★ Frailty ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-6502 オファー日2009-01-30(金) 20:59
オファーPC 香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>

 冬は、音がとても綺麗だ。
 ほつりほつりと光を落とす街灯の下、透明な空気の中を香玖耶の靴音が転がって抜けていく。
 表の通りから離れ、街灯も疎らな路地。
 揺れる銀色の長髪と胸元のロザリオ、頬を埋めたマフラーの淵に赤い石のイヤリングが覗く。
 厚手のニットワンピースにジーンズとスエードのロングブーツというラフな格好で、片手には大根の頭がはみ出した買い物袋を下げている。袋を持つ手は手袋代わりにニットの袖を握り込んでいた。
 開いた冷蔵庫の中身が寂しくて、買い物へ出たのがお昼過ぎの事。
 さっとスーパーだけ行って帰るぞーと決めていたつもりが、ついついウィンドウショッピングに発展してしまい、当初の決意を思い出した頃にはすっかりと日が落ちていたのだ。恐るべし銀幕ふれあい通り。
 寒さも段々と増してきていたので近道をする事にし、選んだのがこのうらびれた路地だった。
 月も細い夜、この路で擦れ違う人は僅かで。足早な女性。男二人組み。交差しては離れていく足音がまた冬の空気を転がり抜けていく。
 それぞれの影が伸びては縮む罅割れたアスファルト。所々欠けたコンクリートの塀を香玖耶の影の端が横切る。
 傾げた電柱、貼り散らされたチラシ、僅かな隙間に潜り込んでいく猫、靴の裏に踏み弾かれる屑石、路地と路地の繋ぎ目に割り込むように鎮座する御地蔵様、鉄線の張られた小さな売り地、そこから路地へと枝を伸ばした蝋梅の黄色い花、その甘く透き通る香り。
 そして。
 ――――。
 小さく悲鳴が聞こえたような気がした。
 足を止める。
 微かに吹き込んだ風が、銀色の髪先をさやさやと揺らす。
(……まさか)
 気づいて、香玖耶は今通ってきた道を振り返った。
 先ほど擦れ違った女性と男達が居ない。誰も居ない路地が街灯を並べて長くひそりと伸びている。
 香玖耶は元来た道を駆け戻って、灯りと灯りの間に細く開く路地裏の入り口を覗き込んだ。
 コンクリートの押し迫った狭い路が伸びる先に在ったのは、女性を捉え引き摺っていく男達の姿。彼らは女性を何処かの敷地へと引きずり込んでいく。
 香玖耶は、追ってその路地裏を駆け抜けた。
 冷えた空気にツゥと這うカビの匂い。路端に置かれたポリバケツを避けながら、男達が入っていった敷地に踏み込む。
 そこは塀に囲まれたビルの敷地だった。
 ビルに明かりは無い。多分、廃ビルか何かなのだろう。
 その塀の影で男達が女性を押さえ付けていた。
 香玖耶は意識するより先に声を発する。
「待ちなさい!」
 暗がりの中で男達の動きが止まった。女性が、うーうーと必死に呻いている。口に布切れを詰め込まれているらしい。
 男の一人が女性から離れ、香玖耶の方へよたよたと近づいて来て、影の中から細い月明かりの下へと不機嫌そうな顔を覗かせた。
「あ? 何だよ?」
 放たれたそれは如何にもチンピラっぽい語調で、彼の格好もまたチンピラ然としたものだった。
 金髪オールバックに白のジャージ上下、金のネックレス、ついでに前歯が一本足りてない。
(――こういう手合いは正論より、実行力よね……)
 元居た世界の歌舞伎町で山程お見掛けしてきた人種だ。
 香玖耶は軽く胸を張りながら。
「警察、呼んだから」
 という嘘を付く。
「それが何だぁ? あ?」
 しかし、男達は逃げるそぶりを見せなかった。
「捕まるわよ?」
 こちらを威嚇するように近づいた彼の顔面に、鼻先を近づけて眉を寄せてみせる。
「あは、ははは、捕まるわけねー。捕まんねーよ。ばーか」
 向こうで未だ女性の腕を押さえつけたままの男が笑った。
 香玖耶は、近くの金髪男の顔をぐいっと押し退けて、呆れた半眼で奥の男を見やる。
「……暴行罪って知らないの、あなた達」
「暴行罪だぁ? 何言ってんだ? それ、人間やった時の話だろ。あの女、スターなんだよ。スターは人じゃねぇから、何やったって罪になるわけねぇーし」
 その言葉に。
 香玖耶は呆れや怒りといった感情の他に、何かがツッと胸に刺さったような感覚を覚えた。
 ほんの少し、息が止まるような感覚。それが何なのか明確には判らない。
(……あえていうなら、懐かしさ……?)
「だから、やり得なわけ。俺らかしけェーから、そういうのわかっわけ」
 男の声に、香玖耶の意識は現状へと引き戻された。
 香玖耶は、とりあえず胸の感覚を横に置く。
「すっごく頭悪い」
 冷ややかにハッキリと言ってやったら、彼らはやっぱり激高した。
「ンだ、コラァ!?」
「ァん? てか、なあ、こいつもスターじゃね?」
「あ、じゃあ一緒にさらっちゃう? 美人だし」
 男達の会話の妙な急展開に、香玖耶は「は?」となる。
「人気出るぜ、これ、銀髪ちゃん」
 金髪男が不躾に香玖耶の銀色の髪に手を伸ばす。
 それを無視しながら香玖耶は彼を睨んだ。
「……もしかして、あんた達。女の子を売ったり」
「してるぜ。うちの店はスター専門なんだよ」
「全員俺らが狩ってきたのな」
「狩っ……」
 香玖耶は自分の頭の中でパチリと火が灯ったのが判った。目が据わる。
 男達は彼女の表情の変化を気にも留めずに、勝手にテンションを上げて会話を続けている。
「そうそう狩りよ、狩り。今日は二匹目ゲットーってさぁ」
「へへ、やべ、ゲームみてぇ」
 香玖耶の口端がぴくりと揺れる。怒った。
「いい加減に――しろ」
 鈍い音。
「――ぐ、きゅ……」
 香玖耶の傍に居た金髪男が、喉を絞り上げたヒョロッ細い悲鳴を残しつつ、ずるずると倒れ込む。
 男の股間を蹴り上げていた足をしなやかに地面へと戻しながら身を返す香玖耶の銀髪がスルリと舞う。
 女性を拘束していたもう一人の男は反応が遅れた。
 一拍の後、状況に追いついて怒号を――
「な、何しやグォッ」
 上げかけたところで、顔面に大根の直撃を受ける。
 パコーンと景気良く割れた大根と共に彼は地面に転がった。
「ゲームがしたけりゃ、うち帰って勝手にあんた達だけでやってなさい」
 大根を投げ付けた格好の香玖耶の声が殺風景にひやりと通る。
 そして、香玖耶は女性が駆け寄ってくるのを確認してから、股間を押さえてうずくまっている男を見下ろした。
「場所、教えてもらうからね……あんた達が女の子をさらって働かせてるって場所」
「ア、アンタ……何者、だ?」
 男が見上げた額には脂汗を浮かんでいる。未だ痛みが引かないらしい。
「香玖耶 アリシエート。オフ中だけど、トラブル バスターよ。そんな事より、もう一発もらう前にさっさと案内した方が良いと思うけど?」
 ヒィ、と男の顔が青ざめる。
「トラブル、バスター……?」
 隣に立っている女性が心底疑問そうに零したので、香玖耶はなんとなく意気を挫かれて肩を落とした。いつもの事だけれど。
 毎度、この呼び名は通りが悪い。
「あの……何でも屋です」
 ひっそりと溜息を付いた後で、そう小さく補足する。
 女性が「あ、ああ……なるほど」と浮かべた曖昧な笑みに、香玖耶は似たような笑みを向けてから、男の方へ再度、脅しを掛け……ようとして止めた。
 咄嗟に、隣に立つ女性を抱き庇う。
「――ッ」
 香玖耶の背を鈍く打ち付けて、青いポリバケツが地面にゴミを撒き散らしながら転がった。ぺさ、と頭に何かが乗っかった感触。
「逃げろ!!」
 背中に聞こえた男達の遠ざかる足音は、三人分。
(――近くに仲間が居たのね……)
「だ、大丈夫ですか?」
 女性が心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる。
「あ、うん、大丈夫よ。逃がさないから」
「いえ、そういうことではなくて……背中、怪我とか……」
「大丈夫、絶対に逃がさないから」
 香玖耶は、頭に乗っかっていたバナナの皮を摘み上げながら壮絶な笑みを浮かべていた。


 ■


 走っていた。
 金髪男は走っていた。
 圧し掛かる様に狭い路地が続いている。足元で蹴飛ばした空き缶共が煩い。路の間でわんわん響く。音の反響していく先に空が見える。連なり囲う建物の隙間に細くて遠い空が見える。張り巡らされた電線の向こう、街のネオンに照らされた夜空の紺は淡い。
 息も絶え絶え走りながら、こんな場所があっただろうか、と思う。過ぎ去る看板、過ぎ去る看板、知らない店の名前ばかりだ。散り散りに逃げた先で変な処に迷い込んでしまった。やたら長い路地だ。走っても走っても一向に抜けやしない。妙なところでグネグネと折れ曲がってやがるし。それに。それに、何かにずっと追われている。
 あの女か。銀髪の。違う。もっと別の、何か、恐ろしい、何か、何か。振り向けないのだ。走っている。息が苦しい、足がもつれる、自分が何に怯えているのか判らない、だが振り向けない。何度も迷路のような路地を曲がっていく。行けども行けども、だらしなく垂れた電線の交差する空の広さは変わらない。何処にも辿り着けない。何かはすぐそこに居る。何が。
「何が、だよ」
 男は吐き出すように言い捨てて、スピードを緩め、やがて立ち止まった。
 静かだった。
 入り組んだ路地にひしめいたコンクリに、男のだらんと半開いた口元から漏れる息切れが零れては消えていく。汗が止まらない。膝に付いた手の中で濡れたジャージが擦れた。乱雑に張り出した看板の電球が、ぼそぼそと辺りを照らしては、時折り点滅する。
「――ッハ、ほんとう、馬鹿馬鹿、しい」
 何に追われているっていうんだ。足音は聞こえない。女もサツも追ってきていない。大丈夫だ。他に、何が自分を追うというのか。
 プン、と虫音が耳を飛び掠めた。
 手で払う気力も無いので頭を振るだけで済ませる。
 もう一度、羽虫のような音。
 そして、ヤット……。
 ヤット、オイ……ツイタ、と耳の端に触れる冷たい唇と声。
 ゥウンと虫柱のような音が耳元で擦れた。男は自分の肩に掛かる青白い手を見た。息を飲む。ゆっくりと視線を上げて横を見る。
 男の肩に後ろから寄り添うように、眼玉の無い女が彼を見ていた。
「う――」
 その暗い洞からわらわらと暗いものが吹き流れては虫の音を立てて霧散していく。
「ぁああああああああッ」 
 男が悲鳴を上げながら逃げようとするが、足が動かない。
 見ると男の足首を女の手が掴んでいる。
 ベタンと男の腹を後ろから捕まえるように女の腕が増え、サァン、ビキ、メェ……ツカマエタ。 
 そうして、次の瞬間、無数の手と嘲笑が湧き起こって男の身体に重なりあった。
「ギぃあああああああああああああああああああッ」
 ブーツの靴音。
「私のロケーションエリアの迷路ではね……」
 路地の先、銀色の髪が看板電球の安定しない明かりの中で揺れた。
「その人の感情が具現化する。だから、それがあなたの心」
 恐怖とパニックで口端に泡を飛ばしながら悲鳴を上げ続ける男の傍へと香玖耶が歩み寄って来る。
「あなたの弱さに集う闇。知ってた?」
 微かに首を傾げた彼女の顔は、少し悲しげに見えた。
「女の子達を連れて行った場所、教えてもらうわよ」


 ■


 その店は街路樹の並ぶ何の変哲も無い通りのビルの中に在った。
 看板も何も無く、窓も内側から板張りされており、外からはそれと判らない。
 エレベーターを降り、閉塞した空気が横たわる短い通路を抜けて、香玖耶は重たげな扉の前に立つ。
 この中に男達にさらわれて働かされているスターの女性達が居る。
 人買い人売りの類は1000年の内で幾度と無く見てきたものだ。
 人が人を物として扱う。それは人が人を殺す事に似ている。
 己の倫理観の外側に放り投げる。容姿、宗教、生まれ、階級、系譜、力、思想、性別……人を区別する様々な違い。それらを利用して、弱者を貪り生きる事に甘え縋る己を肯定する。己の卑劣さと弱さを許す。そして闇が灯る。
 後はゆっくりと自身の闇に巻かれ視界を失っていく。
 千年の時を掛けて尚消える事の無い、人が持つ一つの可能性。
 彼女には、それが痛いほど判る。
 かつて彼女は魔女と呼ばれていた。
 
 香玖耶が扉を開いた先では、赤く暗い照明の中を甘ったるい香りが漂っていた。
「お客様……入る場所をお間違えになられたのでは?」
 タキシード姿のウェイターが訝しげな表情を浮かべながら香玖耶をやんわりと制してくる。
 確かに女性が一人で、しかも買い物袋をぶら下げて訪れる場所ではない。
 小さなシャンデリアの下、設けられた手狭なカウンターの奥に並べられた酒瓶に写る彼女の格好は明らかに場違いだった。
 そんな事は知った事ではないし、香玖耶は構わず店内を見回す。
 通路より少し広い程度のフロアの壁際にはソファが置かれており、そのソファの向かい側には、テーブルを挟んで、分厚いカーテンが引かれていた。
 それらの奥には幾つか扉が見える。一つは事務所への出入り口のようだが、残りは『客用』だろう。
(あのソファで客に品定めをさせるのね、酒でも呑ませながら……)
 悪趣味。ぽつ、と呟く。
 気を取り直すように一呼吸して、ウェイターに視線を戻す。
「いいえ、間違ってない。あなた達がさらった子達を返してもらいにきたの」
「……どういう意味か、ちょっと」
 ウェイターの声からは円い調子が消えていた。
 香玖耶はウェイターを押しのけて、ずんずんと店の奥へと入っていく。
「ちょ、ちょっと、お客様、お待ち――やがれ、このアマァ!」
 と、声を荒げながら後ろから掴み掛かってきたウェイターを避けて、彼の足元へ足先をちょいっと出す。突っかかって、彼は赤い絨毯の上に派手に転んだ。
 香玖耶はそのままつかつかと歩み、フロアを仕切っている分厚いカーテンをザッと引き開ける。
 そこにはスター女性達が座らされていた。
 皆、怯えた瞳で香玖耶の方を見上げてくる。
 それぞれの足には枷が嵌められていた。
「大丈夫、安心して。あなた達を助けにきたの」
 香玖耶が力を込めて言うと、彼女達は希望に色めいたが、香玖耶の格好を見改めて、すぐに表情に不安が戻っていく。
(やっぱり着替えてくれば良かったかしら……)
 と、心中でふむふむ首を傾げる香玖耶の片手にぶらさがっている物に、彼女達の視線は集中していた。
 一人の女性がそろっと指を向けて、おずおずと問い掛けてくる。
「……あの、それは……?」
 あ、と自分の片手にぶら下げている物を見下ろす。
「その、これは――」
 香玖耶自身、買い物袋の事をすっかり忘れていたので、どう説明したものかと眼を泳がせかけた刹那。
「テメェこら何してくれてんだァ!!」
 先程転ばしたウェイターが床絨毯に摺った額を赤くさせながら、襲い掛かって来た――のに合わせて、香玖耶は買い物袋を思い切りぶん回した。
 買い物袋の中で色々なものが潰れる音。
 それを顔面で浮けたウェイターは床へ帰っていく。
 むにゃむにゃと彼が倒れるのを見届けてから、香玖耶は肩で一息付き、スター女性達の方へと向き直り、中身が悲しい事になっただろう買い物袋を掲げ見せて言う。
「……武器、です」
 なんだか良く判らないけれど、お、おおー……、という声と共にぱちぱちと疎らな拍手を頂く。
 と、事務所の出入り口と思われる扉が乱暴に開かれた。
「おい、なんだ、どしたァ!?」
 さっきのウェイターの雄叫びを聞いたのか、事務所からスーツ姿やらジャージ姿やらの男達がフロアに出てきて店内を見回し始めた……のだが、
「次郎がやられてンぞォ!」
「次郎ォ、誰にやられたぁ!? 気ぃ失ってんなァ!」
「誰だァ、次郎ォやったんわァ! 出てこんかぁい!! ……クソォ、何処行きやがった!?」
 彼らは、倒れているウェイターとニットワンピース姿の香玖耶との関連性がいまいち掴めなかったらしく、ウェイターをのした人物を探して店の外を見に行ったり、カウンターの裏を探したりしている。
「ンだ、テメェは? 誰ぞの女か? あ?」
 一番若そうな男が香玖耶の方へと近寄ってきて、常に肩と顔を動かしながら凄んできたが、それは無視するとして。
「彼女達を解放させてもらうわよ」
 店内にパンと声を張る。
 そこらをウロついていた男達が一斉に香玖耶の方を見る。女性達も不安げに彼女を見ていた。
「なんだ、御嬢ちゃん。威勢が良いな……」
 男達が騒ぎ立てる前に、中年の男がしとりと言う。
 事務所から最後に現れて、連中をまとめている男に指示を出していた男だ。高そうなスーツを着ている。
 香玖耶は中年の男の方に向き直る。
「随分と卑劣な方法で稼いでたようだけれど……今日で店仕舞いしてもらうわね」
 中年男がゆっくりと眼を細めた。
「あぁ? おいおい、派手な頭してるがケイサツの方か? 捜査なら手順踏んでくれ。それに、うちを叩いても徒労だぜ? うちで使ってるのは全員人間じゃねぇからよ」
 また。また、胸に、何かが。
 中年男は、纏め役の男に「もう、いいから」と告げてから、香玖耶の方へと続ける。
「人じゃないもん使ってんだ、何したって罪を犯した事にはならんだろう。大体、ロクな能力も持たずに実体化しちまった連中に的確な働き口と衣食住を提供してんだから感謝こそされ、咎められる理由はねぇよなあ」
 ツキリと。
 ――『お前が人でないはずがない』
 頭の芯を打つ、遥か昔に発せられた声の記憶。今は聞こえる筈の無い声。
 一瞬の眩暈。
 ――『俺はさ……、お前を、守れたか……?』
 最期の笑顔。血の赤――過ぎて消えるフラッシュ。
 知らず、香玖耶の指先は胸元のロザリオに伸びた。
 一度眼を閉じて。
 振り払う様に軽く頭を振ってから、香玖耶は改めて中年男を睨みつける。
 今はただ、彼らが逃れられなかった闇を見る。
「あんた達が何をどう思うかは自由よ。だけどね――皆は、あんた達の喰い物にされるために此方へ来たわけじゃない! 自分勝手な論理を振り翳して甘えないで。したり顔で知らないフリをしたって無駄よ。皆、判ってる。あんた達が自分の心の弱さに負けて、それに立ち向かう事にすら負けて、いじけて、そのツケを押し付けるためにこんな檻の中に女の子を閉じ込めて、卑劣に稼いで良い気になってたって、本当はこの檻に閉じ込められているのはあんた達の方で、己が生み出した闇に視界を失われたまま大切な物を失い続けているんだって」 
 ぼぅ、と香玖耶の身体に柔らかな光が宿り、中年男の細い眼がじわりと開いていく。今更、勘づいても遅い。これから何が起こるかなんて。
「全部壊してあげるから、一度、目を覚ましてみなさい」
「お、おい……とめろ、とめるんだよ! この女ァ!!」
 慌てた中年男が彼女に男達をけしかける。
 香玖耶が胸の前に持ち上げた掌に球体が浮かぶ。
 彼女の唇が精霊の真名を呼び――
「蒼天を巡る清しい涼風よ、嵐天を駆ける荒ぶる轟風よ。疾く集い来りて我等を守り――」
 香玖耶に触れようとした男の手が、涼やかな風に滑らされて虚空を掴む。面食らっている男をからかう様に、首を巡らせながら姿を現した精霊グリフォンが女性達の方へと身を駆った。
 そして。
「この暗き鳥籠を崩せ!」
 沸き起こるもう一体の精霊、フェンリルの咆哮と共に風が爆ぜる。
 一瞬で空間を支配した風の音が、何もかもを呑み込んだ。
 グリフォンの風が女性達を守り、フェンリルの風がそこら中を引き裂いて廻る。
 景色の中でカーテンが千切れ、壁は剥がれ、男達は風に囚われクルクルと錐揉み状に回転しながら店内を飛び散らかっていた。彼らの叫ぶ悲鳴は風に刻み散らされて聞こえはしない。その内、板打ちの窓が吹き飛び、開け放たれた其処から、回転する男達が間抜け面を晒しながら外へと放り投げられていく。
 やがて、風は止み。
 カラリ、カラン、と店の残骸が絨毯の破れた床に落ちる音の中、一対の精霊は香玖耶に擦り寄る様に集ってスゥと虚空に消えた。
(その闇も人を成す一部なんだって……割り切るには後何千年掛かる?)
 香玖耶は残骸の降る室内を見詰めながら息を付き、そして、喜びに沸く女性達の方へと振り返った。
 一方。
 冬の風がぴゅるりと吹く寒空の下。
 街路樹の太い枝々に眼を回してぐったりとした男達が吊り下がっていた。
 完膚無きまでに破壊された店とは対照的に、死者はおろか重症を負った者は一人も居なかった。

 
 ■■


 ――人じゃない。
 ふつ、とその言葉は煮え湯に湧く泡の様に繰り返し浮かぶ。

 冬は音がとても綺麗だ。
 だから、頭の中に鳴る声を酷く大きく感じてしまう。
 街灯の明かりの中、かなり遅くなってしまった帰路を歩む香玖耶の影が半円を辿って移動しながら伸びては縮む。またそれも繰り返し。
 息が苦しくて、奥歯を噛む。頭の中を回る言葉が胸の杭を打つのだ。
 無意識にロザリオを強く強く握り締めていた。
 それは、かつて人外の魔女として弾劾された彼女を「人だ」と言ってくれた彼の大切な形見。
 脳裏に強くこびりつく彼の最期の瞬間が何度も何度も浮かび上がって身体が震えた。
 ――『カグヤ……』
 時折り、聞こえる円く優しい彼の声。そして、淡く浮かぶ笑顔――あ、と思った瞬間にそれらは散り散りと消えていく。待って、待って、と伸ばした指の隙間を抜けて。
 心の底に沈んでしまった暖かな記憶は脆く儚い。
 触れた傍から消えていってしまう。
 それでも。
 その微かな温度一つ一つに縋りながら、この冬の空の下に靴音を響かせていく。
 それは、人が人を想う事によく似ていた。


クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
ヴィランズでもハザードでもなく、街の暗部と対峙する香玖耶さんを楽しく書かせて頂きました。
頂いたイメージのものが、ちゃんと表現出来ていたらと思います。

心理描写、言動などなどイメージと異なる部分があればご連絡ください。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-02-06(金) 22:30
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