★ いのちのうたを ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-4122 オファー日2008-08-08(金) 22:11
オファーPC 古森 凛(ccaf4756) ムービースター 男 18歳 諸国を巡る旅の楽師
ゲストPC1 ゆき(chyc9476) ムービースター 女 8歳 座敷童子兼土地神
<ノベル>

 大通りの脇だったり、公園の中だったり、住宅地の一角だったり、場所は様々だ。
 どこからともなく流れてくる笛の音に耳を澄ませば真夏の暑さもふうっと遠のく。そればかりか、清浄で静謐な森の中を歩いているかのような錯覚にさえ捉われるという。
 妙なる調べに吸い寄せられて、一人、また一人。静かに笛を奏でる青年の前で通行人は足を止め、ある者は目を閉じ、ある者はうっとりとして聞き入る。緑を含んで吹き渡る涼風のような。あるいは、さらさらと流れるせせらぎのような。世界が青年を媒体にして自らを奏でているかのような心地良い一体感に包まれ、静かに注ぐ癒しと浄化に人々はしばし時を忘れる。
 奏者は青年と呼ぶには少々若いだろうか。古森凛という名の彼は恐らく二十歳には届くまい。真っ直ぐに伸び行かんとする若木のような清々しさの一方で、優しげな風貌と静かな瞳からは実年齢以上に落ち着いた風情が滲み出ている。
 こうして路上で楽を奏で、糧を得る。凛のいつもの日常だ。ただ平素と違うのは、小さな人垣の最前列にちょこんと座った少女の姿だろうか。簡素な和服に身を包んだ彼女はきらきらとした眼で凛を見上げ、凛もまた時折少女と視線を交わしてそっと微笑んでみせるのだ。
 やがて演奏が終わった。しばし時を忘れていた聴衆が我に返り、誰からともなく手を叩く。静かに広がる拍手は称賛か、それとも名残惜しさか。体育座りをしていた少女が立ち上がり、よもぎ色の和紙が貼られた小箱を手にとたとたと彼らの間を回る。こけしのような素朴な少女が持つ箱に気前良く硬貨が落とされていった。
 「おもい。たくさん」
 人垣が散開した後で少女はにこにこと笑い、目一杯背伸びして凛に小箱を差し出した。小さな手が抱えた箱にはたくさんの硬貨がひしめき合い、ちゃりちゃりと音を立てている。中には気前の良い客が投げ込んでくれた紙幣の姿も見えた。いわば凛の演奏に対して寄せられた報酬なのだが、なぜか彼女のほうが誇らしそうだ。
 「ありがとう」
 黒い髪の毛をそっと撫でつけてやると、けいという名の幼い彼女はくすぐったそうに白い歯を見せる。
 「暑かったでしょう。冷たい物でも食べに行きましょうか」
 「かき氷! 青いのがいい。きのう見たの、きれいな青」
 「青いの? ああ、ブルーハワイというやつですか」
 「ぶるーはわい? どんな味?」
 「そうですねえ……ちょっと喩えにくい味です。一度食べてみれば分かりますよ」
 絹のように柔らかな氷にたっぷりとかかる涼しげな青を想像すると蒸し暑さもほんの少しだけ和らぐようだ。他愛ない会話を交わし、どちらからともなく手を繋いで歩き出す。
 「わあ。あれ、見て」
 ぐいぐいと手を引かれて道端に目をやれば、電柱に蝉の抜け殻がしがみついていた。この時節ならどこででも見られるありふれた光景だが、興味津々といった様子のけいは珍しい物にでも触れるかのように手を伸ばす。
 だが、抜け殻に触れる寸前で白い指がびくっと震え、小さな体が硬くこわばる気配が凛にも伝わった。
 ――やっとの思いで命を送り出した空蝉のすぐ下、電柱の足元で、刹那の生を終えたアブラゼミが無言で仰向けになっている。
 「この抜け殻の主ではないと思いますよ」
 けいの心を悟った凛は華奢な手をそっと握り返した。
 蝉の羽化を目の当たりにしたことがある者ならば分かるだろう。固い殻いっぱいに詰まっている瑞々しい命は蝋細工のように透き通り、美しくも脆い。地中からようやく這い出し、泥まみれの殻を脱ぎ捨てた彼らは逸る気持ちを抑え、体を充分に硬くしてから飛び立つのだ。瞬きほどの生を目一杯使って命を次へと紡ぐために。太陽の下で過ごせる短さを決して嘆かず、全力で、鮮烈に命を奏でて果てていく。
 「行きましょうか」
 凛はアブラゼミの腹を見つめるけいの肩に優しく手を添え、静かに促しただけであった。
 急き立てられるように命が行き交う夏半ば。哀しいまでにせわしない季節の、ある物語。



 凛がけいと出会ったのはつい最近のことであった。
 いつものように道端で演奏していた時にたまたま現れたのが彼女だった。十歳くらいだろうか、目をしばたたかせながら、戸惑いと好奇心の入り混じる表情で周囲をきょろきょろと見回している姿がやけに目を引いた。
 昔話に登場する童のような、とでも言えば良いのだろうか。簡素な着物に小さな下駄をつっかけた足、ざんばらにした黒い髪の毛。眉毛の辺りで切り揃えられた前髪の下に覗く目は大粒で、くりくりとよく動く。
 彼女が蛍の化身であることも、彼女の運命も、悟りの力ですぐに分かってしまった。いつしかけいと打ち解けた凛は一緒に遊んだり楽を奏でたりしてみせるようになった。けいもまた凛になつき、路上演奏について来てはちょっとした雑用を手伝ってくれるようになった。
 けいは公園が好きだった。自分と同じ年頃の子供たちが友達と一緒に走り回ったり笑い合ったりしている姿を見ながら、凛と一緒に何時間も過ごした。
 「わたしのこと、ぜんぶ知ってるの?」
 ブランコを押してやる凛を振り返りながらけいは尋ねるが、凛は答えの代わりに微笑をひとつ落としただけだった。
 夏休み真っ盛り。真黒に日焼けした少年少女が土と汗と埃にまみれて走り回っている。ランニングシャツに短パン姿の男の子が勢い余って砂場の前で転倒した。少し先を走っていた少女が立ち止まり、駆け寄る。しかし男児は差し出された少女の手を邪険に払い、へっちゃらだとでも言わんばかりに立ち上がって胸を張るのだった。
 「かなしくなんかないよ」
 きい、きい。
 錆びた鎖が軋み、けいは足をぷらぷらとさせながら夏の風を胸いっぱいに吸い込んだ。空へと伸びあがったブランコの上で、天へ翔け上がらんとするかのように身を乗り出し、真っすぐに胸を張る。
 「さいごまで、ちゃんと過ごすの」
 例えば花の命はあまりに短い。だがそれは決して無意味でも悲しいことでもない。限りがあるからこそ悔いのないように、精一杯全うしたいのだ――。幼いけいはつたない単語を使って概ねそんな意味のことを話して聞かせたのだった。
 「そうですね。意味のない命など、この世にひとつたりともありはしません」
 彼女のあるがままを見守ろうと凛は決めている。せめて寂しい思いをさせぬため、最後までともに居ようと。
 きい、きい。
 小さな背中が空に吸い込まれ、そして緩やかに落ちてくる。
 「あっつい、もう帰ろうよー」
 「次はプール! 市民プール!」
 「またぁ? おとといも行ったじゃんか」
 子供たちの歓声はゆるゆると風にさらわれ、雲というものを一切取り払ってしまったかのような空へと吸い込まれていった。



 はて、ここはどこだったか。アイスを買いにちょっとコンビニまでと外に出ただけではなかったか。
 辺りを見回してみてようやく、ここが見慣れた街の一角だということを思い出す。それほどその調べは浮世離れしていたのだ。涼やかな風が吹く高原にでもいるかのような感覚を運んでくれる音色に惹かれたのだろう、ゆきの他にも数人の通行人が足を止め、横笛が奏でる自然の楽に聞き入っている。
 「ありがとうございましたあ」
 演奏が終わり、奏者である古森凛の黙礼とともにいとけない女児の声がひとつ。おひねりを受け取るための小箱を両手で大事そうに抱え、とことことやって来た彼女の姿にゆきは目をぱちくりさせた。小柄な体を和服に包んだその少女はこけしのように素朴で、まるで自分と同じ血筋の者を見ているかのようだ。だからゆきはしばし呆気に取られてしまい、彼女が箱を持って目の前にやって来た時も反応が遅れてしまった。
 けいもまたぽかんと口を開け、ゆきの姿をしげしげと眺め回す。不思議そうに首をかしげた拍子に黒髪がさらりと揺れる様子などはたいそう愛らしい。着物姿のゆきも同じようにおかっぱ頭を傾けた時、凛がやや苦笑を交じえながら歩み寄ってきた。
 「すみません、催促しているわけではないんですよ。演奏がお気に召さなければお代は結構ですから」
 穏やかな声音で言われたゆきはまたぽかんとしたが、すぐに我に返った。
 「違う、違う。そういう意味じゃないんじゃよ」
 払い渋っていたわけではなく、ただ目の前にやって来た少女が自分と同じような外見をしていたからちょっと呆気に取られていただけなのだと慌てて説明する。
 「そうでしたか。確かに似ていますね」
 くすりと笑んだ凛は軽くかがみ込んで二人の姿を見比べた。けいからゆきへと移された涼しげな目がすっと細められ、心の奥底だけで何かを理解したかのように浅く肯く。妖怪と縁の深い人生を送っている凛がゆきを怖がることなどあるはずがない。だからというわけでもなかろうが、ゆきもまた己に近しい感覚を凛に抱き、すぐににこにこと微笑んでみせた。
 「ほう、凛にけいか。おぬしらもムービースターかの? わしはゆきじゃ」
 軽く自己紹介を交わした後でゆきはがまぐちを開け、けいが持つ箱の中に百円玉をちゃりんと落とした。もちろんアイスをひとつ分の現金はきちんと残してある。
 「ゆ、き?」
 初めてひらがなを教わる幼子のように、けいは慎重にゆきの名を反復して首をかしげる。
 「そう、ゆき。わしの名前じゃよ」
 「ゆき」
 「そうじゃ、そうじゃ」
 「ゆき!」
 けいは親か教師に褒められでもしたかのようにぱっと笑みを咲かせた。「ゆき、ゆき」と覚えたての名前を連呼しながらゆきの手を取ってぴょんぴょん飛び跳ねる。大袈裟なリアクションにゆきは初めこそ少し驚いたが、無垢で無警戒なけいにつられたのか、すぐに無邪気な笑みを返した。
 「そうじゃ、けい。一緒にアイスを買いに行かんか? わしがごちそうしてやろう」
 「あいす?」
 「おぬし、アイスを知らんのか? ……そうか、その格好じゃと現代以外の時代から実体化したのじゃろうな」
 自分と同じような時代背景の映画から実体化したスターだとでも思ったのだろう、ゆきはひとりでうんうんと納得する。けいは少し困ったように凛を見上げたが、凛は浅く笑んでけいの頭を軽く撫でただけであった。



 「ゆき、これは? これはなあに?」
 「うちわじゃ」
 「うちわ?」
 「そう、うちわ。暑い時にな、こうやって使うんじゃよ」
 けいは些細なことにも関心を示し、ゆきの話に素直に喜び、感心した。ゆきが帯に差し込んでいた小さなうちわにさえ興味を持った。涼しげな朝顔の絵が描かれたうちわであおいでやると、大きな瞳をさらに大きくして驚いた。
 「じゃあ、この、うちわにかかれてる花は?」
 「これは朝顔という花じゃ」
 「あ、さ、がお」
 「そうそう、朝顔。夏の朝早くに咲く花じゃよ。青や赤や紫や白や……いろんな色があってのう」
 「へええ、あさがお」
 手を繋ぎ、笑い合う二人の半歩後ろに凛が続く。幼い彼女たちの話に口を挟まず、ただ見守るように歩調を合わせて歩いている様は保護者か何かのようだ。
 連れ立った三人はコンビニエンスストアへの道を辿っている。演奏で得た現金もあるからどこかの店で冷たい物をごちそうすると凛は提案したのだが、ゆきは礼を言いつつも辞退した。せっかく新しくできた友達なのだからたとえ安い物でも自分がごちそうしてあげたいのだと。
 「とも、だち?」
 初めて聞く単語だったのだろう、またしても不思議そうにするけいにゆきは困ってしまった。友達は友達だ。友達とは何かと改めて問われても、幼いゆきには説明のしようがない。
 「とても仲良しで、大切な人という意味です」
 代わりに凛が言うと、けいはくすぐったそうに、だがひどく幸せそうに笑ってみせるのだった。
 「む」
 いざコンビニに到着し、がまぐちを開けて中身を確認したゆきは唇をへの字に結ぶ。残っているのは百円玉が一枚と五円玉が二枚。アイスはひとつしか買えそうにない。
 「少し貸しましょうか?」
 「いや。大丈夫じゃ」
 何やら自信ありげに笑ったゆきがセレクトしたのはソーダ味の氷菓である。スティックがくじになっていて、当たりが出ればもう一本もらえるというあのお馴染みの品だ。
 レジで会計を済ませたゆきはアイスをけいに差し出した。
 「ゆきの分がない」
 食べるようにと勧めてもけいはふるふると首を横に振る。
 「大丈夫じゃよ。わしの分はけいと凛の後にあるからの」
 尚もかぶりを振るけいの手に半ば無理矢理アイスを握らせ、ゆきはいたずらっぽく笑ってみせる。本当に食べてもいいのかとでもいうようにけいの視線がゆきとアイスを見比べ、最後に凛を見上げた。
 「大丈夫ですよ。溶ける前にお食べなさい」
 まごまごしているけいに手を貸して袋を開けてやる。中から現れた水色の長方形に幼い瞳がいっぱいに見開かれた。木のスティックの部分を持って食べるのだと教えると、けいはぎごちない手つきでアイスを持って恐る恐るかじりついた。
 「つめたい! おいしい」
 「そうか、そうか」
 「ゆき、これ、かき氷?」
 「そうじゃな、かき氷の仲間のようなものかの」
 「おいしいのは分かりますが、あまり慌てて食べると――ああ、ほら」
 夢中になって食べたものだから頭が痛くなったのだろう。かき氷を一気に食べた時の、頭の奥がきーんと締め付けられるあの感覚だ。顔をくしゃくしゃにしてその場にうずくまってしまうけいの姿に凛は苦笑し、一緒にかがんで背中をさすってやる。
 「うう。いたい、いたい。おいしい」
 「そうか、そうか」
 ぎゅっと眉を寄せながらもアイスをかじるけいと、妹でも見守るようにけいに微笑みかけるゆきと。どちらの心からも素直な幸せの音(ね)が溢れ、きらきらと重なり合って凛の中に流れ込んでくる。



 ゆきが選んでけいが食べたアイスのスティックには『当たり』の文字が焼き付けられていて、けいはまたそれに驚き、喜んだ。ゆきは当たりのスティックを同じアイスと引き換えて凛に渡したが、凛は辞退して先にゆきに食べさせた。ゆきが食べた物もまた当たりで、今度こそ凛が食べる番と相成ったのであった。
 (座敷童子がくれた幸運、といったところですね)
 昼下がりの公園。青々とした若木が涼しい木陰を提供してくれる、そんな場所にしつらえられたベンチ。ソーダアイスという名のささやかな幸せを片手に凛は腰かけている。白い太陽の下、声を上げて走り回るゆきとけいの姿は仲の良い姉妹のようだ。
 座敷童子は幸運を運ぶ存在だという。ゆきの小さな体にもその力が詰まっているのだろうか。少なくとも今、けいの全身から溢れ出しているのは紛れもない幸福の色だ。そしてゆきもまた、新しい友達ができたことを心から喜んでいる。ゆきのまっすぐで純粋な心根は凛にもけいにもすぐに分かったし、もちろん二人ともそれを好ましく思っている。
 「ゆき、ゆき、待って」
 「そんなに走るでない、けい。転んでしまうじゃろ」
 「だいじょうぶだもん。ゆき、ぶらんこ、いっしょに乗ろ」
 「二人乗りは危ないんじゃよ」
 手を取り合い、もつれ合うようにしてブランコに乗り、笑い合う。最初はけいが乗ってゆきが押してやるようだ。ゆきに押されてブランコをこぐけいの姿といったら、落っこちるのではないかと思うほど身を乗り出して空を仰いだりゆきを気にしてそわそわと背後を振り返ったりと、何とも危なっかしい。しかし楽しそうだ。幸せそうだ。自暴自棄でも開き直りでも悲壮感でもなく、ただただこの時間を楽しむひとつのいのちの姿がある。
 嘘をつくとか隠すとか、そういうことではない。ただ楽しい時間を過ごしてほしいと凛は心から思う。
 (おや……さすがに三度目は無理でしたか)
 四分の三ほどなくなったアイスからのぞくスティックには文字が見当たらなかった。そういえば座敷童子の幸運の力は家の中に居て初めて存分に発揮されるものだったなどと思い出す。白い木の棒を軽く太陽にかざし、既に溶けかかって角が取れている水色の氷の残りを口に含んだ。
 そよと風が吹いた。舌の上で溶けた氷と一緒に涼がそっと全身を撫で、しみ渡っていく。頭上ではまだ若い広葉樹が囁くように葉擦れを奏でる。瑞々しい色と涼やかな調べを慈しむように軽く眼を細めれば、視界に映るのはまろぶようにして駆け寄ってくる幼いけいの姿。
 「りん、りん、りーん」
 けいは鈴を鳴らすように凛の名を連呼する。凛ははあはあと肩を上下させる彼女を木陰に手招きし、汗を丁寧に拭ってやった。数歩遅れてやって来たゆきもけいの乱れた髪をいとけない手つきで直してやる。
 「りん、りん。あのね」
 二つの手の下でくすぐったそうに笑いながらけいは交互に二人を見上げた。
 「ゆきがね、『おまつり』に行こうって。すごくたのしいんだって。三人で行こうって」
 「夏祭ですか、いいですね。行きましょうか」
 「ほんと? ほんとに?」
 無論、凛に否やのあろうはずがない。答えの代わりに微笑を首肯を返すと、けいはぱあっと顔を輝かせて凛の膝に飛びついた。
 「お祭、この近くでやるんじゃ。最終日には打ち上げ花火もあるんじゃよ」
 「うちあげ、はなび?」
 「そう、花火。こーんなに大きくて……なんて言ったらいいかの、とにかくすごくきれいなんじゃ」
 花火の美しさは見たことのある者にしか分かるまい。それでも小さな両腕で目一杯大きな円をえがき、懸命に花火の凄さを説明するゆきにけいはまた瞳をきらめかせる。
 「はなび、はなび! 見たい!」
 「じゃから、一緒に見に行くんじゃ」
 「ほんと?」
 「本当じゃ、本当じゃ」
 飛びついてきたけいを抱き止め、ゆきも一緒になって飛び跳ねる。
 「お祭は明日と明後日。花火は明後日じゃよ」

 「あさ、って」
 ピンポン玉のように弾んでいたけいの体がぴたりと止まり、ほんのわずかに――しかし確かに表情がこわばった。

 「明日の次の日のことじゃ」
 「あしたのつぎ」
 けいの顔からすうと笑みが引いたのも凛がさりげなく視線を逸らしたのもほんの一瞬だった。だからゆきは気付かなかった。
 「りん。あさって」
 何かを求めるようにけいは凛を振り返るが、それ以上口を開くことはない。凛は瞳だけで軽く肯いてみせた。百の言葉にも勝る視線をほんの刹那交わした後、けいは再びゆきに向き直る。
 「……うん。いっしょに行こう、はなび」
 そして、そっと肯いた。
 「うむ。一緒じゃ、一緒じゃ」
 ああ――何も知らないゆきの笑顔の、なんとまっすぐであることか。
 (いわないで)
 ゆきの前で微笑むけいの心が凛の中に流れ込んでくる。同時に、彼女の中にひたひたと滲み出す色も凛は悟ってしまった。
 それは紛れもなく“寂しさ”という名の感情だった。けいの心が初めてうたった悲しみの音色だった。
 「じゃあ、明日は浴衣で集合しましょうか」
 だが、凛は答える代わりにそっと微笑んで他愛ない会話を続ける。
 「お祭といえば浴衣じゃからな。わしのとっておきを着てこようかの。けいは浴衣を持っておるか?」
 「うん。ほたるのゆかた」
 「蛍か。夏らしくていいのう」
 浮き立つようなゆきの笑い声だけが公園に響く。
 遠くでツクツクボウシが鳴いている。この蝉が鳴けば夏の終焉が近付くという。太陽の季節ももう折り返し地点を過ぎたらしい。



 地味だ。それがゆきの第一声であった。
 「と言われましても」
 抹茶色の無地の浴衣があまりにも地味だとゆきに指摘され、小さな紙袋を提げた凛は苦笑いを返すしかない。
 「男物の浴衣は総じてこんなものでしょう。女性ほどの華やかさはありませんよ」
 「若者が着るには地味すぎるじゃろ」
 外見が八歳の童女にそう断言され、十八歳の凛はやはり苦笑を浮かべるだけだ。
 「でも、りんにはみどりいろがいちばん似合うよ」
 「それはそうじゃな。それに凛は歳の割に落ち着いておるからの、大人にはしんぷるなものが似合うんじゃ」
 地味をシンプルと言い換えたゆきは「しんぷる・いず・べすとじゃ」と一人で納得する。妙に大人びた物言いに凛は珍しく小さく声を上げて笑ってしまった。凛に浴衣を着つけてもらったけいも隣でにこにことしている。
 「ところで凛。その袋は何じゃ?」
 凛の手にある紙袋に気付いてゆきが問う。凛はにこりと笑って「後からのお楽しみです」とだけ答えた。
 「りん、なあに、なあに?」
 「だから、後のお楽しみですよ」
 「そうじゃの、楽しみは後に取っておくものじゃ。それよりけいの浴衣も大人っぽいのう。ほんに夜空に蛍が飛んでいるようじゃ」
 紺色の生地の上に散る黄緑色の蛍の柄は楚々として、それでいてしっかりと己が存在を知らしめるかのようにほのかな色をまとっている。そんな控え目なところがきれいだと褒められたけいはくすぐったそうに肩を縮めて笑った。
 「ゆきのほうがかわいいもん」
 「そうですね。二人とも素敵ですよ」
 「本当か? ふふふ、わしもなかなかじゃろう」
 袖を広げてくるりと一回転してみせるゆきの浴衣の上では赤い金魚が泳いでいる。白地の上にころんとデフォルメされて描かれた金魚はたいそう愛らしい。
 金魚を見たことのないけいはまたしても不思議そうにゆきの袖を引き、ことりと首をかしげた。
 「あかいおさかな、なあに?」
 「これは金魚じゃ。小さくて可愛い魚。そうじゃ、こにには金魚がたくさんおるぞ」
 「みたい、きんぎょみたい!」
 「金魚すくいの店が出ているでしょうね。探してみましょうか」
 前後左右、人、人、人。浮き立つような雑踏が川沿いの神社を満たしている。笑い声に足音、威勢のいい呼び込みの声、漂う匂いはソースやケチャップ、クレープに水飴。魅惑的な食べ物の香に顔を輝かせるけいに、夜店で食べ物を売っているのだと凛は教えてやった。
 広い境内へと続く参道の両脇を夜店がずらりと埋め尽くし、色とりどりにきらめいている。参道ばかりでなく、そこに至るまでの歩道や駐車場にまでもテントが軒を連ねていた。人いきれで汗が噴き出しそうだが、近くを流れる川を渡る涼やかな風が時折流れ込んできてたいそう心地良い。
 はぐれぬようにとしっかり手を握り合い、三人は人波をかき分けるようにして進む。はじめは人ごみに目を白黒させていたけいもすぐに慣れたようで、ゆきに手を引かれ、後ろに伸ばしたもう一方の手で凛を引っ張り、大きな瞳に感動と好奇心をあふれさせながらいくつもの夜店を回る。
 「あったあった。ほれ、金魚すくいじゃ」
 目的の夜店を真っ先に見つけたゆきに引っ張られ、けいは「わあ」と歓声を上げた。
 スポットライトよろしく吊り下げられた白熱電球に照らされた青いプール。その手狭な長方形の中で小さな金魚たちがひしめき合っている光景は誰でも一度は目にしたことがあるだろう。水槽の青に金魚の赤が映えて、たいそう鮮やかである。
 小鮒に赤い色をつけただけのようなシンプルなものに、錦鯉の稚魚かと思うほど鮮やかなまだら模様のもの。揃いも揃って同じ方向に頭を向け、忙しなくぴちぴちと動き回る小さな魚の中には一回り大きなものの姿も見受けられる。中でも三叉に分かれた尾と丸みを帯びた愛くるしい体型をしたものは琉金という種類を想起させた。一方、赤い色彩をかき分け、飛び出した目とふさふさの尾びれで愛嬌たっぷりに泳いでいくのは黒い出目金である。
 「らっしゃい。可愛いお客さんだねえ、やってくかい?」
 ランニング姿の日焼けした親父がテントの中で威勢良く手を叩く。すぐ目の前を泳ぎ回る金魚たちにぽかんとしていたけいは頬を紅潮させて肯いた。
 「つついてはいけませんよ」
 親父から差し出されたポイを珍しがり、電球にかざしたりこわごわと指で触れたりしているけいを凛が制した。
 「これを水に入れて金魚をすくうんです。破れたらおしまいですから、あまり触らないほうが」
 破れたらおしまいという言葉に反応し、けいは慌てて姿勢を正した。一方、もうひとつのポイを受け取ったゆきは「ふふふ」と腕まくりして既に臨戦態勢に入っている。
 「勝負じゃ、けい。どっちが多く取れるか競争じゃ」
 「うん、しょーぶ」
 「いいですね。ああ、ポイはこっちの手で持って……こうやって構えて。斜めにそっと入れるのがコツですよ。半分くらい水に浸してください。それから、すくった金魚はこのお椀に入れておいてくださいね」
 「凛、不公平じゃ、あんふぇあじゃぞ」
 金魚の水槽の前にけいをしゃがませ、丁寧に金魚すくいのコツを伝授する凛にゆきが抗議の声を上げる。
 「彼女にとっては初めての金魚すくいなんですよ、これくらいのハンデはいただきませんと。ねえ?」
 「はんで、はんで」
 いたずらっぽく笑う凛と視線を交わし、けいはにこにことする。ゆきは尚も口を尖らせていたが、渋々といった風情でポイを構えた。
 凛は一通りのレクチャーを終えるとけいから離れた。
 「さぁ時間無制限一本勝負、ポイが破れりゃそれまでよってね」
 三人のやり取りを眺めていた親父がぱんぱんと手を叩き、リングアナよろしく朗々と口上を述べた。よく通る声に何事かと立ち止まった数人が童女たちの勝負を見守る。主役二人は思わぬギャラリーの出現にくすぐったそうに顔を見合わせた。
 「準備はいいかいお嬢ちゃん? それじゃあレディ……ファイッ!」
 決戦の火蓋がいざ切って落とされた。ゆきのポイがぱしゃんとしぶきを上げて舞う。どの金魚を狙うべきかとまごまごと水中を見つめていたけいは、ややあってから凛に教わった通りにそっとポイを差し込んだ。
 しかし金魚とてみすみす捕まるほど馬鹿ではない。そうでなくても追われれば逃げるのが生き物だ。そして、逃げられればますます追いたくなるのもまた生き物の性である。
 (大きさよりも数じゃ)
 優雅に泳ぐふさふさの赤い金魚や出目金には目もくれず、ゆきは小赤という一番地味で小さい金魚ばかりを狙いに定めた。ポイという道具はあまりに脆い。破れかぶれの大物狙いよりは小さなものを数匹確実にすくい上げるほうが堅実かつ賢明だ。
 対照的に、けいは色も形も小赤とは一線を画した出目金に心を奪われたらしい。重量感あふれる黒い体をおっかなびっくり追っている。初めて金魚を見るのでは無理もないが、戦略としては褒められたものではない。一方凛は女どうしの勝負に口を出さないと決めているのか、静かに微笑みながら見守っているだけだ。
 「ぬ。こやつら、なかなかすばしっこいの」
 だが体が小さければ敏捷性にすぐれるというもの。狭い水槽の中にひしめき合うように放たれているというのに、小さな金魚たちはゆきのポイが近付くたびにぱあっと散ってしまう。追いかければ逃げる、逃げる。ゆきの小さな手を中心にして赤い色が散らばっていく。させじとゆきはポイをふるう。
 「そんなに乱暴に扱っては――」
 思わず口を挟みかけた凛は途中で言葉を切り、「ああ」と軽く苦笑を漏らした。
 群れの最後尾の赤い尾ひれを捉えたと思った瞬間、水を吸ったポイは無情にも破けてしまったのである。
 「とれたあ!」
 そして、破れたポイを握り締めるゆきの脇でけいが幼い歓声を上げる。なんと、椀の中には黒い出目金が窮屈そうにおさまっているではないか。見守っていた冷やかし客から温かいどよめきと拍手が起こった。
 「大きな金魚は重い分、動きも鈍いですからね。すばしっこいものを長時間追いかけ回すより効率的だったかも知れません。それと、ポイを入れる前に狙いを定めていたのが良かったのでしょう」
 凛の的確な解説が入り、ゆきは「うう」と頬を膨らませる。
 「次は射的じゃ。射的で勝負じゃよ」
 「あ、ゆき、ゆき、待って」
 出目金を袋に入れてもらうのももどかしく、けいはずんずんと歩いて行くゆきの背を追う。凛が代わりに金魚の袋を受け取って二人に追いついた。
 射的の店も賑わっていた。的として陳列されているカラフルな飴玉の詰め合わせにけいは目を輝かせる。的がそのまま景品になっていて、好きな物に弾を当てて倒せばそれをもらえるのだと凛が言うと大粒の瞳がさらにきらめいた。
 「今度は負けんぞ」
 「うん」
 コルクの弾が入った銃を受け取り、二人は並んで構えた。やはりハンデだと言い、初めて射的に挑戦するけいに凛がやり方を説明する。
 第二ラウンド開始である。



 「けい。本当に初めてなのか?」
 けいを見つめるゆきの視線はちょっぴり恨めしそうだ。右手に出目金の袋を下げ、左手に飴玉の袋を握ったけいはご満悦である。的を倒すどころか弾を当てることすらできなかったゆきは手ぶらである。一方、けいはほとんどラッキーに近い形でひとつだけ倒すことができた。けいが狙った飴玉の詰め合わせが手前の中央付近という狙いやすい場所に設置されていたせいもあろう。それに、もしかしたら座敷童子の幸運の力がけいに対して作用したのかも知れない。
 「センスというものでしょう」
 二人の半歩後ろでくすくすと笑うのは凛である。
 「凛が入れ知恵をしたのではないのか?」
 「入れ知恵だなんて。初心者向けにコツを教えたまでですよ」
 「それを入れ知恵と言うんじゃないかのう」
 「あめ、さいごの一つ、ゆきにあげる。食べて」
 「う、うむ」
 時刻は20時半を回った。そろそろお開きの時間なのだろう。品物を完売してテントを畳む屋台も出始めた。ぱらぱらとした人通りの中、三人は急ぐでもなく帰りの道を辿る。
 「まあ良い。今日の所は勝ちを譲ってやる」
 ゆきは勝ち気に胸を張り、唇をへの字に結んだ。しかし大粒の飴玉を頬の中でころころと転がしながらではいまひとつ威厳に欠ける。
 「お祭は明日もあるからの。明日こそ絶っ対わしの勝ちじゃ」
 「……うん。あした、だね」
 景色に気を取られるふりをしてふいと横を向いたけいの笑みは凛にしか見えなかった。寂しそうな微笑をゆきに見せまいとでもするかのように凛はけいの頭に手を置き、静かに微笑む。
 射的でひと勝負した後、けいはたこ焼きも綿あめもかき氷もフランクフルトも焼きそばもりんご飴も全部食べたいと言って二人を困らせた。クレープもチョコバナナもお好み焼きもトウモロコシも全部全部食べたいと言った。そこで食べ物を一人前ずつ買って三人で少しずつたくさんの種類を食べようと試みたのだが、ゆきもけいも子供であるし、凛とてそれほど食べるほうではない。射的で当てた飴玉を歩きながら分け合ってほとんど食べつくしてしまったこともあり、数品ほど腹におさめたところでギブアップとなった。
 「さみしい……な」
 ふつりと漏らされた言葉に凛はひょいと眉を持ち上げた。
 「そうじゃな。お祭の後は何となく寂しくなるものじゃからの」
 振り返ったゆきの視線の先では、売れ残った品物を持て余したテキ屋が赤線で幾度か修正した値札を店頭に立ててあくびを噛み殺している。一回三百円だったヨーヨー釣りの屋台にもたせかけられた『五十円で三つあげます』という段ボールの立て札はどこか侘びしい。
 宴が終わった後のけだるく、どこか空虚ですらある空気。すっかりまばらになった人影の間を滑るように転がっていくプラスチックのパックだけがあのきらめく時間の残滓のようで、切ない味が口の中に広がっていく。
 「なーに。明日がある」
 他意のない台詞とともにゆきはにこにこと笑い、けいの手を取った。「明日も同じような店が出るじゃろ。今日食べられなかった分は明日食べればいいんじゃよ」
 「うん」
 けいはそっと微笑んで小さな手を握り返し、凛は半歩後ろで二人の姿を見守る。
 「花火も楽しみじゃのー。けいは花火も初めてじゃろ? わし、穴場すぽっとを知っておるんじゃ。きっとびっくりするぞ」
 「……うん」
 「どうした、けい。元気がないぞ? 食べ過ぎたか、お腹でも痛いのか?」
 「はしゃぎ過ぎて疲れたんでしょう」
 けいが答える前に凛がさりげなく口を挟み、微笑とともにけいの頭を撫でてやる。
 「ですが、帰る前にもう少しお付き合い願えますか? 昨日の公園ででも」
 そして、ずっと手にしていた紙袋を示してもうひとつ笑みを落とした。



 ぽっと灯った火はまるで蛍のようだった。
 音もなく燃えていく。あまりに静かすぎて、鼻に届くあの独特な匂いがなければ火薬が燃えているとは分からないほどだ。少量の火薬を詰め込まれた先端が緩慢に丸まりながら溶けていき、やがて小指の先にも満たぬほど小さな球体を形作る。
 「これもはなび?」
 「動かないで。落ちてしまいますよ」
 怪訝そうにこちらを見上げるけいを制し、凛は彼女の手にそっと手を添えた。
 暖かなオレンジ色の粒を映した幼い瞳がじわりと広がる。
 じじじ、ぱちぱち。あるかなしかの音を立て、蛍の尻のように丸まった球が火花を生み出す。小さな球の周りを懸命に舞う火花もまた小さい。小さな小さな惑星の周りで星屑が瞬いているようで、ゆきもけいもいつしかじっとその光景に見入った。
 じ、じじ。
 脆弱なこよりから吊り下げられた球がわずかに震える。徐々に消えていく火花を惜しむようにけいの眉がハの字になった。オレンジ色の小さな星がふるふると震えるさまはどこか断末魔の痙攣にも似て――やがて自重に耐えかねるようにしてぽとりと地面に落ちる。
 「……きえちゃった」
 地面に落ちたオレンジ色の粒はすぐに光を失い、再び闇が戻ってくる。
 「凛。線香花火も風流じゃが、もっと派手なのはないのか?」
 不服というわけではなかろうが、二本目の線香花火に火を灯したゆきはしきりに首をかしげていた。赤や緑や白の光が飛び散るカラフルな手持ち花火などどこにでも売っている。それなのに凛が持参したのは線香花火だけだった。
 「線香花火も良いものですよ。静かで、穏やかで」
 凛はそっと微笑み返すだけだった。「輝くのはほんの一瞬ですが、だからこそ美しいものです」
 うつむいて線香花火に見入るけいの横顔をほのかなオレンジ色だけが照らし出している。
 「そうじゃな。わびさびというやつじゃ」
 納得したように肯いたゆきの手元が揺れた拍子に線香花火の玉がぽとりと落ちた。
 「ああ……きえちゃった」
 「む、うっかりしておった。線香花火はそーっとやるのがコツなんじゃよ」
 新たな花火を二本取り出し、ゆきは一本をけいの手に握らせた。
 「一緒にやろう。な」
 「うん」
 微笑むけいの顔は心から幸せそうで、その横顔を見つめる凛もまた、柔らかく微笑んだ。



 時間にすれば二十分ほどはあっただろうか。だが、ゆきにはほんの瞬きほどの時間に感じられた。少しでも線香花火を長持ちさせるために息すら殺してけいと見守り、火の球がぽとんと落ちれば二人揃って落胆の声を上げた。少しでも大きな球を作ろうと言い、二人の線香花火をくっつけて火をつけた。ほのかな炎に照らされながら小さな花火を飽かずに眺め、笑い合った。
 最後の線香花火が燃え尽き、地面に落ちたオレンジ色が消えた時、しばし沈黙が落ちた。
 夏の終わりはえてして空洞にも似た感傷に捉われるものだ。
 「うん。楽しかったの」
 殊更に明るく沈黙を打破すれば、物言いたげなけいの瞳がゆきを見上げる。ためらいながら言葉を紡ごうとしているかのように震える唇。ゆきはことりと首をかしげてけいを覗き込むが、彼女はそっと笑うだけで何も言わない。
 どこかおかしい。幼いゆきがそう感じるには充分だった。漠然とした不安が頭をもたげるが、その根拠と正体を突き詰めるにはゆきは無邪気すぎたこともまた確かだった。
 「ゆき。これ、あげる」
 と不意にけいが差し出したのは金魚すくいでとった出目金だ。
 「なんでじゃ? けいがとった金魚じゃろ」
 「あげる」
 「自分でとったんじゃ、自分で飼えば良い」
 「おねがい」
 けいは強くかぶりを振り続け、金魚をゆきの胸に押しつけた。
 「ゆきがもってて。お礼だから」
 礼とは、何の礼じゃ?
 喉元まで出かかったその台詞をゆきはなぜか飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。どうしてもこの品を受け取らないといけないような気がした。
 ――けいの双眸は、それほど切なくゆきを見つめていたのだ。
 「……そうじゃな。ありがとう、けい」
 どうしてそんな意味深な目をするのじゃ? まるで二度と会えなくなるみたいじゃの? のう、けい。どうして……。
 凛なら何か知っているのではないかと思って視線を送ってみても彼は無言である。ただいつものように穏やかな微笑を浮かべて見守っているだけだ。
 言いたいことは山ほどあった。聞きたいことは山ほどあった。しかしゆきはすべてを呑み込んで金魚を受け取り、大事そうに胸に抱きかかえた。
 「また明日な。花火、約束じゃぞ」
 明日もまた会えるのだ。明日になっても様子が変ならその時に聞けば良い。そう思ったから、ゆきは笑顔で、しかし念を押すようにそう言った。
 「うん。たのしかった。あしたいっしょに、はなびね」
 だからけいが微笑とともにそう答えてくれたことに心から安堵して、笑顔で帰途に着いたのだった。



 何度も何度も振り返って手を振るゆきの姿が曲がり角に消えると、一生懸命手を振り返していたけいの顔がくしゃりと歪んだ。
 「……ばいばい、ゆき」
 笑っていようと、泣いてはいけないと言い聞かせて、それでも我慢できなくてとうとう泣いてしまった。そんな顔だった。



 朝顔の時期ももう終わりなのだろう。くしゃくしゃに萎れて閉じた花ばかりが目につき、今か今かと朝を待つ蕾はごくごくまばらにしか見受けられない。
 誰かが種をまいていったのだろうか、公園をぐるりと囲むようにして設置されたフェンスに朝顔の蔓が絡みついている。昨日の昼間、この花がゆきの団扇に描かれた朝顔かと言ってけいはたいそう珍しそうに眺めていた。
 「きんぎょ、長生きするといいな」
 けいは瑞々しさを失った花を見つめている。凛は何も言わずにそばにしゃがみ込み、小さな肩をそっと抱いた。
 「たのしかったよ」
 けいは殊更に明るく言うが、凛は答えない。肩を抱いた手から彼女の体の震えが伝わった。

 ああ――
 こんなにも痛いのか。
 こんなにも、切ないのか。
 小さな心から溢れんばかりに流れ出る感情は、命短い蛍のように、儚く悲しく――あたたかで、美しい調べを奏でる。

 「はなび、見たかった」
 けいは泣いていた。彼女が初めて見せた涙だった。
 「ゆき。はなび、ごめんね。ありがとう。ありがとう」
 泣きじゃくるけいの姿を隠そうと、凛は小さな体をかき抱く。
 「りん、りん」
 小さな手が凛の胸に縋りつく。凛はそっと眼を閉じ、けいを抱く腕に静かに力を込める。華奢な体が壊れてしまわないようにと注意しながら。けいは泣いた。幼い子供そのままに、声を上げて泣きじゃくった。
 「もう少し。もう少しだけ……あと一日だけ」
 叶わぬ願いと知ってはいても、変えられぬ運命と分かっていても、口にせずにはいられないのだ。
 せめてあと一日。ゆきと一緒に花火を見るために、ほんの一日。
 それだけでいい、

 「――……生きたかった」

 その瞬間、あたたかい色の風がふうっと凛の中に吹き込んできた。
 腕の中で小さな体の感触が徐々に失われていく。凛は動かない。顎の下にあった彼女の髪の毛の感触が消え、浴衣の前合わせを小さな手に掴まれる感触がなくなっても、凛はしばらくそうしていた。
 いつしかけいの体は煙のように消え失せ、後には確かなぬくもりと小さな蛍の死骸だけが残った。



 フェンスに絡みついた蔓から萎れた朝顔がほとりと落ちる。
 青い花を濡らす夜露がまるで涙のようだと、凛は脈絡もなくそんなことを考えた。きっとこの夜露も朝には消えてしまうのだろうとも。



 祭の喧騒は今日は遠い。ゆきは神社を見下ろす小高い山の上にいる。山といっても子供の足で十五分も登れば頂上に着いてしまう程度の標高で、どちらかといえば丘と呼んだほうが正しいのかも知れない。
 元々人通りが少ない場所にあり、道も整備されていないため、この場所にやってくる者は少ない。近辺の地理に明るいゆきだからこそ発見できた穴場スポットだ。
 (遅いのう)
 申し訳程度にしつらえられたベンチに腰掛け、下駄を履いた足をぷらぷらとさせながらぼんやりと夜空を見上げる。傍らには夜店に赴いて買って来たイカ焼きや水飴、ベビーカステラなどが置いてある。昨日けいが食べられなかった品物ばかりだ。
 「あ」
 足を揺らしているうちに片方の下駄がすこんと脱げてしまった。飛んで行った下駄を追い、ベンチを降りたゆきは片足でぴょんぴょんと跳ねる。
 その時、
 「こんばんは。遅くなりまして」
 と不意に暗がりから声がしたものだから、思わずバランスを崩して裸の足を地面につけてしまった。足の裏に伝わる地面の感触は妙にひやりと冷たい。
 現れたのは凛である。
 やって来たのは凛だけだ。
 「おお、凛。けいはまだかの?」
 幼いけいは凛に比べて少し歩みが遅いのかも知れないと考え、下駄をつっかけたゆきは何の気なしに笑顔で尋ねる。
 「彼女は来ません」
 だからその言葉の真意を理解するまでには数秒の時間がかかった。
 「来ない? 具合でも悪いのか?」
 だから、いつものようにさらりと髪の毛を揺らして首をかしげた。
 「いいえ。もう、彼女は二度と来ません」
 ざあと風が吹き、ゆきの髪がさらわれ、凛の浴衣がはためいた。
 
 ゆきはすべてを聞いた。
 けいが蛍の化身であったこと。誕生してから一週間しか生きられぬ運命であったこと。
 そして、けいの寿命が昨夜までであったこと。

 「隠していたわけではありません」
 それでも凛は小さく詫びつつ、軽く頭を下げる。「ただ、楽しい時間を過ごしてほしかった」
 ゆきがただ純粋に、友達としてけいと過ごしてくれたことが何よりの贈り物。何も知らないゆきだからこそまっすぐにけいに笑顔を向けることができた。それはすべてを知っていた己にはできなかったこと。そして自分にはないものをけいに与えてくれたゆきには心から感謝していると。
 「もう一日だけ生きたかったと、最後に言っていました」
 ゆきと一緒にベンチに腰掛け、夜風にさらわれる黒髪を直そうともせず、凛は穏やかに、淡々と語る。
 「とても寂しそうにしていましてね。彼女があんな顔をしたのは初めてでした。それだけこの世を去るのが惜しかったのです。それだけあなたと過ごした時間が楽しかったのです。花火が見たかったと泣いていました。それでも最期の瞬間は……とても幸せそうでした」
 ゆきは何も言わない。おかっぱ頭をうつむけて、膝の上で拳を握り締めているだけだ。ただ風だけが、夜店で買い込んだ食べ物が入ったビニール袋をかさかさと撫でていく。
 口など開かずとも凛には彼女の心がすべて見通せる。それでも凛は何も言わず、ゆきの傍らに腰かけている。
 「馬鹿じゃ。けいは馬鹿じゃ」
 ゆきの声は震えていた。「あの金魚……一緒に遊んだお礼のつもりだったんじゃろうけど」
 ゆきの名前を繰り返して、嬉しそうに飛び跳ねた。
 急いでアイスを食べて激痛に見舞われ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 ゆきの浴衣が可愛いと笑い、自分の浴衣をほめられるとはにかんだ。
 大きな出目金をすくい取り、得意そうににこにことしていた。
 「楽しかったのはわしのほうなのに。友達ができて嬉しかったのはわしのほうなのに」
 お面を試着しておどけてみせた姿も、ソースや青のりをつけてきょとんとした顔も、線香花火を見つめるくりくりとした眼も、全部、全部が、苦しいほど鮮明に甦って。
 「けい、けい」
 ああ、今頃になって、あの意味ありげな言葉や表情がすべてぴたりと符合する。
 「礼を言うのはわしのほうじゃ。わしのほうなんじゃよ」
 宝石のかけらのような涙がぽろぽろと溢れて、ふっくりとした頬を伝っていった。

 不意に、長く尾を引くような風切音が夜の帳を切り裂いた。
 閃光。一拍遅れて、腹を打つような爆発音。
 金色の菊花が夜空に咲き、星屑のようなきらめきを残して消えていく。

 ドーン、ドーン、ドーン。
 祭の終わりを告げる花火が惜しげもなく打ち上げられる。
 赤に緑、青、黄色。単色の花から、色彩を幾重にも重ねた大輪まで。色とりどりの花火が咲き乱れては散っていく。

 「綺麗ですね」
 ゆきの泣き顔を見ないようにしながら凛は呟いた。
 「きれいじゃ。ほんにきれいじゃ」
 だけど、とゆきは泣きじゃくりながらかろうじて言葉を継ぐ。
 「昨日の花火のほうが……きれいじゃったよ」
 三人でした小さな線香花火のほうが綺麗だった。けいがきらきらとした眼で見つめていたあの線香花火のほうがずっとずっと綺麗だった。
 
 音と光の饗宴が続く。
 河川敷に陣取っているのであろう見物客たちの歓声が遠く、近く流れてくる。
 きらびやかな花々が鮮烈に闇を彩る。刹那の烈火を人の記憶に焼きつけんと、全力で命を燃やす。

 「凛。ありがとう」
 凛は軽く首をかしげ、ゆっくりとゆきに顔を向けた。
 「けいと引き合わせてくれて、ありがとうな」
 ゆきは笑っていた。極彩色の光に照らされてきらきらと涙が光る笑顔は、どんな花火よりもとびきり美しかった。
 「ありがとうな、凛。ありがとう、けい……ありがとう」
 しかしそれも長くは続かず、ゆきの顔は笑顔と泣き顔の間で奇妙に崩れてしまう。凛はそっとゆきの頭に手を置いた。ゆきは泣くまいと真一文字に結んだ唇をへの字にして、再び嗚咽した。



 訪れる者のない丘の上、座敷童子が泣く姿は誰の目にも見えやしない。
 大輪の花火にかき消されて、友を想う童女の泣き声は誰の耳にも届きはしない。
 凛だけが見ていた。凛だけが聞いていた。
 さあと風が吹き、さわさわと葉を鳴らす木々の下、ただ凛だけがゆきのそばにいた。



 三日後。ゆきの居室の金魚鉢の中で黒の出目金が腹を見せて浮かんでいた。
 飼育方法や個体差にもよるが、金魚すくいの金魚は短命であることが多いという。
 ツクツクボウシも姿を消して、ここ何日かは吹く風にも時折秋の気配が感じられるようになった。過ぎゆく季節と命を想い、ゆきはまたほんの少し泣いた。



 (了)

クリエイターコメントこのたびはオファーありがとうございました。
大変お待たせいたしました…。ノベルをお届けに上がります。

全体的にほのぼのしつつも、所々切なさを織り交ぜつつ静かな展開を…という雰囲気を目指しました。
夏祭や夏の活気だけでなく、祭が終わった後の侘びしさや、鮮烈な季節が終わる頃のちょっとした寂しさなぞも感じていただけたら嬉しいです。
出目金(捏造ですが)に関してはどうしようか迷いましたが、結局こんな形と相成りました。
それも含めて、切ない雰囲気が出ていれば幸いです。

オファー文を拝見して「…いい話だ」と呟いたのはここだけのお話です。
シリアスで切ない物語ということで喜んで引き受けさせていただいたのですが、いかがでしたでしょうか…。
素敵な物語の書き手に指名していただきましてありがとうございました。
お気に召していただけることを願って。
公開日時2008-09-07(日) 12:20
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