★ 【大江戸始末屋騒動紀】 傍らの猫 ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-7528 オファー日2009-05-03(日) 22:44
オファーPC 霧生 村雨(cytf4921) ムービースター 男 18歳 始末屋
ゲストPC1 玉綾(cafr7425) ムービースター 男 24歳 始末屋/妖怪:猫変化
<ノベル>



 先日より家の隅には猫が居る。

 外には細い雨が降っている。
 組み合わさった木と分厚く歪んだ重い硝子の向こうで春の雨が降る。
 振り子時計の音が柔く響く高い天井に、ゆらり、と香の匂いが立つ。
 天井の奥に漂っていた小さな魍魎が散って逃げた。
「……おまえはいつまでそうして其処に居るつもりだ?」
 十畳一間に狭しと積まれた本の隙間を、呆れ混じりの声が通る。
 言ったのは、年の頃17〜8、何処か達観したような老成した空気を持つ若者だ。
 名を霧生 村雨という。
 彼の言葉を受けて、廊下の硝子戸の前に蹲り、じっと村雨の様子を窺っていた青年はビクリと身体を揺らした。
 灰色の短い髪に、しっかりとした体格。さっぱりと気の優しそうな面には、少し戸惑いが浮かんでいる。その頭には猫の耳がのぞいていた。妖だ。
「…………」
 それは、だんまりとして目を逸らす。
 村雨は短く息を零してから、先ほどまで読んでいた書状を畳み込み、懐に仕舞った。
 立ち上がる。
 気配を察して、隅の妖が村雨の方を見上げた。
「……何処へ?」
 掠れた声がそう問うので、村雨は少しの間黙ったまま身支度を整えてから。
「仕事だ」
 ほつ、と言う。
「なら、俺も共に……」
「何故そうなる?」
 外套を手にしたまま村雨は動きを止めて、呆れたように妖の方を見た。
 確か、音呼という名の種だ。
 彼は真っ直ぐに村雨を見詰めている。
「恩を返す」
「無用だ。恩送りにしろ。俺に返す恩など他の奴に果たせ」
 村雨は言って、外套を着ながら玄関の方へ向かう。
 その後ろを白銀の靄のような姿の魚が、すぅと空中を追う。
「でも、俺は貴方に――」
「おまえじゃ役に立たん、俺の仕事にはな。それから……傷が癒えたのなら早く行く当てを探せ。おまえが居たのでは氷魚が怖がって落ち着かない」
 そう残して村雨は家を出た。
 ほの暗い灰色の町の所々には泥の水溜りが溜まっていた。
 小雨の中に傘を差す。
 雨が大地に打って返った匂いの中、村雨は町の通りを抜けながら、猫のあの奇妙に真っ直ぐな目を思い返していた。
 音呼、オトヨビ……確か、音に敏感な種族と聞いた。音という音を聞き分け、聞いた音と同じ音を発することも出来る。
 超音域の吼え声により生き物の位置を察知したり、遠くへ自分の位置を知らせたりもする。威嚇の声によって平衡感覚をくらましたりもするらしい。
 見た目通り、猫の如く軽業や気配を消す事も得意だという。
 猫。
 猫が恩返しなどと言う。
 村雨は歩きながら小さく笑った。
 猫は三年の恩を三日で忘れるというのに、変わった猫も居たものだ。変わっている。だからか。
 半ば呆れ、溜め息を零してから村雨は立ち止まる。
「……気配を消さないでいるのはわざとか?」
 傘の端から向こうでは、雨がさらさらと降ちている。
 空は相変わらず灰色に暗く、両の脇の長屋の屋根端からはつらつら雨垂れが下っていた。
 村雨の振り返った先、家屋の影。
 音呼が姿を現す。
 黒の襷(たすき)を頭に巻き付けているが、傘は差していない。しとりと濡れている。
「言ったでしょ。俺は貴方に恩返しをする。たとえ役に立たなかろうと共に行く」
 言われて、村雨の顔が微かに曇った。
 役に立たない。それは本当なのだ。村雨の仕事は音呼のそういった能力が必要な荒事ではない。
 村雨の持つ力でしか出来ない事。
「役に立たん奴が居ても邪魔なだけだ。帰れ」
「嫌だ。嫌です。俺は貴方に助けてもらった。命を拾われた。だから、一緒に行く。絶対に、貴方の邪魔にはならないです」
 真っ直ぐとした目で言われる。
 そこに他意の介在しない誠心誠意と強固な意志とを感じる。
 村雨は息を吐きながら軽く頭を振った。
「好きにしろ」
 言って、踵を返して歩き出す。
 ああ、また。
 またあの眼を見る事になるのか、と思って俄かに気が重い。
 彩の無い眼。
 眼は畏怖が生じると彩を失う。
 ――俺は――
 古い声が耳を掠る。
 ――俺は、な。村雨。おまえが恐ろしいんだ――

 
 ◇


(絶対にこの人に恩を返すんだ……)
 音呼は彼の後を追いながら頭に繰り返していた。
 助けられた恩がある、拾われた恩がある。
 この音呼はもともと故郷で妖怪仲間達と仲良く暮らしていた。
 若輩者であることや、人一倍意気地が無いことを馬鹿にされる事はあったけど皆気持ちの良い奴ばかりだった。
 あの時。故郷に妖怪討伐隊がやってきた時。奴らの手を逃れられたのは、この腰抜けの若輩者一人だけだった。皆、やられてしまった。
 怪我を負い、行く所も無く、息も絶え絶え町に出て、暗がりに身を潜めた。そうして幾晩かの後に、捨てられた残飯を漁っている所を妖怪喰いに見つかった。
 逃げたが怪我と疲れと空腹でいつもの逃げ足が出ない。すぐに捕まった。乾いた喉で仲間を呼ぶ声をひるひると発した。こんな弱々しい声では誰も助けに来るはずが無い。いや、よしんば声がシャンと出ていたとしても、自分にはもう助けてくれる仲間など居ないのだ。皆、死んでしまった。もう一人しかいない。自分は、一人ぼっちなのだ。
 なら、いっそもう……と思った。
 意識はそこで一度閉じて。
 そうして。
 気が付くと、あの家に居た。
 振り子時計の音が柔らかに響く静かな家で、不思議な匂いが漂っていた。
 体を起こそうとしたが動けなくて、手だけ挙げて、顔の前に持ってくる。包帯が巻かれていた。なるほど、この体の感触はどうやら包帯らしいと知る。手当てをされていたのだ。
 きゅる、と腹が鳴る。
 ああ、そういえば、妖怪喰いの所為で食いっぱぐれているから、何も腹に入れていない。腹が減ったな。ぼんやりと、視線をうろつかせる。
 隣の部屋の襖が半分ほど開かれている。
 その奥には沢山の本が所狭しと積まれていた。
 本に囲まれた隙間に、若者が居るのが見えた。
 奇妙な若者だと思った。
 外面は若い人間だが、己より深い年輪を感じる。
 煙管を片手に、木組みに置いた本を読んでいる。
 その周りを、しらり、と飛ぶものがあった。
 白い。
 白い魚だ。
 銀色を揺らめきながら泳ぐ、姿のあやふやな魚。
 また、きゅ、と腹が鳴って、溜め息が洩れる。
 すると、若者がこちらに気付いた。
 そうして、彼は煙管を置いて立ち上がり、こちらにやってくる。
 襖の間に立ち、こちらを緩く見下ろした。緊張で体が強張る。力を入れた痛みで僅かに顔が歪む。
「気付いたか」
 若いが、やはり妙に落ち着いた声だった。
 言われて、こちらも何かしら言おうとしたが声が巧く出せなかった。
 代わりに、また腹が鳴った。
 彼は、僅かに目を細めてから襖を閉じ、奥に去って行ってしまった。
 また静寂の中に置かれる。
 よくよく耳を欹てて、彼が本当に離れていったのを確認してから、息を付く。
 時計の音が緩く緩く等間隔に拍を置いていく。
 まだ頭はぼんやりと重くて、瞼を閉じる。
(……俺は、まだ生きている)
 ふと故郷のことを思い出した。
 もう遥か昔のように思える故郷と殺された仲間達の事が次々と思い出されて、ぐずりと鼻が鳴る。
 泣いた。
 故郷を失って以来、そこでようやく初めて泣いた。
 穏やかな空気にずっと張っていた気がほつれて、どうしようもなく溢れ出て、歯を喰い縛って、声を殺して泣いた。
 その内、何処からか旨そうな匂いがしてきて。
 やがて、自分を助けてくれたのはあの若者なのだと知った。

 
 雨の中。
 村雨の後を追って訪れたのは、暗い家だった。
 外が雨模様だという事もあってか、その家にはどっしりと重たげな気が圧し掛かっているように見えた。
 依頼主だという男に村雨と共に案内されたのは小さな離れで、そこには女が居た。
 薄暗くカビ臭い室内には、太い木の格子が掛けられており、それは立派な座敷牢だった。
 その隅で、女は布団に縄を掛けて簀巻きにされており、布を口にかませられ、髪は乱れ、顔はやつれている。
 依頼主と村雨が床を鳴らして訪れれば、女はこの世の恨みを全て詰め込んだかのような目を上げた。
「この娘で御座います」
 依頼主の男は吐き捨てるように言う。
「親を亡くし我が家に迎えた養子なのですが、良き家柄の方の目に留まり、縁談を纏めてやったというのに……何処の馬の骨とも知らぬ男と将来を誓い合った仲だからと駆け落ちをしようとするわ、死のうとするわ……」
 男の嫌々しい声だけが零される中、格子に付けられた小さな戸が開けられる。
 村雨が身を屈めて中に入っていく。音呼も続こうとしたが村雨の手によって止められてしまった。
 依頼主の声は続く。
「男の記憶を消して頂きたい。それが、この娘の幸せでもあります」
 まことしやかに依頼主の男は言った。
「記憶……?」
 そう呟いた音呼の方を、村雨は微かに見遣ってから彼女の元に屈み、彼女の視線を塞ぐように掌をしとりとかざした。
 すると、彼の傍からふわりと白き魚が舞って、女の乱れ髪の頭へと滑り込む。
 依頼主の男がその様子に息を呑んだのが判る。
 幾ばくかの間。
 外の雨が固く地を打つ音だけが聞こえていた。
 ふと、音呼は村雨が漏らした小さな小さな呟きを聞いた。
「……それが、あんたが始末して欲しい記憶か」
 それが何の事だったのかは判らない。
 そして、それから何があったかも、こちらからは判らない。
 事は女の中で静かに行われた。
 やがて、作業を終えたらしい氷魚が村雨の元へと帰り、村雨の手が彼女の目の上から退けられる。
 手の去った彼女の眼差しから恨みの色は消えていた。
 きょとりとしている。何故、己はここでこうなっているのか判らないという面だ。
 村雨は立ち上がり、こちらの方へと格子を潜り抜けてくる
「終わったぜ」
「有難う御座います。これで、この娘はあの男の事を――」
 村雨は依頼主の顔を面白くも無さそうに一瞥してから、音呼を見遣り。
「ネコオ。そこに立っているだけならそこの女を自由にしてやんな」
 は……?
 と、音呼はうっかり間抜け面をしてしまい。
 それから、恐る恐る自分の事を指差しつつ首を傾げた。
「ネ、ネコオ……?」
「他に何処に猫が居る?」
 村雨が片眉を上げてみせた。
 猫? ネコオ? ……猫だからネコオって……。
「安直過ぎっすよ!! 大体ッ、俺は猫じゃなくってオトヨビっす!」
「なんでもいい」
 取り合ってもらえず、音呼はううっと言葉を噛み呑んで、とにもかくにも格子を潜って女の所へ行く。
 何にせよ役目を貰えたのは嬉しい。
 腕を軽くかざし上げれば、爪が伸びる。それをサンと振り下ろす。
 縄、布が裂かれて、はたりと解けた布団から女がもぞもぞと這い出てくる。
「私……なんで」
 相変わらず状況が判らないのか女は気味悪そうに辺りを見回している。
 依頼主の男は、この陰気な離れで一人機嫌良く笑みを浮かべながら、彼女の元へと向かってきた。
「ああ。いいんだ、いいんだ。おまえは何も気にする事はない。もう終わったんだよ」 
 しかし、女は男を見詰めて、怪訝に眉根を寄せた。
「……どなた、ですか?」
「……は?」
 男は言葉に詰まる。
 固まる男の代わりに、音呼は村雨の方を見た。
 格子越し、村雨は外套を着込みながら言う。
「始末したのは、彼女の中にあった『あんた』だ」
「な……何?」
 今度は依頼主の男が何が何だか判らぬという顔をして、村雨の方を見る。
 村雨は静かな視線でそれを受け。
「彼女がそう望んだ。彼女が駆け落ちをしくじったのは、養子として迎え入れてくれたあんたに負い目を感じてしまっていたからだ。例え、それが娘に遺された財産目当てだったとしてもな。死を選んだのも、負い目に囚われて前に進む手を失ってしまったから。だから、彼女はあんたに関する記憶を消す事を選んだ」 
「ま、待て。それじゃあ話が! 話が違う!! おまえに仕事を頼んだのは私じゃないか!!」
「俺は記憶を始末して欲しいと言われただけだぜ? 俺は、本人が望んだ記憶しか始末しない」
 村雨は表情無く言う。
「人の記憶なんぞ、本当は誰も他人が弄って良いもんじゃないんだよ」

 ◇
 
 ざりざりと地を削るような雨になっていた。
 帰る道を猫がついてきていた。
 立ち止まる。振り返り、ずぶ濡れのそれを見遣ってから、閉めてある雑貨屋の軒下に入った。
 黒塗りの柵の向こうの薄闇の中に、朱色の櫛や椀が見える。
 二、三歩ほど離れた場所で同じように軒下に入っている音呼の足元には、ぱたぱたと雫が垂れて染みが広がっていた。
「俺の力は他人の記憶を辿り、そして消す」
 ザァと降る雨音の中。
「みたいっすね」
 猫は頭に巻きつけていた襷(たすき)を取って、絞りながら頷いた。濡れて重い灰色の髪先と猫の耳先が僅かに揺れる。
「怖くなったんなら、このまま去って良いぞ。恩のことなど気にする必要は無い。望むなら記憶も消してやる」
「俺がいつ出てきたいと言いましたか」
 音呼は襷を頭に巻き直して、村雨の方を見た。真っ直ぐに。
「命を救ってくれたなら、この命は貴方のもんっす。俺は貴方の傍に――」
「まだ、そんな事を言っているのか。……能天気な奴だ」
 村雨はうっそりと音呼の方を見やって、息を吐く。
 何も判っていないのだと思った。
「いずれおまえにも判る。記憶を消す事の出来る者が傍に居るという恐ろしさが」
「己の記憶に疑心暗鬼になるってことですか? 本当は何か大切な事を消されていないのだろうかと」
 言われて、村雨は静かに息を摘む。
 猫は真剣な眼をしている。
「記憶とか気にしない。何度も言います。俺の命は貴方のもんっす。大事なのは、大切なのは、それだけです」
 迷い曇りは無い。
 ただ真っ直ぐに。
「俺を傍に置いてください」
 猫はそう言った。
 村雨は言葉を失ってしまっていた。
(ああ……俺は)
 無意識に。
 拒絶を想像していた。
 あの時のように、あちらとこちらを隔てた眼を見るものだと思っていた。
 彩の無い眼を見るものだと。
 だが、在ったのはまっさらな眼だった。 
「……ハ」
 苦笑してしまう。
 馬鹿馬鹿しくなった。何がとは判らないが、とにかく馬鹿馬鹿しい。阿呆らしい。
 村雨は緩く首を振り、音呼の方へと歩み寄って、彼に傘を渡した。
 へ? と間の抜けた面をした頭に、ぽんと手を一つ置いて。
「帰るぞ」
 と言う。
 その時の猫の笑顔たるや、こちらが恥ずかしくなるほど筆舌に尽くし難いものだった。

 
 それから。
 やはり猫は村雨の傍に居た。
 随分と面倒な依頼、無茶な事を押し付けられても相変わらず家の隅に住み着いて、頼みもしない家事をする。
 わやくちゃにされるのも敵わないので村雨が目に付く所から口を出して教えてやると、嬉々として言った通りにしようとする。
 それで、まずい飯を出すのだ。

 ◇

「……お前は一向に炊事が巧くならないな。いや、炊事に限った事でもないが」
 そう文句を零しながらも村雨は、結局いつも全て綺麗に食べあげた。
 音呼はそれが嬉しかった。
 人里離れた妖怪の集落で暮らしていた音呼にとって、村雨の家や町での暮らしは初めて見るもの、聞くもの、触るものばかりだった。
 それでも、炊事、洗濯、掃除、なんでもやった。
 初めは村雨がやっている所をこっそりと覗き見して、真似てやってみる。
 そうすると大体失敗するので、それを村雨に見つかり小言を貰う。
 今度こそはと気合を入れるが必死さだけが空回りをして、また失敗をする。米を研ごうとして粉水にしてしまって首を傾げる。
 そんな事を繰り返す内に、見かねた村雨が色々と教えてくれるようになった。おかげで出来る事は増えていくのだけれど、生来のそそっかしさの所為で、失敗が無くなる事は無く、掃除をすれば積み上がった本を崩し、洗濯をすれば足を引っ掛けて洗濯物を地面にばら撒くのは何時まで経っても変わらない。だが、それでめげるという事も無く、村雨にほとほと呆れられて苦笑された。
 そして、村雨に仕事が入れば無理やりに付いて行った。
 面倒事や無茶な役目を与えられても、てんやわんやになりながらも必死にこなす。
 生傷を作っては村雨にそれを手当てされながら「お前は全く懲りない奴だ」と、やはり呆れられた。 
 そうこうという内に、一人で町に買い物へ行き好物の魚を買って来る事もできるようになり、町に挨拶をする人が増え、町住まいの妖にも知り合いが増えた。
 気付けば、気の早い蝉が鳴き始め、青い空には綿菓子のような白雲が見える季節になっていた。


 その日も音呼は緑の眩しい庭に洗濯物を盛大に散乱させていた。
「……うう……またやっちまった」
 庭にばら撒いた洗濯物を拾い上げていると、縁側廊下に足音が鳴る。
「何をやっているんだ、お前は」
 呆れ調子の村雨の声が零れた。
「すいませんっ。すぐ洗い直すっすよ!」
 音呼はそちらの方に振り返って、ぐ、と拳を固め気合を入れる。
 その調子を見遣って村雨が微かに笑ったような気配を見せ、それから。
「それはひとまず置いておけ。仕事だ。どうせ、いらんと言っても来るんだろう?」
 言って、奥の部屋に支度を整えに入っていった。
「わ、わ、もちろんっすよ!」
 音呼は慌てて地面に散らばる洗濯物を掻き集める。
 それを纏めて洗濯場に置いて戻ると、村雨はもう玄関を出るところで、音呼はわーわーと大変慌しく家を転がり出た。
 通りを歩いた時、迎える夏に向けて風鈴を軒先に吊るす近所の知り合いに挨拶をしたら、村雨に奇妙な顔で見られた。
「……おまえは何時の間にそう馴染んでしまっているんだ」
 聞かれても、本人だって何時の間にかなのだから、うーんと考えてしまう。
 挙句に「わかんないっす」と締まりの無い返事を返して、苦笑を買う。
 そうして、歩き辿り着いたのは江戸の外れの松林だった。
 松と初夏の風との中を抜け、勾配のある坂を登ると古く大きな屋敷が建っていた。
 文豪と呼ばれる人の屋敷で、其処に住まうのはその文士と世話をする書生が二人だけなのだそうだ。
 案内の書生について門を通って屋敷の中へ行く。
 きしきしと鳴る廊下には、村雨の家に漂うものとは違う掠れた匂いがしていた。
「先生、『魚』です」
 言って、書生が襖を引く。
 『魚』は村雨の通り名。身に飼う氷魚の気配を察してかそう呼ばれている。
 開かれた襖の奥では老人が横たわっていた。
 頬はこけ、目の下に隈が蔓延り、疲れた顔をしている。
 部屋に入って音呼は軽く顔を顰めた。部屋の端々に、老人の陰気に誘われた脆弱な魍魎の気配が蔓延っている。
 その所為か、天気の良い昼日が障子から差し込んでいるというのに、何処か薄暗く感じる。
 こちらが傍に寄ると老人は書生に助けれながら身体を起こし、長く細く息を吐いた。
「……よく、来てくれた」
「大分、萎れているな」
 村雨が傍らに腰を降ろして胡坐をかく。
 老人は重たげな眼を村雨から、少し後ろに立つ音呼に向ける。
「一人では、ないのか……」
「ああ……これか。居候だ。悪いモノじゃない、気にするな」
 音呼は慌てて、ぺこと襷を掛けた頭を下げた。
 老人は少々驚いたように瞬きをして。
「……おまえ、が、傍に人を置いているのか」
「色々と事情がある」
 村雨は面倒くさそうに切ってから、煙管を取り出しながら書生に目をやった。
 老人が手を振ると、書生が頭を下げて部屋から出て行く。
 襖の閉まる音。
「それで?」
 村雨が煙管に火を落としながら首を傾げる。
「ああ……この頃、夢を見るように、なってな」
 老人は掛け布団の上に垂れた己の皺くちゃな腕へ視線を下ろしながら、ほつほつと話し始めた。
「悪夢だ。それも、なぜ今頃……というような、夢だ。別れた妻や、随分と会っていない息子や、遠い昔に死んだ両親や、友人、知人、あるいはもう覚えの無い者までが……出てきて、私の傍らで、ふつふつとそれぞれ言葉を垂れ続けるのだ。それが重なって、誰がなんと言っているかも判らない」
 老人は其処で、弱々しく笑った。
「皆、恨み言かもしれない。随分と、色んな者に不義理をした。字を連ねる事に夢中になり、他の事に気を回す余裕が無かった。いや、気を回してなどいられないと思っていた。それが出来るのも才能だろう、と。割り切っていたつもりだった。しかし……知らぬ内に、気に病んでいたのか……」
 老人が村雨の方を見る。
 村雨が煙管から口端を離すと、ふわりと香の匂いが漂った。
 部屋の暗がりにいた気配がそそと去っていくのが判る。
「おまえには、その記憶を、始末してもらいたい。人々の顔がちらついて、筆が進まないのだ。私は、まだ、書かなければいけないことが、ある」
 老人の乾いた瞳が村雨を映す。
 村雨はゆっくりと老人をあやす様に微かな笑みを浮かべた。
「……お前は疲れている。そう、結論を急ぐ事も無いだろう。もう少し気を抜いた方が良いぜ? そこのネコオのようにな」
 と。ふいに振られて、音呼は「はひ?」と妙な声を出した。
「って、ネコオじゃなくてオトヨビっすよ!」
「病人の居る部屋で騒ぐな、バカオ」
「う、ううー!」
 自分の口に手を当てながら呻く音呼を一瞥して、村雨は「律儀な奴だ」と小さく笑った。
 老人はそんな二人の様子を珍しいものでも見るように眺め。
「……変わった、な。『魚』よ」
 僅かな驚嘆を交じえて呟いた。
 村雨は老人の表情を見、少し思い返すような間を置いた後に目を細めた。
「そういう事もある」
 声は何処か感嘆めいた調子だった。
「さて、俺の事よりあんたの事だ。ともかく、あんたの記憶に触れさせてもらおう。少し気になる事もある」
 言って、村雨が掌を老人の目に伸ばす。
 その手の先から、氷魚がひらりと泳ぐ。
「……バカオは、本当にひどいっす」
 村雨の様子を横に、音呼は溜め息をついた。
 もうすでに猫すら関係の無い呼び名になっている。
 この呼び名だけはどうにかしてもらわなければいけない、などと腕を組みうんうん思案してみたりしていると。
「――これは」
 とつ、と村雨の声。それに、ただならぬ色がある。
 音呼は一瞬で緊張を覚えて、ほぼ無意識に腰を落とした。立てた尻尾が着物より出る。
 ず、と気配が膨らんだ。
 先に現れたのは氷魚だった。老人の身体から一直線、天井の方へと跳ね上がって弧を描く。
 追って、老人の身体から巨大な球体が噴出した。
「ッ!?」
「ご主人ッ!」
 老人から飛び出したモノの気に圧された村雨を抱え上げて、音呼は障子戸の外へと飛び出す。
 池の設けられた広い庭に障子の残骸と共に落ちる。
 間髪入れずに、村雨を抱えたまま跳躍する。
 空中でくるりと身を翻して、カシャリと屋敷の瓦屋根の上に降り立った。
 見下ろせば、庭には先ほどの球体が飛び出していた。
 球体だと思っていたが妙にうぞうぞと表面が蠢いている。よく見れば、それは奇妙な面の集合体だった。
「う、気持ちわるっ!?」
「『百面』。人の中に寄生する妖の一種だ。……あんな立派なものには中々お目に掛かれんがな」
 村雨が瓦の上に降り立ちながら言う。
 そして、手の中の煙管をヒュッと廻した。
 煙管先から飛んだ香が空中で四散して百面の上に降り注ぐ。
 それを受け、百面というらしいモノは窮屈そうに身悶えし、幾百の人の声が交じり合ったような騒々しい呻き声をあげた。
「浅いが結界を張った。――ネコオ」
「はいっす!」
 言われて、音呼は頭の襷を解く。猫の耳がのぞく。両手を瓦に付いて獣の様な格好を取る。
「中央。白肌お歯黒の隣、三本角の翁面。行け」
 村雨が言い終えるのをキッチリ待ってから、音呼は瓦を蹴って跳んだ。
 空中で振り上げた手の先に爪が伸びる。
 落下感と風の音の中で狙いを定め、そして、ザンと地面までの直線に斬り筋を描く。
 タン――と、割れた面が霧散する。
 が。
「違う。そいつは二本だろう……」
 村雨が嘆息交じりに零した声が聴こえる。
「へ?」
 あれ、と音呼は目の前で蠢く百面を見上げた。
 無数の面の無数の目がぎょろりと音呼を見る。
 そして。
「ぎゃああああ、間違えたっすーーー!」
 ずぉおお、と襲いくる百面に追われて屋根の上に跳んで逃げた。
 それも追ってくるので、更にがっしゃがしゃと四つん這い走りで逃げ惑う。
「何をしてるんだ。全く……」
 離れた所で片眉を顰めているだろう村雨の声が聞こえる。
「ネコオ! もう一度だ、よく狙え」
「むむむ無理っすーーー! もう、わさわさとしてワケがわからないっすよー!」
 後方から迫り来る無数の面は塊の中で入り乱れて混沌としているし、とてもじゃないけどこの状況で落ち着けない。
 遠く村雨の声を聞きながら全力で逃げ続ける。
「本体の面は他とは質が違う。お前の力を使え」
「お、俺の力って、ななななんでしたっけ!?」
「落ち着け――おまえなら出来る」
 村雨はそう言った。
 途端。
 ふ、と頭が軽くなる。焦りが消える。しんと集中する。
(俺の、力……)
 音呼は、タンと軽く跳んで体を前に投げ出す。着地までに身を翻して方向転換をする。四肢の先が捉えた瓦が鳴る。目の前には百面が居た。迫ってきている。だが、僅かだがまだ距離はある。落ち着いて、深く鋭く息を吸い込む。ぐぅ、と四肢に力を込めて身を縮こませるように構え。一拍の動作で放つ咆哮。
 キンッ、と爆ぜた超高音が百面を呑み込み、屋根瓦を軋ませる。木々は傾ぐ。
 眼前に迫っていた百面が鼻先で音波に囚われ、動きを阻まれて痙攣している。
 間髪入れず、目を閉じ耳に全神経を傾ける。それぞれに跳ねて返る音。それが持つ、距離、形状、質――返る音波によって、脳裏に次々と構築される微細なもう一つの世界。
 そして。
「其処ッ!」
 目を開くまでも無く、音呼は腕を振り上げながら足場を蹴った。ヒュ、と体が風を切る。ずぅ、と妖の気配の中に飛び込んだ感触。指先に伸ばした爪が、異質の一枚を裂く。
 とつ、と再び瓦に触れて、音呼は目を開きながら振り返った。
 そこに落ちていたのは割れた翁の面。
 最早、数え切れぬほど蠢いていた面達の姿は無く、翁面もザラリと砂と崩れ、消えた。
 そいつを見届けて。
 はた、と己がそれを成したのだと気付いて、音呼は村雨の方を見た。
「や……やった。やったっすよー! ごしゅじぃいいん!!」
 思わず跳ねた。着地をしたら、ぴょいぴょいっと村雨の方へと跳ね向かった。
 村雨は口元を綻ばせながら、
「上出来だ。今日は猫まんまにしてやるよ」
 言って頭をぽんと撫でてくれた。


 部屋へ戻ると、書生が呆然としていた。
 それはそうだ。騒ぎを聞いて老人の部屋に飛び行ったら障子戸が粉砕されていて、ぽっかりと庭が臨めたのだから。
 それでも村雨より話されて事情を解した老人が書生に言って聞かせたおかげで、大事にはならず、老人の寝床は隣の部屋に移された。
「記憶は弄っていない。そのままだ」
 そう村雨に言われて、老人は頷き、それから緩く首を振った。
「……この際だ。綺麗さっぱり消してはくれないか……。恐ろしいじゃないか。また、無用な記憶に囚われて、筆が持てなくなるかもしれん、など」
 老人は縋るような目で村雨を見ていた。
 だが村雨は静かに立ち上がる。
「無用な記憶など無いぜ? どんな記憶にも背負っていくだけの価値がある」
 村雨は外套を羽織り、開かれた襖の方へと歩んでいく。
「ただ、それがあまりに重くてどうにも歩む事が出来なくなった時は……俺が始末してやる。だから、その時まではせめて大切にしてやることだ」
 言って、村雨は部屋を出て行った。
 音呼は彼を追って部屋を出る時に老人の方を見た。
 しかし、障子越しに差す逆光の所為で老人の表情は判らなかった。


 ■


「ご主人は……自身の記憶を消した事はあるっすか?」
 宣言通りの猫まんまな夕飯を終え、縁側で茶を呑んでいる時だった。
 夜の虫がチリチリと鳴る、月の明るい夜。
 初夏の風が細く風鈴の音を鳴らしていた。
 村雨は手遊び代わりに掌に浮かせていた氷魚を中空に離し、問い掛けてきた音呼の方へ視線を向ける。
「いや、無い」
 記憶は尊く、儚い。それをずっと見て来た。
 村雨の答えに音呼は、神妙な表を見せた。
「辛く、ないっすか……?」
 それを見遣って村雨は軽く笑む。
「消したい記憶が無かったとは言わんが。記憶を消す俺だから、簡単に消して良くは無いだろう?」
 全てを見、記憶して生きる。
 風は風鈴と共に庭木の硬い葉を揺らした。
 ――俺は、な。村雨。おまえが恐ろしいんだ――
 古い、古い声の記憶だ。
 村雨は、茶の椀を縁側の板木の上にとつと置き、緩く空を見上げた。
 かつて、友が居た。
 昔の話だ。
 氷魚と共になる前からの友人だ。
 氷魚と出会い、生きながらえさせるために身を与え、人の道を捨て、記憶を消す力を持った。
 人ならざるものとなった。その事に友人は気付いてしまった。
 友人は村雨を恐れ、村雨は友人の願いを受けて、記憶を消した。
 視線を下ろせば音呼が耳を垂れて、村雨を見ていた。
 月がこうこうと白い光を照らしている。
 夜を渡る風に木々の揺れる涼やかな音が乗る。
 氷魚がすらりと空を白く泳いで、遊ぶように村雨の周りにまとわり付く。
 猫は、真っ直ぐと、村雨を見ている。その瞳に氷魚の白がすぅと泳ぐ。
 村雨は音呼の顔を薄く見詰め、彼の頭にぽつと手を置いた。
「それに……」
 ふいに、村雨は猫の耳を二つともペペンっと指で弾いた。
 そうして、音呼が「って!?」と耳を抑えて呻き声を上げている間に、
「お前さんみたいな奴がいるから、消さずに済んでいるのさ」
 さっさと呟いてしまう。
「き、急に何をするっすか!? もー!」
 ぎぅと耳を抑えながら村雨の呟きを巧く聞き逃してくれたらしい音呼が抗議の声を上げた。
 村雨はそれを見遣り笑ってから、椀を持って立ち上がる。
 氷魚が彼の後を追ってするりと宙を登った。
「虫が止まっていた」
「嘘っす、絶対に嘘っすー!」
「猫の癖に鈍感な奴だな。さっさと片付けて、そろそろ寝るぞ」
 言って、村雨は自室の方へと歩いていく。
 と。
「ああ」
 立ち止まる。
 村雨は軽く顔だけ猫の方へ傾けて。
「お前は俺といるなら玉綾と名乗りな。玉に綾と書いて玉綾だ」
 言って残し、自室へと向かった。

 玉綾は、ぱちくりと瞬きをした。
 椀を持って立ち上がろうとした格好のまま。
 主人が自室の戸を閉める音がする。
「……あ、え」
 一寸前に聞いた言葉を逡巡する。確かめる。
(……今……)
 名を。
 名を貰った。
 今、確かに名前を貰った。
 玉綾と名を受けた。
「ご、ご、ご……」
 やばい、涙が出てくる。
 だって。だって。だって。
 ぐしゅ、と涙を擦って、思いっきり息を吸い込んで
「ごしゅじぃいいいーーーーーーん!!」
 感極まって全開で吼えた。

 それは夜に響いて月を驚かす。

「喧しい奴だ、全く」
 と村雨は耳を抑えながら笑った。 



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 西暦20XX年、エドシティー。
 今日もすっきり日本晴れの青い空。
 猫変化の妖が魑魅魍魎に追っかけられて半泣きながらに、町を駆ける。
「やばいやばいやばいやばいっすーーー!!」
「もう少しだ、気張れ。ネコオ」
 高見に座り込んだ始末屋が煙管片手に香を焚き笑う。
「ギョ ク リョ ウ っすーーー!!」
「おまえなんざネコオで十分だ」
 白い魚がすらりと通る八百八町。
 今日も元気に「ごしゅじぃいいいいいんーーーーーーー!!」の叫び声が響き渡っていく。
 
 
 大江戸始末屋騒動紀。
 猫が主人に、真に傍らへ置く存在と認められた、御話。




クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
お久しぶりのお二人を楽しく書かせて頂きました。

心理描写、言動などなどイメージと異なる部分があれば遠慮なくご連絡ください。本当に。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-05-18(月) 11:40
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