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<ノベル>
「……はっ、はっ」
夜の蚊帳が降りていた。
暗澹とした空に月の姿は無い。ただ、氷のように冷ややかな星明かりだけが、窓ガラス越しに宵闇に沈む細長い廊下を照らし出していた。
「……はっ、ふっ…」
ずらりと列ぶ強化ガラスの窓に一人の少女が写り込む。つるりとした廊下を移動しながら、誰も居ない深夜の校舎を走っていた。スニーカーの底はゴム製なのだろう、足を踏み出す度にキュッと小さな摩擦音が鳴る。音らしい音はそれぐらいだったが、静まり返った屋内では少女の息や衣擦れの音でさえやけに響き渡った。
重々しい冷気を四肢で振り払い、少女は闇の中を急ぐ。
やがて一つの錆びれた扉の前に辿り着き、ようやくその足を止めた。
「遅くなってごめん」
かちゃりとノブを回して扉の向こうに顔を出すと、既に集まった仲間達が引き攣った顔でこちらを凝視していた。現れたのが彼女だと分かるや否や、「脅かすなよ」と安堵の苦笑を漏らして肩から力を抜く。ごめん、と再び軽く謝罪し、少女も彼らの輪に加わった。
「廊下のロック本当に外れてたね。どうやったの?」
「先生のカードキー擦り替えたの。大丈夫よ、あの先生が興味あるのはお菓子と昼寝とミズ・ジェシカのヒップだけだから」
薄明るい室内にはは、と仲間の笑い声が上がった。赤毛の少女は静かにして、と言いながらも冗談ぽく笑みを見せ、合図とばかりに面子を見渡した。
「さて……皆集まったし。始めよう」
仲間の一人が立ち上がって室内の照明を落とすと、彼らの周囲に一気に暗黒が訪れた。
ぽう、とオレンジ色の灯が燈る。今ではかなり珍しい、電気の代わりに火を光源とする小さな照明器具だ。部屋の中央に置くと、床に白いチョークで描かれた不可思議な絵がぼんやりと浮かび上がった。少年少女はゆっくりと壁際に身を寄せると……用意してあった、ルージュよりも色の濃い薔薇の花びらやドライフラワーを部屋の中央に投げ始めた。
何をやり始めたのだろうか――その答えは次の少女の言葉でおおよそ検討が付くだろう。
「我らが守護霊様。姿を現し下さい――」
守護霊様、と少年少女が復唱する。暗闇を照らす炎に充てられたかのように、彼らの身体は次第に「ほてり」を覚えていく。
――守護霊様……。
壁に浮かび上がるシルエットがぐにゃりと奇怪に歪んだ時、甲高い悲鳴が木霊した。
何となく「そんな予感」はしていた。
別に予知能力が発現した訳ではない、単純に「前例が大方このパターンだった」という具体的な比較によるものである。
――一体これで何件目だ。
レオンハルトはふぅと溜息を一つ零し、オフィスの入口から意味ありげに視線を送ってくる二人の男に目をやった。
彼らがDPのオフィスに現れてから実に数十分が経過している。一般的な警察官の格好をした片方の男が一人の小柄な男性を引き連れ、警察署の最果てに位置する――場所としては隔離されているとまでは行かなくても、部署の異質さとしては最果て――この刑事部能力捜査課のオフィス入口にやってきたのである。
警察官は目当ての男を見つけると、彼です、と連れの男に指し示した。
「か、彼が本当に……?」
強化ガラスの向こうで山積みの書類とパソコンの前に座る男に目をやり、男性は緊張感からごくりと息を飲む。
只者とは到底思えない鋭い目をした男は一瞬ちらりとこちらに視線を送ると、何事も無かったかのように再びデスクワークに集中し始めた。
連れの男は頬を引き攣らせ、警察官はやはりこの反応かと眉を寄せつつも僅かに汗を滲ませた。
レオンハルトが視線を送っただけで、いとも簡単にその場の空気が凍てつくのである。
「………」
入るなら入って来ればいいものを、オフィスに足を踏み入れるのを躊躇した二人は、入口からそわそわとオフィス内の様子を見渡し始めた。
足を踏み入れただけで木っ端みじんにされるとでも思ったのか――精神的には常人であるものの、外見や能力的には規格外の曲者揃いで有名なディビジョン・サイキックの根城に恐れを為したのか、なかなか一歩を踏み出せずに居るようである。片方の警察官に至っては、此処へ訪れるのは初めてではない筈だと言うのにも関わらず、同じく二の足を踏んでいた。
壁際で黙って立っている観葉植物の方が、通行の邪魔にならないだけよっぽど利口である。
「………」
呼ばれるまで無視に徹するつもりだったのだが、このままじろじろ眺められているのも不愉快だったので、とりあえず霧の良い所で仕事を中断し、レオンハルトは立ち上がった。
「……それで?」
テーブルの向かいに腰掛ける二人の男に一瞥を送ると、レオンハルトにしては珍しく自ら話題を切り出した。
「で、ですからその。子供達が変なんです」
彼の無愛想な態度にたじろぎながら、ハイスクールの教師だという小柄な男は、これまでの経緯と此処に訪れるに至った理由を語り始めた。
「学校ではポルターガイストみたいな変な現象が続いていて、ネット回線もセキュリティバンクも調べて貰ったんですが、何処にも異常は無いし……可笑しくなっている子供達は皆、オカルトサークルに入っていた子達だったんで、何か怪しい儀式でも開いて……その。変なものでも呼び出してしまったんじゃないかと」
『変なもの』と敢えて伏せられたそれに、レオンハルトが頼りにされた理由が含まれていた。
「……どの子もまるで、悪霊に憑かれたみたいで……馬鹿げた事言ってますよね、この時代に悪霊だなんて」
「その『馬鹿げた事』の後始末を、君達は私に頼むつもりなのかね」
あ、と罰が悪そうに教師が口を噤む。レオンハルトは無表情のまま溜息を一つ零した。顔には表さなかったが、何処となく呆れているようにも感じられる。
「Do not call a ghost!『興味本意で霊を呼ばないで下さい』と広告でも作ったらどうかね?ハンドル・キーパーのポスターぐらいには効果が出るのではないのか」
半ば投げやりにも聞こえてくるレオンハルトの物言いにまあまあ、と警察官が仲介に入り、眉を下げながら言った。
「頼むよ。そういうのをお願いできるのは、あんたぐらいしか居ないんだ。本当に霊が居るっていうのなら、祓ってほしいんだ」
「私はエクソシストではない」
他を当たってくれ、とばかりにレオンハルトは何度目かの溜息を着いた。向かいに腰掛ける教師が落胆に肩を落としたのが目に入る。
要するに彼ら教師の怠慢でもあったのだ。オカルトサークルなどという得体の知れないクラブ活動を野放しに、このようなろくでもない事態を引き起こしてしまったのだから。或いは何らかの規制を掛けていたにしても、結果的に防げなかったのだから同じ事である。
これは所謂、集団社会に蔓延る「弱いものイジメ」に近い。そこに通う者達を律し、護る筈の存在である責任者達が「全く気付かなかった」「不測の事態だった」と狭い視野のままとりあえず方々に頭を下げているのだ。
そう、まさに『彼ら』にとってはイジメも同様に良い迷惑だろう――レオンハルトがそう感じるのは、彼にしか分かり得ないもう一つの『感覚』があり、「不可視の存在」が何たるかを理解しているからだ。
「………」
しばし黙考に耽るレオンハルトに、二人の男は気まずそうに顔を見合わせた。
いつの間にか出されていたコーヒーは、とっくに冷めていた。
……しょうがないと言ったらそれまでだと言う事も、無論彼は理解している。
彼らには『それ』が見えず、その感覚が理解出来ないのだから。考え方を変えれば、直接的ではないにしろ、この教師もまた被害者の一人なのだろう。
だからレオンハルトは、彼に一つだけ尋ねる事にした。
「君は」
「……は、はい?」
話を振られたのだと気が付き、教師が慌てて返事を返した。
「君は、霊という存在を信じるのか」
レオンハルトの眼差しは鋭く、相手の心中まで射抜くかのようだ。視線に耐え切れず教師は目を逸らし、小さく頭を振った。
「……分かりません。何とも。ただ、幽霊が本当に居るのなら……死者の魂は、敬われるべきだと思います」
「………」
目を細めて軽く肩の力を抜き、レオンハルトは冷めきったコーヒーに口を付けた。
かつり、かつりと靴の音が響き渡る。
窓ガラスから入り込む月光はあまりにも頼りなく、闇に閉ざされた校舎の隅々までは届かない。まるで永遠に続く回廊のような、息を飲むほどの二点透視図の世界と化した廊下を滑るように移動しながら、レオンハルトは壁面に目をやった。
乱暴に破壊された掲示物が生々しい。鋭利な刃物で傷付けられたのだろう、悪戯にしては度が過ぎる痕跡に手を触れ、レオンハルトは目を細めた。
「………」
『ふむ。愚か者の匂いが漂っておるな』
不意に彼の背後にふわりと何者かの気配が降り立ち、レオンハルトへと声を投げ掛けた。
「………」
あくまで無視を決め込むレオンハルトに、何が愉快なのか『彼』はくくく、と一笑する。
『この者……既に何人(なにびと)かの魂を喰ろうておる。汝の手には余るのではあるまいか。どれ、我が手を貸してやっても良いのだぞ?』
堕天の翼をはためかせながら、彼は深く静かに甘やかな囁きを漏らした。
結構、と簡素な一言を返し、レオンハルトは再び校舎内を散策し始める。
『やれやれ……』
肩を竦め、翼の主は嘲笑めいた笑い声を漏らした。
と、その時、廊下の向こうから何者かの足音が響き渡り、レオンハルトは背後へ振り返った。
『愚か者が現れたようだな』
月光を浴びながら窓辺で優雅に足を組む男を無視し、レオンハルトはつかつかと足早にそこへ向かった。
「ご、ぞぞぞ、」
ナイフを壁面に当ててぎちぎちと傷を付け、少女は陰欝な笑みを零した。
「ご、ごぞじでやっだ」
「ごろじてやっだ」
「だくさんこぞじてやった」
彼女しか居ない筈の廊下に、一人のものとは思えない沢山の不気味な声が木霊する。
――殺してやった。
――沢山殺してやった。
彼女の中に侵入し、身体を乗っ取った『影』達は、醜悪に蠢きながら堕落した欲望を垂れ流し、衝動のままに少女の手に持たせた刃に乗せて外界へと放った。
ざくざくとあらゆるものが刻まれていく。破片で少女の手が傷だらけになったが、痛みすら喜ばしいとばかりに、口許からだらしなく涎を垂らした。
かつん、かつん。
「………!」
その時だ。足音に振り返った少女の身体がぴしぴしと強張り、一気に身動きが取れなくなった。
「う、あが、が」
何だ、何だ、何が起きたと少女の中でざわめくような声が湧き上がる。闇の中から姿を現した一人の男に目を向け、一層ざわざわと騒ぎ始めた。
殺してやる、殺してやる、
ひざまずけ、殺してやる。
「他に言葉を知らないのかね」
レオンハルトは少女の中に居る侵入者をじろりと一瞥し、呆れたように一言告げた。
「ぐ、う……生意気だ……うぅ!」
歯軋りしながら少女がレオンハルトを睨みつけた時――途端に、その身体から一切の力が抜け落ちた。
どさりと崩れ落ちる少女にぴくりと眉を動かし、レオンハルトが声を掛けた。
「大丈夫か」
しゃがんで身体を起こそうとしたレオンハルトに――突然、悍ましい形相を浮かべ、少女がその首へと掴み掛かった。
ひひひ、かかか、ぐげげ、卑屈な笑い声が響き渡る。影達がハッタリを仕掛けたのだ。
レオンハルトは少女の両手を引きはがすと、相変わらずの無表情で彼らと対峙した。
少女の足元からざわざわと不気味な影が広がり始め、辺り一面に人間の顔のような黒い塊が飛び交った。
うおおおん、うおおおん、と断末魔にも似た低い遠吠えが響き渡る。
レオンハルトは軽く周囲に目をやると、すぐに本体である少女に視線を戻した。
「ううう、かかがががっ!」
少女はナイフを振り上げ、一目散にレオンハルト目掛けて振りかざした。
「集合体か。悪霊の」
軽く身を捻ってかわし、レオンハルトは背後に跳躍して距離を取った。
うあああ、し、死んでしまえええ。
周囲に飛び交う黒い影が、白い歯を剥き出しに、大口を開けて一斉にレオンハルトへと飛び掛かった。憑かれた少女も無我夢中で刃を振るい始める。
「何にせよ――此処に在るべきではない」
レオンハルトは淡々と一言告げると、飛び交う悪霊達を能力で払い飛ばし、暴れる少女の背中へと手を伸ばした――。
どれほどの時間が経ったかは分からない。
気が付いた時、彼らは夜の世界から昼の風景の中に居た。
窓際から昼間の日差しが流れ込む。明るい光を忌ま忌ましく思いながら、彼らは抜け落ちた思考力で今の状況を推察した。
――そうだ、男だ。
――殺した筈だ。
あの男を消し、再び少女の身体を根城にして宿主の日常へと戻ってきたのだろう。昼の時間は忌ま忌ましいが、太陽が沈み、宿主の身体を支配しやすい闇の時間が訪れれば、再び自身の力を顕著し、欲望のままに暴れ回る事が出来る。
く、けけけ、と悪霊が笑みを零した時だ。
「あのう」
室内の入口から顔を覗かせた男が、おずおずと話し掛けてきた。
――またエクソシストか。
――我々を祓える者など居ない。
生きた人間は何も出来ないのだと醜い高笑いを上げ、少女の腕を通して鞄に隠したナイフを抜き取ろうとした時だ。
ぐげげげ……げ。
指一本動かす事が出来ず、悪霊の笑い声が止まった。
――なぜだ。
何故だ、何故だ、と繰り返す彼らに、何処からともなく思念の声が響き渡る。
『君は、君の意思で動く事は出来ない。その理由が分かるかね?』
宿主が首を傾け、その顔を何処かへと向けた。視界が捉えたのは一枚の鏡であった。
鏡の中に写り込むのは赤毛の少女の顔ではなく、金髪の、鋭い赤い目をした一人の男――夜の校舎に現れた、あの生意気な忌ま忌ましい男だった。
体内で途端に叫び声を上げる悪霊達に溜息を落とし、レオンハルトはカタカタとパソコンのキーボードを叩いた。
彼は少女の身体から悪霊を引き離した後、自らの身体に降霊させて連れ帰って来たのである。少女の身体では好き放題暴れていられたのだろうが、レオンハルトの能力と人並み外れた精神の強さより、今は動き回る事も力を振るう事も叶わなかった。
『他者の肉体は他者のものだ。他人が我が物顔で使役して良い筈が無い』
叫び声を上げる悪霊達へ、レオンハルトは淡々と告げる。聞こえているかは分からないが、訳も分からずこの世へ引きずり出された彼らへの、彼なりの配慮だったのかもしれない。
『君達は此処に居てはいけない。還りたまえ――在るべき場所へ』
タン、とキーボードを叩いたと同時に――彼の中に居た影達が、一斉に跡形も無く消え去った。
「あのう」
DPのオフィスの入口から顔を覗かせていた警察官が、おずおずと声を掛けてきた。今日は自分から話し掛ける気になったらしい。
ちらりと視線を寄越すレオンハルトに軽く挨拶し、話を切り出した。
「例の事件はどうなった?解決……したのか?」
「今」
告げられた二文字の言葉が一瞬理解出来ず、警察官が呆けたような顔をした。
「いまって……ああ、今纏まった所なんだな。それは良かった」
恐らく違う意味で頷いたのだろうが、特に訂正もせず、レオンハルトは相変わらずパソコンに向かい合っていた。
ただ、
「不可視の存在は――結局、形在るものの影にしか存在出来ないのだろう」
「……はい?」
彼らしからぬ、意味深な長い一言に目を丸くし、警察官が再び間抜けな顔をした。はっとして礼を言おうとした時には既に、レオンハルトはカタカタとキーボードを叩いて報告書の作成を始めていたのだった。
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クリエイターコメント | お待たせ致しました。時代が移り変わっても蔓延るもう一つの「影」のお話、如何で御座いましたでしょうか。 内容はシリアスめに、静かで暗い影の存在を意識しつつ執筆させて頂きました。 何か口調等、気になる点が御座いましたら、お気軽にご連絡下さい。 この度のオファー、誠に有難う御座いました。お気に召して頂けましたら、幸いで御座います。
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公開日時 | 2009-06-16(火) 18:40 |
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