★ 彼の思い――咲き誇れ、木花開耶姫 ★
クリエイター桐原 千尋(wcnu9722)
管理番号645-7678 オファー日2009-05-25(月) 21:46
オファーPC 旋風の清左(cvuc4893) ムービースター 男 35歳 侠客
ゲストPC1 藤花太夫(cbxc3674) ムービースター 女 18歳 吉原の太夫
<ノベル>

 銀幕市内にある住宅街の一つでは今日も穏やかな一日が始まろうとしている。
 ここでは当たり前となったが、市街から訪れた人はやはり驚くだろうこの住宅街。一般的な、極々普通の町並みの中では住人と獣人が朝の挨拶を交わし、背中の羽根を羽ばたかせ飛びたつ人影や不思議な衣装を纏い杖や剣を携える人々が闊歩している。
 一件の家の前に黒い、おおきなリムジンが停まる。見るからに、あぁ金持ちの車だなとわかるぴかぴかに磨かれた車のドアが白い手袋を付けた運転手に開かれると、揃いの紅い着物を纏った小さな子供が二人、ぴょいと飛び降りた。開かれたままのドアを挟むように向かい合わせに立ち、運転手の真似をするように頭を下げる。日常的に着物を着る人が見れば二人が着ている着物が良い生地を使っている、仕立ての良い物だと解るだろう。
 現代的な車から時代錯誤な子供が二人降り立ち、恭しく頭を垂れる様子に通行人は歩みを止め、近所の人は様子を伺いだす。いくら不思議な事に慣れた銀幕市民とはいえ、このミスマッチは何事かと気になるらしい。
 人々が様子を伺う中、車からすっと足が伸ばされる。漆喰の三枚歯の下駄がゆっくりと地面に降ろされ、車からその人が姿を表すと辺りからは溜息や感嘆の声が漏れた。
 白粉の上で艶やかに輝く紅い唇。ほつれ一つ、歪みなく結い上げられた髪には幾つもの櫛と花飾りが並び、櫛先から流れる飾り紐にもおおくのつまみ細工の花弁が施され、生花のように美しくゆらゆらと揺れている。纏っている着物もまた豪奢だ。綺麗なその着物は素人目にみてもとても高価なものだとわかる。金糸や銀糸をおしげもなく使われ美しい模様が描かれた着物と、襟元から覗く無地の長襦袢の絶妙な色合いが、白粉を塗ったうなじをまた際立たせた。身体の前で大きく結ばれた帯もまた、美しい織物だ。 
 誰もが目を惹く簪や着物を纏う女性は、さらに美しかった。煌びやかな簪も鮮やかな色彩踊る着物も全ては彼女の美しさを引き立てる為にあるようだった。
 ――藤花太夫
「わざわざ送っていただいて、お手数おかけしんした。わっちは歩いていくといいんしたが、こなたの子達がどうしてもダメだといわすものでありんすから 」
 ドアを開けた運転手に向け藤花太夫が丁寧にそう言うが、運転手はにこやかに微笑むだけで、変わりに口を開いたのは藤花太夫の両脇に立つ禿<かむろ>の千鳥と雲雀だった。
「三つ足履いてる太夫の歩みでは清左さんにお会いできんせんまんま帰路に就くことになりんす」
「道中ではないんでありんすから夕刻にお邪魔するわけにもいかないでありんしょう」
「いかほどわっちでも内八文字では歩きんせんよ?」
「それでも、でありんすぇ。 ほらほら、清左さんにお会いになるんでありんしょう?」
「そうでありんした。ではぁ千鳥、雲雀、参りんしょうか」 
 どこかおっとりとした風に藤花太夫が言うと、運転手はまた深々と頭を下げ車と共に帰っていく。藤花太夫と二人の禿が扉の前に立てば、どこからともなく「藤花太夫のぉ〜〜、おぉなあぁ〜〜〜りぃぃぃ〜〜ぃ」と、声がした。
 インターホンを鳴らさずとも太夫の来訪を告げる声が響き扉が開くと、太夫はふわりと微笑んだ。




 いつもより桜の開花が早かった銀幕市では、まるでそれに合わせたかの用に千本の桜が満開に咲き乱れるハザードが現れた。特に危険もないと言われるそのハザードは和風庭園の趣があり桔梗と菖蒲、柿や金柑や夏みかんの花、芍薬と水仙に椿、雛菊や牡丹からアイリスやアネモネ、カーネーション、クレマチスとゼラニューム、バラ、フリージア、ラナンキュラス等の外来種の花も含め挙げればきりがない程の花が、艶やかに、そしてひっそりと咲き誇っている。
「わっちも聞いた話でありんすが」
 藤花太夫が言うには春に咲く花が全て咲いているという。皆で賑やかに騒ぐより二人っきりで、もしくは家族水入らずでゆっくりと桜を楽しみたい人達が訪れるようになっているようで、賑やかというよりは微笑ましい光景が広がっていた。
 一歩一歩を確かめるように、藤花太夫のゆっくりとした歩みに歩を合わせる清左はその風景を眩しそうに目を細めて眺める。
「あぁ、いい日よりだ」
 清左の言葉に、藤花太夫は小さく頷いた。底が見えるほど透き通った小川の傍を歩く二人の足下で小さく光が灯り、芽吹く。二人が歩く道を沿うようにツボスミレが、鈴蘭やチュウリップが、少し先を歩く千鳥と雲雀の傍では紫蘭やヒヤシンス等があっというまに花を咲かせる。
「まぁ、まっこと不思議な場所……でも、どこか懐かしぃて……」 
 藤花太夫の言葉に、清左も頷く。藤花太夫が懐かしいと言ったのも、彼女が産まれ育った場所に似ているからだろう。それは、清左にとっても同じだ。道といえば聞こえは良いが、舗装などされていない砂利道を歩くと、草履越しに伝わる土の感触が懐かしかった。ぶつかるのではとひやひやするような車の騒音も、青空を遮る電柱も無い。機械や科学の存在しないこの庭園に着物姿の二人はとても自然に溶け込んでいた。それが、当たり前のように。二人はただ静かにゆっくりと景色を、二人でこうして出かけられる喜びを噛み締めた。
 ふと清左が前を見ると、千鳥と雲雀の二人が随分遠くにいた。二人とも辺りの景色や花に見惚れ、右や左に蛇行してはいるが、茶屋のような紅い敷物が敷かれた椅子と日除けの傘の下に向かっている。距離的に藤花太夫が一休みする場所で待っているのだろう。
――さすが藤花太夫の禿だ――
 小さい子供といえど花形藤花太夫お付きの禿。楽しむ事より藤花太夫を第一に考えて行動しているその姿に清左は一人感心していた。
「太夫、少しいそぎや……しょう…………」
 清左が太夫を振り返ると少し強い風が吹き、辺りの桜から花びらが流れ落ちた。白の中にほんの僅かな赤を落としたような淡い色の向こうに、柔らかく微笑む藤花太夫が立っている。ひらひらと舞う花弁と一緒に簪の飾り紐が揺れ、水辺のダンスパーティの時との、あの藤色のドレスを纏った時とはまた違った美しさで、凛と立っている。藤花太夫との間に流れるその色を見て清左はあぁ、桜色とはこういう事なのか、と思う。
 見惚れていた
 桜吹雪も、微笑む太夫にも
 幻のようなその美しさに
――いっそ、このまま          ―― 
 その姿をずっと見ていたい、と願いながら、清左は一つしか無い瞳を閉じる。
 瞬きを一つ、それだけだった。だが、そこに藤花太夫の姿は無かった。
「た……ゆう?」
 清左が間の抜けたような声で藤花太夫を呼ぶ。返事は返ってこない。ひやり、と清左の背中に冷たい物が走る。
「太夫……! 千鳥! 雲雀!」
 先に歩き、藤花太夫の為にと休憩所にいたはずの二人の姿もなく、静かに立てられた日除け傘が真っ赤な敷物が敷かれた椅子に影を作っている。慌てて辺りを見渡すと自分たち以外にも居たはずの人も居ない。今まで歩いてきた足跡すら、残っていない。
 しゃらしゃらと木葉が擦れる音を聞き、自分以外誰一人いなくなった事に気が付いた清左は弾かれたように走り出した。辺りを見渡し、大声で藤花太夫達の名前を呼び、走り続ける。当てなど無い。だが、急いで藤花太夫を、千鳥と雲雀を見つけねばと思った。
 ここは銀幕市。
 ここはハザード。
 知っていた筈だ。
 どれほど危険がないと言われたハザードでも、何かのきっかけで危険になると!!!
「こ……いつあぁ! とんだ……大空けじゃねぇか!!」
 藤花太夫の名を、千鳥と雲雀の名を叫びながら、走って走って、走り続けたがどれほど走っても藤花太夫達はおろか人っ子一人出会わない。
 何一つ変わらない景色がずっと続いている。草の青臭い臭いも、花の甘い香りも、小川のせせらぎも何一つ変わらない。足を止めた清左は息を切らし、じんわりと汗ばむ頬を両手でぱん、と叩き自身に渇を入れた。冷静になった、とは言い難いが、清左は息を整えながら気になったことを整理する。
 桜吹雪の後に藤花太夫が消えた。なら桜吹雪が藤花太夫を“攫った”のか。だとしたら、千鳥と雲雀が、他の場所に居たはずの人がいなくなったのはなぜだ。
――俺が、離されたのか? だとしたら、何故何も起きない?――
 自分だけなら、それでいい。だが、藤花太夫が、千鳥と雲雀がどうなっているのかが解らない今、急いで戻らなくては。
「……せっかく太夫が誘ってくれたってぇのに、どこの戯けだ」
 呼吸を整えた清左が改めて走りだそうとした時、清左の後から呼び止める声がする。清左が振り返ると、一人の青年が息を切らし走り寄ってきた。がりがりと、一本の枝で地面に線を描きながら駆け寄った青年は清左の前で立ち止まるとこう言う。
「ス……すいま……せん。ふぅ、女性をみませんでしたか。僕の連れなんですけど」
 青年の言葉に、清左は目を丸くして驚いた。



 こん、と三つ足が鳴る。今も桜吹雪がちらほらと舞う中、藤花太夫は不思議そうな顔をして
「清左さん、どこに行ったのでありんしょう? あらまぁ、千鳥と雲雀もおらんせんに、清左さんを困らせてないといいんけれど」
 離ればなれになったとは露とも思わずにいた。数ヶ月前のバレンタインデーに清左から貰った文のお礼に、とこの桜見に誘ったのは藤花太夫だ。自身の世話役が持て成すべき清左に迷惑をかけていない事だけが心配だった。勿論、藤花太夫は二人の禿、千鳥と雲雀はそんな事をしないと信じている。だが、しっかりしているとはいえ二人ともまだ幼い。どこかであの優しい清左に甘え過ぎていないだろうかとも心配なのだ。 
 こん、こんと三つ足を鳴らしゆったりと歩む藤花太夫の前に、一人の女性が蹲っていた。桜の木の下で足を抱え、啜り泣くような音が聞こえると藤花太夫はこん、と歩みを止める。
「こなに桜の綺麗な所で泣いてありんすなんて、どうかしんしたかぇ? 」
 藤花太夫が声を掛けると、女性はぴくと肩を震わせ顔を上げた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙でメイクが落ち、泣きはらした顔は目が腫れている。その悲惨な顔に、藤花太夫はまぁ、と驚いた声を漏らす程だ。
「そなに泣いて、化粧が落ちて酷いでありんす? ほら、これで涙をお拭きなんしな」
 袂から出した白い手拭いを差し出すと、女性は両手で手拭い事太夫の手を握りしめ、今度は大声を張り上げて泣き出してしまう。
――なんぞ、恐いことでもあったのでありんしょうか――
 藤花太夫はゆっくりと腰を屈め女性を優しく抱きしめると、彼女が泣きやむまでそっと背中を撫で続けた。
 どれくらいそうしていただろうか、藤花太夫が女性を宥めているとその泣き声に引き寄せられて何人もの女性達が集まってきた。一人また、一人と増え続ける女性達は誰もが不安そうな顔をし、やっと人に逢えたと目元に涙を浮かべている。狼狽え、怯える彼女たちの嗚咽の狭間に混ざる断片的な言葉を紡ぎ合わせると、どうやら皆恋人と一緒に桜を見に来てはぐれたということらしい。
「あなた、スターなんでしょう? スターならこのハザードを何とかできない? 私たちを帰してくれない!?」
 誰かがそう言うと、周囲の女性達も口々に何とかならないかと泣き叫びだした。 
「落ち着きなんしな。そなに焦らんくても、一緒にいた殿方がいるのでありんしょう? なら迎えに来てくれんすよ」 
「でも携帯も繋がらないし、どうやって連絡を取ればいいの……」
「携帯、でありんすか? あぁ、あのめぇるとかいうのが出来るやつでありんすね。そんな物に頼らなくても、殿方はちゃぁんと会いに来てくれんすよ」
 悠然と微笑む藤花太夫の姿に、女性達は息を飲んだ。彼女たちは不安だったのだ。いつでも連絡の取れる携帯が使えなくなり、本当に恋人が迎えに来てくれるのか。本当にここから帰れらるのかが、ただただ不安だった。それが何故か、藤花太夫が言うと本当に迎えに来てくれそうだと思ってしまう。これが、花町においてもほんの数名しか名乗れない最上級の位“太夫”を名乗れる藤花太夫の魅力だろう。
 女性達が落ち着くと、藤花太夫はゆっくりと立ち上がり
「花の香を、風のたよりにたぐへてぞ、彼の人さそふしるべにはやる」
 と、謡う。意味はわからなくとも言葉の響きと声の美しさは、彼女たちにも伝わったようだ。藤花太夫は優しく微笑み一人一人と視線を合わせ、こういった。
「わっちたちは綺麗に化粧をして、会いに来てくれて有難うの意味を込めて笑顔で迎えてあげればいいんでありんすぇ。 それが、女といわすものでありんしょう?」



 清左は枝で線を描きながら走ってきた青年に詳しい話を聞くと、ふむ、と考え込む。青年が自分と同じ状況になっているのだ。女性と桜をみにこのハザードへ来たのだが、少し前に桜吹雪が舞うと居なくなっていたという。地面に線を引きながら歩いてきたのは、辺りの景色があまりにもそっくりだから迷うわないように、そしてその線をみた連れの女性か誰かがついてきてくれれば、と考えてのことだった。彼も今清左と出会うまで誰にも出会わなかったらしい。
「すいやせんが、その女性には会ってませんぜ。あっしも、兄さんと同じ状況なんでさぁ」
 清左の言葉に青年はがっくりと肩を落とす。とりあえず二人は一緒に歩き出した。青年は線を引きながら、清左は辺りを見渡しながら。辺りを彩る景色は綺麗だというのに、それを一緒に見たかった人が隣には居ない。小さく青年がため息をつくと、遠くから声が聞こえた。清左と青年は顔を見合わせると、すぐさま声の聞こえた方向、小川の上流に向かって走り出した。
「こいつぁ、何事ですかい」
 清左がたどり着いた場所には大勢の男性がいた。川向こうに向けて叫んでいる者や呆然と地面に座り込んでいる者、水辺で咳き込む者、立て札の前で考え事をしている者等、様々だった。三人ほど体躯の良い男性がさぶさぶと川に入り対岸を目指すと、急に川の水が泡立ち、彼らを岸へと押し返してしまう。水辺で咳き込む者は、同じように渡ろうとして水に押し戻されたのだろう。
「あんたらも彼女が急に消えたんだろう?」
 地面に座り込んでいる男がそう声をかけると、清左と青年は頷く。
「対岸に……彼女がいるんだ。他にも彼女を見かけたヤツがいるから、多分、女は全員向こう岸だ。でも……見てのとおりだ。川は渡れない。橋は無い」
 こんな所、来なきゃよかった、と自嘲気味に呟くと男は項垂れる。服や髪の毛がしっとりと濡れているあたり、彼も川を渡ろうとして押し戻されたのだろう。
 清左と一緒に来た青年が川岸へと駆け寄り、声を張り上げる。どうやら彼と一緒に来た女性を見つけたらしく、大きく手を振って懸命に名を呼ぶが、目の前に見えるというのに向こう側に届いていないようだ。何足もの靴や靴下が散らばる川岸に清左が歩み出すと、立て札を読んでいた青年が声を掛けてきた。
「あんた、文字は読めるかい!?」
「へぇ、一応読めやすが……」
「やった! あの立て札、何か書いてあるんだが、達筆すぎて読めないんだ俺達には読めないんだ! 読んでくれないか!」
 興奮気味に言いながらも、青年はぐいぐいと清左の腕を引っ張り立て札の前へと連れて行く。同じように立て札を見ていた青年達が道を開け、清左を立て札の前へ立たせた。
 擬宝珠が付いた太い柱の傍にある立て札には一枚の紙が貼られている。よく時代劇等で見る傘のようなものがついているタイプだ。少し間をあけて擬宝珠が二つあるあたり、元々は橋が架かっていたのだろう。
「所々掠れてやすが……六々鱗を持つ者に道は開かれん。だと、思いやす」
「そ、その「ろくろくりん」ってのを持ってきたら、橋が架かるってことか?」
「六々鱗ってなんだ?」 
「あぁ、六々鱗ってのは魚……鯉のことでさぁ」
「誰か! 誰かココに来るまでに魚の鯉を見なかったか!」
 その叫びに水から這い上がる途中や叫んでいた男達が一斉に顔を向ける。口々に向こうは居なかった、見ていないという中で、項垂れていた男が顔をあげ、
「見た」
 と呟いた。
「どのあたりか、覚えてやすかい?」
 清左がそう問いかけると、男は立ち上がり川上を指差し
「もう少し上流に小さな滝が三つあって、沢になっていたんだ。そこに沢山魚がいて……鯉も泳いでた」
 誰かがそれだ!と叫び小川に沿って走り出すと男達は走り出した。鯉を持てば橋を渡れる。そうすれば彼女にあえると誰もが思ったのだろう。男達全員が走る後姿を見つめ、清左はふと、立て札をもう一度見る。
「六々鱗は鯉だが……どうも腑に落ちねぇなぁ」
 少し悩んだ後、清左も走り出した。

 
 清左は沢から少し離れた所で立ち止まってしまった。どうにも居心地が悪いような、そわそわしたような気分だ。静かな場所だったのだろう。小さな滝が三段連なり水しぶきをあげ、池のように丸くなっている。沢の畔にも綺麗な花が咲き乱れ、普通に訪れていたら心地よい涼しさを感じたことだろう。だが、今の沢はとても落ち着ける場所ではない。沢の中程で大勢の男達がズボンの裾や腕をまくり、鯉をつかまえようと必死に動きばしゃばしゃと水柱をあげている。
 水中の石に向けて石を投げ、震動で魚が浮いている。上着を網の変わりにし、鯉を捕まえようとする。一匹、また一匹と鯉が水から地上へと投げ出され、土の上でびちびちとはねている。
 あの立て札に書かれていたことを素直に受け入れるのであれば“鯉を持たねば橋は通れない”という事だ。清左も藤花太夫に一刻も早く会いたいと思う。だから彼等の行動を止める事も、咎めることもできない。できないが、はねることもしなくなった鯉が鰓と口をぱくぱくと動かすのを見て本当にこれでいいのだろうかと不安になってきたのだ。
「これじゃぁ、乱獲ですぜ」
 ぽつり、誰の耳にも届かないとわかっていて清左は呟く。
 その時だ。一人の男が足下を滑らせ抱えていた鯉を手放してしまった。ばしゃんと水中に戻った鯉は滝へと向かう。滝壺にでも逃げたのかと思われた鯉は逃げることに必死だったのか滝を登っていく。
 背鰭が見えていたせいか、手を離してしまった男が滝へと近寄ると鯉が光りだし、滝を飛び出して真っ直ぐ空へと、空中を泳ぐように登っていく。次第に輝きが増す鯉はぐんぐんと空へ登り、手放した男も沢の中にいる男達も、清左もその光景に呆けていた。
 滝から空へと鯉が泳いだ道は光り続けている。輝きを増した鯉は木の高さ程まで登ると次第にうねるように泳ぎだし、空を見上げる程になると大きく弧を描いて沢へと戻ってくる。
 大きな光が近づいてくると、男達は次々に沢から逃げ出し始める。鯉だったはずのその光の中で大きな牙が生えた口が、ぎょろりとした眼が、鋭い爪が、ヘビのように延びた光の筋に鱗が見えた。
 龍だ。
 悲鳴をあげ、逃げ惑う男達の上空に東洋龍が大きな蜷局巻き現れた。怯え、未だ沢の中で立ちつくす数人の男にその口が開かれると、逃げ続ける男達の中を逆流するように一陣の風が吹いた。
「おひけぇなすって!!」
 その声が響くと龍も逃げ惑っていた男達もぴた、と止まった。
 誰もが逃げ出した沢に数歩踏み出す清左がそこに居た。中腰になり肩幅ほどに足を開き、左手を膝に置いて右手は右膝の前で掌を龍に差し出すようにしている。
「おひけぇえ下すって有難うごぜぇやす。手前、粗忽者ゆえ、前後間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたる龍の旦那にゃ初のお目見えと心得やすが、手前、縁持ちまして銀幕市の真船家に身を寄せさせていただく、清左と申しやす。姓ももたねぇケチなやろうではございやすが、以後お見知り置きの上、きょう後万端よろしくお願い申しあげやす」
 清左の口上は続く
「御身に無礼を働いた事、深くお詫び申し上げすれど、手前らは、連れが居なくなった男衆でございやす。対岸に女がいるのに橋は無く、川もわたれねぇ。そんな下流にて“六々鱗を持つ者に道は開かれん”との立て札を見つけ、この沢へと赴いた次第でありやす。無礼と承知で、お怒りを鎮めていただきたく、お頼み申しやす」
 しん、と静まりかえった沢には滝の流れる音が響いた。清左がじっと龍の眼を見据えていると、ずるりと龍の身体が動き、清左の前にその顔を移動させる。
『ご丁寧なるお仁義痛み入り申す。お答え申したい所だが、ご覧のように元は鯉の只の龍。我が身共々同胞が危険となった故とはいえ、怒りに任せ過ちを犯すところであった。感謝する』
「とんでもねぇ。手前こそ、ぶしつけな頼み事を聞いていただき、有難うごぜぇやす」
『……、命の危険がある故、連れていく事は承諾しかねる』
 山彦のように繰り返し聞こえる龍の声と共に、打ち上げられた鯉や未だ抱えられていた鯉が浮かび上がり、沢へと戻された。どこからか溜息のような声が漏れるが、誰も抗うことはしなかった。まさか龍と闘うわけにはいかないし、何より清左が間を取り持ってくれたのだ。他に手掛かりが無くなった男が小さく嗚咽を漏らすと
「旦那、重ね重ね申し訳ねぇんですが、対岸に渡る方法をご存じでしたら、お教え下さいやせんかね」
 清左が言うと、ぐるぐると龍の喉が鳴ったような音がする。ゆらり、とヒゲが動く。
『そもさん』
「せっぱ」
 半ば反射的に口からでた言葉に、清左がハッと息を飲む。
「なんてぇこった。しなくても良い苦労をさせちまって、兄さんらにゃ申し訳ねぇ事をしやした」
『左様、其が答えなり。橋を渡るのに必要な物など存在せず、其は既にお持ちなり。見えずとも、一歩踏み出せばそこに橋は架かっていよう』
「ど、どういう事なんだ? 橋を渡るのには、鯉が必要なんだろう?」
「へぇ。六々鱗が鯉なのは、間違いありやせんがこいつはとんちだった。「こい」という読み方であればなんでもよかったんでさぁ。あっしらはあの義宝珠がついた柱の間を一歩でも踏み出してりゃ、渡れていたんでさぁ」
 ハトが豆鉄砲をくらったような顔で立ちつくしていた男達から、一人が駆けだした。意味が解ったのだろう。釣られて走り出す者もいれば、意味が解らないままおろおろとしている者もいるが、清左が
「さぁ、迎えに行きやしょう。きっと首を長くして待ってる」
 と笑って言うと、走り出す。数人が走りながら振り返り、龍に向けてなのか、ありがとうございますと叫んでいた。
「本当に、有難うごぜぇやした。これで藤花太夫を迎えに行ける」
『藤花太夫……清左殿、お気をつけなされ。そなただけはまだ試練が訪れようぞ』
「……構いやせん。藤花太夫に出会えれば、どんな試練だろうと乗り越えて帰ってみせやす。それでは、あっしもこれにて」
 清左もまたあの立て札の元へと走り出した。遠く、小さくなった清左の背中に向け、龍はぽつりと呟いた。
『御武運を。願わくば、あの子をお頼み申し上げる』
 龍が静かに頭を下げる。沢では鯉がゆったりと泳いでいた。
 
 


 ある場所では数人ずつ輪をつくり、ある場所では二人きりで沢山の女性が楽しそうにおしゃべりをしている。寂しさや不安を紛らわす為だろうが、女3人寄ればかしましいとはよく言った物だ。どの女性も初めてあった筈の人と様々な話に花を咲かせている。そんな中藤花太夫はすこし離れた桜の木の下で一人、その光景を眺めていた。
「こな、女だけやと花街に帰ってきたみたいだわぁ」
 女だけの声に景色も相まって沢山の妹達といるような気分になる。どこか懐かしそうに眺めている太夫に声が掛けられた。
「では、このままここに居ませんか?」
 着物を着ている少女が傍に立っていた。年の頃は17、8だろうが、どこか幼さの残る笑顔が可愛らしい少女だ。
「ここは耐えることなく常に花の咲く場所。争いも、殺し合いもない場所。女が花を咲かせ、花は女の為に咲く。ずっと、ここにいたいとは思いませんか?」
「そうでありんすねぇ……」
 言葉ではそう言っても、藤花太夫はあまり乗り気ではない様子だ。
 穏やかに毎日が過ぎていく。昔ならそれも良い、と思っただろうけど今はそうは思えない。銀幕市で、彼にであってしまったからだ。
「花の香を、風のたよりにたぐへてぞ、彼の人さそふしるべにはやる」
 藤花太夫がまた同じ詩を呟くと、少女は寂しそうな顔をする。少女には詩の意味が解ったのだろう。
 “風の使者に花の香りを連れ添わせて一緒に彼を招く道案内として送ろう”
 桜の、花々の香りを、そして藤花太夫という花の香りを風が運び、彼の道案内となればいい。私はここにいますよ、と伝えてくれればいい。早く、彼に会いたいから。
 あたたかな太陽の温もりに誘われたのか、太夫はゆっくりと眼を閉じるとそのまま静かに眠りについた。
 傍には誰もいなくなっていた。
 




 義宝珠の付いた柱の間に立ち、一呼吸整える。清左が何もない川の上へと一歩踏み出すと辺りの景色が一変し、清左は足下に霧がかかる橋の中程に立っていた。両脇を川が流れ、少し前には対岸の、大きな桜の樹が一本見える。他の皆はもう連れに会えたのだろうかと考えながら、清左は一人歩き出した。藤花太夫とはぐれ、探し回った時のように、立て札のあった川岸と同じように橋はいくら歩いても対岸が近寄ってこない。
 鈴が鳴るような、愛らしい少女の声が響く
『そもさん』
「せっぱ」
『六々鱗とはなんぞや』
「六々鱗とはこい、其れ即ち恋、あっしの心にしかとございやす」
 清左の言葉が響き渡る。少し間を置いて、また少女の声が問いかけてきた
『其は、真の思いか』
「しかと」
 清左は間を置かず答える。
『ならば、伝えるがいい』
 ごう、と一瞬強い風が吹き辺りに霧が立ちこめる。霞が交った対岸に人影が見えても、清左は歩き続けた。が、その人物の姿形がはっきりしたとき、清左は足を止めた。
 そこに立っていたのは、清左が以前想っていた一膳飯屋の娘、おりくだった。
――そなただけはまだ試練が訪れようぞ―― 
 龍の忠告が、清左の脳裏に思い出される。
「お久しぶりで」
 清左はごく普通に“おりく”に挨拶をするが、“おりく”は微かに微笑んだまま、そこに立っているだけだ。これが幻なのか本物のおりくなのか、清左にはわからない。
 清左は“おりく”に向かい歩き出し、話しかけ続けた。
「すいやせん、ゆっくり話しでもしたいところなんですが、ちょいと人を待たせてまして」
『私ではないのですか?』
「……ちげぇやす」
 “おりく”の問いかけに、親しげに話しかけていた清左の声が一段低くなる。
『私より美人だからですか?』
「ちげぇやす」
『私より稼ぎが良いからですか?』
「ちげぇやす」 
『私より頭がよいからですか?』
「ちげぇやす」
『太夫だからですか?』
「ちげぇやす」
 まだとんち、なのかもしれない。きつねにでも化かされているのかも、しれない。それでも、清左は“おりく”の問いかけに間を置かず応えた。
 外見や容姿でも金でもない。教養や知識でもなく、まして太夫という位を持っているからではない。そんな物で、二人の女性を比べた事など、只の一度も、断じてない。
 例えるなら、おりくちゃんは向日葵のような女性だった。いつも元気一杯の笑顔で俺や客を迎えてくれた。見知った飲み仲間やおりくちゃんを交えた他愛もない話し、飲み過ぎだと怒られるのが、家族のようで、幸せだった。だから、自然と恋い焦がれた。
 藤花太夫はお天道さんそのものだ。微笑んで貰えたらそれだけでぽかぽかとした、暖かい気持ちになれた。出会ったのも、会話を交わしたのも数回だが、ふとした事で彼女を思い出した。
「あのお人に、心惹かれた。ただそれだけですぜ」
 今にして思えば、きっかけは藤花太夫の“祈りの声”。あの時、彼女が清左の無事を祈ってくれたから、清左も伝えずにいようと思っていた彼女への想いを、文にしたためた。そういうイベントが行われていたのも、きっかけの一つだろう。そんな幾つものきっかけが重なりあい、清左の心は既に決まっている。
 久しぶりに、会えないと思っていた“おりく”と出会って驚きはしたが、清左の心は揺れなかった。
 “おりく”の真横を通り過ぎ、清左は対岸へと渡る。ずっと見えていた桜の木にもたれ掛かるように座っている藤花太夫を見つけ、清左はホッとした反面困ったような顔で笑った。 見たところ怪我一つ無い藤花太夫に安心したのもあるが、彼女はすやすやと寝息を立てているのだ。ある意味彼女らしい。気持ちよさそうに寝ているのを起こすのは忍びないが、まだ千鳥と雲雀も見つけていない。
 起こそうと延ばされた手は藤花太夫の肩に置かれるが、清左は声を掛けることも、身体を揺する事もしなかった。ふぅ、と小さな溜息を漏らした清左は後ろを向きそこに立っている“おりく”に声をかける。
「まだ聞きたいことがございやすか? それともとんちの続きですかい?」
『奪わないで』
 少女の声とは思えないほど低い、呪詛のような声が小さな唇からこぼれ落ちた。そして、その一言を“おりく”はずっと呟き続ける。
『奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで奪わないで』
 永遠に続く声の中“おりく”の髪がほどけばさりと足下まで落ち、まるで幽霊のようだった。清左は藤花太夫の身体を引き寄せ、抱きしめた。
『奪わないで奪わないで奪わないで、あぁ、藤ねぇさま。あぁ、あぁ、藤ねぇさま、どこにいるの藤ねぇさま、ねぇさまがいないとこの花園は夏の花を咲かすこともできないのです。藤ねぇさま藤ねぇさま藤ねぇさま』 
 少女は両手で顔を覆うと空を仰ぎ、聞いている物の心が痛むような哀しい声を出すその姿に、清左は顔を顰め左右に振った。藤花太夫が“藤ねぇさま”でないことくらい、少女はわかっていたのだろう。清左の推測でしかないが、少女はこのハザードと共に銀幕市に現れて日が浅く、一緒にいた人達が急に居なくなったのだ。沢山の女性や藤花太夫を攫ったのも一人が寂しかったのか、容姿が似ていたのかも定かではない。その中で、藤花太夫は唯一彼女と同じように着物を纏っていることから“藤ねぇさま”に一番近かったのかも、しれない。
 啜り泣く少女の身体が次第に透け始め、また桜吹雪が舞いだした。
「攫っちまいてぇのはこっちだよ」
 少女のしたことは褒められた事ではないが、清左はうっかり本音を漏らしてしまう。誰に言うでもなく、ただ独り言のように呟いた言葉に
「まことでありんすか?」
 と、返事が返ってきた。ぱちくり、と一度瞬きをした後、清左は慌てて腕の中にいる藤花太夫を見ると寝ていたはずの藤花太夫が、僅かに頬を染めて清左を見上げていた。かっと顔を赤く染めた清左が
「いや、その、今のは例えで、間違っちゃいないんですが、その、」
 慌てた様子で言い、少々わざとらしい咳払いで誤魔化すと、清左は改めて藤花太夫を見つめた。何か、改めて思いを伝える言葉を言おうとするが、何と言っていいのかわからない清左は赤面したまま、困り顔になってしまう。その仕草で藤花太夫には全て、伝わったのだろう。
「こんなわっちでもよろしゅうありんすかえ?……うれしゅうありんす」
 そっと清左の胸元に手を添え、藤花太夫は身体を預けた。
 清左はその手を握り、身体を優しく抱きしめることで答えを返した。




 桜吹雪は今も続いている。最初見たように視界全てが覆われるようなものではないが、ひらひらふわふわと舞う花弁はやはり、美しかった。既に日は傾いており、少しだけ赤みを増した桜吹雪の中で清左と藤花太夫のように引き離された恋人達は再会を喜び合っている。その喜びかたも多種多様にわたり、普通の家族連れ等の攫われなかった人達はカップルの多さに驚きながらも、幸せそうな光景を見守っていた。見守る人達の中から二人の子供が清左達に駆け寄ってくる。遠目に見ても千鳥と雲雀だとわかる揃いの着物を着た二人は顔を赤くさせて何処に行ってたんだ、と頬を膨らませる。
「おゆるしなんし、少うし、桜が綺麗でありんしたんではぐれてしまいんした」
「すまねぇな二人とも。あぁ、そういや……」
 清左は袖の袂を探ると、千鳥と雲雀に手を差し出す。
「よかったら貰ってくだせぇ。藤花太夫には、こっちを」
 千鳥と雲雀にはそろいのちりめんの匂い袋と杵間神社のお守りを、藤花太夫には杵間神社のお守りと、櫛を手渡した。櫛には藤花太夫の名にあるよう、綺麗な藤の花が彫られている。
「まぁ、嬉しい。大事にさせて貰いんすぇ。わっちからも贈り物があるんでありんすが、ぬし様、受け取って貰えんす? 」
「もちろんでさぁ」
 藤花太夫が清左に差し出したのは、煙草入れとキセル筒だった。銀で藤の花が、鼈甲で鷹があしらってあるそれを清左は受け取る。
「大事に、使わせてもらいまさぁ」
 なんとなく、はぐれる前と違う清左と藤花太夫の雰囲気に千鳥と雲雀は複雑な心境だ。藤花太夫が幸せなのは、二人にとっての幸せだ。清左はこうして自分たちにも揃いのお守りをくれる、優しく強い人だと知ってる。だがどこかで嬉しさと少し不安というか寂しいというか、そんな思いもあった。つまり、やきもちをやいている。
 そんな禿の心情を知って知らずか。清左と藤花太夫は微笑み、千鳥と雲雀を見てこう言った。
「さぁて、やっとみんな揃いやしたし、ゆっくり散歩でもしやしょうか」
「そうでありんすね。千鳥、雲雀、行きんしょう」


 夕暮れ時から、星が瞬くまで。
 並び歩く四人は家族に見えた。



 
 

 先日、銀幕市の魔法が解けた。
 銀幕市に住む老人が一人、洋風の部屋にわざわざ畳を敷き、無理矢理和風にした部屋に佇んでいる。彼の前にはふんわりと膨らむスカートに大きく背中のあいた藤紫のドレスがトルソーに着せられ、足下には近い色のハイヒールが置かれている。
 その洋服を、少し前まで人が居た気配のある部屋を見渡し
 「みんな、ワシをおいてくんだなぁ」
 と、寂しそうな笑顔で呟くと部屋を後にした。
 大きくふかふかのソファに腰をおろす。テーブルの上に置かれた幾つもの箱をそのままに、彼はビデオを再生する。
 ピ、と音がして画面に藤花太夫が写る。千鳥や雲雀が周りを世話し、太夫が話す。ちょうど、藤花太夫の顔がアップになった頃だ。何度も見たせいでビデオテープが擦り切れていたのか、急に画面にノイズが走る。
 一瞬だけ、ほんの一瞬のアップの時に、いままで写っていなかった物が見えた。藤花太夫が身につけるには少々控えめな、だが、綺麗な藤の花の彫り物がされた櫛が。
 彼は慌ててビデオを止め巻き戻すが、見直した画面はノイズもなくいつも通り、何度も見た映画と変わらない画面だった。
 見間違いかも知れない。現に今はもう写っていない。それでも、彼は確かにその眼で見た。どう思うかは彼次第だ。
 映画を止め、彼はおもむろに立ち上がると目の前に置かれていた箱の一つあけ、畳紙を剥がす。中身を見て、彼は一度微笑むとその箱を持って先程の部屋――藤花太夫が住んでいた部屋に入った。箱を置き、どこからか衣桁を持ち出して組み立てると、箱の中にある着物を取りだし、セッティングを始める。
「こりゃ大仕事だ」 
 笑いながらそう言う彼の顔は楽しそうだ。誰の手も借りず一人で、ゆっくりとだが丁寧に着物を着せ追えると、またリビングへと戻り残りの箱を少しずつ持ってきては、中身を並べる。全てが終わった頃は夕焼けが窓から差し込んでいた。
 夕焼け色に染まる白無垢を、旦那さんは満足そうに頷いた。




 清左が世話になっていた家の家主は帰宅し、リビングの電気をつけてあ、と声を漏らした。ほんの少し前、清左が“帰って”しまうまえに彼等は“兄弟の杯”を交わした。
 その時の杯がずっと、リビングに置かれっぱなしなのだ。
 見ると、清左を思いだして泣きそうになるが、見えないところにしまい込んでしまうのも、恐いのだ。
 どうするか、どうしたらいいのかと考えるのにしん、と静かなリビングは向きすぎており、余計なことまで考えすぎて彼は瞳を潤ませる。何か音を、とTVのリモコンを適当に押すと、画面には清左が映っていた。よりにもってと言うべきか、タイミングが良いというべきか。映画が放映される日だったらしい。
 リモコンを持ったまま、彼はずっと画面を見ていた。映画の最後で清左は死んでしまう、そのシーンを見たくないと思うのに、まだ動く清左を、清左の声がするTVを消せないでいた。TVの中で、清左が倒れる。きりと胸が痛み、彼は手に持っていたリモコンをぎゅっと握りしめた。
 急にざりざりという音が聞こえ、音声にノイズが混じる。
 死の間際、清左は思いを寄せていた“おりく”の名を呼ぶ筈だった。
 家主の耳には、間違いなく、清左の声でこう聞こえた。

『藤花太夫』

 杯に、一粒の雫が落ちた。

 

クリエイターコメントこんばんは、桐原です。お待たせいたしました。

お二人の心情や口調はいかがでしょうか。お二人の思いや優しさをめいっぱい書き表したくて、こういった内容となりました。
最後も含め、少々つっこんだ内容も書かせていただきましたが、何か問題がございましたら、ご連絡くださいませ。

最後のシーンをどう受け取るかは、お二方にお任せいたします。


このたびはプライベートノベルのオファー、ありがとうございました
公開日時2009-06-25(木) 18:00
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