★ クリスタル・ラビリンス ★
<オープニング>

「う、うぅぅ…」
 細くしなやかな指先が、冷たい床にきしと爪を立てる。

 壁も床も天井も、色とりどりの宝石で埋め尽された、目にも鮮やかな一室があった。
 透き通った六角水晶のランプがぽうと青白く灯っている。ぼんやりと室内が照らし出され……床を這う一人の女が浮かび上がっていた。
「あ、ぐ……っ」
 女は酷く苦しんでいた。
 玉虫色の不思議な髪がばさりと床に散らばり、金色の瞳は虚ろに揺れ動いていた。床を這う体こそ大人の女のものであったが、痛みに軋むその顔は、幼い少女のものだった。
 なんと女には足が無かった。
 足だけでは無い、在るべき筈の下半身がそっくり存在していなかった。肉も露な半身の断面は、不可解なことに青紫に変色し、腐敗が始まっていた。
 失血はさほどでも無いようだ。それが幸いしてなのか、女はまだ生きていた……と言っても、命の灯火が消えかかっていることに変わりは無いだろう。
 女は腕と腹だけで、ずず、ずずと床を這っている。女の這った後には、エメラルド色の血液と透明な腐汁が線を引き、なめくじが通ったかのような跡が出来ていた。
(何故……切り離されなければならなかった……!?)
 上手く声にならず、女の口元はただ、何故、何故と二文字の言葉を繰り返していた。全身が痛みと悔しさに震えている。
(バチが、当たったのか……?)
 吐かれる息は荒く、額からは汗の筋がいくつも流れていた。部屋に敷き詰められた石達は、ただただ石に徹して、冷たく彼女を見下ろしている。
(ああ……こんな所に閉じ込められた挙げ句の果てに、こんな哀れな死様か。誰を憎む、誰を憎めばいい)
 遠く切ない眼差しで、女は彼方に己の人生を思い描き、そして見つめている。
 此処は静かなる牢獄だ。
 此処は穏やかな揺り篭で、
 死すらも優しく抱き寄せる。
(死ぬだなんて……嫌だ、誰か――)
「だれ、か……っ!」
 掠れた悲痛な叫びは、ただただ虚しく、室内に反響するばかりだった。

 * 

 ウゴウウゥ……

 空気を震わせる風の音。
 長い長い回廊の向こうからそれはやってくる。
 水晶の柱がぽうと煌めき、宝石の壁はきらきらと輝いていた。そして床には……
 点々と、奥へ続くように、緑色の液体が滴っていた。

 わたしは いたい
 いたいよう

 獣の息遣いにも似た風が、壁面を撫でるように流れていく。
 何処となく、切なげな残響を孕みながら。

 ありあ ありあ
 ありあがそうしたいなら

 わたしは とじてもいい

 ありあがそうしたい なら

 *

「目を離した隙に忽然と……人が消えてしまう事件が起きていたんです」
 資料から目を離した植村は、疲れてきた目を少しの間閉じ、依頼を受けに来た客人に事件の概要を説明する。
「消えた方々は、1、2時間もしない内に帰ってくるらしいのですが、中には腕や足に大怪我を負って戻ってきた人も居たようで…その方々は現在入院中です。被害はどれも同じ地区で起きています。それで、被害者の方々に話を伺ってみると、皆さん口を揃えて――」

『いつの間にか迷路みたいな所に居た』
『怪物に襲われた』

「……と。仰っていました」
 植村の近くで別な仕事をしていた対策課の職員が、ふと気が付いたように話に割り込んできた。
「迷路に……怪物って、なんか神話にそんな話ありませんでしたっけ。人と獣の間に生まれた、孤独な迷宮の主が登場したーとかだったような」
「もしかすると神話がモデルの映画が実体化しているかもしれませんね。その辺りから調べてみます。……先程の話ですが、これで終りではありません」
 客人と職員を交互に見ながら、植村が続ける。
「同じ地区で、また何件か失踪事件が起きたんですが……今度は、消えた方々が帰ってこないのだそうです。何日経っても」
「え。つまりそれは、迷宮に、閉じ込められた……?」
 職員の言葉に、植村は分かりませんと首を振り、改めて客人に向き直った。
「事件の原因の調査、行方不明者の救出、何かと不透明な依頼ですが……力を貸して下さい。よろしくお願いします」

種別名シナリオ 管理番号421
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
クリエイターコメント初めまして、亜古崎迅也と申します、初シナリオ投下です…!緊張しております。よろしくお願いします。
宝石の迷宮に潜む、孤独な怪物と自己愛についてのお話です。

シナリオの補足は以下の通りです。
・最初の被害者は帰還しているが、その後起こった何件かの被害者は行方知れずのまま。そしてその間、新たに失踪事件は発生しておらず
・迷宮への入り口があり、外からは見えない迷宮へ続いている

事件を解決するために現地に乗り込み、調査するところから始まる流れになると思いますが、プレイングとしては色々なところから切り込んでくださって構いません。事件の原因になった映画について調べたり、迷宮に閉じ込められた被害者の一人として……などなど。行方不明者の中には、大怪我を負っている人も居るようです。彼らの応急処置・保護・救出が必要になります。また、迷宮内は何度も形が変わり、非常に迷いやすいのでご注意下さい。そして恐らく、怪物が襲いに参ります。迷宮を如何にして脱出するかがキーワードになるかと思われます。
ついでに、冒頭に登場する彼女の半身について、何か考えて頂けたら幸いです(笑)なお、彼女の言う「切り離した」者については、このシナリオでは登場しませんのでご注意下さい。
暗めのオープニングですが、内容としては暖かな結末にしたいと思っております。長くなってしまいましたが(汗)……素敵なプレイングをお待ちしております!

参加者
キュキュ(cdrv9108) ムービースター 女 17歳 メイド
一乗院 柳(ccbn5305) ムービースター 男 17歳 学生
真山 壱(cdye1764) ムービーファン 男 30歳 手品師 兼 怪盗
続 歌沙音(cwrb6253) エキストラ 女 19歳 フリーター
<ノベル>

 ゴゴゴゴゴ……
 迷宮が――変化する。

 *

 例えるなら、宝石箱のような迷路だった。
 深い紫や淡い桃色の石ばかり埋め込まれた壁面が続くかと思えば、突き当たりを左に曲がった先には、夕焼けを思わせる赤褐色の通路が延びていた。
「あの、」
 冷たくしんとした回廊に、可愛らしい少女の声が響く。
 キュキュは、不可思議な形の影を落としながら、長い長い回廊を歩いていた。スカートの下からいくつも伸びた触手もとい触足は、5割がわらわらと足の役目を果たしている。その他の数本には、それぞれぐったりとした人間が包まれていた。……シルエットがかなり奇怪だ。
「どなたか……」
 居ませんか。言葉の最後は小声になり、辺りに虚しく反響した。
(ど、どうしましょう)
 何故こんな所に迷い込んでしまったのか。それは彼女自身にもよく分からなかった。
 つるつるとした壁を見れば、メイド服を着込んだ自分がうっすら映る。
(早く…帰らなくては)
 きっと、皆様やご主人様にご心配をお掛けしている。けれど無情にも……出口は一向に見つからなかった。
 どうやら此処に迷い込んでしまった者は、キュキュだけでは無いらしい事は分かった。歩き回っている間に、疲労で力尽きている者に何度か出会った。だが、それだけではなく――
「う、ぅ……」
「まぁ…!だ、大丈夫ですか?」
 また一人、床に伏している人間が居た。キュキュは慌てて駆け寄り、そっと体を起こす。
「ば、化け物が……」
 倒れている男が呻き声を上げる。彼の腕は血に染まり、大きな傷が出来ていた。
 ――また、この傷……。
 キュキュは眉を下げ、静かに回復魔法を施した。男の腕の一部は円形に抉り取られ、痛々しい痕が出来ている。
 まるで、歯形のような……。
 キュキュの触手が丁寧に抱え込んで居る人間達の中にも、やはり足や腕に大怪我を負っている者が居た。
「あの、出口を……ご存じでしょうか?」
 治癒を施した彼の腕にハンカチを縛りながら、尋ねてみる。
「分から、ない……」
 男は苦しそうに呟いた。
「そうですか……。歩けますか?一緒に、出口を探しましょう」
 傷に触れないようキュキュが彼を立ち上がらせ、触手は彼の肩を支えながら、迷宮を歩き出した。
 出口は一体、何処にあるのだろうか。
 
 *

『ラビリントスの神話を……ご存じですか?』
 コツリコツリと、軽い足取りの靴音が響き渡る。
『王の妻が牡牛に恋をするという呪いを掛けられ、半獣人の怪物が生まれた。怪物は迷宮に閉じ込められ、生贄として送られてきた人間を襲っていく……と言う話です』
 壁面や天井の至る所からぶら下がる水晶のランプは、薄明るい程度にぼんやりと内部を照らしていた。
 しかし宝石は、それだけの光源でも、鮮やかに煌めく力を持っている。
 真山壱は閉ざされた迷宮を歩きながら、植村の神妙な面持ちを思い出していた。彼の肩の上では白いバッキーが丸くなっている。
『迷宮神話から調べてみた所、事件の原因と思われる映画を見つけました。やはり、映画の設定は、神話をモデルにした部分が多いようで』
 鮮やかな色合いの中、壱の黒いライダースーツが不思議な程よく映える。かと言って目立つ訳でもなく、溶け込む訳でもない――奇妙な存在感だった。
 床は、一面の群青色に、ちらちらと細かい金色の成分が混じり、筋のように走っている。
 まるで銀河だ。
 壱は床にしゃがみ、手袋を填めた手でコンコンと軽くノックしてみた。
(一応……本物?)
 硬度は5前後か。ラピスラズリで間違い無いだろう。
『ですが――神話とかけ離れた設定もありました。映画原作のオリジナルですね。事件に関係が有るかは分かりませんが』
 今度は立ち上がり、鮮やかなタイル画が施された壁面を眺めてみた。
 ヘリオドールに、サファイア。血の涙のような石はアルマンディンだろうか。
(イミテーションじゃあ、無さそうだ)
 どの石も、本物の輝きを持っている。世界中の肥えたコレクター達が此処を見たら、それこそ競って札束を出し合うかも分からないが……これらは全て、夢の産物なのだと。
 何とも不思議で、何とも滑稽な話だ。
『……合成獣(キメラ)。と言うものをご存じでしょうか。違うふたつの生き物を、人造と言うか……意図的に造り合わせてしまうことですね。つまり。迷宮の主が――合成獣のようです』
「キメラね……」
 ふと、思考が呟きになった、その時だった。
 壱の五感か或いは六感が、只ならぬ気配を察知した。

 ――何かが、来る。

 目を細め、辺りに視線を巡らせる。上か、右か、左か、後ろは容易に振り向けない。
(前か)
 くるっと方向転換し、今歩いてきた道を走り出す。

 ウゴウゥゥ……

 通路の前方、曲がり角より姿を現したのは――
 金色の、大きな、

 わたしは くうふく

 怪物だった。

 *

「もう、本当にどうしよう……何で、何でこんな所に来ちゃったんだ。うぅ、不気味だ……っ」
 迷宮内部に、通路が少し拓けた、水晶ばかりの広場のような空間があった。
 一乗院柳は、落ち着かない様子でうろうろと行ったり来たりを繰り返していた。
「何で、出口がないのかなぁ……」
『そういう時は。壁を叩きながら歩くのですじゃ』
 柳の首から下がった小さな筒から、老いた渋い声がする。管狐のクダラだ。柳の良きアドバイザーと言え……るかもしれない。多分。
「壁って。こう?」
 柳がコンコンと壁をノックしながら歩き始める。
『そうそう。何事も安全第一ですからのう。石橋を 叩いて 渡れ』
「石橋じゃないだろー!」
 思わず壁に頭突きをかましてツッコミを鎮火させた。
「と、とにかく対策課に……って、此処出なきゃ、連絡の仕様がないじゃないか!」
 うぅぅと頭を抱え込む柳。
「しかし……困ったね」
「――歌沙音ちゃ、じゃない……歌沙音さん」
 いつの間にか一人劇場を展開していた己にハッと焦って、柳は同行者の方を見る。
 飾り気の無い少女の名は、続歌沙音。少年のような小ざっぱりした風貌の為、最初、柳も勘違いした。
 歌沙音は水晶の塊に腰掛けて、ビニール袋を覗いていた。
「何せ、コンビニ帰りだったものだから。七つ道具のひとつも持ってやしない」
「…お。落ち着いてますね……」
 柳が訝しげに見つめる。もしかして、さっきのカッコ悪い姿を見て呆れているのだろうか、とか脳裏を過ぎる。
「いや。そんな事は無いよ――この宝石とか、どうやって持って帰ろうか心底焦ってる。売れそうだから」
「神経太……っ!」
 無表情で吐かれた冗談を真に受け、柳が驚愕の眼差しを鋼の少女に送った。
「とにかく。手立てが浮かばないなら、自力で出口を探すしかない。行こう」
 歌沙音が立ち上がり、通路の方へと歩き始める。
 例え進むべき道が意地悪く入り組んで居ようと。歌沙音の歩みは真っ直ぐだった。
「そっか……そうだよね、僕も――」
 歌沙音に続いて、柳も一歩を踏み出した瞬間。
 ふわりと。微弱な風を感じた。柳の前髪が僅かに揺れる。
 背中が、ぞわりと撫でられるような、気配。
「か、歌沙音さん――走って!!」
「……!」
 柳の叫びに、歌沙音は一瞬立ち竦み振り返ったが、即座に向き直り、一目散に走り出した。
 通路の向こうから、水晶の広場を抜けて、さらに奥――柳達の元へ。

 ブフゥゥウゥゥッ!!

 生温かい風が空気を震わせた。
 風に圧されるようにして、ゴーグルと帽子を被った黒い男が走ってくる。
 そして彼の背後、通路の奥から――
「う…うわああ!!?」
 黒真珠のような目玉が八個。長い足は八本、金の毛色に覆われた胴体が、真ん丸く二つに区切られた……

 ウゴウゥゥ……
 不気味な息を吐きながら、大きな蜘蛛の怪物が姿を現した。

「で、出たあああっ!」
「君、叫んでないで――逃げるよ!」
 怪物に追い掛けられていた男が、走りざまに柳の肩をポンと叩いた。
「へ……わ、わぁ!」
 腕をがしりと掴まれ、引っ張られるようにして柳も走り出す。
「あ、貴方は?!」
「僕?――通りすがりのマジシャンだよ」
 冗談言ってる場合じゃないか、と思いつつ、壱はゴーグルの奥の瞳を細めて、苦笑して見せた。

 *

 ウゴウォウウゥ…ッ!

 不気味な咆哮が聞こえる。
 大蜘蛛は、柳と壱を追い掛けてくる。
 水晶の広場を走り抜け、薄黄緑色の回廊を駆けて行く。
「と言うか、何であれ追っ掛けてくるんでしょうか……!」
「さあ?本人に聞いてみない事には」
 左右を飛び去るように流れていくのは、壁面に描かれたタイル画の鳥。
 通路を左折して走り抜ける。
「と、言うか、あれ、足が鋭って痛そうだし、めめ目が、ぎょろって……!」
「はは、舌噛むよー?」
「しかも、口元がしゃかしゃ言っ――痛っ!」
 柳が走りながら口を押さえてうつむいた。
「…大丈夫?」
「あ!?真山さん……この先は、行き止まりが……!」
 柳が口から手を離し、声を挙げる。
「行き止まりって」
 壱の額に汗が浮かぶ。
 その時、少し拓けた空間が、走る二人の先に見えた。先程居た所と似たような、広場のような場所だ。
「柳君――右にジャンプしてくれないかな」
「…え――?」
 通路の壁が途切れたのと、壱が柳の視界から消えたのはほぼ同時。
 柳は一人で広場を走っていた。
「わああぁ真山さん何処!?」

 ウゴフゥウゥッ!
 柳のすぐ背後に、大蜘蛛が迫る。

「柳君――ジャンプ!」
 大くもの背後に立つのは、いつの間にか周り込んで居た壱。その手にはライフルのような形の――スチルショットが握られていた。コードの先端はバッキーにくっついている。
「う、うわぁ!」
 柳は慌てて広場の右端に跳んだ。着地に失敗して床を転がる。

 発射。

 ドォッ!!
 エネルギー弾が大蜘蛛に当たる。小規模に爆ぜた。

 グ、モモブオォ……ッ

 大蜘蛛はおぞましい叫び声をあげ、縫い止められたようにその場に静止した。
「た、助かった……っ」
 床に伏した柳が、がくりと肩の力を抜いた。
「安心するのはちょっと早いかな。今のうちに逃げよう」
 壱はスチルショットを肩に担い、柳の肩を支えて、急いでその場を後にした。

「ふー……」
「ふぅ……此処まで来れば大丈夫、だと思う」
 壁にもたれてずるずると腰を落とす二人。その顔には、汗と疲労の色が滲んでいた。
「ヘルさん、さっきはありがとさん」
 壱はバッキーの頭を撫でている。柳はバッキーにビクつきながら、呟いた。
「あのクモみたいなのは一体……」
「あれが、此処を護ってるんじゃないのかなぁ」
「ま、護ってる…?」
 壱は鞄からペットボトルを取りだすと、どうぞと柳に差し出した。どうも、と涙目になりながら柳が受け取る。
「ただの憶測なんだけどね」
 怪物が宝石の宮のガードマンだとしたら、一体何を護っている?そして、不法侵入は――
 壱は小さく苦笑した。
「こ、これからどうしましょう」
「どうしようね。まず……柳君。静かに」
 溢れていた壱の笑みが途端に消えた。代わりに、口元に人指し指が立てられる。彼のゴーグルの奥の瞳は、通路の突き当たりを射抜いていた。
 衣擦れの音と、人とは思えぬ奇怪な影。
「また……!?」
 柳が涙目で、よろよろと立ち上がった。

 音と影はこちらに近付いてくる。
 突き当たりから、ぬぅと顔を出したのは――

「あのぅ……どなたか、」
「わぁぁあぁ出た――ッてあれ、キュキュちゃん……?」
 顔を出したのは、たおやかなメイド少女、キュキュだった。彼女の触手に幾人かの人間が包まれている。
「ひゃ……!ええと。こ、こんにちは。皆様」
 驚いて顔を覆った手を避けて、もじもじとお辞儀する。凄まじい全体像だったが、仕草はあくまで愛らしかった。

「ああでも……懐かしいですわ。陛下の別荘の地下が迷宮で、毎年何人もお掃除番が迷子になったんです。ですから新人の子には地図が不可欠で。ふふ」
「今は僕達が迷子だけどね……」
 柳のツッコミで、キュキュは頭を垂れてうなだれた。
「い、いや、ごめ……っ」
「そうだ。キュキュちゃん、この人達の怪我のこと、聞いてもいいかい?」
 眉を下げて慌てる柳の脇から、壱が話を振る。
「はい、どうぞ…」
「……齧られた痕だった?」
「はい、そうだと、思います」
 壱はふむと首を傾けた。
「も、もしかして……さっきの、クモの……?」
 柳が恐る恐る尋ねる。
「どうだろうね?ただ…入院してた人達と同じって事は分かった」
 壱は、バッキーの頭をぽむぽむと叩きながら言った。
 キュキュの脇に横たえられた人々は、足や腕にハンカチが巻かれていた。キュキュが治療の後に、念の為縛っておいたものだ。
「キュキュちゃん、結構力持ちなんだね……」
柳がぽつりと呟く。
「あ、いいえ、そんな事は…!あ、一乗院様、お顔に傷が……」
「え?」
 柳の頬に小さな擦り傷があった。先程の『ジャンプ!』の時に出来た傷だろう。
「いけません、そのままにしておいては、ばい菌が入ってしまいます」
 キュキュが手を伸ばし、そっと回復魔法を施す。
「わ……!だ、大丈夫だよ、怪我治るの早いし……っ」
 柳は顔を赤くしてわたわたと慌てた。
 
 ――その時。
 柳の体にじくりと鋭い痛みが走る。瞬間――めま苦しい映像が脳裏を駆けて行く。

 音の無い――
 さけび、ごえ。

「……痛っ」
「大丈夫?柳君」
「あ、す、すみません、お怪我に触りました…?」
 意識がこちらに引き戻され、顔色を窺ってくる壱とキュキュと目が合った。腕に目をやると、すうと開いた皮膚の間から、目玉がひとつ覗いている。
「……行かなきゃ」
 若干青ざめた顔で、柳が呟いた。

 *

 歌沙音は壁面を見つめていた。乱れた呼吸は大分落ち着いたが、体の疲労は増していた。
 赤いタイル画の壁。
 ルビーや瑪瑙(めのう)をあしらったタイル画は、赤々と傲慢に燃え上がる……炎だ。炎が描かれていた。
 歌沙音の瞳に炎が映る。
「………」
 彼女は少しの間それに目を奪われていたが、すぐに興味を失ったように周囲を見回し始めた。
「流石にヤバいかな……まさかはぐれるとは思わなかった」
 淡々とした表情とは裏腹に、瞳の奥には緊迫感が宿っている。
 ふとその時、
 ――…ぅ、ぐ…
 何か、呻くような音が聞こえた。
「……誰か。居るのかい」
 背筋に冷たいものが走るのを感じながら、早歩きで音の方へと近付いて行く。

 苦しい。
 傷口が火のように熱い。けれど何より、
(胸の奥が苦しいんだ……)
 突然現れた、あの人間が、刃物を振り翳して――
『境目をず ば りっ』
 ふたつに。切り離された。
 あの子はどうなる、あの子は何処へ行ってしまった?
「た……」
 か細い声。口元が動いて、無音の叫びを謡う。
 朧げな視界の中で、ほとんど無意識に……彼女の手は、虚空へと伸ばされていた。

「……生きるよ」
 歌沙音は、緑の血にまみれる半身しかない女を、見つめていた。
「君は生きる。大丈夫だ」
 根拠など無い。けれど歌沙音は穏やかな笑みを見せ、安心させるように、伸ばされた手を握り返した。

(ぬ、く……)
 ぬくもり。何かが手に触れている。
「……だれ?」
「……続歌沙音。君の名は?」
「………アリア…」
 幻とでも会話しているような、気分だった。

「………」
 こんな時。自分は非力なんだと実感してしまう。喉の奥から目尻に込み上がってくる焦燥感を、歌沙音は静かに抑え込んだ。
 彼女は死に瀕している。
(……どうしたらいい?私に何が出来る)
 歌沙音は今、たった一人だった。
 誰かに頼って生きていく気など毛頭無い。だが……それでも今、心中で呟く言葉は、
(……誰か、来ないかな)

「歌沙音ちゃん……じゃない。歌沙音さん」
「……一乗院君」
 名前を呼ばれ振り返ると、そこには、幻ではない他者の姿があった。
「まあ大変!と、とにかく回復致しましょう……!」
 柳の後ろから、キュキュや壱も現れた。キュキュは瀕死のアリアを見つけて、慌てて回復魔法を施しに掛かる。
「えっと。歌沙音さんが見えて」
 柳は頭を軽く掻きながら、何故か照れ臭そうに言った。
「……やぁ。また会ったね」
 歌沙音はと言うと、いつもの淡々とした調子で、片手を挙げて挨拶して見せるのだった。

 *
 
「つまり、キミの半身は……キミが『切り離された』時。何処か行っちゃったって訳か」
 キュキュの治療を隣で眺めていた壱が尋ねると、アリアはこくりと頷いた。
 傷口が……変色している。
「アリア様の強い生命力に、感服致します」
 キュキュの触手がほにほにとアリアの髪の毛を整えている。治療が終わり、アリアの顔色は多少精気を取り戻していた。
「けど、やっぱりこのままじゃ……」
「危ないだろうね」
 柳は眉を寄せ、アリアの痛々しい姿を見つめた。
「あの。一緒に行かないかい?」
 アリアが目を丸くする。
「一緒に……?」
「ええ、それがいいですわ。一緒に行きましょう、外の世界へ」
 柳に続いて、キュキュも頷いた。
「無理……アリアは閉じ込められている。だから、出れない」
「誰に?誰に閉じ込められているんだい?」
 
その時だ。
 キュキュの近くに横たえられていた怪我人の一人が、呻き声を上げながら目を覚ました。彼はアリアを見つけ、目を見開き――
「ば、ば、化け物だ!!」
 叫び声を上げた。
「…!!」
「こ、こ、こいつが、俺のうう腕を、腕の肉を食い千切りやがったんだ!化け物!消えろ!化け物!」
「何だって……」
 柳がアリアの顔を見つめると、アリアは悔しそうに唇を噛み締めていた。
「化け物、化け物!ひいぃ……」
「やめろ」
 歌沙音が怪我人を制した。

 化け物。

「そうだよ。化け物、アリアは化け物だ……」
 アリアが拒絶に目を閉じる。

 ゴゴゴゴゴ……

「なんだ……?」
 宝石の床が、壁が、音を立てながら、少しずつ動き始めた。
 迷宮が変化する。

 *

「わぁ…!」
「ひゃっ!」
 ぐらりと。大きく床が揺らいだ。床だけではない、壁が、天井が、それぞれが左右上下別な方向に向けて動き始める。
「……迷宮が、形を変える?」
 壱の目がふと、床の上に付着する何かを見つける。パズルのように組み変わる床の一部に、緑の、液体らしいものが滴っていた。
「……真山さん!」
 壱が目を離している隙に、通路が延び、柳達との距離が離されていた。
「柳君、キュキュちゃん、歌沙音ちゃん。僕行ってくる」
「ど、何処へですか!」
「ん?ちょっとそこまで」
 壱は片眉をひょいと上げ、おどけた笑顔を見せた。
 
 *

 離れていく。
 アリアの居た場所が、どんどん遠くに流されていく。
「……!」
 歌沙音が追い掛ける。
「アリアちゃん…!ずっと、独りだったんだよね……!?」
 柳が怪我人を支えながら叫んだ。
「た、大変……!み、皆様こちらへ。ああ、アリア様……!」
 キュキュは動けない怪我人達を触手で包んで、何処か広い場所を探す。
「アリアちゃん!うぅ、ど、どどどうしよう…!」
「一乗院様、危ないですわ!」
「え、わぁ!?」
 わたわたと焦っていた柳に、横から壁が迫ってきた。
 キュキュが触手をしゅると伸ばし、柳の腕を引いて避けさせる。
「あ、ありがとうキュキュちゃん」
「一乗院様、そちらの方は私にお任せ下さい、行かれるのなら…さ、早く!」
 キュキュは柳の支えていた怪我人を預かり、彼の肩に触れ、そっと魔法を施した。
「ええと。御守りですわ」
「キュキュちゃん……助かるよ!」
 柳が笑みを残して走っていった。

「アリアは一人でいい……」
「一人で居たいなら。好きにするといい」
 アリアの近くに辿り着いた歌沙音が、息を切らしながら見下ろしている。
「けれど君は…今のままでは死んでしまうよ」
「ほっといてくれ!お前にアリアの何が分かる!」
 アリアは歌沙音の足をばしりと叩いて、耳を塞いだ。

 ゴゴゴゴゴゴ…

 迷宮が震えている。
 アリアが震えている。
「……分からないよ。君の気持ちは分からない。自分が独りだと思った事はあったけれど。それでも私は、独りになれなかったから」
 歌沙音の意味深な物言いに疑問を抱きつつも、アリアは顔を上げない。
「お前なんか、お前なんか…普通に生まれた人間の癖に……!」
「ああ、私は普通に生まれた。だから、私は――」
『彼ら』を救えなかったんだ。
 歌沙音の全てを奪った炎は、今なお熱と焼け爛れた臭いを持って、優しい思い出を燃やし尽そうとする。
 けれど歌沙音は過去を浄化しつつある。それは決断であって、生きる力であって、孤独を歩む覚悟だ。
 だからこそ歌沙音には、言える言葉がある。
「君は、生きなくちゃ駄目だ。独りだとしても」

 ゴゴゴゴゴゴ……

 迷宮が、揺れる。
 その時――
 天井の上部にぶら下がる水晶のランプが、アリア目掛けて落下してきた。
「!!」
「――うわぁ…っ!」

 ドゴッ!
 くぐもった鈍い音。

「い、痛……って、痛くないや。あ、キュキュちゃんに魔法かけて貰ったんだっけ……」
 アリアを庇い、落下物を背中に受けたのは、柳だった。
「一乗院君。ナイスタイミングが好きだね」
「それって褒めてるのかなぁ、ははは…」
 柳は苦笑いを溢した。
「な、何で……何で、アリアを……?」
 アリアは恐れるような顔で柳を凝視している。
「何でって……誰かが傷つくの、好きじゃなくてさ」
「アリアは、人食いなんだよ……?お前達の仲間を、食べてきたんだ」
「……だからって、僕は、君を嫌いになったりしないよ」
「………」
 柳はアリアを励まそうと、出来るだけ笑顔を見せる。
 アリアの瞳から敵意が消えたのを見て、歌沙音が言った。
「まずは。君の半分を捕まえに行こう」

 *

「君だったのか、あの子の半身は」
 ウゴウゥ……
 この時、壱は始めて真正面から、それを見た。
 黒い単眼、八対の足、金色の胴体を持つそれは、あの大きな蜘蛛だった。
 球状の頭頂部は――削がれたように一部損失していた。まるで蓋を開けたジャム瓶のように、どろりと濃い緑の血が満ちている。

 わたしは ありあ

 大蜘蛛の目玉がぎょろりと壱を捉えていた。

 ありあをいじめた ゆるさない

 ウゴウゥオオォッ!!
 僅かな足の擦れる音と共に、鋭い顎で壱に襲い掛かってきた。
「――ッ」
 可能な限りバックステップを踏み、回避して、身を低く死角を狙うように跳ぶ。

 ズシャァッ!
 蜘蛛の八の目玉が、広い視界に壱の行く先を捕え、すかさず長い足で貫こうとする。

「おっと……!やるね?君――うわ」
 不敵に笑んだ殺那、口から糸が吐かれ、慌てて帽子を抑えて逃げ仰せる。
 足元からせり上がってくる壁に気を付けながら、走る。
「クモ君!君は何故、あの子から逃げた?」

 ありあが にんげんになりたかったから

 アリアが切り離された時、彼女はほんの一瞬……穏やかな顔をした。
『怪物』の部分と、離別出来たと。
「それから、どうして迷宮を閉じたんだい?」

 ありあが ひとりになりたがったから

「……支離滅裂だなぁ」
 壱は苦笑し、蜘蛛の背後に回るように疾走を続ける。
(あそこだ)
 床からせり上がってくる壁の場所を見抜き、すかさず前へ立つ。

 ウゴウゥォォォ…ッ!
 大蜘蛛が壱に襲い掛かる――

 ズゴォッ!

 鉱石を擦り合わせたような破壊音が響いた。
 大蜘蛛の顎と歯が、壁に食い込んでいる。
「残念。こっちでした」
 壱は壁の前から忽然と姿を消し――せり上がる別な壁の、上部に乗っていた。
 高い所からスチルショットを構えている。
「痛かったらごめんね?」

 ズドォッ!

 小規模にエネルギー弾が爆ぜる。

 *

「アリア……アリアは、何故アリアから逃げた。アリアがアリアから逃げたから?だからアリアも、逃げたの?」
「一人称と二人称ごっちゃになってるし……」
 柳の小声のツッコミは、歌沙音の横目で制された。
キュキュがふたつのアリアを繋げ、切断面に回復魔法を施している。

 ウゴウゥォォォ…

 わたしには ありあがいる
 けれどありあは ひとり

「アリア……ごめんね」
「はい、これで何とか…応急処置でしかないのですが」
 治療が終わり、キュキュがアリアの手に触れる。
「アリア様……さぞ孤独だったのでしょう」
 キュキュは手を伸ばし、アリアの顔を寄せ、抱き締めた。
「さぞ、お寂しかったのでしょう。こんなに凍えるまで」
 柔らかいぬくもり。
 柳もアリアを見つめた。
「君はずっと独りだったんだよね?こんな所に、独りで。辛かったんだよね」
 言いながら柳の脳裏には、冷たい地下の一室がよぎっていた。
 己の病気を蔑まれ、長年閉じ込められていたあの部屋。憎悪と慟哭に染まるあの牢獄で、発狂しなかった自分が不思議なくらいだ。それはきっと…あの人の声が、言葉があったかもしれない。
 柳はアリアの居る迷宮とあの部屋を、心の中で重ねてみた。
「アリアちゃん。此所には窓が無いよね。一個も」
「……まど?」
「空が見えないよ。だからさ、外に出て青空を見よう?きっとさ、宝石よりも綺麗だって思うんじゃないかな……ってちょっと臭いかな、はは…」
「一緒に行こう。君がもし、独りが辛いなら……私の我儘だけれど。友人になってくれないか」
 歌沙音がアリアの肩に手を乗せる。
「ふむ。じゃあ僕からも」
 壱が苦笑を漏らしながら、アリアの頭をぽむぽむと撫でた。
「あ……」
 アリアの瞳が揺れた。
 温かいぬくもり。心が――心が溶けていく。

 ありあはもう ひとりじゃない

 パラパラ…パラ…
 ずっと独りだった心が、
 作り上げてきた心の壁が、
 今、優しい温もりに抱かれて、パラパラと砕けて風に溶けるように消えていく。
「ありが…と」

 壱は天を仰いだ。そこに宝石の天井はなく、あるのはただ、銀幕市の青い青い空だった。
 迷宮は今、解放されたのだ。

「帰って来れたね」
 歌沙音は周囲の住宅街を眺め、呟いた。
「ああ、良かった……」
 柳は安堵の溜め息を溢しながら、どすりと地面に腰を落とす。
「私は、皆様を病院までお連れ致します」
 キュキュが怪我人を触手で包んだ。アリアは彼女の胸で、穏やかに眠っていた。
「私も行くよ。病院の近くに用があるし」
 冗談なのかサバサバしているのか、歌沙音が怪我人を一人支える。「僕も手伝うよ」と、柳が慌てて立ち上がった。
「あれ。僕だけ帰るのズルイかな」
 壱が笑って、背伸びした。
「じゃ。皆で行こうか」
 風が少しだけ吹き、青空が彼らを見送った。
 不安と夢の詰まった、それでも明るい青空だった。

クリエイターコメントお待たせしました、亜古崎・初シナリオをお届けに参りました…!
如何でしたでしょうか。
皆様の暖かいプレイングに支えられ、こうしてひとつの物語を書き終えることが出来ました。
アクションシーンや心理描写など、色々自由に動かしすぎたのではないかと…少しドキドキしてはいるのですが(汗)
少しでも皆様のお心に残るような、素敵な物語に仕上がっていれば幸いです。
口調の違和感や誤字・脱字・ご意見等御座いましたら、お気軽にお知らせくださいませ。
この度は、シナリオへのご参加、誠に有難う御座いました。
それではまた、銀幕市の何処かで。
公開日時2008-03-09(日) 18:50
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