏡を掛けた若い職員──植村直樹がいろいろなことを丁寧に教えてくれた。『ようこそ! 銀幕市 〜市民生活の手引き〜』というパンフレットもくれた。頑張ってくださいね、とも言ってもらえた。
 そんなわけで、彼はどうにか状況を把握することが出来たのだった。
 自分が実は【オレ、天使】という映画の中の登場人物で、神様の子供の魔法によって誤ってこの街に実体化したこと。自分たちがムービースターと呼ばれる存在であること。
 にわかに信じがたい話だったが、他にもいろいろな者たちが対策課を訪れているのを見て、ようやくフェイファーは植村の話を信じることができた。
 最初のうち、「どうして? 何が起こったんだ?」と、フェイファーは思っていた。「自分の姿が見えてしまうなんて困る」とも思った。
 だが、やがてその気持ちも「まあ、いっか」に変わっていく。

 彼は、自分が別世界に来た、と思うことにしたのである。

 一度、開き直ってしまえば、彼にとってこの街はそれほど暮らしにくい街ではなかった。仕事道具である『天使帳簿』も、ちゃんと手元にある。天使の仕事も何の制限もなく続けることができた。
 以前と同じように、気ままに空を飛び、気が向いたときに人間を手助けする。
 本当の思いをなかなか伝えられない青年には彼女と二人きりになれる時間を与え、お互い好きでもないまま結婚してしまった夫婦にはそれぞれの道を歩ませ、のちに同じ運命を行く若い二人が同じ電車に乗るように仕向けた。
 映画の中と同じように、フェイファーは因果律を操作して人間たちのちょっとした出会いや恋を後押しした。面倒くさい面倒くさいとこぼしながらも、彼は自分の仕事をそれなりにこなしていた。
 なんだかんだ言っても、彼は天使の仕事が好きで、誇りを持っていたからだ。
 そうして二週間ほどの日が過ぎていった。フェイファーは自分のペースを掴み、この街での生活にどんどん適応していった。

 そんなある日のことだ。
 夕暮れ時の高台の公園で、彼は一人の幼い少女を見かけた。
 小学1年生ぐらいの、濃緑のワンピースを着た少女は独りでブランコに乗っていた。
 立って漕いだり、座って漕いだり。遊んでいるのかと思えば違った。彼女は何か必死になってブランコを漕いでいた。力一杯、全力でブランコを漕いでいる。もうすぐ暗くなるだろう公園で独りで一生懸命に。
「なあ、どうしたんだ?」
 気になって、フェイファーは彼女の前を横切りながら声を掛けた。案の定、少女は天使の姿に驚いて、ブランコを漕ぐのをやめた。
「天使さんだ……」
 地上に降り立ち、ブランコに腰掛けたままの少女の前に立つ。何を必死になっていたのか聞こうとしてフェイファーは、ある事に気付いた。
 この少女。確か、自分が天使帳簿を使って離婚させた夫婦の娘ではないか。こんな時間に独りで公園にいるなんて、一体どういう──。
「あんまりガンガン漕いでると、危ねえぞ」
 とにかく話をしよう。そう思ってフェイファーは腰を折って彼女に視線を合わせてみた。
 少女は照れたように俯き、小さく首を横に振る。
「ブランコから落ちたら痛てえから、もっとゆっくり漕ぎな」
「いいの」
 少女はフェイファーと目を合わせず、頑なに首を振る。
「わたし死んじゃっても平気なんだもん」
 母親に何か言われたのだろうか。フェイファーは彼女の肩に手を置いて、こっちを見て、と優しく声を掛ける。
「平気じゃねえよ。お前が死んじゃったら、ママがわんわん泣くぞ」
「……そうだね。ママは泣くかも」
少女は素直に認めつつ、天使を見上げた。「でも、わたしは死んでも平気。だって──」

 ──わたし、もう大人になれないんだもん。

「えっ……?」
 彼女の言葉に、フェイファーは言葉を失った。
「……どうしてそう思うんだ?」
 次の質問を出来たのは、しばらく間が経ってからだ。
「パパがいなくなっちゃうから」
少女は、ぽつりと答えた。「学校の子の中で、パパがいない子なんて一人もいないもん。学校にも行けなくなるってママも言ってたし。そしたらわたし、大人になれないでしょ」
「……」
 やはり彼は言葉に詰まってしまった。すぐに言葉をかけてやることが、フェイファーには出来なかった。
 両親の離婚。学校に行けなくなるというのは転校を意味するのだろうが、彼女にはそれが理解できていない。
 フェイファーが彼女の両親に離婚を促したのは、お互いの気持ちが完全に離れていたからだ。悲しい事件──この少女の弟にあたる少年が事故死したことをきっかけに、夫婦はお互いを責め、今ではひどく憎み合っている。
 彼は、自分の仕事が間違っていたとは思っていない。夫婦は別れるべきだった。
 しかしこの少女はそうは思っていないのだ。
「──お前はちゃんと大人になれるよ」
 ようやくフェイファーが掛けてやれたのはそんな言葉だった。
「ほんとに? だって……」
「天使の俺が言うんだから間違いないよ」
 ポンと手を少女の小さな肩に置いて言う。
 失敗した──。フェイファーは本当はそう思っていた。この少女に声を掛けるのではなかった。人間社会の因果律は複雑で、全てが丸く収まるのが理想だが現実にはそうはいかない。男女の縁を優先すれば、この少女のように犠牲者も出る。
 だから。天使は内心で歯噛みしながら思った。だからこそ、人間には深く関わらないようにしていたのに──。
「お前、名前は?」
「あいか、だよ」
 そうか、とフェイファーはニッコリと微笑んだ。少女の小さな頭を撫でてやりながら。
「あいか。俺が今から魔法を使うよ。そうしたら、お前は大人になれるようになる」
「エッ?」
 少女は驚いたように天使を見上げる。それに応じるようにフェイファーは満面の笑みを浮かべてみせる。最初は戸惑っていた様子の少女も、やがて強張っていた口元を緩めて笑顔を見せるようになった。

 ほんとうに? 少女が言い。
 ほんとうだよ。フェイファーが返す。

 そして数分後、紺色から橙色のグラデーションを見せる空をフェイファーは飛んでいた。西の空に輝く宵の明星の方向に向かって真っ直ぐに。彼は、上空へとスピードをぐんぐん増しながら飛んでいく。
 ──空の向こうにいきたかったの。
 翼をはためかせながら、フェイファーは幼い少女の言葉を思い出す。
 ──お星さまになった弟のところに、遊びにいけたらいいなって思ったの。
 彼女がブランコを一生懸命漕いでいた理由がそれだった。
 ──お兄ちゃんは天使さんなんでしょ。いいなあ。お兄ちゃんなら、弟に会えるよね。きっと。もし会えたら、わたしやママやパパのことを教えてあげてね。
 彼女に何かを頼まれたわけではない。だが、フェイファーは空の彼方を目指して飛び続けていた。彼の身体は加速し、高度を増していく。
 彼も思っていたのだ。
 映画の中では行けたはずの“向こう”。この世界では行くことが出来るのだろうか。
 前にも一度、試したことはあった。空の向こうへ行こうとして、フェイファーは空の上で何か見えない力に阻まれ、そこから上に行くことがどうしても出来なかった。
 まだ、先が見えているのに──。
 フェイファーは雲を突き破り、夜空の真ん中へ突き進んでいく。
 そろそろだ。彼は目前を見、険しい顔つきになる。そろそろ、前回突き当たった地点に到達する。今回は全力で臨むつもりだった。あの空を、自分の持てる力全てを使って、突き破ってみせるのだ。
 天使の身体が、うっすらと黄金色の燐光をまとった。高速で移動するフェイファーの身体に──高エネルギーの塊となったそれに、空中の精霊や何かが自らの手を貸そうと集まってきているのだ。
 もしかしたら。
 フェイファーはその一点に力を集中する。
 もしかしたら、行けるのかもしれない。俺も。
 力の高まりに応じて意識が白んでいく中で、彼は記憶の底にある一人の人間の姿を思い出す。彼女のいた病室へ。この壁を越えたら行けるのかもしれない。
 
 俺も、お前に──

 カッ。まばゆい光が空の一点で炸裂した。まともに見れば目を焼かれてしまうほど眩しい光が夜空を照らした。だが音はしない。無音の空間の中で、膨大なエネルギーが天使の身体を核にしてあたりに拡散した。
 
 ──会いたかった。

 銀幕市内の、どれだけの人間がそれを目撃したのだろう。
 夜空を照らすほどの大きな光は、一瞬だけ空全体を覆うほどに広がり──そしてキラキラと輝く砂のようになって、街へと降り注いでいった。
 外を歩いていた者たちは驚いたように上を見上げ、そのキラキラ光るものを掴もうと手を伸ばした。触れた者はあることに気付いて、安心したように優しい微笑みを浮かべて見せるのだった。
 それは、雪だった。
 キラキラ光る雪が、街に振りそそいでいたのだ。


 そして。
 ある美大生が一人、自分のマンションの屋上へ出て空を見上げていた。
 先ほどまで晴れていたはずなのに、雪が降っている。不思議なこともあるものだと、彼はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出してライターで火をつけた。
 ふうと、煙を吐き出した時。彼の視界の中に何かうごめくものがよぎる。おや、と思い近寄ってよく見てみれば、それは人間のようだった。
 薄汚れ、服はところどころ焦げていて。破れた袖から見えている腕は傷だらけである。おいと声を掛けても返事はない。気を失っているようだ。
 とにかく助けてやろう。美大生は彼を助け起こそうとして、その背中に生えているものに気付いた。服の一部かと思っていたそれは羽根だった。
 天使の翼──。
 それが天使のフェイファーと、吾妻宗主との出会いだった。


 * * *


「宗がさ、メシ食わせてくれたんだ」
 フェイファーは照れたように、皿の上の餃子を箸でつつきながら言った。
「俺、天使だし。それまで食い物って食ったことなかったんだよ」
「そうなの!?」
 彼の話に驚いているのは、店主の息子のリンだ。少年は目を丸くして天使を見上げている。
「ごはん食べなくても平気なの?」
「まあ、食う必要がないからな」
 素直に少年に答えてやりながら、フェイファーはパクと餃子を一つ、口に運んでみせた。
「そん時、宗が作ってくれたのが卵のお粥で、それが上手くってさ」
「ふうん」
 女店主は頷いてガタと席を立った。彼女は包丁を手にし、紹興酒のカメの方へと向かっている。テーブルには、柊木と黒髪の女──ネティー・バユンデュが着いていて。彼の話に聞き入っていた様子でじっとフェイファーの次の言葉を待っていた。
「まあ、その」
 みなに視線を向けられて、さらに照れたように。彼はボリボリと頭を掻いた。
「宗のヤツがさ、よかったらまたおいでって言うからさ。また卵の粥食わせてもらおうかなって思ってまた行ったりしてたら、すっかり居心地良くなっちまってさ」
 それで、今に至るってワケ。彼が話を終えると、彼の目の前にガラスの杯が置かれた。透き通る青い足のついた杯には、赤みがかった茶色の紹興酒が並々と注がれていた。
「光る雪が降った日のことは人に聞いたことがあるよ」
女店主はニヤッと笑いながら、それを飲むように促した。「あんたの仕業だったとはねェ」
「おっ、これが例の三十年モノ?」
 フェイファーは笑顔になってそれを手にする。
「第一号だねー」
「原料は、もち米に麦麹ですね。アルコール度数16度の醸造酒です。非常に高価なものです」
 ピピピ、とネティーが手にした携帯電話のようなコンピュータ──ディテクターをかざし、グラスの中身を分析した。
「……あなたの話は非常に興味深いものでした。その酒はあなたの話の価値にふさわしいものです」
「そう?」
 彼女の言葉に、フェイファーは思わず照れたように頭を掻く。
「おそらくこの街にかかった魔法の効果が及ぶ境界線にぶつかったのでしょう。我々ムービースターがこの街の外に出ることができないということを、あなたは上空へと飛ぶことで証明してみせたのです」
 宇宙人である彼女にも、この話はとても興味深いものだったようだ。
「つまり、私が母星であるラテラン星へ戻ろうと、宇宙船を製作し飛び立ったとしても無駄だということです。──私もこの街に実体化した頃は、一度ならずとも考えたことがありましたが」
「へえ、そうなの?」
 と、フェイファー。
「ええ。でも私が実体化したころは、この街は騒然としていましたので。それどころでは無かったのです」
 彼女も器用に箸を使いこなし──使い方はディテクターで調査済みだ──餃子を一つつまんで食べてみせる。
「レヴィアタンという怪物の事件ですよ。杵間山の『穴』から怪物をおびき寄せて退治するという作戦を展開中で、私はちょうどその頃に実体化したのです」
 ネティーはテーブルに着いた面々の顔を見回した。
 次は彼女のターンだった。


二杯目 『だから、戦う』


 地底の奥底にうごめく、巨大な怪物を退治しなければならないのだという──。
 ネティー・バユンデュがこの街に実体化したころ、街はそんな話でもちきりだった。彼女が右も左も分からないころである。市役所の対策課に出向いても、丁寧な説明を受けることも出来なかったし、植村直樹も忙しそうできちんと話をしてくれなかった。彼女は『ようこそ銀幕市!』のパンフレットをもらうことぐらいしか出来なかった。
 彼女にきちんとこの街の魔法のことを教えてくれる者はいなかった。
 レヴィアタンが。
 人は口々にその名前を言った。今のうちにあれをどうにかしないと、銀幕市がメチャクチャにされる──。
 ネティーには、なかなかピンとこなかった。
 とはいえ、彼女は映画の中での自分の役割をよく理解していた。彼女はラテラン星出身のいわゆる宇宙人ではあるが、地球人との友好を深めるためにやってきた親善大使でもあった。ネティーにとっては、困っている地球人を助けることはやぶさかではなかったのだ。
 しかも彼女は戦術士官だった。広い宇宙を旅する中で、レヴィアタンのような巨大な未知の生物に襲われたことも多々あった。
 ──何か、できることはないだろうか。
 聞けば、今朝からその作戦が始まっているという。対策課のあるフロアには、大きなテレビが用意されていて職員やその他さまざまな者たちが、作戦の状況を見守っていた。
 ネティーも他のものと同じようにモニターを注視していた。
 そうしてしばらく。先発隊がレヴィアタンの潜む『穴』に潜入し、彼の存在をおびき出したところで、思わずネティーは誰ともなく疑問を口にしていた。
「なぜ、わざわざあんな怪物を地上にまでおびき出さねばならないのですか?」
「あの『穴』に入ると、ムービースターの人たちは正気を失っちゃうの。ムービーキラー化っていってね」
 ネティーの問いには、隣りにいたムービーファンらしき女が答えてくれた。
「だから、地上まで誘導してから、ムービースターの人たちが特製の爆弾をつけてフッ飛ばすのよ」
「そんな危険なことを?」
 驚くネティー。さらに聞いてみれば、爆弾の効果を最大限に生かすためにやむを得ない作戦だったとのことだが、この街にあんな怪物を呼び寄せてしまえば、民間人の中にたくさんの怪我人を出してしまうのではないか。
「──ヤツが、現れたぞ!」
 そんな時、対策課の中が騒然となった。モニターにはおぞましい怪物の姿が映し出されている。いよいよ姿を現したレヴィアタンを杵間山へと誘導する三番目の作戦が今まさに始まったのだ。
 ネティーは、とにかく現場へと向かってみることにした。


 杵間山の麓には、警察や消防隊、それにムービースターたちが大勢詰めていて、民間人が立ち入らないように非常線が敷かれていた。
 ネティーは手持ちのディテクターを取り出した。彼女と一緒に実体化したマイクロコンピュータで、慣れない場にいる彼女にとっては心強い存在である。
「──おや?」
 それを使って、杵間山付近の人間たちの動きを掴もうとしたのだが、いくつか少ない光点が非常線のある辺りを抜けていくことに気付いた。その光点は、たくさんの光点が集まる場所──まさに戦場のまっただ中に向かおうとしていた。
 これは一体?
 近くだ。これなら追いかけられる。ネティーは、その光点の正体を確かめるべく、そっと脇道へと足を踏み入れていった。

「──来たぞ!」

 誰かが上げた大きな声に振り向けば、青くぬめぬめと光った巨大な怪物が、汚物のような体液を撒き散らしながらこちらへと向かってくるのが見えた。
 上空である。杵間山の方へと視線を転じれば、たくさんのムービースターたちが武器を携えている。
 先ほどの光点が何だったのか、確かめている暇は無かった。
 背筋に悪寒が走り、ネティーはさっと身を屈めた。生温かい風が彼女の背中を舐め、通り過ぎていく。
 雄叫びのような声が上がり、何人かのムービースターが上空へと舞い上がった。その姿を覆い隠すように大きな影が空にあるのが見える。首を巡らせて見上げなければ全体を捉えることができないほどの大きな怪物。レヴィアタン。
 ──戦闘が、始まったのだ。
 みるみるうちに周りの木々が背を伸ばし意志をもって、レヴィアタンに絡み付こうとする。ドラゴンが飛び、天使が飛ぶ。剣を抜き、空を駆ける姿は小さく、あの大きな怪物に比べるとあまりにも小さすぎた。
 しかし。
 ネティーはその光景に圧倒されていた。様々なムービースターが、ロケーションエリアを展開しているため、周りの環境が刻一刻と変化していく。もはや今が昼なのか夜なのかすら分からない。
 なぜ。
 彼女は、その様子を見つめたまま呆然と立っていた。
 文字通り住む世界の違う人間たちが、なぜ、あんなに必死になって戦っているのか。それぞれ守るものも価値観も違うはずだ。それが、どうして──?
「危ねえぞ!」
 その時、後ろから声を掛けてきた者がいた。
 はっ、と気付いてネティーは足を止めた。咄嗟に前に伏せれば、頭上を何かが通過し彼女の背後でベチャッという嫌な音を立てた。
 思わず戦闘の場に近づき過ぎていたらしい。ネティーは素早く体勢を立て直し後ろを振り返った。そこに立っていたのは見るからに民間人の男女だった。
 シャツを腕まくりした筋肉質の中年男と、眼鏡を掛けた若い女である。
「あなたたちは?」
「銀幕ジャーナルの七瀬灯里です。わたしたちは取材に──」
「あんた、戦闘に加わんねえんだったら、下がってた方がいいぞ」
「取材?」
 半ば驚いて、ネティーは聞き返した。
「あなたたちはメディアなのですか?」
「そうだよ。俺は盾崎。銀幕ジャーナルの編集長だ」
 名乗り、盾崎は巨大なレヴィアタンに視線を戻した。その手には無骨な一眼レフカメラがある。まるで今にもあの戦場へと走り出していきそうな雰囲気だ。
「七瀬、お前はここにいろ。俺はもっと近づいて撮ってくる」
「待ってください、危ないのはあなたたちも同じではないですか」
 彼の行動を理解できず、走り出そうとする盾崎の背中にネティーは早口で問いかけた。
「あなた方は避難しないのですか?」
「避難?」
ちらと振り向き、盾崎は笑った。「その選択肢はねえな。俺たちはこれが仕事だからな」
 仕事? ネティーにはさらに理解できなかった。彼女の世界では、記録作業は無人探査機などの機械が行うのが普通だったからだ。
「なぜです? なぜそんな危険を冒してまで記録を撮ろうとするのですか? 確かに記録は重要です。しかし、この世界であれば魔法や科学などの安全な手法を使うこともできるではありませんか?」
「……」
 盾崎は足を止め、きちんとネティーを振り返った。
「分かんねえか、あんたには」
「非効率ではありませんか。人の手では録ることができる範囲も限られてしまいます」
「だからいいんだよ」
 男は笑った。その手は愛用のカメラを撫でている。デジタルではなくフィルムの、アナログカメラを。
「昔、銀幕ジャーナルに来る前だ。アフガニスタンで俺が撮ってきた孤児の写真に上司がケチつけやがったことがあるんだ。──メッセージ性が強すぎる。奴はそう抜かした。メディアは中立を保つもの。一方方向のベクトルをもって情報発信をしてはいけない。奴はそうも言った」
 こちらを向いている彼の背後で、爆発が起こった。レヴィアタンの身体に取り付けられたムービーボムの最初の一発が炸裂したのだ。
「──クソくらえだ!」
 吐き捨てるように盾崎は言った。
「大変なことが起こっている。悲しい思いをしているやつがいる。頑張ってるやつがいる。それを伝えないで何がメディアだ! 俺は、俺が伝えたいことがあるから、ここにいる。あそこでこの街を守ろうと必死に戦ってる奴らの姿を、銀幕市の皆に伝えたいからここにいるんだ」
 彼の剣幕に、ネティーは思わず言葉を失った。穴のあくほど盾崎の顔を見る。彼は真剣で、その双眸には強い光が宿っていた。
「わたしたちも一緒に戦ってる……つもりなんです」
 そっと付け足すように灯里が言う。
「彼らの想いを撮ることで、わたしたちもこの街を守っていると」
 ああ、そうか──。
 ネティーはようやく理解できた気がした。世界観も価値観もバラバラな、あの者たちが力を合わせて戦っている理由を。
「あなた方は彼らと共にこの街を守ろうとしているのですね」
「分かってもらえたかい?」
 ニッと笑い、盾崎は視線を戦場へと戻した。二つ目と三つ目の爆弾が続けて爆発する。物凄い轟音と悲鳴のような音が空を引き裂くように響き渡った。
 ──彼らは皆、この街を愛しているのだ。
 ネティーは戦う者たちの姿を見、その想いを感じた。
 今、自分がいるこの世界を、この街を守るため、彼らは戦っているのだ。
「行くぞ、七瀬」
「はい!」
「待って」
 もう一度、ネティーは彼らを呼び止めた。
「私の計算では、5秒後にレヴィアタンは右に旋回します。こっちへ!」
 相手の了解を待たず、彼女は両手で盾崎と灯里の腕を掴んだ。ぐいと近くの岩壁の影へと引っ張り込む。
 ギゃォオォん!!
 生温かい風と、肉片のような赤黒い塊が、つい先ほどまで三人がいた地面へと降り注ぐ。その直後、上空を怪物が通り過ぎ、多くの者たちが武器を携えそれを追撃していった。
「すげえ、本当だ」
 シャッターを忙しなく切りながら、感嘆したように盾崎が言った。その言葉はネティーに向けられたものだった。彼女は手にディテクターを怪物へと向けたまま、彼の背中を見る。
「専門なのです」
 彼女にしては珍しく。ネティーは照れたように笑う。
「ありがとよ。いい絵が撮れたぜ。」
「いいえ、感謝されるほどのことでは」
 そう答え、ネティーはふと思い出したように言った。
「そういえば、先ほど麓の非常線を抜けてこちらへ来た者たちがいたようなのですが、あれはあなた達ですか?」
「え」
盾崎はチラと彼女を見た。「……チッ、見られちまったのか。俺たちも、まだまだだな」
「いえ」
 ネティーは笑った。
「最善のルートですよ。同じ道を辿ったおかげで、私もここまで来ることができたのですから」
 その時、空に最も大きな轟音が鳴り響いた。
 全ての爆弾が、ムービーボムが破裂したのだ。そして断末魔の悲鳴と絶望の思念を撒き散らしながらレヴィアタンの姿が崩れていく。
 勝ったのだ。銀幕市民は、かの怪物に勝利したのだ。
 しかし──。
 戦場では悲鳴が上がっている。こちらも無傷ではすまなかったのだから。
「助けが必要なようですね」
 そう呟き、ネティーは二人とともに現場へと駆けつけていった。


 * * *


「正直、この街には何も愛着は無かったのですが」
 淡々と自分の話を終えて、ネティーは最後の餃子を食べ終えて箸を置く。
「あの戦いの中に身を置いたことで、他の方々の想いを感じることができたのです。あの後、私は傷ついた方々の救護を微力ながらも手伝わせてもらいました」
 皆、この街のことが好きなんですね。
 ネティーが小さな声でそう結ぶと、彼女の前にガラスの杯が静かに置かれた。
 例の青い足のついた立派な杯だ。当然、それには並々と三十年モノの紹興酒が注がれている。
「何かしなくちゃならないッて思うことは、悪くないと思うよ」
 彼女にそれを飲むように促し、女店主も照れたように続けた。
「あたしも、あン時は何かしなくちゃと思ったけど、何にも出来なかったクチだ」
 その手は自分の息子の頭を撫でている。ネティーはこの女店主とは今日が初対面であったが、優れた戦闘能力を持つムービースターであることを感じ取っていた。おそらく、彼女が何も出来なかった理由がこの少年なのだろう。
「私が二杯目になるのですね。では、遠慮なく」
 ネティーは紹興酒に口をつけてみた。初めて飲む味だった。香りも味も濃く、独特の香りがする。複雑な味を分析しようと、彼女は無言で杯を傾ける。
「口に合うかね?」
「ええ。あの成分でこの味とは、予想できませんでした」
「そう言われると、興味シンシンだねぇー」
 のんびりとした口調で柊木が言う。彼は少年の隣りで、彼が手元で天然木の立体パズルを組み立てている様子を微笑ましそうに見守っている。どうやら、このパズルは彼のプレゼントらしい。
「あんたもなんか面白い話すればいいじゃん」
 フェイファーが自分の杯を掲げてみせながら言う。
「一緒にこれで乾杯しようぜ」
「そうだねえ。何の話にしようかな」
「──おわっ、みんなお揃いじゃねーか!」
 そこで、大きな声を上げて扉を開けた者がいて、店内にいた面々はそちらを振り向いた。
 入口に立っていたのは、よれよれのスーツを着た中年男だった。その後ろには青いセーターを着たショートボブの少女が遠慮がちに控えている。
「桑島くんじゃないかー!」
彼らに最初に反応したのは柊木だった。彼らの席を用意しようと腰を浮かせる。「それに、君はルルくんだね。やあ、よく来てくれたねぇー」
「なんかイベントやってるって聞いたからさ」
「ここはあんたの店かい?」
 女店主が少々不服そうに柊木に言い、立ち上がって二人分の椅子をカウンターから引っ張った。
 現れた二人は、銀幕署の刑事の桑島平と大友ルルという名前の少女だ。店にいた何人かは彼女に見覚えがあった。角の生えたバッキー──ティターン神族のダイモーンを操り、この街に混沌をもたらそうとした少女である。
 自分がどう思われているか重々承知しているのだろう。ルルは無言で椅子に腰掛けた。
「あっ! あんたはあの時の!」
 そんな彼女をよそに、桑島は女店主を見て驚き声を上げていた。
「?」
「昨年の夏だよ。カレー王子が来たときに、商店街で!」
「??」
「まるぎんの角で、あんたたちを車で轢きそうになっちまって──」
「──ああ!」
 不思議そうに眉を寄せていた女店主は、ようやく桑島の存在を思い出したようだった。……とはいえ、自分が彼にしたことも、すっかり思い出したらしく。あー、まあ元気そうだね、と視線を外し言葉を濁す。
「あれ、知り合いだったっけ?」
「ん、まあ、ちょっと」
 女店主は、そそくさと厨房の方へ向かおうとする。さすがに、自分と息子が轢かれそうになったことでブチ切れ、包丁を投げて桑島を殺害しかけたとは言えなかったらしい。
 代わりに、少年も思い出したように桑島を見た。
「おじさん、媽々が、包丁で……」
「リン、いいから。……餃子と酒があるからあんたも食べていきなよ」
「何だよ、今日はえらく優しいじゃねーか」
「──あっ、桑島さんじゃないですか!」
 と、厨房からも声が上がった。そこには雇われ料理人のジェフリー・ホーが、手に皿を持って立っていた。
「なんだ? なんでお前ここにいるんだ。自分の店は?」
「春節だし、強引に……いや、誘われたんでこっちに」
 ジェフリーも言葉を濁して苦笑する。彼は以前、カレーをつくるイベントが開かれたときに桑島に助けてもらったことをよく覚えていた。二言三言、あのときはお世話に……などと、礼を言いながら、桃包の皿をテーブルに置く。
「そうか、的士カレーの」
 柊木が合点がいったように頷く。
「ちょうどレヴィアタン戦の後だったねえ。銀幕市らしい賑やかなイベントだったし、あの時はいろんなカレーがあって楽しかったよねぇー」
「あれ、どれかのカレーに参加してたんだっけ?」
 フェイファーにそう聞かれると、壮年の警視長は穏やかに微笑んでみせた。
「まあね。ああそうか……この話をしようか」
 裏舞台みたいなものだけどね──。そう言って、柊木は自分の話を始めた。


三杯目 『世界イチィィ! は、どこの味?』


 柊木の言うとおり、あれはレヴィアタン討伐の直後の話で、底抜けにバカバカしいイベントだった。
 銀幕市にチャンドラ・マハクリシュナ18世なる、大層な名前のインドのマハラジャの子息で、すなわち地方豪族の大金持ちで、実業家で俳優でインド映画界ではスーパースターで……という、通称カレー王子がやってきたのだ。
 彼は女優のSAYURIに求婚し、それを断るために市民たちは協力して美味しいカレーをつくることになった。美味しさのあまり銀幕市を離れられないというSAYURIの言葉を信じさせようという企画だった。
 ある者は食材を探しに山へ分け入り、ある者は商店街を車で爆走した。
 今、こうして思い返しても、意味不明だ。
 しかし当時は皆、真面目だったのだ。何しろ、10種類もの創意工夫を凝らされたカレーが製作され、試食会が開かれたのだから。
 そのカレーは、銀幕ベイサイドホテルでも振舞われることになっていた。王子の来日に合わせて【ワールドカレーフェスタ】なるイベントが企画されたのだ。初日の今日、チャンドラ王子の邸宅に運ばれたものと同じものが、着々とホテルに届けられていた。
 その日のレストランは、王子も舌を巻くカレーがどれだけのものかと、レストランが開店する前から客が詰めかけ行列が出来ていた。早くも二時間待ちといった状態である。
 これから厨房では戦争が始まるのであろう──。
 そんな時に。
 料理長たる本田流星はコック帽をくしゃくしゃに握り締め、落ち着かない様子で歩き回っていた。
「ああっ、もう!」
 何に耐え切れなくなったのか、彼はそのまま厨房を飛び出した。職員用エレベータに足早に乗り込み階下のボタンを押そうとして──。

「一階、でいいのかな?」

「柊木さん──!」
 エレベータの中で代わりにボタンを押してくれたのは柊木だった。流星は慌てた様子で彼に詰め寄る。
「窃盗団はどうなったんですか? 開店まであと十分しかないのに、例の高級スパイスがまだ届かないんです。車は今、どの辺に?」
「落ち着いて。君らしくないなぁー。総料理長なんだから、ドンと構えてなきゃ」
 対する柊木はのんびりした様子で、腕時計を見た。
「ちょうど三分後ぐらいに到着の予定だよ」
 そう彼が言ったところでエレベータが一階に着いて、扉が開いた。
 実は、流星が焦るのも理由があった。
 いったいどんな愉快犯なのか。ホテルが手配した高級なカレースパイスを奪うと言う脅迫状が三日前に届いたのだ。ちょうどこの時警察は王子の警護やそれに関係する事件で人手が全く足りず。それで支配人は銀幕セキュリティ社に警護の依頼をかけた。
「──ほら、来た」
 柊木と流星は一階の駐車場に降り立つ。つまり、柊木がここにいるのは、その高級スパイスの輸送を警護するためだった。
 見れば、車が三台、ちょうどホテルの敷地内に入ってくるところだった。前と後ろを黒い車に挟まれた銀色のトラックがそのスパイスを積んでいる車なのだろう。
「ああ〜」
 情けない安堵の声を上げる流星。
「良かったあ。スパイスさえあれば、普通に美味しいカレーが作れますよ! これでウチのホテルも普通に普通のカレーを出せます。世の中、普通が一番ですよ。ねっ柊木さん」
 ああそうだね。微笑みながら柊木は相槌を打つ。
 
 ──タァー……ン!

 その直後だった。
 いきなり、銃声らしきものが鳴り響いて、トラックのタイヤを撃ち抜いた。車は失速し、止まってしまった。そこへ急ブレーキをの音を響かせながら同じようなトラックが乗り込んできた。
「えええっ!!」
 驚く流星を尻目に、車からバラバラと降りてきた男たちが機関銃を乱射した。護衛の者たちが応戦し始めようとするが、彼らはそれをものともせず、まずトラックの後部扉を蜂の巣にしてしまった。
「お、なかなか手際が良いねぇー」
 のんびり柊木が言うそばから、彼らの一人が扉を素早く開けて、中にあった大きなトランクを引っ張りだした。
「スパイスがっ!!」
「おっと危ないよ、本田くん」
 窃盗団の襲撃に、流星が思わず走り出すと、チュインッ。タタタンッ。彼の耳元を銃弾が掠めた。後ろからだ。
 慌てて振り返れば、柊木が愛用のシグザウエルP230──銃口から煙を上げるそれを下げたところだった。彼は片目をつむって見せ、危ないよ、ともう一度言った。
「ひ、柊木さんッ! 今、マジで撃ちましたよね! ぼくを撃とうとしましたよねッ!?」
「違うよ。ちょっと手元が狂っただけだよ」
「ああっ!!」
 そんなこと言っている間に、窃盗団たちの車は鮮やかなターンを決め、走り去っていってしまった。
「い、居ない……」
 愕然とその様子を見送る流星。
「普通のカレーが! 普通の、普通の美味しい、普通のカレーが!」
「君は、おっちょこちょいだなあ」
 ははは、とあくまでにこやかに、柊木は笑う。
「──さて」
 と、その彼の目つきが変わる。文句を言おうと息を吸い込んだ流星は、その彼を見てウッと言葉を飲み込んだ。それこそ本気──マジだったからだ。
 柊木の雰囲気は、感じの良い壮年男性から真逆のものへと変化していた。
 すなわち、獲物を狩る猛獣のそれ、に。
「君は厨房に戻れ」
「で、でもスパイスが」
「言ったろ? 策は打ったと」


 「──偽モノだと!?」


 薄暗い空間に怒声が響き渡った。
 輪を作っていた黒尽くめの5人の男のうち一人が立ち上がり、何かを床にぶちまけた。ガシャンと乾いた金属音をさせて、転がるジェラルミンケースから零れ落ちたのは、たくさんの飴玉だった。
 白、ピンク、青、緑、水色……。様々な包装紙にくるまれたキャンディは、冷たいコンクリートの床を転がっていく。
 裸電球で照らされるそこは、使われていない工場のようだった。作業用の長テーブルが散乱し、フロアには埃が溜まっている。
 男たちはお互いの顔を見合わせる。皆、浅黒い顔に眉毛が濃く、インド系の顔立ちをしていた。どうやらインド映画の出身者らしい。
「どういうことだ!? あの車がまさか囮だったとでも……」
「見ろ。ホテルは通常通りに営業を始めたぞ!」
「おのれ、あんな邪道なカレーを」
「我がインドの国民食を汚しやがって」
「クソッ。いったいどうやってスパイスをホテルに……!」
「──手で運んだのさ」
 カツッ。靴音と誰かの声が会話を割った。何ッと弾かれたように五人の男は立ち上がる。
 そして銃を抜き放ちながら男たちは見た。
 大きな窓のところに、いつの間にか長身のスーツの男が立っているのを。
「なかなか良い手際だったが、残念だったね」
 男は静かに言う。
「チャンドラ王子宅から運ばれた10種類のカレーは、これからホテルに納品される。──つまり先ほど運び込まれていたものが、実は君たちの狙っていた高級スパイスだったというわけだ」
 柊木だった。彼は一人でそこに立ち、銃も抜いていなかった。ゆっくりと腰を屈めて足元の飴玉を拾い、それを男たちに見えるように摘んでみせる。
「さあ、もう終わりだ。銃器を捨てて投降しろ」
「うるさい!」
 ──タンッ。
 銃声。しかし呻いて銃器を取り落としたのは一番前にいた男だった。
 柊木は指ひとつ動かさず、まっすぐに彼らを見ている。当然、彼の手には銃器はない。

「──私が一人でここに来るとでも?」

 彼は、うっすらと笑った。それは流星に見せていたものとは全く別種類の笑みだった。
 気圧され、後ずさる男たち。
「な、なに」
「もう一度言う。銃を捨てろ」
「クソッ」
 ──囲まれている。男たちはそれを悟り、素早く目配せをした。そして一斉に銃を柊木に向け引き金を引こうとする。
 タッ、タタタンッ、タッ。
 静かな空間に、短い銃声が鳴った。男たちの銃は全て床に落ちていた。
「君たちの身柄を拘束する」
 そして今度は柊木は銃を手にしていた。毅然とした口調だった。
 真ん中の男は怯み言葉を失ったが、ハッと何かに気付いて床に目を落とす。彼の前に銃が落ちている。
「……インドのカレーが世界一だ!!」
 男は跳んだ。
 まるで自爆テロの最後の言葉のように叫びながら。死を覚悟したのか、撃たれることも構わず、彼は跳んだのだ。
 無慈悲な銃声が鳴った。
 しかし誰かの命が失われたわけではなかった。男の手は空振りし、銃器は柊木の銃撃で弾かれ、脇へと滑っていった。
「クソッ。オレたちは認めない、認めないぞ!」
 男はまた落ちた銃に向かって跳んだ。柊木はまた撃った。銃声。男はまた空振りした。
「世界一なんだ。カレーはインドが世界イチィィィ!」
 跳んだ。撃った。空振りした。
「……強情だな、君は」
 根負けして、柊木がため息をつきながら言った。
「そんなに言うなら、これから行こうじゃないか」
 どこへ? と、跳んだ男が言った。
 カレーを食べにさ。と、柊木は答え、ゆったりとした動作で腕時計を見た。
「君たちはラッキーだ。今なら、全種類食べられるぞ」


 * * *


「なるほど。それで、ベイサイドホテルに戻りカレーを食べたというわけか」
 柊木の話を聞き終わり、そう頷いたのはシャノンだった。
 シャノン・ヴォルムス。金髪のヴァンパイアハンターは、いつの間にか『海燕』に来ていて、いつの間にか餃子と紹興酒、それに桃包を楽しんでいた。
「おわっ、いつの間に!?」
「ああ。あんたはこないだの、コメディアンの」
 驚く桑島にも答えてみせ、見知った顔にシャノンは手を上げてみせた。
「違うよ、俺刑事なんだけど」
「まあまあ。……で? カレーは、どうだったんだ?」
 桑島を諌めつつ、フェイファーが柊木に話の先を促した。
「いやあ、それが。なんてことはない。彼らはただの食わず嫌いだったんだ」
 ケロッとした顔で、彼は餃子に手をつけながら続ける。その顔はいつもながらにこやかで、事件のときは全く別人のようである。
「ホテルに戻り、本田くんが作ってくれた世界各国のカレーを、彼らに食べさせたんだよ。そうしたら彼ら、あっさりと自分たちの間違いを認めてね。美味い美味いって、カレーを食べてたよ。カレーは世界各国の家庭の味だからねぇー」

 ──世界イチィィは、家庭の味ってことさ。

 指を立てて言う柊木。その視線の先には、リン少年がいて、彼は言葉の意味を分かったのかニコッと微笑んでみせた。
「あの──」
 と、テーブルの前に、誰かが歩み寄ってきた。皿を手にしたジェフリーだった。
「今、話に上がってたんで、せっかくだから作ってみました。これ」
「おっ! 的士カレーじゃねえか!」
「あの時のカレーか、これはな……」
 ジェフリーが持ってきた品に盛り上がる面々。シャノンはフェイファーに、この的士カレーの由縁を話し出し、桑島は、隣りのルルに、お前も食え食えと勧めている。ネティーはディテクターを取り出して、そのカレーの成分を分析した。
「使われているスパイスの種類は20。最も多いものはターメリックです。シナモン、クミンはともかくとして、スターアニスが入っているのは珍しいのでは?」
「隠し味なんです」
「そうそう、これも美味しかったよねぇー」
 人数分の的士カレーを見て、柊木は微笑んでみせる。
「実は、僕も例の10種類のカレーをいくつか味見させてもらったんだよー。田舎野菜のインドカレー・南国風と、この的士カレーが美味しかったかな。窃盗団の彼らは、グリーンカレーとチーズナンが気に入ったようだったよ。……何しろ、あまりの美味に悲鳴を上げて失神していたからねぇー」
「……」
 女店主が目をパチパチやりながら、柊木を見、首をかしげながらも例のガラスの杯を彼の前に置いた。
「グリーンカレーって、確か王子も悶絶したとかいう……まあ、いいか」
「やあ、僕の話、面白かったかい」
「まあまあ、だね」
 三十年モノ紹興酒を出しながら、取り繕うように不機嫌そうな顔をつくる彼女。いい酒なんだから粗目は入れるンじゃないよ、と付け加える。結局のところ、彼の話が面白かったらしい。
 でも粗目入れても美味しいよ? と柊木が言えば、女店主はダメだダメだと首を振る。
「……あ、本当だ。八角の味がする」
 ぽつりとルルが言った。柊木と女店主が言い合いをしている最中である。隣りにいた桑島は、それを耳に留め、微笑みを浮かべてみせた。
「そうだ、お前あん時イベント会場にいたのに、このカレー食わなかったんだな。……なっ? うめえだろ? 忙しいタクシーの運ちゃんでも、サッといろんな美味いモンを味わえるようにいろんな食材がいっぱい入ってるんだ」
「知ってるわよ」
「トウガラシが丸ごと入ってて、辛さを調節できるようになってっから」
「もう! 分かったから、静かに食べさせてよ」
 まるで世話を焼く父親のようである。そのせいで、苛立ったように返すルルの方も親離れしたい娘に見えてしまう。
「あの時も喫茶店で、コーヒーにはミルク入れないと胃を悪くするとかなんとか。桑島さんっていつもそうなんだから」
「?」
「あ、そっか」
 桑島の様子を見て、ルルは何かに気付いて、スプーンを置いた。
「あの雪の日の夜よ。桑島さん、わたしを見つけて無理矢理、喫茶店に引きずり込んだでしょ」
「エェ?」
 話を聞きつけて、女店主が二人に割り込んできた。
「嫌だねェ、警察官が、そんなデートクラブみたいなことして」
「ち、ちが……っ。だって、俺別に、何もしてない、だろ。話しただけ──」
「やあねえ。覚えてないんだ」
 クスッと笑い、ルルはゆっくりと桑島を見た。
「あのね……」
 話をし始めたのは、ルルだった。元アンチファンの大友ルル。
「雪が降った日よ。わたしがダイモーンから開放された日。あの日、みんなでリオネを探し回ってたでしょ。それでね……」


四杯目 『アムネジア・ニア・ミッドナイト』


 あの夜。昨年の年末ごろの話だ。
 誘拐されたリオネを探すために、銀幕市民が多数集まった夜。
 桑島も対策課に駆けつけた一人だった。白銀のイカロスによると、ティターン神族の一柱“忘却の罠・クレイオス”が、自らのアンチファンである大友ルルを使って、リオネを拉致したのだという。ロイ・スパークランドも大友ルルに会ったという話をした。
「華がない、か。そりゃ、そうなのかもしれねえけどさ……」
 いいのかよ、こんなことして。
 散会する人々の波の中で、桑島は配られた大友ルルの顔写真に向かって問いかける。
 もう一方の手には一通の手紙を持っている。自分自身が、相棒の女刑事、流鏑馬明日に宛てて書いたものだ。
 内容は、アンディテクタブル・フォーと名乗る愉快犯的な窃盗グループの事件のことである。実行犯は3人ではなく4人で、最後の一人の名前が大友ルル。どういうわけか、人の記憶を忘れさせることができると、そこに書いてある。
 桑島は、ルルに会えばそれを必ず忘れさせられると踏んで、相棒に前もって自分の掴んだ情報を渡しておいたのだ。
 そうなんだよ。桑島は、植村とイカロスしか残っていない対策課に、独り残っていた。
 ──俺は、ルルに会ってるはずなんだ。
 口に出してそう言いながら、彼は天井を仰ぐ。
「思い出せ、俺! 思い出せ……!」

 ──どこだ。どこで俺はルルに会ったんだ?
 
 結局、どうしても思い出せず、桑島は外へと足を運んだ。
 深い紫色の空から、雪が降ってきていた。ひんやりとした風に頬をなぞられ、彼は身震いし身体を縮ませる。
 彼は空を見上げ──パンッと、両手で自分の頬を叩く。
「しっかりしろッ」
 自分で言い、歩き出す。刑事は足で稼ぐものだって、いつも相棒に言ってたっけ。そんなことを思いながら、彼は歩く速さを上げた。
 大友ルルを見つけ出してやらねば……という気持ちが、ロイの話を聞いてから特に強くなってきていた。
 ロイは彼女に“華がない”と言ったそうだ。確かに、桑島が覚えている彼女のイメージは白そのものだ。無機質で無感動。優しさではなく冷徹な白。氷の白。ルルは、少しも幸福には見えなかった。
 彼女があんな風になったのは、ロイの言葉だけではないだろう。しかし。
 桑島には、何となく理解できていた。ルルは自らの存在を否定しようとしているのではないか。だから自分のことを皆に忘れさせようとしているのでは──?
「寂しいじゃねえか、それじゃ」
 ふと足を止め、桑島は言う。路地には、うっすらと雪の絨毯が出来上がりつつある。この街も、冷たい白に覆われていくのだろうか。
「クソッ、待ってろよ!」
 幾度となくそうしてきたように、かぶりを振り、桑島はまた走り出した。
 小さな異変に気が付いたのは、スタジオタウンに来た時だった。
 時刻は夜の10時。桑島は道で大勢の男女とすれ違ったのだ。風体からして、映画制作会社のスタッフたちだとすぐ分かる。その中に数人、目を引く外見の者たちがいて、それらは役者たちだと推測できた。にこやかに談笑しながら、それぞれ中心街の方へと向かっている。皆、仕事を終えて帰宅するところに見えた。
 変だ、と思ったのは時間である。食事をして帰るには遅い時間だし、飲んで帰るには早い時間だ。それにこの人数。一つの映画を録るにしては多すぎる。
 撮影所のスタッフが、まるで大勢締め出されたかのような──。
 桑島はピンと来た。
「なあ、あんたたち、どこのスタジオで撮影してたんだい?」
 呼び止めて問いかけ、彼はスタッフたちが今までいたというスタジオの場所を聞き出した。すぐ近くである。
 俺のカンが正しければ──。桑島は、そのスタジオに向かって走った。角を曲がり、まばらな車をやり過ごして道を渡る。オレンジ色の街灯の下を駆けていけば、例の建物が見えてくる。
 そこで、前を白いものがよぎった。
「あっ!」
 大きな声をあげる桑島。
 ショートボブの白いコートの少女。それは期せずして現れた、大友ルルだった。
 声に反応して、サッとルルはこちらに鋭い目を向けた。しかし彼女は桑島の姿を認めても逃げようとはしなかった。唇を噛み、挑むような目をして、彼を待ち受ける。
 桑島は構わず、彼女に走り寄っていた。


 数分後、彼らは付近にあった喫茶店で向かい合って座っていた。
「何か話があるなら、早くしてくれる?」
 わたし忙しいの。冷たい口調でルルは言った。こんな寒い日だというのに、彼女が頼んだものはアイスコーヒー。グラスの氷がコロンと音を立てた。
「お前さ、実家は長野なんだろ。親御さんは元気なのかい?」
 聞きたいことはたくさんあった。言ってやりたいこともたくさんあった。しかし、桑島の口から出てきたのはそんな言葉だった。
 ルルは怪訝な顔をする。
「何でそんなこと聞くの? わたしの両親のことなんか、どうだっていいじゃない」
「どうだってよくねえよ」
「リオネがどこにいるか知りたくないの?」
「それはひとまず、どうでもいい」
 何それ。ルルは鼻を鳴らして笑った。
「あなたは刑事よね。どうでもいいなんて有り得ないわ。──あなたの目の前にいるのは誘拐犯。刑事のあなたは親身になったフリをして、誘拐犯から情報を聞き出す作戦を打ってるのね。そうなんでしょ?」
 ぐっ、と桑島はティーカップから手を離し拳を握った。何かを堪え、次の言葉を口にする。
「確かに俺はデカだよ。でも、刑事っつっても人間なんだぜ」
拳を開き、ティーカップを持ち上げてコーヒーを飲む。「ただの同情なのかもしれねえ。俺にだって分からねえよ。お前だけが特別ってわけでもねえ。でもさ、でも……寂しいじゃねえか」
 カップを置くと、コンと小さな音がした。ルルは無言で、探るような視線を向けてきている。
 ──いつでも逃げることができる。そう思ってるんだろ?
 桑島は心中で彼女に問う。
 ──だから。いや、それなのに、お前は、ここに来た。
「履歴書の記憶も、戸籍も消したはずなのに」
 沈黙に耐えられなかったのか、ルルの方が言った。
「神の力でも、みんなの記憶を完全に消すのは難しいのね」
「デカの特性の一つなんだ。しつこいところはな」
 相槌を打つように口を挟む桑島。
「変な力使われても、俺はお前のこと、しつこく覚えててやっから」
「何よそれ、ウザ過ぎ」
「あのさ。無関係だった奴らが知り合って、つながりが出来て──。それが絡み合って俺らは生きてるんだと思うんだ。この街では特にそうだ。ムービースターだとか、エキストラだとか、そんなこと関係なく、人と人とのつながりが出来ている」
 彼はただ自分が思ったことを聞いて欲しいと思っていた。ルルを見、彼女に届くように話をしていた。刑事としてではなく、一人の人間として。
「俺とお前も、今は刑事と誘拐犯っていうつながりかもしれねぇ。でもさ、俺は、お前を忘れたくねぇって思ってる」
 じっと、ルルは目の前の男を見つめる。
「忘れられたら寂しいじゃねぇか。俺はそう思うんだ。お前はここに存在してて、ちゃんといろんな思いを持ってて、笑ったり悲しんだりしてるのに。みんなに覚えてられないなんて、寂しいじゃねえか。だから俺は覚えていたいんだ。つながりは片方だけのモンじゃねえからよ──」
「時間よ」
 桑島の言葉を遮るように、ルルは立ち上がった。彼女はコーヒーには一口も口をつけていなかった。
「さよなら」
 そう、彼女が言ったとき。桑島は確かに、何某かの色がその瞳に宿るのを見た。
 手を掴もうとして、空を掴む。少女は素早く身体を引いて、桑島に背を向けて店の出口へと向かう。足早に。そして、走り出す。
「お、おい待て──」
 慌てて桑島はそれを追いかけようとして、走り出す。まだ話は終わっていない。そう思っていた。もしかしたらこっち側に帰ってきてくれるかもしれない。そうも思った。
 が、誰かに肩を掴まれて引き戻されてしまった。喫茶店のウェイトレスだ。レシートを手に怖い顔をしている。
「あっ、お会計? ちょっ、あっ、待って!」
 食い逃げをするわけにもいかないと、桑島は慌てて財布を引っ張り出す。見れば、ルルはどんどん走っていってしまう。
「おい!」
 釣銭を握り締めた桑島が店を出たときには、やはり、彼女の姿はどこにも無かった。
 彼はこうして、大友ルルを取り逃がしたのだった。


 * * *


「カッコ悪……」
 女店主は桑島を見、むげな発言を口にした。当人は傷ついたように顔を上げる。
「会計なんか後にして追いかければいいのに。刑事なんだろ?」
「いや、そうなんだけど……まあ、気が回んなくてさ」
 桑島は、ぽりぽりと頭を掻いた。その様子を見て、ルルが隣りでプッと吹き出して笑っている。
「ああそうか。僕たちがあのスタジオに行く前の時間だね」
 思い出すように言うのは柊木である。ネティーもうなづいた。彼らは、桑島のあとにルルをスタジオで見つけ、そしてクレイオスの力と対峙したのである。
 女店主は例のガラスの杯を用意し、桑島とルルを交互に見て──ルルの前にその杯を置いた。
「やった!」
「えっ、ちょっと、俺じゃないの!?」
 はしゃぐルルに、桑島は不満の声を上げる。
「それにお前未成年だろ?」
「残念。ついこないだ20歳になりました」
「でもよぉ」
「忘れたくせに」
 女店主に口を挟まれると、彼はすごすごと引き下がった。
「まあ、そうだよなー。俺、結局、そのスタジオに辿りつけなかったしな」
「……あれ、そうだっけ?」
 ふと、その桑島を柊木が見つめた。何か思い出したように、言う。
「桑島くん、確か連絡くれたよね。ちょうど僕たちがスタジオの中をうろうろしてた頃。今、下にいるって……」
「え?」
 ルルが驚いたように桑島を見る。しかし、当の本人は笑って手を振るだけだった。
「ん? まあ、遅くなってからね。俺、いろいろ探し回ってたんだけどさ、結局間に合わなくて」
 ただそれだけ。桑島は照れくさいように、その話を切り上げた。

 本当は。
 桑島は心の中で、あの夜のことを思い出す。
 本当はスタジオの近くまで来ていたのだ。喫茶店のあと、スタジオのことを忘れさせられてしまったため、また一から探し直していて時間を食い、スタジオに来るのが遅れたのだ。
 遠くから桑島が見たのは、スタジオの屋上から身を乗り出しているルルの姿だった。
 ちょうど彼女が飛び降りようとしていた時だ。
 泡を食った彼は、駆けつけようとして道路を横断し、たまたま通りかかった車に轢かれそうになった。転び、溶けかけた雪で泥まみれになったが、彼は立ち上がりまた走った。そのままルルの真下へと駆けつける。
 ──落ちる! そう思った時。彼女の手を、金髪の男が掴んで引き上げているのを見た。ルルは気を失っていたようだった。
 あいつ、助かったんだ。
 桑島は安堵し、そして自分の台無しになったスーツを見る。
 こんな格好じゃあな。
 彼は、そっとスタジオの傍を離れた。くしゃみ一つ、身震いしながら、彼は誰にも何も告げず、その場を後にしたのだった。

「わ、このお酒すごくコクがある……!」
「そうだろ?」
「……まあ、何にしても、みんなが笑ってんのが一番だよ」
 ちょっと残念そうにルルが紹興酒を飲んでいる様子を見ながら、桑島は穏やかに笑う。彼は本心からそう口にしていた。しばらく桑島の様子に注視していた柊木は、フッ笑った。本人がいいならそれでいいのだ。
「じゃ桑島くん、遠慮なく」
「おう、俺はカレーや桃包を楽しむからいいよ」
 自分の杯を掲げて見せ、柊木が言うと、桑島は笑みを返す。
「なるほど。何か面白い話をすれば、その酒をもらえるというわけか」
 彼らの様子を見て、シャノンが合点がいった様子でうなづいた。まあね、と女店主が言えば、彼は、さて自分は何の話を披露したらよいものかと思案顔になった。
「──ただいまー」
 と、そこで店の扉が開き、二人の人物が顔を出した。
 買い物袋を両手に提げた少年、ジミーと、筋肉質の精悍な男、刀冴だった。
「お客さんだよ」
食材の買出しに出ていた様子のジミーは、にこにこしながら立っている刀冴を斜に振り返り、「商店街で会ったんだ。何だか知らないけど、大根を三本も分けてくれたから連れてきた」
「うちの畑で採れたやつなんだよ。たまたま誰かにやろうかと思ったら、坊主が買出しだって言うんで」
 刀冴は見知った顔に、よおと声を掛けつつ説明した。
「みんなでパーティやってるんだって?」
「そうそう、まあ座れよ」
 上機嫌なフェイファーが彼に椅子を勧めた。彼はいつの間にかチャンパオ(長袍)に着替えており、店の一員のようにも見えた。
 刀冴が腰掛けると、女店主は厨房のジェフリーに的士カレーをもう一つ出してやんな、と声を掛け自分も席を立った。
 彼女はジミーから袋を受け取り、刀冴に短く礼を言うと、彼に何かを出そうとグラスを棚から取り出した。注文も聞かずに、彼は日本酒が好きだろうと決めつけている様子で、どの酒にしようか瓶をいろいろと選び始める。
「何か興味深い話を披露し、その対価として三十年醸造した紹興酒を一杯得るという遊戯をしているところです」
「……まあ、つまりは何か面白い話をみんなでしようぜってこと」
ネティーと桑島が説明すれば、フェイファーがシャノンの顔を見る。「お次は、シャノンの番だぜ」
「そうなのか」
 当の本人は、いつものクールな態度を崩さず応えた。
「俺は美味い酒が飲めれば何でも良いんだが」
 まあ、それほど大それた話はないが、と、シャノンはようやく何かする話を決めた様子で、外から帰ってきたばかりのジミーを見る。
「なら、あの時の戦いの話でもするか」
「え? ああ、あの時の?」
ふいに話を振られたものの、すぐに思い至ったのかジミーもニヤリと笑った。
「あの時はけっこう凄かったよね」
「何が?」
 皆が不思議そうにするのを見て。シャノンは、ようやく話をはじめた。
「そうだな、あれはちょうど一年前の、今ぐらいの時期の話だが──」
 

五杯目 『激闘! 弾丸スマッシュ 真夜中の決闘』


 冬はとくに空が綺麗だ。
 シャノンは経験上、それをよく知っている。
 空気が乾燥しているがために、光が遮られずに星が美しく見えるのだが、彼は自分が過ごしてきた長い時間の間、ずっと変わらず夜空に輝き続ける星を眺めることは嫌いではなかった。
 いつ、見上げてもそこにある安心感とでも言うのだろうか。
 その夜。いつものようなヴィランズ退治の依頼を終えた彼が事務所に戻るときもそうだった。冷え冷えとした夜空には星が瞬いていた。
 独り、愛車を繰るシャノン。
 彼の目の前にも光があった。街灯の少し緑がかった明かりはリズムをもって彼の膝から胸を舐めて通り過ぎていく。前を行く車のテールライトに対向車のヘッドライト。道端の青いネオン文字にはウェルカム。
 少し、寄り道をしようか。
 そう思い、彼はハンドルを切った。心のおもむくままに、道を走らせていけば、街のいろいろな光が目に飛び込み。それが自分の中に浸透していくような気がする。
 シャノンはいつも何かの仕事をこなしていた。数々の厄介事は映画の中とさほど変わらず、この街での生活も一年半ほどになっていた。忙しくしていると、独りで無心に還る時間も取れない。
 こういうのもたまには良いか、そう思い彼は車を流していく。
 信号の明かりが青から黄色へ。そして赤へと変わる。
「おや?」
 車を停車したシャノンは、ふと前を横断している人物に気付いた。
 小さな影。うつむいてズボンのボケットに手を入れて歩いている。あれは──。
「おい、ジミー」
 シャノンはそれが知り合いであることに気付き、窓を開けて声を掛けた。呼ばれた当人は顔を上げてこちらを見る。
「こんな時間にどうしたんだ」
「どうしたって」
 ジミー・ツェー。卓球をテーマにした伝奇アクション映画から実体化したムービースターの少年だ。見た目とは違い、かなりの凄腕だということをシャノンは身をもって知っている。
「──べつに」
 彼は、ぼそりと応えた。つい先日、杵間山でのホテル爆破未遂事件まで彼はヴィランズ集団の一員だった。あの事件でその集団──金燕会が崩壊し、ジミーはそれを機に犯罪から足を洗ったはずだった。
「た、ただのバイト帰りだよ」
「バイト?」
 何か言われると思ったのか、ジミーは慌てて付け加えた。そういえばとシャノンは思った。あれから数週間。ジミーは今、一体、何をしているのだろう。
「なら家まで送ろう。乗っていけ」
「いいよ別に、一人で帰れる」
「そう言うな」
 ドアを開け車外に出たシャノンは、半ば強引にジミーの腕を掴み車へと乗せていた。
 車を発進させて彼は思った。送っていくとは言ったものの、住んでいる場所すら何処だか知らない。
「お前、今どうしてるんだ?」
「べぇつに」
 ジミーは先ほどと同じように言う。話したくないといった様子満々だ。
「どこに住んでるんだ」
「ABCアパート」
「そりゃ何だ。ちゃんと説明しろ」
「もーうるさいな。バイトしてんの、中華料理屋で」
 シャノンに根気よく突っ込まれ、仕方ないとジミーはようやく説明を始めた。
「皿洗いとか野菜切ったりとか。アパートは、そこの店長の持ち物だよ」
「そうなのか?」
 疑うわけではないが、と言い添えてシャノンは隣りの少年を見る。
「お前は、まだ中学生だろう。よく雇ってもらえたな」
「店長がボクの映画のファンなんだよ。だからいろいろ良くしてくれるんだよ」
ジロリとシャノンを見返すジミー。「ボクは子供じゃないし弱くもない。自分のケツぐらい自分で拭ける」
「そうか。──何はともあれ元気にやってるんだな」
 シャノンが言うと、会話が途切れた。
 ジミーも黙って車窓に目を移している。シャノンは車を運転しながら、時計に目をやった。まだ夜は長い。しかも今日はこの後予定は何もない。
 すこし寄り道をしていこう、先ほどそう思ったではないか。ならもう少し時間をつぶしていっても良い、か。
「なあ、もう少し付き合え」
「え」
「イチゴポッキーでもやるから」
 シャノンは返事を待たず、ハンドルを切った。


 着いた場所は、銀巻市市民体育館だった。
 ただし深夜の体育館は明かりもなく、門の鍵も閉まっている。
「こんなトコ来てどうすんのさ」
「まあいいから着いてこい」
 門に手を掛け、ひらりと飛び越えてみせてからシャノンが言う。スタスタと彼が行ってしまうのでジミーも仕方なく彼に習って門をひょいと飛び越えた。
「──まだ勝負がついてなかっただろ」
 鮮やかな手つきで体育館の鍵を開け、中に進入したシャノンは照明を点けた。目が慣れてきてパチパチやっている少年を見て、何かを放った。
 パッと受け取るジミー。
 それはピンポン玉だった。
「前はダブルスだったし、少しアンフェアだったからな」
「卓球やろうって……の?」
「ああ、今度は真剣勝負でな」
 彼はニヤッと笑い、さらに言う。その言葉に、ジミーはいぶかしげな目をした。話している間にもシャノンは卓球コートの方へ向かっている。
「改めてシングルで勝負したいと思っていたんだ。あのまま勝ち逃げするんじゃ面白くないからな」
「やめた方がいいんじゃないの」
 するとジミーもようやくシャノンの意図を悟ったのか。不適な笑みを浮かべてみせた。
「言ったろ、ボクはプロなんだから。素人に負けるわけがない」
「素人かどうか、やってみなくちゃ分からんぞ」
「へえ」
 ジミーは懐からチタン製のラケットを二つ取り出し、片方をシャノンに放った。
「何にも仕掛けはないよ。条件は同じだから貸すよ。それにサーブもそっちからでいいよ」
「分かった。これを使わせてもらおう。先に11点取った方が1ゲームを取るんだったな」
「そう。3ゲーム制ぐらいでいいんじゃないかな。もちろん2ゲーム以上取った方が勝ちね」
「いいだろう」
 小さな卓球のコートで向かい合った二人。
「行くぞ」
 シャノンはラケットでサーブを打つ。コンッという澄んだ音が体育館に響いた。


 食らえ! とジミーが叫びラケットを振るえば、無風の室内に豪風が吹いた。ドライブのかかったうねるボールが小さなコートを壊さんがばかりにバウンドしシャノンに襲い掛かる。
 ヴァンパイアハンターは、床を蹴り飛び上がるようにしてボールを打ち返す。風圧と勢いでネットが千切れるほど引っ張られた。コートの大きさをはるかに超える距離から打ち返された小さなピンポン玉は、猫の額ほどのスペースでバウンドしジミーに牙を剥く。
 少年は何度もバック転しながら後退し、自分の頭上を越えたボールに追いつくとそれをまた打ち返す。
 二人とも恐るべきコントロールに、恐るべき威力だった。
 それはとても卓球の試合には見えなかった。
 ラリーは続き、息を付く間も無い。
 1ゲームを先取したのはジミーだった。さすがはプロ。少年は相手のラケットに食い込むようにドライブをかけるテクニックで、ボールを何度も床にめり込ませた。
 対するシャノンは身体全体のバネを使ったスマッシュを武器にして、卓球台をいくつか破壊した。ジミーですら視認不可能なほどのスピードスマッシュである。これで彼も1ゲームを取った。
 おかげで3ゲーム目が長くなった。
 ひたすら続くラリー。卓球をしているとは思えない衝撃音を響かせながら二人はラケットを振るい続けた。
 そして。

 一日が経ち、三日の時間が経った。

 それでもまだ勝負は付かなかった。
 昼になれば、何が起こってるんだとばかりにギャラリーが周りに付いて二人の勝負を見守り、夜には帰っていった。卓球台が壊れた時だけが休息の時間だ。日をまたいでも、二人は勝負がつくまでゲームを続行し続けた。
 拮抗していたゲームのバランスが崩れたのは、三日目の深夜だった。シャノンがロケーションエリアを展開し、辺りが闇に包まれたのだ。中世ヨーロッパの中央に存在していたという黒い森のような深い漆黒の闇。その中でジミーもロケーションエリアを使った。
 闇の中を閃く稲妻の光。彼らは地上からせり出した二つの岩山の頂点に立っている。
「──見つけた!」
 カンッ!
 暗闇に吸い込まれたかに見えたボールは、ジミーのラケットの上にあった。少年は渾身の力を込めてボールを打ち下ろした。コートは遥か下にある。それをワンバウンドで打ち返すのは不可能に近い。
 だが、岩山から飛び降りたシャノンはそれを追った。
 彼の伸ばした手の先。ラケットに、その白いボールが触れて──。
 勝負があった。 
 二人のロケーションエリアが解けた時。ジミーの足元に、コロコロとピンポン玉が転がったのだった。

「今回も、俺の勝ちだな」
 
 シャノンは、肩を鳴らし、ふうと一息ついてラケットをコートに置いた。もう勝負は終わったのだ。ジミーは、全力を出し切ったのか。悔しそうな様子を見せることもなく素直にうなづいた。
「そうだね。あれを打ち返されるとは思わなかった」
「結構楽しかったな」
「ま、そこそこ、ね」
 ジミーは、しかしラケットを持ったままシャノンをじっと見上げていた。何か聞きたいことがありそうで、彼は不思議そうに少年を見返す。
「あのさ、さっきの」
「うん?」
「森みたいなところは、一体どこなの?」
 自分のロケーションエリアのことを言っているのか。シャノンは、あれは──まあいいじゃないかと口を濁す。
「あんな闇の中をずっと生きてきたの?」
「まあな」
 何かを感じ取ったのか。ジミーは執拗に質問を続けた。
「独りで?」
「そうだ」
「さみしくないの?」
「寂しい、か」
 ふと微笑みを浮かべ、シャノンはゆっくり首を振った。
「忙しくて、そんな気分になっている暇がなかった」
「ほんとに?」
「何しろ、死ぬのも忘れちまったぐらいだから」
 そう冗談めかして彼が言うと、ジミーも笑った。そんなわけないじゃん、と言う少年の頭を、シャノンはポンと叩く。
「これくらいなら幾らでも付き合えるから、気が向いたら適当に連絡をくれ」
「ま、そうだね」
 三日間の激闘を終えた二人はお互いの顔を見て微笑み、そして自然に握手を交わしていたのだった。


 * * *


「……とまあ、そんなわけだ。なかなかの勝負だったぞ。体育館を少し壊したんで後で請求書が回ってきたが、そのことを差し引いても面白い勝負だった」
 シャノンはそう締めくくって皆の顔を見回し、最後にやはりジミーのところで目を留める。
「もっとも、まさか自分を背中からサブマシンガンで蜂の巣にしたヤツと、こうして一緒にメシを食ったりすることになるとは思わなかったがな」
「もう、そのことはよしてよ」
 初対面の刺激的すぎる出会いのことを話題にされ、照れたようにジミーはパタパタと手を振る。
「へえ。じゃあ、あれから何回か勝負してるンだね」
 少年の元ボス──女店主が、例の紹興酒の杯を持ってやってきた。彼女は迷うことなく、シャノンの前にそれを置いた。
「あたしも実はジミーと何回か卓球したことあるんだ。ほとんど、あたしが勝ったけどね」
 こいつは詰めが甘いんだ。と、女店主はコツンとジミーの頭をこづく。やはり照れたようにジミーは笑った。
 シャノンも笑って、杯を傾けた。酒が好きな彼も、味わうように何度も口をつけている。
「三日間も戦ったのかよ。卓球ってスゲエ競技なんだなあ」
 そこで刀冴が感心した様子で言った。
 ファンタジー映画から実体化した彼は、現代のスポーツ競技についてはよく知らなかったので、二人の勝負が標準的なものだと思ったらしい。
「違うよ、兄ちゃん。普通の卓球はそんなんじゃないよ。二人のが特別だったの」
 と、彼の横でリンが口を挟んだ。小さな少年はパズルを組み立てていた手を止めて刀冴を見上げている。
「僕もジミーにすこし卓球を習ってるんだよ。火山とか湖の上とか、電柱の上とかで戦ったりしないよ。コートでピンポン玉を打ち合うの」
「そうなのか」
 刀冴は大きな手で、リンの頭を撫でた。
「リンは小せぇのに、やっぱいろんなこと知ってんな」
「ちょっとだけね」
 得意そうな少年を見て、ふと刀冴は彼が先ほどまで熱心に取り組んでいた天然木のパズルに目をやった。
 それは既に完成していて、小さくて丸い真珠色のメダルが上に乗っていた。
「あ、これ……」
刀冴はそのメダルに見覚えがあった。そっと指でつついて、「懐かしいなあ、これ、海でもらってきたヤツだろ」
「わっ!」
 何故か慌てて、リンは目を見開いた。
「ダメダメ、その話、媽々には──」
「??」
 しかしさっそく母親が反応した。彼女は、自分の幼い息子が、刀冴をはじめ様々なムービースターに遊んでもらっていることを知っていたが、どうもその話は初耳だったようだ。
「お前たち、どっかに行ってきたのかい?」
「なんだ、母ちゃんにはあの冒険のこと話してないのか」
「冒険?」
 わー、とかダメ! などと慌てているリンを面白そうに見て、刀冴は女店主が出してくれた日本酒の小さな杯をくいっと一杯飲む。
「いや、昨年の夏なんだけどよ。そこの砂浜でさ──」
 そうして、彼は気さくな笑みと悪戯っぽい色をその瞳に宿し。自分の体験を話し始めた。


六杯目 『真夏の大冒険』


 最初は、海辺で二人はビーチボールで遊んでいたのだった。
 刀冴は──星翔国の将軍で、天人の血を引き、恐るべき力を秘めた剣士である彼も、目の前に敵がいなければ、ただの朗らかな青年である。彼はたまに海が見たくなった時に『海燕』に寄り、女店主の小さな息子リンと遊んでやっていた。
 映画の中でも、銀幕市に来てからも、彼にとって悲しい事件はたくさんあった。
 しかし青い海を眺めたり、この無邪気な少年と遊んでやっていると、こんな世の中でも、悪くはないなあと思い笑顔になれるのである。
 だから、彼はちょくちょくここへ来ていた。
 その日は夏で、とても暑い日だった。女店主が買出しに行くと言い居なくなり、刀冴とリンは二人で遊んでいた。以前、力の加減が分からずにビニールのボールを破裂させ、彼はリンをぷりぷりさせたことがある。だから、なるべくそっと打ち返してやっていた。
 が、それでも加減が出来ないときがある。
 海の方へと飛んでいったボールを追いかけていったリン。悪りぃ悪りぃと、それをゆっくり追いかけた刀冴は、ボールを持ったリンが沖を眺めて立ち止まっていることに気付いた。
 どうした、と声を掛けてすぐ。刀冴にもその理由が分かった。
 すぐそこに、大きな魚らしきものが横たわっていたのだった。
「これ鯨だよ、きっと」
「クジラ?」
「うん。このへん浅すぎるから、帰れなくなっちゃったんじゃないかな」
 リンは幼いながらも、利発な少年だった。刀冴もその生き物の様子を見て頷く。
 二人は相談し、刀冴が沖に引っ張っていってやることになった。彼の力なら鯨を持ち上げることなど簡単だ。浮き輪を使って泳ぎながらリンが脇を付き添う中、刀冴はその鯨の尻尾を掴み、すいすいと泳いで沖へと泳ぎ出していく。
 事件が起こったのはそんなときだった。
 ──ザバァッ! 
 何もなかった穏やかな海上に突如何かが波を割って出現したのだ。大きな黒山のようなものは、どんどん大きくなりがらまっすぐに二人に向かってくる。それが一体何なのか全貌を見ることができないほど大きなものだ。
 きゃーっと悲鳴を上げるリン。刀冴はまずは少年を守ろうと、咄嗟に動いた。
 泳ぎの得意な彼は、逃げようと少年の浮き輪を掴む。
 だが──遅かった。
 二人の頭上が、あっという間に黒い影に覆われた。異臭とゴオオオオという轟音が耳をつんざく。何がなんだか分からない間に、彼らの視界は真っ暗になり波に呑まれたかのように水流に巻き込まれる。
「わああっ!」
 水の中で、その後は悲鳴を上げる間もなかった。二人の身体はぐいぐいと水の中に吸い込まれていった。


 刀冴に助けられ、リンはプハァッと水面に顔を出す。そこは薄暗い空間だった。ひとまず泳いでいけば、岸にたどり着いた。
 ただしその床。どういうわけか、生暖かかい。
「きっと、あの鯨の媽々のお腹の中なんだよ」
「??」
 一息ついてリンが言う。あたりが真っ暗なので、刀冴が持っていた短刀の先に明かりを灯していた。さすがの武人も、海辺で遊ぶ時に帯剣したりはしない。彼はほぼ丸腰だった。
「おっきな鯨に飲み込まれちゃったんだよ、僕たち」
 刀冴が首をかしげているので、リンはもう少し分かりやすいように言った。何がなんだか分からなかったが、大きな生き物の腹の中ならば床がピンク色で生温かいことも納得できる。
 そうなのか、と刀冴はうなづき、しげしげと床の様子を確かめたり、周りを見回したりしている。
「この腹を突き破れば外に出れなくもねえが……」
 生き物と聞いてしまうと、刀冴もそれを実行するには気が引けた。
「すこし厄介なことになっちまったなあ」
 どうしたものかと思案すればリンが寄ってきて、指をなめていろいろな方向に向け始めた。
「? リン、何してんだ?」
「風が吹いてくる方向を探してるの」
「そうか、空気が入ってくる方向が──」
「出口ってこと」
 刀冴に向かって、にっこり微笑むリン。行こう、と彼らは歩き出す。
 しばらく歩いていくと道は複雑でどんどん分岐していった。そのたびにリンが風をみたり、空気の匂いをかいだりして道を選んだ。
 この調子なら、時間をかければうまく外へ出られそうだ。
「!」
 そう思ったとき。前方を歩いていたリンが足を止めた。
 刀冴は目の前の暗闇から、青白い影が数体、浮かび上がってくるのに気付く。
「これは……!?」
 骨だけになった人骨に青白い光が灯っているのだった。ゆらゆらと歩いていたそれはシャァーッと声を上げて二人に襲い掛かってきた。
『ここから先は行かせんぞォーッ』
「なんだてめえたちは!?」
 そうなれば刀冴は早かった。サッと伏せたリンの身体を飛び越え、彼は一足飛びにステップを踏み骸骨たちに斬りかかった。
 ガツッ。ゴツッ。カシャァァン……。
 床に叩きつけられ、その場に崩れ落ち、骸骨たちはあっけなく四散した。なんだこれは、あまりにも味気ない──。刀冴は腑に落ちない様子でそれを見下ろす。
 そこへリンが走ってきて、ひしと刀冴の足に抱きついた。見れば、じっとその残骸を見下ろしている。いきなり襲われるとは思ってもみなかったのだろう。
「怖いか」
「うん」
 尋ねればリンは素直に答えた。必要以上にビクビクはしていなかったが、強がっているわけでもなかった。
「僕、兄ちゃんみたいに強くないもん」
「そうか。でもな」
 刀冴はリンの手を引き、歩き出しながらそっと声を掛ける。
「強いからって、怖くねえわけじゃねえぞ。俺だって怖えぇ時はたくさんある」
「そうなの?」
「そうさ。人間だからな」
 彼は少年を安心させるように、優しく微笑んでみせた。
 大切な者たちが目の前からいなくなったら──。そんなことを考えた時、怖くならないと言ったら嘘になる。たぶん、怖いのは自分がそれらを深く愛しているからだと、刀冴は思う。愛しているものを守りたくて。彼はその二本の足で、大地に立ち続けているのだ。
「だから、俺たちは協力するんだ。なっ? リンと俺で力を合わせれば、こんなとこすぐ抜け出せるだろ?」
「──うん」
 みるみるうちに少年は笑顔を浮かべる。その顔を見て、刀冴も嬉しくなって目を細めた。
 彼もきっとこれから知るのだろう。誰かを深く愛するということを。

『侵入者どもめ! この扉を通りたければ──』
 ──ドガガッ。
『出でいけ、この──』
 ──ズジャァッ! ズガッ!
『こ──』
 ──ガゴッ。ドガッ!

「ちょ、ちょっと待って、兄ちゃん」
 進んでいくにしたがって現れる悪霊や骸骨たち。それを片っ端から素手でブン殴り、蹴散らし、片付けていく刀冴にリンが待ったをかけた。
「ん?」
「何か変だよ、ここ。なんだか──ゲームの中みたい」
「ゲーム?」
「えっと……つまり、本気じゃないってこと。いろんな難関をクリアしていくと僕たちは外に出られると思うんだ」
 リンは話しながら、前へと進んでいく。二人はちょうど次のチェックポイントのような場所に差し掛かっていた。
「ほら、あれを見てよ」
 そこは、高い台座の上にコップが三つ置かれている部屋であった。次の部屋に行く扉の前には、大きな水瓶があって、そこに何か書いてある。
「つまり。何かのハザードに巻き込まれたんだよ」
「そりゃそうなんだろけどよ。……んー何だか、こういうのって初めてだな俺」
「僕もだよ」
 リンは、近寄ってその文章を読んだ。そしてこれが“ルール”なのだと言う。刀冴にはチンプンカンプンだった。
「その台座の上のコップで水を汲んで、この水瓶をピッタリ満たさなくちゃならないんだって」
「そうすると?」
「次に部屋へのドアが開く」
 考え込みながらリンは丁寧に説明してくれた。
「水瓶を満たすには11パイントの水が必要なんだけど、コップは7パイント・5パイント・3パイントのものだけしかない。それを使わなきゃいけないんだ」
 簡単な算数の問題である。
 だが、刀冴はとにかくこういうシチュエーションに慣れていなかった。
「まず7パイント入れるだろ? そしたらあとは4パイントか。うーん無理だな」
「ん、最初に5パイント入れてみたらどうかな? 残りは6パイントだよね」
「どれかで6パイント作ればいいんだよな。……あ、そうか」
 二人は顔を見合わせて、ニカッと微笑んだ。
 ──3パイントで2回注げばいいんだ!
 同じことを二人で言い、小躍りする。
 その後は、リンが汲んできた水を背の高い刀冴が水瓶の中へと注いだ。5パイントを1回、3パイントを2回分である。つまり一番大きいコップはダミーだったということだ。
 ズズズとゆっくり開く扉。それを見て、ようやく刀冴は一息ついて隣りのリンを見る。
「ようやく分かってきたよ」
「何が?」
「こういうのが、ゲームってやつなんだな」

 
 二人はそれから、迷路のようになっている鯨の腹の中を歩き回り、出口を目指した。
 骸骨にまた襲われたり、さらに奇妙なパズルのようなものを解いたりもした。そうしているうちに、二人は広いホールのような場所に出た。
『よくぞここまでたどり着いたなあなあなあ!』
 ここは一体と思ったとき、誰かの低い声がホールに響き渡った。そして、ズゥゥンと足音をさせながら姿を現したのは巨大な山ほどの大きさのあるイカだった。
「うわあっ!」
 あまりの大きさに驚くリン。隣りの刀冴は、身構え間合いをはかった。
 さすがに短刀一本であれを相手にするのは辛いか。彼はリンを守りつつどう戦うか、頭の中で算段し始める。
『このわたしを倒してみよみよみよ。さすれば元にいた場所に返してやってもよいよいよい』
「上等だ! 行くぞ」
 大きな響く声で言う巨大イカ。そびえ立つような大きさだ。優に刀冴の5、6倍の体長はあるだろう。その表面はぬめぬめとして白く光っており、拳や蹴りは滑ってしまいそうだった。
 しかし。こいつが最後の敵なのだ。
 リンに伏せてろと言い残し、意を決して刀冴は跳んだ。
 巨大イカの目を狙って彼は短刀を突き出し──。


 * * *


「──え?」
 拍子抜けしたように、桑島が言った。
「そ、それで?」
「終わりだよ」
 済ました顔で言うリン。
「兄ちゃんの一撃であっさりイカは真っ二つ。それで僕たちはこの記念メダルをもらったの」
「記念メダル?」
「そうなんだよ。ゲームクリアおめでとう、とか言われてさ」
刀冴も頭をポリポリと掻く。「なんてぇんだ。あれ、マジにやるもんじゃないらしいな」
 彼は自分が真剣に斬りかかってしまったことが、少しだけ恥ずかしかったようだ。
「いやあ、そういうとこが刀冴くんらしいね」
 柊木がそう言うと、ほかの面々もドッと笑った。刀冴はさらに照れくさそうに苦笑いする。
「──リン」
 とはいえ、一人だけ笑わなかった者がいた。女店主だ。彼女は怖い顔をして自分の息子を見下ろした。
「そんな話、初めて聞いたよ」
「ご、ごめんなさい。だって……媽々が聞いたらびっくりするだろうし」
「まあまあ、いいじゃねえか」
当の刀冴が、なだめるように口を挟んだ。「リンは母ちゃんを心配させまいと思って言わなかったんだろ?」
 彼は弁護するように、小さなリンの頭を撫でる。
「怪我もしなかったし。結構ワクワクして、楽しかったぜ。なっ? そうだろ」
「うん」
「……。あんた幾つだよ」
 息子を叱ろうとしていた彼女は、思わずプッと笑ってしまい表情を崩した。もう、しょうがないねえ。と、すっかり叱る気をなくした様子で息子の頭をくしゃくしゃやると、席を立った。
 もちろん戻ってきたときには、三十年モノ紹興酒の杯を手にしている。
「ウチの息子が迷惑かけたみたいだね。これはその礼も兼ねて」
「いいや、そんなのお安い御用だ」
 彼は嬉しそうに酒の杯を手にした。じゃ、というと他の者も皆、杯を掲げてみせる。


「──乾杯!」


 改めて、皆で杯を合わせ飲む酒は格段に美味かった。
「色々あったけどさ。いいトコだよな、ここってさ」
 ふとフェイファーが言った。皆、それが銀幕市のことを指しているのだと分かり、少ししんみりした顔になった。
 こうして笑って話せるのもあとわずかなのだ。
 神の子の魔法も、長くは続かない。そんなことを何となく皆分かっていたのだった。だからこそこうして思い出話に花が咲く。
「あたしも以前にはいろいろあったけど」
 女店主も静かにリンの頭に手を置き、言った。
「この子にここで会えるなんて思わなかった。映画の中にはなかった、いい思い出をもらっちまったね」
 元ヴィランズだった女は静かに笑みを浮かべながら、ただただ息子の顔を見る。それにつられてか、周りの面々の顔にも自然と笑みが浮かんでいた。
「そうですね。ここへ来てから、毎日が刺激的な経験ばかりです」
「俺なんか、人生が180度変わっちまったみたいなモンだよ」
 ネティーがうなづき、桑島が言う。
「愉快なヤツと知り合えたしな」
「たとえば俺とか?」
 シャノンが口を開くと、フェイファーが茶々を入れた。
「自分がここで変わっていくのも面白いっていうか」
「そうだね。いろいろ気付くこともたくさんあるねぇー」
 刀冴の言葉に笑顔で相槌を打つ柊木。
 みんなが笑った。それも、とても幸せそうに。

「──嫌だねェ、みんな。まだ終わりじゃないよ」

 女店主が面々の顔を見回して、最後に言った。
「まだ祭りは続くんだ。さあ、次に話すのはどいつだい?」 
 


                       (了)




クリエイターコメントありがとうございました!!

少しお届けが遅くなってしまった上、ボリュームがけっこう増えてしまいまして読みにくいかもしれません。
申し訳ありませんでした。

六名様のちょっといい話を、オムニバス形式で追う形になりました。
以後、簡単に各話にコメントと御礼を。

一杯目 『世界の果て』 /フェイファー様
…実体化したばかりのエピソード。すこしわたしなりのドラマを加えてみつつ演出してみました。
というか最近ご結婚されたというのに昔の話で恐縮です……。天から落ちる天使って絵になるよなあとか思いつつ。

二杯目 『だから、戦う』 /ネティー・バユンデュ様
…レヴィアタン戦で盾崎さんという渋い組み合わせでした。地味に渋くいってみたつもりなのですが、いかがでしょうか。ちなみにネティーさんのディテクター、大好きです(笑)。

三杯目 『世界イチィィ! は、どこの味?』 /柊木 芳隆様
…なんと意外なカレークエストでした。詳細な設定をいただいたのですが、わりとざっくり切り出させてもらいました。。柊木さんの二面性を演出させていただいたつもりなのです。

四杯目 『アムネジア・ニア・ミッドナイト』 /桑島 平様
…わたしのつい先日のシナリオでのアナザーストーリーということで、大変楽しく書かせていただきました。ひかえめなプレイングを書かれていましたが、実はあそこに居たということでいいかな、と。独りだけ紹興酒もらえなくてスイマセン。でもオイシイかな? と。

五杯目 『激闘! 弾丸スマッシュ 真夜中の決闘』/シャノン・ヴォルムス様
…一番テンション高い題名ですが、大好きな荒唐無稽アクション。ご指名ありがとうございます。ジミーともどもアクションもので楽しませていただきました。

六杯目 『真夏の大冒険』 /刀冴様
…リンと一緒に大冒険ってことで、彼の存在が銀幕市の奇跡のひとつかなあと思い、未来を担うということで最後に回させていただきました。ほのぼのな大冒険。出番自体は少なくて申し訳なかったです。


何か間違っている箇所等々ございましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。
いろいろ楽しい思いをさせていただいてありがとうごさいました!
公開日時2009-03-29(日) 13:50
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