|
|
|
|
<ノベル>
▽須哉逢柝/一乗院柳/アーネスト・クロイツァー/アディール・アーク/シャノン・ヴォルムス
「私、ここから出てもいいの?」
少女はすがるように顔を上げた。瞳は涙でうるんでいる。うるんでいるだけでこぼれ落ちないのは、涙が尽きてしまったからかもしれない。
彼女のこれまでの人生を想い、須哉逢柝(まつや あいき)は力強く断言した。
「当たり前だろ。誰だって自由に決まってる」
一乗院柳(いちじょういん りゅう)もまた、強く唇を噛んでから言った。
「自分勝手な願いかもしれないけど……僕も君に自由になってほしいよ」
一同を代表してアディール・アークが、少女の背後を指さした。
「あそこに光が見えるだろう?」
少女がそっと、おびえながら振り返る。
どす黒く塗りつぶされた世界に、針で刺したような小さな光点があった。そこが出口だ。この非道い世界の。
「行くがいい」
皆から一歩下がった位置で、状況を見守っていたシャノン・ヴォルムスがうながした。
それでも、いまだ決心がつかないでいる様子の少女に、アーネスト・クロイツァーがもう一度言った。
「君は自由なんだ」
逢柝も、柳も、アディールも、シャノンも、少女の生を肯定した。無下に扱われてよい命などないのだ。
少女は唇をきゅっと引き締めると、勢いよく背中を向けた。それは遠くに光る出口へと向き直ったことを示していた。
ゆっくりと、だが着実に、少女が一歩一歩を踏み出していく。光に至れば、彼女の魂は救済されるはずだ。道は、彼女自身が歩んでいくしかない。
「よかった……」
まずは、そう言って表情をゆるめた逢柝に変化が現れた。
顔面に違和感を感じて、指先で触れてみると肌の張りが失われている。自分では確認できないが、この凹凸はきっとシワだ。
「はじまったみたいだな」
怖くないと言えば嘘になる。しかし、これは自分が決めたことだ。
逢柝だけではない。柳も、アディールも、アーネストも、そして時の魔法を知らないはずのシャノンの肉体でさえ変貌していく。
いや、変わっていくのではない。進んでいくのだ。
彼ら、もしくは彼女は、急速に老いていた。
柳が膝を折った。やせ細った足が、自重を支えきれなくなったのだ。身体中に開いた百の目は、どろりと黄色によどんで、ちろちろと血の涙を垂らしている。
「――っ!」
ついに右手の甲から眼球が一粒流れ落ちた。それを合図に、全身から腐臭とともに目の玉がこぼれる。
びちゃり。びちゃり。びちゃり。
逢柝はその凄惨な光景を前にして、怯んだりなどしなかった。気丈にも柳の身を案じて駆け寄ろうとし――前のめりに床につっぷした。
軽い音と軽い痛みしかなかったことに、驚く。からからに干からびた右足が変な方向にねじ曲がっていた。転んだ衝撃で折れたのだろう。床から伸ばした腕も、針金のように細かった。
「り……ゆう」
うまくしゃべれない。歯が抜け落ちていることにようやく気づいた。
それでも、逢柝はその手を、血まみれで床にうずくまる柳に向かって差し出す。今まさに二の腕から滑り落ちる目玉のひとつを、手の平で掬おうとして――視界が半分だけ暗転した。
あわてて自らの目元にもっていった手の平に、ぽとりと乗ったのは、柳のものではなく、逢柝自身の眼球だった。
アーネストは比較的冷静に対処している。騒ぐことなく床に座して、静かに命の終わりを待っているようだった。
未練がないとは言い切れない。たとえば彼は腰まで伸ばした深緑の髪を気に入っていた。このまま肉体が急速に年を重ねれば、それも失われてしまうだろう。
指で髪を梳いてみた。ぞろりと抜け落ちた。緑から白へと変色した髪束の先には、ピンク色の肉片がこびりついていた。
アーネストはあらためて覚悟を決め、まぶたを閉じた。
アディールは仮面をはずそうかどうしようか迷っていた。老人になってしまえば、顔など関係ない。容貌は変わりきってしまうだろうから。
「容貌が、変わる?」
顔が変われば仮面をつける必要はないのだろうか。自分が仮面をつけているのは、顔形のせいなのか。それとも別の理由があったろうか。
思い出せない。
たしか自分には親友がいたはずだ。
思い出せない。
たしか自分は海賊だったはずだ。
思い出せない。
たしか自分は……ここはいったいどこなのか。
思い出せない。
いったい自分は誰なのか。
思い出せない。
思い出せない。思い出せない。なにも思い出せない。
脳がすべてを白紙に戻そうとしていた。
シャノンは吸血鬼だ。だから、年を取ることがない。一説によれば千歳とも二千歳とも言われている彼だ。肉体が衰える感覚に戸惑いをかくしきれない。
他のメンバーと同じように、皮膚はひび割れ、肉はそげ落ち、立っているのがやっとだ。
ふと、疑問がよぎった。
彼は吸血鬼だ。滅ぼされることもあろう。だが、同胞で老いを迎えた例など聞いたことがない。いかなる作用で、肉体が時の早回しの影響を受けるのだろう。
「そもそも……いったいどうして俺たちは朽ちているんだ?」
シャノンの自問に、アーネストが答える。頭髪が半分なくなり、顔面を血の滝が滾り落ちている。
「少女の魂を救済するには、俺たちが命を捧げるしかない。そうだったでしょう?」
「そうじゃない、アーネスト。逆だ。俺たちが命を捧げることによって、どうして少女の魂が救済されるんだ? 俺たちが朽ちていく意味は?」
シャノンの口調には、ありありと焦りが現れていた。
「それは……少女が出口へと至る際に、俺たちの命が削られて……」
アーネストの両目が驚愕に見開かれた。
「俺たちの命が削られる必要性? なぜ俺たちの命が必要なんだ? 理由が……思い出せない?!」
「そうだ。よく思い出せ。俺たちはどうやってここ来た?」
シャノン自身も確認するように問いを発する。
「対策課に依頼され、ムービーハザードである館を探索して――」
「探索などしてはいない!」
唐突に叫んだのはアディールだ。記憶の空白に蝕まれていたはずの彼の表情には理性の光が復活している。
「そうだ、記憶がとんでいる」
シャノンもまた確信した。
「これは幻だ! 逢柝、柳、アーネスト! 気を確かに持て!!」
気がつくと、全員が無事な姿でいた。逢柝、柳、アーネストといった若者たちこそ、青ざめ、べっとりと冷や汗をかいてはいたが、精神に異常をきたしているようには見受けられない。
「なにが……起こったんだ?」
柳が全身に傷ひとつないことを確かめながら言った。
「すべては幻だった、ということだ」
シャノンが鋭い視線を周囲に投げかけながら答えた。
彼らが立っているのは古びた洋館の玄関ホールだ。天井が吹き抜けになっており、前方には奧へとつづく扉と、二階へとつづく螺旋階段がある。床に敷かれた絨毯には、うっすらと埃が積もっており、蜘蛛の巣もあちこちに造られていた。もう長年、だれも使っていない様子だ。
「足を踏み入れただけでこれか」
アディールがやれやれといった感じで肩をすくめた。
そう、彼らは館の玄関から中に入っただけなのだ。たしかに対策課からの依頼で、このハザードを解決すべく、少女の遺体を探す予定だった。ところが、玄関の扉を抜けた途端に、全員が幻覚を見せられた。すべての経過を省いて、ハザード解決のシーンを脳内に直接映し出されたのだ。しかも周到なことに、メンバーがみずから死を選んだかのような内容だった。彼らが疑問を持たずに死へと向かうように。
「冗談じゃない!」
逢柝が握り拳を手の平に叩きつけた。
「あたしたちの心につけこみやがって」
怒り心頭の彼女の肩に、柳がぽんと手を置いた。
「ここで怒ったら負けだよ。きっとまたつけこまれてしまう。冷静になろうよ」
白蝋(はくろう)のように色を失った顔でせいいっぱい笑う。そんな顔で笑われたら、逢柝も頭を冷やさざるをえない。
アーネストが赤眼を光らせた。
「とりあえず、このハザードを解決する方法はわかっているんだ。なるべく早く少女の遺体を探し出すしかないだろう」
「可能な限り迅速に館内を探索するため、二手にわかれよう。さすがに個人で動くのは危険過ぎるからな」
シャノンの指示で、逢柝と柳とアディールが、シャノンとアーネストがチームを組むことになった。
「では、お互いに無事を祈ろう」
別れ際にアディールが薔薇の花を一輪ずつシャノンとアーネストに贈った。シャノンは無表情で、アーネストは少し迷惑そうに、胸に飾る。当然、逢柝と柳にも贈ろうとしたが、逢柝がさっさと柳の手を取って歩き出してしまったので、あきらめた。
アディール・チームが一階を、シャノン・チームが二階を捜索するべく先へと進む。館はいまだ、夢か現実か判然としない空気を漂わせていた。
▽南雲新
南雲新(なぐも あらた)はすべてを知っていたわけではない。むしろなにも知らなかった。散歩途中に通りがかった洋館に、なにかを感じたのは、彼の霊感の強さゆえだ。
霊にも様々な種類がある。簡単に言えば、プラスのものとマイナスのものだ。新の第六感は、プラスのものからは温かみを感じ取り、マイナスのものからは冷たさを感じ取る。その彼が館から受け取った波動は、全身が総毛立つほどの悪寒だった。
対策課が張り巡らせたであろう立入禁止のテープが、この建物自体がムービーハザードであることを無言で示していた。パーカーのフードの中から、ギアという名のバッキーが心細げな鳴き声を出す。
「大丈夫や、心配すな。ほっとくわけにゃいかねぇだろ」
ギアの背中をぽんぽんと二度叩くと、新は警告テープと館の壁とを軽々と乗り越えた。
▽須哉逢柝/一乗院柳/アディール・アーク
「さて、さっそく罠にかかったようだね」
アディールは腕を組んで「ふむ」とうなったきり黙り込んだ。
「おい! そこの仮面! 黙ってないで、あんたもなんとかしろよ」
逢柝は飛来する食器類を手刀でたたき落としながら叫んだ。
「きっとなにかしらのトリックがあるはず」
「トリックなんてあるかっ! 心霊現象だろーが!」
やかましくツッコミながらも、手足は別物のようにせわしなく働いている。視覚に頼ることなくすべての飛来物をつぶしているのは、さすがは武道の達人といったところか。
柳はというと、頭を抱えて逃げまどっていた。四方八方から飛んでくる皿やフォークやナイフなどを素手で防ぐなど、そうそうできることではない。
一行が館の厨房をあらためようとしたとき、いわゆる騒霊現象(ポルターガイスト)が起こった。はじめは食器棚やテーブル、椅子がガタガタと揺れる程度だったのだが、部屋から退避する間もなく、動くことが可能な物すべてが彼ら目がけて飛びかかってきた。
「あわわ。いったん外へ出ようよ」
ナイフが頭上を通り過ぎ、柳の頭髪を数本切り取った。
「いや。幻覚ではなく物理的に私たちを排除しようとしている。この部屋にはなにかあるのかもしれない」
腕を組んだまま、器用に身をかわしながら、アディールが言う。
「そこまで言うんなら、なんとかしろって!」
逢柝は、襲いかかってきたフォークを三本まとめてひっつかみ、放り投げている。これまた、たいした動体視力と反射神経だ。
「仕方ないね。華麗にトリックを見破ろうと思ったのだが……」
「トリックなんてあるかっ!」
「トリックなんてないですよっ!」
逢柝と柳のダブルツッコミに対し、不機嫌そうに口をへの字に曲げ、アディールは腰のレイピアを抜きはなった。
見事な剣さばきで、空飛ぶ食器をつぎつぎと両断していく。ひとつひとつ素手で対処していく空手家と違って、剣士であるアディールは一閃で複数の的を斬り裂くことができる。
ほどなく厨房で動いているのは、仮面の剣士と空手家の少女とテーブルの下に避難していた少年だけとなった。
「『霊』が相手なだけに、『レイ』ピアが効いたようだね」
アディールのヲヤヂギャグを、慣れている逢柝は完全に無視し、柳は柳で「なんで『れい』のところだけ強く発音してるんですかぁ?」などと天然めいた台詞を発した。
「とりあえず、もう『痛い』思いをしなくてすむよう、少女の『遺体』を探そう」
今度も閉口したままの逢柝、わけがわからず首をかしげる柳。
懲りないアディールだった。
▽アーネスト・クロイツァー/シャノン・ヴォルムス
二階は一階よりも部屋数が少ないだろう。予測のもとに、シャノンは二階担当を自分とアーネストの二人にした。
「アーネスト、なにかあればすぐに……」
後ろを振り返ると――
誰もいない。確かに先ほどまで真後ろにアーネストがいたはずだ。
彼の背後には薄暗い廊下が無限に伸びていた。どこまで見透かしても終わりが見えない。廊下の始まりが、闇に飲み込まれ、消え去っていた。
人であれば誰しも、閉塞感というものを感じる。狭い場所に閉じこめられれば、それだけで不快な感覚にとらわれるのだ。この廊下は決して狭いわけではない。むしろ無限に近いくらい広い。ただ、抜け出せなければ、いくら広くても閉じこめられているのと変わらない。
広大な場所での閉塞感という矛盾した状態に、シャノンは言いしれぬ不安を感じた。
ふと背後に気配を感じた。
もう一度振り返る。
この時シャノンは二つの反射行動を行なった。
ひとつは冷や汗。全身の毛穴から嫌な汗が噴き出した。
ひとつは攻撃。ジャケットの内側から抜いた拳銃の引き金を、ろくにすがめず引いた。
「なっ?!」
彼が思わず射撃してしまったのは、白いドレスの少女だった。
みずからの軽率な行動に歯がみする。胸の片隅に小さな影を落とした不安感が、指先を動かしてしまった。
自分は少女を救いに来たのではなかったのか。不安感に罪悪感が重なる。
「おい、大丈夫か?」
大丈夫なはずがない。少女は廊下に倒れ伏し、赤い水たまりをこさえていた。
いやいや、少女は死んでいる。すでに死んでいるのだから、心配の必要などない。
現に少女は血を流して倒れている。
死人は血を流さない。
血。
血。
血。
「私の血を舐めたい?」
床から顔だけを上げて、少女がくつくつと笑った。
シャノンは目を背けた。罪悪感から逃れるためか、血の誘惑を断ち切るためか、自分でも曖昧だった。
アーネストもまた独りだった。だが、うろたえてはいない。
アーネストの級友には悪霊使い(ネクロマンサー)の友人がいた。そのため、グロテスクなものには耐性がある。自分の身体が朽ちていく様に冷静でいられたのも、そのおかげだ。
いざとなれば、自分には魔眼もある。
と、思った瞬間に、魔力を宿した左目に痛みが走った。モノクルをはずして手を当ててみると、眼窩がぼっこりと落ちくぼんでいた。眼球がなくなっている。
「まったく……逢柝や柳のときと同じとは、芸がないね。ま、どうせ幻の世界なら魔眼も使えなかったろうけど」
たいして気にした風もなく、アーネストは廊下を歩き出した。
彼の余裕にはもうひとつ理由がある。彼自身がこうして幻の世界に囚われることを予測し、あらかじめ風の精霊に少女の遺体捜索を頼んでおいたのだ。少女は映画内で虐待を受けていたという情報から、クローゼットや戸棚など少女が隠れられそうな場所を中心に探すように言いつけてもあった。
アーネストはただ耐えるだけでよかった。そうすればいつかは風の精霊が遺体を発見してくれるはずだ。
ぞぶり。
何かが動いた。
ぞぶり。
足下だ。
ぞぶり。
ゾクゾクした寒気(さむけ)が背筋を這いのぼってくる。
ぞぶり。
「さて、今度はなにをしてくれるのかな?」
ぞぶり。
不敵な笑みを影が覆う。見上げる暇もなく、アーネストはそれに飲み込まれた。
ぞぶり。
床から立ち上がった黒い塊は、満足げなげっぷを漏らして、また床の中へと戻っていった。
ぞぶり。
▽南雲新
新は剣士だ。常に二本の刀を帯びている。『威虎(いとら)』、そして『臥龍(がりょう)』の二振りだ。
抜くことはいつでもできた。それをしないのが新という少年だった。
「……嬢ちゃん、苦しそうやな。俺で良けりゃ、話聞くぜ」
白い少女に向かって語りかける。
彼は今、不思議な空間にいた。勘に任せて館内を歩き回っていると、自然にひとつの扉の前にたどり着いた。第六感が導いた場所と言えよう。気にかかり、押し開けた瞬間に、無重力の宇宙空間に似た場所に放り出されていた。
少女は遠くて近くに漂っている。手を伸ばせば届きそうな気もするし、遙か彼方に存在するようにも思える。遠近感が狂っていた。
事情を聞いていなくとも、新は直感的に彼女の悲しみを感知していた。心根の優しい新だからこそ、できた芸当だったろう。
「なんや悲しいんやろ?」
ひゅいっと、吐息のごとき音色が流れた。
左腕が根本から切断された。鮮血をまき散らしつつ、きりきりと宙を舞う棒状の物体に、ちらりと視線を走らせただけで、彼はまた言葉をつむぐ。
「これで少しは気ぃ晴れたか?」
嫌味ではない。ほとばしる血潮を止めもせず、若者は笑顔だ。
吐息はやまない。
次は膝から下が分断された。
肩から背中にかけて袈裟懸けに肉が爆ぜた。
右手首から先がころころ転がった。
「ギィー!」
バッキーが切なげに絶叫する。
四肢を奪われ、立つこともできない新だったが、無重力では倒れることもない。ただ流されるだけ。
苦痛はある。普通なら大量出血で気を失ってしまうところだが、なぜか意識は冴え冴えとしていた。苦しみを味わわせるために、少女がそうしているのだろう。
わかっているだけになおさら、無理やりにでも笑顔を絶やすわけにはいかなかった。
「なぁ、言いたいことあるんやったら、言ってくれよ」
少女の面貌が醜くゆがんだ。
新の頭がかたむく。くるりと光景が回転して、おびただしい血流を噴出させる、みずからの身体が見えた。
バラバラになって彷徨う腕、足、身体を認識しながら、首だけになった新は、自分が生きているのか死んでいるのか判断できなかった。
▽須哉逢柝/一乗院柳/アディール・アーク
柳と逢柝とアディールは厨房を調査していた。
「虐待されてた女の子かぁ。他人事のような気がしないんだよね」
柳の独り言を聞きつけて、逢柝も独りごつ。
「そうだな」
柳も逢柝も幼い頃に虐待を受けた経験がある。二人とも今回が初対面であり、お互いに素性を明かし合ったわけではない。それでも、どことなく雰囲気で察しがつくのか、どちらからともなく似たような境遇だと理解していた。
逢柝が対策課の依頼を受けた背景には、自分自身と少女を重ねてしまったという経緯がある。柳もまた、重ねていないと言えば嘘になるだろう。
「怨霊になってまで自分が死んだ場所に残ってるなんて可哀相だよね」
「誰かが彼女の気持ちをわかってあげないとな」
それは二人の偽らざる心情だった。
「たしか映画では少女の遺体は地下室にあったんだよな」
逢柝はここに来る前にハザードのもととなった映画をチェックしていた。怨霊となり館に棲みついた少女は、夜ごと地下室で虐待を受けていたのだ。最後は映画の主人公である女性が、惨劇のあとが残る虐待部屋で干からびた少女を見つけ、抱きすくめることによって霊現象がおさまる結末になっていた。
「なにも見つからないね。まさか同じ場所、地下室とかいうオチはないよね」
柳があきらめたように腰に手を当てた。
「ん?」
鼻孔を刺す刺激臭に表情が曇る。
「この臭い、なんだろうね?」
逢柝に問いかけたつもりが、空振りだった。
「あれ?」
アディールの姿もない。
「う……そ……」
さっと血の気が引いた。いつの間にか独りになっている。おそらく幻覚だ。
柳は無意識に腕の絆創膏を押さえていた。その下には、百目病の症状である目があった。さっき爛れ落ちた眼球だ。
「ひっ!」
テーブルの上に置いてあるモノを発見し、息をのんだ。数秒前までは何もなかったはずだ。
首。
首。
首。
それらは、生首だった。
豚、牛、鶏を代表に、様々な食材の頭だけが綺麗に盛りつけられていた。ふだん人間様に食べられている家畜たちが、恨めしそうな眼差しで、どんよりと柳を睨んでいた。
金縛りにあったように身動きできない彼の眼前で、動物たちが一斉に涙を流しはじめた。血色の涙だ。
どくどくとあふれ出る血涙(けつるい)は、際限なく、とめどない。
「あぁ……」
喉が意味のない音を発する。一歩あとじさると、にちゃっと靴底が滑った。
床一面をどす黒い血液が覆いつつあった。
まばたき一回で、血の海は膝まで水位を上げた。
まばたき二回で、腰まで埋もれていた。
柳はもう、まばたきしないことにした。
「うわあぁぁああぁぁあぁあぁっっあ!!」
ざぶざぶ。
ざぶざぶ。
ざぶざぶ。
彼は浮いていた椅子を両腕で持ち上げると勢いよく厨房の扉に叩きつけた。
柳が突然、叫びながら椅子を扉に叩きつけた。そのまま廊下へ走り出す。
「お、おい! どうしたんだ?」
逢柝は追いかけようとして、立ちすくんだ。つま先に熱を感じたからだ。
「なんだよ、これは?!」
履いていたスニーカーのつま先が燃えていた。火の気などどこにもないはずなのに、炎が赤々と燃えているのだ。ゴムの焼ける嫌な臭いが漂ってくる。
舌打ちして、靴を床にこすりつけた。
消えない。
それどころか、火はちろちろと舌を伸ばし、ジーンズの裾を焼きはじめていた。
人体自然発火現象――
どこかで聞いたことのあるフレーズが記憶をよぎった。
「冗談じゃない!」
恥も外聞もなくジーンズを脱ぎ捨てる。燃えていたのはズボンのはずなのに、気がつけば上着が燃えていた。
上着を脱ぎ捨てると、今度は足の先、手の先から皮膚が焼け爛れていく。
めちゃくちゃに暴れ回っても、床のうえを転げ回っても、火は消えない。
ただ、痛覚は麻痺している。ひたすらに自分の身体が焼け崩れていく様子を確認しなければならない。
「あ、あ、あ、あ、あ」
皮膚がべろりと剥けると、ピンク色の筋肉が顔をのぞかせる。ピンクから紫に変色し、最後は黒く炭化していく。
いや、本当の最後は白だ。骨の白。
「ほ、ね」
四肢がゆっくりと崩れ落ちていく。
骨となって、灰となって。
言葉を発しようとしても、かちかちと骨が鳴るだけだった。
こ、の、ま、ま、じゃ、き、え、て、な、く、な……
「逢柝! しっかりしろ!」
「あ……れ? 仮面?」
逢柝は自分がアディールに抱きかかえられていることに気づいた。
アディールがほっとため息をつく。
「君のことは、あいつに頼まれてるからね。なにかあったら殺されるところだよ」
「……ごめん」
短く答えて唇を噛みしめた。再び幻覚にひっかかってしまったことが悔しいのだ。
「過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。今は優先すべきことがあるだろう?」
アディールが優しく微笑んだ。
「そうだ! 柳は?」
もともと逢柝は、厨房から飛び出して行った柳を追いかけようとしていたのだった。
「後悔してる場合じゃないな。早く柳を追いかけないと」
そう言う逢柝はいつもの精悍な逢柝に戻っていた。
立ち上がりかけた逢柝の肩を、待ったをかけるようにアディールがつかんだ。
「優先すべきことが違うよ、逢柝」
「はぁ? 早く追いかけないと柳が危険だろ?」
「まずは服を着ないと、ね」
逢柝の耳たぶが一気に朱色に染まる。
「こンの、変態仮面っ!!」
仮面が割れそうな威力の正拳突きを食らいながら、自分なんかが守ってやらなくても大丈夫なんじゃ……とアディールは思っていた。
▽シャノン・ヴォルムス/アーネスト・クロイツァー/南雲新
シャノンは血に汚れた両手を洗面所で洗っていた。
少女を――正確には少女の幻影を撃ってしまったあと、自然と世界は元に戻っていた。ただし、手の平にだけは、夢の名残のように血糊がべったりと張り付いており、濃厚な臭気が彼の周囲に充満していた。
目眩がする。
悠久の時を生きてきた彼が、血に対する欲求を抑えられないことなどめったにない。おそらくこれも館の雰囲気のせいだろう。
「全く、此処はどうなってるんだ。変な幻覚めいたモノばかり見せられている」
この屈強なヴァンパイアハンターには珍しく、自分自身が情けない気持ちになってくる。
おかしなことに気づいた。何度も何度も手をこすり合わせているのに、いっこうに血の匂いが消えない。
「なっ?!」
血臭のもとは水道水そのものだった。最初は透きとおっていた水が、知らぬ間に赤黒く染まっていた。
シャノンは急いで蛇口を閉めた。数回まわせば止まるはずの水道が、何回まわしても止まらない。数分前の終わりがない廊下と同じように、終わりがない蛇口。ひねってもひねっても、つぶれてしまった螺子(ねじ)のように際限なく回りつづける。
赤い水はあふれる。ちょろちょろと彼の足下を濡らす。
不安感、罪悪感、焦燥感。
それらを上回る吸血衝動。
「あああああっ!」
シャノンは我知らず叫び、内側から吹き出す欲求を、別の形で吐きだした。
洗面台を蹴り上げ、破壊する。古い陶器製の台は、易々と砕け散り、真っ赤な華が咲くように水が四方八方に飛び散った。
血まみれになり荒い息をつきながら、シャノンは静かに目を閉じた。
「心を強く持って打ち破らねば……」
世界は元に戻ったふりをして、いまだ偽物のままだ。囚われたままなのだ。
深く細く息をする。武道や仙道で言うところの調息(ちょうそく)だ。
次にまぶたを上げたとき、世界は正常に戻っていた。そこは単なる古びた洋館だった。
「もう惑わされん」
シャノンは少女の遺体を捜索すべく廊下に出た。
誰もいない廊下は静寂に包まれている。
そこに、ぞぶり、ときた。
黒い塊が身もだえするように、動いている。天井高く伸び上がったかと思えば、床面の中に吸い込まれて消える。激しく移動しつづけたかと思うと、数秒間じっと動かなくなる。
それはまるで何かに耐えているかのようだった。
突如、破砕音が木霊した。
空気を入れすぎた風船が割れるように、ぱちんと弾ける黒い塊。
「ぐあっ!」
その内部から、転がりながら現れたのはアーネストだった。
「っく……あやうく喰われるところだった」
精霊魔法で内部から破壊しなければ、いまごろ彼は謎の塊に消化吸収されていたことだろう。その証拠に、彼の美しい緑色の長髪は胃酸によって溶けて短くなっていた。いや、髪だけではない。服も同じだ。酷いところは、肉が溶け、骨がむき出しになっているところもある。
ところが、そのような些細なことなど意にも介さず、アーネストは冷静に状況を分析していた。
「相手の土俵に上がったからには魔法は使えないかと思いきや……要は心の強さの問題、精神力ということか」
少女の霊が執拗に恐ろしい幻覚を見せてくるのには理由があるような気がしていた。つまりは心を弱らせたいのだろう。裏を返せば、気を確かに持たれては困るのだ。
何事にも動じなければ、真実を手に入れることができるはずだ。
アーネストが、シャノン同様に幻影をはねのけつつあることに気づいてか、空気が重苦しさを増した。
「何か仕掛けてくる……か」
不意に天井から、右腕が落ちてきた。人の右腕だ。
アーネストは冷淡に無反応を決め込む。応じては相手の思惑通りだ。
左腕。
右足。
身体。
左足。
バラバラに切り刻まれた死体が、雨霰(あめあられ)と降ってくる。そのいくつかはアーネストの頭上にも落ちてきたが、彼は避けもしなかった。
一陣の風が、アーネストのモノクルを揺らした。半分溶けてなくなった上唇をにやりと歪めて、彼は宣言した。
「無駄だ」
と、その瞬間。
そこはただの古びた洋館へと立ち戻っていた。
アーネストの傷も癒えている。幻覚の中で使用した精霊魔法だけは現実だったようで、床や壁が破壊された跡があった。
「幻覚に踊らされて魔法を使ったことになるのか」
苦笑を浮かべるアーネストの前に、ひとりの若者が倒れていた。
「こちらも幻ではないか」
天井からバラバラと落下してきた死体だ。それらがひとつにくっついている。いや、最初からバラバラになどなっていなかったのだ。
すべては夢の世界の出来事なのだから。
「アーネスト、無事か?」
背後からシャノンが駆け寄ってきた。
「はい。なんとか」
「そいつは?」
シャノンが、倒れている若者を訝しげに見やる。アーネストは肩をすくめて、かたわらに膝をついた。
「あんた、大丈夫かい?」
身体を揺すってみると、フードの中からバッキーがこぼれ出た。
「ファンか」
目を覚ましたのは南雲新だった。
▽須哉逢柝/一乗院柳/アーネスト・クロイツァー/アディール・アーク/シャノン・ヴォルムス/南雲新
恐怖のあまり二階へ駆け上がった柳と、それを追いかけて追いついたアディールと逢柝の三人が、シャノン、アーネスト、新と合流し、昏い館に探索に入った六名がそろった。
「全員、無事のようだな」
シャノンの言葉に、柳と逢柝だけが少し気まずそうにうつむいた。幻覚に惑わされて館内を駆けずり回ったりとか、人前で服を脱いでしまったりとか、あまり無事とは言えなかったからだ。
「実は少女の遺体の場所が判明した」
アディールが「ほぅ」と感心する。
「いったいどうやって?」
「アーネストが風の精霊に探させていたそうだ」
アーネストは得意げにする風でもなく、かすかに微笑んで頭を下げた。
「この館の少女は虐待を受けていたようなので、小さな子が隠れることができる場所を中心に探させました」
「虐待されてたんか」
新が暗い表情で言った。
「どうして新がここに?」
逢柝が訊ねると「なんやこの館の前を通りかかったときにな、えらい悪寒がしたんで気になってね」とやっぱり暗い顔のまま答える。彼らの足下では、バッキーの神夜(こうや)とギアが戯れていた。
「なにブルーになってんだよ」
新の胸板を逢柝が拳でこづく。
「あたしは女の子を助けるためにここに来た。事情を聞いたあんたはどうするつもりなんだ?」
「俺は……さっき女の子に会ったとき、こんなところに独りきりでおるやなんて寂しい子やと思った。思ったからには、助けてやりてぇ」
新は決意を込めて逢柝を見つめ返した。逢柝は「それでこそ」とにやりと笑った。
「僕も、ええっと、そんなに役に立たないかもしれないけど、がんばります!」
柳もまた拳を握りしめた。
「若さとは輝かしいものだ」
「あんたはどこのおっさんだ?」
うんうんうなずいているアディールに、逢柝がツッコむ。
「その若者の中に俺が含まれていないのはどうしてですか?」
さらにアーネストがツッコむ。
「さぁ、その場所はどこだい? 哀れな少女の魂を救いに赴こうではないか」
都合の悪いことはすべて無視して、アディールがレイピアを抜きポーズを決めた。若者たちの冷たい視線が背中をちくちく刺してきた。
「子供部屋だ」
シャノンが指をさす先で、ぎぃと不気味な音をたてて扉が開いた。まるで誘っているかのようだ。
新は自分の勘が正しかったことを知った。その扉は彼が最初にたどり着いた場所だった。
「行くぞ。油断するな」
六人はゆっくりと子供部屋へと近づいていった。
「映画の最後は、少女の遺体を抱きしめて終わるんだったよね?」
柳が生唾を飲み込みながら確認する。
「ああ、そうだ。だから、誰でもいいから気持ちを込めて遺体を抱きしめないと――」
逢柝の返事はそこで途切れた。なぜなら子供部屋の中をのぞいてしまったからだ。
子供部屋にはたくさんの少女がいた。
どれも同じ少女なのに、どれも違う責め苦を味わわされている。
ある者は、鞭で叩かれ。
ある者は、焼けた鉄串を押しつけられ。
ある者は、気絶するまで殴られ。
ある者は、食事を与えられず飢え。
もはやそれは虐待というより拷問だった。
柳と逢柝は過去を思い出し、その場にくずおれた。さしものアーネストも衝撃で動けない。新は涙をこぼし、立ちつくした。
迷わず部屋に足を踏み入れたのは、シャノンとアディールだった。少なくとも少年・少女よりは多くのものを目にしてきた二人だ。
アディールはいっさい目を背けず、少女たちを事細かに観察した。どこかに謎を解くヒントが隠されているはずだ。
「これも幻だ」
自分自身に言い聞かせるが、夢は覚めない。地獄は繰り返されている。
しかし、彼は気づいた。すべての少女たちに影がないのだ。
「シャノン! この子たち、影がない」
「影? 影と……光?」
光。
どこかで見た気がする。
光。
「この子は光を求めているのでは?!」
アディールが叫んだ。
シャノンがジャケットから銃を取り出す。廊下とは反対側に向かって、数発の弾丸を撃ち込んだ。
破壊音はガラスのものだ。窓ガラスが割れ、外の空気がなだれ込む。
「これでどうだ?」
あふれた。
まばゆい光。
あたたかな光。
白く透きとおるような光。
光にかき消されて、たくさんの少女たちが色を失っていく。なにもかも最初からなかったことのように、溶け去っていく。
ひとつだけ、少女が残った。
哀しげに眉根を寄せた少女だ。
「どうして?」
少女は哀切のこもった口調で、誰にとはなく訊いた。
「どうして邪魔をするの?」
「邪魔なんてしやせん!」
新がシャノンとアディールの前に出た。
「俺らはあんたのこと助けたいんだ」
「私は……助かりたくなんかない」
うつむく少女に、柳が優しく語りかける。
「そんなことないはずだよ。僕はね、思うんだ。最初に君が見せた幻。あれが君の本心なんじゃないかって」
皆がみずからを犠牲にして少女を光へと導く幻想。
「本当は僕たちに助けてほしいんじゃないかなって」
「私は……」
「だったら、もうわかっているんじゃないか?」
シャノンが銃を納めながら言う。
「あのとき、みんなが君を救おうと心の底から思っていた。俺は……疑ってしまったがな」
「私は……」
「もう何も言わなくていいよ」
逢柝がそっと少女に歩み寄った。
「あんたは間違ってここに来てしまったんだ。本当は映画のラストシーンで浄化され、そのまま眠っているはずだった。間違いなんだ。だからもう終わりにしようよ」
映画のラストで主人公の女性がそうしたように、逢柝もまたありったけの想いを乗せて少女を抱きすくめた。実体がある。幻ではない。温かみを感じないのは、死体だからだろう。でも、そんなことは関係なかった。
少女は身を固くして黙然と逢柝に抱かれている。
髪を撫でているうちに、少女の身体のこわばりが緩んでいくのが感じられた。
一同を代表してアディールが、少女の背後を指さした。
「あそこに光が見えるだろう?」
少女が振り返る。
どす黒く塗りつぶされた世界に、シャノンが開いた光があった。そこが出口だ。この非道い世界の。
「行くがいい」
皆から一歩下がった位置で状況を見守っていたシャノンがうながした。
それでも、いまだ決心がつかないでいる様子の少女に、アーネストが言った。
「君はここから去るべきだ」
そして、新もまた少女に笑顔を向ける。
「心配すなや。あんたがいなくなったあと、この館は俺らが引き受けるから」
新はギアにこのハザードを飲み込ませるつもりでいた。少女が救われれば、あとはただの残骸だ。闇色の思い出だけが詰まった残骸。
「なにも心配せんでいい」
逢柝が腕をほどく。
少女は唇をきゅっと引き締めると、勢いよく背中を向けた。それは遠くに光る出口へと向き直ったことを示していた。
ゆっくりと、だが着実に、少女が一歩一歩を踏み出していく。光に至れば、彼女の魂は救済されるはずだ。道は、彼女自身が歩んでいくしかない。
六人は少女の霊が光に浄化されるまで、ずっとずっと光を見つめていた。
|
クリエイターコメント | まずはお届けが遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
シチュエーションノベルということで、一人ずつ丁寧に描かせていただきました。 あまりホラーにはならなかった気がしますが、いかがだったでしょう? 血ばかり出てくるのでスプラッタ風になってしまいました。
キャラクターの口調・態度等でリテイクがあれば、遠慮なくお申し付けください。 それでは、またの機会に。 |
公開日時 | 2008-04-09(水) 19:30 |
|
|
|
|
|