★ 【銀幕八犬伝〜義の章〜】四面楚歌 ★
<オープニング>

 夜である。
 生温い風の吹く、厭に闇の深い、夜であった。
「許さぬ、許さぬぞ」
 ずるずると地を這うそれは、腹が膨らんでいるのも気にせず腹這いになって闇の中を進んだ。
「許さぬ、この私に再び生き恥を晒せと抜かした者共め」
 土を掻く細い指には赤が滲み、漆黒の瞳には止め処なく涙が溢れた。髪は乱れに乱れ、頬や額に張り付いている。白い顔は泥にまみれ、しかしそれを一向に気にした様子も無く、それはすすり泣きとも呻きとも取れる声で怨嗟の言葉を吐き散らした。
 やがてよろよろと立ち上がると、女の前には死の淵が大きく口を開けていた。闇よりも深い闇が、おいでおいでと手を拱いている。
 女は膨れた腹を悍まし気に見下ろした。胸元に下がる水晶の数珠を引き千切ると、爪の剥がれた赤い細指で懐の守り刀を引き抜き、何の躊躇も無くその腹を引き裂いた。
「呪うぞ、忌々しき街よ。この伏姫が死をもって、貴様らに災厄を齎して呉れる」
 ゆっくりと、女は闇の底に沈んで行く。
 女の最後の絶叫は、恐怖の叫びだったのか、それとも高嗤いだったのか。
 知る者は、いない。

 そして、明くる日、四月十五日未明。
 星々の煌めく夜、銀幕市には流れ星が降った。
 或る者は言った。
 暗く輝くその星は、天高く登り詰め、烈火の如くに落下したのだと。
 或る者は言った。
 冷たく光るその星は、大きな一つ星として空に昇り、八方に散ったのだと。
 或る者は言った。
「またワシは間に合わなかったのか……伏姫様……」

 数日後。
 対策課は騒然としていた。その中心には、山伏の風体をした坊主の男が神妙な面で植村と向き合っている。
「では、あの跡は、『里見八犬伝』から実体化した伏姫のものだと、おっしゃるのですね? そしてその伏姫が今回の事件を起こしているのだと?」
「そうさな、死した伏姫様が蘇り、仁義八行の玉に悪事を働かせている、という方が正しかろう。いずれにしても、これは早急に事を運ばねばならぬ。既に被害が出ていると、街を見て思った」
 坊主は、ゝ大法師(ちゅだいほうし)と名乗った。伏姫と同じ、映画『里見八犬伝』より実体化したムービースターである。
「そもそもの始まりから話そう。安房国滝田城城主がまだ神余光弘公であった時だ」
 悪臣・山下定包と公の妾・玉梓と名乗る心悪しき美女とが手を組み、光弘公を陥れ、挙句光弘公は騙されてあえない最期を迎えた。そのまま定包が滝田城主を名乗り、玉梓を妻に迎え、悪事の限りを尽くした。
 その山下を討ったのが、今は滝田城主である里見治部大輔義実である。
 義実が毒婦玉梓を捕らえた時、義実はその美貌と口の巧さにほだされ、殺すも哀れ見逃すか、と言った。しかしそれを止めたのが、譜代の重臣・金鋺八郎であった。今この毒婦を許せばまた祟りを為すでありましょう、と。
「情けなや、一度は助けると言って望みを持たせておきながら、家来の言葉にたちまち心を覆す意気地なし、呪われるがいい、末代までも悪霊となって里見の家にこの玉梓が祟ってやろうぞ。……そう叫びながら、玉梓は首を落とされた」
 市役所内は、ただしんとして、ゝ大の声のみが朗々と響いていた。
 幾年月が経ったある時、隣国安西景連の領を酷い飢饉が襲った。景連は隣国のよしみ、助けてくれと義実に申し入れた。義実は快く聞き入れ、多額の援助を惜しまなかったがその翌年、皮肉にも今度は義実の領が酷い飢饉に見舞われたのだ。この前の恩義もあるのだから、助けの手を返してくれない事はあるまいと、義実は景連へ援助を乞うた。だが、景連は助けるどころか里見家が飢饉にて弱り果てているのを機と見て、大軍を仕立てて滝田城を包囲してきたのである。
 烈火の如く怒り狂った里見義実とその家臣たちは、安西の大軍を迎え撃った。しかし、元々飢饉で弱り果てている軍である、旗色はみるみる悪くなり、もうあとは落城を待つばかりとなった。
「そんな時だ。義実様が飼い犬・八房に戯れごとを申したのは」
 義実は八房に向かってこう言った。
 お前に心があるのならば、憎き安西景連ののど笛に食らい付き、その首を取ってみせぬものかな。もしもそれが叶うならば、褒美を取らせよう。魚肉をたらふく食わせてやろうか、それとも大将の座なりを与えようか……それでは不服か、八房よ。なれば、我が娘、伏姫を取らせようか。お前は伏姫の犬、姫も日頃よりお前を可愛がっている様子。お前が景連の首を取りこの窮地から我が里見家を救ってくれるのならば、お前に姫を取らせるぞよ。
「八房は見事、景連の首を取って来た。それによって、里美家を大勝利を治め、そして約束通り、姫は八房と共に何処かへと姿を消した」
 当然、義実は猛反対した。犬畜生めに大事な姫などをやるものかよ、と。
 しかし、伏姫は言った。
 これも運命なのでありましょう、と。伏姫とは、人にして犬に従うと書きまする、この八房と行くのが、私の定めなのでありましょう、と。
 そして、八房に言い聞かせた。
 畜生とはいえ約束は約束、私はお前と共に参ろう。だが、犬と人とが交わるは人の道に背く事。私は人の道に背きたくはない。もしお前が私の傍らにあっても心清らかに私を守り忠実に控えているというのならば、黙ってお前の行く所へ参りましょう。されど、もし約束を違えて淫らな事をしようとするなら、私はお前を殺して私も死ぬ。守れますか。
 八房は、誓うと言うように、一つ吠えた。
 そうして、八房と姫は姿を消したのだ。
「それから半年ほど過ぎた頃であろうか。私は富山の山中で、八房と伏姫とを見つけた」
 今まさに入水せんとしようとしていた伏姫の傍らに犬がいて、思わず銃の引き金を引いた。それは八房を貫くと共に、伏姫の胸をも貫いたのだが、伏姫の傷は運良く急所を外れており、一命を取り留めていた。
 だが、伏姫は泣いた。なぜ、生きているのかと。
 伏姫が言うには、春頃から腹が妙に膨れ、気分が悪くなっており、これは何かの病を得たに違いない、なんとはかない一生だろうと涙に濡れていたのだと言う。そしてある日、水を汲みに川面をのぞき込むと、なんとそこには犬の頭の姿の自分が映っていた。驚いてもう一度見直すと、人の顔になっていたが、これはどうした事かと戸惑っていると、そこに一人の童が現れた。その童は神の使いであったのだろう、それが言うには、伏姫は病ではなく、八房の子を孕んだのだと。
 伏姫は驚いた。天地神明に誓って八房と夫婦の契りなど結んではおらぬ、この身は潔白である、と言うと、
「人は交わらずともただ<気>に感じて孕むこともあり、八房と暮らすうち、八房の強い<気>と、父が伏姫を八房の妻にと決めたからには、八房を夫と思う<気>が感じ合って胎内に八つの子を生したのだ」
 伏姫はこれを恥じて入水しようと決意したのだった。
「では、その時の状態で実体化を……?」
 植村が言うと、ゝ大法師は一つ首を振った。
「伏姫様は、確かに一命を取り留められた。だが……その後、自らの守り刀で腹を割いて亡くなられた。もはや、生きてはいられぬこの身の上、とおっしゃられて」
 ゝ大は目を伏せる。
 そして植村の目を真直ぐに見た。
「映画では、確かに伏姫様は亡くなられたのだ。八房の<氣>を受けての懐妊とは言え、人の道に背いた懐妊なのだ、と恥じたからだ。自らの腹を裂いてまで、伏姫様は胎内に子がない事を、証明なさった。伏姫様は、笑っておられた。その、最期に。だのに」
 伏姫は、実体化した。
 懐妊した状態で。
「しかし……しかし、それは無理です。監視所には常に人がいるんです」
「居らなんだ日もあったろうよ。聞けば、伏姫様が此処へ参られたのは、四月十四日だそうではないか」
 ゝ大が言うと、植村は思い出すようにこめかみに手をやった。
「ええ、……ええ、確かに十四日にいらっしゃいました。その時は酷く驚いた様子でしたが、実体化したムービースターはほとんど皆さんそんな状態で」
「その時、姫様は懐妊しておられたのだ」
「ですが……「穴」に身投げをする隙なんて」
 そこまで言って、植村ははっとした。
 ……あった。
 あったのだ。
 珍しく長く、誰も訪れなかった日が。
「そんな……では、あの時……?」
 植村は愕然とした様子でゝ大を見上げた。ゝ大は瞑目した。
 「穴」の今後の方針として、会議が始まったのは四月十三日。
 『里見八犬伝』から伏姫が実体化し、市役所にやって来たのは四月十四日。
 酷く狼狽した様子で、市役所を去ったのも四月十四日。
 会議が終了したのは、四月二十四日。
 会議の結果、「穴」調査隊が再編され、準備に入った。
 十七日以降になってから発見された、何者かが侵入した形跡。
 銀幕市に飛び散った、八つの光。
 そして、四月十四日から十六日の間、監視所には人が居なかった。
「そんな……そんな、だったら、伏姫は? 彼女は今、どこに?」
「街には居らぬ。どこか別の場所で、氣を蓄えておられる。だから先に、玉が街に散らばり、伏姫様に氣を与えんとしておるのだ」
 植村は青褪めた顔で腰を落とす。ゝ大はやはり神妙な顔で、言葉を続けた。
「……先にも言うた通り、今街で悪行を成すは仁義八行の玉と呼ばれる八つの玉。本来は八犬士が持ちその力を制御するのだが、その犬士は此処に居らぬ。元々、あの玉は伏姫様が御自害なされた際に姫様の腹から八方に散ったもの、姫様の意に沿うても不思議は無い」
 そこまで言うと、ゝ大法師は深々と頭を下げた。
「どうか、伏姫様のお怒りを鎮めて欲しい。あまりに変わり果てた姿を、ワシはもう見ておられぬ……恐らく、玉を壊せば姫様へ流れる力は止まり、姫様自身の力も弱まろう。どうか、玉を破壊してくれ」

 ★ ★ ★

『汝、それを正義と説くか』
「そりゃ……うん、そうでしょう。だって、そうしなきゃ街が大変なことになるし」
 唐突の出来事であったにも関わらず、男は答えた。
 道を、歩いているはずだった。仕事が終わり、帰途についていたその最中の出来事であった。闇の中で、丸いものが光っていた。なんだろうと目を凝らすと、その玉は真っ白い閃光を放った。思わず腕で目をかばい、そろりと目を開けると、そこは何もない、ただ荒涼とした風の吹くだだっ広い空間となっていた。
 なんのムービーハザードだろう。
 そして聞こえて来たのは、低くも高くもない、しかし耳に聞こえるでなく、頭に直接響くような音だった。
 奇妙な問いかけではあったのだが、一人ではないということに安心してしまった。銀幕市に魔法が掛かって以来、そういった不思議で動じなくなってしまっていたのは、この時ばかりは不幸だった。
『汝、それを望むか』
「ええと、うん。だって平和が一番だし」
『汝、それを行えるか』
「……」
 男は少しばかり躊躇した。
 そして目の前に、突如としてその光景が広がった。
『どうした』
「……」
 男は何も出来ずにただそれを見ていた。
 目の前では、覆面の者にナイフを突きつけられた女性が助けて、と叫んでいる。
 それでも動かずにいると、凶悪なそれは下卑た笑い声と共に白い喉にぷつりと沈み込んだ。
「……ぅあああああっっ!」
 男は駆けた。
 女性に、背を向けて。
『愚かなり』
 男の視界が急激に色を無くしてゆく。
 暗闇。
「いやだ、いやだいやだ、出してくれ! 助けてくれ!!」
『彼の者も、同じように叫んでいたぞ』
「知らないっ! 知らないよ、ナイフ持った奴に素手で叶うわけ、ないじゃんか!」
『汝はそれを助けることを、正義と説いた』
「そんなの、誰だってそう答えるに決まってる!」
 男は喚いた。喚いて喚いて、喉が枯れるまで。
 頭に静かな音が響いた。
『義を見てせざるは勇無きなり』
 闇の中では男の声は響くこともしない。

種別名シナリオ 管理番号566
クリエイター木原雨月(wdcr8267)
クリエイターコメントこんばんは、当シナリオをご覧頂き、誠にありがとうございます。
木原雨月です。

さて、まず今回のコラボレーションシナリオについて。
コラボレーションシナリオ【銀幕八犬伝】における個々のシナリオの最終目的は負の力に汚染された仁義八行の玉の破壊になります。ただし、参加されたPC様のプレイングの内容によっては、玉が破壊されない可能性もあります。
よって、今回、公正を期すためキャラクターのクリエイターコメント欄による補足は考慮いたしません。ただし、PC間の交流状況など、直接シナリオの内容と関係しない部分は参照します。

【銀幕八犬伝】に関するシナリオは、第二次『穴』調査隊が派遣される前に起こった事件になります。
また、同日同時間に起こった事件ですので、同一PC様による複数シナリオへの参加はご遠慮ください。

 * * *

さて、木原の執筆します『義の章』では、あなたの正義を問います。
何を持って正義とし、何を正義と解くか。
また、プレイングをお考えの際には、あなたのその正義がどのようにして構築されたのか。過去の記憶やその時の思いなどを書き入れてくだされば幸いです。
今回のシナリオは心理描写が主となるかと思いますので、それもご考慮くださいますよう、お願いいたします。
また、このシナリオは基本的に巻き込まれ型であることを明記しておきます。

それでは、皆様のご参加をお待ちしております。

参加者
ルースフィアン・スノウィス(cufw8068) ムービースター 男 14歳 若き革命家
南雲 新(ctdf7451) ムービーファン 男 20歳 大学生
ラズライト・MSN057(cshm5860) ムービースター 男 25歳 <宵>の代行者
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
<ノベル>

 生温い風が吹いていた。
 陽は既に天高く昇っているというのに、やけに薄暗い。
 ねっとりとした空気が不快感と共に纏わりついた。
「……嫌な空気だな」
 シャノン・ヴォルムスは灰色にけぶる空を見上げて眉を顰めた。
「そうだね、戦場でもなし」
 彼の隣で、ルースフィアン・スノウィスが深い青玉の瞳を眇める。
 今はもう遠い、あの重苦しい過去の空気。人が人でなくなる場所。あれに似たものを感じて、杖を持つ手がきりと軋む。今はもう無い左足の裾が、荒涼とした大地の風にはためくに似た音を立てた。
 ――――………。
「なに?」
 ルースフィアンがシャノンを振り返ると、その声で彼はこちらを向いた。怪訝な顔に、ルースフィアンの方が戸惑う。
「今、何か言ったでしょう」
 言うと、シャノンは首を振って前方を見やった。
「俺じゃない」
 では誰が、と言うように眉根を寄せる。シャノンはルースフィアンの手を取った。
「……行くぞ。ここは長居をしない方がいい」
 それに頷いて歩き出すと、前方に浮遊する光が現れた。よくよく見てみれば、それは丸い玉のようなものだった。
 なんだろうと見つめていると、光は少しずつ大きくなるように感じた。
「――飛ぶぞ」
 言い終わるか否か、地から足が離れる。と、足下で閃光が迸った。その眩しさに思わず目を瞑る。シャノンの舌打ちが聞こえる。
 ふいに浮遊感が消え目を開けると、荒涼とした不毛の大地が延々と横たわる場所に、一人立ち尽くしていた。

 荒涼とした大地に一人でいることに、シャノンは舌打ちをした。
 何かしらのムービーハザードに違いないとは思うが、しっかりと抱き締めていたはずのルースフィアンと離ればなれになっている事が腹立たしかった。
『汝、正義を何と説く』
 音に、シャノンはぴくりと眉を上げる。耳に聞こえるのではなく、直接頭に響く音。
 ただでさえ苛立っているのに、姿も見せず意味の分からない言葉とも言い難いそれに、答える気はない。
 シャノンは体を霧散させる。とにかく、ルースフィアンを探すことが先だ。
『答えよ。汝、正義を何と説く』
 音は追ってくる。耳に聞こえるものではないから、ここにいる限り途切れる事もないのだろう。
 荒れ果てた大地を彷徨い続ける。
 音はずっと聞こえている。
 ……何が何だかよく分からない。
 何故このような事態になっているのか。
 意味が分からない。
 ――まあ。
 分かったところで、意味もまたないのだろうが。
 思考がそこまでいって、シャノンは少しずつ冷静になっていくことを感じた。
 音はずっと聞こえている。ここは相手のテリトリー。
 ならば、こうして探す意味もない。
 シャノンは自分を取り戻していく。
 息を吐き、霧散させた体を収束していく。緑の瞳が開いた。
『答えよ。汝、正義を何と説く』
「……要領を得ない質問だ。正義とは何か、か。それぞれの正義があるのだから声高に主張するのも馬鹿馬鹿しい。……が、そういう問題ではなさそうだ」
 シャノンが言葉を発したからか、音は頭の中から離れたようだ。だが、じっ、と耳を澄ませているような、続きを待っているような感覚がある。
「俺の正義は」
 シャノンは目を閉じる。
 瞼に浮かぶ、いとおしい者達の笑顔。
「俺の正義は、大切な者を守る為に俺の力全てを以て、傷付けようとする者を排除する事だ」

 ◆ ◆ ◆

「……「穴」に身投げ、か」
 南雲新が呟くと、植村は沈痛な面持ちで俯いた。
 彼は対策課に来ていた。街に溢れる負の気に、少しでも備えておくためだ。そして対策課で聞いた話は、想像以上に悪いものだった。
「とにかく、その“仁義八行の玉”とかいうけったいなモンを見つけて壊せばええ、ってことですよね」
「はい。……あの、」
 踵を返しかけたところで、新は立ち止まる。植村は、深々と頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いします」
 新は、その垂れた頭に頷く。頷いて、対策課を後にした。

「嫌な空ですね……シト、こちらへ」
 青年が言うと、背中に蝙のような翼を持ったリスのような生物は青年の懐に飛び込んだ。それを確認して、青年は改めて空を見やる。
 なんて嫌な色だろう。
「……っ!」
「おわっ」
 呆と空を見過ぎていたらしい。駆けていた人影に気付かなかった。少年はバランスを崩しながらも、なんとか転ぶことは避けたようだ。パーカーのフードの中にラベンダーのバッキーを見つけて、少年がムービーファンであることに気付いた。
「申し訳ありません、大丈夫ですか?」
 聞くと、少年は屈託なく笑う。
「ああ。俺の方こそ、前見てなかったし、悪かった」
 それに微笑んで、青年はふと少年の鋭い目に気付く。
「……あの、不躾なようで申し訳ないのですが、貴方は現在銀幕市に起きていることについて、何かご存知ではありませんか?」
 少年はほんの一瞬目を眇めて、それから頷いた。
 少年が言うには、杵間山に空いた大きな「穴」……あれに、身投げをしたムービースターがいるという。そして、それが放った八つの玉が、銀幕市内で悪行を成していると。
「ほんなら見つけたろ思って、探してる途中や」
「そうでしたか。では、自分も手伝います」
 言うと、少年は少し驚いたような顔をした。尻尾を揺らして微笑む。
「この街には、感謝すべき人々がいます。自分に出来ることなら、なんでもしましょう。……自分はラズライトと申します」
「南雲新。よろしくな」
 新はにっと笑う。
 と、風が吹いた。
 生臭い臭気。
 二人は振り返る。振り返ると、そこには白い光を放つ丸い玉があった。新の『威虎』が鍔鳴る。
 瞬間。
 玉は鋭い閃光を迸らせる。思わず目を瞑ると、次に目を開けた時には荒涼とした大地の上にたった一人で立ち竦んでいた。
「南雲様?」
 声に出す。
 しかし返事はなく、右を見ても左を見ても、ただ延々と荒廃した大地が広がるだけで、何もなかった。
『汝、正義を何と説く』
 突然の音に、ラズライトは振り返った。
 しかし、誰もいない。やはり不毛の大地が広がっているだけだ。訝しんでいると、また音が響いた。今度は、頭の中に直接響いているということに気付く。
 これはもしや、先ほどの玉の中なのか。
 そう思考した所で、もう一度同じ質問が繰り返される。
 せっかちで、随分と唐突な質問だ。
 そもそも、場所や状況に寄って変化する相対的なものだとラズライトは思っているし、これと決めつける事の出来る絶対的な考えでもないだろう。
 それでも繰り返される質問。
 正義を何と説く。
 間違い、というものは存在しないだろう。そして正解、というものも。だが、答えなければただ延々とこの質問が繰り返されるだけ。
『答えよ。正義を何と説くか』
「……自分の正義は、「より多くの命を守る事」、でしょうか。たとえそれが悪とされる状況下であっても、自分はそれを貫きます。誰にも傷付いて欲しくないと願った、あの方の為に……」
 思い出す。エイガと呼ばれる故郷で出会った、心優しい少女を。

 ◆ ◆ ◆

 ルースフィアンは彫刻のように美しく整った顔を歪める。
 わけのわからない、最も見ていたくない場所。
 唐突過ぎる質問。
 言い放つ言葉に棘が含まれたのは、彼が最も嫌う正義などというものを声高に問われたからだ。
「正義というものは、それぞれの主観によって変わる、曖昧なものです。その言葉にしがみつく程、僕は愚かではありません」
 青玉の瞳に冷徹な光が宿る。
『……今一度、問おう。汝、正義を何と説く』
「同じ事を、何度も言わせないでください」
 ルースフィアンは苛立を露に姿なき音を侮蔑する。
 ──戦の時代を生きてきた。
 革命家としての道を歩んできた。
 故に思う。
 正義と悪は、主観で変わるものだ。
 だからこそ、正義とやらを掲げて戦を起こした、自らの欲望で国を傾けた、腐った王を殺した。
『それは、汝が正義ではないのか』
「そうは思いませんね、自分自身の為でしたから。人を救う事を人として成すべき事だとも、あまり思っていません。そういう概念は、生憎と持ち合わせていないのですよ」
 雪花石膏の白い肌の、赤い唇の端が吊り上がる。妖艶とも言えるその姿は、見るものが見れば総毛立ったに違いない。その、冷酷な瞳に射竦められて。
 頭の中に、音が響かない。
 馬鹿げた質問は終わりか、と息を吐く。
 そこで異変に気が付いた。
 鼻に付く、鉄の濁った臭い。
 延々と続く不毛の大地の、その上に。
「────……」
 夥しい程の死体、死体、死体。
 死体の山。
 落窪んだ黒いばかりの眼孔が、恨めし気にルースフィアンを睨み付けている。
 その、死体を踏み潰して剣を掲げて立つのは。
 あの男。
 下劣な笑みを浮かべた。
 正義を掲げて戦を起こした、自らの欲望で国を傾けた、腐った男。
 ルースフィアンは。
 笑った。
「また、殺される為に立ったか。愚かなる王よ」
 ルースフィアンの女のような細腕に、青き氷塊が姿を現す。
 何の躊躇もなく、腕を振った。
 下卑た笑みを浮かべた顔が、抵抗もなく潰れる。倒れる。
 倒れたその上に立つのは。
 ルースフィアン・スノウィス。
 予言に、運命に、翻弄され、縛られた齢十四の少年。
 国のためにならぬ者を問答無用で斬り捨てる冷酷さを持つ少年王。
『愚かなり。義も無く力を持つ者よ』
 頭に音が響く。
 腐った男を踏み潰し、屍の山の頂点に立つ少年王は笑った。
「僕も、いつ、こうして殺されるか、わかりませんね」
 白き少年王は血に染まる。
 屍の山に、また一つ、死体が重なった。
 ルースフィアンの足許に、血が流れ着く。
 あっという間に辺り一面が血の海と化した。
「仕方ありませんね。僕はそうして、今まで生きてきたのですから」
 ルースフィアンは、何をしたのかわからなかった。
 叫んだのか、笑ったのか、それとも泣いていたのか。
 荒涼とした大地も死体もない。
 そこにはただ、深淵なる暗闇が広がっているだけだった。

 新は走っていた。
 何を考える事もなかった。
 ただ、体が勝手に動いた。
 その体を、止めようとはしなかった。
 助けてと叫ぶ女性。
 ナイフを突きつけ、脅迫を続ける男。
 新は飛び込む。男と女性の間。ナイフを弾き飛ばし、女性を抱えると男の顳かみに踵を打ち付ける。確かな手応えを感じた。その瞬間、男と女性は消え去り、辺り一面には荒涼とした大地が広がった。
「なんや、ここ……」
 呟くと、吐息をつくような気配があって、新は身構えた。
『汝、正義を何と説く』
 その音は、耳ではなく頭に響くものだった。音、というのは、声というには程遠いからだ。しかし、かといって機械的な音でもない。あえて言うなら奇妙な音が、確たる意志として働き、言葉のように聞こえるのだった。
 敵意は無いように感じた。新は構えを解き、頭を掻く。
「そんなの、解んねぇよ」
 新はただ、自分の思うままに行動しているだけだ。
「正義がどうこう考えとったら、助けられる奴も助けられんやろ」
 下劣な男が女性を脅していた。ナイフで。それを見たら、体が勝手に動いた。考える隙なんて、ない。ただ、そこに、危険に晒された人がいる。ただ、その瞬間、『護りたい』と思う。
 その気持ちが、すべてだ。
「まあ、あんな阿呆な兄貴が居ったから、だろうけどな。こう考える様になったんも」
 思い出すのは、まだ兄と暮らしていた頃の事だ。
 家が、火事に遭った。
 新は一人、炎の中に閉じ込められていた。
 それを助けに来たのが、スタントマンだった兄である。
 後で聞いた所によると、消防の者が止めるのも聞かずに飛び込んだのだそうだ。
 火傷で済んだからよかったものの、しかしその火傷が完全に消える事は無い。新自身も火傷を負っていたが、まったくなんて無茶苦茶な兄だろうと呆れてものも言えなかった。
 だけれど。
 炎の中に、単身飛び込んで、新を救った兄。
 そんな兄が、新の中ではいつの間にか大きくなっていたのかもしれない。
 誰かを助ける時。いや、助けると自分では意識していない。そこに危機がある時と言った方が正しいだろう。その時、追いかけているのは、もしかしたら兄の背中なのかもしれない。
「だから、っちゅうのも変かもしれんけどな。その結果が『正義』と呼ばれようがそうでなかろうが、どっちでもええねん」
 細かい理屈なんか知らない。考えようとも思わない。
 ただ愚直な程に真直ぐ、前だけを見つめ続ける。
 自分の行動がいい事なのか、悪い事なのか。
 その答えを出すのは、自分ではなくていい。
 自分は、ただ、『護りたい』と思うものの為ならば、飛び込んでいくだけだ。
 しばらくの沈黙があって、頭の中に音が響いた。
『義をみてせざるは勇無きなり。だが──』
 新は飛び退いた。
 ぞわぞわと、闇が足許から這い上がってくる。
『義もなく危険を冒すは匹夫の勇……哀れよ、義なき者』
「わけわからんっ……じゃあ、聞くけど! あんた、何で正義を求めるんや!?」
 闇の中、新は叫ぶ。
「正義の答えを得て、あんた何がしたいんや!」
 声は響かない。
 だが、聞こえる筈だ。あの音は、頭の中に響くのだ。
「あんたの正義はなんや! 俺は答えた、あんたも答えろっ!」
『……伏姫様は、戯れることを許された』
 音は、静かに響いた。
 伏姫様、と新は反芻する。植村が言っていた「穴」に身を投げたムービースターの名前。
『我は義の玉。我が正義は骨。我が正義は生きるべき時に生き、死ぬべき時に死ぬ』
 新は黙って聞いていた。
『我が正義に値する者。その者の為ならば、我は我が義を貫こう』

 ◆ ◆ ◆

 金の髪が荒廃した大地に踊る。
 緑の瞳が鋭く煌めき、黒い銃身が火を吹く。寸分の狂いも無く眉間が撃ち抜かれていく。まだ遠い。シャノンは跳躍した。
「まったく、趣味の悪いことだ」
 左。鼻面を肘で潰して撃ち抜く。斧。低く沈み込んで足を払い撃ち抜く。跳躍。突き出される槍。蹴りで弾いて撃ち抜く。駆け抜ける。誰も付いては来れない。
 愛しい者。抱きしめた。
 瞬間、荒涼とした大地が再び姿を現した。
『見事』
 響く音に、シャノンは軽く息を吐く。
「……もう二度と、失いたくないからな……」
 また、あんな思いをするのは御免だ。
 復讐を胸に誓ったあの時のような、哀しい思いはしたくない。
 だから、その為に力を振るう。
 その為ならば、どんな障害も乗り越えてみせる。
「俺は、俺の大切な者を守り抜く。その為に、戦い抜く」
 守る事が出来るだけの力が得られるのなら、どんな事でもしよう。
 例えその力が、自分自身を滅ぼしたとしても。 
「……それが、俺のちっぽけな正義と言う奴だ」
 だから。
 シャノンの緑の瞳が煌めく。
 銃を向ける。
 空へと。
「──俺の大切な者を傷付ける様な連中は、誰であっても容赦はしない」
 銃声が、響き渡った。

 人の命を守る為に、獸魔を倒す少女がいた。
 獸魔を倒しながらも、獸魔の為に涙を流す少女がいた。
 獸魔の為に、鎮魂歌を歌ってくれた、心優しい少女がいた。
 ラズライトは<黒の因子>と呼ばれる魔力を宿す水晶を戦輪へと変化させる。襲い来るそれらは屍傀に似て。ラズライトは胸の痛みを覚えた。
「自分に取っては、彼女の考えこそが自らの存在意義です」
 一般的な善悪。
 それは、彼には与り知らぬ所にある。
 戦輪が高音を発しながら空を飛ぶ。腕が、足が、首が、飛んでいく。
「だから、彼女の考えこそが、自分の「正義」……」
 血に濡れた戦輪。眉根を寄せて、それでも襲い来る者らに刃を剥いた。
 ……誰も何も傷付けたくない。
 けれど、より多くの者を救う為ならば、多少の犠牲はやむを得ない。
 彼女はそうして、たくさんの涙を流した。
 流してくれた。
 ならば、その心に応えよう。
 自分は、彼女に救われたのだから。
「あの暖かい笑顔を、優しい微笑みを、必ず守ってみせます。──シト!」
 ラズライトの懐から、シトリンが飛び出す。
 彼の司属霊。
 <宵>の代行者に従う、意志を持つ雷のエネルギー。
 蝙のような翼に、稲妻が走る。
 雷鳴が、轟いた。

 ◆ ◆ ◆

 突風が吹き荒れた。
 思わず目を閉じる。風が止み、再び目を開くとそこは銀幕市だった。
「あの」
 声に、シャノンは振り返る。そこには、青い髪に同じ色の耳と尻尾を生やした青年がいた。
「もしかして、荒涼とした大地にいましたか?」
「……ああ。お前もか」
 青年は頷いて、ラズライト、と名乗った。
「連れを、見なかったか。青い瞳に、雪の様な色の髪をした」
 ラズライトは首を振る。
「貴方は、灰色がかった髪に銀の瞳をした少年を知りませんか」
 それにシャノンも首を振った。
 どうやら、自分たちだけが銀幕市に戻って来たらしい。シャノンは舌打ちをする。
「シャノン様、」 
 ラズライトの声に、シャノンは視線を鋭く光らせた。その先に、あの、白い光を放つ玉がある。銃を引き抜き照準を合わせると、ラズライトが手をかけた。
「お待ちください。もしや、あの中に」
 シャノンは苛立たし気に銃を下ろした。
 壊したとして、中にいる者が助かるのか。それとも、あまり考えたくはないことだが、共に砕けてしまうか。二つに一つ。そして片方は、決して選べない。
『──よもや、我が問いに応える者が現れるとは思わなんだ』
 頭に響くではない。
 耳に、聞こえる音に、二人は玉を凝視した。よくよく見れば、ガラスのような表面に幾筋もの亀裂が入っている。そして『義』という文字が浮かび上がっている。正義を問うたのはその為か、と思う。
「答えるだけなら、誰でも答えるだろう」
『だが、応える者は、なかなかおらぬ』
 どこか嬉しそうに感じる響きに、シャノンは眉を顰める。
「……連れは、ルースフィアンは何処だ」
「南雲様は」
 答えない。
 シャノンは銃を引き抜いた。
「言った筈だ。俺の大切な者を傷付ける様な連中は、誰であろうと容赦はしないと」
 ラズライトもまた、戦輪を構える。
 玉は静かにこたえた。
『……幼き王は力に過ぎる。拙き少年もまた同じ。若さ故と言えば、若さ故であろう。だが、我が義を手にした者は、齢十八にして我が主と成った。伏姫様は十六であらせられる』
 二人はじっと耳を傾けた。
『考えよ。義とは何か。求めよ。義を貫く者を。義は骨。骨が無くば首も腕も足も正しく動かぬ』
 閃光が迸る。
 その中に。
「ルースフィアン!」
「南雲様!」
 駆け寄る。
 二人はびっしょりと汗をかいていた。
 頭上から、声が降り注ぐ。
『義を貫く二人に免じ、若き二人は返そう』
「待て、……待てよ!」
 新が叫ぶ。
 玉は閃光を放つ。
 光が消えると、空に玉の姿は無く、路地は倒れ伏した人々によって埋め尽くされていた。
「どういうことだ」
 シャノンは目を見張る。新とラズライトは唇を噛んだ。
 対策課で聞いた話を、二人に話した。
 実体化した伏姫。
 「穴」の監視の隙を突いて、「穴」に身投げをしたこと。
 八つの玉が銀幕市に散り、様々な怪事件を起こしていること。
 その為に、玉の破壊依頼が出ていたこと。
「……知っていたのに、壊せへんかった。真っ暗闇の中で、どこまで行っても闇だけで。地面はあるみたいやって、剣を突き刺してみた。でも、なんの手応えも無かった」
「魔法を……使いました。あらゆる、魔法を。でも、なんの効果も、なかった」
 途切れ途切れに言葉を繋ぐルースフィアンは、ただでさえ白い肌が蒼白になって、自分の力で座っていることさえも困難な状態であった。
 シャノンは細い肩を抱いた。
「……とにかく、病院へ。対策課にも連絡を。これだけの人を、自分たちだけでは運べません」
 ラズライトの言葉に、三人は頷く。
 空は、血の様な赤に染め上げられていた。

 ★ ★ ★

 ゆるゆると陽が沈んで行く。
 生温い風が臭気を運んで行く。
 まるでそこにあるすべてのものが、それの場所を知らせるかのように。
 ゝ大法師は山を歩いていた。
 昔と、同じように。
 あの時も、彼女を捜して、こうして山の中を歩いた。
「──伏姫様」
 そして、見つけた。
 川が流れている。
 川。
 そう、川の向こう側……。
 そこに、姫がいる。
 そして傍らには、ボロボロにひび割れた『義』と書かれた玉。
「金鋺大輔殿か……また来たのかえ」
 美しく豊かであった黒髪は、今は白く振り乱されている。
 ふっくらとした可愛らしい唇は、乾涸びて割れている。
「殺しに来たのかえ、金鋺大輔。それとも、また外してくれるのかえ?」
 にぃ、とわらうと唇は引き攣れ、ぷつりと切れて血が滲んだ。
 ゝ大は俯いた。
「その名はあの時、捨て申した。……姫様を殺してしまった、あの日に」
 言うと、女は笑った。
 森が不気味にざわめき、その声を掻き消して行く。
「金鋺大輔、金鋺大輔よ。私を殺しただと? 殺しただと! 貴様、貴様が殺したと! ひひひ、笑わせるな、笑わせるでないぞ、貴様が殺したなどと!」
 目は赤く血走り、瞳からは赤い涙が幾筋も幾筋も零れ落ちていく。
「一思い、一思いに殺せぬなら銃など手にするでない、愚か者。迷うておる、迷うておるのだろう、金鋺大輔? 知っておる、知っておるぞ、貴様、私に懸想しておったろう。ひひひ、ここで叶えてやろうか、我は生き返った! 幸せか、幸せであろう、八房もおらぬ、貴様のものになってやろうかぁあははっはははははっ!」
 ゝ大は唇を噛む。
 思い出されるのは、鈴を鳴らしたような愛らしい声。
 春の花が咲くような、優しい笑顔。
 空は血色に染まっている。
 俯いていると、すぅと細い枯れ木のような白い手が、ゝ大の頬に伸びて来た。目の前には、自分を見上げる少女。
「……私を見られぬか。さもあろう、のう、金鋺大輔」
 いとおし気に頬を撫でる手。
 ギリギリと爪を立てて、その頬を赤く染めた。
「まっか、まっかにならんとのう、貴様、貴様もならんとのう、目を、目を閉じるな、閉じる出ない、貴様、貴様が閉じるでない、見よ、見よ、貴様の罪を見よぉおおおおお!」
 ゝ大はただ目を閉じてされるがままに引き裂かれた。
 頬の肉が削られ、白い骨が覗く。
 女は笑いながら削り取った肉を握り潰す。それから滴る血を赤く長い舌に絡ませて笑い続けた。
 まっかだ。
「うまくいかぬのう。残った玉も『義』の玉のみ……ふふ、義はよいのぉ、戯れは面白かったか?」
 『義』の玉はふよふよと弱い光を放つ。それに、女は笑った。
「そうかそうか、ふひひひひひぃい……我も、我も戯れたいのう、のう、金鋺大輔? 降りたい、降りたい、ここから出してくりゃれ」
 削られた頬から流れる血が胸に降りてくる。べったりと血塗れた上に、女は頬を寄せた。ゝ大は動かぬまま静かに言い放った。
「……なりませぬ」
 削られた肉の隙間から空気が漏れる。垂れ下がった皮がその空気に揺れた。
 女は笑う。
「なりませぬ! なりませぬだと! ひひひい、金鋺大輔、貴様は変わらぬ! 変わらぬ変わらぬ変わらぬ、ではまた殺し損じるがよいぞぉおひいいいいいっ!!」
 笑う。
 甲高く。
 風が。
 生臭い風が運んでゆく。
 今度こそ。
 間違いは起こしてはならぬ。
「損じるがよいぞ! 貴様は私を殺せぬからなぁっ! ふひひひひ、今度は自ら死んでやらぬぞ、生き恥を晒せと申した者共にものど者共に思い知らせてやらねばなららならないのだからぁああああ」
 今度こそ。
 ゝ大は銃を構える。
 間に合わなかった。
 また、間に合わなかった。
 だから、今度こそ。
 為損じぬよう、こうして。
「なんじゃぁ、黒い筒を私に向けるとは、不忠者めが、手柄も上げられず帰ることもせず挙句私を殺し損ねた損ねた筒をまたたたまたまた向けたむけるむけるまたたまたまた」
 額に。
 指に力を込める。
 引き金を引く。
 筒が。
 天を撃った。
 ゝ大は目を見開く。
 『義』の玉。
 ぼろぼろにひび割れた『義』の玉。
 『義』とは正義。
 義の者は命令では従わぬ。
 義の者は奴隷ではないからだ。
 義の者は自らの義の為に義を尽くす相手の為に義を貫く。
 『義』が選んだのは。
「いひぃひひひいあああはははははっ! 損じた損じたぞ、また損じたぞ、金鋺大輔、それでこそ貴様きさまさまよよおおぉおおいひひいひひひひ」
 伏姫。
 ぞぶり。
 腹。
 腹に。
 腕。
 細い。
 枯れ枝のような。
 声。
 笑い声。
 笑い声。
「さらば、さらぁばばかなかなまま金鋺だ大だいだいすす輔ぇえええ、あは、ははは、はは、は、」
 銃声。
 笑った顔。
 醜く引き攣れ深紅に染まった顔。
 ゝ大はじっと見つめていた。
 ひび割れた『義』の玉は、二度同じことをする力は残されていなかった。
 笑い声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
 銃声。
「今度こそ、おさらばです。……伏姫様」
 『義』の玉は粉々に散って。
 笑い声の主は干涸びた黒い灰になって。
 消えていく。
 溶けていく。
 生臭い空気を一掃するような風が吹いて。
 がしゃり。
 銃が地に落ちる。
 崩れ落ちる。
 山伏姿の男。
「……姫様」
 流れる。
 瞳から。
 溢れる。
 次から次へと。
 止めども無く。
 ごろり。
 転がった。
 夜が来る。
 空には。
 満天の、星。

 笑った。

 そこには。
 一つのフィルムと、一丁の銃が残った。

クリエイターコメント【銀幕八犬伝〜義の章〜】
このような結果になりましたが、いかがでしたでしょうか。
なお、「義の玉」による「義」の定義に基づいた発言ですので、その辺りご考慮・ご寛恕いただきますよう、お願い申し上げます。

口調や呼び方など、何かお気づきの点がございましたら遠慮なさらずにご連絡くださいませ。
ご意見・ご感想などもありましたらば、是非お気軽にお送りください。
それではまた、何処かで。
公開日時2008-06-07(土) 19:00
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