★ 【ネガティヴゾーン探索】Capture ★
<オープニング>

 『穴』の向こうで待ち受けていたもの、それは見渡す限りの空と海だった。
 だがそれは、なぜか歩いて渡ることのできる海であり、その底を透かせば、銀幕市の廃墟がよこたわっている。
 そして生彩のない空には、奇怪な生物――ディスペアーたちが泳ぐ。
 そこはネガティヴゾーン。絶望の異郷。

 ムービースターを狂気に駆りたて、人間の心さえ騒がせる負の力に満ちた世界・ネガティヴゾーンで、調査隊は巨大な脅威と遭遇した。
 鯨に匹敵しようかという巨大なディスペアー「レヴィアタン」である。
 この存在と未知なる領域を前にした市民の選択は、十分な準備を整えてから、多くの市民の協力で、この領域の探索を行うというものだった。
 かくして、いっそう厳重な警戒が『穴』に対して行われる一方、アズマ研究所では急ピッチで「ゴールデングローブ」(ムービースターにとっての、ネガティヴゾーンにおける命綱だ)の量産が行われた。
 そしていよいよ、探索部隊が出発する日がやってきたのである。

「現在の『穴』の底には、例の『門』のかわりに複数の横穴が口を開けている。このそれぞれが、どうやら、ネガティヴゾーンの別の地域に通じているらしいのだ。そこで、志願者は何名かずつのパーティーを組んでもらい、それぞれ別の横穴の先へ偵察に赴いてもらう」
 マルパスが参加するものたちを前に説明する。
「むろん、足を踏み入れた途端に攻撃を受ける可能性もあるので、突入援護の部隊を編成し、警戒は怠らない。『入口』よりしばらくはこの部隊の警衛を受けながら、探索部隊を各偵察ポイントまで送り出す格好になるだろう。その後、突入援護の部隊は、万一『入口』が閉じてしまわぬよう、これを守護する形で探索部隊の帰還を待ちながら待機することになる」
 分担と連携を行うことで、今回の探索はより安全かつ効率的なものになるだろうとの見通しだ。マルパスは続けた。
「ネガティヴゾーンにはどのような危険があるかわからない。引き際を誤ると拙いことになるだろう。特に、レヴィアタンに遭遇した場合はすみやかに撤退し、情報を持ち帰ること。撤退にあたっても、待機部隊による撤退支援が行われる。この探索によって情報が集められれば、あの存在を滅ぼすための作戦にも着手できるだろう」
 それでは健闘を祈る、と言って、マルパスは金の瞳で、勇敢な挑戦者たちの顔ぶれを、もう一度見回すのだった。

 ★ ★ ★


 モニター群やコンピュータ、機材類がずらりと並べられ、大量のコード線が植物の蔦のように周囲に延びていた。うっかり足を引っ掛けてしまいそうで、誰もまともに近付く気になれなかった。
『AZUMA.S.P.LABO』とロゴが刻まれた数台の白い大型車の周囲を、白衣を着た人々が忙しく行き来している。
「作業能率を高め急ピッチで量産に当たりましたが、ゴールデングローブの性能を落とすような真似はしていません。最終検査も万全を期しています」
 パソコン画面の青白い光を眼鏡に反射させながら、その研究員が続けた。何時になく動き回っている研究所の職員を尻目に、一人簡素なテーブルの上に置かれたパソコンと向き合っていた。
「それでは、すぐにでも使用出来ると」
 コードを恐れた植村が、少し離れた所から声を掛ける。
「はい。安全性に関して理論的に問題はありません。我等が博士の発明は偉大でした」
「ええと、その東所長はどちらに?」
 柊が辺りを見回す。行き来する白衣の研究員の中に、あの小柄ながらも存在感の濃い老人は見当たらない。
「博士は仮眠中です」
「はあ…仮眠ですか」
「作業に熱心なのは素晴らしい事ですが、徹夜を繰り返すのは体に毒ですから止めて頂きたいものです。もう歳なんですし。全く」
 何だか嫁のような愚痴を零すので、思わず植村は苦笑いした。
「また徹夜なさったんですか……何だか申し訳無いですね。東所長には心から感謝しています」
 柊が眉を少し下げながら礼を告げると、眼鏡の研究員は軽く会釈を返した。
「これ以上徹夜されて体を壊されても困るので、我が研究所で開発した強力睡眠薬をコブ茶に仕込ませて頂きました」
「………は!?」
 とんでもない事を淡々と言われ、二人は口を開けて固まった。
「効果は抜群でした」
 更に何処かで聞いたような一言を付け足す。

「前回の探索で博士が収集したネガティブパワーの観測データは、セキュアシステムの開発に大いに役立ちました」
 白衣の研究員達が大型車から荷物を運び出しては、彼の周囲に積み上げ始めた。白い布で包まれたものや、剥き出しの機材らしきものもあった。
「更なる研究の貢献として、対象物のサンプルを収集したく思っています。なので……」
「……なので?」
「私を連れて行って下さい」
 柊と植村は眉を潜めて暫し顔を見合わせる。何故こう、命知らずな研究者ばかり居るのだろうか。
「いや……それは危険ですから…」
「百も承知です。私も同行させて頂きます」
 最後には有無を言わせぬ口ぶりだ。柊は小さな溜息を漏らした。
 そうしている間にも、眼鏡の研究員の周囲に荷物が置かれていく。小さなものばかりだったが、積み上げられて小山と化していた。
「申し遅れました。リサーチ・フェローの西宮と申します。調査分析が主たる業務ですが、場合によっては人材の教育指導にあたったりもします。宜しくお願いします」
 眼鏡の研究員、西宮が立ち上がってお辞儀する。白衣のポケットを探り、何やらカードのようなものを取り出した。
「博士……行って参ります。例えこの身に危険が及ぼうとも。研究の為に死ねるなら本望です。どうか見守っていて下さい」
 ゴーグルを小粋な角度で装着した、一度見たら二度と忘れられないだろう顔のマッドサイエンティストの写真を、彼は神に祈るような顔で見つめていた。
 植村が引き攣った顔で後ずさった。

「……では。準備が整ったようですし、参りましょうか」
「いや、あの」
 柊と植村は、困った顔で思わず手を延ばしたが、西宮はお構い無しに荷物の確認を始める。
「勿論、ネガティブゾーン内の物質を採集する為の装置も開発済みですよ。それから遠隔磁力制御ユニットに、バイオイーザー。非常に強度の高い材質で――」
 誰にともなく説明しながら、西宮が荷物を背負おうとしゃがんだ。
 のだが。
「…………お、重い……」
 見た目冷蔵庫な荷物の山は、研究室に引き篭もっていた男の筋肉では持ち上げる事すら叶わなかった。
「………探索隊の方に、少し手伝って貰った方が良さそうで…すね」
 柊と植村が同時に溜息をついた。


 真っ暗な闇の先は、空と海の世界が拡がっていた。
 いや、世界などと呼ぶのは不適切かも判らないが、そう感じてしまうほどに、広い広い場所だった。
 仄暗いような仄明るいような、不安定な薄紫の空が上空を覆う。ふわふわと黒い影が飛んでいる。海は青く青く、何処までも果てが無いかのように続いている。
 太陽の灯も星の影も、その地平線に現れる事は無かった。
 ぽぽ。
 平坦な海面からぬるりと奇怪な立体が顔を出した。液晶画面を指先で触れたように、酷く均一で緩やかな波紋が広がる。
 一個、二個、三個、いくつもいくつも。
 永いこと打ち捨てられたじゃがいもに似た物体や、失敗作のビー玉みたいな物体は、海面を彷徨い、また海の下に沈んでいった。
 空も海も生き物の息吹すら感じさせないのに――胸の内を掻き毟られるような、目尻がじりじりと焼けるような、苦しい喪失感に苛まれる。
 
 何故。何故。
 何故、懐かしい。

 胸の奥の痛みは切ない悲鳴を挙げ、あたかも同郷がそこにあるような気にさせるが、きっとそれは血迷った錯覚だ。
 黄昏。
 誰もが飼い馴らす最果ての居場所。
 けれどそこは、哀しみを寄せるにはあまりにも――狂っていた。
 おぞましい。
 青くておぞましい。
 汚らしい。
 何故。
 淋しい淋しい。
 誰もそんな事言ってない。
 悔しい悔しい。
 誰もそんな事言ってない。
 苦しめばいいのに……。
 誰もそんな事、言ってない。

 何故何故何故。

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!注意!
イベントシナリオ「ネガティヴゾーン探索」は複数のシナリオが同時に運営されますが、一人のキャラクターが参加できるのはいずれかひとつになります。また、イベントシナリオに参加したキャラクターは集合ノベル「支援活動」には参加できません。

種別名シナリオ 管理番号604
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
クリエイターコメントこんにちは。今まさに旬なネガティブゾーン探索シナリオのOPをお届けに上がりました。

当シナリオ・亜古崎が担当致します探索部隊は、アズマ研究所の研究員Aこと西宮が同行します。ちなみにAとは「足手まとい」の略だと思われます(何)
彼は知的好奇心の赴くままに怪しい物に近づいたり、勝手に行動するかと思います。目を離すと何をしでかすか分かりませんので、十分お気をつけ下さい。生身の人間である以上(しかも運動神経無さそう)、危険に太刀打ち出来る力はとても低いと思われます。彼の任務遂行の為に、宜しければ助太刀してあげて下さいませ。研究所の発明品をいくつか持っていくようなので、何か借りてみるのも良いかもしれません。

お気をつけて出発してください。くれぐれも喧嘩の無いように、そして、青い闇に心を囚われないように。無事に御帰還することを祈っています。

参加者
小暮 八雲(ctfb5731) ムービースター 男 27歳 殺し屋
エルヴィーネ・ブルグスミューラー(cuan5291) ムービースター 女 14歳 鮮血鬼
ディズ(cpmy1142) ムービースター 男 28歳 トランペッター
二階堂 美樹(cuhw6225) ムービーファン 女 24歳 科学捜査官
崎守 敏(cnhn2102) ムービースター 男 14歳 堕ちた魔神
<ノベル>

 伸びやかな音色が、遠くへ遠くへ響き渡る――
 
 ある者は傍観した。
「あそこへ落ちると、我々は反転してしまうらしい」
 煙草の煙を燻らせながら、男は静かにその光景を眺めていた。この街の人間達がひとつになって、今、絶望という脅威に立ち向かっている。

「もし私が落ちたら…この世界を愛せるようになるのだろうか」
 まさか、と頭を振り、そっと笑んだ。
「愛も憎悪も同じもの。所詮我が煤色など、赤や白の眷属に過ぎない」
 誰に語っているのだろうか……虚ろな眼差しで一人、彼にしか分からない事を呟いていた。
 煙草を地面に落とし、踏み躙る。微かに雑草の焼ける臭いがした。
「……絶望に捕われてしまえ、白い世界の住人達よ。愚かさを身を以って知ればいい」
 風が吹き、雲が地上に陰を落とした時にはもう、男の姿は何処にも無かった。

 明るい金管楽器の音色が、やがて歌うように軽快な音楽を紡ぎ始める。

 ある者は祈った。
「お嬢様、どうか…」
 どうかご無事で。帽子を胸に当て、瞳を閉じ、忠誠を誓う騎士のように彼女は祈りを捧げた。恩人が、主人と従う少女が、失われるような事が決して無いように、と。

 トランペットは鳴り響いた。心地良い鈍色の音を響かせて、何処までも遠くへ。
 鷹が空へ羽ばたくように、心地良くも力強い息吹で音色は紡がれていく。閉ざされた世界へ赴く全ての彼らへ、そして彼らの帰還を待ち望む彼女らの、犇めく祈りを翼に宿して。
 叶う事なら、全ての者へ届けばいいと。

 その音色を奏でる彼もまた、ある少女に願いを送られていた。
「無事に帰ってくるのじゃぞ、ディズ」
 天上に群れる薄紅の花を、また何時か一緒に見ることが出来たら、と。

「…む?今、歌が聞こえたような――」
 その暖かい音色は、遠くまで届いただろうか。

 *

 音色の残響を耳で追い掛けた後、ディズはゆっくりとトランペットを下ろし、誰にともなく一礼した。
 世界は無音の空間に戻り、自分達が『此処に居る』という事実を再び思い起こさせる。
 黄昏の異郷。
 集った彼らはそれぞれに門を潜り、それぞれに、この空と海の世界と対峙しに向かった。
 此処からでは他の部隊の現状が分からないのだ。
 一人一人が抱く思いは同じかもしれないけれど。
 それでも彼らはそれぞれに、絶海の孤島の中心に居た。
「…なあ、何処まで届いたと思う?」
「さあな」
 軽快な足取りで先頭を歩いていたディズが尋ねると、後ろから素っ気ない男の声が返ってきた。逞しい身体つきの若い男、小暮八雲の声だ。荷物を肩に担ぎ、面倒臭そうな顔をしている。
「アハハ、素敵な演奏だったよ!」
 ぱちぱちと拍手をしながら、崎守敏が愛らしい笑顔を零した。
「ジャズも良いけれど。クラシックの方が、雰囲気が優雅で素敵じゃなくて?」
 淡々と告げるのは、日傘を差した小柄な少女、エルヴィーネ・ブルグスミューラーだ。
「クラシックか。お安い御用だ」
 にっと笑みを零し、ディズがトランペットを構える。
「ちょっと。あまり大きな音を出さない方が良いんじゃない?」
 後ろを歩いていた白衣の二階堂美樹が声を掛けると、ダークスーツのトランペッターが片眉を上げて「そう?」と首を傾げた。

 ネガティブゾーン探索部隊の一つ、彼らの部隊は、先頭をディズがトランペットを掲げながら歩み、続いてアズマ研究員・西宮が機材類を背負って歩いていく。
 荷物が重そうな西宮を眺めながら、ゆったりとした足取りでエルヴィーネが隣を歩き、反対側、少し距離を置いて敏がマイペースに進んでいく。西宮の背後を美樹が歩み、割と背の高い  八雲は、西宮持参の機材類を軽々と肩に担って最後尾を歩いていた。八雲の場合、足の長さ故に歩幅が大きくなり、他メンバーを抜かしてとっとと先へ進む事も可能だったが、あくまで一番最後を歩いた。ディズも同じく歩幅が大きかったが、彼は己の道を突き進んだ。
「パレードみたいだね!」
 面子を見回して敏がにこりと笑顔を見せる。いつもの彼の、真っ赤な外套に黒装飾という不思議な装いは、何故か今日は赤いTシャツと黒い半ズボンに変わっていた。色合いはアレでも、割と年相応の少年らしい格好だ。手持ちの荷物も少ない。
「おい、お前も手伝えって」
 機材を担いだ八雲がディズに声を掛ける。敏や美樹も荷物持ちをしていると言うのに、彼の持ち物と言ったら青銀色のトランペットのみなのだ。
「あら。レディに荷物を持たせてご自分は手ぶらだなんて、紳士のする事ではないわね」
 シルクの日傘の奥からエルヴィーネが淡々と釘を刺した。レディとは美樹の事を指しているようだ。そういうエルヴィーネもまた荷物持ちを手伝っていないのだが、外見が少女なだけに、手伝えと突っ込みを入れる人は居なかった。外見だけはか弱そうだったので。外見だけは。
「ああ、俺の事か。ははは。悪ぃ悪ぃ」
 ディズがくるりと振り返り、西宮の荷物をひょいと持ち上げた。
「わ…乱暴に扱わないで下さ――」
 急に軽くなり、バランスが悪くなって西宮が転倒する。コンクリートや砂利の地面ではないのが幸いだったが、機材の幾つかが海の下に沈んでいった。
「あぁ!大事な発明品が…!」
 八雲と美樹が溜息を零した。

 *

 静かな世界は濁った青に支配され、海底に沈むあの街は、静寂と停滞に包まれていた。まるで滅びを迎えた地のように。
 音は無かった。
 ただ、吐息のように生温い風が、探索隊の面々に付き纏ってくる。
「……何か来るかもな。気ぃ抜いてると、死角を突かれるかもしれねぇ」
 空や海を睨むように目配せしながら、八雲が呟いた。殺し屋としての勘が告げているのかもしれない。何も無い空間こそ、得体が知れない、と。
「油断は禁物って事ね。気をつけないと」
 白衣のポケットに入れたディレクターズカッターを握り締め、美樹が真剣な表情を作る。
「西宮さん。研究所の話をしたいんだけど――」
 ちょっと良い、と西宮の方を向いた。
 のだが。
「これは何でしょうか。大変興味深いですね」
「まるでサーモンをソテーにしたような物体ね。それかロブスター」
「なんか美味そうだな……!?」
 脇の方に白衣と日傘とスーツが揃ってしゃがみ込み、海中から浮かび上がってくる奇怪な物体に見入っていた。

「おい……お前ら、少し緊張感を持てって」
 やや呆れ気味にぼやき、八雲が西宮の襟をぐいと持ち上げた。
「別に甘く見ている訳ではありません。科学者は憶測で判断しません、これは立派な研究の一環で」
「お!凄ぇ何だあれ……!」
 眼鏡を掛け直しながら西宮が説明と言う名の言い訳をしていると、ディズが彼方に何かを発見し、ぱたぱたと犬のように駆けていった。
「何、何か見つけたのですか」
 西宮が興味津々、機材を抱えて後を追い掛けていった。
「……無駄か」
「大丈夫。次はこれよ」
 美樹が手荷物の中から巨大な――ハリセンを取り出して、八雲に見せた。
「下手な獲物より物騒なもんに見えんだけど」
 この面子、大丈夫なのだろうかと、八雲が盛大な溜息を漏らした。
「アハハ!美樹ちゃん、西宮ちゃんとお揃いだねそういえば!」
 白衣の辺りが。
「崎守君、お揃いとか言わない」
 目を逸らしつつ、美樹が静かに『同類』を拒否した。

 *

 ぎちりぎちり。
 右腕を動かそうとすると、間接や筋肉が強張り、若干ぎこちない動きになる。
「成る程ね」
 ゴールデングローブによって、右腕に秘められた異形の能力は制限されているらしい。懐中電灯型にしたその『命綱』を眺めながら、敏が目を細めた。
 ぎちりぎちり。
 ぎこちないのは、腕だけでは無かった。
「……」
 遠く遠く離れた、はっきりしない曖昧な地平線や、空の彼方に浮かぶ可笑しな雲を眺めていると、何故だか胸が締め付けられるような気がしてくる。
 成程、あまり見入るべきものでは無いだろうと、敏はそっと目を逸らした。
(…でも、何処へ?)
 周りは空。
 周りは海。
 目を逸らそうとも、周囲は何処までも果ての無い青に包まれているのだ。
 逃げようの無い場所へ飛び込んでしまったのでは無いかと、改めて思う。
(覚悟はしていた、していたけれど)
 不快な親近感が、じんわりと心を締め上げてくるのが分かる。
 愛おしい切望。
 どうしても。還りたいのだと。
「おい、大丈夫か?」
 ぽん、と肩を叩かれて、敏がはっと顔を上げた。
「無理すんなよな、具合悪くなったら言えよ。気分が落ち着く曲でも吹くからさ」
 トランペットを構えたディズが、にっと笑って敏の頭をぽんぽん叩いた。
「ありがとうディズちゃん!」
「よせやい、ちゃん付けすんなって」
 敏が満面の笑みを見せると、ディズが片手で帽子を深く被り直し、笑顔を隠した。

「西宮さん。探索の話だけれど…改めて、そちらの目的を伺うわ」
 肩に乗ったサニーディのバッキーを撫で、美樹が西宮に尋ねる。
 警察官としての、市民の安全を守りたいという忠義の意思と、ネガティブゾーンに対する科学者としての淡々とした興味が、彼女を突き動かしていると言えるだろう。
 この地に生きる者を護りたい。
 この地に現れたという、異世界の存在を知りたい。
 どちらかではない、両方が動機だ。矛盾しているようにも見えるが、それが美樹ら、科学捜査官の本分と言えるかもしれない。
「最大の目的は、ネガティブゾーンの物質を収集する事です」
 ノートパソコンを片手に乗せ、反対の手で器用にキーボードを叩きながら西宮が告げた。エルヴィーネが隣から、彼の手つきを何となく見物している。
「ネガティブゾーン内より発生するパワー、言わばネガティブゾーン内物質の常備エネルギーの観測につきましては前回の調査で博士が収集してきましたので、今回の観測データに関しては備蓄や照合の域を出ません。我々の意向としては革新的な――いや、事も具体的に述べるのは非常に複雑な、基本的な思考としては同じなのですが」
「待て、頼むから待て」
 次第に早口になっていく西宮を八雲が制する。
「ややこしい口上は御免だ。簡潔に言ってくれ」
「つまり、何かしらのサンプルを持ち帰れば良いって事かしら?」
 特に難しい顔をする事なく、西宮の早口をふんふんと理解しながら聞いていた美樹が言った。
「その通りです」
 西宮が頷く。
「僕も何か手伝うよ!」
 敏がにこにこと笑みを零した。
「人手が必要でしたら、手伝って差し上げてもよろしくてよ。研究者さ――」
「おい、何だありゃぁ…!?」
「何を見つけたんですか!」
 エルヴィーネが言い終わらぬ内に、ディズが何かを発見し、彼方へと駆けていく。西宮が機材を構えて後を追い掛けていった。
「周りを……」
 美樹が前に出る。
 ゆらりと。
「顧みなさい―――ッ!」

 ばっしーん。

 紙製のハリセンによる会心の一撃が繰り出され、見事過ぎる快音が響き渡った。
「まあ。仲良しだこと」
 吹き飛んだ眼鏡と帽子が誰のものかは、言うまでもない。

 *

「何故そんなものをお持ちなのか、お尋ねしたい所です…」
「紙も意外と痛いもんだな。いや、勉強になった」
 首を摩りながら西宮がコード線を鞄から引きずり出し、ディズが帽子の型崩れを気にしていた。
「現地に来てた研究員の人から渡されたの。『西宮対策』だそうよ」
 凄く普通に美樹が答える。
「…リサーチ・フェローにしてティーチング・フェローのこの私を家庭害虫呼ばわりするとは…良い度胸ですね。ラボに戻ったらみっちり指導し直しましょう」
 そりゃあ間違いなくお前が悪いだろ、と八雲は思ったりしたが、言っても無駄そうだったので敢えて口にはしなかった。
 鞄の中から延ばしたコードをパソコンに接続し、西宮が眼鏡を光らせる。
「では…皆さん。研究の成果をご覧になりますか?」
 
 *

 此処へ来て、かなり時間が経過したような気がする。味気ない青色ばかり続いているから、そんな風に感じるのかもしれないが。
 海面に浮かんできた流木だか人の腕のようなものを眺めながら、エルヴィーネはふと、同居人の事を思い出したりした。
 ――あの子はきちんと、お留守番しているかしら。
 帰ったらシナモンを利かせたロシアンティーを煎れて貰うつもりだ。出来れば黒スグリのジャムとスコーンも。

「そちらを開けて頂けますか」
 パソコンのキーボードを叩きながら、西宮が敏の提げている鞄に目をやった。研究所の機材類が入っている彼の鞄である。
 敏が鞄のチャックを開ける。中に合成革のケースに包まれた四角い箱が収まっていた。引っ張り出してケースを剥がすと、中身は白い箱のような機器だった。
「わあ。西宮ちゃん。これは?」
 敏が嬉しそうに上蓋やら側面やら箱の底を見回す。
「サンプルを持ち帰る為に必要になるかと。ネガティブゾーン内物質、言わばマイナスエネルギーの充満した空間に置いて存在しているものを、一時的に保管して置く為の装置です」
 何処となく『おかもち』に似た形状の箱の蓋を開けると、中は真ん中が金属板で仕切られており、黒いシャーレが数個、並べられていた。
「わあ!仕組みが気になる、分解していいかな!」
「駄目です」
 眼鏡を光らせて即答した。
「…西宮さん。ひとつお願いがあるのだけど…」
「はい、何でしょうか」
「収集したサンプルの一部を、こちらでも分析したいと思ってるの。少し、持ち帰っても構わないかしら?」
 手袋やピンセットを装備し始めた美樹の質問に、西宮が疑問符を顔に浮かべる。
「それは…二階堂さん個人の研究でしょうか?」
「個人作業である事は間違い無いのだけど……あまり公には、ちょっと」
 うーんと唸りながら言葉を濁した。
 今回のネガティブゾーン探索及び調査に関して、市長から県警の方へ要請が出されていたのだ。科学捜査官としての分析作業が可能だが、無論非公式である。
「…分かりました。そちらの事情に関して詮索するような真似は致しません」
「出来れば、その特別製のヤツを借りたいのだけど」
 と言って、シャーレを指差す。
「研究所の発明品を持ち出すのはあまり好ましくありませんが…作業を手伝って頂くのですし、まあ、良いでしょう。どうぞ」
「ありがとう」
 笑みを見せ、美樹の顔が完全仕事モードに切り替わった。
「なぁおい、これって何だ?や、こっちのトロンボーンみたいなのも気になんな……!」
「ちょ、ちょっと。弄り回さないで下さい…!」
 西宮の背負っている機材類に目をつけ、ディズが興味津々あれこれ摘んだり蓋を開けたりし始める。何かしでかされると西宮が慌てて避けるが、好奇心に憑かれた彼は、金魚の糞の如く背後にくっついて来た。
「これ…何だ?」
 西宮リュックの蓋を開けると、中に白い棒状のものが見えた。思わず掴んで引っ張ってみる。出て来たのは折り畳まれた長い棒で、先端に、針金の輪と編み目の粗い袋が付いていた。
「虫捕り網みたいだね!」
「何に使うんだ、そんなもん」
「それは、空中で活動、若しくは停滞している物質を採取する為の装置です…わ、わ、スイッチが」
「あ。ごめん」
 ぽち。
 実に解りやすい電子音がした。ディズがやっちまった的な顔をしている間に、リュックの中からパラボラアンテナが飛び出し、西宮の頭に打撃を与えながら回転を始めた。

 *

 ぷくく。
「ほら、浮かんできたわよ。研究者さん」
 エルヴィーネが足元をそっと指差した。海面に広がる緩やかな波紋の中心から、目玉のような丸い物体がころんと現れた。西宮が振り向き、しゃがみ込んでピンセットで摘み上げる。
「なるべく色んな種類のサンプルを集めた方が良いわよね?ええと…これお願い」
「おいおい……。俺は荷車じゃねえぞ。ったく」
 八雲に更なる荷物を持たせ、美樹がパソコン操作とサンプル採集に専念する。
「美樹ちゃん、数値化した周波の上限、あまり差は無いけどとっとく?」
 小型の計測装置の端末を操作しながら、敏がその辺をうろうろしている。
「ええ、保存したいからこっちに転送して欲しいわ」
「西宮ちゃーん。電子情報の移動ってどうやるのかなー?」
「ファイルの転送はですね、こちらの画面を展開して……」
 思わず美樹と敏の顔を見比べる。
「お二人とも、腕が良いですね」
「私は仕事柄、こういう作業は良くやってるから」
「西宮ちゃんの教え方が上手だからさ!」
 美樹はパソコンを弄りながらそつなく、敏は少女めいた笑顔で答えた。
「そう、西宮ちゃん。君は此処をどう思う?」
「此処、ですか?」
 ふむ。と唸って、眼鏡越しに先程採集した物質を見つめた。エルヴィーネがしゃがんだので、彼女にピンセットとシャーレを渡す。
「此処はマイナスエネルギーの充満した空間です。ムービースターが何の装備も無しに来た場合、長時間、いや、短時間ですら常態保持が適わないでしょう」
「でしょうね、本当に。崎守君から貰った周波数のデータ、とんでもない数値だわ」
 眉を寄せ、美樹がパソコンを睨むように見る。
「ムービースターはプラスエネルギーの周波を帯びています。ですからマイナスエネルギーを浴び続ければ、必然的にマイナスに傾きます。では逆は……どうでしょうか」
「逆?」
「マイナスエネルギーがプラスエネルギーを浴びた場合は、どうなりますか」
 そうね、と声を挙げたのはエルヴィーネだ。
「平方根で無い限り、負数も自然数の影響を受けるわね。負数は負数の影響下に置いて自然数に傾く事は無いでしょうから、理屈としては、加法に置き換える考え方は合意的ではなくて?」
 さらさらとまるで数学の論文でも読み上げるように、エルヴィーネが難解な理論を述べる。その姿勢は落ち着き払っていて、幼い容姿に似合わない。
「おっしゃる通りです。つまり、マイナスの物質がマイナスとして存在する為にはマイナスの空間が無くてはならない。物質が存在する為に用意されたスペースか、或いは空間の中にマイナスの物質が発生したのか、起源は定かではありませんが、此処はそういう関係の場所なのかもしれません」
「成る程ね」
「上下が曖昧な関係性は同時に、どちらかが失われた場合、著しい均衡の崩壊の可能性がある……って訳か」
 ふんふんと頷く敏と美樹とエルヴィーネを余所に、八雲とディズが疲れきった顔をした。
「全っ然解んねぇよ……!」

「さて、作業の続きをしないと……おや」
 と、彼方に波紋が浮かぶのが見えて、西宮が機材を持って近付いていく。
「……おい」
 波紋の揺れ方が歪だ。
「西宮ちゃん。やめときなよ」
 それは。危険な匂いがするぞ。
 しかし西宮はどんどん近付いていく。
「――あら、研究員さん。あそこにもっと面白いものがあるわ。ご覧になって」
 エルヴィーネが指をつい、と空中に向ける。白いしなやかな指先から赤い糸が滴ったように見えた。いつの間にか空中に、真っ赤な花のような幻が咲いていた。
「え、何です」と振り返った西宮が、花を見て興味津々、方向を変えてそちらに近寄っていく。
 その瞬間だった。

 ――ざざざぉぉおお!!

 突如、黒い影が海中から飛び出した。
 ディスペアーだ!ディスペアーが西宮の白衣の裾を食い千切り、空へと舞い上がっていった。
 あと一歩後ろに下がっていたら。穴が開いたのは白衣では済まなかっただろう。
「……わあぁ!?」
「腰抜かしてる場合じゃねぇぞ」
 機材の幾つかを躊躇いなく捨て、八雲が西宮の腕を引き上げる。
「こっち来るぞ――危ねえ!」
 ――ギャアァッ!
 Uターンしてきたディスペアーが面子目掛けて突っ込んできた。間髪入れずディズが長い足で蹴り飛ばす。

 ダンッダンッ!

 殺す気で掛かってくる相手に、殺し屋は一切の容赦をしない。獲物を引き抜いた八雲が、ディスペアーに数発、風穴を開けた。

 ――ぐぎャアあァ……ッ!

 悍ましい悲鳴を挙げ、奇怪に蠢いた後、黒い影は砂のようにざらざらと散っていった。

 *

「あ、あんなものが…居るのですか」
「多分、他にも居るぞ」
 八雲が銃を仕舞い、腰を抜かし気味の研究員に念を押した。
「あ、東博士……見守っていて下さい」
「アハハ、西宮ちゃん、あずまんが大好きなんだね!」
 青褪めた彼の肩をぽんぽん叩いて、敏がにこにこ笑んでみせた。
「西宮さん。さっき採集してたサンプルなんだけど」
「は、はい?」
 美樹はいつの間にか作業を再開し、再びパソコンと睨めっこを始めた。その肝の据わりっぷりも職業柄、なのだろうか。
「色んな種類のサンプルのデータを比べてたんだけど……どうも、特徴が無いのよ。周波数は同じ揺れだし。これじゃあまるで……」
「全く。同じ物質」
 美樹がキーボードをタン、と叩いた。
「同じエネルギーの影響化にあるから、単に似ているだけかもしれない。詳しく調べてみないと」
「そうですね……」
 ふと、敏が思い出したように声を上げる。
「そういえば。さっきの物質と空間の話だけども。物質が存在する為に空間があるか、空間がある為に物質が生まれたか、って話をしたよねー?」
「はい」
「仮定を増やしてみよう。物質か空間か、どちらも起源ではないとしたら」
 はっとした顔の西宮に、敏がにこりと笑顔で言ってみる。
「それはつまり……もっと別な何かが、二つを同時に存在させた、と」
「元気出たかい?」
「………は?」
 敏がぽむぽむと再び西宮の肩を叩く。
「何だ、敏は慰めようとしてたのか」
「はぁ…」
 ディズがからからと笑う。八雲が何だかな、と肩を竦めた。

「うんとね。西宮ちゃんに聞きたい事がまだあるんだ」
「…何でしょうか」
 笑みを少し緩め、敏が西宮の目を見る。
「彼女は元気かな」
 西宮の眉がぴくりと動いた。
 彼女。
 その三人称が指す人物が誰か、研究所の人間である彼にはすぐに分かった。美樹やエルヴィーネではない。銀幕市の成り行きを知る、この街に身を置く人間が、アズマ物理研究所の人間に尋ねる『彼女』とは。
「……。目立った変化はありません」
「それはつまり、変わらず正気と狂気を繰り返してるって事かな」
「ええ。そうなります」
 眼鏡の奥の瞳が視線を逸らした。
「彼女は……助かるかな?」
「現状では何とも言えません」
「君はどう思う?君から見てさ」
「………。私は」
 美樹や八雲、ディズが西宮の言わんとしている事を想像した。彼の一言が全てを決める訳が無い、そんな事は絶対有り得ないけれど、でも。
「皆さん」
 口を開いたのは、エルヴィーネだった。
 エルヴィーネが日傘を少し傾け、周囲に目配せする。八雲やディズも場の空気が変わりつつある事に気が付いた。
「…それどころじゃあ、無さそうだな」

 ざんざざんざん
 ざんざざんざんざんざざんざんざざん

 八雲が機材のリュックを背負い直し、銃を装備した。エルヴィーネが日傘を閉じる。
「なに、何が来るの……!?」
 ざんざんざざん。
 海面から大量の黒い闇、ディスペアーの群れが飛び出した。

 *

 音色は空気を操って美しく鳴り響く。
 街の空気が少しずつ移り変わっていくのを、その楽器は知っていた。
(空気があんなに湿っぽくなっちまった。まるでシケったクラッカーだ)
 目を伏せて哀悼の意を捧げたところで、悲しみの連鎖が止まる訳ではない。
 血色に染まる涙は流れ続ける。人の数だけ別れの可能性は膨張し、恐れの数だけ別れは増える。悲しみを生むまいと出会いを避ければ、笑顔の数も増える訳が無い。
 つまらない、寂しい繰り返しだ。
「何処へ行ったって、変わりゃしないのにな――なあ、ブルーノ。俺に何が出来ると思う?」
 トランペットは鳴り響く。

 ざばばばば……

「ひ、ひい……」
「西宮ちゃん、離れちゃいけないよ」
 黒い闇が辺りを埋め尽くしていく。よく見れば、ひとつひとつが魚のような形をしているようにも見える。エルヴィーネが両手を空に掲げた。白い両の腕に、ぱぱぱと幾つも切り傷が生まれ、赤い霧が噴出する。
「駄目ね。威力が無いもの。気休めにしかならないわ」
 大量の鮮血は空を覆い、巨大な盾となってディスペアー達の前に立ちはだかったが――闇の群れが何度か体当たりすると、盾は簡単に破れ、食い千切られてしまった。ぱたぱたと血の雫が滴り、海中に赤黒い染みを落としていく。
「気休めは気休めらしく――数を稼げば良いのよ」
 エルヴィーネが何度も鮮血の結界を張る。ディスペアー達が何度も食い破る。それは美樹や敏達が背後に避難するまでの、せめてもの時間稼ぎになった。己の体内を流れていたものが醜悪に喰われている様子を見てもなお、彼女は涼しい表情を崩さない。

 ――ぎゃああぁ、ざざあああ!

 鳴き喚くカラスのような、怒り狂う不気味な音が聞こえる。
「おい!そっち行ったぞ!」
 黒い影がずあああぁぁと滑るように美樹の元へ迫った。
「きゃあ………!」
「――伏せろ!」
 八雲の銃がディスペアーを狙う。銃口が狙いを定める。弾丸が発射される。
 撃ち抜く。
 全ての動作は一瞬の内に片付けられた。
「さて、どうする?撤退するか?」
 八雲が西宮に横目を送りながら言った。一介の研究員である彼に戦う術が有るか無いか、それは危機的状況において生死を分かつものである。
 腰を抜かしている姿を見るからに、恐らく後者だ。多分、間違いなく。
「あら」
 エルヴィーネが首を傾げた。
「こんな素敵な場所に来たのに……楽しまないのは損ってものよ?狩人さん」
 あどけなさの残る幼ない顔立ちに、何処か惚とした妖艶な笑みを浮かべ、エルヴィーネが2丁の拳銃を取り出した。
「上等だ」
 八雲が、にぃと狼のような狂暴な笑みを零した。
 二人のハンターが闇を仕留めに掛かる。

 何故。
 何故何故何故。

 ざんざざんざんざざん。
 ざんざざんざんざざんざんざざん。
「キリが無ぇな……おい西宮!上!」
「わあ!」
 ――ガッ!
 ディズが西宮の頭を押し込んでしゃがませ、鋭い蹴りを繰り出した。ディスペアーを蹴り落とす。
「こ、これは……人間を襲ってどうしたいのかしら!」
 ディレクターズカッターで応戦しながら美樹が叫んだ。
「……何でこんなに苦しそうなんだろうね、この子達は」
 敏が闇を見上げる。

 何故。

「おい、敏……!」
 何故?
「何故僕は、懐かしいんだ……」
 不快な親近感が、再び胸の内を荒らしに来た。
 彼らは。
 彼らは望郷の念に囚われているのではないか。
 愛しそうに、愛おしそうに切ない悲鳴を挙げ、何故、何故?と何度も問い掛けて縋ってくる。
 くすんだ瞳は涙を流し、やがては溶かしようの無い海原と成り果てる。
 孤独は孤高ではない。汚染だ。
(僕と同じか)
 ……一緒にするな。
「こんな場所は――僕の帰りたい場所じゃない!」
 敏が小型のナイフを握り締めた。

 何故何故何故。
 自分を引き摺り落とした奴らが憎かったんだろう。うらんでいらだって、おまえはその時どうした。さいやくをおこしたのだろう。

〈殺しちまえよ〉
〈ぜんぶ、噛み殺しちまえ〉

「―――ッ!!」

 その時。
 耳に届いたのは、トランペットの音色だった。

 *

 一歩下がって敵を蹴り上げ、くるりと身体を捻って回し蹴りをぶちかます。片手にはトランペットを離さない。と言うより、彼は演奏しながら闘っていた。
 変ロ調の心地良い音色が響き渡る。息遣いは乱れる事なく、滑らかに曲を奏でてみせる。
 その音色は、聴く者の心を落ち着かせ、負の感情を取り除いた。
「ディズちゃん……ありがと!」
 敏が笑顔で手を振った。トランペッターは返事の代わりに片眉をひょいと上げ、演奏を続ける。

「わ……!サンプルが!」
 ディスペアーを避けた拍子に、西宮が態勢を崩した。
 シャーレを収納した機器が落下する――
「おっと」
 敏が今にも転びそうなバランスの悪い体勢で、ひょいと機器を掴み上げる。
「…危ねっ」
 ディズが足の爪先でシャーレをこつんと拾い上げた。
「気をつけろよ…ったく」
 宙に飛んだシャーレを、八雲がぱしりと受け取る。
「後でお返しして頂かないと――ふふ、冗談よ」
 エルヴィーネが血の触手を作り、しゅるんと拾ったシャーレを機器に仕舞い直した。
「生きて帰らなくちゃ……って言ったら、大袈裟かしら?」
 美樹が西宮の肩をぽんと叩いて、励ました。

 *

 闇を切り抜ける為に。
 必要なもの。

 *

 ざんざざんざんざざんざんざざん。
 ダンッ!ダンッ!

 上から飛んでくるディスペアーを撃ち抜き、すかさず真横に迫るディスペアーを撃つ。
 背後から来る相手は気配で分かる。

 ダンッダンッダンッ!!

 右と左の獲物を器用に使い分け、八雲が銃を乱射した。割と性能の良い銃だ、鉄の引き金にあまり重みを感じない。やはり連射は愉しい。
「多くても、数に限りはあるだろ。多分だけどよ」
「ある程度闘ってみれば、分かるんじゃなくて?」
 言いつつ二人とも、すでに相当な数のディスペアーを減らしている。
「あら――そっちへ行ったわよ」
 拳銃を撃ち放つ合間に、エルヴィーネが八雲の側に小さな血界を張る。ディスペアーの動きが止まった一瞬、八雲が銃で射抜いた。
「そりゃどうも」
 エルヴィーネも特に目を合わさず、どういたしましてと呟いた。
 小さな淑女の軽やかなステップに合わせ、緋色のスカートがふわりと揺れる。

 ダンッダンダンッ!

 2丁の獲物を巧に操り、可憐な舞いで敵を抹殺していく。劇鉄が火花を上げる。
「ふふ、あれを見て。狩人さん」
「お、あれが親玉ってとこか」
 蝿のように飛び交う群れの奥に、少しサイズの大きいディスペアーが一体、ざわざわと蠢いていた。
「せいぜい中ボスってとこだな」
「そんな事を言っている人に限って…足元を掬われるものよ」
 八雲が銃口を向ける。
 エルヴィーネが日傘に仕込んだライフルを向ける。
 狙いは逸れる事無く、同じものを穿った。

 ――ギャアァあああぐあぁあああああああ……!!

 闇の群れは羽根のように吹き飛び、漆黒のフラワーシャワーのように舞い散って、ゆっくりと空気中に溶けていった。


 *

 何故。
 人は、悲しみを忘れていく。

 *

「さ、帰りましょう」
 門の前に立った彼らが、腰を伸ばしたり肩を叩いたりして、思い思いに疲労を表現していた。それぞれが門を潜っていく。
「皆さん」
 西宮が面子の顔を振り返った。
「私は銀幕市の者ではありません。ですから、この街を忘れる事も、見殺しにする事も可能です」
 眼鏡の奥の瞳の色は。
「好きに選びなって、自分の身を守って何が悪い?危なくなったら逃げろよな」
 ディズがにっと笑みを見せた。
「良いんじゃねえの?それはお前らの自由だろ……」
 面倒臭い、と言わんばかりに八雲が欠伸した。
「私は……」
 何と言えば良いか分からず、西宮は項垂れた。その肩をぽむぽむと叩いて敏が笑みを零す。
「帰ったらもっと発明品を見せて欲しいな!分解して仕組みを見てみたいし」
「分解は駄目ですよ……」
 やり取りが何だか可笑しくて、美樹が笑い声を上げる。

「ほら。帰りましょう、皆さん」

 帰ろう。
 闇のトンネルを抜けて、日の光が当たる場所へ。
 待ってくれていた優しい人達の元へ、帰る為に。

クリエイターコメントお待たせしました、ネガティブゾーン探索シナリオをお届けに上がりました……!

皆様の素敵なプレイングを受け取って、どんな風に練り上げて行こうか、どんな言葉を言って欲しいか、色々考えて、色々頭を捻ったりしました。このシナリオが、これからの銀幕市に影響していく一つの物語なんだな、と亜古崎自身、何度も頷いて執筆しました。出来るだけ皆さんのプレイングを採用したいと思い、詰め込むだけ詰め込みました。ちょっとセリフが長い一面があったりかもなんですが……(汗)
皆様のお心に残るような、深い物語に仕上がっていれば幸いです。そして、皆さんの全てのプレイングを採用できなかった私の非力をお許し下さい。
口調の違和感や誤字・脱字・ご意見等御座いましたら、お気軽にお知らせくださいませ。
この度は、シナリオへのご参加、誠に有難う御座いました。銀幕市の行く先が、暖かい未来である事を祈っています。
公開日時2008-06-28(土) 20:00
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